Title 唐後半期の藩鎭辟召制についての再檢討 : 淮南...

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Title 唐後半期の藩鎭辟召制についての再檢討 : 淮南・浙西藩 鎭における幕職官の人的構成などを手がかりに Author(s) 渡邊, 孝 Citation 東洋史研究 (2001), 60(1): 30-68 Issue Date 2001-06-30 URL https://doi.org/10.14989/155375 Right Type Journal Article Textversion publisher Kyoto University

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Title 唐後半期の藩鎭辟召制についての再檢討 : 淮南・浙西藩鎭における幕職官の人的構成などを手がかりに

Author(s) 渡邊, 孝

Citation 東洋史研究 (2001), 60(1): 30-68

Issue Date 2001-06-30

URL https://doi.org/10.14989/155375

Right

Type Journal Article

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Kyoto University

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唐後宇期の藩鎮蹄召制についての再検討

l准南・新西藩鎮における

幕職官の人的構成などを手がかりに||』

I

唐後半期の官界における幕職官の位置とその制度的特質

E

准南・湖西藩銀における幕職官の人的構成

E

僻召におけるキャリアと「関節」

w藩鎖睡制と在地「新興暦」

- 30-

t土

従来、唐後牢期における藩鎮幕職官の酔召制は、所謂「新興階紐」の官僚機構進出の階梯としての役割を果たし、

し、

ば「貴族制に射するアン

チテーゼ」としての史的意味を措ったものとして評債されて来た。それは徐々に唐朝「官僚貴族

制」を誼食して崩壊に追い込み、そのつ

まる所

「唐末五代を通じて何回となく繰り返された僻召の最後の段階の被僻召者

(1〉

層が宋の士大夫屠」であったとレう理解は、所謂「唐宋出演革」論の覗座からして、まことに魅力的なものに映ずる。

しか

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し、だとすれば藩鎮辞召制は、唐朝「官僚貴族制」に劃して確買に遠心的方向に作用したと考えられるが、事賓としては

安史の組以降、唐朝「官僚貴族制」の支配はなお一五

O年に亙って績いたのであり||それは安史の凱に至る唐前中十期に

優に匹敵する||、近年ではむしろその持績性に注目し、かかる「持績」を可能にした政治・制度的枠組みに光を嘗てる

2)

研究も進められるようになってきた。筆者もまた近年、藩鎮辞召制が嘗時の中央官制と有機的にリ

ンクされ、幕職官はエ

(3〉

リlト・コ

lスとも稽すべき普遍的昇達ル

1トの一環として位置づけられていたことなどを論じた。小稿は、そこで得ら

れた知見を踏まえた上で、その制度的内寅についてより一層の解明を加えると同時に、果たして如何なる階層の者が幕職

官として辞召されたのかを、嘗時の祉舎鰹慣の先進地帯であった准南・新西藩鋸における幕職官の人的構成などを手がか

りとして検謹し、一該時期における藩鎮辞召制の貫相や歴史的意義について再検討を試みるものである。

最初に、唐後牟期における藩銀幕職官の貫像について、前稿で明らかにし得た黙を中心に、

料も奉げつつ、簡単に振り返っておきたい。

そこで紹介し得なかった史

- 31-

I

唐後牢期の官界における幕職官の位置とその制度的特質

唐後牢期の士人にとって藩銀幕職官勤務は完全に常態と化しており、

(4〉

「八僑」やそれに次ぐ校書郎や秘書正字といったエリート・ポストに樟褐した者が藩府の跨召に鷹じる例も少なくなかっ

(

5

)

6)

たという事買である。代宗

1信宗朝における宰相就任者の藩鎮幕職官経験者は質に百%の高率に達する。このようにエリ

ート官僚、或はその議備軍と呼び得る層が敢然と藩鎮の辞召に身を投じて行った背景には、まずもって嘗時の慢性的ポス

7〉

ト不足による鐙選の溢滞と、「循資格」の制による官途の迂遠があり、幕職入仕は、これを回避するバイパス

・ルlトと

しての役割を果たしていたことが考えられる。そして、これに呼腰するように、幕職官には様々な官制上の優遇規定が設

まず確認すべきは、

登龍門たる進士登第の後、

31

けられていたのであった。

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その一は、検校

・兼

・試官の奏請と改轄に閲するものである。元来が「令外」の存在である幕職官には律令官制上の地

(8)

位を表示する肩書きとして検校

・兼

・試の朝官(職事官)が付興された。これは無論名目上の虚衝であるが、しかし形とし

(9)

しかもあたかも正員の官と同様、昇進やその後の官途に影響を

ては歴とした朝延の職事官の肩書きを帯びることとなり、

及ぼす官資として通用した黙に大きな意味があ

った。また、

これら検校・兼

・試官は、府主である藩帥の奏請によって昇

進可能であった。

いま墓誌史料より敢えて無名の官人を以てその

一例を徴せば、以下の如くである。

進士高第、:・:太子正字に調補せらる。故都岳観察使何公士幹、陣附して推官と局し、太常寺協律郎に改めらる。大理

評事、乗監察御史、本道観察支使を歴し、股中侍御史に蓬り、侍御史に轄ず。十数年間、麿管清静たるは、亦た佐幕

(

)

(『階麿五代墓誌髭編(洛陽

二己』

の功なり。

「鄭官同墓誌」貞元二十一年H八O五)

すなわち鄭高は十数年のうちに、都岳磁察使幕下の推官・観察支使を勤めながら、太常寺協律郎↓大理評事↓兼監察御史

↓般中侍御史↓侍御史と、職事官の官責を順調に上昇させてレる。鄭古同の場合、

(

)

逗ベ

l

スであったが、貧際にはかかる検校

・兼

・試官の昇遷は、府主の奏請によって「超越」的に行われることも稀では

(

なく、規定より短い期間で改輔されることもほとんど常態と化していたと魔しい。また、鄭高の歴した検校

・栄

・試官の

(日)

周知の加く

「清官」と目され、官資として極めて重んじられる地位にあるものである。こうし

「十数年」で四遜と

ほほ規定通りの昇

- 32ー

主軸をなす御史蓋の官は、

た幕職下における検校

・兼・試の官資は、その官人が(後述する多薦などによって〉朝廷の正員官に任命される場合、買

際に勘案の封象とされたと考えられる。すなわちこれらの検校

・兼

・試官は、官途の上においてはただの虚衝ではなく、

質際上の数カをもっていたのである。幕職官には朝廷から見て地方監察の任務が合意されていたためか、

大理寺系統の官が付興される例が極めて多いが、

一般に御史蓋や

と同時に、

これは幕職官に劃する厚遇を示すためのものでもあったろ

ぅ。幕職官に興えられる検校

・乗

・試官としての御史蓋

・大理寺以外に自につくのは、校書郎や正字、員外郎・郎中とい

(H〉

やはりエリート

・ポストに属するものなのである。

った、

こうした幕職官に射する厚遇の一背景には

恐らく六朝期の

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「賓佐」のイ

メージの残像があったと思われる。河南副元帥李光弼が幕僚に

「理を惹くして答奔す」るのを見て吃驚した

軍人あがりの泊青節度使田紳功が、開藩後判官の劉位に問いただした所、位は「判官は是れ幕賓なれば、使主、受奔の種

無し」と答えたため、

神功は非躍を謝して一々幕僚に答奔して回ったといい(『封氏関見記』九

蓮善)、

快府録事参軍装瀞

は映貌観察使李勉の宴曾に招かれたがついに赴かず、翌朝勉の詰聞に射し「中丞の使府、自ら賓僚有り。某は走吏なり。

安んぞ之と同じうするを得んや」と答えたので、勉は謝罪の後あらためて「遺かに駕を命じて之を訪い、奔して置くに賓

席に在らしめんことを請う」たという(趨務『因話銭』三〉。

いずれも幕職官の地位の高さを窺わせるに足ろう。

さてしかし、幕職官厚遇に騎せられたより重要な意義は、幕職と中央朝廷官職との聞に恒常的なリクルート回路を確保

し、幕職官を中央官僚機構に繋ぎ留めることにあったと考えられる。そして、それは幕職官に射する優遇規定のその二た

「多薦」の制度に密接に関わるものであった。

「多薦」とは中書門下(宰相〉に選任権がある八品以上常参官について、

現任官に薦奉させるもので、徳宗の貞元四J九年(七八八J七九三)にかけて、薦翠の時期(冬季)、推薦資格を有する官の

(

)

範囲、推薦の上限人数、被薦者に射する口頭試問と評定制度などが定められ、制度として確立されたものである。この制

)

度の重要なポイントは「諸道観察使及び州府の長史」に薦奉の枠が興えられたことであり、これによって諸道観察使すな

- 33ー

わち藩鎮使府下の幕職官を朝廷の正員官にリクルートする回路が制度的に確立されたことである。被薦者の評定と官の注

擬に嘗たっては、嘗然各人の有する官資が大きく考慮された筈であり、この酷、検校・兼・試とはいえ清要な官資を保有

する幕職官にとっては、極めて有利な制度であったと考えられる。かくして正史の列俸等に頻出する、藩府から「入朝し

てOOと震る」||例えば「准察・許昌・梓温

・興元四府を歴佐し、累奏されて兼監察御史たり。入朝して股中と震る」

(『奮唐書』

一六

王質俸)、

「三たび諸侯の府を佐け、股中侍御史を得、緋袋を賜はる。

入朝して右補闘と震る」

(同

一七

牛徽俸)、

「王播

・段文昌相ひ繕いで西萄に鎖するに、

一商皆な職を佐けて記室と帰り、種部員外郎に累改さる。入朝し

33

て工部員外郎と震る」

(同一七六

虚一商停)||』とレった記述には

多薦制による入朝授官を指すケlスがかなりあったで

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あろうと考えられる。ここで注目すべきは、各人の「粂監察御史」

「殿中侍御史」

「櫨部員外郎」といった、幕職時代の

清要な検校・兼

・試官が、入朝後の

「般中(侍御史)」

(

)

まま接合していることである。

入朝前の帯衝が検校

・乗・試という黙を除けば、これらの官歴はあの「入機」乃至それに

衣ぐコ

l

スの上に見事に乗っているのである。

これは前述のように幕職官が

「賓僚」として

の待遇を受けてレたことや、

「右補関」

「工部員外郎」という、

清要なる朝廷の正員官にその

幕職の中でも文筆を司る掌書記や観察支使など「記室」の職は名器あるポストと目されていたことll|李朝『卓呉記』は

(

)

虚簡能

・筒辞・弘止・簡求四兄弟がそれぞれ夏州

・河孟・昭義・那州において「皆な掌記に任ぜら」れたことを以て「按

ずるに、使下の書記は必ず文皐有りて時稿を得たる者を揮びて之に任ず。直街能兄弟四人、並びに嘉選に嘗たる。時に亦

た無比」と記すーーからすれば、異とするには嘗たるまい。

幕職の才彦は朝廷のエリー

ト・ポストにこそリクルートされ

たのである。

とすれば、

卿と帰る者、十に八九たり。

(白居易『自民長慶集』四九「温完卿等授官賜緋充治景江陵剣官制」)

- 34ー

今の俊川人は先ず征鎮に野せられ、次いで朝廷に升る。故に幕府の選は蓋閣を下ること一

等にして、

異日入りて大夫公

是に由り方面の威権は盆々重く、静置の土は朝廷を以て開地と魚し、幕府を謂ひて要津と帰すに至る。遁騰倹忽にし

て、坐して郎省に致ればなり。

(『唐語林』八

補遺)

の如く、幕職官がむしろ昇達の捷路と目されていることも決して故なしとしないのである。

決に幕職からの入朝とは逆のベクトル、すなわち見任の朝廷の正員官が藩府に辞召されるケlスに

ついても鯛れておか

ねばならない。宰相や宰相候補と目される高紐官僚の出鎮ともなれば、その野を受けてパトロンとの私的コネクションを

培うことは、将来渓想される宰相への返り咲きゃ入相の際の引薦をはじめとして、有形無形様々のメリッ

トが期待された

」とであろう。さればこそ、

王起(藍回尉↓李徳裕に鮮され准南節度掌書記。

『奮唐醤』一六四)、

(四〉

柳公縛(吏部員外郎↓武元衡に跨され西川「剣官」。同一六五〉、

直筒能(殿中侍御史↓牛信掃に

陛附され山南東道槻察剣官。同

一六三〉、

李石(兵部郎中↓令狐楚に辞

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畿尉や御史

・郎官といったエリート

・ポスト在任者が敢然と藩府の降召に麿じて

行ったのであろう。見任の御史

・郎官を酔召することについては度々禁令が出されているが、一向に数果はなかったよう

(

)

(

)

である。あまつさえ、宰相の出鎮の際には見任の朝官を辞召することが公認されていた上、「故事、赤尉の相府に従ふは

朱紋

・殿中を得」(『金石牽縞』一一七「孔静墓誌」威遜十五年リ八七四)といった文言を見れば、見任官が僻召された場合の検

校・乗

・試官や賜服については、殆んど定例と稽すべき規定が出来上がっていたことが窺われる。

され太原節度副使。同一七二〉のように、

」れは「血公(一商)大

政を乗執して廟算に掃す。府君相官林の種例を以て、

合に優陸を得るべく、

遂に太常寺協律郎に除せらる」

(『隆編(洛陽一

五〉』

「孫議墓誌」年次不詳)とある府主入相時の奮幕職官(いわゆる故吏)引薦慣行「相幕の瞳例」なる表現と好一封をなす

ものであろう。

かくして

O李方玄二進士登第(賓暦二)↓秘書省校書郎↓「以協律郎潟江西観察支〔街〕使斐誼(大和四J七)観察剣官」↓「裳

公移宣城(大和七〉授大理評事・園練剣官」↓「向書鴻公宿白兵部侍郎節鎮東川

(大和九J開成元)以監察裏行震観察

判官」↓「不一歳、御史府取震員御史」↓左補闘↓

「丞相(李)固言以門下侍郎出鎮西萄(開成一了曾昌元)・:以検校

- 35-

躍部員外郎参節度軍謀事」↓

「徴奔起居郎」

といった例が典型的に示すように、

(社牧『焚川文集』八

「唐故庭州刺史李君墓誌銘弁序」)

唐後半期における官人(特に進士登第、師陣褐秘校から諸問要官に至るような上層官人〉

におい

ては、幕職↓入朝↓幕職↓入朝の如く、

いわばジグザグ

・コlスを辿りつつキャリアを上昇させて行くことが常態と化し

ていたのである。

このような藩鎮幕職官のあり方は、

全瞳の中に有機的に組み入れられたことを示していよう。

一言でいうならば、

それが中央官僚機構にしっかりと繋ぎ留められ、唐朝官僚制度

今の諸侯、賓府に延して賢俊を躍するも、

壷くは能く簿謀・縛姐の事を備ふるに非ず。

己。藩方の有事に至りでは、能く危を済ひ難を静める者有ること鮮し。

徒だ官秩

・康食に繋がる而

35

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(『陸編(洛陽一四)』

「張信基誌」大中四年リ八五O)

と記された墓誌の一文は、

任地にあって「官秩」と「康食」、

すなわち官資と俸旅にのみ腐心し、

『唐曾要』御史蓋篠によれば、大暦十四年(七

「藩方」ではなく中央

に顔を向けた往事の幕職官の姿を、巧まずして寓し出していよう。

また、

七九)と元和五年(八一

O〉には諸道の節度・観察使に判官一人を選んで郵騨を専知させる旨、

護令されており(『唐曾要』

ノ、

御史啓一中・館騨)、

大和四年(八一二

O)には御史中丞魂蕃の奏により、諸道州府の百姓の寛罪等の訴えに劃しては「諸

選観察使幕中の剣官」の「憲街を帯する者」に推劾を委ねることが裁可されている(同六二

御史肇下

・推事)。また李肇『唐

園史補」下「用使下御史」僚は、大朝舎時に「監察御史の押班足らざれば、則ち使下御史の朝奏に因る者もて之を掻せし」

(幻)

めたと記す。こうしたことからすると、藩鎮幕職官における憲官は、ただの虚衝ではなく、中央御史蓋本来の任務とも臨

機に結びつけられていたのである。こうなると、検校

・兼

・試の官はただに肩書きや昇進の目途を示す「虚」街と見えて

(

)

さにあらず、場合に麿じてこれを「寅」任に充てる唐朝の官制運用は、むしろ巧妙とさえ評し得るのではあるまいか。

こうした入念ともいえる手績きを経て、藩鎮幕職官と中央官僚機構の接合をはかった唐朝の、そこに識された意園は何

であろうか。それは安史の凱の鬼子たる中央に劃する強大な遠心力としての藩鎮を、

- 36-

内側から牽制することに他なるま

ぃ。幕職官の意識や志向が常に中央朝廷に向けられていたとすれば、

それは藩鎮を中央の統制下に組み入れる「見えざる

求心力」として作用したに違いない。それは例えば、有名な漸西の藩帥李錆の叛凱に際し、

(虚)坦毎に之と争うに、詞深切なれば、聴く者皆な之が矯め倶る。累ねて去

るを求むるも得ず。九そ錆の府に在ること七年、官改められず。錆の悪賦滋々大なれば、坦難に及ぶことを慮り、叉

(李〉錆行なう所、多く法に循はず。

た力を以て争ふ可きに非ざれば、遂に斐度

・李約

・李稜と興に繕いで以て罷去す。

(李錫『李文公集』一一一「故東川節度使虚公坦俸」)

といった虚坦

・装度らの行動のように、或はいよいよ叛観勃護の局面において「中使と輿に頻りに之を品嚇して」錆に入朝

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)

を促して殺害された剣官王携の行動のように、或は反蹴の撤文を書くよう迫られながら「伴り情れて管を戟はし紙を揺ら

(お〉

せば、札に下すに皆た字たること能はず」という態を装

って虎口を脱した李紳の行動のように、具瞳的な姿となってあら

(お)

われることになろう。

一般に九世紀以降、河朔三鎮のような「反側の地」を除く「順地」の藩鎮は「官僚貴族的支配」の

(明む

もとに組み込まれたと評されるが、それはただに藩帥の出自というのではなく、右の如く幕職官をも含む落鎖権力の上層

構造全瞳の問題として、その寅相を把握すべきであろう。

さて、ここで幕職官と糟稿される藩鎮幕下の職について、もう一つ確認しておくべきことがある。それは、使下の幕職

には、前項で述べたような「幕賓」「賓僚」と稽されるような上級幕職官と、むしろ吏職的存在ともいうべき下級幕職官

の二系統の職制が、明らかな質的差異を以て併存していたことである。元来、藩鎮幕職官は令外の制であることもあって

か、従来かかる職制の位相差については明確に指摘されて来ず、商者を一括混同して扱うような傾向もまま見られる。例

えば『新唐書』四九下職官志は、節度使下の幕職として、副大使知節度事・行軍司馬・(節度)副使・判官・

支使

・掌

書記・推官・巡官

・街推

・同節度副使・館騨巡官

・府法直院官

・要籍・逐要・親事を列奉する。しかしこの記事は、同節

(お〉

度副使は加競に過ぎず、府法直院官は唐代の史料上ついぞその名を見ないなど、あまりに問題が多い上、巡官以上の上級

(mU)

幕職官と街推以下の下級幕職官を同列に併置するという典型的弊に陥っている。上級幕職官、すなわち前項で見た如き中

諸使雑録上、貞元十六年十二月の敷に、

- 37ー

央官界と密接な相互交流回路をもっ「賓僚」とは、

『唐舎要』七八

諸道観察・都圏練・防禦及び支度帥{呂田・経略・招討等の使の、

麿に奏すべきの副使・行軍

〔司馬〕・剣官・支使・参

宜しく三週年以上にて改轄を興へよ。

(

)

「蓋省の官」の「改轄」についての規定が明記される範圏のものであり、或は同七九諸使雑録下、倉昌五

年九月の中書門下奏に「諸道剣官の員額」として、次掲表1の如く、その員数が明示される範囲のものである。

「剣官」

などと融穏されるのはかかる上級幕職官であり、唐朝朝廷はこの範圏の幕職官にいわば「蓋省

謀・掌書記・推官・巡官の、蓋省の官を改轄するを請ふは、

とある如く、

37

史料上「従事」

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諸使雑録下,曾昌五年九月中書門下奏による〉

観察使 クフス 5 (奮 6) 園練局11使 ・判官 ・観察判官・支使・推官

節度使クフス 6 (奮 8) 節度晶IJ使・ 判官 ・掌書記 ・推官 ・観察判官・文使

幽州・ 1笛青 7 (萄 9) 上記に+虚龍節度推官[幽州J/押新羅j勃海巡官 [泌青]

准南・ 1可東 8 1/ +巡官 +営 団判官[准南J/留守判官 [河東]

西川 8 (奮 12) H +巡官+雲南判官

幕職の定員(u"唐舎要」七九表 1

の官」に準ずる官人としての慮遇を輿えていたと考えられる。作州における韓愈(観察推官)、准

中晩唐の文事史上に名高い文人の

南における杜牧(掌書記)、

郡州における李一商隠(巡官)など、

幕職入仕も無論この範固に属するものであり、通常「幕職官」なる語でイ

メージされるのは、か

かる上級幕職官の謂である。本稿もまたこれまで「幕職官」をかかる上級幕職官の謂として用い

てきた。

しかしながら、藩鎮幕下には、前掲のような検校

・乗

・試官の改轄規定の候文にはつレ

ぞその名が見えない、街推・要籍

・逐要、或は孔目官・騒使官

・随軍などの一群の職名が別個に

存していたのである。こうした下級幕職官の貫態については、あらためて詳考を要すべき問題で

(補註)

あり、別稿に譲りたいが、これらの職はいわば「幕吏」とも稿すべき吏職的存在であったことは

『通鑑』一一一六

疑いない。例えば孔目官は、

天資十載二月篠の胡注に「孔目官は街前の吏職な

皆な其の手を経由するを須むるを言ふ

- 38ー

唐世始めて此の名有り。

九そ使司の事、

一孔一目

なり」

といい、

また創南東川節度使となった柳仲野の俸(『奮唐書』一六五)に

「孔目吏溢章簡な

貨を以て近倖と交

」とある如く、

(紅)

(

M

M

)

「孔目吏」

とも稽されるように、藩政の庶務部長ともいうべき存在であった。市してそれは、

る者あり。

前後の廉使、

しばし

『唐園史補』

上に見える韓混と劉元佐のエピソ

ードに、

韓忍日公、江東白り入観す。:::是の時、劉元佐、大梁に在り、個強にして制し難し。混、必

ず朝観を致きしめんと欲し、

日、大いに金吊を出して賞必討すれば、

結びて兄弟と篤り、

入りて其の親に奔す。車を駐むること三

一軍之が痛め傾動し、元佐敬伏す。乃ち人をして密か

に混を聴せしむ。視、夜孔目吏に問ふて日く

「今日費やす所多少ぞ」と。詰責すること頗る

細なり。

元佐笑ひて之を都しむ。

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「幕賓」として使主と抗躍する文筆系上級幕職

官とは、明らかに異質な範暗に属していた。要籍・逐要など他の職掌につレては後節に譲るが、いずれにせよ吏職的存在

であったことは疑いなく、藩政機構における下級幕職官の地位は、「官」(流内)たる上級幕職官に劃して、むしろ「吏」

とある如く、経理の細部について詰責されるような存在だったのであり、

(流外〉に近いものであったと考えられる。かかる貼については、後節であらためて論及したい。

11

准南

・祈西藩鎮における幕職官の人的構成

さて、話を藩鎮辞召制の問題に戻せば、従来「貴族制に劃するアンチテーゼ」

において、或は牛李の黛争における「ピラミッド型黛涯」という文脈において語られて来た藩鎮幕職官とは、専ら中央官

「新興層の官界進出の階梯」という文服

界と相互交流回路を保持する上級幕職官の謂であ

ったと考えられる。しかしながら、前節で見たように、幕職官が中央官

界と密接にリンクされ、むしろその昇達の回路として位置づけられ、

「幕賓」たるその地位も決して低くはなかったとす

- 39ー

ると、所謂在地の「新興層」がたやすくこれに辞召され得るものであったかは、あらためて検討を要する問題となろう。

(

)

あまつさえ、前掲表1に見るように、

上級幕職官の定員はさなきだに多くはなかった上、

令狐楚・::弱冠にして準土に雁じ、貞元七年登第す。桂管観察使王扶其の才を愛し、躍を以て僻召せんと欲するも、

楚の従はざるを健る。乃ち先に聞奏して後ち聴を致す。

(『奮唐室閏』一七二

令狐楚停)

羅譲、

父憂に丁る。

喪服既に除かるるも向ほ航衣茄茶し

四方の辞に従はざること十年たり。

李郎准南節度と漏る

に、其の家に就きて奔して従事たらんことを請ひ、監察御史に除せらる。

(宋本『加府元勉』七二九

幕府部・僻署四)

(

)

とある如く、藩帥たる者、天下の僑才・名士をこそ帯して藩府の撃墜を高からしめんものと腐心していたのである。市し

て著名の才彦を多く幕下に抱えることが出来れば、「幕府皆な一時の高選」と稿された漸西・李栖錆の幕を皮切りに(『新

「其

・昼前の幕

裳胃停〉、

多く名流を得、

-・・幕中の士、

39

唐書』

一一一一

O

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40

(『奮唐書』一八八

佳街俸)、

「開府一時の選を極む」

と稽された西川・武元衡の幕(同一五八

武元衡傍)、

辞する所「皆な

一代の名流、其の興にする所を親て人士之を重ん」

じたとレう宣教

・王質の幕(同一六

王質傍〉、

宰相が縁者を幕職に

請託したのを担否して「故に其の僚佐:::嘗時の濯を極む」

と稿された江西・沈傍師の幕(『新唐書』一一一一一一

沈俸師俸)等

「盛府」の名を天下に博して、

よく府主の面白を施したのである。

さて、

このような幕職官(以下、特にことわりのない限り「幕職官」とは前述の上級幕職官を指す)に、果たして在地「新興

層」が食い込み得るものであったかどうか、この間題に迫るには、

一一潜の幕職官在任者を可能な限りピγ

・ア

ップ

その人的構成を吟味することが、

さしあたり取りうる手段であろう。

そして

その事例として最も適合的と考えられる

のは、農業生産・流通経済南面での最先進地帯として、唐朝財政の背骨を捨った「重賦の地」すなわち江准の藩鋲となろ

(お)

ぅ。かねて指摘される如く、そこには「地主・富一商・土豪」といった在地有力者層の族生が見られ、彼らが「影占」など

(町四〉

を通じて藩鎖権力機構への食い込みをも圃っていたことが知られるからである。こうしたことから本節では、江准を代表

する藩鎮である准南節度使と新西観察使を取り上げて、その幕職官の人的構成を分析することとした。なお、准南は節度

(

)

使クラスの藩鎮(しかも西川や河東と並んで

「宰相回朔の地」と稿される重鎮)、

- 40ー

漸西は観察使クラスの藩鎮であり、

かる藩鎮の格式の差が辞召される幕職官の階層にも反映されるのか、この貼も雨鎮を選んだ理由の一である。

(

)

まず幕職就任者については、戴偉華氏の務作に加え、正史

・文集

・地方志

・墓誌類から可能

次に分析の方法であるが、

な限りピック

・ア

ップに努めた。封象とする時期は、安史の凱後の藩の成立時より、寅由来の凱によって唐朝中央政権が崩

壊する康明元年(八八

O)頃までとした。

こうして抽出した准南

・新西南藩の幕職就任者について

さらにその

「山凶向口ー」

「出身」を調べて一覧データとしたものが、次頁以下に掲げた

{潅南藩鎮幕職官在任者一覧表}

{湖西藩鎮幕職官在任者

一覧表

である。ここにいう「出自」

「出身」とは、以下のような匡分によっている。表中の記競等も含め、以下簡単に

説明する。

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41

;佐南藩銀幕職官在任者一覧表 (756~879)

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- 41ー

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43

溺西藩銀幕職官在任者一覧表 (756~879)

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- 43ー

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44

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- 44-

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まず「出自」については、

U32吋三円口

Z2・吉岡員雨氏によって提示された、

(鈎〉

「庶姓」の匡分を採用している。

「問リ間山口同三。ロ白戸白司一∞円。円円何回ロ可」

「郡姓

U円04Hロ円-同一山江明党)円一円白山一可」

「門閥」とは、

八世紀の柳芳「氏族論」(『新唐書』一九九)に奉げる約三

Oの大姓貴族を呼稽する。具瞳的には以下の

各氏である。

〔※括弧内は『新唐書』宰相世系表、

『元和姓纂』による郡笠を示す。〕

【開中系}章(京兆)・裳(河東)・柳(河東)・醇(河東)・楊(弘農)・杜(京兆・裏陽〉

・元

(河南)・長孫(河南)・

{山東系]

字文(河南)・陸(河南)・源(河南〉

・費(河南

・扶風)・李(臨西・宗室〉。

王(太原)・崖(博陵・清河〉・直(箔陽)・李(越郡)・鄭(策陽〉。

O「郡姓」

とは、 王

(破邪〉・謝〈陳郡)・衰(陳郡)・粛(蘭陵)・朱(呉郡)・張(呉郡)・顧(呉郡)・陸(臭郡)

地方レ

ベルで家の名望が認識されていた、

ほぼ中小貴族と見なされる層である。

{江左系}

「土・庶」

医別の上からは

「土」

と認定されるものであり、

遅くも南北朝末期には官界に進出していたという意味

- 45ー

唐代の各種郡望表

・郡望記事類(①『太卒笈字記』の姓筆記事、②『庚韻』の姓筆記事、③北京

(

ω

)

園書館蔵・敦煙文献「位字七九挽」、④大英園書館蔵・スタイン敦煙文書ω-NO巴)は、

「新興層」

円、

+ihp

ム、。

『色、

'v・ナJ

】V

こうした

「郡姓」居の範圏をほぼ反映

た♀し。)た

ものと考え

られる

「門閥」以外で、各人の姓と出身地がかかる郡望表類に照らして一致する者を

「郡姓」とし

衣に

「出身」、すなわち任官経途については

×

「庶姓」とは、各人の出身地が郡望表類に一致しない者を指す。所謂「新興唐」と重なりあう部分と考えられる。

(

)

徐松『登科記考」及び羅縫組

「登科記考補」に

特に科奉登第について

よって登科〔進士企・明経ム

・諸科マ

・制科V〕の有無を徴した他、墓誌に登科の記載があるものはそれも採用した。

こうした作業の結果、進南でのベ

一三一名、新西で同一

O五名の募職就任者を閲し得た。もとより一世紀以上にわたる

45

期間としては数量不足の感を否めないが、それでも相封的な大勢を窺うには足る数ではないかと思われる。今、

この

J

l

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46

タに基づいて、准南・新西雨藩における幕職官の「出自」

「出身」を整理すると、衣の表2表3のようになる。

」の表から窺う限り、

一見してまず明らかなのは

「門閥」層の匪倒的優越(准南で全鐙の必%・掘削西でω%を占める)であ

り、同じく科傘(特に進士)出身者の卓越であろう(准南でU%〔進土4%〕、新酉で日%〔進士必%〕)。

加えるに「郡姓」が准

南で

2Mm、新西で幻%となっており、雨藩とも貴族層だけで全瞳のほぼ三分のこを占める計算となる。出自不明の却%ほ

どを考慮するにせよ、「庶姓」層の准南川Hum-新西日%という数値は、幕職官が在地「新興層」の官界躍進の階梯となっ

たとは単純に認め難いことを示している。次の表4は雨藩において江准出身者の占める比率を示したものであるが、総数

としても准南

・新西ともにH%と、その比率は低い上、

「庶姓」層における江准出身者は准南で一八人中六人、新西で一

二人中六人にとどまっている。

無論こうした結果については、残存史料の偏りの問題を考慮しなくてはならない。例えば、墓誌類にしてもその匪倒的

多数は貴族層の所震に出るものであり、

一介の「新興唐」出身者が何らか

の文字史料に記録とな

って残る確率はなるほど

- 46ー

唐後牢期において官途への登龍門となった科傘(進士

(時)

科)が、詩賦という貴族的教養が考試の主たる内容となり、宋代以降と遣って試験官への事前運動(行各)など様々な「閥

(

)

節」

Hコネクションが公然と或は隠微に作動したこともあって、結局貴族居の自家薬龍中のものとされてしま

った事寅で

(MM)

「新しい官僚層を生みだすよりは、衰退におもむかんとする醤貴族層の補強工作であるかのごとき様相を呈した」

低いものであったに違いない。

しかし、ここで考えてみたいのは、

ある。

とまで評される唐代科奉の狭き門の前に、「孤寒」の士はしばしば涙を呑む他なかったのである。とすれば、前節で見た

如く科奉(進土)登第の延長線上に位置する昇達コ

lスとなっていた幕職官に、在地「新興居」

がいわば横合いから参入す

かかる昇達コ1スの蹄結先

ることは、果たして容易であっただろうか。次の表5は、中唐期(七五五J八一一六)における、

ともいうべき中央橿要官職(宰相

・吏部向書

・吏部侍郎・戸部侍郎リ財務領使・穫部侍郎・左右丞

・中書合人

・給事中・翰林皐士)

(MW〉

かつて筆者が行った人的構成の分析を表示したものである。その特徴は、

について、

「門閥」層の驚くべき勢力回復の様

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表 2 i佐南落鋲 (756~879) の幕職官出自

門関 郡姓 庶姓 不明 言十 ( % 1

門 蔭 18 7 2 。 27 (21 %1

科書量[進土] 28[24] 18 [16] 9[ 9] 6[ 6] 61[54]: (47%[41%]1

その他 2 。 4 7 ( 5 %1

不明 7 3 2 23 35 (27 %1

言十 55 28 18 30 131 ーー・ー------ーー----------・・・-ーー---ーーーー・ー・ー・・

( % 1 【42%1 (21 %1 (14 %1 (23 %1

表3 新西藩鎮 (756~879) の幕職官出自

門閥 郡姓 庶姓 不明 言十 (% 】

r~ 蔭 12 4 。 17 : (16 %]

科暴[進士] 26 [21] 22[20] 4[ 4) 2 [ 2) 54[47): (51 %[45 %]]1

その他 2 2 2 7 ( 7 %]

不 明 2 3 2 20 27 (26 %1

言十 42 28 12 23 105 ーーーー------_._-ーー・・・・・帽ーー--・ーー---・ー ---______0 ( % ] (40 % 1 I (27 % 1 I (11 %] I (22 % ]

表4 准南 ・新西落鎮の幕職官における江准出身者(含・江左系郡望)

准南(i1制身者/総数)

漸函 ( 11 / 11 )

言十 (%]

18/ 131 (14%]

15/ 105(14%]

表 5 中唐期 (755~826) における中央植要官職の人的構成

門閥 郡姓 庶姓 不明

46 % (41 %1 I 22 % (22 %1 I 28 % (36 %1 I 3 % ( 1 %1

59 % (60 %1 I 23 % (23 %1 I 16 % (15 %1 I 2 % ( 2 %1

※渡遁註帥論文による。[ 1内は科書露出身者を100としたときの割合(例えば,粛~順宗朝の「門閥」の [41%1は,同時期の中央植要官職就任者で科奉出身者のうち,41%が「門閥」の出自であることを示す。

※中央極要官職は,宰相(同卒章事〉 ・吏部向書・吏部侍郎 ・戸部侍郎(財務領使〉・躍部侍郎 ・左右丞 ・中書会人・給事中・翰林率土を指す。

- 47ー

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襲寵中のものとされ、

相であり、科翠出身者の比率の急速なる上昇である。このことは安史の観後の科翠が完全に「門閥」貴族居によって自家

まさしく彼らが「新興層」を押しのけて勢力を回復する足場となっていたことを示している。かか

48

「庶姓」の構成比率は、准南・断西における幕職官におけるそれと驚

くほどよく似かよっている。科翠出身者の比率の高さもまた然りである。これらのことを重ね合わせてみると、前掲の准

る中唐期における中央橿要官職の「門閥」

「郡姓」

南・新西落鎖における幕職官の人的構成の分析結果は、

やはり大勢のありょうを反映したものと見て差し支えないのでは

ないだろうか。

その家世の吠況が判明する者を何人か取り上、け、その相貌

(U)

を探ってみたい。まず、李徳裕が孤寒俊英の土を奨抜した例としてしばしば奉げられる劉三復(前掲一覧表1准南ummω

、湖西

ここで雨鎖における「門閥」層以外の江進出身者について、

M

川臼叩)から。三復は潤州句容の人、長慶中、湖西在任中の李徳裕に「業とする所の文を以て郡に詣りて干謁し」て辞召さ

れて以来、徳裕の故吏として形影相伴したと惇えられる(『奮唐書』一七七

(必)

劉三復は潤州金壇尉の任にあったとする史料があり、これに先立つ元和の末年に、融州軍事判官・前太常寺奉謹郎であっ

(川間〉

たことを停える史料もある。在地の布衣の士、が自身を以て辞召された詳ではないようなのである。また三復が「少くして

『新唐書』一八一一一

劉鄭惇)。

しかし、辞召嘗時の

- 48ー

孤貧」にして、慶疾にあった母に孝養を童くしたと俸えられ(嘗博〉、潤州丹陵郡の郡姓に劉氏が奉げられること(『庚韻』)

からして、三復は在地の新興層の出というよりは、零落した地方貴族(士族)の出であったと認むべきように思われる。

次に、羅一謎(准南M

川町山)

は越州舎稽の人であるが、

父璃は京兆手にまで登っている。

一設は準土・宏僻・制科に連捷して

威陽の尉となったが、前述の如く、父の喪に際して出仕せ,さること十能年、節帥李郁に懇望されてようやく出庫した(『醤

唐書』一八八

『新唐書』一

九七

同俸)。

羅氏は庶姓の出と見られるが、

やはり布衣の士が一朝一夕に昨召された誇では

ぃ。同じく江南の庶姓の出と見られる呉丹(祈西川川日)ーは準土出身、

父詮は太子宮門郎、組庶は睦州可馬、

「故鏡州刺史呉府君紳道碑銘弁序」)、晩唐の詩人羅隠〈准南町川川〉は杭州新城の人

曾祖覧は太子

通事舎人であったといい(『自民長慶集』六九

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父修古は開元櫨奉に翠げられたという(『唐才子停校婆』九)。

さなきだに多くはない江准の非「門閥」出身の幕職官のうち、在地の新興層が藩鎮擢力機構の中植に一躍

進出して行った如き痕跡を示す事例は殆んど徐詮し得ず、かえってかかる非

「門閥」出身者にしても、文皐や理教といっ

であるが、租知徴は一幅州一隅唐令、

このように、

た唐朝官僚制支配を支えるオ

ーソドックスな文化的債値を僅現していたが故に畔召されたという様相が見てとれる。但し

准南・斯西においても、責出衆の範の猛威の前に長安が失陥した贋明

・中和の前後、すなわちかの藩帥高餅の頃になると、

(

)

)

「池州薩貫之子」とされる顧雲(漸西山川町田)、「都陽の人。世々商倦と震る」とされる呂用之(岡山川町むなど、明らかに新興

やがて轄従先の准南でその藩政

層と目される人物が幕職官に就く例が認められる。

後者が率いる

「妖人」

グループは、

を墾断するに至り、迭には高餅を悲惨な最期に追い込んだことはあまりに有名であるが、近年山根直生氏は、

かかる「妖

人」グループに下層一商人など流通経済末端との接貼を見、唐朝政権の崩壊という局面の中で自立を模索する高餅の、准南

(

)

軍事・財政機構再編の試みの中で一躍登用されるに至ったことを述べている。とまれ、かかる

「新興層」の藩鎮権力機構

における撞頭と飛躍には、彼らの政治的上昇を阻んできた「システム」の崩壊が必要だったのではあるまいか。すなわち

- 49-

幕職官を昇達コ

lスの一環として位置づけて来た官僚制秩序の、唐朝朝廷を中心とする政治H文化的正統性そのものの崩

壌である。

III

野召におけるキャリアと

「関節」

藩鎖幕職官が唐後半期の官界における昇達コ

lスだったとすると、果たしてどのような人物が辞召の封象とされたので

あろうか、本節ではあらためてこの黙について考究してみたい。

(

まず、幕職に辞召出来る者は原則として

「有出身者」とされていたこともあり、進士登第を以て出身を得た者が、前途

有望な才俊として白星をつけられる例が極めて多かったようである。

『唐舎要』七六

貢血争中

・進士、大中二年(八四八)

49

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正月の中書門下奏に

貞元元年従り太和九年秋多前は、皆な是れ及第すれば便ち諸侯の府に従ひ、試官を奏されて従事に充てらる。

とあるのを見れば、中唐期においては進士及第から幕職に辞召されるのがまさに標準コlスであったことが分かる。ここ

に「太和九年(八三五)秋多前」というのは、宋本『加府元亀』六一二二

詮選部・僚制四、舎昌二年四月の制に、

大和九年十二月十八日の殺に准るに、進士-初めて合格すれば、並びに諸州府の参軍及び緊燃の尉を授けしめ、未だ雨

考を程.さ

::近者、諸州の長吏、

豚官に注すると難も、

多く使職に鹿

<. と見える敷文を指すものと考えられるが、見ての通り、進士及第後はまず地方官に任じ、雨考を経てはじめて藩鎮や財務

諸使下の「職」に僻することを定めたものが、一向に規定が遵守されなかったことを示している。

決兄、顕と日ふ。前進士、未だ諸侯の命に及ばずして、疾を以て招園の私第に残す。

(

)

(『洛陽新獲墓誌』一

一一「唐故沼陽慮氏祭陽鄭夫人墓誌銘」大中十二年H八五八)

- 50ー

とある墓誌の記載も、進士登第後は「諸侯の命」に従うのがほぼ既定のコlスだったことを巧まずして示していようし、

胡三省が稿揚する『通鑑』二五

康明元年十月僚の、

霊盗塑州を陥れ

刺史李詞・剣官皇甫鎮を殺す。

鎖、進土に翠げられること二十三上にして中第せず。

之を辞

す。賊至りて城陥る。鎖、走げて人に問ひて日く「使君克れし乎」と。

日く「賊之を執らへり」と。鎖日く「吾れ知

を受くること此くの若ければ、去りて之を賂何せん」と。遂に還りて賊に詣り、寛に輿に死を同じうす。

と見えるエピソードも、進士出身でもない者を辞召することが破格の厚遇であったればこそ、死を賭して恩義に報いんと

する皇甫鎮の心事を理解することが出来るのではあるまいか。

張不疑、進士擢第、宏詞登科すれば、嘗年四府交ごも辞す。

一方、これとは封照的に

江西李中丞凝、

東川李相同

准南李相紳、

輿元鯖僕射

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融、皆な嘗時の盛府たり。

(『唐語林』四

企羨〉

の如く、進士登第・博事宏詞科ハ吏部科目選)連捷の儒才ともなれば、名だたる諸藩から引く手あまたということになる

のであった。

また、準士出身者は幕職就任後の検校・乗・試官の奏請についても優遇されていた如くである。

『唐曾要』七九

諸使

雑鋒下、大和三年十二月の中書門下の奏によれば、幕職官の検校・乗・試官奏請については官資相嘗かつ正員官の歴任六

考以上を必要とし、特に憲官については監察御史・侍御史は歴任九考以上、股中侍御史以上はさらに三考ずつを必要とす

(

)

るという同年五月八日款の規定につき、「京官六品以上の清資官井びに雨府剣官、及び進士出身・卒剣入等・諸色登科も

て授官の人は、此の限りに在ら」.さることが裁可されている。進士出身者や「諸色登科」(登科U授官を原則とする吏部科目

選乃至制科合格者を指すであろう)は、藩銀幕職官勤務↓官資上昇というコlスにおいても、

そのエリートたるのキャリアが

- 51ー

生かされるよう配慮されていたのである。すなわち、官資としての評債や多薦制度などにより、検校・兼・試官が中央朝

廷と密接・巧妙にリンクされて運用されていたのと同様、科奉や吏部科目選とい

った制度もまた、藩鎮酔召制と有機的な

関連をもち、いわば藩銀辞召制の運用の中に血肉化されていたのである。

衣に、辞召はパーソナルな関係であるから、

無論孤寒の俊英を奨抜するような例もあり得たであろう。

しかし現貫に

は、そこに何らかの縁故「関節」が作動する場合も多かったであろうことは想像に難くない。今、諸史料からそうした例

を管見のままに奉げると、次の表6の如くになる。

このように、辞召の現場においては「従高粗兄」や「再従昆仲」といった範聞にまで及ぶ「同宗」や「姻族」、「父時の

故人」、座主|門生関係など、様々な縁故「関節」が極めて強力に作用したと考えられるのである。また、挑膿が女婿の粗

慢のために蓄知の湖南観察使濁狐問俗に請託して「湖南剣官を得」た(『太卒庚記』一五二「趨環虚遜」。出『嘉話鋒』)という例

ゃ、資観が権臣韓混の子婿という威光の故に藩府の辞召を得たとレう例(『奮唐書』一八三

同停)からすると

血縁姻戚と

51

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52

僻召における縁故の事例

縁故 被砕召者 府主(藩 鎮 ) 府主との関係 史料出典

虚 E番 袈 倍 (験中) 表兄 匿編 (浴陽 13)43頁

血 馬 車嘩 呂フ"f.1商 (那岳) 妹婿 唐舎要 78

縁 王土申 王 宰 (河東) 従弟 八寝室金石補正 74

虚 就 虚弘宣(東)11) 従高祖兄※ 千唐 1118

官因 張 競 張沼 (験中) 宗人 千唐 1161

戚 賀 錬 買耽(義成) 宗蕪 キ土陽雑編

孫景裕 主主E貫(嶺南) 外戚 千唐 1178

雀茂藻 雀彦昭(1可東) 「再従昆仲J 千唐 1194

韓綬 李瑞(天徳) 外族※ 千唐 1202{ 国 社{右 重重元甫 (i折西) 故人の子 奮唐書 147

界 寅 牽 子 頗 (山南東道) 故人 加府冗亀 729

で 李 藩 社 豆 (東都) 故人の子 嘗唐書 148

の 路 巌 「父時の故人の方鎌に在る者、交々 新唐書 184

Jヂマ、 之を砕すJ

往 キ土元穎 越宗(需 (山南西道) 門生(宏詞科) 因話銭 2

李壷 鄭 涯(山南西道)_l座主の孫 医編(~ヒJ孔遼寧 2) 112頁

表 6

i)府主との関係は府主から見たもの。ただし※は被降召者から見たもの。

ii)雀茂藻のみは州豚官(太原府交城豚尉〕への畔召例。

備考

有蓄知己というこつの要素が複合して、縁故「関節」

の輸がより大きな範圏へと、浸潤して行くこともままあ

ったに違いない。とすれば

いかなる階層が辞召に有

利であったかは、自ずから明らかであろう。それはす

なわち、修然たる「同宗」の枝葉を繁らせ、

父祖代々

の交佐や婚姻闘係を通じ、官人枇舎の節々に種々のコ

ネクシ司ンを保持している貴族居||それも官界に大

きな勢力を展張する

「門閥」貴族ーーーに他ならない。

前田愛子氏は、

買際、

雨唐書列俸などから牧集した

唐後半期の貯召事例におレて、

一 52-

山東「門閥」五姓(博

陵・清河建氏、活陽虚氏、趨郡李氏、紫陽鄭氏、太原王氏)

相互の辞召が多数を占め、

しかも五姓の進士出身者が

(

)

五姓に辞召される度合いが高いことを示している。畢

寛、幕職官僻召制度は、

かかる貴族社命目的ネットワ

l

クの上に、

いわば幸便に絡め取られるような形で運用

されていたのではなかったろうか。

」うした縁故「関節」によるネットワークは、臨西

...,.... 寸

氏出

李空

語語

警言明日

暫昆ムヘ4 幅

喧を司 E正のヨZ

Z堅塾l薦宅認に めが (

醤唐書

「宗人な

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るを以て」劉膳を翰林事士に薦奉し(同一七七

「故人の子を以て」劉鄭を薦めて翰林

(日)

劉鄭停)、河南資氏出身の宰相費参が賓申や曜興策など「諸賓」を延引し(同一一一一六

劉瞬惇〉、

その劉膳が高珠とともに

事士とし〈同一七七

賓参惇)、

活陽張氏

出身の張中立なる者が

「親外丈人」

たる御史中丞意婚(京兆章氏〉によって「奏されて(御史)蓋主簿と震」り、

(陶宗儀

『古刻叢紗』「唐故宣議郎侍御史内供奉知緊銭嘉輿監事張府君墓誌銘弁序」乾符六年HH八七九)、

弘農楊氏出身の宰相楊牧が媒酌を

務めた臨西の李郁なる者が京兆府参軍から翌年長安尉に改められ、同年夏には監察御史裏行を以て湖南国練判官に轄じ、

翌年には秘書郎を敷奔する(『陸編(北京大皐二〉』一五O頁「李榊妻字文氏墓誌」威遁八年HH八六七〉といった如く、

中央官界に

おいても威を振るっていたのである。『唐園史補』上は、安黄節度使伊慣は「毎に甲族を求めて以て嫁子せしめ」、河陽・

昭義に帥となった李長築は「時名を求めて以て嫁子せしめL

、「皆な自ら署して剣官と寓」したというエピソードを停え

る。これは女婿選びという特殊事情はあるものの、或はそれゆえに、往時の藩帥が人物評慣において如何なる債値を最も

(回〉

重視したかを端的に示していようc

それは名流の「甲族」であり、進士や制科登第がまずは文名・才名の客観的指標とな

ったであろう

「時名」

なのであった。こうして見ると、

さきに掲げた中唐期における中央橿要官職の人的構成の比率と、

-53ー

准南・新商における幕職官のそれが驚くほど似かよった数値を示していることは、決して偶然ではないようである。すな

わち、中央朝廷と密接な官制上の回路によってリンクされていた幕職官の出自・出身も、ほぼ中央の橿要官職の動向に沿

うものだったのであり、このことは「科奉登第↓藩鎮幕職官勤務↓(官資上昇〉↓入朝」という嘗時における昇達コlス

を最もよく自家葵寵中のものとしていたのは、他ならぬ「門閥」貴族屠であったことを物語っている。唐後半期における

り、彼らの中唐以降における政治勢力回復を支える役割を果たしていたと考えられる。中晩唐期における藩鎮跨召制の最

「新輿層」の進出の階梯というより、

大の意義は、むしろこの貼にあったといえよう。

53

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54

IV

藩鎖瞳制と在地「新輿層」

以上に見た如く、藩銀幕職官がエリート・コースの

一理として中央朝廷の官制運営と密接に結びつけられ、むしろ

「門

閥」貴族居の政治勢力回復を支える機能を果たしていたとすれば、従来指摘されてきた「影占」をはじめとする在地「新

輿居」の藩鎖権力機構への食い込みは、

ベき問題であるが、目下の私見によるならば、

どのような場におレて行われていたのであろうか。この黙につレては別に詳考す

かかる「新興屠」の登用や「影占」は、軍職や州豚官、或は吏職的な下級

幕職のレヴェルにおいて展開されたものと思われる。

『文苑英華』四二九の「曾昌五年正月一一一日南郊赦文」に

江准の客戸及び赴移して戸税を規避する等の人、比来雨税に係はると難も並びに差役無し。或は本州の百姓の子弟、

績かに一官を一箔し、官満つるの後に及び、都州に移住して諸軍諸使の恒職を兼ね、使ち衣冠の戸と稽し、贋く資産を

置くも、総税金く軽くして、使ち諸色の差役を売かる。・::今従り己後、江准の百姓、前進士及び登科名聞有る者に

非ざれば、縦ひ官罷むるに因り、職もて別州に居るも、亦た稽するに衣冠と篤さしめず、其の差科色役は並びに嘗昆

- 54ー

の百姓と同じくす。

とある著名な記事において、郊州の「諸軍諸使の偲職を兼ね」て差役を思避し、取り締まりの封象とされたのは「前進土

及び登科名聞有る者に非ざ」る人士であり、すなわち進士

・登科名聞の才彦が集う幕職官以外の者であったと考えられ

る。事賞、

上記赦文にはまた

近日諸道の奏官、

惟だに選部を侵す有るのみに非ずして、

買に亦た頗る倖門を防省く。

向後、准

其の数至って贋く、

南・雨新

・宣

・都

・洪

・荊・

裏等の道は、並びに更に奏請有るを得ず。・::薩そ諸道の軍勝、昨ごろ戦功を酌奨する

に縁り、多く正秩を授くるも、今日己後、戦功に因るに非ざれば、正官を請ふを得ずc

とあり、ここで禁令が出された江南諸藩からの奏官濫請とは、

「選部」すなわち吏部詮選の封象となる州鯨官であり、

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のとき、

「戦功に因るに非ざ」る「軍将」

についてなのであった。このうち州豚官に

ついては、桂管経略使韓依(在任八三五J一一一七〉

めたという例(『奮唐書』

一O一

「邑宰を求」

韓依

「二豪家」が内官の春衣使への賄賂を用立てることによって

停)や、河北・徳州出身の何載なる者が同地を管轄する「横海肱節度使程公(程日華?)に献策して景州参軍を奏授され、

のち景域鯨尉↓行楽陵燃丞↓嬢祭陵鯨令↓節度要籍・擢知市事と轄遷しているような例を見出すことが出来る(『薩編(山

西)』一四八頁「何載墓誌」元和四年H八O九〉。同誌によれば、何載の望を塵江郡と俸えるが、「子孫分散して今徳州安徳豚何

(伺)

氏有り」と記され、徳州との州境に近い景州臨津豚・崇孝郷に葬られているから、ほぼ在地の出身者と認めてよかろう。

なお何載の終任となった節度要籍は後述の如く下級幕職官の範曙に入るものであり、「擢知市事」という兼職から、その

職務の卑俗なることが窺い知れる。・次に「軍将」については、

(鄭〉索、丙子の歳〔大中十年〕を以て河南予自り恩を蒙りて宣教観察使を擢受さる。:::押街李惟異なる者有り、

家道

E富にして、久しく横害を篤し、庖を置きて刺を牧め、卒人を組織す。:::其の子自ら姦綴狼籍に長じ、都押街

石斗門を置きて一百三十戸の水利を絶却し、自ら

- 55ー

握敬能、頻りに来りて相ひ見え、科懲を懇請す。::・討撃使儀雄、

は此の水を取りて濁り己が回のみに漬ぐ。

ハ「全唐文』七九O

鄭蒸

「祭梓華府君神文」)

まさしく『唐大詔令集』七二「乾符二年南郊赦」が「江南の富人、多く一武官

もて一戸を庇せしめ、貧者をして轄た更に流亡せしむるを致す」といい、鄭吉の「楚州修城南門記」(『全唐文』七六三)が

「公財を掌して市に坐し、軍籍を占めて其の家計を蔽ふ」というような存在であったろう。そして、これらに加えて在地

とある押街李惟員・討撃使余雄の輩こそ、

吏職的な下級幕職官であったと考えられる。

屠君及妻賀氏合耐墓誌」乾符六年〈八七九〉に、

府君、誇は成。金城の人なり。・::今、子孫の居を瀦城に卜するに因りて、乃ち瀦人と帰れり。:::租、議は診。節

度表賦孔目官・兼同節度副使・津州長史・検校太子賓客・上柱園・賜紫金魚袋。伯、誇は珪。節度要籍・登仕郎・試

例えば、

『陸編(山西〉』

一七二頁「申

新興層の準出の封象となったのが、

55

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56

右金吾衛長史、右もて節度逐要に補充さる。

とあり、在地瀦州出身の申屠診

・珪が父子二代に亙り漂瀦節度使下の

「表吠孔目官」

「節度要籍

・右補充逐要」となって

(

)

「表欣孔目官」とは文書行政に闘わる事務に携わる孔目官であろうか。また申屠診は、父嘩

光(前誌では光)の墓誌(『陸編

(北京遼寧二)』四九頁「申屠障光墓誌」元和十一年H八二ハ)の書者でもあり、その嘗時の肩書

きは

「昭義軍節度要籍

・文林郎・試左武衛兵曹参軍

・上柱園」であったことからすると、節度要籍は孔目官の下位に位置

いるような例が注目される。

する下級官称職であったと考えられる。

次に

『匪編(北京遼寧二)』

一一四頁「李君墓誌」大中十年(八五六)の墓主李某は、振武軍節度使下において散騒使官

(賓暦初年H八二五)↓正騒使官(大和中H八二七J一一一五)↓節度要籍〈開成三年H八三八)↓節度障軍

(0・)

の如く轄遷してい

「駆使官」はその名の如く様々な用務に差嘗される卑職と考えられるが、これに比べれば節度要籍は上位にあったと

見られる。建中の河朔三鎮の叛飽の折、翼王を稽した幽州節度使朱活が「騒使・要籍官」を「承令」と改稿したことが見

る。

韓公明」 『

房山石経題記歴編』(書目文献出版社

(臼)

の名が、

一九八七)第二部分「大般若波羅密多経」

一七五頁に

- 56-

え(『新唐書』

一一一一一

朱治侍〉、

「節度要籍・使宅判官

『陸編(江蘇〉』

一三七頁

「成君信墓誌」乾符五年(八七八)

に卒直節度使下

「節度要籍

・支計餅斗司」

の職名が見えるが、

前者は節度要籍にして使宅(節度使官邸)

の執事的任務に、

後者は税糧の

出納の務に嘗た

っていたものであろうか。また前掲の申屠珪の職任「逐要」は『京畿家墓遺文』下「刑通及夫人廃氏合耐

誌」中和三年(八八三)に

「白宍誇は羨

0

・・:鎖府の駈要を授けらる。

ハ司を札轄して

威な軌則に規す」とある「駈

(腐)要」と同じものと考えられる。

要籍の上位にあって、諸司鈴轄の任に首たることもある吏曹の要職であった如くで

ゑりヲ匂。

ともあれ、

かかる騒使官要籍|逐要|孔目官という下組幕職の系列は、

いずれ朝官を目指す俊英が僻召され、

藩政の細々とした賓務

・現業に携わる事務

職、すなわちありようとしては吏職に他ならず、

「幕賓」

「賓僚」として程遇され

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る上級幕職官とは明らかに

一線を重す、質的に異なる存在であったことが見て取れよう。

河南牒令賜緋魚袋弘農楊公墓誌銘井序」大中十二年(八五八)に、

『千唐』

一一四

「唐故河南府

河南豚令を擢授さる。故事、口姓を以て軍に入りて便ち軍吏と漏る者有り。上官特に庇すれば、牧宰、之を追ふこと

能はず。公、下車捜訪して悉く郷口口口に補す。

なる記載が見える。

肝腎な箇所が剣誼不能であるが

「口姓」

「郷口口口」

といった字から推せば、

」れは在地の豪民

(「豪姓」

?〉が影占して

「軍吏」となっていたのを排除して、

(臼〉

と誼めるようである。而してここにレう「軍吏」とは、押街や討撃使といった軍職の他、駆使官や要籍のような下級幕職

かわりに郷村の諸色職掌人(里正

・村正〉などに充てたもの

官をも含めての稽謂なのではあるまいか。

さて

ここで注目されるのは、前掲「何裁墓誌」の何載が、州参箪や豚令などの州豚官から節度要籍となり、『京畿家墓

遺文』中「大唐故同経略副使承務郎治州魯城豚令劉公墓誌銘井序」貞元二十

一年ハ八

O五〉

の墓主劉談が、

騒使官↓治州

- 57ー

魯城豚丞↓孔目剣官↓作坊賂↓臨津豚丞lv魯城豚令lv同経略副使粂都知兵馬使押牙の如く歴任し、

の墓主で

「孝廉に郷翠され弱冠にして従事す」と

『古誌石筆』

一五「唐

莫州唐輿軍都虞侯乗押街試鴻艦卿鄭府君墓誌銘」貞元十九年(八

O三)

稽される鄭玉が、「権充本州孔目剣官」↓唐輿軍左虞候↓「累有奔遁、:::職寛都虞候」の如く轄遜していることであり、

これは一般府州の||すなわち畿尉の如きエリート・ポストにあらざる1

1州豚官・下級幕職官・寧職の三者が互いに、通

底する存在であったことを示している。附言すれば、前掲の「李君墓誌」の墓主節度要籍李某の-岨柴崎は「街前兵馬使」、

夫人劉氏の父倫は「節度街前討撃副使」と記され、

長子敬剣は

「街前子弟」、

深州下博勝尉畢茶の子与は義武節度逐要で

あった(『薩編(洛陽一一一一〉』三頁「畢氏妻趨氏墓誌」元和五年HH八一

O〉

この三者は父子・姻戚の閲係においてもしば

しばあらわれる。これもまた、こ

の三者が唐後半期の官僚機構のヒエラ

ルヒ

lにおいて同一の層次に属するものであった

(臼)

ことを示していようc

また、この李某一族や前掲の申屠診

・珪父子がいずれも同一藩鏡下において下紐幕職や軍職に就い

ように、

57

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ていること、或は李某が三十一年の長きに亙って振武軍藩鎮内で下級幕職を樽遷している如く、前掲の劉談が「弱冠の歳

:::公門に従事」して駆使官を授けられてより五十四歳で設するまで、終始治景横海軍藩鎮内で州豚官

・下級幕職

・軍職

を轄遜し、同様に何載が「強仕」すなわち四十にして景州参軍となってより六十七歳で渡するまでやはり横海軍藩鎖内で

州鯨官

・下級幕職を歴任していることからすれば、これらの職がいわば「土着的」性格を帯していたことを窺うことが出

(

)

上級幕職官が多薦によって朝官に築噂したり、府主の轄任に「元従」して他落に祷任したりと、いわば

来よう。それは、

。腰掛け。的に幕府に在職するのとは掛照的なありようであったといえる。

ここにおいて、唐後半期の藩鎮における幕職スタッフの全瞳像がようやく浮かび上がってきたようである。すなわちそ

れは、「幕賓」「賓僚」と稽される剣官

・掌書記

・推官

・支使

・巡官の系列の上級幕職官と、繁細な日常事務を事とする

孔目官・逐要・要籍・騒使官の系列の下級幕職官の二層構造をなしており、雨者の聞には明らかな位相の差が存したと考

えられる。前者は唐朝の中央官制と緊密にリンクされ、朝廷の清要官へとつながる昇達の一ステップをなしていたのに劃

し、後者は「ノン

・キャリア」とも稽すべき下紐職員にして土着的存在であり、一部の軍職や下層の州豚官とも遁底する

いわゆる在地「新興屠」の権力機構への参入は、唐後半期の段階においては専ら後者を舞蓋とし

- 58一

存在であった。そして、

て展開されていたと考えられるのである。

博陵の援威は「少くして林霊の志有り。:::尤も篇詠に長じ、飲酒を好む。風月の毎に孤り静かに吟噺して時を移す。

多く懐恰流沸、酷酔に至れば則ち己む」という人物であったが、鄭徐慶

・李夷簡らの名臣は「皆な幕中に僻して奉ずるこ

と師友の如」くであったという(宋本『茄府元亀』七二九

幕府部・辞署四)。また牛僧掃に辞されて准南揚州にあった杜牧が

「供職の外、

唯だ宴遊を以て事と魚し」、

放蕩の限りを壷くしてなお、その才を愛した借需の手厚い庇護の下に置かれて

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いたことは知られた話柄に属す(『太卒庚記』二七三「杜牧」。出『唐関史』)。

これらのエピソードが端的に示すのは、

藩鎮の

幕中において、或は藩鎮辞召制という政治的かつパーソナルな関係において、如何なる債値が隼重されたかということで

あろう。それは詩賦や四六文に表象される「文事」の才なのであり、或はこれに博く典故を踏まえる儒撃を基幹とした教

養・事識を加えてもよいが、いずれにせよ、すぐれて文化的債値なのであった。賓際、様々な奏文・書肢の起草や、朝廷

や他藩からの使節を迎えての詩の躍酬など、藩鎮の日常において「文周子」は少なからぬ意義を携っていたのであり、これ

となきしめて

とは

戴偉華氏ヵ:詳細

論じた逼そり(こで66にあ)結る vi。れ

る文人相互のチマ

:.x. 友カL

藩鎮をして豊かな文事的生産の場

らに加えて、府中公私の宴席における詩の唱和や、

ここにおいて、嘗時の経済的覇者として勃興しつつある「新興層」が、ただちに藩鎮僻召制を階梯として唐後半期の中

央官界に勇躍進出を果たしたという理解は、柳か素朴に、過ぎると言わねばならぬであろう。この貼において、

PHブルデ

(

(

)

ュlの再生産論を唐後半期||或は一帝政中園期||の政治リ枇舎構造の解明のための一つ作業偲設として導入することに

魅力を感じる。ブルデュ

l再生産論の根幹は、従来の「階級」概念の主軸をなす「経済資本」のみならず、

「文化資本」

- 59ー

「祉舎関係資本」といった要素が

エリート階層の再生産に多大の(むしろ「経済資本」以上の〉役割を果たすというもの

である。南京への集住の準行により在地的経済的基盤からの遊離を強め、九口問官人法の喪失により、

その政治上の特権も

(

)

「文恩T

」や理教という「文化資本」と、身分的内婚制の堅持という

既に自明のものではなくなった唐代の貴族にとって

「婚姻戦略」や代々の官界における安佐によって培った「社曾関係資本」こそが、自らを鎧うべき最後の牙城であった。

しかし唐代、特に後牢期の貴族層は、元来出自を問わず賢才を奉げることを目的とした科奉を奇貨として、そこにおいて

ディスタ

γグ

νオン

(

)

基準的債値とされた「文事」を、自らを他者とん,差別化。する表象として逆手に取り、官界における目ざましい勢力奪

回を成就していった。そしてこれに追風を興えたものは、事前運動や請託が宇ば公然と行われていた唐代科穆の特質であ

59

り、ここにおいて貴族居の保持する「祉舎闘係資本」は、

その威力を存分に護揮したに違いない。

まさしく嘱波護氏の言

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60

うように「(唐代の科奉は〉新しい官僚を生みだすよりは、衰退におもむかんとする奮貴族居の補強工作であるかのごと

き様相を呈した」のである。とすれば、藩鎖僻召制もまた、貴族屠にとり、自らの政治的エリートとしての地位を再生産

するシステムとして幸便に機能したのではないだろうか。藩銀幕職官は、エリート・コ

lスとしての官途の上からも、そ

こで重んじられた「文拳」的債値の上からも、まさしく科奉の延長線上に位置づけられるものであり、その辞召の場にお

いては、

かかる「文化的資本」と並んで様々な縁故「闘節」なる「社舎闘係資本」が強力に作用したことは既に見た通り

である。

としぅ

かくして唐後牢期においては、科傘と藩鎮辞召制をいわば車の雨輪として、貴族層が官界中橿において覇権を回復する

一種崎形的な朕況が現出した。唐末もすでに中和元年(八八一〉、黄泉の凱が猫獄を極める中、宰相から河東節度

使に出鎖した郷従諜は、

その幕僚として兵部員外郎・史館修撰劉崇亀、前司動員外郎・史館修撰越崇、長安令王調、前左

拾遺李渥ら時の名士を陣附して「閉幕の盛、

一時に冠たり。

- 60一

中朝の鱈望せる者、太原を目して小朝廷と帰す」と稽され(宋

(礼)

幕府部・僻署四〉、文徳元年(八八八)、西川節度使章昭度が行営招討使となり、山南西道節度使楊守亮

を副使、東川節度使顧彦朗を行軍司馬として、成都に擦る陳敬殖を討った際、なお「三府各々帳寮を署するに皆な是れ朝

達の子弟」という有様であったという(『太卒庚記』一一六六「王先主遭軽薄」。出『北夢漬言』)。これらのエピソードは、唐後牢

本『加府元勉』七二九

期の藩鎮静召制を風擁していた「貴族主義」を度し難いまでに示しているが、

しかしそれも、朝廷の正員官を求心力の綬

とする官僚制システムと、

「文事」という債値基準に正統性の裏打ちを興えていた唐朝という存在があったればこその話

である。とすれば、唐朝朝廷とその官僚制機構の崩壊とともに、かかる「貴族主義」とその政治的覇権は、さながら貴族

制吐曾の最後の残照であるかのように、はかなく消え去る運命にあった。行管都指揮使に任じられた「賊王八」王建とそ

る。そのアナクロニズムは、

の磨下のむくつけき風瞳を嘘ったという「朝達の子弟」なる幕僚は、

やがて三川の覇者となった王建による彼らの豊殺という形で、容赦なく粉砕されることにな

既にしてアナクロニズムという他なかったのであ

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ろう。

かくして唐極末J五代以降、

かかる「朝達の子弟」なる「軽薄の模寮」が完全に舞蓋より退場してのち、員に宋代

(

η

)

士大夫階級の前身となるべき「新興層」の進出という、藩鎮辞召制の第二の幕が聞くことになる。

61

註(

1

)

璃波護「中世貴族制の崩壊と僻召制|牛李の黛争を手がり

に|(一九六二↓同『唐代政治社曾史研究』同朋合、一九八

六)。引用は同書七三・七四頁。また同書所枚の「唐末五代

の幾革と官僚制」(一九六四↓可愛宕元「唐代後半における

祉禽獲質の一考察」(『東方準報(京都)』四二、一九七一)、

「唐代の郷貢進士と郷貢明経」(『東方皐報(京都)』四五、

一九七三)も参照。

(

2

)

例えば、落鎮を地方行政再編の受け皿や、地方支配維持の

ための中央と地方を結ぶ結節黙として積極的に利用する政策

が進められていたことを論じた、鄭煩俊「唐後半期の地方行

政鐙系について」(『東洋史研究』五一

l三、一九九二〉、

「唐代の観察慮置使について」(『史林』七七

l五、

一九九

四〉、また中砂明徳「後期唐朝の江准支配元和時代の一側

面」(『東洋史研究』四七|一、一九八八)も参照。

(3〉拙稿「中晩唐期における官人の幕職官入仕とその背景」

(松本肇・川合康三編『中唐文皐の競角』創文社、一九九

八)。また松浦典弘「唐代後牢期の人事における幕職官の位

置」(『古代文化』五

O

一て一九九八)も参照。

(

4

)

封演『封氏関見記』三制科(王議『唐語林』八)。「八

僑」は「進土↓校書郎↓畿尉↓監察御史↓拾遺↓員外郎↓中

書舎人↓中書侍郎」、それに次ぐとされるのは「制科↓正字

↓京尉(畿丞)↓殿中侍御史↓補閥↓郎中↓給事中↓中書

令」。

(

5

)

(

6

)

前註(3〉拙稿・三五九頁参照。

(

7

)

「循資格」については、鳥谷弘昭「義光庭の『賃資格』に

ついて」(『立正史拳』四七、一九八

O〉、槻木正「博皐宏詞

科・書剣抜翠科の賓施について|『循資格』を手懸りとして

|」(『関西大塵法皐論集』三七四、一九八七)など参照。

(

8

)

璃波護「唐代使院の僚佐と降召制」(一九七三↓嘱波前註

(1〉室田)など参照。

(9〉『唐舎要』六二御史肇下・雑録に「貞元十二年十月、御

史蓋奏。伏準貞元二年班序穀、諸使下三院御史、有本官是常

参官兼者、印入本官班。如内供奉・裏行、卸入御史班。縁使

下御史絢多、近例並不在内供奉班内。臣等参詳、伏請自今己

後、請使下御史内供奉者、入門日、並依宣徳殿前班位、次員

外郎之後、在正肇監察御史之上、使震常式、庶叶通規。救

旨、依奏」とあり、幕職官など使下の官がハ入朝して)朝舎

に参する時は、まさしく正員の常参官乃至御史などに準ずる

扱いを受けていたことを示す。

(日)天津古籍出版社、一九九一

J九一一。以下「隆編』と略稿。

- 61

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62

〈U)検校

・乗・試の肇省官の改縛は、「三週年」(『唐曾要』

七八諸使雑録上、貞元十六年十二月殺)、「三考」(同八一

考上、元和二年五月の中審門下の上言)、

「三十箇月」(同

七八諸使雑録上、

元和七年七月救〉などと見える。

〈ロ〉『唐曾要』七八諸使雑録上、貞元四年二月教に「諸道幕

府剣官及諸軍将、比奏改官、例多超越」、宋本『加府元勉』

六三二鐙選部

・僚制三、大和元年九月に「貞元・元和関、

使府奏職、至侍御史然後輩本省官。:::請自侍御史後、年月足

後、更始輿省官L

という。

(日)清官については、『奮唐書』四二職官志、『唐六典』二

吏部郎中僚を参照。

(

M

)

ちなみに前掲

一覧表所掲の准南

・新西雨落鎮の幕職官の

うち、検校

・粂・試官が剣明する者についてまとめると以

下の如くである。校書郎8、箸作郎1、監察御使M、殿中

侍御史初、「侍御」

(監察または殿中侍御史

)m、侍御史

白、御史中丞2、御史大夫1、山間書員外郎M、郎中8、大理

評事灯、大理司直3、太常奉躍郎1、太常協律郎4、太常博

士1、太府卿1、殿中監1、

園子助教1、太子司議郎1、府

録事参軍1、「街佐」1、以上である。なお傍線は「清官」

「清堅守口」(三品以上)、他に「八僑」努頭の校書郎と大理

評事(『唐語林』五「畿尉有六道」)にもエリート性が明らか

に看取されよう。

(日)『通典』一五選袋三、歴代制下、『麿舎要』八二冬

薦、前註(3〉拙稿参照。

(日)藩帥にこのような薦摩の権を奥えたのは、代・徳商朝にお

ける「姑息」政策が影響しているかも知れない。『太卒庚

記』一五一「李稜」(出『綴定命録』)は、河中節度使海誠

に野召された貞元二年の進士李綾が、自分の木意は藍田尉を

得ることであり、「使衡に援らば合に畿尉を得るベし。考秩

浅しと雌も、如し公の勅釜山宗重もて特に莱が昼間め奏請せば、

必ず諮はん」と、規定を越えて畿尉を得るべく藩帥の表薦を

求めたことを記すc

(口)『唐舎要』七五選部下・雑庭置に「(貞元)九年十二月

制。自今己後、態諸色使行軍司馬・剣官

・書記

・参謀

・支

使・推官等使罷者、如是検校・試五品己上、不合子吏部選

集、並任准寵使郎官・御史例、冬季開奏」とあり、宋本『崩

府元鑑』六=二

鐙選部・僚制三、元和二年五月の中書門下

の奏に

「其罷使郎官

・御史、任依奮冬薦。其諸道態須薦迭人

等、自今己後、諸郎官・御史者、使及時限、同篤冬薦」とあ

って、元来「冬驚」が適用される者は原則「検校

・試五品己

上」の官資を有する者であったが、六口間以下でも「郎官・御

史」を帯する者は、恐らく「罷使郎官」(臨時に郎官・御史

の官衡を輿えられて地方監察任務に出使した官人〔HH出使郎

・御史〕の任務終了した者〉に準ずる形で冬薦の針象とさ

れたと考えられる。

(四)原文及び『奮唐書』一六一二は「弘正」とするが、

『新唐

書』七三上・一七七などに見える

「弘止」が正しいようであ

る。『通鐙』二四

O倉昌六年八月燦「考異」参照。

〈ω)「剣官」は、

掌書記や観察支使などと並ぶ幕職官の職名の

一つであると同時に、幕職官全般の汎稽と

しても用いられ

- 62ー

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た。巌耕望「唐代方銀使府僚佐考」ハ『唐史研究叢考』香港・

新型研究所、一九六九)一八七頁以下参照。

(加〉見任郎官・御史の辞召については、貞元二年(『唐舎要』

五四中書省)以来、大和二年(同七九諸使雑録下)・開

成二年(同前〉と度重なる禁令が出されているが、こうした

重申規定の存在自陸、かえってかかる規定が遵守されていな

かったことを物語る。

〈幻)『唐曾要』七九諸使雑録下、開成三年四月の中書門下の

奏など。

(幻)『新唐書』四八百官志は「朝舎、則率其属正百官之班

序、選明列於爾額。監察御史二人押班、侍御史顧翠不如法

者」というが、『唐園史補』下「御史憂故事」は「大朝曾則

駐察押班、常参則殴中知班、入閣則侍御史監奏」と記す。

(お)前註(口)所掲史料に見るように、藩銀幕職官には、彼らが

しばしばそれに準ずるものとしての扱いを受けた「出使御

史・郎官」のイメージが附帯されていた如くである。

(川品〉『奮唐書』一一一一李鋳停。

(お〉『文苑英筆』七九五沈亜之「李紳停」。

(お)元和初年に唐靭に桓命・討卒された昭義節度使虚従史の掌

書記であった孔践についても「毎乗筆至不軌之言、極諌以篤

不可。従史怒。畿放徐謝病院洛陽」(『奮唐室田』一五四岡

市噂〉という記事を停える。

(幻)松井秀一「唐代後学期の江准について|江成及び康全泰・

表甫の叛鋭を中心として」(『史製雑誌』六六|二、一九

五七)など。

(mxm)『新唐書』は兵志もそうであるが、軍事制度の記述

(特に令外の制に関わる部分)については多くの誤謬を含む

(唐長講『唐室国主筆正』参照)。巌前註(臼)論文も、折角

各幕職の職掌を丹念に迫求しながら、雨者を排別せず、卒面

的な列患に終わっている。なお『遁典」三二職官一四は、

節度使の僚佐として副使・行軍司馬・剣官2・掌書記・参謀

112・随軍4の日乃至ロ員のみを翠げ、流石にこの種の謬

見には陥っていない。

(

m

剖〉『唐曾要』八一考上、元和二年五月の中書門下の上号一口に

「諸道及諸司副使・行軍司馬・剣官・参謀・掌書記・支使・

推官・巡官等、有数充職掌、常検校五品官以上官及牽省官・

三考輿改縛」といい、全く同じ幕職官の範園を記す。なお表

ーに行軍司馬と参謀が見えないのは、これらの幕職が「冗

長」として開成四年(八三九)六月に慶止されているからで

あるハ『唐曾要』七九諸使雑録下〉。

(紅)例えば『通鑑』二二六建中二年正月戊辰僚に見える成徳

軍下の「孔目官胡震」を『奮唐書』一八七下部員俸は「孔

目吏胡震」とする。

(日記)『文苑英華』八

O六察詞立「慶州孔目院食掌記」威逼十

三年(八七二〉に「:::所以因食市集、評議公事者也。篠是

凡在原位、得不遜躍法、奉職司、事有疑、獄有寛、化未治、

弊未去、有益三木彰、有悪未除、皆得以議之、然後可以聞於太

守失」云々という。

(お〉『唐曾要』七九諸使雑録下、開成四年六月の中書門下の

奏は「諸道節度使参佐、自副使至巡官、共七員」と記し、

63ー

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『文苑英華』七八三符載「剣南西川幕府諸公骨局員讃弁序」

貞元四年(七八八)は、験事官(検校・衆・

試官)を帯びる

幕僚口名を翠げ、

『八抽控室金石補正』六八「諸蔦武侯澗堂碑」

碑陰記(一冗和四年H八O九〉は、商川節度使下の幕僚として

行軍司馬

・営団副使

・観察剣官・支度判官

・節度掌書記・観

察亥使

・観察推官

・節度推官

・節度巡官の9名が名を連ね、

同「楊嗣復等洞祭題名弁詩」開成二年(八三七〉は、節度判

・観察支使・節度掌書記

・節度推官

・節度参謀・掻按撫巡

宮の6名を記す。また『金石支編』一

O七「使院新修石憧

記」元和十二年(八一七〉は、徐州武寧軍節度使下の幕僚と

して掻節度副使

・行軍司馬・鋳笹田副使・節度判官・観察剣

口・

支度口口口信田剣官2

・節度参謀

・節度筆書記2

・観察

推官2

・掻観察推官・節度巡官・錆節度巡官

・口口巡官

・掻

支度巡宮

・脇田田巡官掻支度巡官の計凶名を列記し、

『八寝室

金石補正』六五「慶唐観李笈謁岡県廟題記」長慶三年(八二

=一〉は、管慈等州都国練線復一小使下の幕僚として観察剣官

・観

察支使

・観察推官・錆闘練剣官

・掻観察推官・癒翻察巡官2

の計7名を列記する。西川の場合はこれが幕職官の全容でな

い可能性があるが、いずれもロ名の替定員の枠内である。武

寧は8名の醤定員に封し

ω名の超過、耳目慈は5名の沓定員に

釣し2名の超過である。特に武寧の場合、これが幕織官の全

容かつほぼ最大限に膨張した朕態を一示すと思われるが、それ

でも十数名というレヴェルである。なお、開成二年題名時の

西川節度使組問嗣復が入相後、務鎖使府属僚削減の建言を行

ている(『新唐書』一七四楊嗣復停〉ことは、破波前註(

8

)

論文が指摘するように興味深い。

〈引品〉郷密T

節度使高霞寓は「勅業を以て迭に臨むに、府幕を霊か

らしめんと欲して」藍回尉であ?に俊才呂認を掌書記に辞召

しており(『庭編(洛陽

一四)』五四頁「呂譲墓誌」大中十年

目八五六)、「反側L

諸藩においても、成徳節度使王武俊が

名士費常を辞召しようとし(格競言『資氏聯珠集』)、准西節

度使奥少陽が著名な文人奥武陵を辞召しようとした(『新唐

書』二

O三

陵俸)などの話が停えられる。なお拙稿

「紫陽鄭氏裏城公房一支と成徳軍藩鎮|河朔三鎮の幕職官を

めぐる一考察l」(『吉田寅先生古稀記念アジア史論集』

東京法令、

一九九七〉参照。

(お〉「土豪」などと表現される一該時期の「新興層」を皐に「大

土地所有者」というのではなく、表裏さまざまな流通経済に

積極的に関輿した「複合的経営者階層」として把えるのが近

年有力な見解である。大津正昭「唐末・五代『土豪』論」

(『上智史拳』

三七、

一九九二〉、「唐末

・五代の在地有力者

について」「『柳田節子先生古稀記念中園の停統社舎と家

族』汲古書院、一九九一一一)など参照。

(お)「影占(影庇)」については、松井前註(幻〉論文、谷川道

雄「唐代の藩銀について湖西の場合li」(『史林』三五

三、一九五二)など参照。

(幻)社牧『笑川文集』

一O「准南監軍使院膝壁記」に「来罷宰

相、去登宰相」と言う。

(刊品〉戴偉華『唐方銀文職僚佐考』(天津古籍出版社、一九九

四)。向書は全土の藩鎮について、それぞれの幕職官就任者

- 64ー

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65

を各種史料からピック・アップしたもの。但し墓誌・石刻史

料を中心になお補訂の絵地があるようである。

(ぬ)、門司丈円「

02・

UO口広之の空白

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「八世紀前半における唐朝官僚機構の人的構成」(『史拳研

究』一五三、一九八一)、「惰・唐前期における支配階層」

(『史拳研究』一五五、一九八二〉。

(必)これら郡釜表類については、池田温「唐代の郡撃表(上〉

(下)」ハ『東洋皐報』四二|三・四、一九五九・六

O〉、仁

井田隆「敦埋設見の天下姓室氏族譜」(一九五八↓同『中園

法制史研究奴隷農奴法・家族村落法』東大出版舎、一九六

一一)など参照。

(HU)

但し、前代以来ほぼ「貴族」の家柄として祉曾的に認知さ

れていたと見なし得る昌察韓氏・遼東李氏(『新唐書』七三

上・七二上)を「郡姓」に加える修正を行っている。昌察韓

民は、二代績けて宰相を租・父にもつ韓皐が順宗朝の王叔文

一黛に射し「吾れ新貴に事ふる能はず」と放言したエピソー

ド(『奮唐書』一一一九)や穎川系韓民出身の韓愈が昌繋韓民

を「官稽」したこと(竹田龍見「唐代土人の郡望について」

『史皐』一一四|四、一九五一など)を参照。遼東李氏は西貌

八桂園の一員たる関階系の高円である。

(必〉『東方皐報(京都〉』二二四、一九四三。

(必〉唐代の行径の習については程千帆『唐代進士行巻輿文皐』

(上海古籍出版社、一九八

O。松岡築士山・町田隆吉誇『唐代

の科奉と文皐』凱風社、一九八六)参照。

(仏)『唐掠言』六、閲元中の太子校書郎王冷然の上書に「今之

得奉者、不以親則以勢、不以賄則以交Oi---其不得患者、無

媒無黛、有行有才、庭卑位之関、灰随之下」という。「関

節」は現代中園語にいう

hRshたであるが、『唐園史補』

下「叙進士科奉」に「造請権要、謂之関節」という。

(必)腐波護「且貝族の時代から士大夫の時代へ」(一九六八↓同

『唐の行政機構と官僚』中公文庫、一九九八〉五八頁。

(必)拙稿「中唐期における『門閥』貴族官僚の動向|中央福要

官の人的構成を中心に

lL(『柳田節子先生古稀記念中園

の俸統社舎と家族』汲古書院、一九九三〉。

(

U

)

湯承業『李徳裕研究』(蔓湾・拳生書局、一九七四)、主

炎卒『牛李黛争』(西北大皐出版社、一九九六〉など。

(必)『唐語林』三、賞替。

(川四〉『千唐誌曜府議誌』(文物出版社、一九八四。以下『千唐』

と略稽。〉一

O一一一一「前河南府一隔日日豚丞隠西李君故夫人庚卒

劉氏墓誌銘弁叙」〈元和十三年HH八一八)。撰者劉三復は墓

主夫人の「従姪」と稽すが、とすれば唐初の宰相劉群道・景

先や中唐の宰相劉従一を輩出した庚卒劉氏の一族ということ

になる。

(印)計有功『唐詩紀事』六七。なお『唐語林』七

昭…。

(日)『新唐書』二二四下

- 65ー

補遣も参

高餅停。

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66

(臼)山根直生

「唐末における落銀償制の努容|准南節度使を事

例として

l」(『史皐研究』二二八、二

OOOY

〈臼)『唐曾要』七九諸使雑録下、舎昌五年六月の教に「諸道

所奏幕府及州問問官、近日多郷貢進士一実請。此事己曾賛革、不

合図循。且無出身何名人仕。自今以後、不得更許如此、品川、氷

策定例」とある。ここに見られる郷貢進士或は郷貢明経(HH

膿部試落第者)の藩銀への僻召は、愛宕前註(1〉一九七三論

文が強調する如く、確かに唐後半期における一つの新しい趨

勢であるに違いない。そのことを決して否定するものではな

いが、しかし、これまで見てきた上級幕職官に限った場合、

事態は果たしてどうだつたであろうか。右の殺文には「幕府

及び州豚官」とあるが、W節で後述するように、在地「新興

層」の進出の舞蓋は、州燃官と下級幕職官であったと考えら

れるのである。例えば愛宕氏が郷貢進士の藩鎖僻召の典型例

として翠げられた致遡の例(『金石績編』九「大唐故宣州司

功参箪貌府君墓誌銘」元和十年)は河陽節度使下

「懐州参

寧」への僻召であり、李商隠『焚南文集補編』八〈『全唐文』

七七八)

「潟紫陽公桂州署防禦等官牒」に見える郷貢明経陶

襟は

「要籍」という吏職的な下級幕職官(後述)への辞召で

あった。

(UA)

准南・所西藩鎖の幕職官における進士出身者の比率の高さ

は前節で述べた通りであるが、王徳権

「中晩唐使府僚佐昇遷

之研究」(『園立中正大泉皐報』五|て一九九四)は、出

身途径が剣明する幕職官五九四名中、三

O九名が進士出身で

あることを指摘する。

(日〉李献奇

・郭引強編、文物出版社、一九九六。

(日)「卒剣入等」は通常、吏部鐙還の身・言

・書・剣の剣にお

いて優秀な成績を枚めたものと解される(市原亨吉「唐代の

令制?について」『東方祭報(京都)』一一一一一一、

一九六三〉。

(貯)前田愛子「中園の婚姻|唐代の遁婚制限に関する律令をめ

ぐって

」(『東アジア世界における日本古代史講座(一

O)』

摩生社、

一九八四)。

(同己資申は「疏腐」と稽されるが、なお寅参の親信を蒙ってい

る(同俸)。貧参をめぐっては、拙稿

「唐の小説『上清停』

と徳宗貞元年聞における盟問参陵賛の抗争について」(『史

峯』

二、

一九八九)参照。また『唐語林』七補遺は

「令狐

絢以姓氏少、宗族続投者、多慰薦之。何猷是遠近趨走、至有胡

氏添令者。進士混庭錆戯篤詞日、自従元老登庸後、天下諸胡

悉帯令」というエピソードを停える。首時において「同宗」

なるコネグションの果たした役割を考える上で興味深い。

(回)

一方『唐語林』三賞容が惇える、河中節度使鄭光の掌書

記回詞なる者が起草した上表文が宣宗の激賞する所となり、

救命により翰林皐士に抜閉館されようとしたが、「論ずる者以

て進士に由らずと震し、叉た寒士なれば引援する無く、遂に

止む」というエピ

ソードは、まさしく進士というキャリアも

なく、官界に何らの縁故関節もなかった「宮本土」の悲運を示

して徐りあろう。

(印〉載の曾租察は汝州郊城令、租遇は博州録事参軍と惇える

が、父仙雲は

「不仕」という。

(川町)『金石績編』

一一一に枚める著名な「章君靖建永昌築記」乾

- 66ー

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寧二年(八九五)の軍曹司孔目院の列に、「藤頭開訴書状孔

目官」「書吠孔目官」などの職名が見える。なお、申屠診

珪父子や後掲の「李君墓誌」の李某が試左武衛兵曹参軍を授

けられているように、こうした下級幕職官にも職事官が奏請

されることも多かったと考えられる。但し、前述の如く、検

校・量点・試官の改鞠規定の傑文には下級官#職官の名はついぞ

見えないように、これらの職事官は軍将に濫授されたそれと

同様、ほぼ恩典・嘉賞としての意味を出るものではなかった

と考えられる。

(臼)韓公明の名が見えるのは大般若経・巻四七一の末尾で、

「軍部州刺史:::史再新」による各四七

一巻頭と

「幽州虚龍節

度使:::張元伸」による巻四七二の聞に挟まれている。史再

新は節度使元忠(在任八三四J四一〉の一族と考えられ、張

允伸の在任は八五

O年からなので、おおよその年代は推測出

来る。

(臼)郷村の諸色職掌人については船越泰次

「唐代均田制下にお

ける佐史

・里正」(『文化』一二

一1l

三、一九六八)など参照。

なお嘗墓誌の慕圭の名は、父租や歴官、夫人の墓誌(『千唐』

一O七九〉などにより

「牢」であることが剣明する。

(臼)前述の「那遁及夫人腐氏合鮒誌」の墓主遁の次子忠休は

「北山場採研務剣官」、三子忠牧は「左奉勝持押官口七減税

務公事」という。この中探は『匿編(河北)』一一一一九頁「邪

沖及夫人周氏合葬墓誌」天動十年(後梁・乾化三年H九一

=一〉

の墓主邪休と考えられるが、同誌によれば、休は「鎮府

逐要兼山場務剣官」↓「山場賂」↓零加「経略副使」↓「山

場務都知官」↓「深州鏡陽銀逼兵馬使」↓加「街前兵馬使」

の如く昇遜している。また休の次子震は「節度駈使官兼都彊

倉専知官」、三子議は「使院駈使官知職員事」という。

(臼)李徳裕の一一一度の新西在任の都度

「皆な之に従ひL

、また

「徳裕に従ひて滑肇

・西局

・揚州を歴」した劉三復(『奮唐

書』一七七劉鄭侍)等々、その例は枚穆に暇がない。

(伺)戴律肇『唐代幕府輿文民事』(現代出版社、

一九九

O)、『唐

代使府輿文皐研究』(庚西師範大皐出版社、一九九七〉。

(釘〉ピエ

lルH

プルデュ

l

(石井洋二郎謬)『ディスタンクシ

オン

(I〉

(E)』(藤原書庖、一九九

O)。その「ハピトゥ

ス」

「ディスタンクシオン」「文化資本」などの概念につい

ては、石井洋二郎

『差異と欲望』〈藤原蓄広、一九九三)、

宮島喬『文化的再生産の社曾皐』(藤原書庖、一九九四〉も

参照。

(回)ブルデュ

l再生産論の中関史への導入の試みは、明清史に

おけるB川エ

ルマンの「再生産装置としての明清期の科翠」

(『恩怨』八一

O、一九九

一)をはじめ、「ネットワ

ーク」

をキイ概念として宋代の科翠|官僚制を僻敵する卒田茂樹氏

の試み(「宋代の朋黛形成の契機について」『宋代社舎のネ

ットワーク』汲古書院、一九九八)や、漢貌交替期における

「名士」層の存立基盤を文化的諸債値の専有に求める波漫義

浩氏の議論(「三園時代における『文拳』の政治的宣揚」『東

洋史研究』五四|三、一九九五〉などにその影響を見ること

が出来る。特に渡浸氏の議論からは、文化的諸債値の専有こ

そが「貴族」の祉曾的身分を本源的に規定して行くものであ

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ったことが展望々C

れ、大出現興味深い。

(印)唐後半期の貴族が身分的内婚制をなお強固に保持していた

ことは、愛宕一冗「唐代沼陽虚氏研究」(『中園貴族制社舎の

研究』京大人文研、一九八七)など参照。

(初〉『奮麿書』一九

O下文苑俸下に立停される劉資は、「博

同学にして善く文を麗し」、進士登第の後、大和二年(八二八)

の制科において烈々たる官官指強の策文を提出して一朝を捻

らしめた人物である。この劉賀を「令狐楚の輿元に在り、牛

助国痛の褒陽に在るや、僻して従事と信用し、待すること師友の

如」くであったという。前の僅威の場合もそうであるが、こ

のように府主と幕僚の開にしばしば「師友」と稽されるよう

な関係が成立し得たのは、畢覚、雨者の聞に、ともに同じ文

化的債値を鐙現し共有するというシンパシ

ーが存していたか

らであろう。このような文化的指標(及びその歴史的凝縮と

ディスタ

γタシオ

γ

しての身分間指標H

H

4民族。)によって他者を。差別化。

する認識乃至。空気。が支配していた場としての藩銀幕職官

酔召制を考えてみたいのである。或はかく考えて-初めて、何

故この時期に府主が幕職官を「幕賓」「賓僚」として躍遇を

牽くすという一見アナクロニズムのようなことが起きたのか

を、理解することが出来るのではないだろうか。

(引は)『通鑑』二五七文徳元年十二月丁亥係。

(

η

)

その典型が、幽州節度使劉守光の曹官(参軍〉から河東節

度巡官として官界に歩を踏み出したかの鴻道であり(『奮五

代史』一一一六『新五代史』五四同俸)、同じく成徳軍節度

使下の幕職官から身を起こして行った北宋の名臣韓蒲の祖先

であろう(埼の五代の租韓父賓が節度剣官・掌書記、その長

子定僻が観察剣官、衣子昌僻が員定府鼓減令、昌僻の子謬が

庚耳目府氷一済令、その子構が知康州、古川の父園華が宋初に進士

合格と俸える。韓碕『安陽集』四六「重修五代租坐域記」、

『宋史』二七七韓園華惇)。

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(補註)拙稿「唐代藩銀における下級幕職官について」(『中園史

皐』一て二

OOて務定)。

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government hierarchy was establishedfollowing the Warring States period.

The aim of the policy of recognizing merit 勁賢was to establish a

bureaucratic base for the newly rising forces as a counter weight to the

power of the clans and to confirm the status of those forces. Officialposts

were prized as evidence of ability,which along with aristocraticranks,

came to recognized as indicators of status. When it came to supposing

how exalted one might be on the basis of one's office,the Ministers were

placed at the top of the bureaucratic hierarchy。

  

Consistent with the flow of the times, Wei Ran 魏再built his

monopoly of power as χiang-bang in Qin. The cause of his rise was to

be found in his maternal relations with the throne. Because Qin military

supremacy was established during the regime of Wei Ran, diplomatic

relations were of diminished importance and the functions of the χiang-

bang

 

were transformed, becoming the base from which his eχelusive

authority was built up. Lii Bu-wei 呂不章, who had no blood relation to

the sovereign at all,was able to attain further authority by establishing a

fictiverelationship. The traditionalimportance placed on the influence on

blood relations and noble status retained since the Spring and Autumn

period is seen therein.

ARE-EXAMINATION OF THE RECRUITING SYSTEM

IN PROVINCIAL COMMANDS IN THE LATE TANG:

FOCUSING ON THE COMPOSITION OF PERSONNEL

  

IN ANCILLARY POSTS IN HUAINAN 淮南AND

             

ZHEXI浙西

χA^ATANABE Takashi

  

The role of the recruiting system 祚召in the provincial commands 藩鎬

during theTang has heretofore been seen in terms of theories of Tang-

Song transformation, emphasizing its function as providing a foothold on

the bureaucratic ladder for the so-called class of newly risen regional

gentry. In short, these theories generally judge the syste㎡s historical

              

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significance as having an effect antithethical to the aristocratic system.

However, successive revelations of records of tomb in SCI°iptionsmade public

in recent years have provided much new data concerning ancillary posts

幕職. And as a result, it has become clear that the ancillary posts in

the provincial commands `″ereintricately皿d inti°ately linked to the

Tang central bureaucracy and that they functioned as a universal path of

advancement in the bureaucracy, and even as a path that might hasten one

advance into the elite.

  

Based on the above, and through an analysis of class background of

the appointees to ancillary posts in the two provincial commands of the

Jianghuai region, i.e., Huainan and Zheχi,the area of greatest economic

expansion at the time (where it is thought the growth of the newly risen

regional gentry was most conspicuous), this article aims to eχplore which

class appeared on the new stage in the ancillary posts in the provincial

commands and toreeχaminethe received wisdom regarding the recruitment

system in the provincial commands.

  

The following points have been made clear by this analysis.

  

1) In both provincial commands, among those who could be identified

as having been posted in ancillary offices, over 40 percent came from

families that could identified as menfa 門閥, families that had been of

highest status since the period of Northern and Southern Dynasties. And

if the jun xing 郡姓, the class of local nobility, is added, then the total of

aristocratic origins rises t060percent.

  

2)The above situation concords perfectly with the situation marked

by the conspicuous revival of the hegemony of the class of elite families in

the central bureaucracy begun in mid-Tang and the privileged position of

the nobility within the system of recruitment by eχamination.

  

3)The conventional understanding of the signi丘cance of the ancillary

posts in provincial commands・ that they were upper-ranking ancillary posts

servings as a ladder for the advancement for the newly risen local gentry,

should be revised. It seems that the posts which served as the stage on

which this class was to make its advance were set on a lower plane; and

that the posts were menial ones in regional government, military postings

in the provincial commands・ and functionary-level lower-ranking ancillary

posts, which must be distinguished from the upper-ranking ancillary posts。

                  

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