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Title 陜甘寧邊區における中國工業合作運動 Author(s) 菊池, 一隆 Citation 東洋史研究 (1991), 49(4): 698-728 Issue Date 1991-03-31 URL https://doi.org/10.14989/154355 Right Type Journal Article Textversion publisher Kyoto University

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Title 陜甘寧邊區における中國工業合作運動

Author(s) 菊池, 一隆

Citation 東洋史研究 (1991), 49(4): 698-728

Issue Date 1991-03-31

URL https://doi.org/10.14989/154355

Right

Type Journal Article

Textversion publisher

Kyoto University

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侠甘寧蓬匿における中園工業合作運動

一港区への「工合」導入の背景

ニ港区「工合」の開始と展開

三港区「工合」一祉の構造と生産

- 74一

t土

Uこ

日本の侵略に封抗して一九三八年八月護動された工業協同組

合方式による大衆的工業生産運動である。その特質は民主汲が構想し、自ら板となり、指導することで園共爾黛を巻き込

み、経済面での抗日民族統一戦線として機能したことである。従来、統一戦線の形成過程、とりわけ路線問題や救亡運動

(1)

等の政治面からのアプローチは見られても、園共南地匡を貫通する運動で、それ自鐙が統一戦線を鎧現する「工合」運動

中園工業合作運動(以下、「工合」

運動)とは抗日戦争時期、

の重要性に劃する認識は十分とはいえない。とはいえ、八三年中園で「工合」協舎が復活、再び工業合作社(以下、「工合」〉

(2〉

が組織されるのに前後して「工合」に劃する回顧録、論文等も出されるようになった。これらは中園共産議(以下、中共〉

との関連や園際的支援を強調しているが、研究は緒についたばかりで、賞態解明には極めて不十分であり、かつ溢医「工

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合」については、園民黛地匿の「工合一に比して所属や管理形態が複雑なこと等から扱いが難しく、専論は管見の限りな

(3)

ぃ。私はこれまで「工合」の創出過程、園民黛地匿、及び遊撃匿の「工合」等々について論文を護表してきた。しかし

「工合」蓮動の本格的解明には溢匡「工合」の寅態解明が不可歓と考えられるので、本稿では逢匿「工合」導入の背景、展

開、その役割と一意義等について賞誼的に論じていきたい。

謹直への「工合」導入の背景

延安「工合」事務所ハ以下、延安事務所〉は一九三九年四月に成立した。それに劃して重慶所在の「工合」協舎は行政費

(4〉

(事務所設立費)一五

OO元と貸付金二寓元、及び毎月経常費三

OO元を支出している。かくして「工合」は園民黛地匡と

溢匿を貫通する運動として重要な役割を携うこととなった。とはいえ、法匿への進出は順調にいった詳ではなく、園民黛

側も消極的であったし、首初中共側も批判的であったと考えられる。すなわち、

CC系が「工合」を「共産議系」と攻撃

- 75一

一方中共側は「改良主義的」と見て敵意さえもっていた。{木慶齢は「工合」を支持したことで中共から激しく批

(5)

剣され、それは「修正主義プルジ

zア組織」といわれたという。

したが、

では反封理由を知るため、

ソビエト期の中共の主張に遡って考察を加えたい。合作祉に劃する中共の従来の見解はレ

l

ニンの協同組合理論を踏襲していた。すなわち、書昌は中共中央局機関誌『闘争』の中で、ム口作祉の性格は合作社自瞳に

よって決定されず、資本主義、祉曾主義という枠組で決定されると述べている。特に改良主義者は「合作主義」「合作祉曾

主義」を宣侍して階級闘争を否認し、革命的第働運動と闘争し、全世界無産革命闘争の最も凶悪なる敵の一っと断ずる。

とはいえ、

ソビエト匿では合作祉は査本主義企業でも社曾主義経済でもなく、土地革命の中で生長してきた小生産者の一

699

種の集園経済で傍曲演に擁護されていると評債する。ただし構成分子を第働者、貧農、中農に限定し、搾取分子たる地主、

(6)

富農、資本家を排除するとともに、合作社内での中共の指導の必要を強調するのである。また、亮卒も合作運動は持久的

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革命戦争中、経済建設で重要な一環を占め績け、ソ匡の全般的経済朕況、大衆生活を高める過程で主要な役割を果たし、

それは経済面で大衆を組織、教育し、革命的積極性を琵揚させ、第農同盟を強固にして革命戦争の徹底的勝利等に非常に

(7)

一意義があるとした。このように合作社自櫨の否定ではなく、ソ匡での役割を高く評慣するのである。

ところでソ匿における合作祉の寅際状況はいかなるものであったであろうか。例えば江西を中心とする中央ソ匿の合作

祉総数は三三年八月九五

O社、社員数一九高四三九八人であった。業種別には消費、糧食がそれぞれ社数の四三・九Mm、

八ゲカに過ぎず、翌年二月段階では祉総数は三

O二八社と大きく伸び、生産

四八・一

Mmを占めるのに劉し、生産は七六社、

合作祉も一七六社と二倍以上の伸びを示したが、全鐙に占める割合は五・八Mmであった。なお、生産合作祉の規模は三三

(8)

年一吐卒均二三一人、三四年一八六人でかなり大規模であった。これらの業務を見ると、消費合作祉の任務は大衆日用品

供給と紅軍家族への減債優待、糧食合作祉の任務は食糧調整であるが極めて不十分で、一部は消費合作社的営業を行ない、

- 76ー

一部は農業倉庫的役割を果たしている。これら二種の合作祉は僅かな物資を貯蔵し、安債で数率よい配分のため重視され

(9〉

たと考えられる。生産合作祉の業務は紙業、製盤、樟脳、織業、紡織、石灰等で、いわゆる工業生産合作祉であった。た

(ω)

だ紙業合作祉が康範に設展している外、鋳鍛合作社三、四位が一幅建省寧化等に注目されるだけであった。そして手工業

(日)

(生産手段劣悪)を基本とした雇傭州労働の小工場で、集圏所有制という側面でも極めて不十分であったらしい。

周知の通り、中共中央は三四年一

O月中央ソ区を放棄、約一年後長征により快西に辿り着いたが、

そこは岩瞳、石景、

ほとんど工業らしきものはなく、江西より工業面で極めて立ち遅れた地域であっ

(ロ)

た。コ一六年になっても公営工場は僅かに印刷、被服、軍需の三工場(職工約二七O人)であった。それ故、三八年以前は日

石油、鍛等の資源は豊富であったが、

用品の大部分を移入に仰いでいたのである。しかし三八年から工業建設が重視され始め、難民紡織、造紙、農具、皮革、

八路軍製繋等の各工廠が創設され、三九年には公営工場が一

Oに増大したが、生産方法は主に動力機、畜力を用いず、手

(日)

工作坊的工場であった。

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では漣匡合作祉の朕態はどうか。三七、三八年一一商業未護達の打開、大衆の日用品の需要に雁じるため、政府指導下で大

衆が各種合作祉を組織した。かくして漫匿二四豚全てに合作祉が組織され、その数は一五五社、社員八高徐人、祉株総額

七高九四七

O元(一株三角。

(

U

)

た。他方、工業生産合作祉の設立は溢匡が手工業も未設達なことから困難-脱されてきた。そうした朕況下で最初の生産合

一人多くとも一

O株以内〉であった。

だが、消費合作祉がほとんどで、全枇の九五

Mmを占めてい

作祉は三七年秋開始の多部門からなる工人合作祉である。これは漫匡綿工禽の直接指導で株(一株三角)を募集し、抗日箪

政大皐、陳北公準各皐生、

工作人員、市民が出資した二五

O元で設立された。まず靴、被服、木器、磁器の四部門から開

始され、すぐに製糖、食堂の二部門が加わり、三八年多には一三部門に媛大し、資金も株金一五

OO元、漫匿銀行投資一

(日)

OO元の計二九

OO元となった。ただ三八年末、三九年初頭、日本軍の爆撃に遭い、準生も延安を離れ、株金は返却さ

れ、資金繰りが悪くなり、低迷した。ともあれ三八年段階で生産合作祉は延安に工人合作祉と皮革の二社、延長、安塞に

(日)

紡織各一祉の計四社となっている。首時、漫区合作祉の特徴、及び歓貼は、①大多数が雇農、貧農、中農で、

富農は極く

少数であった。②政府と結びつき、大衆動員に力を護悟得した。③資金が紋乏しており、新資金が望めず、民衆の少額な自

(げ〉

己資金で運営されている。④合作社幹部が不足していた、といわれる。

- 77ー

ところで溢匿における初期工業建設は二段階に匡分される。すなわち第一段階は三八年夏秋、抗日のため港区に大量の

人々が流入してきたことである。その中には知識分子が多く含まれており、圏内外の大皐、高中など卒業の青年、拳生が

(

)

おり、軍事、政治、文書、科皐技術面で港区の知識人隊伍を構成し、彼らの一部が工業建設の指導力量となったのであ

る。これら技術者の中で特に重要なのが沈鴻で、旋盤、プレ

lナ

l、フライス盤、

ボール盤等の一

Oの「母機」ハ機器製造

の機器、生産手段生産部門〉を橘え、

七人の見習工を連れて、上海から延安に来た。このことは溢医工業護展に劃期的意味

701

をもった。沈の設計と「母機」によって新型「母機」を製造し、多くの工場、例えば印刷廠に油墨機、紙廠に造紙機、製

ω〉

薬廠に匡搾機等を供給することが可能になったからである。また沈、銭志道により工事寅習廠が創設され、陳振夏の壷力

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702

(却)

で石油廠が再建された。

第二段階は「工合」導入である。前述の如く民族資本家、地主までも巻き込み、

かつ重慶の「工合」協舎管轄下の「工

合」に封して、すぐに理解が得られたわけではない。とはいえ、港区経済の困窮打開のために早急に手を打つ必要があっ

かつ第二次園共合作は有利な獄況を提供するはずであった。三八年スノーはまず毛津東に書簡を迭り、中共が抗日

(

)

民族統一戦線、混合経済を受けいれている事責から「工合」を全面的に支持すべきと主張した。毛は中共内で最も早期か

たし、

ら合作祉に注目し、合作祉とかかわってきた。例えば第一次園共合作を背景に二四年七月民間合作社指導者と園共雨議員

(勾)

が創設した中園合作運動協舎の護起人でもあった。それ故、その支持はスムーズに得られたものと推測される。なお、一二

八年にはレウィ・アレl(伊豆

kr己から「工合」名義で武撲の紡織勢働者と紡織機が迭り込まれ、これが前述の難民紡

(見)

織廠の基礎となるなど、港区導入以前から「工合一としての一定の賓績があった。

毛調停東は「工合」の謹医での設立を望み、以下のように述べている。「工合」が最も必要で軍隊、

人民、

政府に歓迎さ

- 78ー

れるのは敵背後の戦闘地区であることを前提に、

ω占領地匡から遊撃戦の基地である農村に敵物資が浸透するのを防止。

ω責源を自らの産業で使用し、日本の利用を防止。

ω遊撃地匿を自給陸制とし、長期闘争を可能とする。

ω失業者、非熟

練工を訓練し、日本が彼らを利用するのを阻止。

ω食糧と交換に農民に必要な製品を輿え、農村経済を維持する等の意義

(M〉

がある。また、毛は遁匡で最も大切な組織は現にある「二、三の工場ではなく、数多い合作企業」とし、地主や資本家の

(お〉

投資を歓迎すべきとし、合作枇の設展が皆の利盆となると訴えている。また、「合作祉は統一戦線の性質を有しており、

(お)

全ての農民、労働者、地主、責本家が加入できる」とした。「工合」導入はこうした設想からと考えられ、かつ財政困難

打開の一環として地主、資本家の資金に着目したといえよう。

中共内で最も「工合」を支持したのは周恩来であった。三八年武漢陥落以前、

八路軍緋事慮で周はアレ!と曾見した。

その際、周は「工合」を統一戦線の構成部分といい、園民築地匿のみならず延安に「工合」事務所を設立し、港区の自力

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更生と生産護展を援助してくれることを望んだ。また、周と秦邦憲は「工合」によって蒋介石の抗戦を促し、

日本への投

降を阻止するためにも、蒋らが最も一意識しているアメリカの支持を勝ち取る必要を力説した。その上で周は「工合」協曾

(

を駐曾圏桂たる大衆組織とし、愛園民主人士も吸牧することを動めた。さらに、周は「工合一運動の中橿たる「工合」協

舎設立にも間接的にではあるが、

一定の影響力を有していた。すなわち、「工合」協曾は名審理事長宋美齢、理事長孔鮮

照であったが、理事舎は園共雨黛員と民主涯の統一戦線組織として成立する。その理事の人選をアレ!、直贋綿は周と相

(お〉

談しているのである。三八年六月周、秦は王明と共に、軍事工業の振興、西南、西北の石炭、鎖、石油等の開設、私営企業

の安全地帯への移韓、手工業の奨駒とともに、各種合作祉を組織、失業者、難民を吸牧し、生産に参加させることを主張し

(mg

ている。このように抗戦鐙制の一理として合作祉に着目し、かつ失業者、難民を生産へ参加させるという観貼は「工合」と

共通し、それらを含みながら多面的、具鐙的に護展させる形態を採る「工合」運動に異を唱えるはずはなかったといえる。

港区「工合」の開始と展開

- 79ー

「工合」の漫匡への準出は延安事務所開設に始まるが、具盤的には嘗時園民参政曾出席のために重慶にいた董必武と相談

(ω〉

の上、決定された。三九年三月事務所開設に先立ち、アレlは延安に行き、毛と曾見、設立準備をしている。その任務は

港区人民の自力更生と銀苦抗戦を圏外に宣停、海外から贋範な政治的支持と経済的援助を勝ち取るとともに、漫匿内で工

(刷出)

業のみならず、農業、運職、消費各合作祉を設立すると幅贋く解律され、そうすることで生産自給を展開するとされた。

かくして四月事務所主任は李富春(後任、漫匿銀行長曹菊如)、工程師主任粂宣俸秘書主任にはアレ

lの中園人養子の察雲

ハ英名戸別・豆長四)が就任し、技術部長には漫匡自然科皐院所属の越一

一峰〈元園民政府全園経済委員舎工業調査員?)が選任さ

703

れた。その他、技術者、化皐技師各二人等、計一六人の職員から構成された。彼らは技能を度外視し、他機関人員と同じ

待遇を受けることに同意し、月五元しか受け取らず、「工合」の多くの熟練工より低額であった。つまり事務所全職員の

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704

(認〉

賃金は計八

O元に過ぎず、節約分は運轄資金に因されたという。

では各「工合」に射する具践的指導、管理鐙制はどのようなものであったであろうか。

ω延安事務所自身の報告によれ

ば、自らの経営、港区政府、港区銀行、自然科製研究院の援助とし、

ω丁多芳は「工合」協曾が経営し、溢匿政府の管理

下にあるとし、

ω郁文は逃医政府の直接指導で「工合」委員曾(協合)の協力とし、

ω最近の「隙甘寧港区互助合作運動

(お)

大事記」は、延安事務所が行政上は溢匿政府中央財政経済部の指導を受け、日常事務は主に溢区銀行が行なったとする。

記載により矛盾があるようであるが、圃

1の如く形式的には「工合」協舎西北緋事庭|延安事務所

各「工合」となる。

だが、漫匡では一躍延安事務所が経営権を有しているものの、延安事務所を含めて港区政府の強い指導、管理が働いてい

たと見なすのが最も事貫に近いと考えられる。察雲が周や楊向昆に毎月、報告書を書き、適時に「指示」を受けていたの

(

内)

もその表れであろう。園民議地区では園民議権力を排し、「工合」の自立性が摸索されたが、進匿では中共権力の介入に

抵抗を示していないようである。こうした貼も閤民議には不服で、後の「工合」部盤、再編の可能性を字んでいたといえ

ιAノ。

- 80一

|園民政府行政院 |「工合」協曾 |

|西北「工合」僻庭l

よ舎

言十

ー一婦女工作股一ー

「工合」

ー「工合」

ー「工合」

ー「工合」

ー「工合」

ー「工合」

萎激変 『工合運動在西北dI1940年

6月の折込み附録表等から作成

延安事務所組織系統固

なお、事務所設立と同時期、港区政府は『快甘寧

遊底抗戦時期施政綱領』(四月四日)を護布している。

その内容は

ω手工業、及びその他開設可能な工業を

護展させ、一商人の投資を奨勘し、工業生産を高める。

ω八時間航労働制度を確立し、州労働僚件を改善する等

(お)

が盛込まれていた。これらの規定は「工合」の主張

国 1

と同じで、

かっ「工合」展開の上で不可依であった。

(お)

五月には工業展覧舎が開催され、その基礎

また、

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かつ漫匡工業設展、経済建設、

科同学技術幹部養成という「工合」と共通する目標をもち、貫質的に「工合」と共同歩調をとる組織であった。院長李富春、

副院長陳康白であり、寅際の指導は陳が行なっていた。陳は度門大筆、漸江大皐で数鞭をとり、

北京大翠理向学院研究員等

の上に自然科皐研究院が正式に成立している。これは「工合」指導者と人材的に重複し、

を経て三一一年ドイツで工皐を向学んだ経歴をもち、三七年延安に来て、三八年中共に入葉、

工業展覧舎の責任者となった。

がおり、内二

O人は調査、研究に従事し、他は合作位、

こうした経歴、買績から陳が大きなカをもつのは必然で、その下には劉戚一、陳賓誠、楊作材、繋雲ら約八O人の技術者

(釘)

工場、同学校、

機関等に配属されていた。

ところで三九年五月溢匿は園民議に閉鎖され、

工業品移入の制限を受けた。そこで中共は「自己動手」「自力更生」のス

1ガンを提起、

また前後して西安に人員を汲遺して機器と原料を購入させている。こうした背景下で低迷していた工人

合作祉の被服、製靴南部門が延安被服「工合」、製靴「工合」に改組され、新華化同学「工合」、光華製薬「工合」〈資金二

O

- 81ー

OO元、華僑青年梁金生の指導)が設立された外、延安、安塞に紡織、搾油、磁客等の工業生産合作祉が組織され、また延安

(お〉

十里舗では石炭採掘も開始されている。

表ーによれば「工合」の業種は紡織、毛織、油燈、靴、紙、化同学、薬等で、進匡で不足していた生産物を多面的に生産

していたことが理解できよう。地区的には一商業、交通、軍事上の安全、人口、原料供給等の側面から延安、安塞、保安、

)

延長等が選ばれた。資金は株金による自己資本と「工合」協舎からの借入金である。「工合」一祉の規模は約二一人で、そ

(

)

の主要構成分子は第働者、農民、家庭婦女、手工業者、失業者であった。生産物は綿入れ服四五

OO着、軍帽一五八

O、

(4)

石鹸四

000、茶碗五

000、石油ランプ一五

O、蹴紙六

OO連、綿布一蔦四七四

0ヤード等々である。特にアレ

lの一一意

見もあり、生産には直接従事していないが、蓮験「工合」が運搬疲買面から重視されていた。

705

「工合」は全園的に高い生産性をあげていたが、延安ではその傾向が著しかった。同年九月の月産報告によれば、法幣一

(必)

一蔦七六二五元に相嘗する製品が僅か五高五OOO元で生産され、投資額の二倍であ

ったとされる。それを可能にしたの

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706

合」 一 覧表 (1939年8月頃〉

備 考

抗戦開始後,石油債格暴騰。それ放,植物油(アノレコーノけが石油の代用品。奮式ラン

フ.は光が弱<.汚れやすく不経済であった。そうした紋黙を改良し,植物油の精製を

行なっている。また,軍事目的で銅銭器,機器を製造。

主要生産物は綿布であり,延長,韓減の棉花を使用。さ らに原棉供給問題を解決でき

れば,生産抜大できる可能性がある。

法医は従来からの牧畜地帯で羊毛生産 500蔦キャティ 。その質はよく,毛織物一般,

毛布,靴下,帽子等の生産ができる。 蛍地農民の手工業方式を採用した外,綿糸との

交織品も生産している。

小染物工場を改組して,設立された。染色技術は延安で最もよし、。ただ,最近,染料

債格高騰のために経管は困難をきたしている。

37人の社員のほとんどは失業者で,いわば失業者を組織して成立した「工合」。月800足生産できる。最近の原料高騰のため経営困難をきたしている。

流動資金不足で原料を仕入れる島余裕なく,顧客の注文に感じるのに精一杯。牧入も支

出をカバーしているにすぎない。

毎日2000枚。原料は苧50%.藁30%. ポプラ20%。周濯にポプラ等が多いので大腕と

同質の紙を製造しようと寅験中。主任技師劉は保混槽の扱いに気を配っている。

これは新華化製「工合」のこと。本文を参照されたい。

光華製薬「工合」のこと。漣医は薬草が極めて多く ,従来から他地方に移出していた。

最近, ヨーロッパ人,民閲歯師,繋剤師等の研究の結果. 16種の繋を生産。

麺菓も生産し,これは良好な市場をもっている。

原料供給は十分。新華化皐 「工合」に胡蹴油6000キャティを供給する契約に調印。

ほとんどは陶器で磁器は僅かである。

休業中。

港区政府からも貸付を受けているが額不明。原料,生産物の運搬を行ない,その役割

は極めて重要である。特に港区は交通未設達なため,経済活動上,さらに重要な意味

をもっ。アレーも延安に来た際,その重要性を指摘している。

建設~ 1942年所牧附録.43~48頁。 ②張法粗 『工合輿抗戦~ 1941年. 44~45頁から作①,社員 (B)は②の数字で 1祉卒均社員数はそれぞれ21.2人. 21. 3人である。計は交

- 8~ ー

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表 1 険甘寧港区「工

業種問lT判明ヂ| 株数 1 ~5ë~ 1相射殺| 主要生産物

泊 燈 延安 7 7 100 1000 @1500 ランプ,洋鍛器

紡 織 延安 20 20 380 3800 ⑧2000 土布,機械製布,紡糸

紡 織 安塞 35 35 200 2000 ⑧500, @500 土布,機械製布,紡糸

紡 織 国臨 19 19 429 2145 ⑧500 土布,機械製布,紡糸

毛 織 安塞 20 20 220 2200 ⑧1500 毛糸,毛織物

染 織 延安 9 9 600 1600 ⑧1000 染色毛織物,木棉靴

製 靴 延安 37 37 120 200 ⑧650, @550 靴(皮牝軍靴,布靴

等?)

寝具製造 延安 35 218 218 ⑧130, @200 寝具

製 紙 安塞 25 26 500 2500 ⑧30oo,@1000 紙

化 拳 延安 18 13 300 2860 ⑧2500 石鹸,歯磨粉等

製 事経 保安 薬

製 粉 延安 15 15 280 300 ⑧200 メリケン粉,乾ウドン

搾 油 延安 30 30 150 750 ⑧300 蹴油等

査 客 延安 18 19 100 1000 ⑧500 陶磁器(盆,碗)

被 B~ 延安 39 200 1000 軍服

木 工 延安 家具

運 職 延安 9 9 100 1000 ⑧3000 運途

計 297 298 3697 21773 21530

① 「延安工業合作祉事務局の報告J,ニム・ウエールズ著,東E研究所誇『支部民主主義

成。なお. I寝具製造」は①しかでていず. I被服」は②しかでていない。祉員 (A)は

際に算出した数に従った。⑧は短期貸付,⑧は長期貸付。

- 83一

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険甘寧港区「工合」統計 (1939-1944)

年 | 問(A〉|| 醐(B)|| 枇(員C数〉 1社1問員数I 株(元金~ I 借(入元)金 I資1一金(元)月生(元産〉高

1939 6③ 58③ 9.7 1113③ 20000⑤ 3518.8

30⑤

1C浴 199③ 19.9 11315③ 1131. 5 4169③

14⑨ 298⑤ 21. 3 2159ぴ~ 1850ぴ~ 2863.8

• 9頃 15⑤ 296⑤ 19.7 21773⑦ 21530② 2886.9 117625@

146⑧ 23531⑧ 161.2 42338⑧ 1940ぴEJ 422.9

,冬 15⑥ 233③ 15.5

1940 17③ 386③ 22.7 64087③ 3769.8 34471. 34③

• 6 68⑤

• 12 29⑤ 1132⑤ 39.0 135000⑮ 120000⑤ 8793.1 200000⑤

1941上宇期 3的 578162③ 19272.1 20000びSI

1942. 10 50① 563① 11. 3 49832.0 2300000徐①

1944 433① 245884① 567.8

表 2

社数 (A)は「工合」数。社数 (B)は生産合作品土数(1"工合」を含む〉。波線部は株金

等々,生産合作社(1"工合」を含む〉の統計数字。 l祉卒均社員数は (CjA)もしくは

(CjB)o 1 iii士卒均資金は(株金+借入金)-:-(社数)0<出典〉③田家英「抗戦中的工業合

作運動J(繍完)W解放日報j)1941年12月10日。⑥陳翰笠『中園工業合作運動的過去輿将

来j)1947年. 29頁。①ニム・ウエーノレズ著,東亜研究所謬 『支那民主主義建設j)1942

年. 170~ 171頁等。なお本書に「嘗初延安に 2 高元の資金貸付があったきりで,その後6箇月というもの,これ以上の財政援助がなかったので……30箇の(工業〉合作社中,

20祉が閉鎖を徐儀なくされたJ(170頁〉と書かれていることから. 39年中に30祉から10

祉になったと考え. 30祉の後十こ10祉の統計を揺入した。③『解放日報j)1941年8月 1

日。@張法組『工合輿抗戦j)1941年. 44~45頁。①本稿表 1 。③拙稿 「抗日戦争時期の中園工業合作運動JW歴史事研究j)485披. 1980年10月。⑤建設臆「給李富春同志的信」

1941年, W摘編』第七編. 202頁。①毛津東『経済問題興財政問題j)1942年.66頁。①拙

稿「中園工業合作運動指導者からの書簡についてJ.大阪教育大祭『歴史研究j)23披,

1985年。

t土

一ム

・ウエ

lルズによれ

ば、

ω生産手段への投資が少

額で、例えば土地、

州労働手段

は漫匡政府から支給されるか

名目だけの賃貸料がとられる

だけであった。

ω工場管理費

はかからず、経常費は極めて

低い。

ω生産物は消費合作祉

や政府、軍の配給機闘を通し

- 84ー

て販賀される。ここで問題に

したいのは、同時にウエ

lル

ズが株の利盆配嘗はあるが、

寅際に社員に取得されず、

「工合」梯込み資本の

一部と

して残され、絶えず使用され

こ 増と殖で しあ(てる43い。)く

ととす橿れ 明

ばぞ「 い工 る

合」設立を一商人、有力者達が

計董し、

また作坊や工場を再

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ハHH)

建しようと績々と延安事務所を訪れたという現象の説明が不可能になる。むしろ国家英のいう如く多種の方式が採られて

いたと考えた方が素直であろう。すなわち、

ω一般的には民衆が二、三角という低額株を購入して組織した消費合作祉と

不可分な「工合」、

ω純粋に第働者による「工合」、

ω「官民合股」の「工合」等があるが、要するに最大多数の民衆を吸

牧するため、柔軟に「第働に鹿じた分配と持株に鷹じた分配の混合方式を採り、

(必)

のである。

一切の労力と資力を動員」しようとした

つまり従来の溢匿経済下で窒息している一商人、地主にとっても、大きなメリットがあったのである。

表2によれば、三九年には「工合」数が最多の時ですら三

O祉しかなかった。とはいえ「工合」は一商人、地主の資金を

引き出し溢匡経済を活性化したのみならず、連医政府の出した「合作祉の大衆化」とともに工業生産合作枇設立に大きな

刺激を輿えた。生産合作祉は三七年一社、三八年四社であったものが、建設麗の指導下で三九年

一四六社(「工合」を含む)

へと飛躍的増大を示したのである。その業種は紡績一一四、搾油一

O、紡織四、打盟三、製粉二、毛織、化製、製油、木

(

炭、磁客、豆腐、靴、被服、染色、紙、運職各一、不明一であった。三九年の同時期と思われる統計数字をベ

lスに「工

合」と生産合作祉を比較すると、九月「工合」は一五社、二九六人で、

一位卒均社員数一九・七人、全資金は株金と借入

EU

00

金の総計四蔦三三

O三元であるから一社卒均資金二八八六・九元である。これに封し生産合作社数一四六社には「工合」

数も含まれているので概数しか出せないが、

一社卒均社員数二ハ一人、全資金六蔦一七三八元で一

社卒均貧金四二二・九

元である。

つまり「工合」

一祉は社員数的には生産合作祉一祉の八分の一であったにもかかわらず、約七倍の資金を有し

ていた。このことは「工合」は生産合作祉に比して資本の有機的構成が高く、生産設備、技術、生産能力ともまさってレ

たことを一示すのである。生産合作枇の中には資金不足、技術不足、幹部不足から正式に開業できないものもあった可能性

(円む

がある。

三九年八月頃西北緋事慮は賓鶏、

西安、鳳朔等一五事務所(その下に「工合」五五七社がある〉の資金田牧卒の統計を出し

709

ている。それによると二五八蔦一九四三・一二元を貸出し、二

O高八五

O三・四四元回牧している。このように回牧率は

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710

全世的にょいとはいえず、卒均回牧率約八・一

Mmであった。この時延安事務所(「工合」一四社)は四寓九二

OO元の貸出

(同叩)

を受け、三八

OO元返却している。すなわち七

・七Mmで、若干回牧率が悪かったに過ぎず、また一社賞りの貸付額を畢純

計算(事務所貸付額を「工合」数で割る)すると、

西北区全鐙卒均が四六三五・四元、延安は三五一四・三元で、延安がとり

わけ低いというほどでもなかった。

ところで一

O月五日には港区合作祉の方向を決定する港区合作総社成立大舎が開催され、同時に第二回遊区合作社主任

連席曾議も暴行されている。大舎には遊医各照代表と来賓一五

O人が出席した。名春主席固には毛津東、朱徳、林租函、

「工合ー」関係者の麗廉綿、

スノ

l等の外、同舎議に出席しているはずのない蒋介石、林森、孔鮮照、翁文顔、穆鶏

初、誇勉成が選出され、園民黛首脳にも目配りした極めて統一戦線的要素の濃いものであった。質際に舎議をとり仕切っ

l、

た大曾主席回は曹菊如、劉景範、

王土俊、李曾友ら七人であった。同曾議で高尚は、舎議の目的が合作総祉を組織し、

- 86-

れを一つの参謀本部として全遊匿の合作事業を指揮して港区の生産合作社、消費合作祉の組織的設展を園り、人民生活を

(必)

改善すると共に、日貨を買わず、日本に貰らず、その「以戦養戦」を打破すると述べている。さらに同曾議では合作事業

の成果が総括されると共に将来計霊も立てられた。それによると、

ω四O年末までに社株総額を倍額にする、

ω豚連祉を

成立させる、

ω各鯨に模範合作祉を創設する、

ω延安、延川、定法等に信用合作祉を各一社創設する、同運験合作祉を曲

かつ祉株総額を倍額ハ三高七五

OO元)にし、

(印)

特に紡織を主要針象とする。その原料供給のため最低棉花六蔦一六三

O畝、大蹴五高八一

OO畝等を栽培するとした。

子に設立する等の計董とともに、生産合作祉を少なくとも二四箇所増設し、

これと前後して同月、港区合作枇に劃して園民政府の『合作祉法』を受けいれることを決めている。その際出したと考

えられる『快甘寧溢匿合作事業施政原則』には、合作事業が経済組織の基礎機様であり、抗戦経済動員に極めて大きな役

割を果たすことを前提に、①合作行政は園民政府公布の『合作祉法』に則り、本医(法医)の特殊紋況と戦時需要に鑑み

て行なう。

②合作行政の責任は建設聴が負い、(合作)主管機関は豚政府に直属する。

①合作指導制度を樹立し、登記制

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度を制定する。@合作蓮祉の組織と力量を強化し、全漫匡合作祉の有力な連合組織として合作金融調整の任務を負わしめ

る。⑤人民を普遍的に加入させるため社株額面を下げる努力をし、社員は祉に有限責任をもっ。⑤合作祉業務は粂替を原

則とする。⑦資金は社員自ら祉株の募集、漫匿銀行の投資、建設醸の圏内各銀行からの借入による。@建設鹿によって組

織されるべき合作事業促進委員舎は皐術の探究、技術研究、及び合作知識の停播を行なう。@登記を経た全ての合作祉は

)

掲税一割兎除、及び運職、仕入れの優先的権利を得ることができる、と書かれている。同時に、工業生産合作祉に射して

は「工合」の寅績を踏まえて、

かつ統一戦線組織を支持しているという姿勢を内外に示す意味からも「工合」原則を受け

いれた。すでに三八年スノーは生産合作祉への「工合」方式採用を訴えていたが、この時貼で生産合作社代表舎議で採り

(臼)

あげられ、過匡全ての工業生産合作祉に劃して「工合」原則が施行された。かくして同年塵倒的伸びを示していた工業生

(臼)

産合作社も全て「工合」協曾に加入することを決定したのである。

- 87ー

ところで数箇月後、『新華日報』(四

O年二月二四日)吐論は、塗匡「工合」数は全園「工合」総数の六分の一を占め、従

(臼〉

事者も全園卒均の最大多数であるにもかかわらず、貸付は四

OO分の一と批剣している。これは何をベ

lスに計算したか

不明であるが、三九年一四六社全てが「工合」に改組されたとすると、同時期の全園「工合」数がご二一二社であるから

〈日〉

約九分の一である。ところが、この時進匿社員数は二高三五三一人、全圏一高六

O二九人で、漫匡が全園総数より多いと

いう矛盾が生じる。このことは進匿側は全工業生産合作祉が「工合」協舎に加入したとするが、「工合」協曾側はそれを認

めていなかったことを示唆する。

結局、一二九年段階における港匿の工業は次の六形態に分かれる。①公営工場、②「工合」や小生産連合の合作集園経

済、③私営手工作坊(雇傭労働を使用し、一商業資本と結びついている。業種は油、銭、皮革、製糖、陶器等であるが、三八、三九のニ

711

年聞で二倍以上に増大したて④ギルド的手工業〈市集で一般に阪賀されている鍛器、農具等の製造)、⑤濁立手工業者(漫匿外の人

(日)

々で、遺匿に来て街頭で修理等を行なう〉、@農家が自給のため行なう副業。とりわけ合作集園経済の目的は、丁多芳によれ

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ば園(公)管工場の手足として重大な一意義をもち、将来非私有経済構化へのブリッヂとなることが望まれた。

一方で資本

それによる手工業騒逐と民衆への過度の搾取を防止し、他方で手工業を組織して

(幻)

戦時自給力を増大させることにあったという。

主義経済護展を阻止することではなく、

一月に第二回農工業展覧舎が開催され、各工場の

(関)

力量が検閲され、溢匡銀行も一

OO蔦元の工場概大資金を貸出すことになるが、「工合」もこの展覧舎には積極的に参董し

ている。

全展示品は

ω港区概況、

ω農業、

ω工業三部門七

OOO除種で、内「工合」の出品は①新華化皐

「工合」の石

鹸、歯磨粉、白墨、インク、①光華製薬「工合」の咳止丸、補脳丸、八路行軍散、卒胃散、熱冷まし等、③燈油「工合」

四O年には軽工業設展を主とする工業

「牢自給」政策が推準された。

の植物油、④振華製紙「工合」の稲草紙、腕紙、褒梓紙、馬蘭紙、重用紙等七種、@製靴「工合」の革靴、サッカーボ

l

(臼)

ル等、@毛織「工合」のタオル等、⑦被服「工合」の軍事用木綿靴下、乗馬ズボン等々であった。この展示品から各「工

合」の生産品目も増大していることがわかる。

一一月中共中央の「集中指導、分散経営」の方針を受けて、三月延安事務所は指導の不統

一を是正するとして、建設臆に

- 88

属するよう改められた。このことは、従来より形式的にも寅質的にも「工合」協曾、

西北線事虚は指導する術を失ったこ

とを一孟意味する。延安事務所は孫者東が一般指導工作の責任をもち、

一章一伯森、劉毅、張旭初らが合作工作を主管し、王玉蘭

(印)

らが婦女工作を指導することとなった。そして婦女の工業生産を護動すると共に、外援を受けて婦女工作支部も設立した。

四月延安事務所は建設醸長劉景範の指示で、

漣匿

「工合」第一回理事主席連席禽議を大雄堂で開催し、曹菊如、張浩、

E光ら理事主席一

OO徐人が出席した。この時、曹は工業の自給的護展の重要性を説明し、家庭婦女紡紗を手工業護展

(町出)

かつ各「工合」共同で一つの「工業生産連合社」の設立を討論するよう提案しわ。また、西北

の第一に置くことを提起、

緋事慮とともに統一戦線政策の推準、

かつ漣匿「工合」への共鳴と外援を勝ちとるため、重慶で開催の全園「工合」産品

展賢舎への参加を決めている。さらに建設醸の指示で新祉の設立と嘗祉の整備に着手した。すなわち、延安木器「工合」、

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定漫皮毛「工合-、製靴「工合」の新設を支援、奮祉の整備では安塞製靴「工合」、園結毛織「工合」等を検査、改善工作

(

)

を支援した。特に延安事務所は民主を強調、「工合」内で見習工も選拳権を有する民主選拳を寅施し、生産、生活面ででき

(臼)

る限り民主を護揚し、務働者、見習工、男女別なく「同工同酬」を貧現するとしている。

延安事務所は「工合」のみならず、関連事業としては原料供給、購買販買を行なう連合供錨虚を設立、消費合作社一八

祉を経営、原料供給のために光華農場を運営、かつ自然科皐院(三九年一一一月自然科皐研究院が改稽)を支援する等の多面的

活動をしていた。また、附属事業としては

ω四O年青年技術祭校(一二

O人〉を開設した。

ω四一年婦女紡織訓練班(五

O

人卒業)を運営した外、生産数育を活動していた。また、附属事業目的の婦女半日皐校や婦女識字班を組織、婦女の文化

社曾的地位を高めた。

ω新式簿記を数えるために曾計員訓練班(二

OO人)を創設した。

ω長期の参観に供するた

水準、

め各種統計、

(臼〉

た。さらに、延安事務所の技術援助や各「工合」の自己努力によって技術改良も進められた。例えば、圏結毛織「工合」

は水渠の水力を利用、紡紗、織布を行なった結果、粗細が均等化、布の質量とも良く、

M

労働力を三分の一にでき、コスト

(

)

も低くなった。また振華造紙「工合一も生産コストを下げることに成功し、五

OO枚綴りの紙と粟の交換比率は四

O年

(侃〉

二・三石であったものが、四一年

0・九石、四五年

0・五八石に下げることができた。その他、延安事務所は八路軍防寒

着募金四

O高元のスローガンに呼醸して四

O年一

O月各「工合」に募金活動を通達、延安毛織「工合」がまず全公益金一

技術品等を展示する「工合」陳列室を設立した。

間抗属託児所(牧容五

O徐人〉と「工合」醤療所を開設し

- 89-

00元、次いで安塞製靴「工合」が公益金三

OO元、職工、見習工三九人が二一二元王角、計五一二元五五角を出すなど

(同町)

支援活動もしている。

なお、四

O年は遁匡工業が全般的な贋がりを見せ、九月に朱徳が紡毛運動を提唱、また数多くの機関、準校、部隊が工廠

(槌〉

設立を準備、工業の飛躍的設展の基礎を築いたとされる。合作社方面では同年夏、建設聴が第一回全匡合作社代表大舎を開

713

催、全遜匡合作社連合祉を成立させ、各回開には鯨連祉を成立させている。そして政府指導下で各合作祉は社員大舎を開催、

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714

(

)

(

それぞれ祉内の工作を検討した。このように合作祉は統一、集中化される傾向にあり、政府指導がさらに強まっていった。

ではここで、連匡「工合」を考察する際、看過できぬ外援問題に論を進めたい。すなわち、「工合」に射する外援は資金

不足に悩む港区政府にとって重要財源であ

ったのである。三九年末頃、「工合」園際委員禽(名血管主席宋慶齢、主席R・0・

ホール〉が募金したマニラからの献金一

O高元を逃医毛織「工合」設立のために交付、延安事務所はこれを受けて設立準

(九〉

備工作を行なっている。園際委員曾からの献金は一般にまず西北緋事慮が受け取り、延安事務所に交付され、各「工合」

四O年に二回延安を訪れているが、その際フィリピン等で集めた献

に配布する形態をとっていた。また、

アレl

は三九、

金を捕えており、

その三

OO元を「工合」に、

一OOO徐元を青年技術開学校に寄付した。さらにアレ!の母クララ・マリ

ア(ニュージーランドの女性参政権運動指導者)からの献金は周恩来を経て、

その一部を虚廉綿と稜雲が延安にもって来た。

その最初の九五

OO米ドルは自然科皐院、光華農場を中心に、振華造紙「工合」、橋見溝石鹸「工合」、難民工廠等に用い

を宣悔しており、

アレーは資金のみならず多くの製園、物理、質験の各種儀器、設備を贈っている。このように自然科皐

(η)

アレ

l自ら香港や海外から入手したものである。

- 90一

られ、二度目の約五

OOO米ドルは自然科皐院と光華農場に使用された。昔時、自然科拳院は針外的に青年技術翠校設立

院の儀器は基本的にアレーからの献金で購入したものか、

かくして延安事務所には三九年アレーや海外華僑から計四八高一一一二三一一元、四

O年には六九寓八一九

O元が迭り込まれ

(九)

た。井上久土が強調する如く、港区財政にとって外援は重要かつ大きな位置を占めていた。すなわち、過匡は「中華民園

の一構成部分」であり、「全園園防経済の一環」であったことから、園民政府からの八路軍経費、難民救済金等と、圏内外

進歩人土からの献金等の外援は、買に溢巨財政牧入のうち、三七年には八六・七二

Mm、三八年には五一・六Mm、三九年に

(九〉

四O年には七七・四四Mmを占めていたとする。この数字が全ては信じられないとしても、新四軍事件勃

は八五・七九Mm、

設以前、過巨財政が大きく外援に依捜していたことは間違いない。「工合」関係を含む進歩人士、華僑からの献金を参考ま

でに事げておくと、三七年七

1一一一月三寓六二五四元、三八年一九七蔦三八七

O元、

九年六

O寓四二

O七元(内、「工合」

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関係八

OMm〉、

(万)

四O年五五

O蔦五九

O一元〈一二・七%)、

四一年七七寓九一

O六元(一二ハ・二%〉であった。

しかし四一年一月新四軍事件以降、園民黛では反共の気運が高まり、民主涯を核とする統一戦線組織たる「工合」に劉

しても弾匪が開始された。同時期、延安事務所は西北緋事慮に劃して経常費を一五

OO元に上げることを望み、アレlは

(

)

同意したが、主任虚庚綿がそれを出さなかったと不満気に述べている。だが、西北緋事慮自鐙が資金繰りに悩んでいた上

に、四一年八月に費懇で「工合」三周年記念曾を開催するために準備していた置康綿らへの

CC系による弾鹿もあった。

このため、西北緋事慮と延安事務所との聞は正常な関係を保持することができなくなり、七月以降西北緋事慮から延安事

(

)

務所への資金交付は全面停止されることになる。こうした吠況に劉慮するため、延安事務所は建設鹿合作科と合作し、経

(

)

費は建設鹿が護給し、「工合」を含む全ての合作祉を共同管理とした。なお、同年港区銀行も合作事業二二高三四六五元、

(乃)

紡織一

OO蔦四二六九元、運轍二七蔦一

OOO元、農業二三高五

OOO元等の生産貸付を行なっている。董必武によれ

(ω)

ば、逢匡「工合」はすでに基礎を確立しており、この後も年々生産を増大させたという。

- 91ー

過匡

「工合」

一祉の構造と生産

ここでは港区「工合」の中でも重要と考えられ、

かつ史料的に構造、内容にもある程度踏み込める抗腐婦女「工合」と

新華化皐「工合」をとり上げたい。

まず第一に、抗属婦女「工合」をいかなる形態で組織しようとしていたかを知るため、『隙甘寧溢医抗腐婦女工業合作

祉関章』〈三九年四月〉を見ると以下の通りである。〈第一一章総則〉第三僚、婦女「工合」が民政鹿、建設鹿、「工合」(延安

事務所)合組の管理委員曾指導下で工作する。〈第二章祉員〉第四像、濁立生活不可能な全ての抗日軍人家腐等が本祉の社

員となれる。第八像、工作と皐習時聞は嬰児を託児所に預けること。〈第三一品一草祉員の権利と義務〉第一一一一候、社員は革命

715

圏陸の指導下で小組を組織できる。〈第四華社員の待遇〉第一五係、社員の衣食住を補助、あるいは全て供給する。第一六

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行政方面は民政聴が責任を

もち、

生産方面は建設臨と「工合」がこれを援助する。

社員の賃金以外の手嘗は利潤を生産成果に腰じて給する。〈第五章社内組織〉第一七候、

管理委員曾が主任一人を涯遣し、

全社社務を統括す

716

{g長

一八僚、

る。第二

O線、主任と各科長の組織する祉務禽議が枇務の進行と改革を討論する。第二一際、社務の状況は毎月書一市で管

理委員舎に報告する。〈第六章経費〉第二六僚、枇内行政上の一切の費用は民政聴が護給し、生産基金は建設臆が貸し付

ける。第三

O線、託児所、保母費は民政隠が護給する。第三二際、本社が自立できるのを待ち、民政醸の補助費を次第に

報酬金、

減少させ、最終的には全面的に停止する。第三三係、本祉の剰除配分の三

OMは公益金、二五Mmは共同基金、五Mmは職員

四OMmは祉員の努働数卒に基づいて分配する。〈第七一章附則〉第三五僚、

紛糾した問題については社員の提議に

「快甘寧港区抗腐婦女工業合作祉関章J(1939年 4

月公布), w抗日根披地政策1条例会集ー険甘寧之部

(下).n(1942年 7月〉所牧, 644頁等から作成。

より一一一分の二の社員の賛成で採揮し、管理委員

(創)

曾の審査を経て改訂する、となっている。

- 92-

このように婦女「工合」の場合も嘗初から延

抗JMi婦女「工合」組織系統悶

安事務所の箪濁指導ではなく、民政聴、建設

鹿、延安事務所三者による管理委員禽の権限が

極めて大きいものとされていた。組織も工務、

数育、抽出務の三科から手固く構成され(贋2)、

社内に託児所を設けるなど婦女の待遇、州労働篠

件にも肌理細かい配慮がなされている。公盆金

圃2

は三

OMmと多く、職員報酬金は五

Mmと匪縮され

ていた。また婦女「工合」の場合は第働に膝じ

た分配で、持株による配嘗がなかったことがわ

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かる。で

は、進匿では婦女「工合」にどのように取り組もうとし、それをいかに一意義づけていたのであろうか。中共中央婦女

運動委員禽主編『中園婦女』の中で、

王里が婦女を「工合」を中心とする生産合作祉に組織することは園防経済への援助、

日貨侵入への抵抗、婦女の経済自給問題の解決、

とりわけ政治教育面で意義があると位置づける。そして、「工合」原則

に基づいて組織方法、社員聞の関係、民主の問題、数育一帽利工作等等を具鐙的に説明する。その中で原則論とともに他地

匿の「工合」の貫態を参考に柔軟に劃虚しようとしていたこと、婦女一幅利工作を重現しようとしていたことが窺える。す

なわち、婦女の一切の依頼心を排除し、自力更生の能力を養成するとする原則を押えながら、人口稀少な郷聞では作業場

は「工合」内に限られず、紡織機、羊毛、棉花を迭付し、数日後、人を汲遣して製品を受けとり賃金を支梯うとする。ま

産工具を抵嘗とすることができ、

た、経済民主集圏である「工合」では各枇員は全て株購入を義務づけられるが、購入賞金がない場合、自らの制労働力、生

かくして農範な婦女を参加せしめるとしている。さらに数育一隅利工作面では、教育によ

って社員の生産技能を高め、文盲をなくし、民族意識を強め、「工合」に射する理解と技術改善を深化させる。このため

- 93ー

開学習小組を作る必要がある。同時に婦女の生活面での負携を減らすために託児所、儲蓄部、消費合作社、文化敬育クラブ

(

m出〉

枯一寸の設置を訴える。

こうした『簡一章一』や王里の主張に沿った形で寅際の婦女「工合」も展開している。延安事務所成立直後の設立と考えら

れる羅家坪抗属婦女「工合」(社員五

O人)は管理委員舎の指導下で生産を開始した。その前身は抗属招待所である。社員

は第曲反婦女で、主に陳北の農家婦女であった。数育科は数育と生活指導を主管、

クラブを設け、

そこでの穆習を通じて全

世員が簡単な字句を霊園け、また意見を護表できるようになった。総務面では託児所を設立し、

三O数人の子供を牧容して

いる。社員の待遇は衣食住が保護され、さらに各自の工作成果により報奨金が護給された。生産面では建設聴からの貸付

717

一OOO元で紡毛、靴製造、農産の三部に分けて二OOO元の生産任務を達成した。かくして民政鹿からの基金を減少し、

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718

(幻〉

四一年二月段階には完全に自給できるようになったという。

第二に、

しばらくの問、

港区唯

一の化皐工場(繋材や製革を除く狭義の化皐工場)として重要な位置を占め、

四三年頃まで

石鹸等の生産を一手に引き受けていた新華化製「工合」に論を進めたい。その前身は三九年四月工人皐校の各種技術熟練

製生が編成した建設隊である。その中に王保輩、士口合群がおり、彼らの任務は四

OO元の資本で化同学部を成立させ、石鹸

とインクを試造することであった。建設聴はその石鹸が品質良好なことから化率部を石鹸廠(資本金一五

OO元)に機充す

ることとした。これに工人皐校から王保筆、師光生、李景昭、林長護ら六人が汲遣され、参重一旦した。さらに九月「工合」

E愈

J~遅

7)(.

アルコール組

(奮大車部) 組

「新華化主要工業合作社J11解放日報JJ1942年 1月16日から |

作成。 I

組組組組組組

新華化祭「工合」組織系統固(1941年12月〉

協舎から「三寓元」の投資があり、改組、擦充され、

(

)

一新華化製

「工合」とな

ったのである。

新華化翠「工合」の構成員数は三九年二四人、四

O

年三一人、四一年六一人、四二年七七人、四三年六一

(お)

人であったが、その内詳が史料的に明確にわかる四二

- 94ー

年一月段階の構成員は職員二四人(内、女五人)、雑務

員一四人、州労働者

一一

人、見習工二八人(内、女一人)。

職員には第働者幹部七人、知識分子も九人おり、多く

は河北、山首からの外来者であり、

一方、

第働者、見

習工の三分のこは快北農村出身の地元の者である。年

齢構成は三

O歳以上は一

O人だけで、二五歳以下が七

蘭 3

二%を占める。職員の教育水準は相射的に高く、開学校

未入間四干の字文盲は僅かに二人、小皐程度九人、初中卒

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)

五人、高中卒六人、大皐卒一人であり、附労働者、見習工は文盲一五人、字文盲九人、小皐程度一一人であった。

組職は圏

3の如く工務、

営業、

舎計、組務等の各科が設けられ、

かつ専門的に生産物の質量を高め、機器の改造を行な

う化摩寅験室も設置された。生産部門としては石鹸、白昼、精盤、アルコ

ール等の各組、及び四一年五月には大事(荷馬

車製造)、醸造、磁客の三分廠も成立し、小牧場も所有していた。使用器材の鎮鍋、磁器製査、木器等も漣匡製であり、原

料の石油、蹴油、石灰、食瞳等もほとんど港区資源であった。すなわち漫匿の原料九七・八Mm、他省から一・五Mmで、海

(凹む

外からは

0・七Mmに遁ぎなかったという。三九年九月から一一一月までに主要生産物の石鹸二高除、四

O年一月から八月の

聞に石鹸八寓除、歯磨粉七

OOO儀袋、白墨二

OOO絵箱、インク二百徐瓶で、この一年聞の穂生産額は計六高元に達し

(∞∞〉た。四

O年一

O月段階の月生産高は石鹸七

OOO絵、白墨八

OOO絵箱、歯磨粉一六

OO儀袋、イング一八

OO瓶であっ

(的〉

た。その他、石菅、重炭酸ソーダ、精製盟、硫酸ナトリウム等々を生産していた。これら生産物、例えば石鹸は漫匡民衆

イング、白墨、歯磨粉は機関、拳校が使用し、アルコール、重炭酸ソーダ、精製盟、蒸留水等は醤院の必

(叩〉

グリセリンは醤襲、印刷、兵器の不可歓な原料であ

った。

の日用必需品、

Rd

A3

需品、硫酸ナトリウム、

務働時聞は九時間で、

四一年六月に一

0時聞を試したこともあったが、州労働者の疲第を増大させるだけで生産面では大

した殺果もなく九時聞に戻した。また労働後二時間、文化科、常識科、理化科で皐習し、文盲の州労働者も字を識ったのみ

(

)

ならず、化皐方程式も解け、物理責験もできるようになった。ただ反面、皐習量は次第に増え、技術、政治、算術、常識、

新文字、時事、「工合」内の寅際問題等を皐習したが、分量が多すぎ、復習する時間もなく、消化不良を起こしているとい

った有様であった。さらに幹部の皐習は黛建設、中園問題、

マルクス

・レ

1

一ン主義の三組に分かれて魯迅塞術翠院で皐

ぶか、そこからの波遺者の指導を受けた。かつ固書館もあり、

一七六般の蔵書もあったが、政治、経済等は理解できず、

719

利用者も極めて少なかった。なお同「工合」設立後、「工合」内に工舎が組織され、四二年段階の組織率は六二・三

Mmであ

ハ回)

った。

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720

M

労働者の待遇に閲しては四

O年一

O月から新賃金制が採用され、衣食住が「工合」から供給された外、月最低一五元、

最高四

O元が支梯われた。多くはこれに糊足していたけれども、少数の動員献労働者が家族の優遇とともに代耕を要求して

いることから農民も動員している可能性がある。同

「工合」は生産奨動のため、毎月七

001八OO元の珠算を組み、労

働規則を遵守し、原料を節約して計輩を超過して生産した者、技術の護明者、改良者には報奨金を出した。その結果、技

術改良者は特に優遇され、董文雄は一五

O元、程淑仁は六

O元を受け取り、それに謝して務働奨勘者一七人は五

1二O元

であった。また「工合」は五

O元で理髪員を雇い、理髪料を無料としたり、病気の際は魯迅塞術皐院醤務科が一般に代診

(問)

したが、その費用も「工合」が負推した。その他、州労働者が病死した際、葬儀代六

OO元を擦出している。このように努

働篠件、待遇もよかった。

新華化率「工合」の設展は全般的に速く、例えば、「歴年退区工業概況材料之ごによれば石鹸生産は三九年二高二四

O

五個、

四O年一一高八七

O三個、

四一年一四高七六

O三個、

四二年三一高六五九個、

- 96ー

四三年四八高二八五五個、四四年六

(倒)

一高九

一七五個であり、過巨は自給できた外一部は港区外に移出できるようにな

ったという。「工合」自鵠も数倍に扱張

したが、全てが順調にいったわけではない。特に四一年九月から一一月の問、資金不足、原料供給の困難、販路漉湖、及

び主要幹部の病気等の要因によって打撃を受け、大車部は縮小して修理組となり、醸造部は一時期停業した。そのため

ω

市債を掌握していない、

ω原料計算が粗雑である等の反省や経営努力が行なわれた結果、四二年初頭には資本金も一六高

(

)

元に増大した。かくして四三年頃から重要「工合」は合作枇ではなく公営工場として担われている。すなわち、新華化皐

「工合」は「新華化皐廠」、振葦造紙「工合」は「振筆紙廠」、新華製革「工合」は「新華製革廠」と改名され、港区銀行も

(Mm)

これらに劉し合作祉ではなく、「公営工廠」として資金を貸付けていることを見ても明らかであろう。

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Vこ

第一に、陳甘寧漫匡における「工合」導入の背景は以下のようにいえるであろう。

ω漫臣の工業基盤は極めて脆弱であ

り、手工業的園管工場三を有するのみであった。

ω三八年沈鴻らの技術者流入と「母機」持参により機器が作り出されて

初歩的工業基銚が形成されつつあった。とはいえ、それをさらに推進するには資金不足、指導幹部不足であったし、機器

不足も解消されたとはいえなかった。

ω合作祉の側面からいっても消費合作祉のみが九五Mmも占め、生産合作祉は四社に

過ぎなかった。

ωそうした一意味で資金、機器、技術者を伴ってくる「工合」への魅力が大きかったし、

かつ園際的支援も

議巨財源にとって重要であった。

かくして「工合」は自然科皐院、

工業展覧舎とともに港区工業基盤の確立に壷力し、そ

の設展に重要な役割を果たした。

第二に、「工合」が抗日民族統一戦線を標模していた一意義である。中共内にはソビエト時代の経験、

理論、及び「工合」

- 97-

協舎が園民政府行政院に所属していた貼等々から反擦もあったようであるが、港区経済の窮迫打開のためにも、退匿政府

の統一戦線支持を内外に示すためにも「工合」は格好の形態といえた。その上、

資金を引き出す意味でも大きかった。すなわち、溢区では園民議地匡とは異なり、地主、一商一人までもが「工合」擁護者と

一般的に資金を出し被る一商人、地主から

いわば溢匡では「工合」が経済面での統一戦線的機能を十二分に震揮したといえる。それ故、法匡政府は

「工合」優遇策をとり、税の一割軽減、及び四二年以降は建設臆批准の「工合」などの合作祉は公盟、公糧、公草等の負

(巾引〉

措を

一律免除されたのである。

して出現した。

第三に、「工合」が強力に主張していた「献労働者自主管理」等が港匿でどの程度貫徹されたかの問題である。例えば抗属

婦女「工合」を見ると民政鹿、建設鹿、延安事務所の三者による管理委員舎の権限が極めて強い。また、園民政府の『合

、721

作祉法』に則るとしているにもかかわらず、行政責任は建設臆等にあるとしているし、港区合作総社設立も指導力の統一、

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722

強化、及び管理を目指したものであった。このことは園民築地匡の「工合」が園民政府の干渉を極力減少させることで自

主管理を強めようとしたのに針し、港区では溢匡政府と強力に結びつくことによって自主管理的側面が逆に弱まったと考

えられる。

七六二五元、

第四に、生産力の問題である。「工合」の生産力は一躍三九年一

O祉の時、月生産高は四一六九元、一五祉の時、一一高

四O年一七祉の時、三高四四七

一・三四元、四

一年三

O祉の時、二

O高元、四二年二三

O高元徐となる(表

2)。業種別生産高は

「工合一の業種が多方面にわたるため、

さほど大きいものといえないかもしれない。その上、「工合」

と生産合作祉の明確な匡別が困難な面があること、

一部の「工合」が公営工場となる等、流動的であり、確定した数字を

示せない事情がある。そこで嘗時過匡で重視され、史料的にも統計数字を示せる四三年の織布を考察すると、「工合」と重

複する生産合作祉三七社は織機

一七九、

職工三七四人で年産大布六

OOO疋、家庭及び私営工廠は織機一高八四六七、職

(mm)

工四蔦二二四二人で六高五三三四疋、公営工場三高二九六八疋等であった。この時期には家庭及び私営工廠が匪倒的に伸

びているが、合作社全挫でも僅かに六・一

Mmを占めているに過ぎない。とはいえ、新華化皐「工合」は四三年まで港区唯

- 98ー

一の化準工場であった(著名な大光石鹸廠は四四年開設)。振華造紙

「工合」は漫匡最大の製紙工場に成長し、『新中華報』

数の製薬工場であり、

『解放日報』『中園青年』『中園婦女』等々の紙を大部分生産していた。光華製薬

「工合」は八路軍製薬廠等とともに港区有

(叩)

その原料のほとんどを進区内で調達し、外固からの職入禁に比して九

01九五

Mmも安債であった。

このように業種別に考えると、極めて重要な役割を果たし、さらに港区の重要工業へと設展するのである。

第五に、港区合作枇の中での役割についてである。溢匿の生産合作社設立に刺激を興え、

ソビエト期の合作政策の轄換

に寄興、「工合」原則の適用を含めて多大の影響を及ぼし、

かつ延安事務所は各生産合作祉に劃する指導とともに技術者

養成、婦女の技術訓練等々に貢献した。さらに溢匿の消費合作社偏向を是正する契機となったと考えられる。すなわち、

結局のところ四四年には消費合作枇二八一社(四四・=一%〉とその優勢には努更がないが、生産合作祉は一一四社(一八%〉

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となり、その他運総合作社二三三社会二六・八%。なお運総合作祉は延安事務所の指導の下、原料、生産物の運搬等を行なうことか

(肌)

ら、この時期も生産合作祉に含まれることが多い)、信用合作社六社〈0・九%)であった。なお、四五年生産合作社五九一祉の

内諾は化準一一、セメント・木工一

O、食品業四八、鍍業二、織器修理六、縫衣六八、紡織九

O、島輔衆二四、運職三一

(

m

)

七、供錆六、農業九となっている。

第六に、凄匡「工合」が統一戦線組織としての役割を四一年までではなく、四五年まで貫徹した重要な一意義を看過でき

ない。港区「工合」と西北樹事慮の関係が断絶した四一年七月以降も、四五年まで延安事務所は存在し、それへの外援が

繍行した。

いわば延安事務所が外援の受け皿となり繍けたのである。すなわち、

七月以降の事務所の経費と資金は、主に

「工合」園際委員舎と保衛中園同盟が香港、

フィリピン、

インドネシア各地の華僑と米英「工合」促進委員舎から受けと

った献金であった。それらは彦承志や康世思等の手を鰹ながら再々と得替形態で港区に迭付された。こうした献金は四一

(印〉

年二

O寓四二八

O元、四二、四三年には一四二寓三五六九元で計一六二蔦元徐であり、宜贋綿の計算によれば三九年から

四三年まで園際委員舎の延安事務所に射する献金総額は約二五

O蔦元、港区銀行の貸付は四三年末までに一五

O蔦元であ

(

m

)

る。その上、四五年まで「工合」だけが西北樹事慮護行の「工合」の公誼(四一年七月以降は延安事務所が代理夜行していたも

- 99-

のと考えられる)さえ所持していれば逢匿と園民黛地匿を自由往来できた。そこで延安事務所指導下の運総合作杜(馬、ら

ばを三七

OO頭保有〉はそれを所持することで園民黛地匿の橘林の羊毛を港区を経過して西安、賓鶏の「工合」の軍用毛布

(川川〉

製造に供するため稔迭を繍行した。これは、嘗然園共働又方の利盆のため縫摘相されたのであるが、「工合」は統一戦線組織

としての役割を日本敗戦時まで横行したといえるのである。

723

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724

註(1

)

抗日民族統一戦線研究は、①路線問題から論じた安井三士口

「抗日民族統一戦線と中図共産黛の『路線確立』」『歴史評論』

二四三鋭、

一九七

O年、②統

一戦線の形成過程、「民主共和

園」構怨から論じた古厩忠夫

「中図抗日民族統一戦線の形成

と毅展」、同前所枚、

③郷話再耐の動向、救亡運動との関連で

論じた努作、石島紀之「抗日民族統一戦線と知識人」同二五

六、二五九鋭、

一九七一

、七二年等々があるが、これら及び

これら以降の論文も主に政治史、路線史、形成史に偏ってお

り、統一戦線の本格的解明とはいい難く、成立後の影響を含

め、経済面からもそれを論ずることは不可避である。そうし

た中で井上久土「抗戦前期(一九三七至一九四

O年)険甘寧

没区之経済建設」『中園抗日線接地史図際祭術討論禽論文集』

一九八五年が、第二次図共合作成立後の漣匿を「全閣図防経

済の一環」として法医工業建設を分析、四

O年までに限定す

ることには疑問もあるが外援問題をとり上げ注目される。そ

こで本稿は、それをさらに推進するため没医「工合」に佳…黙

を合わせ、その買態、展開、

一祉の内賞、及び港区工業に占

める位置づけのみならず

「工合」分析の際、不可依な溢匿の

合作政策、合作祉との関連等の解明を重視するとともに、経

済面での統一戦線としての多面的一意畿を貸詮的に考察した

(2)

例えば、回顧録としては路易・

主契

「H工合u

運動記述」

『文史資料』七一

瞬、一

九八

O年等があり、論文として

は①

侯徳礎「論抗日戦争時期的H

工合H

運動」『四川師院察報』

一九八三年第四期、②劉家泉「H

工合“針抗日戦争的重要貢

献」『人民日報』一九八五年九月一日、③朱敏彦

「抗日戦争

時期的H

工合μ

運動」『近代史研究』一九八九年第四期等が

ある。これらに針する詳細な紹介、評僚、批剣等は拙稿「中

園工業合作運動の研究動向について」『東洋史論』七鋭、

九八九年を参照されたい。

(3〉

「工合」に射する拙稿は①

「中図工業合作運動について

l

レウィ

・アレ

l、虚康綿雨氏に開く」『アジア経済』二一巻

五抗、

一九八

O年、

「抗日戦争時期の中図工業合作運動」

『歴史察研究』

四八五鋭、同年、③「雲南省における中園工業

合作運動」大阪教育大泉『歴史研究』二四鋭、

一九八七年、

④「東南区における中図工業合作運動」『社合文化史闘祭』

二三

放、同年等々を参照されたい。

(4)

陳翰釜『中図工業合作運動的過去輿将来』一九四七年、二

九頁。「中図工業合作協合西北緋事庭延安事務所工作概況及

今後計霊的報告」(以下

「計霊的報告」)

一九四六年、『抗日

戦争時期倣甘寧進巨財政経済史料摘編』第七編、一九八

一年、

二OO頁。以下『摘編』と略稀。

(5〉

HW仏間ミ

ωロO〈〈

-bNh3GH。HF内切内向

3ミ諸問・

巴印∞・

3・NωHl

Nωω・(松岡洋子諮『目究めへの放』一九六三年、二O一頁。)

誇昌

「閥於合作社」『闘争』一七期、一

九三三年七月五日。

亮卒

「目前蘇維挨合作運動的欣況和我例任務」『闘争』

-100一

(6)

(7〉

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725

六期、一九三四年四月二一目。同「経済建設的初歩総括」

『闘争』二九期、一九一二三年一

O月七日。

(8)(9〉同前「目前蘇維挨合作運動的紋況和我例任務」。

(叩)寄昌、前掲論文(繍完)、『闘争』一八期、一九三三年七月

一五日。

(日)丁利剛「論中閣工業合作運動」『祉禽科事』一九八三年一

期。

(ロ)(日〉高自立「信用工業品的全面白給奮闘」『震工業口問的全面

自給而奮闘』一九四四年、四二頁。了多芳「険甘寧港区経済

事情」『特調班月報』二巻二続、一九四

O年一一月等。

(比)社映「縫繍設展中的漫匿合作事業」『新華日報』一九三人

年六月五日。

(日)「生産合作社報告材料」一九四一年、『摘編』第七編、一八

八頁。

(日〉「一年来阪甘寧港区経済建設工作」一九三九年、『摘編』第

七編、一九二頁。

(げ)杜映、前掲論文参照。

(同四)楊作材「自然科皐院建院初期的情況」『延安自然科皐院史

料』(以下『科泉院史料』〉一九八六年、三八四j三八五頁。

ω)武衡主編『抗日戦争時期解放匿科築技術設展史資料』(以

下『設展史資料』〉第二韓、一九八四年、五九頁。井上、前掲

論文。なお、沈鴻は漸江省出身。一九年上海で洋布庖の見習

工として働く。この時附近の機器廠にしばしば機械を見に行

き、かっ『申報』から科築基礎を身につけ、「工業救園」の

理想をもった。二六歳の時、小機械廠を設立、三七年には第

働者三

O数人となった。この過程で沈は卓越した技師になっ

ており、かつ「民主思想」をもったとされる。七七事獲後、

武漢に機器を運んで抗戦に意力しようとするが、とり合う者

なく、結局延安にやってくることになる(武衡、間前、五七

j五人頁)。とりわけ重要なことは「工業救図」「民主思想」

を有した民族資本家であるという鈷で、沈はいわば民主波、

第三勢力の系譜に属する人物といえよう。

(却)銭志道は祈江大曲月子化闘争系を卒業、南京中央化築研究所、太

原理化研究所で仕事をし、七七事後が勃裂すると、防毒器具

の研究をしたが、一

O月太原から開封へと戦摘を逃れる。た

だ、そこで骨園地軍政の腐敗を目撃したことから、延安に行

き、化準工業設展に蜜力することになる。また陳振夏は上海

模範工場の見習工を振り出しに中華電器製造所で働くが、

五・三

O運動勃設により罷工委員禽主席に選任されたが、響

察に逮捕、拘禁される。その後、招一商一局で工程師粂エンジン

長として働くが「危険人物」としてマークされていたため、

延安に来て石油廠工作に霊力するハ『摘編』第三編、四五

0

1四五一

一貝と井上、前掲論文参照)。

(幻

)EmRωロDFG-RHS

間以

-NUN・(邦詳、二

O二良〉。

(

n

)

「合作運動協曾夜起人禽議」『上海民園日報』一九二四年七

月二七日。

(お)楊作材、前掲論文、三八五頁。

(MH)

ωロOFe・5J宅-NUN-8ω・〈郭羽一拝、二

O二頁)。

(お)ガンサl

・スタイン著『延安一九四四年』一九六二年、一

四六j一四七頁。なお、農業生産合作祉に関して、毛は土地

nυ 噌よ

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726

革命後の個人経済集圏化、互助、個人の私有財産を破援しな

いという意味でその一意義を高く評償する(毛海東「論合作

祉」一九四三年一

O月、『毛津東集』第九巻、北釜位、一九

七一年、七五頁)。

(お)『解放日報』一九四四年七月四日。

(幻)禦雲「四億周恩来同志二三事」『羊披晩報』一九八二年三

月五日。路易・支察、前掲回憶。虚康綿「抗日戦争時期的中

園工業合作運動」、前掲『文史資料』七一一輯。なお王幅削南も

「工合」支持を打ち出している。

(お)拙稿「中園工業合作運動と救園舎波」大阪数育大皐『歴史

研究』二五放、一九八八年三月。

(叩臼)陳紹困問、周恩来、秦博古「我例制到於保衛武漢輿第三期抗戦

問題底一意見」『解放』四五期、一九三八年七月一五日。

(ω〉一丁「路易・女繋輿工合運動」、複印報刊資料『中園現代

史』一九八八年六期。

(川副〉察暗号、前掲記事。

(包)一ム・ウエ

lルズ著、東亜研究所誇『支那民主主義建設』

一九四二年、一七三j一七四頁。。宮ロ司自閉めロ開(陳翰笠y

csh旬。|吋言

b。ミ。¥HF向。F52。。。YEgg-

]戸申品吋・同】・

ω由・

(お)「延安工業合作祉事務局の報告」(以下「事務局報告」〉、ニ

ム・ウエ

lルズ同前掲書所牧附録、四一頁。丁多芳、前掲論

文。郁文「一九四

O年溢区第二届農工展賢曾参観記」『新中

華報』一九四

O年三月八日。「隙甘寧港区互助合作運動大事

記」『摘編』第七編、五五

O頁。

(斜)動常雲、前掲記事。

(お)港区政府「隙甘寧港区抗戦時期施政綱領」一九三九年四

月、『設展史資料』第一輯、一九八三年、六六

1六七頁。

(お)唐風雲「展覧輿奨勝是快甘寧溢匡推動技術進歩的重要措

置」『設展史資料』第三輯、一九八四年、二二六

1二二七頁

によれば、展覧禽等の目的は①生産成果の検討、②先進技術

の宣俸と技術進歩の推進、③科皐知識の普及と迷信打破等で

あった。

(初出〉『科皐院史料』三七八j三七九、六七

O頁。ゥェ

lルズ、

前掲書、一七二

i一七三頁等。なお四

O年二月自然科皐研究

院は自然科皐院に改組される。

(叩拍〉毛津東『経済問題興財政問題』一九四二年一一一月、一二ハ

ー一一七頁。前掲「生産合作壮報告材料」一八九頁。「工合

延安事務所給富春同士心的報告」『摘編』第三編、二七九頁。

(ω)「事務局報告」四八頁。

(必)「計霊的報告」一九八頁等。

(

H

U

)

(

州出〉(川知)ウエ

lルズ、前掲書、一七一{〉一七二、一七四頁。

〈必)前掲「事務局報告」四一頁。

(MW)

回家英

「抗戦中的工業合作運動(繍完〉」『解放日報』一九

四一年一一一月一

O目。

(必)丁多芳、前掲論文。

(円引)前掲「生産合作社報告材料」一八九頁から議測。

(組制)張法租『工合輿抗戦』一九四一年二月、三四頁。なお本書

では貸付総額は「一一五四蔦一八三三・一一元」、回牧線額

は「一八高五

0=了四四元」となっているが、賞際計算する

-102ー

Page 31: Title 陜甘寧邊區における中國工業合作運動 東洋史研究 (1991), … · ところでソ匿における合作祉の寅際状況はいかなるものであったであろうか。例えば江西を中心とする中央ソ匿の合作

727

と、それぞれ二五八高一九四三・二一元、ニ

O高八五

O三・

四四元となる。本文では寅際算出した数字を使用した。

(品目〉『新中華報』一九三九年一

O月一一一一目。

(印)張法組、前掲書、四八j四九頁。

(日)『隙甘寧港区合作事業施政原則』一九三九年一

O月〈?〉、

東洋文庫所蔵筆寓史料。

(臼)巴岡田同

ω54Fo、・

np司-NωN・(邦譲、二

O一頁〉。

(臼)ウエ

lルズ、前掲書、一七六頁。なおウエ

lルズはこの決

定がコ二月」としているが、『快甘寧港区大事記』(一九八

六年〉等々にも同月合作祉関係禽議が開催されたとの記載は

なく、一

O月の関遠いと思われる。

〈臼)「祉論1

論工業合作運動」『新華日報』一九四

O年二月二四

口H

(日)前掲拙稿「抗日戦争時期の中園工業合作運動」。

(民〉(閉山〉丁多芳、前掲論文。

(回〉毛津東、前掲書、一一七頁。

(印〉郁文、前掲記事。

(印)「工合」延安事務所ご九四

O年上半年六個月工作終結報

告」(以下「線結報告」)一九四

O年八月、『摘編』第七編、

二O二、二

O四頁。

(臼)『-新中華報』一九四

O年四月二ハ目。

(臼)「線結報告」二

Oニ1二O四頁。

(臼)同前、二一八頁。

(臼〉糞淵「険甘寧×匿的工業合作祉」『-新華日報』一九四

O年

一月一一一一目。穆欣「工合運動在快甘高原」『新華日報』一九

四O年七月三日。察雲、前掲記事。建設聴「給李富春同志的

信」一九四一年、『摘編』第七編、二

O一頁等参照。

(臼〉『新中華報』一九四

O年八月一六日。

(前)「線結報告」二

OO頁。

〈同町)『新中華報』一九四

O年一一月一四日。

(槌)毛津束、前掲書、一一七頁。

(印〉『-新華日報』一九四四年六月一日。

(初)ところで四二年以降は延安南区合作祉が「模範」とされ、

合作祉の方向とされた。これは大規模な価総合的地区合作祉で

あり、消費合作吐から開始されたが、供鈴、運職、生産、信

用を含む有機的連合慢であった。さらに公堕の代運、農場の

運営、小屋'校への資金援助等々も行なっていた(「隙甘寧漫

底的合作事業」『新華日報』一九四四年六月一日〉。このよう

に四二年以降、港区合作祉の主要方向は大規模化、細胞合化を

辿り、「公利雨利」の方針で漫匿政府の財政経済政策を貫徹

する基礎組織となっていく。

(九〉前掲「祉論|論工業合作運動」。

(花)『科皐院史料』三八O

j一一一八一頁。

(泊〉前掲拙稿「抗日戦争時期の中園工業合作運動」。

ハ九〉井上、前掲論文。

(花〉「陳甘寧漫匿九年来財政牧支報告」一九四六年、『摘編』第

六編、四二人頁。前掲拙稿「抗日戦争時期の中園工業合作運

動」。

(町内〉「計霊的報告」二

OO頁。

(打)拙稿「中園工業合作運動指導者からの書簡について」所牧

-103ー

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728

の「虚廉綿氏からの書簡」『歴史研究』一一一一一鏡、一九八五年。

前掲拙稿

「中園工業合作運動について」等。

(市)「計笠的報告」ニ

OO頁。

(乃)法医銀行「存款、薩免、放款」一九四二年、

『摘編』第五

編、四五五頁。

(剖)董必武『中図解放医貫録』

一九四六年、三一頁。

(創〉「快甘寧溢底抗鷹婦女工業合作祉関一章一」一

九三九年四月、

『抗日根接地政策僚例会集|険甘寧之部(下〉』一九四二年七

月、六四一

i六四五頁。

(m山)王里「婦女輿生産合作祉」『中園婦女』二巻二期、一九四

O年七月一

O日。

(回〉「抗腐婦女工業合作社成績彼好」『新中華報』一九四一年二

月二一一一目。

(剖〉「新華化祭工業合作枇」『解放日報』一九四二年一月二ハ

目。

なお、「工合」協禽からの「=一高元」の投資は大きすぎ、

数字の開遠いの可能性も否めない。

(お)「歴年港区工業概況材料之ご一九四六年、『嬬編』第一一一

編、二四五頁。

(目的)前掲「新華化皐工業合作社」。

(町山)穆欣、前掲記事。

(邸)『新中華報』一九四

O年九月八日。

(回)『新中華報』一九四

O年一一一月二九日。

(叩)前掲

「新華化祭工業合作社」。

〈川出)同前。『新中華報』一九四

O年八月二日。

(幻)(伺)「新華化息子工業合作社」同前。

(悦)「遁医経済情況筒述」一九四八年と前掲「歴年溢匿工業概

況材料之一

」『摘編』第三編、二三七

1二三入、二四五頁。

(mm〉前掲「新華化率工業合作社」。「化皐廠的供鈴問題」

『摘編』

第三編、二四七

1二四八頁等。

(川町)漫区銀行「雨年来放款工作的初歩締結」一九四三年、

『摘

編』第五編、四五六頁。

(巾引)港区政府「戦字第二九七競命令」一九四二年四月、『摘編』

第六編、二三三頁。

(伺)『解放日報』一九四四年五月二日。

(叩)郁文、前掲記事等。

(川)「没匡合作社八年的妥展概況」『摘編』第七編、八八頁。

(肌〉「計董的報告」四八六頁。なお、この報告によれば農業生

産合作祉は九社しかない。おそらく農業生産面においては、

厳密な意味では合作社形態より叫労働互助形態の「努工」、「札

工」が主要形態で、それらは四二年の高幹曾後、

「自力更生」

「農業生産第

ごのスローガ

ンとともに大々的に推進された

(『新華日報』一九四四年四月一日等参照)。その他、南底合

作祉等に組み込まれた形で、その農業部門として機能した可

能性がある。

(川出)前掲拙稿「抗日戦争時期の中園工業合作運動」。

(

m

)

(

川川)前掲「虚度綿氏からの書館」等。なお、米鴻才、郎文

群、陳乾梓編著『合作社設展簡史』一九八八年によれば、

「工合」は合法的地位を利用して中共議員を園民熊地区の

「工

合」に途り、同時に漫匿に知識分子、思一生を迭り込み、革命

力量を増大させた(一四六頁〉という。

-104-

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coinage of cash in the provinces continued to be passive, the circulation

of cash came to eχpand the privately minted cash from the outskirts of

advanced areas.  Moreover thisexpansion was the process without the

structure of trusting cash through payment to the state as it had been,

and that the formerly cash, which attached the greatest importance to

payment to the state,came to regenerate as the distributionmeasure backed

by the rural market under the system of the one-sided supply of cash.

THE CHINESE INDUSTRIAL COOPERATIVE

  

MOVEMENT IN THE SHAN・GAN-NING

     

BORDER REGION 陵甘寧逞酉

KiKUCHI Kazutaka

   

The Chinese Industrial Cooperative Movement (C. I. C.) was an in-

dustrial production movement founded to resist the Japanese invasion in

August, 1938. It was characterised by having the democratic faction as

its nucleus, involving both the Nationalist and the Communist parties and

serving as an Anti Japanese United National Front. This study focuses

on the background of founding, the development and the significance of

the C. I. C. in the Communist Party area in contrast with the Nationalist

Party areas, and the results can be summarised as follows:

(1)The C. I. C. played an important role in the formation of an industrial

   

base in the Communist Party area.

(2)As a United Front Organization it was able to elicit support and

   

coaχfunds from merchants and landlords.

(3)Due to over strong ties with the Communist Party government, in-

   

dependent management by the C. I. C. retroceded to a greater eχtent

   

than in the Nationalist Party areas.

(4)lt played an especially important role in the fields of chemicals, pa-

   

permaking, drugs and other manufactures, and these activities grew

   

to become the major industries of the Communist Party area.

- 3-

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(5) It assisted in the great change in the cooperative policy in the Soviet

   

period, and triggered the rectification of the tendency to turn into a

   

consumer cooperative.

(6)And this study shows the significant importance of the fact that for-

   

eign aid continued to arrive at the Yan'an office of the C. I. C. after

   

1941 when it ceased to be sent to the Communist Party area.

- 4-