第5部 会 - JST

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第5部 公開講演会 イスラム教と現代 東京大学教授 廣治郎 小アジア地中海沿岸の港湾都市と5~6世 紀における聖人崇拝の形態 大 阪 大学 名誉 教 授 研究 発 表 第1部 会 1.シ ュ メ ール ・ア ッカ ド文 学 に お け る 嘆 き の女 性 シ ュ メ ール ・ア ッカ ド文 学 に 嘆 きの歌 の様 式 を認 め る こ とが で き る。 嘆 きの歌 は3つ の類型に分類される: 1.ウ ルや ニ ップ ル都 市 の崩 壊 を嘆 く歌 。 ウ ルや ニ ップ ル都 市 の政 治 的破 綻 を単 調 に 歌 う嘆 きであ る。「ウ ル崩壊 の嘆き」 「ニ ップル崩壊 の嘆 き」な どがあ る。 2.ド ゥム ジな い し ダ ム神 の死 を嘆 く歌 。 こ の世 界 か ら冥 界 へ 姿 を 消 した者,ド ゥム ジ な ど を嘆 く歌 。 エ ル シ ェ ッマ(ersemma)の歌 が 典 型 的 で あ る。 特 に,「 イ ナ ン ナ と ドゥム ジの エ ル シ ェマ」 「ドゥム ジ の エ ル シ ェマ」 な ど。 3.個 人 の嘆 き の人 の歌 。 苦難 に 関わ る嘆 きで あ る。 一 般 に シ ュ メー ル(バ ビ ロニ ア)版 ヨ ブ と呼 ばれ る。 「あ る人 とその神」 な ど。 147

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第5部 会

公開講演会

イスラム教 と現代 東京大学教授 中 村 廣治郎

小ア ジア地中海沿岸の港湾都市 と5~6世 紀 における聖人崇拝の形 態

大 阪大学 名誉 教授 辻 成 史

研究発 表 第1部 会

1.シ ュメール ・アッカ ド文 学における嘆きの女性 桑 原 俊 一

シュメール ・ア ッカ ド文 学に嘆 きの歌 の様式 を認 めることがで きる。嘆 きの歌 は3つ

の類型に分類 され る:

1.ウ ルや ニ ップル都市の崩壊 を嘆 く歌。 ウルや ニ ップル都市の政治 的破綻 を単調 に

歌 う嘆 きであ る。「ウ ル崩壊 の嘆き」 「ニ ップル崩壊 の嘆 き」な どがあ る。

2.ド ゥムジない しダム神の死 を嘆 く歌。 この世界か ら冥界へ姿を消 した者,ド ゥム

ジなどを嘆 く歌。エル シェッマ(ersemma)の 歌が典型的であ る。特 に,「 イナンナ

と ドゥムジのエル シェマ」 「ドゥムジのエルシ ェマ」 など。

3.個 人 の嘆 きの人の歌 。 苦難 に関わ る嘆 きであ る。 一般 に シュメール(バ ビロニ

ア)版 ヨブと呼ばれ る。 「あ る人 とその神」 な ど。

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上記 の殆 どのテキス トはOBシ ュメール語テキス トで,類 型2は シュメール ・ア ッカ

ド文学におけ る嘆 きの歌 の特徴 と独 自性を示 してい る。

本発表では類型2の 冥 界に下 った神 々な どを嘆 く嘆 きの歌 を取 り扱 う。 この類型 は誰

が誰のために嘆 くのか とい う観 点か ら明確な特徴が取 りだせ ると思われ る。 テキス トと

して,「 イナ ンナ と ドゥムジのエル シェマ」,「ドゥムジのエル シェマ」,「イナンナと ビ

ルル」,「ドゥムジの死」,「 ドゥムジの夢」,「 ダム関連テキス ト」,「エ ン リル とニン リ

ル」,「ネル ガルのエル シェマ」,「ニンフルサ グのエル シェマ」,「嘆きの母 リシン」,「ル

リルのための嘆 き」 「遣 いの者 と娘」,「ブシュキ ン博物館版哀歌」 な どを検討 し,こ の

類型の特徴を探 る。

2.ウ ガ リ ト出土 の楽譜 小板橋 又 久

ウガ リト出土のRS15.30+15.49+17.389― 以下H.6と 呼ぶ― は,一 般 に楽譜

と考 えられてい る。本発表 では,従 来行われて こなか った文化史的な観点か らH.6テ

クス トを取 り上げ,H.6に 確認 され る記譜法 と歌 のジ ャンルの特色 を解 明す る。

H.6の5~10行 は,歌 の歌 い方 を指示 してお り,機 能的には古代バ ビロニアに由来

す る コンヴ ァース ・タブレッ トの左右 の欄 に記 され た挿入語,文 頭 ・文 中 ・文末 の母音

を示す部分,お よび旧約聖書 の詩篇 の見出 しに対応す る。用い られて いる用語,書 式 を

見 ると,ウ ガ リトで使用 された歌 の歌 い方 の指示 は,メ ソポタ ミアの文化を背景 に して

い ると言 える。また,バ ビロニアの コン ヴァー・ス ・タブ レッ ト,旧 約 聖書の詩篇の見 出

し,エ ジプ トの壁画に見ちれ るカイロノ ミーは,文 字 に よるものと身振 りに よるものの

とい う違いはあ るが,い ずれ も音楽 の演 奏に関す る指示 どい う点で共通 してい る。が,

H.6は ユ ニー クである。即 ち,H.6の みが単に音楽演奏 の全体的指示 ではな く,各

パー トをどの よ うに演奏す るかを指示 した一種 の文字譜 と考 えられ るか らであ る。H.6

の記譜法は,お そ らくフル リ人 が編 み出 した ものであろ うが,他 の古 代近東世界 に類例

が な く,ウ ガ リトで使用 された こ とに特色が見い出 され る。

H.6の 奥付けに見 られ る歌 のジ ャンル名は,ア ッシリアの賛歌 目録 を参考 にす ると,

旋法にかかわ る呼称であることが分か る。 また,バ ビロニアの調絃テ クス トを参考 にす

ると,H.6の 歌 のジ ャンル名に見 られ る 「nid qabli旋 法」 は,ギ リシアの リュデ ィ

ア旋法 に対応 し,ウ ガリ トの音楽文化が古代バ ビロニア と古代 ギ リシアの音楽文化を結

ぶ懸け橋にな っていた ことを示唆す る。

3.3層 構造 によるアマルナ語文法の再 編成 池 田 潤

古代 エジプ ト第18王 朝 のアメンホテプ4世 が建 てた都 アヘ タ トン(エ ル ・アマルナ)

か ら発見 された計382枚 の粘土板を アマル ナ文書 と呼ぶ。その大半はエ ジプ トと他の列

強諸 国ない しは当時エジプ トの属国だ った カナ ンの都市国家 との間の外交書簡 で,年 代

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的 には紀元前14世 紀 に位置づけ られ る。

これ らの書簡 の うち,エ ジプ トを含む列強諸 国発信 の ものは当時の 国際語 であ った ア

ッカ ド語 で書 かれ てい るが,カ ナン発信 の書簡 のほ とん どは、ア ッカ ド語 であ って ア ッカ

ド語 でない言語で書 かれてい る。後 者は 「Canaano-Akkadian」 ない しは 「Amarna-

Canaanite」 と呼 ばれ てきたが,こ こで は単 に 「アーマルナ語 」 と呼ぶ ことにす る。

発表 者は 「アマルナ語:紀 元前2千 年期 の ピジン」 と題す る論文(『 オ リエ ン ト』第35

巻 第2号,1992年,1~21ペ ージ)に おいでアマルナ語 が一種 の ピジンであ る可能性を

提 案 したが,今 回の発表では この問題 を さらに掘 り下げてみたい。

発表者は同論文の しめ くくりの部分で アマル ナ語研究を第1期 と第2期 に分けたが,

第2期 の研究 の総大成 とも言 える研究が ごく最 近出 版 さ れ た。A.F.Raineyに よる

Canaanite in Amarna Tabletsで あ る。今回の発表では,こ の研究成 果を概 観 した う

えで,発 表者が上述 の論文で指摘 した 「3層 構造」に よるアマルナ語文 法再編 成 の展望

を行 いたい と思 う。

「3層構造」 とはア ッカ ド語的要素 と基層言語 の影響 と普遍的な現象であ る。 これ ま

では普 遍的現象 にほ とん ど注意が払われて こなか ったため,基 層言語 の影響 が偏重 され

て きた。 しか し,最 近 の ピジン ・クレオール研究の成果 を取 り入れ ることに よ り,「3

層構造」に よるアマルナ語文 法の再編成が可能 になる。

4.テ ル ・ダ ン碑文の動詞組織 の特徴 について 守 屋 彰 夫

テル ・ダン碑文(AとB)で 定動 詞 として現われ るのは,次 の11例 。

(1)

(2)

(3)

(4)

(5)

(6)

(7)

(8)

(9)

(10)

(11)

外 に 不 定 詞 の(B1.2),分 詞 の(B1.6)も 使 用 され て い る。 定

動 詞 に数 えた 中で,(1)(B1・1)と(10)(A1.8)は,前 後 の

文 脈 が 不 明な ので,必 ず し もqatalaと 取 れ る とは 断定 で きず,不 定詞 の可 能 性 も残 さ

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れてい る。 これ らを除 くと,9例 すべてが接続詞wawを 伴 うかは否 か は別 にyagtul

となる。それ らは文 脈か ら過去の出来事を叙述 してい る。テ ル ・ダン碑文 の年代は,考

古学的状況証拠に基いて紀元前900―770年 に想定 されてい るが,同 時代 の メシ ャ碑 文や

テル ・フ ァカ リェ碑文 な どの動詞組織 との比較 に より,当 該碑文に見 られ るyagtul動

詞 のアラム語内での機能,位 置付けを 明らかに したい。

基本文献

Biran, Avraham, and Joseph Naveh, "An Aramaic Stele Fragment from Tel

Dan," IEJ 43, 2-3 (1993) : 81-98.

•c•c, "The Tel Dan Inscription: A New Fragment," IEJ 45, 1 (1995) : 1-18.

Emerton, J. A., "New Evidence for the Use of Waw Consecutive in Aramaic,"

VT 44, 2 (1994) : 255-258.

Halpern, Baruch, "The Stela from Dan: Epigraphic and Historical Considera.

tions," BASOR 296 (1994) : 63-80.

Muraoka, Takamitsu, "Linguistic Notes on the Aramaic Inscription from Tel

Dan," IEJ 45, 1 (1995) : 19-21.

5.梵 語訳 『アヴ ェスタ』再考―Niyaisを 例 に― 岡 田 明 憲

現存 『アヴ ェスタ』 のかな りの部分に 語(Sanskrit)訳 が有 ることは,既 に広 く知

られてい る。 しか し一般に,こ の梵 語訳 の価値 は十分 に認識 されてい るとは言い難 い。

本発表で採 りあげ るNiyaisに 限 って も,テ キス トの出版 か ら一世紀近 くが経 過 して

い るにもかかわ らず,そ の後の研究論考 は僅か であ る。そ して,こ れ らの研究 も,専 ら

言語 ・文献学的な面にのみ限 られてお り,思 想 内容に踏み込んだ ものではない。 しか し,

この様 に半ば無視 され続けて きた梵語訳 も,新 た な問題意識を以て扱 うな らば,そ の価

値 は再評価 され るべ きものであ る。

新た な問題意識 とは,1.『 ア ヴェスタ』解釈に見 られ る,ゾ ロアスター教 の伝統 的教

学 の内容。2.パ ール シーの学 問の背景 にあるイン ドの宗教事情。以上 の二点 の究 明で あ

る。1.の 例 としては,(a)ア シャと ドゥルジの対 立をpunyaとpapaを 以て訳す

こと,及 び(b)メ ー ノー グとゲーテ ィーグをparalokacarinとprthvicarinに よ

り解す ことが挙げ られ る。(a)は 善 ・悪の実体視 と,そ れ に基づ く浄 ・不浄お よび来

世観 の意義が重視 された ことを示す。(b)は,サ サ ン朝 の神学で強調 された この両語

が,専 ら神秘主義的な世界観 に関っていた ことを物語 る。

2.の 例 としては,(c)シ ヴァ神を指すmahajnaninで(ア フラ ・)マ ズ ダーを

訳 した事実が,当 時の グジ ャラー トの宗教事情に 一致 し,更 に(d)フ ワルとsurya

の結びつ きが,こ の地方 の太陽神信仰の実態 を うかがわせ る。そ して,こ れ等 の点 を考

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えれ ば,Neryosangの 梵語 訳 『ア ヴェスタ』 は,al-Biruniやal-Shahrastaniと は

又別の意味で,中 世初期 イン ドの宗教事情 を語 る,興 味深い資料 と言 え ることにな る。

6.ア ジアの トラキア人 大久間 慶 四郎

トラキ ア人は古典古代 の歴史 にしばしぼ登場す る民族で あるが,ギ リシャ人 や ローマ

の よ うに歴史の舞台で主役を演 じる事が無 く,脇 役で終わ った民族で あった。 しか し,

ヘ ロ ドトスが,「 イン ド人に次いで数の多い民族」 と記述 してお り,ま た彼 らの残 した

遺物が発見 されてそ の過去が輝か しい ものであ った事を推測 させ る。歴史時代に於け る

ギ リシャ人 と トラキ ア人 の関係は多方面 にわた るが,宗 教的 な面での トラキアよ りギ リ

シ ャへ の影響 は重要 であった。 トラキア人が何処で形成 されたかは難 しい問題で あるが,

歴史時代 に"ト ラキ ア"と 呼ばれたバ ルカン半 島東部の地域の トラキ ア人が形成 された

のは,ト ラキアの地 に於い てで ある事 は確かで あ り,古 代ギ リシャ人がギ リシャ半島で

形成 された のと同様で ある。

トラキア人 の言語 は印欧語 に属すが,ト ラキ ア語あ るいは トラキア語に極めて類似 し

た言語 の所有種族 は"ト ラキア"の 地 にとどまらず広 く小ア ジアに分 布 し,更 に小ア ジ

ア以外 のアジアに も広が っていた可能性を考 える事が出来 る。 トラキア人 と トロイアの

関係 について はホメー ロスが述べてい る事であ り,ト ロイアの同盟老 に トラキア人が見

られ る。 トラキア系種族 の原住地 に関す る考察は,印 欧語族の原住地(Urheimat)に

関す る研究 と繋が っている事 は当然で あるが,未 だ印欧語族の原住地 問題 が完 全に解 明

され ている とは言 えない現状では,ト ラキア系種族 と言語の原住地 問題 を解決す るのは

困難 であ る。 しか し,最 近 の印欧語族 の原住地問題に関す る諸説 を見 ると,北 方説 は衰

え東方説が有 力 となっている。

後の トラキア人の形成 に関 して,中 核 を為す トラキ ア語を使用 していた種族 が北方か

ら渡来 したのか,或 いは東方か ら渡来 したのかについては対立す説が唱 え られてお り,

どち らの説 に蓋然性 があるかを判定す るのは難 しい。 ヨー ロッパか らアジアに トラキ ア

語 を所有す る種族が進 出した のか,或 いはその逆 であった のかは,未 だ充分に解明 され

ていないが,東 方説 に関 して検討 して見たい。

7.パ ラフレーズと初期 の聖書注解:死 海写本の一考察 手 島 勲 矢

現在,死 海写本 の整理,発 表はエ ルサ レムのヘブライ大学 ・聖書学教授 イマ ヌエル ・

トー ブ博士 を中心 に活発 に進め られてい るが,最 近発表 されたモ ーセ五書の一連 の断片

(4Q364-367)は これ まで知 られていた もの と異 な り,々 な聖書本 文の敷衍 ・拡大を

含み,そ れゆ え,こ れ らの断片 は,欧 米 の学者の間では,Pentateuchal Paraphrase

(4QPP)ま たはReworked Pentateuch(4QRP)な どと呼ばれ,聖 書本文 の歴史を考

え る上でも,ま た第二神殿時代のユ ダヤ文学(旧 約外典 ・偽典)を 考 える上で もひ とつ

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の大 きな問題 を投 げかけてい る。

本発表 は,ク ムランの聖 書パ ラフ レーズの現象(外 典 創 世 記 か ら最 近 の4Q364-367

まで)を 総括 し,前 一世紀 か ら後二世紀 の,ロ ーマ世 界の学校教 育の一環 として広 く行

われていた,ギ リシャ古 典のパ ラフ レーズの光 に照 らして考 え る。特 に,今 まで の関連

研究の多 くが,第 二 神殿 時代の聖 書のパ ラフ レー ズの現象を主に神学的な見地か らの故

意 の改変 と論 じて きたのに対 して,本 発表 は,聖 書注 解 としての クムランのパ ラフ レー

ズの側面に注 目し,パ ラフ レーズが もつマ ソラー本文 の言語的 また は文 学的問題に対 し

ての釈義的意義(implications)を 探 る。

8.現 代ヘブライ語の語 根について 佐 々木 嗣 也

本発表では現代ヘ ブライ語の語 根素構成 素(radical component)に 関す る仮説 を提

唱す る。本題に入 る前に まず,語 幹(stem),語 基(base),語 根(root),語 根 素(ra-

dical),語 根素構成素について簡単に説明す る。 この五者 の関係は以下 の ように図式化

出来 る。

伝統的 にはヘ ブライ語のアルフ ァベ ッ トが語根素構成素 の 目録 とされ て来たが,少 な

くとも現代ヘ ブライ語に関す る限 り更 なる区分が必要 である ことを提唱す る。その根拠

として二次語根におけ る語 根素構成素の例を挙げ る。

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研究発表 第2部 会

1.ア ッバ ース朝初期 のジャジーラの課税状況 太 田 敬 子

初期 イスラーム時代におけ る征服地か らの税徴収や貢納受理 の方法,及 び その後 の ウ

マイヤ朝か らア ッバ ース朝期にかけての税制改革 に関 しては,従 来か ら様 々な論議 がな

され てきた。征服領域各地におけ る課税問題は イスラーム型の国家体制形成 とい う点 で

も,ま た西 アジアのイスラーム化の進行過程を解 明す る上で も重要な意味を有 して いる。

しか しなが ら,従 来か ら課税問題についての基本資料 として用 い られて きた のは,法 学

書 ・歴史書 ・地理書 ・征服記等の ムス リム文献であ り,パ ピル ス文 書や ゲニザ文書 の利

用 できるエジプ トの事例を除いて,税 金を納め る側の声を聞 き取 るのは難 しい。従 って,

課税方法や税徴収 の実態は掴みに くい上に,地 方的差異 も大 きく,一 律に捉 えることは

で きない。

そ こで本発表で紹介す るのは,8世 紀後半に ジャジー ラのズ クニー ン修 道院の一 修道

士 に よってかかれた と考 え られて いるシ リア語の 年代記に描かれてい るア ッバ ース朝初

期 の同地方 におけ る課税 ・徴税状況であ る。 ジャジーラは イス ラー ム領 域の中核た るイ

ラクに隣接 し,ウ マイヤ朝以降 のイスラーム史の展開に とって重要 な位 置を 占めていた

といえ るが,征 服時 も含めて同地方 の社会状況,特 に課税 ・貢納に関 しては ムス リム側

の記述 には曖昧 な点が非常に多い。そ こで非 ムス リム側の記 録を併せて検討す ることが

不可欠 とな る。上記 の史料 は様 々な記述上 の問題はあ るにせ よ,ム ス リム史料には現れ

て こない社会 の実状 を詳細 に示 し,戸 籍及び財産調査,国 有地化問題,ア ラブも含めた

納税者への各種 の課税,徴 税方法 と徴税官 の実態等にわた る重要な記録 を含 んでい る。

本発表では イス ラーム史 の文脈 におけ る徴税制度の発達 と,こ の史料 の示 す ジャジー ラ

の実状 とを比較検討 し,イ スラーム型 の国家体制の形成 とそれに伴 う社会変化 の解 明に

迫 りたい。

2.12~13世 紀 のアンダル スにおける製粉業 村 田 靖 子

イス ラム圏は,当 初 より現在に至 るまで小麦を主食 としている地域で あ り,小 麦の生

産量,流 通機構 は経 済 を支 える重要な要 素であった。

小麦は,そ のほ とん どがパ ンに加工 されて食 されていた。小麦か らパ ンを作 るために

は,必 ず製粉 とい う工程が必要であ る。初期 には手動 の石 臼で少量の小麦を挽いていた

が,次 第に大量 の小麦 の製粉が可能な,家 畜や水,風 の動力を利用す る製粉機 を備えた

製粉所 が作 られ,利 用 され るよ うにな った。製粉能力が大 き くな るにつれ,製 粉業 は,

一つの産業 として成立す るよ うにな り,小 麦流通機構 の中の重要な要素 となった。

ア ンダルスにおいては,水 力製粉所,い わゆ る水車小屋が大 きな割合 を占めていた と

見 られ,ア ンダルス全域に数多 く分布 していた。それは,多 くの地理書 に一致 して言及

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されている。

イベ リア半 島のキ リス ト教 国(の みな らず,ヨ ー ロッパ世界)に おいては,当 初は共

同体や複数所有 者の所 有であ った製 粉所 が,11~12世 紀 以降,封 建 制が確立す るに した

がい,小 麦の流 通を管 理す る道 具 として,ま た領民 を支配す る道具 として,領 主の所有

物 とな ってい った。 これに対 し,ア ンダルスでは,製 粉所 は私 有財産 の一つであ り,権

力者が独 占的に所有す るものではなか った。個 人所有,共 同所有 な どの形態が あ り,イ

スラム法 の下では,利 益を生む財産 として運営 されていたのであ る。

本報告で は,12~13世 紀 のフ ァ トワーの中で,と くに製粉所 に関 す る問題を扱 ってい

るものを利用 し,ア ンダルスにおけ る製粉所の抱 える法的な問題を分析す ることで,製

粉所 の実態 と,製 粉業 の小麦流通機構 におけ る位置を考 えてみたい。

3.元 代食経類 にみられる西 アジアの料理 と飲み物

― 料理 「回回食品」 と飲み物 「渇水」 と蒸留酒 「焼酒」―

鈴 木 貴久子

東 ア ジア ・西 アジアの人間や物 の交渉 ・交流については,こ れ まで中国 ・イスラムの

双方の歴史研究者 に よって詳細 に論 じられて きた。 しか し料理や食生活 の分野において

の東西相互 の交流 については,こ れ まで十分 に研究はな されてはいない。

人が移動すれば,そ れ につれ て食生活 ・習慣 も移動す る。唐代に は,葡 萄酒の製法や

胡餅 とい う焼 き餅 も登場 し,す でに西 アジア地域 の影響が入 っていた ことが確認で きる。

より東西の文 化交 流が盛 んになった元代 に書かれた食経類 には,西 アジア地域 の食品や

料理類が記載 されてい る。 これ らは,ま さに食生活分野 におけ る人 ・物 ・情報の交流が

なされ ていた ことの証左 といえ よ う。

今回の発表では,元 代の食経の 「回回食 品」類 を中心 に考察 してい く。 また,「 渇水」

と 「焼 酒」 に関して も触れ る。

中国の食文化研究 では,い ままで 「回回食 品」 の料理名が西 アジアの諸語 のものであ

る としなが らも,そ れ らの読 み方 も,ま た どの よ うな料理 であるか を解説 はなされてい

ない。元代料理書での 「回回食 品」 の料理名 とその料理に関す る記述 を,ア ラ ビア語料

理書 の内容 と比較 し考察 していきた い。

今回の発表は,食 ・医学面における東西交流 の一断面― 西アジアの食文化 と中国の

食文 化の相互 の関わ りあい― を考察す る最初の試みであ る。

4.あ る知識人 の蔵書

―Shams al-Din Muhammad al-Sakhawi(d.1497)が 参照 した文献―

伊 藤 隆 郎

マムルーク朝時代は,数 多 くの年代記 や地誌,伝 記集が著 された時代であ る。しか も,

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その大部分が現在に まで伝わ ってお り,ア ラブ史を研究す る者に とって,最 も恵 まれた

史料状況 にあ る時代の一つ とい うことがで きる。

そ うい う状況にあ って,従 来 この時代を扱 う研究では,こ れ らの史料をで き るだけ多

く渉猟 しなが ら,そ の価値を十分に検討 しない まま,関 連す る記 事を含む史料 を列挙 す

るこ とが行われて きた。すなわち,そ れぞれの史料が書かれた立場 やそれが依拠 した情

報源 を確かめ,そ れ ら相互の関係を論ず るとい った史 料批判 が,ほ とん どな されて こな

か った のであ る。今後,マ ムルー ク朝時代の ヒス トリオ グラフ ィーに関す る研究を進め

てい くことが,重 大な課題であろ う。

こ うした認識 の上 に立 ち,今 回の発表では,サ ハ ーウイーShams al-Din Muham-

mad al-Sakhawiに よって著 され たal-I'lan bi-t-tawbikh li-man dhamma ahl al-

ta'rikh(『 歴史家を各め る者に対す る非難』)を 取 りあげ る。 本書 は,そ の題名か らわ

か る ように,歴 史学 の有用性を説いた内容の ものだが,ほ とん ど全編 が他書か らの引用

で成 った,ク レス トマテ ィーとで もい うべ き著 作であ る。 ここに引用 され てい る文献を

整理,分 析す ることに よ り,マ ムル ーク朝末期 の代表的な知識人(ウ ラマー)の 一人であ

った著者 の蔵書の一端を明 らかに し,そ れを手 がか りに,彼 が生 きた当時 のカイ ロにお

いて,い か なる書物が読 まれ,ど の よ うに評価 されていたかについての考察 を試 みたい。

5.19世 紀後半のQashga'i

―二人 のilbegiを め ぐつて― 河 田 久 美

カシュカーイーは,イ ラン南部,Fars地 方 の代表的 な遊牧部族連合で ある。18世 紀

後半 に成 立 したafar朝 は,カ シュカーイーの有力家系Shahilu家 か ら,ilkhani

とその補佐役ilbegiを 任命 し,部 族の徴税 ・統制を任 せた。

19世紀後半,飢 饉 の影響な どに よりイルハニの部族支配力は弱 ま り,実 権は イルベギ

に移 っていった。 この よ うな状況下で,Darab Khanな る人物 がイルベギに就任 した。

従来 の研究書 では,彼 は非常 に強 いイルベギであ った と語 られ,そ の地位 は,あ たか も

不動で あったかの よ うな印象 を受 ける。 しかし近年刊行された史料 に よれ ば,彼 は,も

う一人 のシャーヒール一家 の人物Nasr Allah Khanと,交 互 にイルベギ就任 ・失脚

を繰 り返 していた。

そ こで,本 報告では,ま ず ダーラーブの イルベギ在位年代を修正 し,彼 とナス ロッラ

ーとい う,二 人の イルベギを比較 し,カ シュカー イーをめ ぐる諸問題を考 える。

6.立 憲革命期イランにおける国民銀行設 立運動 水 田 正 史

今世紀初頭の立憲革命期,イ ランにおいて国民銀行設立 の運動が高揚 した。 この運動

は,結 局 は(少 な くとも短期 的には)設 立実現に結 びつかなか ったが,設 立利権 の詔勅

が発 せ られ株式購入申込が行われ設立会議が開かれる とい う,設 立直 前の段 階にまで事

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態は進展をみせた。その意味で,こ の運動は,そ れな りの 「痕跡」を歴史 に とどめてい

るので あ り,立 憲革命史研究の上で も,単 なる周辺的エ ピソー ドとして片づけ るこ とは

で きない ものであ るといえ るであろ う。 また,イ ランにおけ る 「民族 資本」形成や外 国

との金融的諸関係 とい った視点か らの研究を進め る上で,こ の問題は避けて通 るこ とが

で きない とい えよち。 ところが,こ れ まで,わ が国においては これを主題 とした研究 は

皆無で あ り,世 界的 にみて も研究は極めて乏 しい。そ こで,本 発表では,同 時代の新聞

な どに依拠 して,こ の問題 について事実関係を整理 し概観 す ることに よ り,研 究史 の空

白を埋め ることとしたい。論 旨はおお よそ以下の通 り。

今世紀初頭,イ ランの財政は危機的状態にあ った。 イラン政 府は イギ リス= ロシア借

款 に頼 ろ うとしたが,国 民議会は これに反対 し,同 時に,国 民議 会の認可 な しに外国か

ら借款 を受け ることを禁止す る決議が採択 された。

この ような状況 の下,国 民銀行設立案が国民議会に提 出された。主 導的役割 を果た し

たのは,ア ミーノ ッザ ルブや アルバ ーブジャムシー ドといった有 力商 人の代議員であ っ

た。

1906年11月 末,国 民銀行設立の布告が発せ られ,国 民に対 して出資 が呼びか け られた。

人々はこの布告を熱狂的に歓迎 し,多 くの人が出資 したが,必 要 な資金 は集 ま らなか っ

た。

国外在住 の人 々(パ ールシー?)の 出資を促すため,1907年2月,設 立利権 の詔 勅が

発せ られた。 この利権に は,同 行が,独 占的発券(ペ ル シャ帝国銀行 への利権期 間満 了

後)・ 鉱物採掘 ・鉄 道建設 な どの権利 を有す ることが明記 されていた。

同年同月15日,宰 相 と蔵相 の臨席 の下,同 行設 立会議 が開かれた。

この よ うな同行設 立の動 きをイギ リス ・ロシアは快 く思 っていなか った。資 本金 の調

達 も順調に進 まなか った。

この ように して,1908年 初 めまでには,政 府お よび国民議会 において同行に関す る話

題 は出な くなった。

7.国 民国家イラン形成 におけるハ ァルハンゲ スターンの役割 森 島 聡

国民国家において公教育で国語 と歴史を教 えることは,国 民統合に大 きな役割 を果 た

してい る。 トル コ共和国では国民統合 と識字率 向上のため,1928年 に トル コ語 のラテン

文 字表記 への変更 と外来語の純 トル コ語系 同義語への置換を行 う言語 改革に着手 した。

イランにおいては1926年 のパ フラヴィー朝成立以後,軍 事 ・行政機構 を整えつつ,1935

年首相のモハマ ド・ア リー ・フォルーギー()の 主導 のもと国民統合

を行 うための言語改革機関 として ファルハ ンゲスターネ ・イ ラン()

(以下 フ ァルハ ンゲスター ンとす る)が 設立 された。

156

イランの言語 改革 は1934年 の レザー ・シャーの トル コ訪 問後 に活発 化 した もので,ト

ルコの言語 改革の影響 は明白であ る。しか しイランの言語 改革は,ト ル コのそれ に比 べ消

極的な ものであ り,()

発表 された唯一の語 彙集 もわずか約二千語 にす ぎない。その理 由は,一 つには当時 の世

界情勢が イランに とって厳 しい ものであった ことや指導 的立場 にあった フォル ーギーの

失脚,そ れに続 くレザ ー ・シ ャーの退位 な どの混 乱 した政 治状 況に原 因を求め ることが

で きるが,フ ァルハ ンゲスターンの言語改革 は,設 立 当初 か らペル シャ語内の アラ ビア

語をあ る程度容認す ることか ら始め られたのであ る。 これ は,統 合 の象 徴 としてペ ルシ

ア古典文学を イラン国家の文化の中心に位置 づけたためであ ると考 え られ る。

本報告では,上 記 の フ ァルハ ンゲスター ンの 語彙集 を データベース 化 して分析を行

い,あ わせて主宰者 フォルーギ ーの 論文 『フ ァルハ ンゲスター ン宛 の私 の メッセ ージ

()』 や同機 関が発行 した学術雑誌 『ナー メイ ェ ・ファルハ ンゲス

ターン(』 に記載 されている規約や講演記録 な どか ら導 き出され る理念

との相違 を比較 ・検証 し,イ ランにおけ る言語 改革が国民国家 を形成す る上 で どの よ う

な役割を果た したか を明 らかにす る。

研究発表 第3部 会

1.エ ジプ トのユダヤ教徒ア ラビア語の起源 につ いて

―ゲニザ研究(2)― 西 尾 哲 夫

本報告者 は先に,「16~17世 紀のア ラビア語 エジプ ト方言― 大英図書館蔵 ゲニザ文

書Or.7768を 資料 として― 」 『オ リエ ン ト』34-2.を 発表 したが,本 発表 ではさ ら

に同時期 に属す るゲニザ文書Or.5522(大 英図書館蔵)の 分析をお こな う。

同文書 は,中 世 ユダヤ ・アラ ビア語に よる 『雅歌』 の注解書で,や は りヘブライ文字

に よってアラ ビア語が記 されてい る。本文書 の最大 の特徴 は,口 語表現が多い とい うこ

とと,全 ての単語 にヘブライ語方式に よる母音符号が付 されてい ることであ る。子音文

字テ クス トと母音符合化 の相関は,通 時的にも共時的 にも一見す るほ ど単純ではないが,

同文 書は中世 のアラ ビア語 の再構に とって極 めて有用 な情報を提供 して くれ る。

本発表 では,上 記文書 のアラビア語をエジプ ト・アラ ビア語 の歴史的変遷の中に位置

付け ることに よって,あ わせて(1)コ ミュニケーシ ョン保持のための同化,(2)集

団的アイデンテ ィテ ィー保持 のための異化 お よび同化,と い う異言語生態 環境の中の言

語 変化 の力学 に関わ る二つ の視点を導入 しなが ら,エ ジプ トの ユダヤ教 徒 アラビア語の

起源について考察 してみたい。

また時間のゆ るす限 りにおいて,ケ ンブリッジ大学 を中心 とした ゲニザ研究の現状に

ついて もふれたい。

157

2.14世 紀 シーラズにみ る詩人 と保護渚 をめ ぐって 佐々木 あや 乃

ペル シア文学 は宮廷文 学 とい う伝統 を有 す る。 サ ーサ ーン朝期以来 の伝統 とされ る宮

廷詩人 の活躍 は,そ の後 の トル コ族支配下 で 目をみは るもの とな り,ペ ルシ ア文学史上

に数多 の名 高い詩人 が登場す る こととなるが,モ ンゴルの攻撃 を受け た13世 紀以降の阿

鼻叫喚 の時代 には,そ の宮廷詩人た ちは衰退 し,モ ンゴルの凄 ま じい攻撃か ら難 を逃れ

たフ ァールス地方,と りわけ シーラーズへ とペ ルシア文学 の中心 は移 る こととな る。

そのシー ラーズに生 を受けた詩人 の1人 が,ハ ーフ ィズShams al-Din Mohammad

Hafizで あ る。当時宮廷文学の伝統は衰 微 し,ペ ルシア文学は貴族文 学の域を超 え,一

般庶民 にまで広 く愛 され る対象 とな っていた ものの,残 された彼の作品か らは,な お も

彼 に多 くのmamduh(称 賛者あ るいは保護 者)が 存在 した ことが うかがわれ る。そ し

て,詩 人 ど うしの交流を裏付け る記述を留め る詩人伝tazkira等 の資料 も残 されてい

る。ハ ーフ ィズとmamduhや 詩 人たち との関係 をみてい くうちに,学 芸 を保護 す ると

同時に 自らも相当 レベルの高い詩 を うた う人物 の存在 が浮か び上が ってきた。財政 的な

援助 の有無は明 らかでないが,詩 を知 的な文化活動 の1つ とみ なし,自 らもその素養 を

もち,詩 作に深 く関心をは らっているこ とに より,か つてのペ ルシア宮廷 の権力者 とは

明らかに異な った様 相を呈 してい る。

時間 ・空間を共有 した2人 の作品を中心 に検証す るこ とによって,当 時 の社 会 の新た

な側面に光を当て るきっかけ としたい。

3.ア イニーの 『回想録』 にみ る19世 紀末のブハラの文 学的環境

島 田 志津夫

サ ドリッデ ィー・ン ・アイニー(1878-1954)は,「 タジ ク ・ソヴィエ ト文学 の創始 者」

ともいわれ ソヴ ィエ トタジキスタンを代表す る作家であ る。社会 主義革命以後,彼 は多

くの著作の執筆を とお してタジ ク現代文学 の発展に大 きな貢献を し,文 学研究者 ・東洋

学者 として も有名であ った。 しか し,彼 は ソヴ ィエ ト作家 として活躍 しただけで な く,

革命以前は 「ジャデ ィー ド」 と呼 ばれ る一連の ムス リム知識人 の改革運動 にも参加 し,

啓蒙思想家 として も活躍 した人物 でもあ った。

その 『回想録』(1948-54)は,彼 の最後に して最大 の作 品であ り,彼 の 回想を とお

して1880年 代か ら1900年 代初頭 までの中央ア ジア社 会の一側面が克 明に描 き出 されてい

る。 この作品は4部 か らな り,第1部 に アイニーが生 まれた ブハラ郊外の農村 での生活,

第2部 以降に ブハ ラのマ ドラサで の生活についての回想が記述 されてい る。そ こには彼

の鋭い観察眼を とお して見た,当 時の ブハ ラの人々の生活 の様子,宗 教 社会 制度,文

化環境な どが描写 され,一 作家の 自伝に とどま らない民族誌的な性格を も持 ち合わせた

作品 として広 く注 目を集 めてきた。

158

報告 者は,中 央 アジアにおける ブハ ラの文化 的な重 要性 に着 目し,こ の作品の ブハ ラ

社会 にかんす る広範 な記述 の中か ら,と くに当時の文化環境 にか んす る記述に注 目す る。

『回想録』の記述 に よれ ば,ブ ハ ラ ・ア ミール国が ロシアの保護 国 とな り,1905年 の ロ

シア革命 前夜 の19世 紀末において も,ブ ハ ラでは依然 としてペル シア語文学の伝統が保

持 されてお り,ロ シアか らの影響 もあま り見 られなか った 。本報 告では,『 回想録』を

基本資料 として当時の文 学的環 境を明 らかに し,そ れを紹介 す ることを第一の 目的 とし,

あわせてそれが後の アイニーらの改革運動に与 えた影響 について も考えてみたい。

4.ナ シール ッデ ィーン ・トゥースィーの様相命題論 仁 子 寿 晴

イスラームにおけ る論理学研究は ア リス トテ レスのオルガ ノン注釈か ら出発 したが,

イブ ン=ス ィーナー(A.D.980-1037)の 出現以降その様 相は一変す る。つ ま り論理

学 の非 ア リス トテ レス化 とい う現象が生 じる。その意味は,論 理学を研究す るとい うこ

とはイブン ニス ィーナーの著作を研究す るとい うことにな った とい うことで ある。従 っ

てイ ブン=ス ィーナーの出現以降 は彼の学説を肯定す るにせ よ,否 定す るにせ よ,イ ブ

ン=ス ィーナーの著作 を中心 に展開す ることに なる。本発表では イブン ニス ィーナー.学

派 の中興の祖 といわ れ るナシール ッデ ィーン ・トゥース ィー(A.D.1201-1274)に よ

る命題の様相(基 本的には必然 ・可能 ・無様相)に 関す る見解を中心に イブン=ス ィー

ナ ーの論理学がいかに展 開 したか を考察す る。

トゥース ィーは様 相に関 して二 つの問題 を解決 しよ うとした。

第一の問題 は イブン=ス ィーナーが様相 に時間の要素を組み込んで以来複雑化を続 け

る様相の分類にいかに合理 的に説 明を与 えるか,と い う問題であ る。実 際様相の数 は22

以上 も数 えられ るよ うになって いた。 この問題 に関 して トゥース ィーは 「様 相文の二重

構造」 とい う分析方法を導 入 し,こ の複雑化 した様相を合理的に説明 しよ うとした。

第二 の問題は,イ ブン=ス ィーナーが 「論理学は全ての学の基 礎であ る」 と述べ なが

ら,実 際には彼の主張す る必然 ・可能 とい う概念にはそ もそ も形 而上学的な要素が入 っ

てい るのではないか とい う疑 問を持 ったバ グダーデ ィー(A.D.1075-1164),ラ ーズ

ィー(A.D.1149-1209)等 の見解に対 していかに反論す るか,と い う問題 である。例

えばバ グダーデ ィーは 「心の中の必然」 とい う弱い意味での必然 を提言 した。これに対

し トゥース ィーは弱い意味での必然である 「心 の中の必然」 と強い意味 での必然であ る

「外界 にある必然」の二つの必然 を両者 とも採択 した。つ ま りトゥース ィーは 「論理学

が全ての学 の基礎で ある」 とい う観 点か ら二つ の種類の必然を採択 す ることに よって,

形而 上学 の基礎 であると共に他の学の基礎 でもあ り得 る論 理学の構築 を 目指 したのであ

る。

結局,様 相 とい う論理学 のテーマにおいて トゥース ィーは これ ら二 つの問題 を通 して

159

イ ブ ン=ス ィー ナ ー学 派 の 中興 の祖 とい う名 に ふ さわ し い議 論 を展 開 し,イ ブ ン=ス ィ

ー ナ ー の見 解 の再 解 釈 を施 した 。

テ キ ス トと して は トゥー ス ィー の手 に よる 『指 示 と勧 告 の書へ の 注 釈 』 と 『学 習 の

書 』 を 使 用 す る。

5.イ ス テ ィア ー ザ論

―呪術 ・キ ラー ア ・タ フス ィー ル― 大 川 玲 子

現 在 クル アル ー ン研 究 は,従 来 の クル ア ー ンの テ キ ス トそ の もの の分 析 か ら,テ キ ス

トの受 容(適 用 ・解 釈)の あ り方 に,そ の対 象 を 広 げ つ つ あ る。W.C.Smithが 言 う

よ うに,聖 典 とは 「人 間 の 営 み 」 な の で あ り,テ キ ス トそ の もの だけ で は な く,そ れ を

聖 典 と信 じる人 々 に よ って,受 容 され る こ とで聖 典 た ら しめ られ てい る とも言 え る。 こ

の よ うに 人 との 関係 に お い て聖 典 を 見 る とい うア プ ロー チ は,ク ル ア ー ン理 解 を深 め る

た め に 有効 で あ る と考 えられ る。

そ こで本 発 表 で は,ク ル ア ー ン 中 の 「イ ス テ ィア ー ザ[isti'adhah]」 の 句 に 注 目 す

る。 この 「イ ス テ ィア ー ザ」 は,悪 魔 な どか ら神 に 助 け を 求 め るた め の 祈 祷 句 で あ り,

"A'udhu bi -Allahi min al-shaytani al-rajimi"と い う言 い 回 しで 唱 え られ る こ とが

多 い 。 イ ス ラ ー ム成 立 以 前 の ジ ャー ヒ リー ヤ時 代 か ら用 い られ て きた この 句 が,ク ル ア

ー ン に取 り入 れ られ る こ とで,い か な る受 容 の 展 開 を 見 た の か を 明 らか に した い 。

この 「イ ス テ ィア ーザ 」 の語 根 で あ る'-wdh語 根 よ りな る句 は,ク ル ア ー ン中17箇

所 に存 在 す る。 そ の 中で も重 要 な 句 は,16章98節 と113・114章 で あ る。 前 者 に よっ て,

イ ス テ ィア ー ザ の文 句 は クル ア ー ン読 誦(キ ラ ーア[gira'ah])に 結 び付 け られ,儀 礼

上 の議 論 の対 象 とな った り,神 秘 主 義 的 な 解 釈 が な され るに至 っ た。 ま た ム ア ッ ウ ィザ

タ ー ニ[Mu'awwidha'tani]と 呼 ば れ る後 者 の 二 章 は,ハ デ ィー ス(特 に 「啓 示 の原

因[asbab al-nuzul]」 に関 す る もの)と 結 び つ け られ,特 に邪 視 よけ や 病 の癒 しに効

果 を 持 つ 句 と して,呪 術 的 に用 い られ る こ と と な った 。

本 発 表 で は,以 上 の過 程 を,ハ デ ィー スや,ク ル ア ー ン解 釈(特 に 神 学 者Fakhr al-

Din al-Razi[d.606/1209])の タ フ ス ィール で あ るMafatah al-ghayb)な どを資 料

と して用 い なが ら,明 らか に した い 。

6.『 反 駁 の 書 』読 解 の た め の一 試 論 山 下 伴 子

シー ア派 が 国教 化 され た サ フ ァ ヴ ィー朝 成 立 以 前,特 に ガ ズナ朝,セ ル ジュ ー ク朝 の

時代 に は,政 権 側 は 強 い ハ ナ フ ィー派 支 持 の政 策 を 取 り,激 しい宗 派 抗 争 が 蔓 延 した 。

この時 代 は シ ー ア派 に と って迫 害 の時 代 で あ り,特 に タキ ーヤ(信 仰 の隠 蔽)を 行 な っ

た12イ マ ー ム派 につ い て は文 献 が ほ とん ど存 在 せ ず,そ の実 態 につ い て不 明な 部 分 が 多

い。

160

『反駁 の書』は12世 紀の イランの一都市 レイで,『 ラーフ ェズ ィーの醜行』 と題 す る

スンナ派 の側か らの シーア派への誹謗の書に対 して,シ ーア派の側か らの反論 として書

かれた宗派論争書であ り,欧 米では当時の12イ マーム派や宗派抗争の実態に関す る情報

を提供す る希少 な歴史史料 として高 く評価 されて きた。 しか しその分析に際 して は,宗

教書 の記述全般を客観的な事実 として信頼す る危険性 もあ り,テ キス ト中に論証 のため

に挙げ られ る諸事例を文脈か ら切 り離 して用い ることに留 まってい る。一方,イ ランで

は一部 の研究者 の間で,『 反駁の書』の著者が ラーフェズ ィーの醜行』の非難に対 して

正面か ら反駁 を行な ってい る姿勢が高 く評価 されてお り,欧 米の研究 に欠如 してい る方

向性 として評価すべ きであ る。そ こで本報告 では 『反駁の書』を当時の レイの宗教 ・社

会状況 の理解 に有用な史 料であ るとともに,現 代 の イランで積極的 な評価 を受けてい る

一つ の議論 として位置づけ るために,本 文献 の読解 のための一試論 を考 えた い。

史料検討に際 しては,フ ーコーが 『知 の考古学』(1969)で 行 なった歴史史料 を一 つ

の 「言説」 として扱 う史 料批判 の立場 を採用 す る。すなわち,あ る 「言説」 の語 られ方

を分析す ることに よ り,そ の 「言説」の限界 や形 式を定めている一定 の時代や社会 にお

け る諸規則の総体が 明らかにされ る。 この 「言説」研究 の立場を採用す ることに より,

12世紀 イランの レイにおけ るシーア派 とス ンナ派 の力関係,ス ンナ派 とシーア派 の両者

の議論 の背景 にあ る宗教 観 社会状況等が浮 き彫 りにされ,『 反駁の書』の中の客観的

要素が確定 され るとともに,当 時の社会 における両者 の議論 の持つ意味が明確にな るだ

ろ う。

7.ガ ザ ー リーにおける神名論 青 柳 かお る

初期 のアシュア リー派か らガザー リー(d.1111)ま で の神の名前に関す る議 論を分

析 し,ガ ザー リー以前のア シュア リー派 の神名論 とガザー リーの神名論 の違 いを明 らか

に した い。

ア シュア リー派,ム ゥタズ ィラ派 において,神 の 名前ismは"名 指 され るもの"

musammaで あるのか,"名 指 し"tasmiyahで あ るのかが論-じられ ていた。 また属性

はsifahは"記 述 され るもの"mawsufに 内在 す るものなのか,"記 述"wasfな のか

とい うことも論 じられていた。

この ような議論の中で,ガ ザー リー以前 のアシュア リー派は名前 は"名指 され るもの"

自体 であ るとした り,属 性である とし,ム ゥタズ ィラ派は"名 指 し"で あ るとした。 こ

の よ うに神 の名前は創造 され た ものか,否 かが問題 とな っていたのである。 ガザ ー リー

以前のア シュア リー派 においては,神 の名前 は永遠であ るとい うイジュマーを守 るため

に,神 の名前 は神 自体 または属 性である と考 え られていたのであ り,ム ゥタズ ィラ派 に

おいては神の名前 は人間が創造 した音声で あると考 えられていたのであ る。

161

しか しガザ ー リーは神名論 の書で あるal-Magsad al-Asnaに おいて,名 前,"名 指

し","名 指 され るもの"の 三つは意味が異 なるのであ り,今 までの議論は間違い であ る

とし,神 の名前は永遠ではな く,語lafzで あ ると定義 した。 ガザ ー リーは ガザ ー リー

以前 のアシュア リー派の議論を否定 したが,神 の名前 に新 しい意義を見 出してい る。今

回は,こ の よ うな ガザ ー リーに よる神名論 の転 換の意味を考 えたい。

8.四/十 世紀 の初期 イスマーイール派 の宇宙論 と預言者論の関係について考察

野 元 晋

初期 イスマーイール派は,既 に フ ァーテ ィマ朝成立(297/909年)以 前か ら,ア ダム

(Adam)か ら預言者 ムハ ンマ ドに至 る聖法を もた らす六 人の 「告知者」(大 預言者,ま

たは 「語 る者」natiq,複 数形nutaga')が 次 々に周期 を開 き,や が て メシア的人物で

あ るカーイム(al-Qa'im)の 到来に よって終末 を迎 え るとい う救済史観 を有 していた。

また この派は,「 告 知者」以外の クル アーンに登場す る諸預言者 も聖法 の解釈,共 同体

の維持な どそれぞれに与え られた救済史上の役割 を果たす と説いてい る。

この様な預言者論を持つ イスマー イール派 は,遅 くとも四/十 世紀初頭 には,新 プ ラ

トン主義の一者 ・知性 ・魂 とい う三位格をたてる宇宙論 と出会い,こ れを一部の思想家

達 は同派の教義体 系の中に組み込 も うとした。 ここで考 えられ るのは,新 プラ トン主義

の宇宙論体系,こ とに知性('aql)と 魂(nafs)と い う高次 の存在 と人間の関係の理論

と,あ くまで救済史 的枠組 みを持 つ預言者論 を如何 に調和 させ るか とい う問題がでて く

ることであ る。本発表は この視点か ら,ま ず 四/十 世紀 の新 プラ トン主義の強い影響下

にあるとされ る所 謂 「ペル シア学 派」の思想家達 のテ クス トの中で,救 済史におけ る諸

預言者 の物語を扱 うものを 分析 す る。 つま り アブー ・ムーテ ィム ・ア ッ ・ラーズ ィー

Abu Hatim al-Razi(322/934-5年 歿)の 『訂正の書』Kitdb al-lslah及 びア ブー ・

ヤア クーブ ・ア ッ ・シジスター ニーAbu Ya'qubal-Sijistani(歿 年 不明)の 『預言の

証 明』Ithbat al-Nubu'atな どであ る。

さ らに上のテ クス ト以外 に,フ ァーテ ィマ朝 の見解を代表 す るジャアフ ァル ・ブン ・

マンスール ・アル ・ヤマ ンJa'far b.Mansur al-Yaman(歿 年不 明)と カーデ ィー

・アン ・ヌウマ ーンal-Qadi al-Nu'man(363/974年 歿)に よる諸預言者 の物語解釈 を

みてい く。 この主題についてのテ クス トでは既にH.ハ ル ムHalmが 前者の 『告知者

達 の秘密』Sara'ir wa-Asrar al-Nutaqa'に おけ る新 プラ トン主義的術語 の用法 をと

りあげたが,こ こでは後者 の 『解釈 の基礎』Asas al-Ta'wilを も扱 う。 ヌウマー ンは

そこで新 プラ トン主義的諸術語 の使用 を批判す るが,一 方 でそれ らを用 いもす るとい う

注 目すべき傾 向をみせてい る。本発表では このよ うに 『ペル シア学派』 とそれ以外 の思

想家 のテ クス トを分析す ることで,初 期 イスマーイール派 が如何 に新 プ ラ トン主義 の概

162

念 を含 めた宇宙論 を救済史上 の諸預言者 の物語 に関係 づけたか を包括的 に考察 したい。

研究発表 第4部 会

1.メ ンフィ ス ・ネ クロポ リスの墓域形成 と遺跡環境をめ ぐる一断面

― ダハシ ュール北地区の調査成果か ら 長谷 川 奏

ダハ シュール北地 区調査 は,早 稲 田大学 と東海大学情報技術 センターに よる共 同調査

であ り,衛 星 画像 とい う工学 的手法 の援用 に より,古 都 メンフ ィスの葬送地域(ネ クロ

ポ リス)の 構造理解 をめざ したものである。 メンフ ィス地域 は,王 朝時代 よりナ イル川

流 路が大 きく移動 したため,元 来葬送 の場 に設け られた河岸基点に対す る検討が,墓 域

の構造理解 と古環境復元 の大 きな手がか りとなる。

当該地区の墓域形成論 に大 き く寄与す ると考 え られた地域は,メ ンフ ィスよ り5km

南西の ダハ シュール北地 区である。調査地区 は砂漠 内に1kmほ ど入 りこんだ小丘陵

部 で,耕 地帯 との接点 には河岸基点を示唆す る緑地帯が あ り,周 囲の中王 国時代墓域群

と共 に,こ の氾濫原 点 を とり囲む遺跡環境 にある。遺跡標高は,周 囲の ピラ ミッ ド墓域

群に匹敵す る高位に位置 し,遺 跡 の中心部分 は東西300m,南 北100mの 範 囲に集中

した シャフ ト墓群 よ り構成 され てい ると考 え られた。注 目され るのは,墓 域中央部 よ り

検出 され た 日乾 煉瓦 遺移 であ り,出 土 した平面 プランか ら,同 遺構 は新王 国時代 に特徴

的な高官墓(Tomb Chapel)で,こ れ までの出土例の中では最大規模 を測 ると推測 さ

れた。同様 の高官墓 は,メ ンフィス ・ネ クロポ リスの中核部の一つであ るサ ッカ ラ地 区

では近 年集中的に報告 されているが,ダ ハ シュール地区で検出 され る とすれ ば初 めての

例 とな る。

本報告 では,同 遺跡 の調査成果が事例 とな り,従 来サ ッカラ地 区に限 られ てきた新王

国時代の墓域論 が拡大 され,再 構築 されてい く可能性を論 じたい。 また同地区は,古 ・

中王国時代遺跡 群に とり囲まれ,周 辺 ピラ ミッ ドのすべてが 見渡せ る特殊な遺跡環境に

あ る。そ こでサ ッカ ラ地 区の新王国時代墓域 と同様 に,周 囲の前時代遺 跡が象徴的意味

を持ち,後 世 に墓域が再利用 されたかが重要 な観 点 とな り,特 にシャフ ト墓 がその検 討

対象 とな る点を述べ てみたい。

2.カ エム ワセ トの建造物 における レリーフ装飾 について 高 宮 いつ み

早稲 田大学古代 エジプ ト調査室は,1991年12月 か ら,エ ジプ ト・アラブ共和 国アブシ

ール南遺跡 の丘 陵頂部 において,第19王 朝 ラメセス Ⅱ世 の第4王 子 カエム ワセ トに所属

す る石造建 造物 の発掘調査を継続 してい る。 この建造物は石灰岩 の切 り石で築造 され,

南北約25m,東 西35mあ ま りの大型 のものであったが,石 材取得を 目的 とした組織

的な破壊のために,床 面 と壁体基礎部の一部を除いて,ほ とん ど攪乱され てしまってい

る。丘陵頂部周辺か らは,彩 しい数 の レリーフが刻 まれた石灰岩断片が 出土 してお り,

163

それ らの うちの多数 にカエム ワセ トの名前 と称 号が記 されていた。お そ ら くこれ らは元

来建 造物の壁面 を飾 っていた と推測 され た ものの,原 位置 に残 されていた レリーフ断片

は1例 もなかったために,建 造物 とレリー フ装飾 との関係 は容易 に確立 し得なか った。

本発表では,こ の よ うな状 況の中,各 断片 の レリーフ内容 と出土位 置の分析か ら,石

造建造物の レリー フ装飾を復元 した試 みについて述 べてみ る。計一千個 を越 える レリー

フ断片は,石 材 の質,レ リーフのタイプ(「 高浮彫 り」 も しくは 「沈 め浮 き彫 り」),モ

チ ーフ,図 像 のサイズ等か ら,い くつか の グループに分類す る ことが で きた。一方,各

断片の出土位 置は,発 掘時に正確 に記録 され ている。各 レリーフグルー プごとの出土位

置が,建 造物 プランの特 定の箇所 に集 中 している現象が認め られれば,お そ らく建 造物

におけ る元来 の壁面装 飾をある程度復元す ることが可能 になるであろ うと期待 され た。

実際,分 析の結果 は,各 レリーフグループが特定 の場所 に集中す る傾 向を示 し,こ れ ら

の レリーフ断片が石造建造物 に由来す ることが確認 され ると共に,い くつか の壁面 の装

飾 が推測 され る成果 を得 た。正確 な壁面装飾の復元は将来の研究を待 たねば な らないが,

本発 表における分析 の結果 は,こ の石造建造物が まさに カエ ムワセ ト王子のために建造

され た ものであろ うことを如実に示す ことにな った。

3.早 稲 田大学図書館所蔵 「死 者の書」パ ピルス について 内 田 杉 彦

「死者 の書」 は,エ ジプ ト新王国時代直前の時期か らローマ時代 にかけて,特 にパ ピ

ルスに記 され,死 者 と ともに埋葬 された葬祭文書であ り,古 代 エジプ ト人 の宗教 思想,

来世観念 を物語 る代表 的な資料 と して しぼしば 引 き合いに 出 される もので あ る。 この

「死者の書」 については,そ の呪文 を記 したパ ピルスな ども数多 く現存 してお り,早 く

か ら翻訳,研 究が行なわれてきたが,個 々の 「死者の書」のなかには,い まだ充 分な刊

行が なされていない もの も少 な くない。

本発表 においては,現 在,早 稲 田大学 中央 図書館に所蔵 されてお り,こ れ まで まった

く紹介 され ることのなか った 「死者の書」 パ ピルス断片について報告 したい。 この断片

には,死 者が冥界 の王であ るオ シ リスの法廷 に到達 し,復 活を遂げるのを助け るための

4つ の呪文(72,83,84,124章)の 一 部が 草書体 の聖刻文字お よび神官文字で縦 書 き

されてい るほか72章 と124章 の彩色の施された挿絵が描かれてい る。 この挿絵 はそれぞ

れ,太 陽の下を歩 む死者 と,オ シ リス神を礼拝す る死者 の姿を表わ した ものであ り,72,

124章 の挿絵 としてはこれ までに例のない表現 である。 このパ ピルスの年 代は,呪 文 の

文字の特徴や,挿 絵 の人物表現の特徴か らみて,第18王 朝前期,お そ らくハ トシェプス

ト女王及び トトメス3世 の治世前後 であろ うと考 えられ る。

4.北 シ リアにおけるウバイ ド墓 小 泉 龍 人

前回の発表(1994年)に おいて,ウ バイ ド墓地の登場 が,テ ルの空間利用 におけ る居

164

住域 と墓域 の使 い分 け,さ らには何 らかの立地規制 と関係 してい るか ど うかを試論 して

みた。今回は,こ の意識的区分は,当 時の社会組織におけ る何 らかの変化が反映 され た

ものとの想定にた ち,墓 の構造 ・葬法 ・副葬品 とい った視点か ら総合的 に ウバ イ ド期 の

墓制や社会を推察 してい く予定であ る。

東京大学東洋文化研究所の 「シ リア先史遺跡調査隊」は,北 シ リアのテル ・カシ ュカ

シ ョク遺跡第 Ⅱ号丘で,先 史時代の ウバ イ ドお よび後続期に帰属す ると思われ る墓地 を

発見 し,「 長靴」状の構造を有す る墓壙であ ることを確認 した。発 表者は,ま ず副葬 品

として出土 した土器群を比較分析 して,そ の編 年構築を試 みた。次 に,「 なだ らか な地

表面を各時期の墓はほぼ同 じ深 さで掘 られた」 とい う仮定に基 づき,墓 底 面 レヴェルを

堆積土層中 どの高 さに位置す るのか とい う 「相対 レヴェル」に変換 して ウバ イ ド墓 仮編

年を試みた。そ して,カ シュカシ ョク墓 の副葬 品(土 器)の 仮編年組 列 と,副 葬 品を用

いずに時間軸上で排 列 した墓壙 の仮編年 組列を相互比較 し,体 系的 な ウバイ ド墓編年 を

案 出した。

ここでは,こ うした カシュカシ ョク遺 跡の ウパ イ ド墓壙 の分析を基点 に して,北 シリ

ア,北 メソポタ ミア,南 メソポタ ミア といった地域 におけるウバ イ ド墓 の相互比較 を試

み る。具体的には,構 造 ・葬法 ・副葬 品を主 な視点 として詳細 な属性分析 を行 う。 まず,

水系別 の地域圏を措定 して,地 域的な属 性の相似 ・相異現象 を検討 し,ウ バ イ ド墓制 の

拡が りを時空座標上で考察 してい く。次 に,ウ バ イ ド墓制 の起源や発展方向を探 り,先

史文化 の墓制変遷上の位置づけを予察 してみ る。

そ して,独 自に設 定 した地域 圏を作業仮説上 の単位 として用い,ウ バ イ ド社会 が複雑

化 してい くプロセスを,墓 の立地 ・構 造 ・葬法 ・副葬 品 とい った視点か らアブローチす

る。 さ らに,ウ バ イ ド期におけ る物理 的距離 を越 えた地域間の類似現象 を,「 宗教 ネ ッ

トワー ク」 ともい える社会的紐帯関係 として解釈 してい く。 この ネッ トワークは,ウ ル

ク期 の 「交易 ネ ッ トワー ク」の母胎 として位置づけ られ,都 市文明の萌芽に向けて重要

な役割を果た していた と推測され る。広範 囲にわた り展開 していた ウバ イ ド文化 の社会

的求心力 として,宗 教 ネッ トワー クとで も言 うべ き社会的機能が果 た した役割を考察 し

ていきたい。

5.シ リア銅石器時代の土器工房址の発掘 西 秋 良 宏

東京大学 の調査団は,北 シリアでテル ・コサ ック ・シャマ リとい う遺跡 の発掘をお こ

なっている(代 表:松 谷敏雄東京大学教授)。 新石器時代か ら居住 され ていた 遺跡 であ

るが,最 も密 に住 まわれたのは ウバイ ド期か らポス ト・ウバ イ ド期 にか けて,す なわ ち

銅 石器 時代 の後半で ある。1994年 以降続 けてい る現地調査 に よって,こ の時期の土器製

作工房 が良好 な保存状態を もって発掘 されつつ ある。本発表 では,発 掘 の成果を概 述 し,

165

土器工房の構造や土 器製作に使 用 されていた道 具類な どに関す る新 知見を報告 した い。

遺跡は ユーフラテス川の左岸,シ リア ・トル コ国境の南約40kmの 地 にある。径約

80m,高 さ9m程 度 の小 規模 なテル型 遺跡であ る。発掘 区はA,Bの2箇 所 に設け て

い る。A区 はテル南西斜面,B区 は南東 部に位 置す る。時期 に よって遺跡の 占地箇所が

異 なってお り,A区 か らは新石器 時代~ ウバ イ ド期 の資料が 出土 したのに対 し,B区 か

らの出土品はポス ト・ウバ イ ド期 以降 の ものが主体 であった。 いずれ の発掘区か らも土

器製作 と密にかかわ る痕跡 が見つかってい るが,製 作部屋が完掘 され てい るのはA区 で

あ る。

ウバ イ ド期 の製作部屋が もってい る主 た る特徴 は次 の ようであ る。 第一に,一 辺が

1~1.5m程 度 の非常 に小 さな部屋 であること。第二 に,部 屋の場所 は家 の建 て替 えや

床 の張 り替えにかか わ らず一定 であったことで ある。一方,製 作 には,平 たい石,土 器

の 口頸部,山 羊の角,石 杵,石 製 削 り具,彩 文用パ レッ ト,か ぎ混ぜ棒,な どが使用 さ

れていた。部屋 に近接 して土器焼 き窯 も設け られていた。

土器生産の規模,道 具 の専 門性等か ら判断 して,工 房を使用 していたの は職人で あっ

た可能性があ る。土器工芸 とい う技術やその商業性,職 人の社 会的位置な どが都市文 明

出現前夜に ど う変化 していったか を通時的に調べ るための格好 のデ ータが得 られた と考

える。

なお,以 上 の記載 は1995年 度 まで の調査成果に基づいてい る。当 日の発表では,1996

年度の調査結果 を追加す る予定で ある。

6.レ ヴァン トのア ッシ リアンボウル 足 立 拓 朗

西アジアにおけ る最初 の世界帝国 とも言え る広大 な版 図を有 した ア ッシ リア帝 国は,

様 々な物質文化 を生産 している。

その中に,ア ッシ リア起源 と考 えられ る土器群が存在す る。 この中で,金 属製の鉢を

模倣 した土器が ア ッシ リアンボウル と呼ばれ ている。 ア ッシ リアンボウルの器形は,器

壁は薄 く,底 部 は丸底で あ り,体 部 と口辺部 の間 に くびれを有す る。精製 された粘土に

よって丁寧 に作 られ るため,在 地の土器 と容易 に判別 され る。

ア ッシ リアの土器 には,非 常に器壁 が薄 く作 られた土器が存在 し,こ れ らはパ レス ウ

ェア と呼ばれ 区別 され る。その後の時代 には,エ ッグシェル ウェア とも呼ぼれている。

このパ レスウェアの中に アッシリア ンボ ウルは含 まれ るわけだが,そ の他 にも ビーカー

形 の ものや,ボ トル形の ものな どが存在す る。ア ッシリア ンボ ウルは このパ レスウェア

の中で最 も広 くかつ多 く分布す ると考 え られ る。

ア ミランは,ア ッシ リアか らの影響 を受けた土器群 をア ッシ リアウ ェアとして,分 類

してお り,そ れを ボウル形 とボ トル形 に細分 してい る。

166

アッシ リア ンボ ウルには,器 壁 がそれほ ど薄 くない もの も存在 してお り,形 態 の差異

も存在 してい る。 また,地 方都市遺跡で の出土,宮 殿での出土,墓 地で の出土等,多 様

な出土状態 を示す。

本報告では レヴ ァン トを中心に,ア ッシ リアンボウルと考 えられ る土器 を集成 し,そ

の分布 ・出土状況及 び,形 態分類 を行い,ア ッシ リアンボウルの機能,ま た他 の土器群

との関係 を考察 して みた い。

7.ア ッシ リア帝王獅子狩 りにみ る王権の考察 渡 辺 千香子

メソポタ ミアにおけ る帝王獅子狩 りにつ いて は,早 くも紀元前四千年紀末期か ら,石

碑 に表現 され た作例 が知 られてい る。紀元前一千年紀 には,ア ッシ リア王宮 の壁面装飾

を 目的 とした浮 き彫 りに,獅 子狩 りの場面が大規模 に表現 され るよ うに なる。 しか し,

これ までア ッシ リア学においては,帝 王狩猟 の意味す るところを文化的な枠組み の中で

解釈す ることがなおざ りにされて きた。そ の理 由としては,当 時の王 侯碑文には王が狩

猟を行った方 法や場所,獲 物 の頭数 な どが詳 し く記述 され る一方で,そ の本来 の 目的や

象徴的意味に関す ることが何 ひとつ言及 され ない とい う事実が挙げ られ る。そのため に,

帝王狩猟を単な る 「遊戯」 とみな した り,あ るいは 「武術の鍛練 」 として行われて いた

とす る根拠のない説 明が,こ れ までまか り通 ってきて しまった。

本論は,ア ッシ リアの帝王獅子狩 りが どの ような文化的意義を担 っていたのかを祭儀

的側面か ら分析 し,さ らに王権 の社会的役割 とい う視点か ら,獅 子狩 りの持つ象徴的意

味 について考察す ることを 目的 とす る。

発表前半部では,帝 王獅子狩 りの中に,潜 在的 な意味 として祭儀劇 の要素 が含 まれて

いた可能性を探 る。王の獅 子狩 りの様子 を記 した王侯碑文に使われ る用語 や狩猟 方法の

特徴か ら,ニ ヌル タ神の神話や祭儀 とのつなが りが指摘 され る。発表後半部 では,メ ソ

ポタ ミアにおけ る獅子狩 りが,王 のみに許 された行為であ った ことを文献資料 か ら立証

し,な ぜ そのよ うな制限が存在 したのか を,王 権 の本質 との関わ りか ら文化人類学的 に

考察す る。

研究発表 第5部 会

1,キ ジル石窟寺院の王侯供養者像 につ いて 中川原 育 子

キ ジル石窟 のあ る クチ ャは,古 の亀茲 国 と称 され,小 乗系 の説一切有部 の仏教が栄 え

た こと,ま た クチ ャ出身の僧侶 たちが,初 期 中国仏教史において重要 な役割を果た した

こと,白 氏王家 による長期 政権 が亀茲 国を支配 していた ことな どが漢文資料か ら知 られ

て る。 しか しなが ら,現 存す る美術作 品,す なわ ち石窟美術の制作 に,ど の よ うな人 々

が,ど の ように関わ っていたのか,直 接 的ない し間接的に我 々に語 って くれ る資料は,

美術作 品を除いては皆 無に近 い。本発表は,キ ジル石窟のい くつか の窟に寄進 者,供 養

167

者 の人物像が描かれてい ることに着 目し,ど の よ うな,個 人,或 いは集 団が石窟造営 と

どの ように関わ ってい るのかを 明らかに しよ うとす る試 みの一つであ る。

キジル石窟 におけ る寄進者,供 養者像 の状況を人物構成 の観点か ら分類す る と次 の3

つ のタイプに分類 され ると考 えてい る。すなわ ち,

(1)王 侯一族 と仲介者 として の比丘に よって構成 され るもの

(2)比 丘 と一般世俗供養者 によって構成 され るもの

(3)比 丘の群像のみ に よって構成 され るもの

である。 これ らは,主 として石窟の入 口前壁や中心柱窟の側廊に描かれ る。

本発表では,第 一 の王侯一族 と仲介者 としての比 丘に よって構成 され る一群を取 り挙

げ る。人物 の衣服,持 ち物,髪 型な どの表現,及 び人物構成 な どを分 析 し,人 種的特徴,

身分が どのよ うに表現 されてい るのかを明 らかに したい。 また石 窟内に描かれ る主題の

傾 向,石 窟同一人物 に よる複数の石窟造営への関与 の可 能性 の有無 な どに も考 察を及ぼ

したい。

特 にキ ジル第67窟(紅 穹窿窟A窟),第205窟(第 二区摩 耶窟),第69窟,第198窟(悪

魔窟A窟)を 取 り挙 げ,考 察 したい。

2.原 州遺跡出土の西方系文物―1995~96年 発掘報告― 谷 一 尚

1995-96年,文 部 省科学研究費補助金(国 際学術研究 ・学術調査)を 得て 日中合同原

州遺跡 調査 団を組織 し,中 国寧夏 回族 自治区固原県の原州遺跡群 の発掘 調査 を行 った。

第一次 は,1995年8-9月,同 県南郊郷小馬庄村の史道洛墓(出 土墓誌 より唐 の658年 葬

と判 明),第 二次 は,1996年5-7月,同 県西郊郷大塗村 の田弘墓(出 土墓誌 より北周 の

575年葬 と判 明)を 発掘。史道洛墓では,遺 物が正倉院や 法隆寺献納宝物 と同様 の漆塗

り木櫃 ・竹櫃 に収 め られた形で埋納 されてお り,ガ ラス六 曲杯な どもあった。 出土 した

史道洛の遺骨(頭 蓋)の 測定値 も,コ ーカ ソイ ド(白 色 人種)の 特徴 を よく示 してお り

「史」 は中央 アジアのキシ(現 シ ャフ リサ ブズ)出 身の胡人 とす る 『階書』 「西域伝」

の記載 を実証 す る資料 となった。

西方系文物 としては,史 道洛墓で1点,田 弘墓 で4点 出土 した東 ローマ金貨や,田 弘

墓出土の金層ガ ラス珠,ガ ラス容器把手な どがあげ られ る。特 に東 ローマ金貨は,模 造

で ない真正の ものは中国では,戦 前(1915年)に1点 戦後10点 の計11点 程度 しか正式発

掘では報告 されてお らず貴重 であ り,ま た摩耗 がひ どくなければ,胡 地で の製作年代が

確定で きることか ら,伝 播年代差を求め ることができ,東 西交流の資料 としての価値 も

高 い。

本発表では,西 方系文物,特 に東 ローマ金貨 の中国流入の問題を中心に考察す る。

田弘墓 出土金貨:①Leo I,the Thracian(457-474)

168

②Justin I(518-527)

③④Justinian I,the Great(co-regent 527/527-565)

史道洛墓 出土金貨:①Justin Ⅱ(565-578)

3.パ キスタン北部地方 ギルギ ッ ト川流域 にお ける岩絵の分布につ いて

―実地調査1995年(Ⅱ),1996年(I)― 土 谷 遙 子

ギルギ ッ ト川 流域に於いて1991年 以来実施 して きた 「古代交通網 に関す る調査」につ

いては,本 学会 で1995年(I)の調査結果 まで発表 したが,今 回は1995年(Ⅱ)及び1996年(I)の

調査を中心に,同 地 方の岩 絵の分布 について ご報告 したい。

1995年8月-9月(Ⅱ)調 査:(I)イ シコマ ン川河 口に あ る上ガ クッチ/下 ガク ッチ に 於 け

る岩絵 の存在 と,仏 像が 出土 された との情報を得 た。さ らに上 ガ クヅチか ら直接 グル ミ

テ ィ渓谷につなが る峠に よるル ー トがあ ることを知 り,ガ クッチがパ ミール/イ シコマ

ン渓谷 と,グ ル ミテ ィ渓谷/ダ レル渓谷に連な る交通網 の中継点 となっていた ことが確

認 された。(Ⅱ)さらに イシコマン渓谷の上流でパ ミールに接す るカランブール川渓谷及 び

クナール川上流の ヤルフン川流域数 ヶ所で岩絵群 を発 見 し,ま たパ ミール との接 点であ

った として,こ の調査で浮かび上が って きた 「ホー ラ ・ボル ト峠」 の地理的特徴 を把握

す ることがで きた。

1996年2月(I)の 調査:(i)上 ガ クッチ の歴史,人 口構成,他 の渓谷 との交流等 について

地元 の長老 か ら多 くの貴重 な情報を得 ることがで きた。古 くか らガ クッチ とダ レル両渓

谷の支配 人階級 の支配階級 の人 々が婚姻等 によって強 く結 ばれ てお り,ギ ルギ ッ ト川 と

インダス川 の両流域地方 の交流があ った ことが判 明 した。 また ガ クッチか ら出土 した上

記の仏像 に就 いての新資料 を ようや く入手 し,既 に発表 され てい るブブルや カルガーの

仏像 とは異な る様式 の仏教美術が存在 していた ことが明 らか になった。(Ⅱ)ギルギ ッ ト川

流域お よび イシコマ ン川流域 の岩絵 の分布調査をお こない,主 に道路 の交差す る15の 地

点であ らたに動物意 匠を中心 とす る岩絵群を発見す ることが 出来た。

本報告では このほかに上記調査以前 に発見 されていた岩絵群 につい ても,テ ーマお よ

び様式を中心に検 討をお こな う。総括的にギルギ ッ ト川流域地方 の岩絵 の解 明を試み る

ことに よって古代 の東 西南北 の交通 の交差点 として,パ ミール高原か らダ レル渓谷を経

てス ワッ ト/ガ ンダーラにむすぶ南北 のルー トと,カ シ ミールか らバ ー ミヤ ンに至 る東

西 のルー トを結んでいた と考 え られ るこの地方の文化交渉 の一様 相を把握 してい きたい。

4.絨 毯輸出から見たイランの貿易構造(19世 紀~20世 紀 初頭)吉 田 雄 介

19世紀後半か ら今世紀初頭 にかけて の期間に,イ ランの貿易構 造は大 きな変化 を遂げ

た と一般 に考 えられてい る。その特徴 としては,主 要 な貿易相手国の変化(ア フガニス

ターン ・オスマン帝國か ら英 ・露へ)と 貿易構成 品 目の変化(輸 出品 としては商 品作物

169

や絨毯 の需要度 の高 ま り,輸 入品 としては綿織物な らびに砂糖 ・茶 といった嗜好品 の増

加)の 二点が まず第一 に挙げ られ る。 こ うした新た なイランの貿易構造 を輸 出面につい

て要約すれ ば,ロ シア向け の米を筆頭 とす る食料や原綿な どの繊維原料,中 国 向けのア

ヘン,仏 ・伊へ の乾繭 といった一次産品輸出,そ して繊維 品 として は 英 国(後 に は 米

国)向 け の絨毯 となる。

今 回は輸 出の側面 を中心 に,イ ランの輸出構造を絨毯 とい う品 目を軸 にして検討 を こ

ころみるが,19世 紀 中期 までは重要でない,あ るいは数多 くの繊維製品 の中 の単 なる一

品 目に過 ぎなか った絨毯 は,欧 米で の需要増加に よって19世 紀後期に なると大幅 に輸 出

を増加 して,今 世紀初頭 には総輸 出の8~9パ ーセ ン ト程度を 占め るまで になった。 ま

た,在 来 の繊維 品の輸 出が減少す る中で絨毯は,シ ョール輸 出が衰退 した後(ま た生糸

輸 出は よ り加工度 の低い乾繭 の形態で の輸 出に置 き換 え られた)に は一定 の重要度を有

す る工業製 品 として唯一残 った輸 出産品であ った。そ して,こ れは主 として コンスタン

チ ノー プル経 由で,英 国(後 には米国)を 相手 とし,新 しい貿易構造 の一翼 を担 ったわ

けであ る。他方,糸 類や織物類 のイランか らの輸出は,量 こそ減 じた ものの コーカサ ス

地方やア フガ ニスタ ーン向けを中心 に残存 し,そ れは従来の貿易構 造を留めた部分であ

った といえ よ う。

こ うした輸出貿易におけ る絨毯 の比重 の高 ま りは,従 来 の研究 の中では一次産品輸出

の増加 とさして区別す ることな く一括 して論 じられ ることが多か った よ うに思われ る。

そこで,今 回 の報告では,絨 毯 がイランの輸 出品の中で どの よ うな位 置や意味を持つの

か を確かめたい と思 う。特に繊維原料 や繊維 品 とい った繊維 関係品 目の輸 出構成の中に

それを あてはめ なが ら,他 の産 品 と比較 した絨毯 の特殊性 と特殊ではない部分の双方を

明か にしたい。

5.パ キスタンにおける 「イマームバーラー」 とムハ ッラムの服喪行事

― イス ラマ ーバー ドお よび ラー ワル ピンデ ィーにお よる事例調査報告―

佐 藤 規 子

イスラームの少数派であ るシーア派 では,同 派 の第三代 イマーム ・フサ インの 殉教

(680年)を 悼む服喪行事(ア ーシュー ラー)が,年 に一度 ムハ ッラム月(イ ス ラーム

暦第一 月)に 盛大 に行 なわれてい る。南 アジアでは,こ の行事がお もに 「イマームバ ー

ラー(イ マー ムの聖域)」 または 「イマームバ ールガー(イ マームの宮廷)」 とよばれ る

場所を中心に行なわれていることにその特異性がみ られ る。 ここでは,パ キスタンの イ

スラマ ーバ ー ドお よび ラー ワル ピンデ ィーの二 つの隣接す る都市で,1995年 に本報告者

が行 なった現地調査に基 づ く報告を行な う。

南アジアの他 の諸都市 と同様,イ スラマ ーバー ドお よびラー ワルピンデ ィー両市 にも

170

大小 さまざまの規模 のイマームバ ー ラーが存在す る。 それ らのなかには,モ ス クが併設

されていた り,聖 者廟 に隣接 して建 て られ ていた り,あ るい は聖者廟 の境内のなかに設

け られていた りす るもの もあ り,イ マー ムバー ラー としての形態 は一様 ではない。また,

ムハ ッラムの時期 にだけ開設 され る一 時的なものや,女 性だけ のため に設 け られた もの

もあ る。 イマームバー ラーでは,ム ハ ッラム月になる と初 日か ら十 日目までほぼ毎 日マ

ジュリス とよばれ る集会 が もたれ る。そ こではフサ イン殉教 の悲劇が語 られ(ロ ウゼ),

謡われ(ノ ウへ),最 後 に参加者 は 自らの胸や頭を激 し く叩 き(マ ータム),悲 しみ を激

し く表現す る。十 日目にはマジ ュリスのあと男た ちが マータムを行い なが ら市 内を行進

す る。本報告 では,ビ デオに よる映像 も用 いて 「イマームバ ーラー」 お よび服喪行事 の

実態についての基礎 的な情報 を提供 したい。

6.現 代イランにおける詩的イ メー ジの諸 相

―フ ォルーグ ・フ ァッロフザ ー ドを中心 に― 鈴 木 珠 里

イラン現代詩 は,ニ ー マー ・ユーシジ(1895-1960)の 詩 とともに 始 まった。 ヨー ロ

ッパの ロマ ン主義 の影響 を受 け,後 に社会象徴詩を生み出 し,詩 的言語の改革を提 言 し

た ニーマー ・ユーシジの詩 は,当 時 の文壇では非難 の的 となったが,彼 の後の時代 の詩

人たちに多大 な影響 を与 えた。そ の結果,1950年 代 後半か ら1960年 代 までの イラン現代

詩 の発展 ・円熟期 には,ニ ーマーの影響を受けた 「ニーマー派 」詩 人が活躍す ることと

な る。1950年 代後半 には ロマン主義を継承 したタ ヴァッラリー,ゴ ルチー ン ・ギー ラー

ニー,ナ ーデル ・ナーデルプール,ま た社会象徴主義詩人 としてアハ ワーネ ・サ ー レス

や シャームルーが文壇 に名を連ねた。

1960年 代 に入 り,イ ラン現代詩は新たな段 階を迎 える。そ の担い手 の一人 となったの

が,フ ォルー グ ・フ ァッロフザ ー ド(1935-67)で あ る。彼女 は形式を 重 ん じる伝 統 詩

の限界 を指摘 し,内 容を重ん じることに よって新 しい形式を作 りだナ ことを主張 した。

詩 集 『新 たなる生』 の中で彼女は ニーマーの詩的言語 の改革を実践 し,さ らに独 自の詩

的イ メージや詩的空間を形成 した。

本報告 においては,フ ォル ーグ ・ファッロフザ ー ドが行 った詩 的言語や形式 におけ る

改革 とそれ に よって生み出 された様 々な詩的 イメージについて考察 してい く。

7.1960年 代 にお けるナギーブ ・マハ フーズの中編小説

―時空間表象の変化を中心に― 福 田 義 昭

エジプ トの小説家 ナギ ーブ ・マハフーズ(Najib Mahfuz [1911])は,半 世紀以上

とい う長期間 にわた り,次 々 と作風を変 えつつ創作活動を続け ることに よって,ア ラブ

小説 とい う新た な伝統の確立に貢献 してきた。おお よそではあ るが,一 般 に彼 の小説群

は クロノロジカルに段階分け されてお り,そ の こと自体,現 代 アラブ小説 の変遷を考察

171

す る上で彼の小説 が一つ の好材料 とな りうることを示 してい ると言え よ う。

手法上の分 類に従 えば,最 初期 の 「ロマ ン主 義 段 階」,中 期の 「リア リズム段 階 」に

続いて,60年 代の小説群 は 「モ ダニズ ム段階」であ ると言 えるだろ う。それ以降は 「モ

ダニズム段階」の延長上 にあ る作品や,ポ ス トモ ダニズ ム的な特徴を持つ作品が入 り交

じってい る。今回の発表 では,マ ハ フーズにおいて表 現上の変化が もっとも顕著に見 ら

れた 「モ ダニズム段階」に属す る小説群を取 り上げ,そ れ らを時空間 とい う観点か ら考

察 してみたい。特に時空 間 とい う観 点を採 用 したのは以下の よ うな理 由に よる。

1)マ ハ フーズは初期 の頃か ら一貫 して 「時間」に関心 を寄 せて きた小説家であ ると

い うこと。

2)モ ダニズム小説 もまた,「 時間」に特別の関心 を払 ってお り,と りわけ,古 典 的

リア リズム小説に対 す る反 動か ら,も っぱ ら線状的 ・歴史 的な時間観念 の破壊 を

行 って きた こと。

3)時 空間は現代文学研究 に とっての一 つの大 きな関心事項で あるが,従 来,一般 に

アラブ現代小説 の研 究では十分 な注意 を払われ ていなか った。 マハフーズの小説

に関 して も,現 代 エジプ トの状況論 のみ に還元 されて しま うことも多 く,時 空間

とい う側面 は十分 に考察 され てい なか った。時空間 とい う観点を設定す ることに

よって,今 まであま り議論 され なか った諸問題が浮かび上が って くる。

最終 的には次 の ような点 を明 らか にしたい。

1)モ ダニズ ムの手法 を取 り入れつつ書かれた マハ フーズの60年 代の小説 は,具 体 的

に どの ような時空間 を表象 しているか?ま た,そ の時空 間はマハ フーズの以前

の小説 に現 れた時空 間 とどの ように違 ってい るのか?

2)そ の よ うな時空 間を通 して,革 命後,60年 代のエ ジプ トに生 き る人間が どの よ う

に描かれているのか?

2)第5回 会員臨時総会

日 時 平成8年10月26日(土 曜 日)午 後1時 ~午後1時40分

場 所 平安女子学院短期大学 本部棟2階 会議室C・D

正 会員総数644名

出席者(正 会員本人)15名

委任状349名

欠席者280名

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