Title 曹錕・呉佩孚集團の興亡 東洋史研究 (1988), 47(1): 81...

38
Title 曹錕・呉佩孚集團の興亡 Author(s) 松尾, 洋二 Citation 東洋史研究 (1988), 47(1): 81-115 Issue Date 1988-06-30 URL https://doi.org/10.14989/154230 Right Type Journal Article Textversion publisher Kyoto University

Transcript of Title 曹錕・呉佩孚集團の興亡 東洋史研究 (1988), 47(1): 81...

Page 1: Title 曹錕・呉佩孚集團の興亡 東洋史研究 (1988), 47(1): 81 …...江南は近ごろ頗る中央に傾き、雲南の唐縫莞・貴州の婁粗銘・贋東の陳畑明・湖南の越恒協はみなひそかに中央と気

Title 曹錕・呉佩孚集團の興亡

Author(s) 松尾, 洋二

Citation 東洋史研究 (1988), 47(1): 81-115

Issue Date 1988-06-30

URL https://doi.org/10.14989/154230

Right

Type Journal Article

Textversion publisher

Kyoto University

Page 2: Title 曹錕・呉佩孚集團の興亡 東洋史研究 (1988), 47(1): 81 …...江南は近ごろ頗る中央に傾き、雲南の唐縫莞・貴州の婁粗銘・贋東の陳畑明・湖南の越恒協はみなひそかに中央と気

曹鍍・臭侃市子集圏の興亡

序一曹銀・呉伺爪子集圏の形成

二王寵恵内閣の成立

三曹銀・奨伺字集圏の動態構造

四王寵恵内閣倒壊の意味するもの

- 81ー

第三革命後、呉侃字は曹鋸の信任を得て巌しい軍事訓練により、自らの統率する第三師を精鋭化し、

曹が直隷督軍に就任してから五箇混成放を編成した。これらの武力をもとに一九二

O年七月には安直戦争において段棋瑞

(

1

)

の率いる安徽波を打倒し、二二年四月には第一次奉直戦争において物量豊富な張作震の奉天汲に勝利した。この問、臭は

安徽涯・奉天振に封抗すベく巧みに反日政治宣停を行い、また、五四運動の波を受けて園民大曾及び園是曾議を提唱し

一九一六年九月に

た。このことは軍事的に湖南省における安徽波軍閥張敬完腫逐戦争にみられるように果に有利に働くとともに新文化運

動・五四運動の活動的な部分と臭との接燭をもたらした。こうして、果の第三師には湖北畢生連合舎の募集により、畢生

(

2

)

(

3

約八十名が入隊したり、あるいは、果自身ク革命将軍。と呼ばれるほどの稽賛をあぴたりするのである。

81

Page 3: Title 曹錕・呉佩孚集團の興亡 東洋史研究 (1988), 47(1): 81 …...江南は近ごろ頗る中央に傾き、雲南の唐縫莞・貴州の婁粗銘・贋東の陳畑明・湖南の越恒協はみなひそかに中央と気

82

だが、彼はそのわずか数年後の一九二三年二月の京漢畿道ストに劃する大揮監を通じ、園民革命期には最大の反革命と

なり園民革命軍に敗北してレった。人はこの果侃字の軍事政治的築光から悲惨への轄落・轄換の絵りの念激さに驚きを禁

(

4

)

じ得ないであろう。

この縛落・轄換をもたらしたものは何であったのか、この轄換の正確な時期はどの時黙におけばよいのであろうか。轄

換の直接的な契機となった事件は何であったのか。いかなるカがこの轄換をもたらしたのであろうか。それは直隷汲内部

の力なのか、

それとも外部の力なのか。その力はどのような動態構造をもっていたのであろうか。さらにこの轄換は逆に

直隷振にいかなる事態をもたらしたのであろうか。

同乗した護衛兵が前を行く願者をなぐった。百的玉鮮の兵隊は決してけんかせぬ。呉の兵隊にはまだ、その援が無いら

しい。その後、町の人々に(奥侃字軍の)兵士の行動を聞いたのであるが甚だ評判がよい。

(5〉

が少々威張りますね。」

「わるいことはやりません

- 82ー

というその後の臭侃字と濡玉鮮の運命を奇しくも暗示するかのようなエピソードは一九一一一一年、第一次奉直戦争後、鴻が

河南督軍として開封に駐屯し、呉が直魯預巡閲副使として洛陽に駐屯していたとき、清水安三が臭を訪ねたときのもので

ある。歴

史はときとしてすぐれた観察者の直観を逼してその後の展開を預示することがあるのであろう。

だが、我々は臭の轄落

・轄換を考察関象とし、先の諸問題を解明するのに直観に頼ることはできず、明確な方法論を持

たねばならないであろう。

およそ北京を握るような大軍閥であれば、その集圏のすべての活動

・政策が従属するような「中園統一戦略」(以下、中

園戦略と略構す)を持っているであろう。中園戦略には劉外面では外交関係及びとりわけ借款獲得の問題が従属し、割内面

ではその軍事政治集圏内における路線

・指導権をめぐる争い、すなわち、北京における政治が従属する形で連動している。

Page 4: Title 曹錕・呉佩孚集團の興亡 東洋史研究 (1988), 47(1): 81 …...江南は近ごろ頗る中央に傾き、雲南の唐縫莞・貴州の婁粗銘・贋東の陳畑明・湖南の越恒協はみなひそかに中央と気

『長報』

一九二二年十一月十九日「臭侭字最近之態度」なる記事に臭のスポークスマンの談話の形で第一次奉直戦争後

の果の中園戦略が出ている。まず、

呉は統一問題は二年以内に必ず達成可能だと考えている。臭は西南に劃しては和卒を、東北に劃しては武力を用い

る。

と述べている。これは嘗一該時期における中園の軍事政治情勢を如貫に反映したものである。すなわち、北京政権を握る大

軍閥及び贋東を握る贋西波軍閥あるいは孫文の政治力を関内における二極とし、これに日本一帝圏主義をバ

γ

クにした奉天

涯軍闘が加わって全中園における三極構造を形成していた。呉の嘗一詔時期における中園戦略は関内における和卒統一策と

開外に削到する武力統一策の統合されたものということができよう。

ついで一該記事には関内和卒統一策の根援として、

江南は近ごろ頗る中央に傾き、雲南の唐縫莞・貴州の婁粗銘・贋東の陳畑明・湖南の越恒協はみなひそかに中央と気

脹を通じており、

四川・鹿西はまだ混沌としているが他日また容易に政拾できよう。西南は自主という形式を取り消

していないが、精神的にもしだいに接近してきている

- 83-

貼を上げるのに封し、開外武力統一策については

東北に至つては奉天涯張作震は具に敗れてから将校を選び兵卒を募集し、軍費を調達し、兵器を購入するなど種々の

準備に全力を注いでいいる。だから、彼が再戦と復讐の奉に出ることはすでに殻見できるのである。そして、特に大患

をなすのはその親日行震である。:::張は馬賊上がりで大義を知らない。有しくも復讐できるのなら、亡園も顧みな

い。だから、武力で撲滅すべきなのだ。

とその要因を述べている。

83

この一九二二年秋における臭の中園戦略は周知の如く遅くとも翌二十三年三月には重大な轄換をみせている。すなわ

Page 5: Title 曹錕・呉佩孚集團の興亡 東洋史研究 (1988), 47(1): 81 …...江南は近ごろ頗る中央に傾き、雲南の唐縫莞・貴州の婁粗銘・贋東の陳畑明・湖南の越恒協はみなひそかに中央と気

84

ち、開内の和卒統一策から武力統一策への轄換である。

嘗一該時期における中園戦略をあいまいにし、北洋軍閥であれば、

必ずいつでも武力統一策をとっているとするなら、首

然のことながら、中園戦略の立案者たる参謀格の人物の存在にも眼はいかず、中園戦略の轄換にも精神は集中せず、

ひし、

ては、

この戦略輔換をもたらすことになった諸要因にも考察は及ばないであろう。

中園戦略縛換には一般的には内因と外国の二つの可能性があろう。この碍換が二十三年三月段階でなされたのであれ

ば、嘗然その最大の要因として二十三年二月の庚東における孫文による大元帥府の成立という外国を上げられよう。

が、筆者の考察によれば、呉の武力統一策への碍換は通常考えられているよりはるかに早く、遅くとも二十二年十二月に

(6)

『密大日記』によれば、嘗一該時期における奉直再戦の動きは否定されている。

はなされている。叉

つまり、奉天汲の動

きに何らかの愛化が起き、

そのために輔換がなされたのではない。したがって、我々はこの轄換の要因を直隷波内部に求

- 84-

めざるを得ないのである。

ここで題名に使用したク曹銀・臭侃字集圏φ

なる語について説明を加えさせていただきたい。第

一に直隷波軍閥としな

かったのは鴻園環をリーダーとする集圏と匡別するためであり、第二に果細川字集圏としなかったのは呉を有力な成員とす

るこのグル

ープの動態構造を把握するには曹銀・鴻玉鮮の存在を無視し得ず、

とりわけ後者をこの集圏の中に組み入れて

考察しなければ解明不能だからである。第三に軍事集圏としなかったのは臭の政策面を代表した人物や臭の政策へ結集し

ていった部分をも考察封象から排除したくなかったからである。最後に曹

・呉軍閥としなかったのは軍閥という固定的静

態的債値観から一旦離れてその集囲の構造及びそれに射する評債をも含めて動態的にとらえてみたいとレう筆者の意向を

表わしたかったからである。

したがって本稿で簡皐のために用いるであろう直譲渡あるいは直譲渡軍閥とあるのは曹鐸

臭侃字集圏の謂である。

軍閥史研究はややもすれば、そのあまりの離合集散の激しさと複雑さのゆえ、簡略化して嘗一該時期におけるその集圏の

Page 6: Title 曹錕・呉佩孚集團の興亡 東洋史研究 (1988), 47(1): 81 …...江南は近ごろ頗る中央に傾き、雲南の唐縫莞・貴州の婁粗銘・贋東の陳畑明・湖南の越恒協はみなひそかに中央と気

重要な成員を考察外においたり、中央政府の動向に決定的影響を輿える可能性のある首都周迭の軍事配置や部陵の擦大・

改編正規軍化を軽視したりして軍事面の静態的整理に陥り易い。また、

園舎・内閣・大総統等の政治機構の第遷もそのも

つ一意味をつかむのではなく単なる整理に陥り易い。だが、あくまでも、中園戦略への諸要素の重層的統合関係の中にこ

そ、軍閥政治の鍵が存するのを確認しつつ、以下、中園戦略の轄換がなされたであろう第一次奉直戦争終結後から、

一九

二三年三月までの時期を臭侃学系内閣の頂黙に位置する王寵恵内閣の成立・倒援と曹銀・呉侃字集圏の動態構造及び雨者

(

7

)

の連動性に焦黙をしぼって考察し、先の課題に答えていきたい。

曹鋸・呉侃字集圏の形成

第一次奉直戦争後、

一九二二年後牢における曹・呉集圏の動態構造を把握する準備として簡単に一該集圏の軍事的形成過

- 85ー

程及び地盤の抜大にふれておきたい。

曹・呉集園は軍事的に二度にわたり機充した。一度目は一九一六年九月、曹鋸の直隷督軍就任後の二・三年聞であり、

第三革命の四川における戦闘で傷ついた第三師が臭の指揮に委ねられて精鋭化するとともに以下の五箇混成娠が作り上げ

られた。直隷第一混成放(放長王承斌)・直隷第二混成放(波長閤相文)・直毅第三混成放(放長薪耀南)・直隷第四混成放〈絞

8)

長曹鋲〉・直隷第五混成放(悠長商徳全〉である。曹鋲の混成放を除き、他の四放は臭の指揮に従った。

二度目は一九二

O年七月の安直戦争の時で安徽波軍隊の大量の投降を受け入れ、これを改編することにより援充した。

直隷第一混成振を第二十三師に、直隷第二混成放を第二十師に、直隷第三混成放を第二十五師に、直隷第四混成放を第二

十六師に改編し、それぞれもとの放長が師長に昇格するとともに、第九師(師長陵錦)、第二十四師(師長張福来)が編成さ

れ、さらに補充第一放が第十二混成放(放長葛樹扉)に、補充第二放が第十三混成放(舷長董政圏)に、補充第三放が第十四

(

9

)

混成抜(政長彰欝華〉に、衛隊娠が第十五混成放(披長孫岳)にそれぞれ嫌充された。

85

Page 7: Title 曹錕・呉佩孚集團の興亡 東洋史研究 (1988), 47(1): 81 …...江南は近ごろ頗る中央に傾き、雲南の唐縫莞・貴州の婁粗銘・贋東の陳畑明・湖南の越恒協はみなひそかに中央と気

86

(

ω

)

地盤の面では直隷のほかに一九二O年六月に呉が第三師の第五娠を洛陽に駐屯させて洛陽を根接地とする基を聞いてか

ら河南省を質質的におさえていく一方、

安直戦争勝利により安徽振の快西督軍陳樹藩を騎逐して閤相文を、彼の死後は、

安直戦争以前より、曹・呉集圏の外様的存在となっていた宜的玉鮮を陳西督軍に据えた。曹・臭集圏が地盤面で大きく飛躍

したのは二十一年の七月から九月にかけて戦われた湘郭戦争によってである。

これにより、

驚耀南が湖北督軍に就任し、

曹・臭集圏は湖北の地盤、武漢の資源及び京漢敏道全線を掌握することになった。

一九一九年春頃形成された曹・果及び

)

江西の陳光速

・江蘇の李純・湖北の王占元の長江三督よりなる新しい直隷波は李純の自殺、湘郡戦争による王占元の混落

により明確に曹・臭を中心とするようになった。

・呉集圏の勢力抜大の根本要因となった軍事訓練の巌格さに閲しては立場の異なる者も一

致して承認する所であ

た。北洋軍聞の悪習をさけ、きわめて巌しい軍紀の下に連日練兵がなされ、強固で訓練のゆきとどレた組織ある軍隊が造

(ロ)

り上げられたのである。

軍事訓練と並んで嘗時の呉を他の軍閥から際立たせることになった彼の政治を推準した者たちにふれておこう。臭の顧

問であった岡野増次郎は臭の人材登用法として、

①長年の部下で優秀な者、

②先賢老練の達人、

一場の曾合で意気投合

(

した者の三種をあげている。この内、前二者は呉集圏の古い鐙質を温存することにな

ったのに射し、第三のグル

ープは呉

- 86ー

集圏内の新波を代表し、嘗時の呉の政治、中園戦略を立案じていた。第一次奉直戦争後、洛陽の巡閲使署で活躍した白堅

武と一九二二年北京政府内において突を代表して活躍した高恩洪・孫丹林がそれである。

(U〉

白堅武、字憧遠、叉は輿

E、憧

E、直隷の人。北洋法政専門皐校において李大剣の同皐。鴻園輩、

ついで李純の部下に

なったのち、臭の配下に入る。呉集圏の新涯の牙城は白を慮長とする政務慮であり、ここに白は俊才数十人を結集して

)

た。その一人醇播岳は「上海聖約翰大皐在聞学中、血気にはしり、陳濁秀

・李大剣らに接近したため、卒業時に第二席に落

され、米留皐の好機を失った」という。彼は顧維鈎の推薦により政務慮外交科主任となった。

Page 8: Title 曹錕・呉佩孚集團の興亡 東洋史研究 (1988), 47(1): 81 …...江南は近ごろ頗る中央に傾き、雲南の唐縫莞・貴州の婁粗銘・贋東の陳畑明・湖南の越恒協はみなひそかに中央と気

ハ時〉

高恩洪は呉と同郷の山東省蓬莱の人。一九

O一年から六年間、イギリスに留撃し「身を一電信技師より起し、:::民園

初年湖北電報局長、川議電政監督を歴任」した。十六年以降上海電報局長に輔任し、安直戦争に際して電報局の物資を買

却して呉を援助して、果の知遇を得ることになった。

(

)

孫丹林、字翰丞、叉漢塵、漢伐。臭と同郷。胡適は孫について「この人は臭の諸葛亮である。呉氏が今日有るを得たの

は大半は彼の功労である。呉氏にはたしかに用兵の天才があるが政治においては一貫に子供にすぎず、まったく孫氏及び白

(

)

Eの助けに頼っている。段棋瑞攻撃の計略、徐世昌を大網統より追う計略はともに孫氏が提出した構想だ。」と一九二

二年六月の日記に記している。すなわち、嘗時の果の中園戦略の主な内容であった安直戦争及び第一次奉直戟争後の臨時

約法・奮園舎の回復、繋元洪の大線統への復婦の政策は孫の立案に係るというのである。

一九二二年、第一次奉直戦争後の臭の政治は以上の三人が活護に動く中で展開された。

王寵恵内閣の成立

- 87-

序でも記したように第一次奉直戦争後、奉天涯は復仇を期し、日本の援助の下、軍隊の大改造を行なっていった。直隷

涯としては多護する兵第、給料支梯い要求の蔓延とともに奉天波打倒のために大規模な借款を必須とし、英米にしきりに

(四〉

借款を要請していた。だが、果は安徽汲あるいは奉天涯の貰園政策を痛烈に非難してきただけに借款獲得に際して露骨な

手段は取り難かった。

他方、

一九二

O年十月に正式に成立した新四園銀行圏について、米特使用イ色町江口}向者・

ω522は日本の親日涯への借

(却〉

款供輿に針抗して米が親英米汲に借款を供興すベく、英併を誘ってそれを設立したのだと語っている。だが、そのために

は列強聞の利害調整のみでなく、日本に反劉をとなえさせないような名義ある政府の樹立が必要となってこよう。前駐華

(

)

公使

HME-ω-maEnFは二十年九月「中園の時局に劃する提案」の中で借款園の

「政府財政の基礎が強健でなければな

87

Page 9: Title 曹錕・呉佩孚集團の興亡 東洋史研究 (1988), 47(1): 81 …...江南は近ごろ頗る中央に傾き、雲南の唐縫莞・貴州の婁粗銘・贋東の陳畑明・湖南の越恒協はみなひそかに中央と気

88

らず」

「憲法及び園舎選拳法を制定し、

中園の各部分がみな法律の基礎の上に建設されるようにしなければならない。L

なぜなら、

「負債園の人民代表の参輿の行動を経ていないと、将来いつでも、

その園の人民は正嘗にこの借款を否認する

め開地があるからだ。」と述べている。

すなわち、中園圏内の借款反針を抑えるには園舎の正常化、

正常な政府の成立、憲

法の制定が必要だとしてレるのである。

直隷波側の借款獲得の必要性と英米側の篠件がしだいに結合して第

一次奉直戦争後の臨時約法の復活、奮園舎の再開と

今統。は惇統をさしてい

た。民園に入っても祉禽紋況が

一向に好轄しなレことに劃して保守波は。統。がくずれたからだとし、進歩涯は

。法φ

レった呉の政策が出てくる。これを首時、

今法統の回復φ

といった。もともとφ

法々は憲法を

確立していないからだとした。

「このように憲法と停統との聞の、また、新制度と醤文化との聞はまことに解決されがた

い矛盾であった。」だが、「一九二ハ年に臨時約法が復活し、園舎が再開されたことは中園の立憲政治に一つの俸統をうち

(

)

それは

J伝統dv

に憲法の停統という新しい一意一味を輿えた。」この法統回復は庚東の孫文の護法政府の存立基盤を

揺るがすことができるのみでなく、悪名高い安一幅園舎により選出された徐世昌を大線統から追い、

さらに連省自治の動き

- 88ー

ニFL

・-。

ナ'司、中J

を抑えることもできる方策であった。それゆえ、第

一次奉直戦争後の直隷波の舎議で園民曾議などの読が退けられ、法統

(幻)

回復策が即決されることになったのである。そして、現貫にこの法統回復策は一九二二年六月十六日の陳畑明の反飽の動

(M〉

因となったのである。

こうして一九二二年六月十

一日には繋元洪が大総統に返り咲き、

八月十一日には奮園舎が再開された。

政府(内閣)方

面ではこの流れに沿う主張が早くも五月十四日に出ている。すなわち、

『努力週報』第二期にのった「我門的政治主張」

である。この主張は高きにすぎる理想ではなく

今好人φ

が奮闘精神を持つことが政治改革の着手手段だとし、具健策と

して、公開の民意を代表する南北和卒曾議を開催する、和議の僚件として奮園舎を回復し、和卒曾議が園舎に期限通り憲

法を制定させる等を上げている。この主張には察元培・胡遁・李大剖をはじめ、

王寵恵・羅文幹・

湯爾和など鋒々たる人

Page 10: Title 曹錕・呉佩孚集團の興亡 東洋史研究 (1988), 47(1): 81 …...江南は近ごろ頗る中央に傾き、雲南の唐縫莞・貴州の婁粗銘・贋東の陳畑明・湖南の越恒協はみなひそかに中央と気

物が名をつらねている。後の三人は九月十九日に成立する王寵恵内閣の閣員でもある。

一九二二年五月の第一次奉直戦争終結以後、同年九月に王寵恵内閣が成立するまでの外交圏の動きに閲して中共の奈和

森は「英米一帝園主義は第一次奉直戦争後、

はじめ、臭を援助して一拳に統一させようとした。臭が奉天涯に勝利した翌

日、外交圏は即座に彼に借款を輿えて中園を統一させることを集議した。

のち、

日本政府が賛成せず、

また、臭細川学に劃

してもまだ疑曜の貼(突はもと愛閣の看板をかかげており、かつ外債を借りることを否認していた〉があり、

英米一帯一圏主義者は先

の方策はあまりに軽率だと悟り、そこで一意外交系に内閣をとらせることを方針とした。このような方針で現在に至り、

(

)

新銀行圏の回り道はようやく成功」したのだと分析している。このことは嘗時とりわけ大きな外交課題がないにもかかわ

(

M

m

)

らず、英がワシントン曾議参加者による組閣を主張していたことからもわかる。かくして、呉侃学の苦心の策とも言うベ

き王寵恵内閣が成立するのである。閣僚は、

財政

- 89一

である。この内、孫・高恩洪は呉の腹心であり、王と顧はワシントン曾議中園代表であり、

し、圏内ではどの涯にも属していなかったので無薫波の

ゥ好人。と呼ばれた。曹鐸涯は高凌爵一人であった。それゆえ王

(

)

ゥ好人政府。などと呼ばれた。だが、この王寵恵内閣は嘗時進行して

数育

内務

外チ マ

』句

農商

交通

陸軍

海軍

司法

羅・湯とともに英米波に属

寵恵内閣はゥ洛涯政府φ

今英米波政府。

いた直隷汲の内部封立の中で倒壊するのである。

(奥振の意)

89

Page 11: Title 曹錕・呉佩孚集團の興亡 東洋史研究 (1988), 47(1): 81 …...江南は近ごろ頗る中央に傾き、雲南の唐縫莞・貴州の婁粗銘・贋東の陳畑明・湖南の越恒協はみなひそかに中央と気

90

曹鋸・呉侃字集圏の動態構造

法統回復に閲して臭侃必ずと曹銀はともに賛成であったが、その聞に微妙な差異があった。曹鋸は察元洪の大線統返り咲

(

)

きに不満であった。自らが成りたかったのである。呉も曹が大線統になるのに反封であったのではない。ただ、呉は曹が

徐世昌のように非法に大総統になることを願わなかった。そのため「まず憲法を制定し、ついで大総統を選出する」こと

mU)

を強く主張したのである。この主張の眼目はあくまでも世論を納得させ得るような形で曹鋸が大線統に就任するというこ

とにあるのであって、

その手順や形式にあるのではなかった。こののち、二十三年十月曹鋸は悪名高い賄濯により大線統

に就任すると同時に

。民主的。な

ク曹鋸憲法。を護布するが、これは呉の反劉を形式面のみ整えることにより封殺したも

のであった。呉の先の主張は曹にとり、繋元洪の返り咲きにつづいて、またもや大線統への就任が延期されることを意味

(

m山

(

した。曹と臭の封立は二十二年八月に表面化し、十月にはまずまずその激しさを増していった。

- 90-

この曹と臭の封立に曹の側につくのは復の弟たちである。曹鎮は一九一七年に第四混成波放長であったときから臭に服

(位)

従せず、第一次奉直戦争勃稜に際しては王承斌とともに開戦に反射した。曹銑は自分の子が曹錫の後縫ぎでもあり、曹鋸

の私産を管理していたため通常の兄弟より親密な闘係にあったが、具には軽蔑されていた。第一次奉直戦争後、呉が天津

に行った際、直隷省の諸圏鐙は彼に省長曹鋭の更迭を請願した。果たして、六月十二日曹鋭は菟職になり臭を惜んだとい

(

久ノ。

曹鏡を繕いで直隷省長になったのは王承斌である。王は遼寧省奉天府輿城の出で陸軍大拳の卒業。直隷汲将領の中で事

(

)

歴が最高で数育水準が高いのみでなく、戦略にも通じており、その皐識・戦功は臭に匹敵した。そのため曹鋸踊系の中で

(

)

(

)

その。資望。(経歴と信望)は臭に次いだ。二十四年に王承斌にかわって第二十三師師長になった王維域の回憶によろう。

王承斌は旗人で原名は承斌のみ、宗一砿黛に参加した。果が曹に王は宗祉黛なので用いないよう提案して以来、

王は果にわ

Page 12: Title 曹錕・呉佩孚集團の興亡 東洋史研究 (1988), 47(1): 81 …...江南は近ごろ頗る中央に傾き、雲南の唐縫莞・貴州の婁粗銘・贋東の陳畑明・湖南の越恒協はみなひそかに中央と気

だかまりを持ったという。維城は彼と保定軍官拳校の同組で安直戦争後、彼の第二十三師の第四十五旗按長となる。第一

次奉直戟争が始まると維城は第四十五放の六替の内、二告を率い中路を携嘗し、巧みな戦術で奉天軍を破った。同放の二

替は承斌が永定河方面へ移動させ残り二営は第三師を支援した。奉天軍が崩援しかけたとき、維城は代理線司令となって

いた承斌に四度も電報で迫撃命令を出すよう要請したが彼は握りつぶした。これを果はのちにはじめて知ったという。承

斌は郷土観念が強かったのである。彼は本衆直隷督軍になりたがっていたが曹鋸が手放さなかったので曹鋭を縫いで直隷

省長になった。この時、臭は彼に維城の戦功に報いるため第二十三師を手放すよう言ったが、彼は譲らなかった。彼は呉

(

)

が丘ハ擢を奪おうとしたことに封し曹銀に取り入って封抗したという。彼は直隷督軍、さらには直魯殻巡閲使になることを

考えていたが、曹鋸がその地位に居る以上無理であった。そのため彼は曹を大線統にのぼらせるのに量力したのだとい

- 91-

かくして、曹鋸(保定〉と王承斌(天津〉はその利害が一致してきた。臭侃字の洛陽涯に劃する津保涯の形成である。津

保汲と洛陽涯の針立に今一つ、果侃字と鴻玉鮮の針立がからみあってくる。眼を河南に碍じよう。

『農報』

一九二二年八月三十日の「議省代表来京請願裁兵」に嘗時河南に駐屯していた軍隊及び軍費の一覧表が記載さ

れている。

表1

一九二二年の河南省駐屯軍隊表

名稽及び長官

毎月軍費

沿

侠西陸軍第一師

一誠

一際西より直隷波支援のため河南直隷閲に駐

一驚

一現在第十四師に改むるも各省で裁兵の議論が

一奉直戟争の際、捜いままに知事を任命し、地

四・五寓元

一盛んなので未だ明文を愛布していない。

方からしぼりとった金、計り知れず。

91

陸軍第八混成放

Page 13: Title 曹錕・呉佩孚集團の興亡 東洋史研究 (1988), 47(1): 81 …...江南は近ごろ頗る中央に傾き、雲南の唐縫莞・貴州の婁粗銘・贋東の陳畑明・湖南の越恒協はみなひそかに中央と気

92

第十一師

十四高元

一痛が侠西より河南につれてきた。

按ずるに第十一師は中央の軍隊であり、河南

-

省が軍費を支給すべきではない。

新編河南遊撃陸軍衡軍

九高元

一鴻が新たに募集。

計六幽

暫編河南陸軍第一師

十四高元

↑毅箪より改編。わずかに銃三千丁のみ。現

一奥傾向子、一師扱いの軍費支給を承認。

在、江西へ出動。

七高元

一該腹、かつて呉使にしたがい直隷波を援助、

一呉使、一混成放扱い。

一混成旋

貧数千人未満。

七高元

一一該般はかつて湘郡撃に参加貫教千人前後。

一同

七蔦元

一室軍二倍のみ。

十同

七高元

一奉天涯先鋒除より改編

rlll

一対

一侠軍、鴻が移動させる。

一河南陸軍に改めたという設あり。

二寓元

一都

侠西、直毅汲援助のため河南に留まる。

二蔦元

一一喜

より改

Til-と号

γ一言

ι11

1

1

「む一

Ei

r一一高元

一(八

一高元|引用者)

愈一混成放

敏二混成絞

雲一混成飯

動一

英一

玲一混成園

除一

ム口

。馬

- 92ー

Page 14: Title 曹錕・呉佩孚集團の興亡 東洋史研究 (1988), 47(1): 81 …...江南は近ごろ頗る中央に傾き、雲南の唐縫莞・貴州の婁粗銘・贋東の陳畑明・湖南の越恒協はみなひそかに中央と気

この表に含まれていないもので二十二年八月段階で河南に駐屯していた軍陵に洛陽の果係学の第三師、及び鄭州の張一拍

来の第二十四師、がある。ともに中央軍で河南省財政からの軍費支給封象ではないので表には出てこない。まず、

これらの

軍隊の軍紀・戦闘能力別にグループ分けすることにより、嘗時の河南における軍事情況をよりリアルに把握していきた

し、。ほぽ毎年なされた陸軍省『密大日記』所牧の「北支那軍事調査報告」の内、嘗一該時期に最も近いのは一九二三年五月末

調べのものであるが、その各軍の戦闘力に射する評債は二十二年段階のそれを想定するに足るものである。まず、鴻玉群

の軍隊をとり上げよう。一該調査の。教育訓練。の項では、鴻軍の将校について、

上級将校ノ数育ニハ陸軍大祭出身ノ数官ヲ用ヒ圃上及現地-一於テ新戦術ヲ教育シ且輔重兵枯勤務ヲ数育ス将校ニハ基

督数的精神教育ヲ施シツツアリ

下級将校ハ卒伍出身者多ク皐力低シ然レトモ鐙力強ク且鴻ノ座制ニ盲従ス要スルニ将校教育ハ逐次進歩シツツアリテ

- 93-

支那軍将校中能力優秀ノ者多シ

と述べ、きわめて高い評債を下し、下士卒については

軍紀尤モ巌粛ニシテ人民ノ風評良シ一般将校以下粗食ニシテ行軍力大ナリ日々巌格ナル訓練ヲ行フ木工具毛布耀詰等

ノ製造ヲ下士卒ニ教育シ自給自足ノ途ヲ講シ叉軍用自動車操縦ヲモ練習シアリ

日本軍-一劉スル能力上ノ差異判断の項では、

と記し、教

育訓練以上ノ如クニシテ支那軍中出色ノ貼アリ

故ニ能力ハ左ノ如シ

J1

としている。日本軍に劃する戦闘能力が二分の一とあるのは一見低い評債と考えられるが賓はそうではなく、

まる調査において北中園の全中園軍の中で最も高い評債なのである。

次に巌しい軍事訓練を行なっていた呉細川字の第三師について、将校の項には、

この詳細極

93

Page 15: Title 曹錕・呉佩孚集團の興亡 東洋史研究 (1988), 47(1): 81 …...江南は近ごろ頗る中央に傾き、雲南の唐縫莞・貴州の婁粗銘・贋東の陳畑明・湖南の越恒協はみなひそかに中央と気

94

日本土官民平校出身ノ将校少数アリ下士卒ノ数育ハ密集数練ニ重キヲ置キヲレリ

と記し、

日本軍ニ針スル能力上ノ差異判断の項では、

大鐙ニ於テ河南軍ニ比シ優秀ニシテ針日軍ノ能力左ノ如シ

とあるが残念ながら数値は記入漏れである。そして摘要の項には、

数練-一口口スルモ其ノ方法奮式ナリ一般

一一元気旺盛将校以下兵器ノ取扱方法ノ了解充分ナラス

と記し、明らかに鴻玉鮮軍に劃する許債より低い。

また、河南軍の日本兵ニ封スル能力剣断の項に、

%

u 箪陵トシテノ数育ハ頗ル不完全ニシテ加フルニ傭兵ノ魚戦時其ノ程度更ニ低下シ年齢ノ差著シク我軍隊ノ一

ニ封シテ彼ノ四乃至(五||引用者補充〉ヲ以テスルヲ要スヘシ

とある。これより見ると臭軍の日本軍に針する許債はほぼ三分の一程度であったろうと考えられよう。

先の『最報』の一覧表のあとに「馬燦林・馬志敏・李治雲・丁香玲の四人は趨伺の奮賂であり、

・王痛蔚・岳維峻らの客軍の下にある」とあり、また、『順天時報』には「鴻玉鮮・張一踊来

・斬雲鴇及び果保必ずの軍隊

(

m品

)

は紀律がまだよい、:::ほかの胡景翼・常徳勝・馬燦林らの率いる軍隊或いは客軍は軍紀が厳格でない」とある。以上の

材料を総合して嘗一該時期、河南省に駐屯していた軍陵を軍紀・戦闘能力のランクで分けると最良が鴻玉群軍、

字・張一隅来

・新雲鴇の軍、第三が胡景翼の快軍、最悪が馬燦林らの嘗河南軍ということになろう。

聾里は胡景翼・斬雲

- 94ー

ついで呉侃

これらの河南駐屯軍の聞で「鴻玉鮮は軍費問題で新任の第十四師師長新雲鴇・快軍第一師師長胡景翼と不和で、河南で

(mm)

は張一帽来(鴻の後の河南督寧||引用者)・新

・胡が三角同盟を組織し鴻打倒を重策しているとのうわさが贋まっていた。」と

一九二二年十月二十一日「各方盛停鴻玉群他調之内幕」の中には反鴻三角同盟の形成過程が詳しく記され

『員報』

、。

、しV3』4

ている。

Page 16: Title 曹錕・呉佩孚集團の興亡 東洋史研究 (1988), 47(1): 81 …...江南は近ごろ頗る中央に傾き、雲南の唐縫莞・貴州の婁粗銘・贋東の陳畑明・湖南の越恒協はみなひそかに中央と気

祷氏が河南督寧になったばかりの頃、新雲携は省長を、胡景翼は軍務曾習をねらっていた。:::鄭州の戦闘で濡氏と

同様に力を出したので分け前にあ.すかろうと考えたのだあり、大部隊を擁しているのに地盤がなく軍費のあてもない

のはあるいは議想外のことであったのだろう。ただ、嘗時ついにその欲望を達成できなかったので雨人は濡を猪疑し

と、第一次奉直戦争の論功行賞に劃する斬・胡の不満を記している。嘗時、中央からの地方への財政援助が急激に減少

し、たとい中央の正規軍であっても地方で自らの寧費を調達せざるを得なくなっていたのであり、濡玉鮮軍の軍費もまっ

たく河南省の牧入に依存していた。この一意味では斬の軍も中央軍であり、鴻軍と同じ立場に立ち得たはずである。また、

胡景翼の快軍は河南軍とされていない以上原則的に快西省の牧入から、

その主な軍費をまかなうべきであるが、嘗時、そ

のようなことは望み得べくもなかったので一ある。

河南の人々は軍事費の増加があまりに大きく、毎月の軍費が八十六蔦元儀りに増加したので各地に奔走呼競して負携

軽減を請願した。その結果、臭は親筆で毎月五十四蔦元に減らすとした。これは前督軍越伺時代よりわずかに二蔦元

- 95ー

ついで同記事は、

少ないだけであった。

と、河南省における軍事費負鎗の急激な増大とそれに反裂を強めて民衆が請願運動を展開している模様を俸えている。こ

れによると越伺の時期には毎月の軍費が五十六寓元、年間六七二蔦元、先の一覧表の見られる八月段階ではそれが八十一

蔦元に、十月にはさらに増大して八十六寓元、年嘗り一

O三二蔦元になっている。『園民軍史稿』によると嘗時の河南省

(

)

の歳入は約一一

OO除寓元で賓牧入は九

OO蔦元にすぎなかったというから、皐に軍事費のみで全牧入を上回ることにな

るというすさまじい欣況にあったことがわかる。

95

この請願運動の結果、

Page 17: Title 曹錕・呉佩孚集團の興亡 東洋史研究 (1988), 47(1): 81 …...江南は近ごろ頗る中央に傾き、雲南の唐縫莞・貴州の婁粗銘・贋東の陳畑明・湖南の越恒協はみなひそかに中央と気

96

新・胡の各軍は毎月河南省が補助する費用(各四・五蔦元〉がすでに牟ばを削られたので大いに不満であった。彼らは

河南の人々の呼挽は宮仰があやつっている。そうでないのなら、なぜそれに干渉を加えないのかと考えた。

彼らは鴻に

報いる方法をひそかに謀ったが、自分たちの力が弱くて鴻に針抗するに足りないと考え、第二十四師師長張一隅来氏と

誼みを結び、源問を排除し張を推戴したいといった。:::かくして小さな三角同盟が成立した。

と、張一踊来・斬雲鴇・胡景翼の三人による反鴻玉鮮の三角同盟の形成を記している。

胡・新軍が軍費削減に向かわされていたとき、鴻軍はいかなる欣況にあったのであろう。まず、濡は自らの兵士に給料

を遅配した分を含めて一気に梯っている。

抜から第十一師に改編されたとき、軍費・武器を増加しないという制限篠項があり、

(

)

時、補充が完成したよという。

その上、この時期鴻は補充圏五箇、毎圏二千人を編制し、

一師が約一高人とすると、鴻軍は第十一師の兵士の給料を完済し、武器の補充を完成し、さらに補充圏と皐兵国一蔦徐人

「河南についてから二箇月内に連績して五箇月分の給料を梯った。第十六混成

そのため不足額も多かったが、この

(

衛隊圏を皐兵圏に改編した。

- 96一

を増やし、兵力は二倍強に念抜大したことがわかる。しかも、

これは戦時における敵の投降ではなく卒時においてなされ

(円相〉

ている。また、時の陸軍総長張紹曾の弟で臭のもとで軍事参賛になっていた張紹程の回憶によると、鴻は丘ハ工廠からの丘一

器の補充購入に闘する臭の手誌を紹程を逼して得たが、

その命令の上には武器の種類と数量が記入されていなかったので

いくら購入してもいけないということはなかったという。こうして「兵工廠からきわめて充足した三箇放でも使い切れな

い銃揮を購入した」のである。

以上の考察より、第一夫奉直戦争後、

華北における(そし

て、おそらくは全中園における)最精鋭部隊を作り上げたのであり、このことがまた胡景翼・斬雲鴇・張一踊来の反鴻三角同盟

の形成にもつながっていったことがわかる。臭が鴻に一時に八十蔦元、以後、毎月二十寓元を上納せよと要求したのに封

(川相〉

し、鴻は拒否していた。こうして、呉と鴻の劉立に反宮崎三角同盟の形成が加わり、河南省における軍事的緊張が急激に高

河南督軍に就任した鴻玉鮮は排他的に自軍の援充をばかり、

Page 18: Title 曹錕・呉佩孚集團の興亡 東洋史研究 (1988), 47(1): 81 …...江南は近ごろ頗る中央に傾き、雲南の唐縫莞・貴州の婁粗銘・贋東の陳畑明・湖南の越恒協はみなひそかに中央と気

まってくる。もはや、鴻の河南退出は時聞の問題となった。

こののち、鴻玉鮮は陸軍検閲使として北京に移駐することになる。それに閲して、鴻は「臭が中央に鴻を陸軍検閲使に

(

)

移すように提案したと人から聞いた。」「はたして呉侃字が保定汲の閣員高恩洪に示唆し、察元洪に提案し、強迫下で中央

(

が私を陸軍検閲使に樽任させる命令が二十二年十月三十一日頒布されたよという。すなわち、鴻が河南督軍の地位を追

われ、北京の陸軍検閲使という何の地盤もない役職に碍任させられたのは果侃字の策動であるというのである。

これに封して呉の参謀白堅武は「果、濡をして闘を援けしめんと意うも、而れども曹、入れて京師を扶せしむ。検閲使

(U〉

忽卒として即ちこれが篤めに成立す。」と記し、果は鴻を一幅建方面の軍事に使おうとし

の令下り、

一師三混成放の編制、

たが、曹鋸がそれに反劃して北京防衛の陸軍検閲使の職に就かせたと述べ、先の鴻の回憶とまったく相反する謹言を行な

っている。

- 97ー

ともに回憶録であるが、自の方のものが嘗一該時期に近く、したがって、事賓がゆがめられていない可能性が高いといえ

なくもないが彼の回憶は一九二四年の北京政援ののちに書かれており、直隷涯敗北の原因を二年前に湖及させている可能

性があり、すぐには信用することはできない。

だが

一九二二年十月二十一日の「各方盛停鴻玉詳他調之内幕」に、

呉(窟闘の誤り||引用者)が洛陽で臭に舎ったとき、果はかつて安徽督軍と熱河察恰爾綴遠巡閲使の二つのポストの内、

『長報』

一つを鴻に自ら選ぶに任せた。宮崎は安徽であろうと熱河察恰爾綴遠であろうといつに中央の命令に従うと答えた。鴻

このことを腹心に告げると部将たちはみな、官仰の安徽樽任はあるいはがまんして命令を受けることも

できるが、熱河察恰爾綴遠に赴くなどまっぴら御兎であるとして憤激した。

とある。この情報は鴻の河南退出に反封する世論工作、あるいは座力の役割を客観的に果たすものであり、鴻にとってこ

は開封に鯖り、

97

の情報をもらすことに利盆があっても、呉の側には何らのメリットもなく、デメリットのみである。

つまり、この記事の

Page 19: Title 曹錕・呉佩孚集團の興亡 東洋史研究 (1988), 47(1): 81 …...江南は近ごろ頗る中央に傾き、雲南の唐縫莞・貴州の婁粗銘・贋東の陳畑明・湖南の越恒協はみなひそかに中央と気

98

情報源は素直に鴻軍の側であると考えていいことになる。しかも、嘗時、安徽振の徐樹鐸が一踊建で政饗を起し、それに安

(

)

徽督軍の張文生が呼躍した動きを示していたのであり、白堅武のいうゥ援問。と『農報』記事のク安徽督軍。とは密接に

関連しているのである。すなわち、鴻玉鮮サイドが嘗一該時期に語っていた内容が相制列立する立場にいた白竪武の謹言とま

ったく一致しているのである。以上の考察より、我々はもはや白堅武の回憶を事買をねじ曲げたものとすることはでき

ず、逆に、鴻玉鮮の回憶こそが事買を歪曲していると断言し得る位置に立ち得た。

では、

なぜ鴻はこのような虚偽を書いたのか。それは我々がもはや正しいとせざるを得ない自の回憶の内容の内、鴻の

回憶が意圃的に記述せず抹消しようとしている部分に注目することにより明らかになるだろう。すなわち、陸軍検閲使へ

の樽任は曹銀によるものであるということ、

しかも、

それを鴻は隠蔽しようとしていることの二貼である。

このことか

ら、我々は首然のことながら鴻と曹の聞で何らかの取り引きが存在したのではないかと考えざるを得ないのである。なぜ

- 98ー

なら、臭が鴻に提示した安徽督軍あるいは熱河察恰南綴遠巡閲使はまがりなりにも地盤があるのに劃し、陸軍検閲使はま

ったくの名目的職にすぎないのであり、曹鋸がより不利な地位に縛任させたのである以上、大なる非難があってしかるべ

きだからである。鴻

・曹聞の取り引きは地盤に代わり得るようなものでなければならぬ。

「その時の園務総理・陸軍部長は張敬輿先生〈張紹曾||引用者)

で:::私のために霊力して援助してくれた。まず、私の部陵を一師三箇混成放に改編した。第七混成旗、放長張之江、第

(

)

八混成放、放長李鳴鐘、第二十五混成放、

放長宋哲元である。:::部陵の名義がそなわったので軍費は手だてがあった。」

源問玉鮮は陸軍検閲使に轄任した頃のことをふり返って

と記している。これによると五補充圏、率兵隊計一高齢は数的には三箇混成放と饗わらないが、改編を受け正規の軍隊と

して登録されてはじめて軍費支給の封象となり得ることがわかる。そして、濡はこの改編が張紹曾の壷力により、張が園

務縮理の時になされたというのである。

周知のように(園1参照)第一次奉直戦争後、一九二二年十一月二十九日に王寵恵内閣が倒壊するまでは呉侃字系内閣で

Page 20: Title 曹錕・呉佩孚集團の興亡 東洋史研究 (1988), 47(1): 81 …...江南は近ごろ頗る中央に傾き、雲南の唐縫莞・貴州の婁粗銘・贋東の陳畑明・湖南の越恒協はみなひそかに中央と気

99

1922年の情勢 (22年 4月-23年 2月〉周1

Z 廉東骨一一一一一庚東護法

驚5.14 明人政府8 の主張

21. 5 21. 12.25

内閣園舎大総統直線汲

22年4月

6月 6.18 菅鋭,直隷省長莞職H 県側字

6.24 王承斌直線省長H 奥偲字

|6.16 陳畑明反需LI

8.14 孫文上海着

|1月末陳桐明

↓璽亙|2.21 大元帥府

t JtI::iL1

.. I 24.1.12

8.5

高思洪交通総長ハ呉偲字汲)

奥敏麟,....、

曹銀波、../

• • . ...

24.10.31

7月

奮園禽8.1 8月

9月

9.19

10月|10.31 鴻玉鮮,陸軍

徐関使(鴻=津保汲)1_ 10.31 張請来,河南督軍

11月

12月

2月

-• • .. 23.6.6

- 99ー

• • . +

24.11. 24

• • 圃

+ 23.6.13

Page 21: Title 曹錕・呉佩孚集團の興亡 東洋史研究 (1988), 47(1): 81 …...江南は近ごろ頗る中央に傾き、雲南の唐縫莞・貴州の婁粗銘・贋東の陳畑明・湖南の越恒協はみなひそかに中央と気

100

あり、翌二十三年一月四日には明確な曹銀系張紹曾内閣が成立する。また、張は二十二年八月五日から二十四年一月十二

日まで陸軍総長である。だから、高によると鴻軍の改編は陸軍検閲使へ轄任となった二十二年十月三十一日より少なくと

も二箇月以上ものちのことになる。

これに封して、先の白竪武の回憶は鴻の回憶と次の二貼で封照的である。第一に鴻軍の改編には張紹曾の力があったと

しても決定的なのは曹銀の存在であること、第二に改編は陸軍検閲使への碍任令とほぼ同時に突然出されている、

つま

り、内閣の系統でいうなら曹銀系ではなく臭侃学系の内閣のときになされたとしていること、の二貼である。

いずれが員賞なのか。再び、張紹程の回憶を検討することにしたい。彼は鴻が改編にあたって力のあったとする張紹曾

に最も近い存在だからである。彼は鴻軍の横充を記したのち、

鴻にはもし呉に請求すれば、この三箇混成放の募集について事前に彼の許可を得ていないのでけっして批准されない

ことがわかっていた。:::北京の陸軍部の張紹曾の所に行って方法を議ずるのがいいと考え、張紹曾の皐生であった

-100-

張之江を波遣して紹曾に改編正規軍化を批准するよう求めさせた。

と、樹立する臭細川字を避け、張紹曾に頼みこむことにした経緯を記す。これに射して、

紹曾は非常に封躍に窮し、張之江にむかつて「この事柄は閣議に提出しなければならず、もし、提出すれば、高凌胃

(内務総長〉党腕酔(交遁総長〉官英君(財政総長)らはみな直隷涯で呉侃字の鼻息をうかがう者たちであり、果の同意

がないのに彼らはよく通過させるだろうか。君は蹄って鴻にこの事はやり様がないと返事してくれ。」

と言ったと記している。

だが、鴻は張之江についで同じく紹曾の畢生であった張樹撃を波遁し執劫に請求していった。

ついに

紹曾はねばりに負けて

「私が縮長のポストを犠牲にして陸軍部の命令でこの三箇混成放の番読を批准しよう。」と言

ぃ、:::数日たたずに果たして紹曾は部令でこの三箇混成放の番挽を設表した。

Page 22: Title 曹錕・呉佩孚集團の興亡 東洋史研究 (1988), 47(1): 81 …...江南は近ごろ頗る中央に傾き、雲南の唐縫莞・貴州の婁粗銘・贋東の陳畑明・湖南の越恒協はみなひそかに中央と気

と記す。これに針し、呉侃字は、

非常に不満だったが、しばらくは紹曾に劃慮する方法がなかった。だが、鴻が三放の軍陵を績充したことに射しては

さらに忌み憎み、鴻は河南で勢力がますます大きくなり、

ついに心腹の患になったと考え:::呉は北京政府に鴻を河

南から引き離すことを提議した。

という。

嘗一該時期の『政府公報』の陸軍部令の項にはこの一一一箇混成旋改編の記載は見い出せない。管見の限り、陸軍部令では陸

軍部所管の機構の人事が大部分を占めており、陸軍部令でこのような改編命令が出された例は見あたらない。賞際、この

改編の正式な命令は約一年も後の一九二三年十月四日の大総統令で出ているのであり、この改編がいかに強引に例外的な

形でなされたかがわかるのである。

先の張紹程の回憶を要約するなら、

ということになろ

-101ー

潟軍の改編正規軍化は呉侃学系内閣の時黙で強引になされた、

『園民軍史稿』にも「鴻は十月三十一日随員及び拳銃陵などを率いて北上した。惟だ以前に招募した補充圏及び皐兵

(

圏はすでに中央に呈文を迭り三混成放に改編されていた。」

(傍線は引用者による)とあり、臭系内閣の時黙になされたこと

が確認し得る。鴻と臭は嘗時鋭い樹立関係にあり、張紹曾にも臭の意向に反する鴻軍の改編正規軍化を内閣に提議しても

組針に通り得ないことは明白だったのである。そして、先の張の言は逆に彼にはそれをやるだけの力量がないということ

をも示しているのである。張之江や張樹撃が汲遣されてねばり勝ちで説き伏せたとするが、それだけではあまりに無理が

あろう。ここには張より大きい勢力、呉に匹敵する力がこの潟軍の改編正規軍化に賛成したと考えるほかないであろう。

そして、その力とは曹銀を措いて考えられないのである。このことは務サイドの記述によっても確認し得る。

『園民軍史

稿』に

101

臭は高恩洪に繋元洪に舎って鴻玉鮮を菟職するようにせまらせ、

また、保定の曹鍵に電報で、この機舎に鴻軍を消し

Page 23: Title 曹錕・呉佩孚集團の興亡 東洋史研究 (1988), 47(1): 81 …...江南は近ごろ頗る中央に傾き、雲南の唐縫莞・貴州の婁粗銘・贋東の陳畑明・湖南の越恒協はみなひそかに中央と気

102

てしまおうと告げた。

曹鏡は性格が温厚であまりひどいことをしない。台、

ずコ

その左右の者たちが

洛陽の臭偲

学は勢力が大きく制御できないでいる、鴻の軍事力を温存してその権力を分けた方がいいといった。

(

)

いに南苑に駐屯することができた。

そして

鴻はつ

とある。傍線部の原文は

「洛果勢大。且不能制。不若留鴻軍力。以分其様。」であり、この。留。は文脈から明らかに。一向

南に留めるφ

という

F2匂与

・当

Z『mymaの意ではなく、円222の意である。

以上の考察より、我々はまたもや鴻の回憶ではなく白の回憶を員とせざるを得ないのである。まことに鴻玉鮮の第十

(

)

一師の参謀長劉輔の語るように「今回の鴻の碍任は河南の地盤を失ったけれども、部隊は抜大とその正規軍化ができ軍費

(臼)

も比較的見込みがついた。」のである。

果は鴻が北京に行く際、率いて行くのを許したのは第十

一師のみであり、

第十一師には河南省から毎月二十蔦元を支給

するが、先の三混成放は河南にとどめておき、呉、が人員を波遣し訓練をつづけ指偉させる、という要求をつきつけたが、

-102ー

鴻は巧みに

Eつ迅速に全軍を北京に移動させ、呉の要求、目論見を打破した。鴻は呉が二十省内元を迭るという拘束を反故

にしたといって非難しているが嘗らないであろう。陸軍検閲使時代、鴻の軍費は崇文門の開税から五蔦元、京綴銭路局か

(臼)

ら十省内元、財政部の盟除などの項から十寓徐元が支給され、武器の補充は曹銀から銃三千丁、大砲十八門、弾丸数百蔦瑳

(

)

(

)

が支給された。こののちも鴻玉鮮軍は抜大をつづけ、二十四年十月の第二次奉直戦争直前には三高五千になっている。

一次奉直戦争後、

一貫して果侃字系であった内閣に射して津保涯は鴻軍の北京移駐直後、

一奉に攻勢に出て洛陽波内

閣を倒す。眼を縛じて王寵恵内閣の倒壊過程をみてみよう。

『畏報』

一九二二年十一月十九日、

「呉侃字最近之態度

陽特約通訊員愚公

十一月十六日」の中で呉のスポークスマンは

呉は王内閣を終始擁護している。王がしばしば僻職願いを出すのは園舎が難癖をつけたためであって保定方面の不満

が原因なのではない。曹は園事に劃して今まで畢濁行動がなかったのだ。:::曹の人となりはきわめて忠賓誠貧であ

Page 24: Title 曹錕・呉佩孚集團の興亡 東洋史研究 (1988), 47(1): 81 …...江南は近ごろ頗る中央に傾き、雲南の唐縫莞・貴州の婁粗銘・贋東の陳畑明・湖南の越恒協はみなひそかに中央と気

り、呉とはとりわけうまくいっている。臭が王を擁護している以上、曹はおの.すから異をとなえない。だが、曹の左

右の者が中央地方の要職をねらい内閣を倒そうとしている。

と述べ、曹の周圏の者に劃する警告を明らかにしている。この談話から、曹銀はこれまで一度として表立って果に反射の

意を表明したことがないことがわかる。そして、

それは逆に曹が呉に劃する反封を表立って表明する際は自らの主張を貫

徹するに足る蔦全の態勢をもって臨むであろうことをも示唆しているといえよう。

この談話がなされた二日後の十一月十八日園舎内における津保涯の代表衆議院議長果景糠・副議長張伯烈らが王内閣の

財政総長羅文幹の汚職事件をでっち上げ、ために羅は大総統命令で違法逮捕される。この事件がいかに強引であったかは

一九二二年十一月二十五日「羅案紀載内」に、羅文幹事件では種々解明しなければならない黙があるが「大総統

『長報』

(察元洪)及び臭(景凍〉張〈伯烈)の違法は最も明確で断定しやすい」とあることからも明らかである。

同記事によると十一月二十三日、臭景糠は繋元洪に面曾した際、

保定ではすでに

ω臭侃字を叱責する電報例もし、臭侃字が命にしたがわねば討伐を行うという電報の二つを用意して

-103ー

いる。

と語り原稿を見せたという。

既述の如く、津保涯は王承斌の第二十三師の中に臭侃字に近い第四十五抜放長王維城を含んでおり、他に北京近郊には

曹鎮の第二十六師のみであった。そして、これだけの軍事力をもってしては果の軍事力を背景とした北京の政治をくつが

えすことは従来不可能だったのである。したがって、この『屋報』記事に見られる、呉侃必ずに制到する武力行使も僻さない

という果景液、曹錫のきわめて強硬な封躍の背後には北京政治を直接左右するような自波に属する軍事力が増大し、少な

くとも臭侃字のそれに劉抗し得るようになったという情況判断がなければならない。そして、この軍事力とは鴻玉鮮軍を

103

措いてないのである。

Page 25: Title 曹錕・呉佩孚集團の興亡 東洋史研究 (1988), 47(1): 81 …...江南は近ごろ頗る中央に傾き、雲南の唐縫莞・貴州の婁粗銘・贋東の陳畑明・湖南の越恒協はみなひそかに中央と気

104

ち十一月二十三日にはいよいよ曹銀自らが羅文幹攻撃の通電を設し、翌二十四日、王承斌らもそれに附和する遁電を打

ついに二十五日呉偲字は曹に服従することを表明した。かくして自らの後ろ楯を失った王寵恵内閣は倒惜位するのであ

るもはや明白である。河南省において呉保字と針立していた鴻玉鮮の陸軍検閲使への轄任、寝間軍の改編正規軍化及び全軍

の北京への移駐、

その直後の羅文幹事件のでっち上げによる王寵恵内閣の倒壊は文字通り津保振による鴻玉鮮軍を抱き込

んだ軍事クーデタだったのである。

もともと全く別系統の針立であった曹・臭の劉立と濡・臭の劉立は濡の陸軍検閲使への轄任、その見返りとしての鴻玉

鮮軍の改編正規軍化によって一つにからみ合わされたのである。そして、この取引きが空手形に終わらないことを保護す

るためには陸軍検閲使への轄任と同時か、

できれば、それ以前に、果侃字系内閣の時黙で正規軍化を強行する必要が津保

-104ー

波にはあったのである。先に見た務軍の改編正規軍化の異常さは正にこのことを示しているのであって、曹銀系内閣の時

貼でなされたのであれば、

その意味の牢ば以上を失うものであった。

。円山O江口何回ハ巧。。は「鴻の勢力旗大を恐れた呉は二十二年十月三十一日鴻を陸軍検閲使に轄属させた。」「一時期、

鴻は津保汲に運を見い出した。曹鋸とその周圏の者も洛陽振に射する闘争における自らの位置を強化するであろう軍事力

をもったこの新しいメンバーをもろ手を上げて歓迎した。」「二十二年十一月までに鴻は曹銀波と見なされ、津保涯に鴻が

(

)

属していることは二十三年一月の組閣における津保汲と洛陽源開の闘争の結果を決定する上に重要な要因となった。」と

する。すなわち、呉が鴻を陸軍検閲使に轄任させたことは結果的に津保波の洛陽涯に劉する勝利、曹銀系張紹曾内閣の成

立につながった、というのである。だが、我々はこれまでの考察により、臭ではなく曹銀が鴻を陸軍検閲使に碍任させた

のであり、結果的にではなく主動的、周到な準備策動により洛陽に劃する津保波の北京政治における勝利があったのであ

り、それは曹鋸系張紹曾内閣の成立ではなく、臭侃字系王寵恵内閣の倒壊につながったと断言し得るのである。

Page 26: Title 曹錕・呉佩孚集團の興亡 東洋史研究 (1988), 47(1): 81 …...江南は近ごろ頗る中央に傾き、雲南の唐縫莞・貴州の婁粗銘・贋東の陳畑明・湖南の越恒協はみなひそかに中央と気

(mm〉

のちの軍閥研究もすべて評債を畏まっている。

F52円

ωrmHESが嘗時臭のために新聞紙上で宣博していた岡山

OEミペ・

25mユの「曹の支持者たちが鴻の移駐を

この軍事クーデタに関して巧00

のみでなく同時代の研究も、

唯一、

鴻が行きたがったと考えたのである。」という言を註に引き、

)

駐が曹波の策動である可能性を臆測しているのみである。本章は新聞・雑誌・楼案・回憶・日本の軍事情報文書を比較劉

鴻の移

遂げた。呉は特に鴻が去ることを望まなかったが、

照分析することを通して、このクーデタの賓在を検誼したものである。

王寵恵内閣倒壊の意味するもの

(

)

王寵恵内閣打倒の動きは孫丹林・高思洪を園舎が約法で定められた権限を行使して否定したことに始まる。したがっ

て、羅文幹事件を契機とする倒閣策動は明確に政府内の英侭字勢力の排除を目論んでいたということができる。宗方小太

-105ー

郎もいうごとく「要するに内閣問題の焦貼は交通・財政爾部の争奪戦にして、各々之を自黛の掌中に占握して金融の便を

計らんと欲するにすぎず、:::昨今の情勢にては此の南線長は曹銀系より出るに至るべく、呉侃字はその盛時に配置せし

高恩洪・孫丹林以下の総長壷く政局より排斥せらるるの悲運に逢着」したのである。その後に成立することになる張紹曾

内閣の閣員に闘し、曹鋸が交通、財政の南部とともに内務部の人事においても譲歩しなかった背景には先の内務総長孫丹

林の存在を抜きにしては考えられないであろう。張内閣はこの交通の果航麟・財政の劉恩源・内務の高凌爵の三人の保定

(位)

汲閣員を中心とする内閣であった。

内閣が臭侃字系から曹銀系になったことは直接に呉の財政にはねかえってくる問題であった。直毅汲が政権を握ってい

たとき、結局は大きな借款は無かったのであり、それゆえ、つぎのややのちの史料を使うことによっても一九二二年末の

105

「洛陽巡閲使署の経常費としては年額僅に二高四千南を計上

するにすぎず。支出の重なるものは何と言っても養兵費なり。現に洛陽直系の軍陵は五師、此他非正規師二師。正規軍の

呉の財政欣況を大枠の範圏ではあるが知ることができよう。

Page 27: Title 曹錕・呉佩孚集團の興亡 東洋史研究 (1988), 47(1): 81 …...江南は近ごろ頗る中央に傾き、雲南の唐縫莞・貴州の婁粗銘・贋東の陳畑明・湖南の越恒協はみなひそかに中央と気

106

経費は月十四蔦元を定額とし、

不正規軍には四蔦雨を補助とし、

その他は各統制官をして自給自足させる。斯くて月額七

十八高雨は本巡閲使に於て簿款せざるべからず。これ園軍の名ありて園費の支緋なし。

嬰態なる財政規董の下に在るを以

て、右は主として京漢線南段(黄河以南)の銭道牧入を以て充賞している。現在まで六年間で愛逼的箸款にて軍費を支持せ

(臼)

し総額は六八

O高雨に達す。」という。

(

)

このように銭道牧入と軍費との聞には重大な閥係があった。今少し詳しく見てみよう。まず、各地の軍聞の所在の銭道

からの徴牧がある。二十年央が京漢敏道南段に監牧慮を設けてより各地の軍闘がそれにならったのである。超伺は河南督

軍のとき、呉に京漢銭遁の河南省内における運賃を輿えている。曹鋸も河北省内の京漢線牧入を軍費にした。湖北督軍に

粛耀南が就任すると彼は湖北省の京漢線の全牧入を呉に迭り、

こののち、呉は河南省内の黄河以北の京漢線牧入を曹に譲

(

)

る。こうして、二十二年から二十四年にかけて京漢銭道の牧入は北段が曹に、南段が臭にはいることになった。曹鑓は北

(

段牧入一三

O高元の内八十高元を軍費に得ている。これが「監牧」である。

(

m

w

)

(

伺)

つぎに「協制」がある。呉は京漢線のほかにも隅海線、

津浦線からも金を受けとっている。

-106ー

そして交通部。交通部牧入には餓道のほかに郵便

・電報の牧入があるが、銭道牧入が大部分をしめていた。たとえば、

十九年交通部の全牧入三五OO除蔦元中、前二者は計三

OO徐蔦元のみであり、三二

OO蔦元が鍛遁牧入であった。衷世

凱が識道牧入からとり上げたのに倣って彼の後縫者たちは政務の費用のほとんどすべてを交通部の負措とした。

一九二

O

年における交通部牧入計一七七

O蔦元は財政部に五

OO寓元、他の部局に一

O三蔦元を支給し、

(

ω

)

(

初〉

内、督掛溢防虚に五

OO前向元、西北簿溢使に一二

O高元、陸軍部に一五

O高元、定園軍司令部に二二高元、安徽涯の督軍

残った

一一

六七蔦元の

政客に約二三

O高元、計一一一二高元が分配された(これには安直戟争後のことは含まれていない〉。

つまり、嘗時政穫を握っ

ていた安徽汲にほぼ濁占されていたことになる。二十二年十一月のこととして、それ以前の竿年聞で交通部から呉保字に

O九・九高元、曹銀に二四二

・四高元が支給されている。しかも、これは財政部を逼して支給されたもののみであり、

Page 28: Title 曹錕・呉佩孚集團の興亡 東洋史研究 (1988), 47(1): 81 …...江南は近ごろ頗る中央に傾き、雲南の唐縫莞・貴州の婁粗銘・贋東の陳畑明・湖南の越恒協はみなひそかに中央と気

(

交通部から直接支給された額は不明であるという。この半年聞は高恩洪の交通総長在任期間であり、高が臭に曹鋸に倍す

(

η

)

る金額を優先的に支給していたことがわかる。以上が「提款」である。この高に射し、曹銀は不明瞭な罪で検奉させ、交

通総長の座から追う。

したがって、曹銀系内閣の成立は先の臭細川学優先の交通部よりの支給を逆輔させることを意味して

、駒田O

BU争h嘗

時、北京政府の財政は極限朕態にあった。借款が獲得できないため、軍鮪が支給できず、全圏各地で兵獲が多設し、

(η〉

二十二年七月・八月だけでも保定・熱河等で兵第が起り、北京にも波及した。二十一年から二十二年には外固からの借款

ハ丸〉

も少なくなり、給料未抽怖いは重大な祉曾問題となり、丘(襲のみでなく北京政府各部の職員も給料支沸いを要求してくる。

〆'田幸、、

3Lφh4M

このため、二十二年七月には交通線長高恩洪が京奉・京漢・京綴・津浦の四銭逼を捻保として三億元の統一大借款を提議

(

)

四園借款圏は顧慮する所があって慮じなかったという。したがって、九月に成立した王寵恵内閣にとり嘗面の最

大の緊急課題は借款獲得であった。

だカ

『密大日記』に「京漢京綴雨銭遁牧入詑南銭遁ノ株券ヲ捨保トセル六千蔦元借款ハ等シク英園ニ於テ之-一鷹セン

-107-

トスルモノノ如ク高恩洪一波ハ一該資金ヲ以テ新ニ交通銀行ヲ設立シ永久的一一呉侃学ノ軍資金調達所タラシメントスルノ計

霊ナリト稽セラル而シテ本借款談モ相嘗準捗シアリシハ事賞ナルモ王寵恵内閣既ニ倒レ高恩洪ノ地位亦夕、氷績ヲ期シ難キ

(

%

)

現況ニ於テハ最早ヤ成立ノ望ヲ失ヒ其寅現ハ期待シ得ラレサルニ似タリ」とあるように英米とそれに麿じた呉の方針で成

立した王寵恵内閣の倒壊は借款獲得の望みを大幅に減退させることを意味していたのである。

既述の如く、法統回復及び王寵恵好人政府の方針は闘内の統一策だったのであり、その完成を期すベく、臭侃字側は陳

(竹川〉

畑明反組後、二十二年八月に上海に移った孫文に射しでも吸牧工作を展開していった。だが、孫文の側では九月の張皐良

への手紙の中で「文、頃ろ書を傘公に致し、此の後の軍事進行、仰お宜しく西南より護難し、険に援りて敵と相持し、彼

をして準まんと欲するも得ず、退かんと欲するも得ざらしめ、然る後、隼公、大兵を以て直ちに北京を掲き、津・保を略

107

Page 29: Title 曹錕・呉佩孚集團の興亡 東洋史研究 (1988), 47(1): 81 …...江南は近ごろ頗る中央に傾き、雲南の唐縫莞・貴州の婁粗銘・贋東の陳畑明・湖南の越恒協はみなひそかに中央と気

108

定し

以てその巣穴を覆し、

との反直三角軍事同盟締結のため、十七日には胡漢民・在兆銘が杭州において安徽汲の直永鮮との協定を終え、二十二日

(

)

には今度は在兆銘が奉天に赴いており、呉・孫聞の交渉がきわめて抽象的で単なる政治的麿封のレヴェルを越えていない

(

)

その野路を紐たば、敵必ず滅ぶべきを述ぶ。」とあるように早くも九月には奉天涯・安徽振

のに封し、孫・直・張聞の交渉は具鐙性においてはるかに優っていたといえるであろう。王内閣の倒壊はもともと除り可

能性の高くない孫文吸牧工作を決定的に望みうすにした。

和卒統一策から武力統一策への時換に闘して、胡縄は「一九二三年の「二・七」虐殺事件は、呉侃字の軍隊が直接手を

下して京漢鍛遁の務働者を虐殺したもので、彼の凶悪な委が徹底的に暴露された事件であった。同年三月、臭侃字は洛陽

で軍事曾議を聞き、「武力統一」の旗を高々とかかげた。洛陽の策動と指導のもとに戦禍は四川・湖南・一幅建・贋東の各

(

)

地にひろがったよという。

たしかに呉の武力統一策への碍換が

大々的に明確になるのは二十三年の三月であるという読明で満足しよう。だが、我々はこの聞に革命史上、決定的重要性

我々は軍閥政治史を革命史と切り離して考えるならば、

-108ー

を持つ事件||京漠銭道二・七惨案ーーが起っているのを見通すことはできない。そして、二・七惨案を考慮に入れると

き、果の武力統一策への碍換が二十三年三月に起っているとした場合、革命運動の側にはもはや劉慮のしようのない呉の

中園戦略の突然の轄換であったことになろう。果の武力統一策への轄換は員に突然で議測不可能のものであったのだろう

台、

臭侃字の

一連の動きをきわめて鋭く見抜いていた人物がいる。孫文である。彼は二十二年十二月二十八日の蒋介石への

書函の中で、

近日呉侃字は北京で政治に挫折し、

四面楚歌となり、自救の計略を行なおうとしている。そこで長江の配下回・五高

はじめ、江蘇の斉愛元、江西の禁成動はともに懐

(引出〉

疑をいだいて反劃したが、近頃すでに一意志が疏通一致し、協力して一踊建を狙っている。

人を糾合し、孫停芳を綿司令とし、一幅建に向けて設展させている。

Page 30: Title 曹錕・呉佩孚集團の興亡 東洋史研究 (1988), 47(1): 81 …...江南は近ごろ頗る中央に傾き、雲南の唐縫莞・貴州の婁粗銘・贋東の陳畑明・湖南の越恒協はみなひそかに中央と気

と述べたのち、この軍事行動が陳畑明軍との孫文系軍隊に封する挟撃に瑳展する危険性を墜を大にして指摘し、園民黛軍

の奮起を促している。周知の如く、この園民黛軍の動きは二十三年二月の大元帥府の成立へとつながっていく。それはと

(mM)

もかく、孫俸芳の軍事行動の始まりは二十二年十一月二十三日のことであり、曹鑓の羅文幹攻撃の遁電と同日、呉偲学の

曹鑓への屈服の前日のことである。孫俸芳の軍事行動の開始はその準備期聞をも考慮に入れるならば、果が北京で政治に

失敗したがゆえに起されたのではない。

したがって、これをもってただちに武力統一策への轄換であると見なすことはで

きず、孫停芳濁自の動き、あるいは呉の承認を得たものであっても中園の南北の政局を揺り動かし、全園の情勢に影響を

輿える動きと見なすことはできないであろう。が、

しかし、この孫停芳の動きが彼のみの動きでなく、江蘇の斉愛元、江

西の奈成動との共同行動となった段階においてはすでに武力統一策への碍換であるとみなさざるを得ないのである。そし

一九二二年十二月十八日の「果侃字は四川軍のこのたびの東下に封して防御策をとるだけでな

(回〉

く、この機舎を利用して四川を討伐する一意向であるにとあるように東南方面のみ孤立的になされたものではなかったの

て、この動きは『員報』

である。

-109ー

中央における政治を左右せんと一意園し、

しかも、直接に中央における軍事力の威力による政治力の回復という方策を選

揮しなかった以上、もはや果侃字にとっては中央ではなく、地方における軍事的勝利による政治力の回復の道しか蔑され

ていなかったのである。そして、これはまた、一九二二年八月の時黙における孫丹林の「二師圏を使って贋州を直撃する

だけですべての問題が無くなるだろうよという不遜な言に見られるごとく、

主観的にはきわめて容易に完遂せられ得る

ものであった。直譲渡の政治的自殺行痛ともいうべき曹鋸賄選へと急角度で進むであろう中央の動きを可及的速やかに阻

止する必要が臭にはあったのである。かくして、王寵恵内閣の倒援は必然的に臭の中園戦略に重大な第更を、すなわち、

和卒統一策から武力統一策への轄換、しかも急激な轄換をもたらすことになったのである。

109

もともと直隷涯には日本の陸軍土官拳校出身がほとんどおらず、奮式の軍事皐校で聞学んだ軍人がほとんどすべてをしめ

Page 31: Title 曹錕・呉佩孚集團の興亡 東洋史研究 (1988), 47(1): 81 …...江南は近ごろ頗る中央に傾き、雲南の唐縫莞・貴州の婁粗銘・贋東の陳畑明・湖南の越恒協はみなひそかに中央と気

110

(山山〉

ていた。臭が王内閣の倒療を許したことは臭侃字集圏を形成していた新しい部分の崩壊を一意味した。さらに先の孫丹林の

(

)

不遜な武力統一策震動の言に胡適・奈元培等が猛反麗したことからわかるように名義のない戦争震動は従来臭侃学側に結

集せんとしていた、それゆえ、それはまた臭の全園レヴェルでの政治力をも決定していた部分が臭から離反していく契機

となった。かくして、

王内閣の倒壊は呉集圏の愛質をもたらすことになったのである。

孫丹林らの預測に反して臭の武力統一

策が遅々として進捗しなかったのも、けだし、嘗然であった。この問、中央では

曹錦が賄選への暴走を開始していた。したがって、曹鋸・臭細川字集圏はその行動形態において二大分裂の吠態に陥いって

行ったといえよう。

たしかに臭は直隷源内において曹鋸賄選に射して一度たりとも賛成したり推進したりしたことはなか

ったし、これ以後もない。だが、呉の主観的一意固とは裏腹に、呉の武力統

一策は客観的には曹鋸賄選を武力で全園に強要

することを一意味したのであり、もはや、臭の武力統一策は意世凱や段棋瑞のそれと何ら選ぶところがなくなっていたので

のある軍闘を二十年代型の軍閥とし、

今、軍闘を類型化して民族運動、あるいは民衆運動の波を何らかの形で受け入れ、あるいは利用していこうとする傾向

その巌しい軍事訓練及び民衆運

-110-

ある。

それの見られないものを十年代型の軍閥とすると、

動との政治・軍事的連関性を二大特色として勢力機大の過程を歩み、呉侃字によりリードされてきた曹・呉集圏は前者の

みを残し、

鋸・果侃字集園の奮軍閥への全き回闘をもたらすことになったといえるのである。

後者を振りすてることにより十年代型軍閥へともどったのである。

この一意味で王内閣の倒壊は最終的には曹

以上、あらゆる一意味において王内閣の倒壊は曹・臭集固にとり最大の轄換貼となったのであり、

一九二四年十月の第二

次奉直戦争における敗北、あるいは、そののちの園民革命期における呉侃字軍の最大の反革命としての登場も、

この轄換

の皐なる除壇にすぎないのである。

Page 32: Title 曹錕・呉佩孚集團の興亡 東洋史研究 (1988), 47(1): 81 …...江南は近ごろ頗る中央に傾き、雲南の唐縫莞・貴州の婁粗銘・贋東の陳畑明・湖南の越恒協はみなひそかに中央と気

111

註(

1

)

文公直『最近三十年中園軍事史』下、

(文星書庖版)。

(2〉『時報』一九二

O年九月二十日。

(3〉陶菊隠『奥傾向子将軍停』(中華書局、

一頁。

(

4

)

奥侃字に関しては詳細な俸記として、

OEユロペ・戸当00・

hbhtih連立』向。吾、誌のFSF叫

JFRP2町、。¥司臣、3・

¥NrHEalωu・〉EH『包EロZ巳5E-c-Hysaがある。他

に蒋自強・余一幅美編『呉伺字』〈山東人民出版社、一九八五

年)、郭剣林「呉侃字評停」(『近代中園人物』第二輯、中園

祉舎科皐出版社、一九八五年九月)、波多野善大『中園近代

軍閥の研究』(河出書房新祉、一九七三年七月〉の諸論文、

卒野和由「民園期中園の支配構造||一九二

0年代前半の軍

閥支配と民族運動」〈『歴史皐研究』別朋特集、一九八二年度

歴史皐研究大曾報告、一九八二年十一月〉がある。また、嘗

該時期の鍛道勢働運動と突傾向子の関係を扱った好論文に高綱

博文「中園銭道勢働運動の褒展とその構造||『二七』事件

の基礎的考察」(『歴里評論』一一一一一八、一九七七年〉がある。

(

5

)

清水安一一一『支那新人と繁明運動』(大阪屋競書庖、大正十

三年〉五八頁。

(

6

)

陸軍省『密大日記』「奉直再戦設-一就テ」大正十二年四月

十四日、なお、陸軍省『密大日記』に関しては、大正十五年

第六加に「本史料は大東亜戟争中、米軍が直接戦場で歯獲

し、叉は内地進駐後、陸軍諸機関から押牧した記録文書の一

一一八l一一九頁

一九四一年四月)一二

つであって、長くワシントン郊外ブランコニヤ等の記録保管

所に保管されていたが米園務省に封する日本政府の返還要求

に態じ、昭和三十三年三月日本側に引渡され、四月十日防衛

研修所戟史室の手に錫したものである。」とある。『密大日

記』に含まれる情報の渡信者は公使館附武官、各地の武官、

関東軍参謀部、参謀本部、支那駐屯軍司令部、外務〈領事〉

などであり、過字数を占めるのは公使館附武官からの情報で

あり、第二位が支那駐屯軍司令部からのものである。後出の

「北支那軍事調査報告」は後者の作成に係る。地域別には華

北が屋倒的に多く、東北がこれに次ぐ。華中・華南の情報は

きわめて少ない。

(7〉北京を握る大軍閥の中園戦略及びその縛換の構造が明らか

になってはじめて関内の二極構造あるいは関外の奉天波をも

含めて全中薗における動態的三極構造も明らかになってこよ

う。その中聞に位置する諸軍閥の劉態ーーその最たるものが

連省自治運動||の構造も明確化しよう。また、嘗一該一時期に

おける諸黛波の情勢分析及びそれに基づいた方針も道義的硬

直的評債から離れてその嘗一合を歴史的現寅との距離を以て制判

断せられることになろう。

(

8

)

章君穀『呉伺字惇』(俸記文聞学出版社、一九六八年九月〉

一九二頁。

(9)

丁文江『民園軍事近記』(北京商務印書館、民園十五年〉

一三頁。

(凶)章君穀前掲書、二六

O頁。

-111ー

Page 33: Title 曹錕・呉佩孚集團の興亡 東洋史研究 (1988), 47(1): 81 …...江南は近ごろ頗る中央に傾き、雲南の唐縫莞・貴州の婁粗銘・贋東の陳畑明・湖南の越恒協はみなひそかに中央と気

112

(

U

)

ジエロ

1ム・チェン謬書『軍紳政権軍関支配下の中園』

〈岩波書脂、一九八四年)六四六五頁。なお、この曹・奥

集圏の抜大に伴い、曹鏡は直魯臨席巡閲使(一九二O年八月二

十日J一九二三年十月十日)に、呉備字は同副使(一九二O

年九月二日

t一九一二年八月九日)・雨湖巡閲使(一九二一

年八月九日J一九二三年十一月十一日)にそれぞれ就任して

いる。

(ロ)陶菊隠前掲書、五一頁。陶菊隠『北洋軍閥統治時期史話』

(生活・議書・新知三聯書庖、一九八三年版)中、一O八O

頁、

(以下『史話』と略す)清水安三前掲世一回、六八頁。

『密

大日記』「貴志少賂中支那放行報告」一九二四年八月二O日。

孫鐸「英傾字奥園民栄」(『轡導』第二十四期、一九二三年五

月九日)なお、孫鐸は

71リン

(EE門戸ユロロ臼

ωロ2JL5Cの筆

名(『馬林在中園有閥資料』一頁。人民出版祉、一九八O年〉。

(臼)以下、岡野崎相次郎『奥伺字』(大日本精神修養道場蔦雲閣、

一九三九年〉第六章「左右の人物」による。

(

U

)

白竪武「白堅武自撰小侍」(『近代史資料』一九八二年第一

期)により補充。

(お〉著名な外交家顔恵慶、顧維鈎はともに同大皐卒であり、同

大皐は外交官の登龍門であったと考えられる。園田一勉『支

那新人圏記』(大阪屋統書広、一九二七年)一七八頁。

(四〉園田前掲書、一五六|一五七頁。『中華民図史事紀要』民

園十一年、八八O|八八二頁。

(げ)『胡遁的日記』(中華書局、一九八五年〉下、一九二二年

六月十九日の僚、三八三頁。『中園名人録』には。漢塵夕、

『李大剣年譜』(同編篤組、甘粛人民出版社、

一九八四年)

一九二O年十月十六日に必侠拭¥『辛亥以後十七年職官年

孝弘』及び楊家路『民闘名人園鑑』(辞典館、

一九一三ハ一二七〉

。翰丞多とするが経歴から見て明らかに同一人物を指して

いる。

(国)前掲『胡遁的日記』一九二二年六月十九日の係。

(

8・毛・ミ

--nEB二-

(却〉凶今風平呂縄『三水梁燕孫(土諮)先生年譜』(文海出版社、

近代中園史料叢刊)下、一四二頁、一九一一一年一月十九日の

候。彼は

「私はこの訪中において完全にアメリカの銀行を代

表する権利を持っている。」と言っている。

(幻)十内恩施「針子中園時局之建議」(『東方雑誌』第十七巻第十

八銃)。

(

n

)

チェン前掲書、第九章。

(幻)「白堅武自撰小俸」。

(μ〉

H42mFEロm--r叫

dZE号、同位。ミ。h,

hznE2足

N30NRHSFFSLopS8・官

-Eι・李剣農『中園近百年政

治史』(蓋湾商務印書館、

一九七七年版)、五七二|五七三頁。

(お)和森「目下時局輿園際脅図主義」(『禽導』第六期、一九二

二年十月十八日〉。

(お〉『顧維鈎回憶録1』、二四四頁。

(幻)『史話』下、二九O頁。

(却〉『史話』下、二七一頁。

(mU)

陶菊隠前掲書、八三頁。

〈ぬ)の

Zロ同町内

5・pp

4EHN帆

EAEどのとミ足。。遺書

5主

-112ー

Page 34: Title 曹錕・呉佩孚集團の興亡 東洋史研究 (1988), 47(1): 81 …...江南は近ごろ頗る中央に傾き、雲南の唐縫莞・貴州の婁粗銘・贋東の陳畑明・湖南の越恒協はみなひそかに中央と気

113

MMA刷、岡、・、同,roc-司・0同開ωロgpH山田吋H・40--Y司-M白白・

(但〉『史話』下、一一九六頁。

(mω

〉章君穀前掲書、三四六頁。

(お〉『史話』下、一一七一頁。

(鈍)章君穀前掲書、一二四六頁。

(お)『史話』下、二一七五頁。

(お)王維城「直系的分裂和二次直奉戦争直系的失敗」(『北洋軍

閥史料選輯』中園祉禽科皐出版社、一九八一年)下、九一一|

一O四頁。

(幻〉『史話』下、二一七五頁。

(お〉『中華民園史事紀要』、民園十一年八月十四日、=一

O六頁。

(鈎)『史話』下、一一九四頁。

〈州制)李泰芥『園民軍史稿』〈一九三

O年。中園近代史資料叢編

之七『西北軍紀賞(一九二四l一九三

O年〉』所枚、大東園

書公司、一九七八年〉七三頁。

(

M

U

)

車問玉鮮『我的生活』(上海数育書底、民圏三十六年〉四五

五頁。

〈MM)

李泰十分前掲書、七

O頁。また、劉汝明『劉汝明回憶録』

(停記文皐出版社、民園五十五年〉四四頁。

(必)張紹程「張紹曾事迩回憶L

(

『文史資料選輯』第三十輯、一

九六二年九月)。

(川叫)宮町玉鮮前掲書、四五七頁。

〈必〉同書、四五六頁。

(必〉同書、四五九頁。

(幻〉白堅武「第二次奉直戟日記」(『近代史資料』一九八二年第

一期)。

(必)『史話』下、一一九二頁。

(品目)濡玉鮮前掲書、四六

Ol四六一頁。

(印)李泰茶前掲書、七五頁。また、古同興亜『宮崎玉群将軍』

京出版社、一九八二年〉一三三頁に類似の記述がある。

(日)李泰募前掲書、七五頁。

(臼)『密大日記』「北支那軍事調査報告」大正十二年五月末日

調の第十一師の所。

(臼)劉駿・節哲隈「糧問玉鮮督稼前後」ハ『文史資料遷輯』第一一一十

五輯、一九六三年五月〉。

(臼)李泰芥前掲書、七七|七九頁。

(日)章君穀前掲書、四五二一貝。

(印)文公直前掲書、上、第二編、一九|二四頁。

(gd〈

09

毛-SZ唱・

5・

(国)いかにこのクーデタが巧妙であったかは代表的研究室百がほ

ぼすべて見賞遠いの評債を下していることを見ても明らかで

ある。

ω文公直は「北京政府は酋日銀

・奥偲字が漏玉鮮の勢力

媛大を恐れたことにより、北京へ移動させて陸軍検閲使に任

じた。」(文公直前掲書、上、第二編二ニl一四頁)とし、

ω章君穀は「賞時、保府(曹錠)と洛奥(臭傾向子)はすでに

亀裂が見られたが、まだ表面に現われておらず、とりわけ鴻

玉鮮排斥に関しては保・洛の意見は一致していた。」(草君穀

前掲書、五二九頁)とし、

ω布施勝治は「嘗時の嘗銀や奥畑

字等の意聞は鴻玉砕を陸軍槍閲使の空位にまつり上げ、その

軍隊の補給ロを塞ぎ、以てその貧カの自然消滅をはかったの 〆「

ゴヒ

-113ー

Page 35: Title 曹錕・呉佩孚集團の興亡 東洋史研究 (1988), 47(1): 81 …...江南は近ごろ頗る中央に傾き、雲南の唐縫莞・貴州の婁粗銘・贋東の陳畑明・湖南の越恒協はみなひそかに中央と気

114

である。」(『支那園民革命と宮崎玉鮮』五四頁、大阪屋挽書庖

昭和四年〉とする。川阿波多野善大氏はコ一十二年十月末、奥

侃m子は察大総統にせまり、糧問玉鮮を陵軍検閲使として北京の

南苑に移駐させた。」(波多野前掲書、四

O二頁〉とし、同李

創設は「漏氏は兵を有するが地盤がなく、出路のない北京に

駐屯し、奥の支配を聴かねばならなかった。呉氏はこれを雄

才を統御する妙策だと考え、これが内部勢力に亀裂が入る起

貼であることがわからなかった。ー」(李剣農前掲書、六五一

頁〉としている。

(

32肘

-FOES-92担割、ねるよ吋と

P之内、。¥

句刀、沼町同骨

-Fbgh-ωZ口問OEC・p・58・司・口∞・

(

ω

)

『顧維鈎回憶録1』二四五|二四六頁。

〈臼〉一脚谷正男編『宗方小太郎文書、正編』(原書房、一九七五

年〉「報告第六百二十七抗、大正十一年十二月八日」。

(位)『史話』下、一一一一一一|二二三頁。李剣農前掲雲、五九

五頁。

(臼)岡野前掲書、五二二五二三頁。

(臼)以下、注記しない限り沼汝成『一一帝園主義輿中園鍛路一八

四七|一九四九』(上海人民出版社、

一九八

O年)による。

(臼)章君穀前掲書、四五八頁。

(侃〉『時報』一九二二年七月二十九日「曹銀交出京漢路北段之

代償」。

(mむ岡野前掲書、三八

O頁。

(伺)等製呂編前掲書、第二加、二ハ二頁。

(回〉(叩〉それぞれ安徽汲の段棋瑞と徐樹録が長官であり、安直

戦争後撤慶された。銭貧甫『北洋政府時期的政治制度』

華書局、一九八四年)上、二

O一一一|-二

O四頁。

(九〉『史話』下、一二

O六頁。『長報』一九二二年十二月八日

「誇看高恩洪供給軍閥之飼款」。

(

η

)

章君殺前掲書、四七八頁。

(

η

)

『史話』下、一一八四|八五頁。

(丸〉チェン前掲書、一一八頁。

(万)『史話』下、一一八五頁。

(祁)『密大日記』一九一一一一一年二月二十一日「安逼借款ニ就テ」。

(包巧00・毛・

54nF35?FE5245岳

HVOF22

CEoppoのEロ20

のOB自己巳白押切回ロ島

ωロロペ白骨・開。ロ.には

孫文

・奥傾向子の合作が貧現直前の紋況まで進んだが王内閣の

脳媛で挫折したと論じられているが、あまりにもコミンテル

ン及び中園共産禁の資料に依りすぎ、孫文及び奥伺字の戦略

を軽視していると思われる。なお、

。孫呉合作ψ

に関しては

村田雄二郎「李大剣と「孫呉合作」l|奥傾字との関係を中

心に」(『猫頭鷹近代中園の思想と文皐』第四説、一九八五

年十二月)参照。

(刊日)「復張皐良函」(『孫中山全集』第六傘、中華書局、一九八

五年)五五七頁04#公ジは張作森のこと。

(乃〉羅家倫主編、責季陸槍訂『園父年譜』(民園五十八年)下、

九一

O真、九二頁。

(加)胡縄『中園近代史一八四G|一九二四』〈卒凡社、一九

七四年〉二八五頁。また、

ωroュι2・。、・

2H4同

YHN印には

ご九二三年初の数箇月問、軍事場裡においては奥は大いに 中

-114ー

Page 36: Title 曹錕・呉佩孚集團の興亡 東洋史研究 (1988), 47(1): 81 …...江南は近ごろ頗る中央に傾き、雲南の唐縫莞・貴州の婁粗銘・贋東の陳畑明・湖南の越恒協はみなひそかに中央と気

活設であった」とある。

(飢)「致蒋中正函」〈『孫中山全集』第六巻)六四六頁。

(回)郭廷以編著『中華民園史事日誌第一加』

(中央研究世田近

代史研究所、中華民園六十八年〉。

(回〉『島民報』一九二二年十二月二十八日「呉伺字有意攻川」。

115

一九二二年八月十四日の僚、

(刷出)『胡遺的日記』下、

頁。

〈部〉園田前掲書、四五頁。

(邸)註(制〉に同じ。

四二九

-115ー

Page 37: Title 曹錕・呉佩孚集團の興亡 東洋史研究 (1988), 47(1): 81 …...江南は近ごろ頗る中央に傾き、雲南の唐縫莞・貴州の婁粗銘・贋東の陳畑明・湖南の越恒協はみなひそかに中央と気

  

SECRETARIAT EXAMINERS 中書楡正官

―Supporters of Wang Anshi's Administration―

       

KUMAMOTO Takashi

   

Above

 

a11Wang Anshi possessed rationality,a characteristicsof

Northern-Sung scholars. べA^henwe try to throw light not on his individual

policies,but on the administrative procedure controling them, 'Secretariat

examiners' supply us with instructiveinformation。

   

They were first-classscholars, not only well-educated,but also com-

petent to conduct business efficiently.Through them, Wang Anshi held

actual power over the government. It is worth mentioning that each of

the general directors of the Court of National Granaries 司農寺, which

promoted the New Laws, concurrently held the post of‘Secretariateχ-

aminers', and that almost all the statuteswere announced by way of them。

   

However, centralizingpower on the prime ministerin order to increase

administrativee伍ciencybrought about frictionwith the absolute monarchy.

After Wang's downfall, when Shentsung himself controlled the govern-

ment, 'Secretariateχaminers' were no more than clerks. The rejection

of Wang's rationalism shows the limits of 'progressiveness'in lateimperial

China.

THE RISE AND FALL OF THE CAO KUN 曹鏡-

      

wu PEIFU 呉佩孚FACTION

Matsuo Yoji

  

Wu Peifu was admired as a“Revolutionary general”in the period of

the May Fourth Movement. But after only a few years, in the period

of the National Revolution, he became the biggest counterrevolutionary,

and was defeated by the National Revolutionary Army. ぺA^hatbrought

about this military-politicalfallof Wu Peifu?

  

By introducing the idea of a‘Strategy of Unifying China' and in-

                   

-3-

Page 38: Title 曹錕・呉佩孚集團の興亡 東洋史研究 (1988), 47(1): 81 …...江南は近ごろ頗る中央に傾き、雲南の唐縫莞・貴州の婁粗銘・贋東の陳畑明・湖南の越恒協はみなひそかに中央と気

quiring into changes in it, this essay attempts to answer this question.

  

The author's conclusions are as follows:

  

The Wang Chonghui王寵恵cabinet which Wu Peifu supported

collapsed at the end of November 1922.

  

This was the result of the coup d'etat in which Cao Kun, ぺA'^ang

Chengbin王承斌and Feng Yuxiang 馮玉祥formed a united front against

べA^uPeifu. The collapse lead to a change in the strategy. And this

change brought about a complete retrogression of the Cao Kun-Wu Peifu

faction into a warlord faction of old type.

RCM SALTANAT AND KHWARAZMSHAH

        

ITANI Kozo

   

The last Khwarazmshah Jalal al-Din was the greatest “hero” against

the Mongol invasion in West Asia. His energetic military operations

extended from Kirman to Rum (Asia Minor or Anatolia). Five con-

temporary historians, being Ibn al-AthIr, al-Nasawi, Juwayni, Ibn Bibi and

al-HamawI recorded his activity in detail. These historical sources lead

us to the following conclusion.

   

Jalal al-Dln's vigorous operations against Georgians since his appea-

ranee in Adharbayjan (1225) were highly estimated by Muslim authors。

                                        

-But when he entered into an alliance with al-Mu‘azzam, son of a1-‘Adilb.

Ayyub, Jalal al-Dln was involved in a rivalry between al-Mu‘azzam and

al-Ashraf, another son of a1-‘Adil. After his first siege of Akhlat, an

important city in Armenia ruled by a deputy of al-Ashraf, Khwarazmians

were accused of their“evilness of behavior” by Ibn al-Athir.‘Ala' al-Din

Kayqubad, Sultan of Rum was related by marriage to al-Ashraf and al・

Kamil・ ruler of Egypt, in 1227.  After the capture of Akhlat by Jalal

31‘Din (1230) and his ・Uiance with the ruler of Arzan al-Rum, cousin of

Kayqubad・ Rum Saltanat and the house of Ayyub formedan alliance

against Jalal al-Dln. Finally Jalal al-Dln was defeated bythe allied forces

3t Yass'i Chaman・ neai‘Arzinjan on 28Ramadan 627 A. H. (10. 8.1230).He

could never recover from this defeat and ayear later was to be killed

                   

-4-