Title 淸代四川の移民經濟 東洋史研究 (1987), 45(4): 775-802 ...776 省 医 I...

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Title 淸代四川の移民經濟 Author(s) 森, 紀子 Citation 東洋史研究 (1987), 45(4): 775-802 Issue Date 1987-03-31 URL https://doi.org/10.14989/154175 Right Type Journal Article Textversion publisher Kyoto University

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Title 淸代四川の移民經濟

Author(s) 森, 紀子

Citation 東洋史研究 (1987), 45(4): 775-802

Issue Date 1987-03-31

URL https://doi.org/10.14989/154175

Right

Type Journal Article

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Kyoto University

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コt本木

議己

川東(禁材、脳血、石炭)

(

)

四川西(紅花、タパコ〉

- 141ー

二勝手φ

という中園語がある。大小便の用を足すという一意味あいで、その昔、手をくくられた囚人が、用を足す時にの

み手をゆるめてもらったことに語源があるという。かなり

一般的に使用されることばであって、方言ではないということ

四川の民間俸設では更に解樟が加えられる。すなわち、この手をくくられた囚人とは、湖底から迭られてきた

(lu

人々であるというのだ。

であるが、

明末、張献忠の屠殺により、

きたという通設がある。

いわゆる「湖贋撰萄」

四川では人口に激減をきたした。そのため、清初、湖庚から大量の人聞が四川に遷移して

先の解手の由来も、

であるが、

」れにひっかけて読かれているわけであ

775

る。

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776

省 医 I毎田土日数卒〈畝均)

直隷 4. 7

侠西 4.1

江蘇 2.8

安徽 1.7

江西 4

福建 1.8

湖北 7

湖南 3.9

庚東 4.9

四川 15.6

四川の人口激減の原因が、果して張献忠の軍にのみあったかどうかは、大い

に問題とされているところであるが、この博設には、農民反凱の参加者が信仰農

させられる姿、あるいは強制的に回籍させられる流亡四川人の姿が反映されて

いるともいわれる。俸設はひとまずおくとしても、清-初の四川において、相制到

的な人口減があり、大量の移民活動がみられたことは、紛れもない事買であっ

た。

乾隆三十一年(一七六六)を例とする各省別の田土、人口、毎ロ卒均耕地数の統計がある。参考までにその一部を引用

2〉

してみよう。これを見れば、

清初の四川について盛んにいわれた「地贋人稀」という形容は、確かに数字としても表現さ

れうるのである。

すなわち、

-142ー

清初の四川への移民活動については、我園にも言及はある。最初、それは嘉慶の白蓮数徒の出自が移民であることへの

四JlI

に限っていえば、

川東、

関心から始まった。移住地としては、白蓮数徒の根接地ともいうべき三省(侠菌、湖北、四川〉交界地帯、

川北の山匡が注目された。

そして移民の経済生活といえば、常食とされるトウモロコシ栽培と養豚のサイクルで把握されるのが一般であった。移

民H

白蓮教徒、土着H

非数徒といった園式すら想定され、いずれにしろ白蓮数徒の問題としてのみ考察されていたのであ

(3)

る。筆

者自身の移民への関心は、

四川の盟業に闘する考察から始まった。盟都自流井を代表する盟業査本家王三畏堂、李四

いずれも先世は外籍で

友堂、胡勉賛。自流井と並帯される築山五通橋の盟業資本家臭景譲堂(郭沫若の八妹が嫁している)。

(

4

)

あった。しかも彼らは、川南において、極めて積極的な経済活動を告なんでいるのである。

思うに白蓮教徒の問題からのみこの時期の移民を考えることは、いささか視野が狭く、そこからは限定的で、消極的な

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移民の委しか導かれないのではなかろうか。本稿では清-初における四川への移民活動そのものを、

できるだけ具偉的、包

括的に考えてみたいと思う。開

順治三年(一六四六)、

であった。

しかも、

四川全省を版固に入れ得たのは、

(

5

)

績く呉三桂の範の卒定をみる康照二十年(一六八一)まで、

川北より入川した清軍が、

やっと康照元年(一六六一一〉のこと

兵火はなおやむことなく、

「沃野千里」

「天府の園」と稽されたその土地も、

「狐狸針虎の激する所」と形容される荒慶ぶりを示すに至ったのである。

清朝においては、激減した戸口の回復をめざし、戦火を避けて、映西や湖慶等の他省に逃れ去った、

「流寓川民」の回

籍が求められたことはもちろん

「招民開墾」の問題が急務として、早くから論議の組上にのぼっている。

-143ー

(

6

)

まだ川北の卒定をみるのみであった順治十一年〈一

六五四)、早くも兵民に牛種を官給する屯田政策がとられていたが、

(7)

開墾政策をより放果的に賓施するため、招民に力のあった官員には一級を加え(招民三百戸を目安とする〉、清初の通例と

(8)

開墾三年後に起科されるものを五年ないし六年とするなど、

して

そして、

(

9

)

(一六七一〉には入濁墾荒者の入籍が、康照二十九年(一六九O)にはその子弟の入籍考試が認められている。

様々な奨働策もとられていた。

康照十年

こうして、

四川移民の大きな波が清初に現われるのであるが、移民の入萄がすすむにつれ、彼らと先住者との聞には、

札機もまた、嘗然のように護生してきでいた。康照中、萄人李先復が次のように陳述している。

臣は窃人にかかる。伏して念うに、巴萄の界は、秦、楚に連なり、地既に迂閥たり。雨省失業の民、近きに就きて入

籍墾田し、地方を填貫し、漸ゃく賦税を増し、園計、民生、

宣爾つながら依頼あらずや。乃ち、近ごろ楚省の賓慶、

武岡、河陽等虚の人民、或いは罪を以て逃れ、或いは欠糧を以て健比、名を開荒に托して家を掲え入局する者あり。

777

数十蔦を下らず。その開果して開墾を以て業となすもの固より人に乏しからず。而して好徒匪類、地方を擾筈し、則

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ち人の己熟の田地を占むる者あり、人の租宗の墳墓を掘る者あり、糾彩して痛をなし盗をなし、虐を態しいままにし

劫を行う者あり。議を結びて克殴し、強に侍りて健訟す。叉私かに禽館を立て、凡そ一家事あれば群克横行し、此に

(

)

告げ彼に謹し官府を挟制する者あり。

移民の出身地は、湖康、江西、庚東、

一幅建、快西等各省にわたる。しかし「湖底填萄」のことばがあるように、中でも

海援の湖庚からの移住者が匪倒的多数にのぼっていた。それは各地方志の記載にも如買に反映されている。数が多いだけ

にトラブルの瑳生も自につきゃすかったのであろうか。この一文は湖贋の入局者による害を端的に指摘したものである

が、康照一帝の上識にも同様の認識がみられる。

峡西は人多くして地少なし。

聞くに快西入川の人は各自耕種

つね

(

)

し、分に安んじ管生す。湖慶入川の人は毎々四川人と争訟すe

四川人の深く怨むゆえんなり。

峡西からの移民に較べても、湖康からの移民は何かと悶着を起しやすいというのである。

かれ

湖底の民の四川に往きて地を墾する者甚だ多し。伊去る時、原籍の房産、地畝を勝って悉く愛買を行い、四川に往き

(

)

て地を墾す。湖五年の起徴の時に至りて復た湖底に回り、原買の房産、地畝を終

って手告する者甚だ多し。

識して日く、

湖底

故に百姓皆四川に往きて開墾す。

-144-

四川に移住開墾するのである

が、

いざ徴税の開始される時期になると、納糧をきらって原籍に蹄

ってしまう。故郷に跨れば闘ったで、既に買り梯った

これらの記事に見る限り、湖底夙よりの移民は、故郷の家屋、

田畑を貰り梯って資本とし、

はずの自分の不動産に閲してもめごとを起すとレぅ、なかなか計算高いしたたかなものがある。これでは開墾も、菟税期

聞を有数に利用した出稼ぎといった趣むきであり、ましてその中には、他人の耕地や、墓地を開墾してしまう不心得者ま

でいたとすれば

土着の四川人と摩擦を生じるのも無理からぬことではあるが、

この湖庚出身者に代表される移民の性

格、すなわち、飽和感のある原籍から、

いくばくかの資本を持ち、短期的な牧盆をめざす、

いわば目的一意識のはっきりし

た性格は、この時期の四川移民を考察するにあたり、注目しておかねばならない。

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下って潅正六年〈一七二八〉の上識にも、四川移民への言及がある。

内閣の上年聞するに、湖慶、農東、江西等省の民は、本地数枚、米貴きに因り、相率いて四川に遷移するもの、数世間

人を下らず。己に四川督撫をして法を設け安揺せしめ、所を失わしむること母れと。ただ思うに、上年、江西は牧成

やや

頗ぶる好し、卸ち湖康、慶東もまた歌歳にあらず。近水の地の略湾損を被むるに過ぎず。何ぞ居民の軽がるしくその

郷を去るもののかくの如きの衆きを至さん。

その故郷において大きな自然災害があったわけでもなく、否、豊作の所すらあるのに、速く江西、贋東からまで、敢え

て四川に移住していく者が多いということは、薙正帝の理解に苦しむところであった。各省から寄せられる上奏にかんが

みて、潅正帝が達した移民の理由とは、次のようなものであった。

川省は瞭土木より寛く、米多く債賎しきに因りて無知の民は、卒日既に利に趨るの見を懐く。叉侍読する者あり。謂

うに川省の米は三銭もて一石を買うべしと。叉一種、包撹、担徒あり。極言するに川省は日を度るに易し。

一たび入

籍すれば便ち富鏡たる可しと。愚民その煽惑を被り、濁り貧しき者のその術中に堕ちるのみならず、即ち業を有する

(

U

U

者もまた、産を穏やき、以て富足を計る。

- 145ー

すなわち、「地贋人稀」といわれる四川では米債が安い。四川に入籍すれば富裕になれるという俸聞が相嘗に流布さ

れ、利に走る人々が殺到したというのである。単に食いつめた流民というだけではなく、有産者がまた移住の波にのって

いたという指摘は十分注目に値しよう。

一省にかく人々が雲集すれば、再び人口の増加を招き、低い米債も騰貴するといって移住の軽撃を戒しめる

のであるが、趨利の移民を引きつけたものが、安債な糧米であったということは基本とするにしても、果してそれのみに

終始することであったろうか。大量の移民を吸牧しえたものが何であったのか、個々の移民の具韓例にそくして、より幅

務正一帝は、

779

贋い考察を加えてみよう。

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780

移民のル

I卜は、陸路もさることながら、水路によるものも大きい。湖康、江西からの移民が長江をさかのぼって川東

一たん湖贋にでたのち、やはり長江をのぼってくる。そして川東にと

(

)

どまるのみならず、重慶からさらに嘉陵江に沿って川北へと入っていく。

また、長江を重慶より更にのぼれば、一彼州から治江に沿って、あるいは宜賓から眠江に沿って、それぞれ川西(成都卒

に入ってくるのは嘗然として、贋東からの移民も、

原)に入っていける。移民の足跡は、

四川盆地をほぼおおっているといえよう。し

かし本論ではその全てに言及する徐裕はないので、以下便宜的に、母国時の呼穏に従って、川東、川南、川西のそれぞれに

いわゆる三省交界の山匡のみならず、

属する数懸について、移民の質態をみてレこう。

)11

東〈繋材、盟、石炭)

湖北から長江をのぼって四川に入れば、程なく有名な三峡に至る。三峡をこえ、

やがて寓蘇に達するという手前に、雲

-146-

陽鯨がある。鯨城は長江の北岸に、江に面して建つが、その境域は江をはさんで南北に伸びている。

(時)

「明季大凱の後、戸の彫耗を見る。天下既に定まり、始めて大いに果楚の民を遷し以てこれを貫たす」とレわれるよ

うに、乾隆三年(一七三八)、

三千六百六十七戸と把握されていた雲陽懸の戸数が、

(日出)

百五十

一戸と十倍近い増加ぶりを示しているのも、移民があずかつて貢献しているのであるが、なかんづく、

(

)

を措いて入川し、多く股阜を致す」と、移民には経済的な成功者が多かった。

嘉慶元年(一七九六〉には三高三千九

「遠人、義

民園の『雲陽腕紳士山』には、懸内の大姓百七十八族をあげ、その原籍、始組、遷徒の時期などを列記しているが、それに

よる限り、大牢は移民で、土着とみなされる者(明代の移民を含む)は三十六戸にすぎない。

割合にして=二%ほどであ

る。概

して土着の者は、明初に入萄してきたと自帯しているのであるが、その耕作地に闘する(地)券も持たぬ。腕脚内には

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雲陽県率、氏族表

iょ実清以目1J l順康薙乾 嘉 道不

治照正隆援光 明

湖北 24 2 17 3 25 3 1 2

湖南 1 3 9 3 8 5

江西 1 1 5 1

福建 1 3 l 1

庚東 1 l 1

四川 2 2 1 1 1 1

その他 6 6 5 11 2 1

不明 3 13

計 36 7 36 13 54 13 4 15

扶、徐、向、再、楊、語といった氏族が残存しているが、首-初、頗ぶ

一一民園 『雲陽麻志』巻23族姓より

る移民(客民〉を仇視し、互いに交流し、婚姻関係を結ぶようになる

土着の性は質撲で、

までは長い期聞が必要であった。

く、識字も書券が讃め、歎むかれなければ十分とし、専ら農耕にいそ

(

)

しんでいる。

誼書とは縁遠

大略このように表現される土着は、すでに移民に匪倒されている気

配である。で

は移民はどのような形で入川し、富裕化していったので

あろうか。二、三の例をみてみよう。

湖南部陽人。康照四十四年(一七

O五〉、将北に移住。居を

定めたのち湖南の父母、弟を迎える。荒地を買い佃戸を招いて墾植さ

(

ω

)

せ、数十年の内に数十里に渡る沃地を獲得して、大族となった。

李茂亮

taq

曾硫斑

湖南臨湘人。康照末、父母とともに遠縁の李氏を頼って雲陽にやってきた。李氏は同郷の邦人であ

ったが、二年

前に入局していた。すでに佃田耕作をし、妻もおり、彼らを疎んじたため、他所へ去ろうとしたがあてもない。門外にす

てであった豆がらをもらい、ふるって五升の除粒をえ、荒地数畝を譲りうけた。童聞は傭工として働き、夜は荒地を開墾

数年間で十徐石にもなった瓜の種を湖南に運版し、

湖南の土産を四川に持ち蹄った。

(

)

れ、十年もするうちに回数十敵、宅地数十匡を手に入れ、蘇北の大姓となった。

彰光圭湖北大冶人。乾隆七年(一七四二)の移民。油菓子(膏閥、寒具)を買るのを業としていた。後に人のために

阪塘を溶え、

瓜を植えた。

ともに高値で寅

衣第に股阜となった。

子孫の代には購入した国産は数蘇に連なり、

(

)

ぃ、武科に供職した者が多い。鯨南西部きつての大姓となる。

世々弓馬を習

781

入穀は蔦石にのぼ

った。

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782

これらの例をみると、李茂亮は資本を捕えていたのであろう。最初から荒地を買い、招佃しているが、他の例では、行

請や傭工をして小金をため、土地を購入してからも、開墾をすすめる一方で一商貰もする、

いわば農一商粂行というスタイル

をとっていることが認められる。これは嘗時の移民の典型的なあり方といってよい。

もともと土着のものは回契も所持していなかったといわれている位である。所有開係の暖味な土地も多かったであろう

(

)

し、五升の豆で荒地数畝を譲りうけたという話のあることを思えば、土地の債格も、佃租も低かったことは十分伺える。

)

佃戸であっても、山地に雑植することにより、除剰利盆を蓄積し、やがて土地を購入することも可能であった。

また田を買いて富人と作る。而して佃を粛すこと放の如し。他農百計もて替奪せんとする

(

)

も、回より動かす可からず。数世相安んじ、覗いて己が産と同じ。租は歳に交せず。

土地を購入してからも、今まで通り、佃作を績け、数代経るうちには、いつの間にか佃作地を自己の所有に蹄してしま

う。勤勉と才究をもってすれば、小資産を着々と蓄積する術がそこにはあったのである。

佃、除利あること久しく、

では、

より具鎧的に、彼らが開墾した土地に生産したものは何であったのか。小貿易で取り扱った一商品は何であったの

-148ー

か。先述の曾氏の瓜の種は別として、桐を植えたことはいささか伺えるものの、直接的な資料はあまりない。推測の一助

一般的に雲陽の土産としてあげられるものをいえば、桐油、茶、木耳、牛羊皮、

(

)

あり、特に桐油は清末から民園期に験出品として有名になっている。

として

ソーダ、

イオウといった山貨で

雲陽豚を離れ、

更に北へ行くと開懸である。大巴山をへだて、もう快西省と境界を接するというあたりに、雲泡山、霊

官廟という地名がある。ここでは、

四川省の特産である薬材の内、最もポピュラーなものの一つである、資連と厚撲の大

規模な栽培がなされている。

築材の地道行遠なるもの、厚撲、責連の雨種なり。老林久しく聞かれ、厚撲、英連の野生なるもの絶えて少なし。厚

撲の樹は則ち栽成にかかる。小坂、卒繍中に筆筒あり。厚撲はその小を言うなり。樹うること数年、十数年に至り、

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杯の如く、担の如きもの則ち好き厚撲なり。黄連は既に闘きし老林の山田、山溝中に栽種す。一商人、地数十里を潟し

偏くこれを栽す。十年を須ちて方めて常年の佃と成る。棚戸の一一搬を守連するは楓ち数十家。大抵山愈高く、谷愈深

(

M

A

)

ければ則ち産する所更に好し。雲泡山、霊官廟一帯、連廠甚だ多し。

移民の流入により、山匿の開護がすすむにつれ、野生の厚撲、責連を大量に採取することは不可能になっていた。そこ

で商人資本をもって、数十里に渡る山地に薬材園が経営されたわけである。成長するのに十年はかかるという、この輔衆材

の育成管理をしているのが棚民であった。

棚民とは、賎民祝されている山匿の移住農業州労働者で、簡翠な小屋がけをして住んでいるためこうよばれるが、通常、

雑糧を借用して開墾し、牧盆がなければまた他所へ徒るという流動的性格をもっている。これに針し、既に田産を所有し

(

)

た有業の移民は客民、新民と呼ばれている。

一口に移住民といっても、その中には歴然と階層分化がみられるのである。

-149ー

薬材業を濁占しているといわれる江西空商人であろうか。それともこの時期、

ところで、移住附労働力を吸牧する、この薬材園を開設した生薬一商人の出自は、残念ながら明記されていない。停統的に

四川における活躍のめざましい快西一商一人の

資本であろうか。今は不問に付すe

責連、厚撲は雲陽蘇においても産出されるが、このような商人資本による薬材園の経営がやはりあったのであろうか。

今のところ資料からは見出せない。雲陽懸において、

大量の献労働力を吸牧しえる大きな産業といえば、鯨北雲安鎮の盟業

であった。

四川において産盟の地は数多く、

が、一般的に清の礎知正、乾隆年聞は川北の射洪が、道光以降は川南の鍵潟、富順の盟場が、その名をふるっている。歴史的

に名高い大寧等、川東の盟場は、清代にはむしろふるわないのであるが、その中にあって、この雲陽蘇の雲安の盟場のみ

(叩ご

は、十五の鹿、州、蘇に行錯され、地理的篠件がよかったのか

「川盟済楚」の清末にも増産をみ、民園に入ってからも、

四十州懸にものぼる。

もっとも、

時代によって産量を誇る地匡も襲遷するのである

783

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784

(mm)

全省の壇場を五級にわける中で、二級にランクされている。そしてこの盟場を資金、人材の南面から支えてきたのが移民

であった。

にん

瞳一商は糞州の人多し。抽出水夫もまた黄州の人これに戸ず。竃房の雑雇は則ち忠州の人。照火は尤も忠州の人の専業に

)

して官籍の岡崎る能わざるなり。推だ胞井のみ論ぜず。

ここに抽出水夫とあるのは、盤井から盟水を汲み上げる努働者である。雲安の盟井で

は釣瓶式の温水方法をと

っていた。

墜落防止の太綱を腰にまいた二人が向きあ

って、汲桶を上下させる。浪水工の手足は、長期間瞳水につかってシワがより、

皮もむけ、

一目でわかるといわれるほどで

一日三十六交代(後に八十二交代)の輪番制になっていた。常雇いの

「捜正

水」と臨時工の「抽出代水L

の二種があるが、湖北黄州籍のものがその職務を濁占していたわけである。

焼盟を行う竃房の業務は、忠州人の専業となってレたというが、同じく川東にあるこの忠州もまた産盟地である。焼盟

業務の経験は盟富であったろう。地元の盟業の不振が、

より大規模な雲安瞳場に彼らを走らせたのであろうか。

「胞井」

nu phu

とは監幌、

巡査の役で、これは出身地を問われることがなかった。

ちなみに雲安盟場において、資州人は一帝王宮を、忠州人は寓天宮をそれぞれ同郷曾館としていた。

(

)

かく業種の固定化がすすめば、同郷曾館はやがて同業曾館の色相を濃くしていったであろう。

しかし、出身地別に

ところで、移民は盟場の献労働力としてあるばかりでなく、経営にも深くかかわってレた。

豚北雲安盟場、その大姓は日く陶、郭。皆湖北黄岡の人なり。窃に遷りてのち、倶に盟竃、煤臓を業とし、佐々その

(犯)

利を食み漫く以て家を潤おす。国庫、溺井、資は皆距首問。

ここに瞳場の有力者として奉げられている陶、郭二姓は、ともに湖北の糞岡出身であるが、郭氏は乾隆中に、陶氏は乾

嘉の聞に雲安場に入り、瞳業に胤摘さわってきた。折しも、乾隆年聞は、雲安場で瞳井がその数を、顕著に増加させた時期

である。

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雲安場の瞳井は、

一井を若干の「架」に分け、「架」ごとにまた股分を

(

)

一架が更に二十股、三十股と分有されるのである。

(

)

「歯股を購うは買回に勝る。責息速やかにしてかつ厚きを以てなり」といわれるように、牧盆率の高い盟井の股分を購

四川の他の聾場と同じく合資経営が主である。

分かつ。大井であれば、二十銭架にも分けられ

入することは、徐剰資金を有するものにとって恰好の投資であった。

乾隆九年、湖南長沙から入局した胡氏は、最初、農に力め殖産を計ったが、嘉慶の白蓮数の凱に遭遇し、一時湖南に避

難していた。凱が卒定され、再び雲陽に戻ってからは瞳場に移住、

一商業に従事し、「羨金があれば、泌を購い、田を買

(お

)

0

(

お〉

い」蓄財したのである。先速の黄岡出身の郭氏も

「歳に一鼠積あれば、制ち田、

泌を購い、その牧入を増」して、盟場の貫

力者となっていった。

また、溜股を購入することにより、井権を所有した井主の多くは、

「脚竃」と呼ばれる竃房を持った(合資経営の懸井と

遠い、寵房は濁資が多い〉。竃房においては、

租金をとって賃煎させる場合もある。賃煎の場合、

-151-

自煎する場合も、

契約で租金を定めるが、多くて百雨強、少なくても七、八十南というのであるから、脚竃の所有も結構な恒産とみなさ

(

M

U

)

れていた。

するようにな

っていった。

ところで、従来、雲安場では、前…盤の燃料として柴を使用していた。やがて林木の不足をきたしてからは、石撲を使用

雲陽懸は石炭も豊かだったのである。

累積されて川迭の

竃房から排出される石炭灰の山は、

。隔頭。となった。絶えず残り火があるため、無宿者はそこで暖をとり食事を作る。貧しい婦女子はこぼれた石炭を拾い

(お)

かような光景が雲安盟場の日常であったのだ。

生計をたてる。

瞳場の富者陶氏は、瞳井だけではなく、炭鎖をも所有していた。陶氏の「吉慶煤鴎」といえば、その一帯で最大級のも

(

)

のであった。

785

諒錫歪字紹亭、原籍湖南茶陵州。先世流徒して蘇に至る。貧にして籍るなし。弟兄三人、湯漢の煤鴎のために撃運

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786

の役に供きる。乃ち雨兄に謀り、自ら煤洞を閥き多く煤脈を得、

(

ω

)

人となる。

さか

かっ鏡たり。これにより殖産日に沃んにして迭に富

雲安撞場において、瞳により起家したものは、先の陶氏、郭氏を筆頭とするが、石炭によって隆盛となったものは、こ

の諸氏と浦氏(忠州人0・)といわれている。炭鎮の開設は多くの制労働力を吸牧するとともに、謂氏のように無産の者が一

山あてるチャンスをも提供していたわけである。

「無慮高数」と形容されるが、駄MMは水府廟、あるいは馬王廟を曾舘とし、船却は王爺廟を禽館とし、

(

)

できぬものであった。移住献労働力の吸牧がここにもあったことは想像に難くない。

炭鎖や盟場はまた大量の運織労働者を必要とする。雲陽において石炭、瞳の搬出に利用される駄運、船運に従事する者

その勢力は無視

ちなみに雲陽懸でも、他府榔と同様に城内から各鎖に至るまで幾つもの同郷曾館(江西叡l寓議官。湘穂|属王宮。庚東Mml

(必)

南輩官。福建制1

天上宮等)が建立され、移民雑居の様がよく知られるのであるが、客籍の増加にともない、-新たに入甲す

るものは

「市費」を支梯うのが例であった。この剤費の管理を含め、橋梁、道路建設等を唱議し、果ては訴訟の調停ま

-152ー

で、地域社舎のまとめ役として推翠されるのが「郷約」であった。湖南出身の瞭氏、航城出身の戴氏、

(円

ω)

容れを残している。

いずれも名郷約の

さて、

四川省において、石炭は主要には川東、

川南に分布している。移民と炭鎖との関係は、重慶に近い江北豚にも見

いだすことができる。

(

)

江北懸二岩に復興隆という炭鎖が今なおある。

一九六

一年の日産量約二百t。坑道七回の炭鎖であるが、嘉陵江流域で

は最も優秀な炭質を誇るという。この長鎖の創業は乾隆六年(一七四

一)にまでさかのぼる。

任ぜられた族兄周世元が、手紙で巴の土地の肥沃であることを知らせてきたため、

復興隆は最初、甲子洞と呼ばれていた。創始者の周世総は原籍湖南卸陽の人である。薬正四年(一七二六)、

務正九年(一七三一)、

(必)

巴賑知腕柿に

家族をつれ合

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川勝に移り、農一商粂行で蓄財を謀ったという。

見。附近の農民を雇い採掘を始めたのである。

乾隆六年、江北二岩の山地二十石を購入し、

質もよく、埋蘇量も豊富なため、

開墾したところ、

代々周氏の産業として成長していった

提鍍を護

が、その瑳展には周世論の孫、周輿魁の経営手腕に負うところが大きかった。

彼は積極的に販買ルlトを横大し、地元の酢房に販買する外、川北の射洪、途寧、蓬漠等から瞳、糖、酒を運、迭してき

た回船を利用して、折り返し燃料の石炭を販出したのである。周輿魁の子周隆盛の代には、重慶に盟盛和炭挽を開設して

販路を更に開拓し、碩工も七、八百人となっていた。道光二十八年(一八四八〉、周隆盛の死後、四房の共同管理となり、

興隆公提廠と命名した。現在の復興隆の名は、

一九三九年に株式舎祉となってからのものである。

周氏の場合、移住のきっかけが、地方官であった族兄の示唆であったというのは興味を引かれる。地方の情報牧集に有

利であったのは、やはり客一商と地方官であ

った。

(

)

同じく江北の東陽銀において、炭鎖を開設した高鳳築は、江西瑞州府高安燃の人であり、乾隆年聞に入川していた。の

ち重慶の桂花街に移住して裕記逼盟競を合資で経営している。彼において特記すべきことは、江北の地で入信した天主数

一153ー

徒であったことだ。

『聖歌入川記』には、乾隆前後の天主教徒として、四川各地の六十家族ほどの名が拳げられているが、その殆んどは、

清初の移民である。しかも大抵の数徒が、入川以前にもう信徒であったことを思うと、移民の入川は確かに天主数の入川

でもあったわけだ。

重度に著名な天主教徒として羅姓の家族がいた(移民か土着か不明)。

城内の三牌坊に銭鋪を聞き、

銀銭免換を業とし

ていた。やはり信者である張氏と姻戚闘係にあ

ったが、張氏は康照年間、湖慶より重慶に移住した人物で、羅氏から網鍛

織造の技術を皐び、これにより護財した。道光時代には

E富を形成したという。

787

同じく羅氏と姻戚閥係にあり、乾隆四十年に信徒となった李氏は、江西より入川したものである。首時、重慶域内に網

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788

り、後に重慶で機房を経営し、綱織を織造していた。奇しくも重慶の有力な天主数徒は機房経営に集中しているが、各地

(

U

U

の移住数徒の職には、薬鋪経営も農業もある。ただ、これら信徒の多くが、数次にわたる弾匪の中で、投獄、流刑の憂目

屋敷の

一室をミサのための数堂にあてていたという。

を見ていることも、移民の一側面である。

111

南(砂糖)

長江を重慶よりさらに湖り、櫨州と宜賓の聞に位置する南渓鯨は、北方七十里に富順懸自流井という

一大瞳場を控え、

その懸域はやはり、江をはさんで南北に康がっている。

ここ南掛快勝もまた、明末以来の兵風に「土虚しく人無し」という有様を星し、復興の挽令がかけられたのは、康照三年

(

)

(一六六四)、知懸李呈芳が城市を開墾し、

民に武器を捨てさせ本業に蹄らせてからであった。

この時、城中の人士で里に

-154ー

蹄ったものは七家だけであり、奮家は殆んど残っていなかったという。二十年後、湖贋、廉東、

一幅建、江西の民が紛々

しるし

として入植し、地に標をして報告し、官はそれに劃して聯望を給したのである。

嘗時、地債はまことに安く、鶏

一頭、布一疋で数十畝の田を買った者もおり、回が贋すぎて耕やせず、佃戸もいないの

で人に贈ってしまったという者もいたそうである。

戸口は順調に増加し、潅正七年の報告では糧戸二千五百十一戸とあったものが、乾隆六十年においては

一高四千五百四

(

)

十戸、嘉慶十五年には三高四千七百十四戸という伸びをみせている。先にみた川東の雲陽鯨と、近似した規模と伸びであ

る。移

民の中では、湖底出身者が大多数を占めるが、中でも原籍を湖北蹴城懸孝感とするものが最も多い。これは南濃鯨に

(

)

限らず、他の鯨でもいわれることであり、確かに一つの目を引く現象である。各省からの僑民は、嘗-初、通婚も同郷人の

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南渓鯨氏族表

i調γ順康難乾威不

初治県正隆盛明

湖北 7 8 8 21 1 2 2

湖南 1 8 1

江西 2 1 1

庚東 1 1

福建 1

その他 2 1 1

不明 1

ぷロ斗 壬白ヰ1 11 9 10 31 2 6 2

一ー民園「南渓懸定、』 巻 4薩俗氏族より

聞でのみ行い、習俗を同化させることはなかなかしない。

土着の人聞も移民を排斥しようとしたが、その力は弱く、敵うものでは

なかった。そして、雑居する客民聞の秩序を保つためには、「客民の長」、

(

)

すなわち

「客長」というものが設けられていた。

南漠蘇は大江に潰していながら、順治、康照の聞にはまだ交通もあまり

盛んでなく、開墾の居民も、衣食に浪漫としている有様で、粟を武器に易

え、それを貰って家畜を買うという素朴な交換経済が成立していた(少数

民族との取り引きを恩わせる〉。局銭(康照七年、成都に開局し鼓鋳されている〉

(

)

が通用し始めたのも、乾隆の末になってからという。

とはレえ、素朴な経済環境の中でも、移民はその出身地の経済レベルを

自ずから反映させていく。

山がちで、

山あいに狭長な卒地があるだけとい

った南漠懸の地形の中で住みわけて、土着の民とは、農業経営のあり方にも顧著な遣いをみせている。

土着の民は多く山に依りて田を耕やし、新籍の民は多く河に臨み地に種える。地に種える者は、姻を栽し、東を植え

やや

る。力較田より逸く、而して利或いはこれに倍す。然れども、力田の子弟は利微かなるも敢えて僻たらず。種地の子

(

)

弟は、利厚くして騎り易し。これ叉農事中の本末の携なり。

着に倍する利盆をあげていたのである。

健統的な水田耕作を、

山間部で行

っている土着に射し、移民は河岸にタパコ、砂糖キピを栽培し、務力をかけずに、土

789

すなわち、長江の北岸、師耕城をはさんだ東西南保の一帯は、その沙質の土壌がタバコ(奈草〉によくあい、

されていた。最初は懸内を市場にするだけであったのが、ずっと下って民園初期には湖北にも運錯するようになったとい

一面に栽培

-155-

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790

(

)う。そして、河岸の沙質の土壌は、砂糖キピにも逼したものであった。

演江南岸は、土、熊を種えるに宜し。熱煉して糖を成し、各地に運錯す。父老相停うるに明代有る無し。清-初、鹿市人

の遁来する者衆し。始めて故郷より種を捕えて萄に来る。百年遁街して遂に大宗となる。懸中、富室の戸は多く製糖

(

)

を以て起家す。

明代にはなかった甘煎が

情初になって、簾東籍の移民によって、

四川にもたらされたというのである。

これをみれ

ば、移民の経済活動にはまことに大きなものがあるといわざるを得ない。ちなみに、「氏族表」からみるに、南漠豚にお

ける康東籍の移民は、鯨東の留賓場の曾氏(始祖維鳳、乾隆二年に遜居)と、長江の北岸にある羅龍場の謝氏(始租維翰、落

(

)

正五年に遜居〉である。雨氏あわせて、民園にはその子孫が千五百徐人にもなっている。

ただここで、少し注意しておきたいのは、四川省に、従来全く甘煎栽培の経験がなかったとはいえないことである。北

(

)

宋の『糖霜譜』には、唐代、郷和向という備が四川の途寧に造糖法を停えたという俸読をのせている。『天工開物』では

甘皮に二種あるといい、一種は一幅建、庚東に栽培されているもの、もう一種は四川で栽培されているもので、これは西域

(開U

から俸来したものとしている。とすれば、明代においても四川には甘煎栽塔はあったわけで、ただ南漢懸にまで普及して

いなか

ったということなのか、在来種と異なる贋東種がもたらされたということなのか、恐らくこの二面を含んでいるの

-156ー

であろう。

甘熊の値え付け期は春分前後で、牧穫は多至前後である。甘煎栽培農家(青山老板〉は、

(

)

貸をうけている。製糖業には「糖房」と「漏棚」の二種がある。牧穫された甘煎は、精房に運び込まれ、ここで牛力によ

って搾汁し、煮つめて濃縮し、原料糖(糖精)が作られる。黒砂糖(水糖、紅糖)もここ糖房で作られる。原料糖を更に精

初春に製糖業者(霜戸〉から前

製し、最終的に白糖にまで加工するのが漏棚である。

精製された白糖は、上は嘉定府、眉州に、下は重慶、首内燃に運鋪され、結糖(白糖精製の後作られる二次産品〉は湖北の

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宜呂、沙市に運鈍される。遁光から光緒までが最盛期で、糖精の産額は五、六百高勧にのぼったという。清末、糖税の増

加により、産額は激減してしまった。

ところで、四川全省からみれば、産糖の匡域は四十三豚にのぼるという(民園期〉。

(

)

とする浩江流域であり、今でも、ここは全園的に主要な産糖匿となっている。南濃懸の産糖は、その護端に連なると考え

中でも主要な産直は、

内江を中心

ていいだろう。

また、解北には提鏑が多く、炭鎖主から運炭夫まで、石炭によって生計をたてているものは五、六千人といわれる。

曾氏は劉家場に布居す。その初め多く力農版炭を以て業となす。而して合堰の曾氏は最も富貴なり。兄弟六人、歳牧

(

)

租穀三千徐石。

この産炭地である劉家場に住む曾氏は、康岡山七年、湖贋から移住したものである。掘りだされた石炭は、鯨内で消費さ

(

)

れる外は、郵接の富順鯨に運鈍された。

富順懸自流井に近い南漢懸からは、様々な物資がこの大盤場に、迭り込まれている。石炭、穀物に始まり、盟場で大量に

(

)

(

)

消費される竹材。雲南、貴州から自貢に動力として購入されていく牛の市も、南漢で盛んであった。これらの物資の流れ

-157ー

の中に移民がどれほどタッチしていたものか、全容を董くことはできないが、南漢鯨もまた、蓄財の種にことかかない土

地柄であったことは、了解できる。

JlI

西(紅花、

タバコ)

櫨州から治江に沿って朔ると、内江、資中諸鯨を経て、筒陽懸、金堂前燃に達する。この一脅から成都卒原にかけては、

四川省の中でも最も肥沃な地帯であり、開設の歴史は古い。

791

しかし、園初の「戸口稀少」という現象は、この一稽も例外ではなく、

「献賊照明を観して自り、本境(金堂懸)繭に遭

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792

開陽東系氏族表

|ぷ清以 )茨薙乾 芳; 道不

前照正隆康光明

湖康 52 19 4 12 45

庚東 10 5 17 13

江西 l 3 1 4 1 5

福建 2 1 l 1

その他 1 4 1 1 l

不明 2 1 6

合計 56 38 11 35 1 2 71

一一民園 i'O.i'i陽鯨綴志』巻10

士女,氏族表より

うこと尤も惨たり。兵焚の除、居民、手遺ある麻酔し。::・故に本境の人民

(

)

は多く他省自り遷来する者なり。」

と、

移民の足跡は随所に認められるの

である。

(

)

『簡陽腕柿綴志』の「氏族表」には二一自家あまりにのぼる氏族の原籍、世

系表が列記されている。

その内、

原籍不明の九氏を除レた内別けをみる

湖贋出身が六四%、

る。但し、湖底夙出身を稽する中の四O%は明代の移住者であり、三四%は

庚東出身が二二%

その他七%とな

江西七%、

移住時期不明である。

そこで明代の移住者は全て土着とみなし、移住時期不明のものは排除し

- 158ー

と、土着三九%、湖底二五%、蹟東二三%、江西六%、一晒建三%、その他四%となり、農東籍が湖贋籍に匹敵するほど多

て、明白に清代の移住者とされているもののみで、割合をとり直してみる

いことが分る。

(

)

郷援の金堂燃でも、楚箱約三七%、専籍二八%、聞籍

一五%、その他二O

%という結果が出されていることとあわせみ

れば、贋東籍が湖底籍に匹敵するほどの数を占めていることは、川西の移民世舎の特徴といっていいだろう。成都近郊に

)

は今なお康東語の話されている村があるという。

ところで、浩江流域は、前述の甘煎を始め、畑草、棉花、染料といった経済作物の豊富な地帯である。移民の活動も、

これら経済作物の栽培と無関係ではありえない。そして、その最初はやはり、一商業行震をしながらの出稼ぎ的移入であっ

た。典型的な例をみてみよう。

貌吉康は贋東長楽の人である。

五人兄弟の三男であったが

家が貧しく傭牧をしていた。十六歳の時(薙正二年)

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川に行けば生計を謀ることができると聞き、単身簡陽の江南舗に至り、一年後には商買の除金をもって親元に蹄った。再

び簡陽に戻り商一頁をしたが、粂ねて耕作もし、二年後、また積金をもって原籍に信仰った。しかし家事の支持しにくレこと

(

)

を思い、原籍の組業は伯父に託して祭回とし、迭に

一家で簡陽に遷居した。

胡軒尚もやはり庚東長祭の人である。乾隆初、七兄参向とともに、族兄安向を頼って簡陽に入った。傭工や一商買で生計

をたて、勤勉倹約の末、わずかばかり蓄えができると、それによって佃業耕作を始めた。母の死に際しては、歴年の蓄え

をも

って原籍に鯖り、喪葬ののち、六兄夫婦を伴い再び簡陽に蹄

った。十年ののち分居し、-初めて結婚する。晩年には簡

(

)

陽蘇のみならず、金堂懸にも国産を置いた。

の信用も厚く蓄財もできた。

胡正措は胡軒両の曾孫である。十四歳の時、金堂蘇越鎮で計算を皐び、数年ならずして内江花習の経理となった。客一両一

(

)

因子は増生となっている。

ここにあげた規氏の例でも、胡氏の例でも、家族の大部分は原籍に残ったままで、身軽な末弟が同族や同郷の停手を頼

- 159

って四川に入ってきている。備工や行一商で貯えができると、原籍にもち闘

ったり、蓄えが押金をまかなえる程になれば、

佃田耕作を始める。佃戸になることは、居留先に腰をすえ、

今白手起家。

する第一歩といえよう。移民としての祉舎的地

位をコツコツと上昇させていくこのようなパターンは、先に川東でみたのと全く同じであるが、東南アジア等へでていっ

た華僑のパターンにも逼じるものがある。

十五、六歳の時から家業をついでい

たが、

負債が頗ぶる多かったため、奮護して耕作のあいまに円兼ねて一商買を始めた。紅花の販買である。乾隆から嘉慶の五

(

)

田産を五十徐回も購入した。

周鴻繕(薙正六年の生れ)

一憲、

父登標が清初に湖南永州府より簡陽に移住。

十年聞に銀六高金あまりを積み、

793

原籍湖南部陽照。

薙正年開祖父宗俊の代に、簡陽に移住。二歳の時に父が死に、伯叔に育てられる。嘉慶の

開、盗匠が起り、郷人は紛々として域内に避難したが、俊有のみは相襲らず子弟を率いて耕作し績けていた。

周俊有

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794

みな

是より先、紅花は吾が聞の出産の大宗なり。閥、康の洋一商、威遠く来りて購う。近ごろ嬰凱に因りて礁戸なし。俊有

は賎債を以て贋くこれを牧む。月絵、賊遁れ去る。郷人始めて蹄る、田は蚕ごとく荒蕪、而して俊有の牧穫は倉に盈

(

)

ち、紅花もまた厚利を獲る。家遂に小康なり。

この二人の周氏の記事によれば、乾隆のころ、簡陽の巌大の土産は紅花であった。周俊有は繁乱期に、捨て値で紅花の

加工場を手に入れたのである。一幅建、康東の洋商が買い付けにきていたというのであるから、総出品でもあったわけだ。

民闘『簡陽鯨志』には「乾隆志」を引用してこうある。

はなはだあ舎らか

紅花州、花は染め采る。そ

。河南、川北等慮に甲たり。近来、花は贋偽多く、その債途に滅ず。計

)

るに惟だ偽を去り員を存するのみ、嘗年、土産の感を復する可きに庶からん。

偽の紅花が出回って、信用を落すほど、その一一商品債値は高かったわけであるが、

四川の紅花栽培には、明代から、相嘗

-160ー

大規模なものがあ

ったと思われる。

そもそも紅花は、夏に開花するが、早朝、露のおりている聞に採取しなければならないとされる。嘗然、

(

)

だけでは間に合わないのであるから、短期的な第働力の集約があったはずである。

一家の州労働力

そして明代の

『二刻拍案驚奇』巻四

紅花場骸鬼間」の中に繰り贋げられる、凄惨な殺人事件は、他ならぬ、

「青樫市

(

(補註)

楊恨の一族か?〉の経営する大規模な紅花園(千徐畝といわれ、客商が休むための部屋もあった)が舞歪であった。

また、紅花には税銀もかけられ、成都府で徴牧されていた。乾隆二年、資州、資陽で紅花を買いつけた一商人が、成都に

(

)

まで報税に行くのは回り道であるとして、内江に税口を置くよう提議されている。

しかし、最大の産品とされていたこの紅花も、清末になると、急速に衰えていった。

光緒以前、花を采り淘浄し、硯欄して頼を作り、以て染料となす。遠一扇雲集し、歳にその利を撞らにす。放に花は畦

酷聞に鏑ねし。洋紅出でて自り、その債燦きに因りて途に奪う所となる。種える者、百の一、二。僅かに薬品に供する

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の(み色。

「威同以来、競いて洋紅を向」ぶというから、このころ凋落したも

安債な洋紅におされたのが、衰退の原因であった。

(

)

のであろう。清末、王増棋は「紅花謡」を作り、紅花に饗って簡陽で、紅色を咲かせるようになったのは、務片の密菜花

であると、その感慨を歌っている。

また、簡陽では、乾隆のころ、紅花よりも遅れてではあるが、棉花の栽培も始まっている。

州属、

多く紅花を種える。今(乾隆〉則ち漸ゃく棉を種え、その利の紅花に倍するを知る。

威豊のころには「棉花は州産最も移し」といわれ、水陸南路から崇慶州、彰山、資州、内江各地に運錯されたようであ

(

)

る。先述の胡正階が経理となった内江の花封筒とは、この棉花取り引きに閲するものであろう。

(

甘蕉も「沿江の民、庶を植え糖を作る。州人多く此を以て富を致す。」とあるように簡陽の重要な経済作物であった。

但し、乾隆のころには糖房があっただけであり、ここで作られている糖は紅糖である。白糖を作る漏棚の鰹管は糖房より

資本がいるという。あらかじめ糖房から糖精を買い付けておかなければならないからである。

簡陽の漏樹は、道光の初め、曾姓によって江岸に修建されたのが最初という。ちなみに「氏族表」によれば曾氏は五支

あるが、いずれも原籍は贋東である。曾姓の漏棚はうまくいかなかったようで、光緒末に陳姓が建造して厚利を得たとい

(

)

ぅ。清末から民園にかけ、白糖を造成するものがやっと多くなったというのであるから、川南の南漠懸に比較して、その

普及は遅いようである。開陽では白糖は資州、内江から運入していたのである。

タバ

コの栽培は氾江流域に盛んにみられ、筒陽懸でも産するが、懸内で消費する程度であり、何といっても郊の金堂蘇

が有名である。

795

停休築は江西瑞金の人である。薙正七年(一七二九)、湖南を鰹て金堂懸趨家渡にきた。佃回し、諸子に力農させて手康

四川ではまだ畑草の栽培は習熟されていなかった。しかし、満蒙八旗の弁兵の必需品であったた

く畑草を種えた。嘗持、

-161-

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796

め、

(飽)

一時、停姓の姻草が錦城

(成都)で珍重されていたという。

タバ

コは明の禽暦中から一幅建で多く種えられ、各省に俸えられた。康照、乾隆中にしばしば禁令が出されたが紐

(問山)

えることなく、嘉慶、道光以後は全園的に普及したという。薙正七年の移民によってもたらされたということは、全園的

JhuLι

にみて早い受容といえようか。ちなみに停姓のタバ

コの消費者は成都の満蒙八旗ということであるが、成都の城内に満城

(

)

(

)

が築かれたのは康岡山五十七年のことであった。金堂懸のタバコは、のちにその行錯地を他省にまでのばしたという。

ところで、幅建が閣内におけるタバコの設生地であるだけに、その取引きに閲しては、

一幅建村山が牛耳っていたようだ。

川東の雲陽線にも時代は下るが、その活躍がみられた。

ゆたか

畑草を業とする者、闘人多し、顔、慮諸姓は皆に清中葉に来り、その業を以て鯨(雲陽〉中に名あり。利頗ぶる鏡。

ます

(

m

m

)

今多く土人これを承く。畑草は金堂諸鯨に出で、

漁、高より鱒蓮す。近ごろ利盆ます薄きも、なお他業に勝る。

金堂豚のタバコは、

重慶、寓燃を経て、雲陽にまで搬入されていることがよくわかる。雲陽のタバコ業は、

一幅建からの

-162ー

移民である頼氏、直氏が牛耳っていたわけであるが、虚氏は砂糖もあっかつてレた。

しヴ

字音三、原籍一帽建汀州。道光中、父に随い懸(雲陽)に来る。時に懸中一商務正に蕃し。凡そ客籍皆利を獲る。む

塵氏は粂ねて畑糖雨庖を替なみ、大いに蓄うる所あり。皆聞に寄せて回宅を買う。而して豚に在りて

更に姻姫を締

ぶ。後留まるに陪いて去かざるなり。牟は開敏弘紳、贋く交遊し、上は嘉(定)、絞(州)、櫨(州)、総及び資(州)、内

(

)

(江)諮問称に達す。悩糖雨業は皆郷人の交買するあり、聾気呼躍し利率自から倍す。

直牟

元来、客一商であった車氏は、雲陽に定住してからも、

その交易の範圏は庚く、

タパコ、砂糖の買い付けには、出江地域

にも足をのばしている。

四川においては少なからぬ場市が新たに開設

された。済中葉以後、省内の一商業活動はことに活設となり、客籍のものが大いに利金を得たという。虚氏が雲陽に入って

康照、乾隆までを

一つ

のピ

lクとして、集中した移民が定住するにつれ、

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きたのも、この商業活動の高まりにのったものだった。それはとりもなおさず、清初の移民の成果といえるかも知れぬ。

清朝が園初に意園した四川の荒土開墾は、すみやかに成果があげられ、康照五十二年には、

(∞∞)

開墾さる」といった表現が、成都附近を中心にとられ始めている。しかし、乾隆年聞にもなお績々と移民の波は績き、ピ

「今、

四川の荒田己に蚤く

ークを形成していることは既述の通りである。移民の活動は王朝の開墾政策をのりこえて、

はるかに多彩にくり慶げられ

ていった。

移民活動は嘗初から、

一商業行震と竪く結びついていた。移住の首座は出稼ぎ的なスタイルをとることが多く、資本に恵

まれない移民は、行一商一により資金を貯え、佃田耕作の手がかりを作ることが先決であった。原籍の産業を買却し、何がし

かの資本を据えてレたものも、自己の産業を更に旗大するためには、積極的に経済作物の栽培を行い、自ら販責行魚も行

-163ー

なう。

移民が原籍の経済レベルを反映し、従来の四川になかった、タバコ、砂糖キピの栽培、砂糖の製法等を停えたことは、

四川経済にとって新たな可能性をひらくものであった。そこには前貸しの形態がとられていることも伺えるし、移住州労働

カを組織して大規模な農園経営をする一商業資本の存在もみられる。

移民の活動が農業にとどまることなく、

盟井や炭鎮の開設にも向けられていたことは、

注目されていい。

四川におい

て、長い停統を持つ盟業でありながら、移民がかく参入しえたのも、土着の持たぬ資本力を移民が持っていたからであろ

797

また清朝の盟業管理は四川においてゆるやかであり、

(

ω

)

と。炭鎖もまた、他の五金の鎖山と違い、王朝の封禁令がなく、民の自由な開設が許されていたことも大きか

ったであろ

治安に影響のない限りは

民聞の自由開撃にまかされていたこ

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798

(卯)

ぅ。そして炭鎖の盛んな開設は、燃料を大量に消費する盟業、糖世末、醸造業の活溌化を裏付けることでもあった。

移民の力によって新たに開設された産品の生産規模も、始めは、豚内、あるいは数鯨、とい

った省内消費にとどまるも

のであ

ったが、清末から民園にまで下れぽ、ものによ

っては、省外にまで販出される成長をみせ、今日にまで績く産口聞の

多い

ことを思えば、移民活動が四川経済に加えた挺子入れは、員に強いものであ

ったと評債できよう。

また祉曾的にみても、一Z一口話、風俗を異にする排他的な移民集園の雑居は、通常の行政支配だけでは治めきれぬものをも

っていたであろう。移民連は、師属一意識を同郷意識のつながりによっ

て満たそうとし、土着とみなされる先住者も、前代

の移民ということでそこにつながりを得ることができた。

婦層先をもてぬはみだし者には、客民聞のすき聞をうめるように包寄(一苛老舎)の存在がやがて組織されていくことに

ったのであろう。それはまた四川の経済におレて、特に流通面において重要な側面を占めるようになるのであるが、本

提示してしめくくることにする。

稿の範囲を逸股する。移民枇曾の構成等、考察しなければならぬ問題は多々あるが、ここでは移民の経済活動の多様さを

-164ー

註(

1

)

胡昭峨『張献忠屠街孜緋l

粂析湖底風間供四川』

四川人民出版社九

O頁。

(

2

)

郭松義「清代的人口噌長和人口流遜」『清史論叢』第五偶

一O五賞。

(

3

)

鈴木中正

『清朝中期史研究』鰍原告応一

九七

一年

安野省三「清代の農民反飢」岩波講座『世界歴史』口

此6

二O一頁。

(4〉拙文

「清代四川の機業資本」

一九八O年

『明清時代の政治と祉曾』

一九八三年

京郎大準人文科皐研究所五三四頁。李四友堂の

祖先は元末の移民、玉三畏堂の祖先は明末清初湖北よりの移

民、胡勉粛の祖先は河南人。実景議堂の祖父は道光十二年、

湖南より入川

(「健築地区首屈一指的大場一商一l奥景譲堂」

『井堕史通訊』一

九七九年

第一

期による)。なお張皐君、

将光祭『明清四川井監史稿』には王三畏堂、央旦思議堂ともに

その先世は明初の移民とされている。

(

5

)

嘉慶

『四川通士心』各八二武備士心

武功。

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799

(

6

)

同右各六二食貨志田賦上。

(

7

)

『清代四川財政史料』五五頁に康照『四川総士官邸官一

O

貢賦〈康照十二年吏部盛岡恭報招田川民安播数日題本〉を引

J1

(

8

)

起科の年限は、その時々によって一定しない。薙正八年に

は荒田は六年起科、荒地は十年起科とある。『清朝文献通考』

巻二、径三、回賦考。

(

9

)

嘉慶『四川通志』巻六回食貨志戸口。

(凶)同右附李先復疏〈鴛陳楚民寓萄之宝口伏一耐敷都銀加査逐以

値残駒常事〉。

円U)同右巻首之一康県五十二年葵巳十月丙子。

(ロ)同右康県五十一年五月二十日。

(日)同右各首之二薙正六年戊申二月甲辰。

(

M

)

殴如煙『三省遜防備覚』巻一一策略。

流民之入山者::;西南則取道重慶、一安府、宜回目。

(日)(UXU)民園『雲陽懸志』巻一一一一躍俗中

農。

(凶)同右各一地理。

円四)同右巻二五土女番沓一李茂亮。

(却〉同右各二八土女番奮四曾統瑳。

(幻)同右各二三族姓。

(

m

必〉特に山地では佃租が安かった。園初に賦額が定められた

が、人戸も荒涼とし、土着の百姓には納課が困難であった。

そこで外省の客民を募って地を輿え納賦を引き受けさせたの

であるが、その課たるや幾銭幾分かにすぎず、土地の方は数

里にも渡る庚きであった。客民も耕作しきれず客佃を招き、

数十年の聞に七、八縛するケlスもあり、佃戸は招主のみを

知り、ついに地主が誰かは知らない状態だったという。『一一一

省選防備費』巻一

一策略。

円おXUA)

『雲陽蘇志』巻一三種俗中農。

沓回取租最軽。穫十輪五。尤軽者主四佃六。山地雑植。雌

略徴銭、徐潤正多。主不加租、佃亦重力、

墾荒成熟、増

位。。9a

種桐柄。

(お)同右巻=ニ躍俗中

一商。

(お)『三省遊防備質』巻九山貨。

(幻)同右各一一策略。

流民之入山者、:::通有郷賞、使寄住骨局地開盤。伐木支

縁、上覆茅草、僅蔽風雨。:・:故統謂之棚民。其開荒成

熟、佳久有業、及小貿易管生者、漢輿卒場人別JL日新民。

鄭宜人則稽信用客民。

〈叩山)奥崎沖『四川堕政史』巻二場産

一章

沿本

第二節

援産之興廃。

(

m

m

)

同右第三章場匿第三節各場之等級一級は富祭場

のみ。

(鈎)『雲陽師紳士官各一

O監法。なお雲安の駒場において勝一両一

は湖北賞州人が多いというが、一般的に四川においては、木

地に般質な商人が少なく、大牢は挟西商人に静引を租借させ

ている。

(hU)

鍵潟、富順の開場でも堕井開撃の匠作はすべて貴州省の人

といわれる。『三省透防備覧』巻九山質。

(辺)『雲陽田紳士官巻二三族姓。

-165ー

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11寺産

第十章

職業

800

(お)

『四川敏政史』巻一一一

戸。

(引さ『雲陽蘇志』巻

一O堕法。

(お)同右各二七土女番醤三

〈お)同右各二六士女番沓二

(幻)同右各一

O臨法。

(お)丁賢偵『四川取法士心』巻

沿

〈雲一安場風土記〉を引く。原誠威盟『雲陽師紳士ル』。

(鈎)『雲陽豚志』単位二五士女番沓一陶感演。

(川明)同右各二六土女者醤二諦錫高品。

(位)同右巻一

O

開法。

(必)同右各二一洞闘。

(必)同右各二七土女番務三股希賢。ちなみに清末、重

度に

「臨郷約」と呼ばれる民開の運輸、郵便業があった。そ

の名の由来は、

湖底填局の際、湖北脇城から大量の農民が四

川に遜居したが、彼らは毎年人を選び、土産や手紙を託して

故郷と連絡していた。それを蹴城の蹴と地域の調解のリーダ

ーとしての郷約を合格し、附郷約と呼び習わしていたものか

らと

ったという。「西南民間運輸巨摩J鵬郷約。」『四川文史

資料法輯』第七瞬。

(

U

制)周家州他

「復興隆煤蹴倒史」

『四川文史資料選輯』第十五

頁。

(江川)

『四川通士山』巻一

O四職官志。図朝職官題名によれば、

難正四年の巴豚知豚は王経曾。周姓の知豚は周孔態(山東

人、康隈五十七年任〉周仁摩(河南人、康県六十年任〉の

胡徳集。

郭在鳳。

陶誤 升唱

み。懐憶の記憶遠いか。

(日明)古洛東

(OocEoロ)『聖教入川記』一九八一年四川人民

七三頁。原本は

一九

一八年、重度曾家岩野一袋小書局印

行。

。。己正

gは一八六六年

l一九三

O年、

重度で活動して

いたフランス人宣数師。四川省国書館磁。

(幻)同右羅氏七

O頁。張氏七二貝。李氏七二頁。人エ氏七四頁。

呂氏は江西臨江府人、

川南叙府に居住。楽鋪を経営。

乾隆十

四年死。七

O頁。

(崎明)『四川通志』巻一

O四職官志。園朝職官題名によれば、

本寸ロ呈芳、遼東隼人、

康照三年任とある。民図

『南渓勝志』径

二食貨には康照二年とされている。

(品目)民園二十六年『南渓将志』単位二

食貨篇第四近三百年民

生消長朕況三四一

頁。

(印)胡昭犠は『張献忠屠萄孜排』の三章で、外省より入川した

移民の出身地を、各地方志の氏絞表に基っき計量している

が、それによると、移民氏族の中で、湖北山削減鯨出身の占め

る割合は次の通りである。

一概

一%W

A

W

A町AWA

一%

W

A

WC

一村例

一0

3

5

4

3

付叫

一7

5

1

:

一流

一4

2

2

5

8

1

一極

-1

2

5

一剣

一衣

一側

一原

一名

一川

一清

一名

一川

一勝

一合

一懸

一合

本稿では、清以前の移民は全て土着とみなしているが、土

-166ー

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801

着に湖北山川城麻出身と稽する氏族がとりわけ多いのは興味深

い。明代の雌城といえば、李卓吾、何心際、郵割問渠の三異人

が秋天翠を頼って寄寓していた所であり、明末には奴援の舞

裂となった土地柄である。四川とどのようなル

1トがあ

った

のであろう。移民は多く同郷を頼って入川してくることを思

えば、特定の懸の出身者が多いということもあながち不思議

ではないが、それにしても、湖北附城出身を稿する歎の多さ

は異常ともいえ、地方志の編纂者も大きな疑問を呈してい

る。そこで考えられていることは、元末、四川に大夏政権を

樹立した明玉珍の出身が湖北随州であり、孝感に近かった。

明玉珍とともに入川してきた湖北人の勢力が強かったため、

土民も他民もその戸籍を冒稽して庇護を求めたというのであ

(『南渓附紳士亡各四種俗下六二二頁)。要するに湖北脇

減の出身といえば手づるをえられ、四川では弱娠りをきかせ

られたのであろう。

(日)

民園『南渓懸志』巻四種俗篇第八下

風俗六一九頁。

(臼)同右各二食貨篇第四銭幣三三六頁。

(臼)同治『南渓鯨志』径三風俗農事。

(臼)民園『南渓師紳士ゆ』径二食貨篇第四物産二七五頁。

(日〉同右二八三頁。

(日刊)同右巻四櫨俗篇第八下風俗六二七頁、六三

O頁。

(幻)王灼『糖霜譜』原委第一。ここにいう糖霜は泳糠である。

(時)宋態星『天工開物』甘噌第六止を

煎種。

ω)民園『南渓勝志』径二食貨篇第四物産二八三頁。砂

糖キビ農家

への前貸を一万す資料として、割註に引用されてい

る、富順の陳崇哲の詩が重要である。

種得首円挺庶

預貸十千八千銭

(種砕い者皆以春初貸銭霜戸)

始春得銭十勝千

牢果飢腹牢入回(以下略)

また四川における俸統産業

(織錦、

踊-業、糖業、採煤等身〉

の技術的なあらましは、諒日一間編者『中華民図工義国設』

一九五六年中華叢書に詳しい。

(印)裏組問が日本に割譲されてからは、中園園内において、四川

の産糖量が最も多く、民園八年から二十五年に至る卒均年産

は一百八十五高公捲で、全園の首位であったという。内江は

花江流域において産量が多いだけでなく、最大の集散市場で

あった。『中華民園工套図説』九

熱糠一一一一七頁。

(mm)

民園

『南渓問紳士心』各四艦俗篇第八下

風俗六二一

頁。

(臼)同右各二食貨篇第四物産二七九頁。

(臼)同右

一一一一

五頁。自流井では、その濁特な卓筒井及び視の

構造から、竹材の需要が極めて高く、四川山匿のみならず、

雲南、貴州、侠西、湖底からまで大量の竹材を購入してい

た。南渓懸からは一年ものの刺竹、鶏爪竹が販出されていっ

(臼)同右二八五頁。牛市盛於清時。飯自演斡幾之自貢。毎週

集期、恒数百隻、蹄跡交道、親信用中心。

(間山)民闘十年『金堂麻績志』巻一一一食貨戸口。

(白山)民園二十年『倒陽懸績志』径一

O

士女篇

-167ー

氏族表。

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802

門的む民園十年『金堂鯨績士山』巻三食貨戸口。

(槌〉『張献中山屠窃孜排』八四頁。成都の東山地帯、すなわち哲

華陽蘇腐の隆興銀、保和場、西河場、三墓場、大面鋪、仁和

場、得勝郷、同興場。「土庚東」と呼ばれる客家は、先後し

て川南各豚で墾殖し、再び萄北に濯居したという。

(印)『鱗陽豚績士山』巻四土女篇

孝友

三O五頁。

(叩〉同右三

O四頁。

)

O頁。

ハ刊M

)

民閣十六年『餅陽懸志』巻一二土女篇

善行。

ペη)

『繍陽麻績志』巻五士女篇孝友

二三頁。

(九〉(

π

)

「簡陽豚志』巻一九食貨篇土産。

(符)

徐光啓『農政全室田』巻四

O

種植雑種下。一傾牧花、日

須百人摘。以一家手力、十不充一。但駕車地頭、毎旦骨固有小

児偉女、百十除群。自来分捕、正須卒量、中半分取。これは

明代の情景であるが、清代においてもほぼ踏襲されていたで

あろう。

(府内)『四川遁士山』巻六七食貨志権政。

(花)紅花諸

関州四野開紅花:::摘花盈櫓入花桟佑客金銭捜無算:;

自従洋妊飯焚紅花客不来花桟空::・開設栽花能嫌銭

利莫如鵜片煙。(『簡陽問紳士山』各一九食貨篇

(乃×

ω)『簡陽鯨志』巻一九食貨篇土産c

(刷出)同右巻二二躍俗篇風俗。

(回)『張献忠屠局孜緋』九六頁に民園『重修得氏宗譜』巻一

O

(四川大皐図書館蔵)を引用。

(出)『簡陽腕肺志』巻一九食賃借胴土産。

(剖)「四川遁士山』巻二四輿地志城池。

(お)

『金堂懸綴志』を一議域一ムハムハ頁。

(出叩)『雲陽蘇志』各一一一一雄俗中

一荷。

(加山)同右各二六士女番奮二慮牟。

(∞∞〉『四川通志』巻首之一康県五十二年笑巳十月丙子。

mm)

前掲「清代四川の府業資本」参照。

(川別)『清園行政法』第二巻第五章産業第二節破業四

二頁備考。煤ハ従来薪炭ト同調シ積物ノ一一種トシテ之ヲ

認ムルコトナカリキ・:・:従ヒテ一般磁物-一関スル法規ハ煤ニ

適用セラレス叉康照薙正ノ開硝制禁ノ令ノ如キモ亦蓋シ煤ニ

及ハサリシナラン。

(補註)楊恨には「青棲断紅粉之魂白日照翠苔之骨」という文

があり、人々が惇請していたという。小説の題はこれをもじ

り、楊氏を中傷したものであろう。

-168ー

土産)

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to study the entire system of Substance and Function or the Principle

of Nature and Life 性命之理, but rather to apply themselves to one task

or one art. In particular,they should devise a plan of Li whereby one

person

 

specializedin“Capping and Marriage”, another in万“:Funeralsand

Sacrifices”etc。

   

This was the main point of Yan Yuan's theory of learning. Moreover,

he established a model for the realizationof this ideal, and within it he

allowed for the concrete practice of Li.

THE IMMIGRANT ECONOMY OF SICHUAN IN

         

QING DYNASTY

Mori Noriko

   

At the beginning of the Qing dynasty, there was a vigorous move-

ment of immigration into the relatively sparsely populated Sichuan basin

helped partly by government policies to promote land reclamation. Since the

immigrants were largely from Hubei and Hunan, the eχpression“The Hu

provinces fillin Sichuan” (HueuanszhenShu湖廣填蜀) came into being.

   

Until now, this phenomenon of immigration has been looked at in con-

nection with the White Lotus Rebellion of the Jiaqing 嘉慶period, but its

own economic activity has not been eχplicitlystudied. Nevertheless, if we

look at the reality of this phenomenon in detail, we can see that the sphere

of activity eχtended to the entire Sichuan basin; and going beyond the

intentions

 

of the Qing government, it was heavily in日uenced by com-

   

 

●mercial interests.

   

There were various classes of immigrants. 0n the one hand there

゛8sa strong character of 且uidity, like that of the shed people (pengrrdn

棚民), while on the other hand there were people who succeeded in

accumulating capital by cultivating such commercial crops as saffron,

゜edicinal herbs and sugarcane, and by producing salt and coal.

   

The activity of the immigrants 扮ought Sichuanup to the econonic

level of their original home provinces・ and they becamea great help to

the Sichuan economy。

                     

-6-