NIHON ART JOURNAL May/June, 2012

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NIHON ART JOURNAL asks the world what the "way of art" is and endeavors to enlarge upon the artistic heart. Special feature: finding newcomers. Serial articles: Cezanne and steam railway, the future of the art industry.

Transcript of NIHON ART JOURNAL May/June, 2012

Page 1: NIHON ART JOURNAL May/June, 2012
Page 2: NIHON ART JOURNAL May/June, 2012

鋳銅鍍金七福神

伏見人形を思わせる姿形が可愛い。中空にせ

ず鋳造しており、ずっしりと重い。衣の模様も

小さな丸の押文を繰り返して複雑ではないが、

その押法には微妙な変化がつけられ、工夫を怠っ

てはいない。すでに埃の下になってしまい輝き

はわずかだが総体に鍍金を施していることが視

認される。

もっとも注目されるのは、布袋の像底の「天

文二年八月 光寿之造」の彫銘である。

比丘か仏師かなどと想像をめぐらすが、「光寿」

の具体的な情報に接することはできない。なお、

作期の室町末期の天文二(一五三三)年だが、

七福神の信仰の発生が室町時代と想定されてい

る実際に照らせば、室町後期の年期ながら、き

わめて重要な報告になろう。

なお、七福神は仏教四神(弁天・毘沙門天・

大黒天・布袋)、道教二神(福禄寿・寿老人)、

そして倭神の夷からなる。道教の福禄寿と寿老

人とは、本来は一体一神であって、寿命を司る

南極星なのだが、これを二神に分けた倭人の不

合理が、長頭裸頭の福禄寿、被帽で鹿を従える

寿老人を産み出したようだ。二神の扱いには、

どちらが杖を所持し、鶴を従えるのかなど、少

なくない混乱をみる。布袋は中国僧ながら弥勒

と同体化し崇められる。

﹇裏表紙﹈

六月の花

黒百合の置お

生い

花材……黒百合・春蘭の葉

花器……染付蓋物(高さ五㎝、巾二二・六㎝、奥行一七・四㎝)

ただ一本の黒百合に春蘭の葉を数枚添えたのみの簡素な

置生け。染付の器いっぱいに水を満たして清々とした夏の

風情に仕上げている。この作品は、上質な器に数少ない花

材を抛げ入れたり、挿し留めて格調高く仕上げる、いわゆ

る茶花に類するいけばなで、一輪の花にも一枚の葉にも細

やかな心配りがしてある。

こうした簡素ないけばなは、置生け(置花ともいう)の

みならず、掛花も釣花も古くからあって、利休をはじめと

する茶人たちにも好まれて茶室に飾られた。江戸時代には

親しみやすい花器や、やや大ぶりな花材をも用いることで、

「抛入花」や「いけはな(生花、活花、挿花の文字をあて

た)」と呼ばれて流行し、中期になると花形絵や秘伝を収め

た木版本も多種類発行されるようになった。後期には次第

に大形化するとともに規格化をよしとする人々も増え、現

在、格か

花ばな

や生花と称する様式の花を創始する人々も現われ、

花形に特徴のある多くの流派が出現した。

ところで、花材を器に留める方法は古くからさまざまに

工夫されてきた。大きく分けると、ゆるやかに留める方法

と、しっかり固定する方法がある。前者には砂や小石で留

める方法、花材の枝元を器の内壁と花器口を利用して留め

る方法、一文字留や十文字留、蟹形や蛇じ

籠かご

形などの花は

留どめ

ど。後者には込み藁、又木配り、T字留、剣山などがある。

作品では、小さな剣山と蟹形の花留を併用した。

(花 ・岩井 陽子)

(文 ・山根  緑)

(写真・西村 浩一)

﹇表紙﹈

五月の花

花菖蒲真の砂す

なのもの物

花材……花菖蒲・オクラレカ・ふとい・若松・苔木・羽団扇楓・

石楠花・五葉松・金正木・檜葉・山つつじ

花器……銅造松皮菱水盤(高さ一五㎝、巾五五㎝、奥行三八㎝)

端午の節句に因み、花菖蒲を主材に用いて拵えた砂物。

花器は敷板や花台に置くのが本来であるが、板張り廊下の

質感や距離感、大きさなどとの兼ね合いにより、二月堂の

脚を折りたたんで用いている。

砂物は平たい鉢や深めの水盤などに砂を入れて一瓶を整

えることから生まれた呼称で、花材を一株に構成する場合

を一株砂物、二株に構成する場合を二株砂物という。もっ

とも、室町時代の砂物には五株や七株に構成したものもあ

る。器も深鉢形、壺形、飯胴、水盤、双そ

花か

瓶びん

など大小さま

ざまなものが用いられていたが、江戸時代になると砂物専

用の器として砂す

鉢ばち

が多く用いられるようになった。また花

形が大ぶりになるのにともなって砂鉢も大形のものが多く

なっていく。

花菖蒲が古くから端午の節句の花材とされてきたのは、

当季の花であることに加え、「菖蒲の節句」といわれるも

ととなったサトイモ科の菖蒲に似ているからと思われる。

菖蒲は邪気を祓う効力があるとして蓬とともに軒下に吊し

たり、菖蒲打ち、菖蒲湯、菖蒲鬘など、古くからこの日の

習俗や習慣に重用された。

端午は元来、旧暦の五月五日のことだが、現在は新暦の

同日に節句を祝う。花店の花菖蒲もこの時季に多く出回る

が、各地の花菖蒲園は露地咲きなので六月が見頃である。

ちなみに作品の花菖蒲は撮影のため、三月下旬に加温して

咲かせたもの。葉はまだ伸びていないので、葉の形が似て

いるオクラレカを借り葉に用いて初夏の花菖蒲らしい姿に

仕上げている。

水盤・蓋物 オークションハウス古裂會提供(67回・7月開催出品)

藤の掛花

花材……藤

花器……銅造一重切花生(高さ二〇㎝、幅九.五㎝〔天〕・一〇㎝〔地〕)

花生 オークションハウス古裂會提供(68回・9月開催出品)

★訂正とお詫び

前号の四月の花の説明文に誤植がありました。正しいタイトルは「れん

ぎょうと椿の釣花」、花材は「れんぎょう・椿(曙)」です。訂正してお詫び

申し上げます。

モノの心・形の心

日本美術随想

光寿 鋳銅鍍金七福神 総高15cm ほかオークションハウス古裂會提供(67回・7月開催出品)

花座敷・花舞台

│京都・妙心寺大心院

23

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鋳銅鍍金七福神

伏見人形を思わせる姿形が可愛い。中空にせ

ず鋳造しており、ずっしりと重い。衣の模様も

小さな丸の押文を繰り返して複雑ではないが、

その押法には微妙な変化がつけられ、工夫を怠っ

てはいない。すでに埃の下になってしまい輝き

はわずかだが総体に鍍金を施していることが視

認される。

もっとも注目されるのは、布袋の像底の「天

文二年八月 光寿之造」の彫銘である。

比丘か仏師かなどと想像をめぐらすが、「光寿」

の具体的な情報に接することはできない。なお、

作期の室町末期の天文二(一五三三)年だが、

七福神の信仰の発生が室町時代と想定されてい

る実際に照らせば、室町後期の年期ながら、き

わめて重要な報告になろう。

なお、七福神は仏教四神(弁天・毘沙門天・

大黒天・布袋)、道教二神(福禄寿・寿老人)、

そして倭神の夷からなる。道教の福禄寿と寿老

人とは、本来は一体一神であって、寿命を司る

南極星なのだが、これを二神に分けた倭人の不

合理が、長頭裸頭の福禄寿、被帽で鹿を従える

寿老人を産み出したようだ。二神の扱いには、

どちらが杖を所持し、鶴を従えるのかなど、少

なくない混乱をみる。布袋は中国僧ながら弥勒

と同体化し崇められる。

﹇裏表紙﹈

六月の花

黒百合の置お

生い

花材……黒百合・春蘭の葉

花器……染付蓋物(高さ五㎝、巾二二・六㎝、奥行一七・四㎝)

ただ一本の黒百合に春蘭の葉を数枚添えたのみの簡素な

置生け。染付の器いっぱいに水を満たして清々とした夏の

風情に仕上げている。この作品は、上質な器に数少ない花

材を抛げ入れたり、挿し留めて格調高く仕上げる、いわゆ

る茶花に類するいけばなで、一輪の花にも一枚の葉にも細

やかな心配りがしてある。

こうした簡素ないけばなは、置生け(置花ともいう)の

みならず、掛花も釣花も古くからあって、利休をはじめと

する茶人たちにも好まれて茶室に飾られた。江戸時代には

親しみやすい花器や、やや大ぶりな花材をも用いることで、

「抛入花」や「いけはな(生花、活花、挿花の文字をあて

た)」と呼ばれて流行し、中期になると花形絵や秘伝を収め

た木版本も多種類発行されるようになった。後期には次第

に大形化するとともに規格化をよしとする人々も増え、現

在、格か

花ばな

や生花と称する様式の花を創始する人々も現われ、

花形に特徴のある多くの流派が出現した。

ところで、花材を器に留める方法は古くからさまざまに

工夫されてきた。大きく分けると、ゆるやかに留める方法

と、しっかり固定する方法がある。前者には砂や小石で留

める方法、花材の枝元を器の内壁と花器口を利用して留め

る方法、一文字留や十文字留、蟹形や蛇じ

籠かご

形などの花は

留どめ

ど。後者には込み藁、又木配り、T字留、剣山などがある。

作品では、小さな剣山と蟹形の花留を併用した。

(花 ・岩井 陽子)

(文 ・山根  緑)

(写真・西村 浩一)

﹇表紙﹈

五月の花

花菖蒲真の砂す

なのもの物

花材……花菖蒲・オクラレカ・ふとい・若松・苔木・羽団扇楓・

石楠花・五葉松・金正木・檜葉・山つつじ

花器……銅造松皮菱水盤(高さ一五㎝、巾五五㎝、奥行三八㎝)

端午の節句に因み、花菖蒲を主材に用いて拵えた砂物。

花器は敷板や花台に置くのが本来であるが、板張り廊下の

質感や距離感、大きさなどとの兼ね合いにより、二月堂の

脚を折りたたんで用いている。

砂物は平たい鉢や深めの水盤などに砂を入れて一瓶を整

えることから生まれた呼称で、花材を一株に構成する場合

を一株砂物、二株に構成する場合を二株砂物という。もっ

とも、室町時代の砂物には五株や七株に構成したものもあ

る。器も深鉢形、壺形、飯胴、水盤、双そ

花か

瓶びん

など大小さま

ざまなものが用いられていたが、江戸時代になると砂物専

用の器として砂す

鉢ばち

が多く用いられるようになった。また花

形が大ぶりになるのにともなって砂鉢も大形のものが多く

なっていく。

花菖蒲が古くから端午の節句の花材とされてきたのは、

当季の花であることに加え、「菖蒲の節句」といわれるも

ととなったサトイモ科の菖蒲に似ているからと思われる。

菖蒲は邪気を祓う効力があるとして蓬とともに軒下に吊し

たり、菖蒲打ち、菖蒲湯、菖蒲鬘など、古くからこの日の

習俗や習慣に重用された。

端午は元来、旧暦の五月五日のことだが、現在は新暦の

同日に節句を祝う。花店の花菖蒲もこの時季に多く出回る

が、各地の花菖蒲園は露地咲きなので六月が見頃である。

ちなみに作品の花菖蒲は撮影のため、三月下旬に加温して

咲かせたもの。葉はまだ伸びていないので、葉の形が似て

いるオクラレカを借り葉に用いて初夏の花菖蒲らしい姿に

仕上げている。

水盤・蓋物 オークションハウス古裂會提供(67回・7月開催出品)

藤の掛花

花材……藤

花器……銅造一重切花生(高さ二〇㎝、幅九.五㎝〔天〕・一〇㎝〔地〕)

花生 オークションハウス古裂會提供(68回・9月開催出品)

★訂正とお詫び

前号の四月の花の説明文に誤植がありました。正しいタイトルは「れん

ぎょうと椿の釣花」、花材は「れんぎょう・椿(曙)」です。訂正してお詫び

申し上げます。

モノの心・形の心

日本美術随想

光寿 鋳銅鍍金七福神 総高15cm ほかオークションハウス古裂會提供(67回・7月開催出品)

花座敷・花舞台

│京都・妙心寺大心院

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小野廣隆

 うなぎ化生画幅

うなぎの生態学が科学的な方向性を確立したのは、近代になってのことらしい。マリワナ諸島の周辺でシラスが捕獲され、つづいてニホ

ンウナギの卵が採取されたのは昨年(二〇一一)の夏である。これによって、人類の宿願であった「うなぎの生態学的な謎」の全容がほぼ

明らかになった。

「うなぎが腐ったヤマノイモから化生する瞬間」を描いた掲出は、室町時代に淵源する本朝のうなぎの生態学(俗説)を図画化した作品

とみられる。俗説は『和漢三才図会』(江戸中期の百科事典)が採取しており、これに刺激を受けて描いた可能性が極めて高い。少なくとも、

それを連想させる。

永い間、洋の東西を問わず、うなぎは、さまざまな珍説で理解されてきた。卵も稚魚も見つからず、雌雄の別も明らかでないので仕方ない。

ために、摩訶不思議さだけが増幅し、珍説の類を醸成させた。あの古代ギリシャの哲学者のアリストテレスでさえ「うなぎは川泥から生成す

る」と考えたらしい。日本では、ヤマノイモから化生する説がもっとも広く信じられたようである。ヤマノイモもうなぎも強力な強精作用が

喧伝される。土用のうなぎ、うなぎのぼりの活力こそ真骨頂。そのあたりが原説の背景に潜んではいないだろうか。いずれにせよ、これほど

にうなぎが注目された理由は、グロテスクな姿態に反比例する美味さにあり、滋養への感謝である。

この絵を描いたのは、京都生まれの小野廣隆(文化五・一八〇八〜明治十・一八七七)。彼自身がう

なぎのような画人で、菱川師宣の五代目を名乗り、姓は菱川のほかに、藤原・岩瀬・小野を名乗り、

本名の可隆や字の文可はともかく、通称に画号を加えると、その数は三十を優に超える。

画業は、独習したとみられる浮世絵はともかく、復古大和絵派の画人として名を残している。

田中訥言・浮田一蕙から大和絵の実際を学び、紀州藩の藩主徳川治宝の知遇を得、お抱絵師のよ

うな待遇で紀州に住まいし、紀州随一の大和絵の名手と称えられた。

後代には鉄翁祖門に師事して南画も会得し、晩年は墨絵に新境地を開き、刊本の挿絵にも健筆

を残した。まさに、うなぎのごとく旺盛な生命力を持続させた画人である。また、廣隆自身が逞

しい想像力の持ち主であったことは、「

見てきたような化生図」

から如実というほかないだろう。

オークションハウス古裂會提供

モノの心・形の心日 本 美 術 随 想

珍幅発見、描かれた秘密

小野廣隆 うなぎ化生画幅 紙本 43×29cmオークションハウス古裂會提供(67回・7月開催出品)

5 4

5月のオークション案内特集 漆工芸・染織

〒604-0003 京都府京都市中京区衣棚通夷川上る花立町265TEL : 075-212-5581 FAX : 075-212-5582

E-mail : o [email protected] URL : http://www.kogire-kai.co.jp

古美術・骨董 オークションカタログ無料プレゼントオークションカタログを特別に無料でプレゼントいたします。ご希望の方はハガキまたはFAXにてお申し込みください。※カタログは数に限りがございますので在庫切れの場合は次号(7月開催)を送らせていただきます。オンラインカタログ公開中 http://www.kogire-kai.co.jp

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小野廣隆

 うなぎ化生画幅

うなぎの生態学が科学的な方向性を確立したのは、近代になってのことらしい。マリワナ諸島の周辺でシラスが捕獲され、つづいてニホ

ンウナギの卵が採取されたのは昨年(二〇一一)の夏である。これによって、人類の宿願であった「うなぎの生態学的な謎」の全容がほぼ

明らかになった。

「うなぎが腐ったヤマノイモから化生する瞬間」を描いた掲出は、室町時代に淵源する本朝のうなぎの生態学(俗説)を図画化した作品

とみられる。俗説は『和漢三才図会』(江戸中期の百科事典)が採取しており、これに刺激を受けて描いた可能性が極めて高い。少なくとも、

それを連想させる。

永い間、洋の東西を問わず、うなぎは、さまざまな珍説で理解されてきた。卵も稚魚も見つからず、雌雄の別も明らかでないので仕方ない。

ために、摩訶不思議さだけが増幅し、珍説の類を醸成させた。あの古代ギリシャの哲学者のアリストテレスでさえ「うなぎは川泥から生成す

る」と考えたらしい。日本では、ヤマノイモから化生する説がもっとも広く信じられたようである。ヤマノイモもうなぎも強力な強精作用が

喧伝される。土用のうなぎ、うなぎのぼりの活力こそ真骨頂。そのあたりが原説の背景に潜んではいないだろうか。いずれにせよ、これほど

にうなぎが注目された理由は、グロテスクな姿態に反比例する美味さにあり、滋養への感謝である。

この絵を描いたのは、京都生まれの小野廣隆(文化五・一八〇八〜明治十・一八七七)。彼自身がう

なぎのような画人で、菱川師宣の五代目を名乗り、姓は菱川のほかに、藤原・岩瀬・小野を名乗り、

本名の可隆や字の文可はともかく、通称に画号を加えると、その数は三十を優に超える。

画業は、独習したとみられる浮世絵はともかく、復古大和絵派の画人として名を残している。

田中訥言・浮田一蕙から大和絵の実際を学び、紀州藩の藩主徳川治宝の知遇を得、お抱絵師のよ

うな待遇で紀州に住まいし、紀州随一の大和絵の名手と称えられた。

後代には鉄翁祖門に師事して南画も会得し、晩年は墨絵に新境地を開き、刊本の挿絵にも健筆

を残した。まさに、うなぎのごとく旺盛な生命力を持続させた画人である。また、廣隆自身が逞

しい想像力の持ち主であったことは、「

見てきたような化生図」

から如実というほかないだろう。

オークションハウス古裂會提供

モノの心・形の心日 本 美 術 随 想

珍幅発見、描かれた秘密

小野廣隆 うなぎ化生画幅 紙本 43×29cmオークションハウス古裂會提供(67回・7月開催出品)

5 4

5月のオークション案内特集 漆工芸・染織

〒604-0003 京都府京都市中京区衣棚通夷川上る花立町265TEL : 075-212-5581 FAX : 075-212-5582

E-mail : o [email protected] URL : http://www.kogire-kai.co.jp

古美術・骨董 オークションカタログ無料プレゼントオークションカタログを特別に無料でプレゼントいたします。ご希望の方はハガキまたはFAXにてお申し込みください。※カタログは数に限りがございますので在庫切れの場合は次号(7月開催)を送らせていただきます。オンラインカタログ公開中 http://www.kogire-kai.co.jp

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三幅対 紙本 32×126cm 頭山満翁記念室蔵引出し付机 82×72×35cm 頭山満翁記念室蔵

机の引出し裏の墨書

頭山満の三幅対・机

頭山満の生涯

頭山満は、幕末の安政二(一八五五)年に福岡藩

士筒井亀策の三男として生まれた。

当時は、黒船来航による開国の二年後で、明治維

新を十三年後に控える激動の時代であった。西洋列

強によるアジア進出にいかに立ち向かうかが、頭山

の一生の課題であったと言って良い。

頭山は、明治九(一八七六)年に、明治政府に対

する不平士族の反乱である萩の乱に連座して投獄さ

れ、翌年の西南戦争とそれに呼応する福岡の変を獄

中で知る。尊敬する西郷隆盛の決起に加われなかっ

た悔しさが、その後の頭山の原点となる。

明治十一(一八七八)年に、西郷に続く武力決起

を期待して板垣退助を訪れるも、板垣に言論による

戦いの重要性を諭され、自由民権運動に目覚める。

国会開設と不平等条約改正等を求めて植木枝盛等の

民権運動家と交流し、福岡で向陽社設立に参画する。

明治十二(一八七九)年に、向陽社は玄洋社と改

称する。玄洋社は国権と民権を共に主張し、その憲

則は「第一条 皇室を敬戴すべし。第二条 本国を

愛重すべし。第三条 人民の権利を固守すべし」で

あった。

以後、頭山は玄洋社の中心人物として、不平等条

約改正における政府の弱腰外交に対する反対運動

等を展開する。また、大アジア主義の立場を取り、

朝鮮の金玉均、中国の孫文・蒋介石、インドのラス・

ビハリ・ボース等の各国の独立運動家を支援して

いく。

頭山は、内閣総理大臣を務めた犬養毅・広田弘毅・

米内光政等と深く交流し、政財界に大きな影響力を

持ったが、立場としては終生在野を貫いた。享年

九〇歳。

三幅対

頭山満翁記念室(広島県東広島市西条町御薗宇

三四九六)の膨大な頭山コレクション(掛軸)のな

かで、画賛の体をなすのは掲出の三幅対のほかに

ない。そして三幅対の体裁ながら、落款も不整の

ため左右の確証も得ない。ましてや、男女の表象

図形に頭山が仮託したものを読み取るのは簡単で

ない。ここでは、物事の本源を男女のトツギ(交情)

だと諭したとみたい。頭山は、号の「立雲」の由

来を三浦梧楼に「フリチンで雲の上に立つ」と答

えている。「七転八起」の陽モノは、下半身も豪快

であった立雲伝説にこそ相応しい。

 

大正十三(一九二四)年五月、頭山が門司であつ

らえた簡素な座机。豊富な政治資金を動かした頭

山だが、私生活は極めて質素だった。同年十一月、

頭山は神戸で孫文と会談し、日本の東洋への覇権

に疑義を呈す孫文に、東洋の解放という大義を再

確認し、将来的には日中の国益が衝突することに

なる満州問題についても意見を交換している。こ

の粗末な机上で頭山の大アジア主義が練られたこ

とは間違いない。

頭山の書の魅力に触れ、書を通して頭山の魅力を

再検証したいと願ったが、準備不足から大巨人の寸

部を理解することも叶わなかった。結果的に、明治

時代人たちが築いた大正時代こそが頭山の時代だと

予感することになったが、腰を据えて取り組むほか

に手順はない。今回で連載を完了するが、再開を目

指して頭山の年譜作成からはじめていきたい。

(主筆・森川潤一)

モノの心・形の心日 本 美 術 随 想

67

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三幅対 紙本 32×126cm 頭山満翁記念室蔵引出し付机 82×72×35cm 頭山満翁記念室蔵

机の引出し裏の墨書

頭山満の三幅対・机

頭山満の生涯

頭山満は、幕末の安政二(一八五五)年に福岡藩

士筒井亀策の三男として生まれた。

当時は、黒船来航による開国の二年後で、明治維

新を十三年後に控える激動の時代であった。西洋列

強によるアジア進出にいかに立ち向かうかが、頭山

の一生の課題であったと言って良い。

頭山は、明治九(一八七六)年に、明治政府に対

する不平士族の反乱である萩の乱に連座して投獄さ

れ、翌年の西南戦争とそれに呼応する福岡の変を獄

中で知る。尊敬する西郷隆盛の決起に加われなかっ

た悔しさが、その後の頭山の原点となる。

明治十一(一八七八)年に、西郷に続く武力決起

を期待して板垣退助を訪れるも、板垣に言論による

戦いの重要性を諭され、自由民権運動に目覚める。

国会開設と不平等条約改正等を求めて植木枝盛等の

民権運動家と交流し、福岡で向陽社設立に参画する。

明治十二(一八七九)年に、向陽社は玄洋社と改

称する。玄洋社は国権と民権を共に主張し、その憲

則は「第一条 皇室を敬戴すべし。第二条 本国を

愛重すべし。第三条 人民の権利を固守すべし」で

あった。

以後、頭山は玄洋社の中心人物として、不平等条

約改正における政府の弱腰外交に対する反対運動

等を展開する。また、大アジア主義の立場を取り、

朝鮮の金玉均、中国の孫文・蒋介石、インドのラス・

ビハリ・ボース等の各国の独立運動家を支援して

いく。

頭山は、内閣総理大臣を務めた犬養毅・広田弘毅・

米内光政等と深く交流し、政財界に大きな影響力を

持ったが、立場としては終生在野を貫いた。享年

九〇歳。

三幅対

頭山満翁記念室(広島県東広島市西条町御薗宇

三四九六)の膨大な頭山コレクション(掛軸)のな

かで、画賛の体をなすのは掲出の三幅対のほかに

ない。そして三幅対の体裁ながら、落款も不整の

ため左右の確証も得ない。ましてや、男女の表象

図形に頭山が仮託したものを読み取るのは簡単で

ない。ここでは、物事の本源を男女のトツギ(交情)

だと諭したとみたい。頭山は、号の「立雲」の由

来を三浦梧楼に「フリチンで雲の上に立つ」と答

えている。「七転八起」の陽モノは、下半身も豪快

であった立雲伝説にこそ相応しい。

 

大正十三(一九二四)年五月、頭山が門司であつ

らえた簡素な座机。豊富な政治資金を動かした頭

山だが、私生活は極めて質素だった。同年十一月、

頭山は神戸で孫文と会談し、日本の東洋への覇権

に疑義を呈す孫文に、東洋の解放という大義を再

確認し、将来的には日中の国益が衝突することに

なる満州問題についても意見を交換している。こ

の粗末な机上で頭山の大アジア主義が練られたこ

とは間違いない。

頭山の書の魅力に触れ、書を通して頭山の魅力を

再検証したいと願ったが、準備不足から大巨人の寸

部を理解することも叶わなかった。結果的に、明治

時代人たちが築いた大正時代こそが頭山の時代だと

予感することになったが、腰を据えて取り組むほか

に手順はない。今回で連載を完了するが、再開を目

指して頭山の年譜作成からはじめていきたい。

(主筆・森川潤一)

モノの心・形の心日 本 美 術 随 想

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わが国の美術と茶道

前回、茶道に二つの流れがあり、抹茶を喫する方を茶道、茶葉を煎じて喫する方を煎茶

という、と述べたが、ここでいう茶道は抹茶を喫する方の茶道である。今回はこの茶道と

美術とのかかわりについて述べ、終わりに、美術業界の行方について述べることにする。

喫茶のはじまり

中国より茶がもたらされたのはかなり古いことのようである。六〇七年と六〇八年の

二度にわたって小野妹子が遣隋使として中国に渡っているし、この前後には留学生の往来

の記録もあり、また、六三〇年には慧日が遣唐使として派遣されているので、その頃には

茶の栽培や喫茶の法も伝わり、これに用いる器物も輸入されていたと考えられる。

だが、記録としては、八〇五年に最澄が中国より茶の実を持ち帰って坂本に植えたとい

う日枝神社の記録がもっとも古い。しかし、当時は薬として一部の上流階級に珍重がられ

ていただけで、嗜好品として用いられ、喫茶の風習がひろまったのは、鎌倉時代に入って

からである。

臨済宗と茶

鎌倉幕府の開かれる前年の一一九一年に、栄西によって中国より禅の臨済宗と茶の礼法

がもたらされ、持ち帰った茶の実を明恵上人が栂尾に植えたのを機に各地で栽培され、臨

済宗とともに喫茶の風習が一気にひろまった。

臨済宗は鎌倉時代には武家の間にひろまり、室町時代に入ると公家社会にも受け入れら

れ、多くの禅僧がわが国と中国を往来した。

その当時の臨済宗の凄まじいまでのひろがりを物語るものに大寺院の建立がある。

一二〇二年に源頼家を大檀越として栄西が建仁寺を創建したのを皮切りに、一二三五年

には摂政九條道家によって東福寺が創建され、続いて一二九一年に亀山天皇が離宮を施捨

し無関普門を開山に南禅寺を創建し、一三一九年には大燈国師が赤松則村の帰依を受けて

大徳寺を創建、一三三七年には花園上皇が離宮を喜捨し関山慧玄を開山に妙心寺を創建、

一三三九年には足利尊氏が夢窓国師を開山に天龍寺を創建、一三八二年には足利義満に

よって相国寺が創建され、ついには一三九七年に同じ義満によって北山文化を象徴する金

閣が建立され、一四八三年には足利義政によって東山文化を象徴する銀閣が建てられた。

これらの臨済宗の寺院は、相国寺が建立されたのを機に、義満によって官寺とされ、五

山、十刹、諸山の制が確立され寺格が定められて力を持つようになり、これにともなって

●連載

─美術業界の行方(3)

草庵の茶と国焼

書院の茶が足利幕府の崩壊とともに廃れ、やがて村田珠光や武野紹鴎、千利休らによっ

て草庵の侘び茶が確立されると、やがて面皮や丸太の柱に長押を略した数寄屋建築による

広間、小間の茶室が築かれるようになり、茶道具もわが国独自のものが生み出されるよう

になった。

利休の指導を受けた長次郎と常慶やのんこう、光悦らによって楽茶盌が焼かれ、織部の

指導を受けた美濃や瀬戸の窯で織部や志野や黄瀬戸の沓形の茶盌や向付などが焼かれた。

また、一五九二年には朝鮮より工人たちが渡来して、九州や中国地方の諸窯で優れた物

が焼かれるようになった。

日本人独自の、破調の調、アンバランスのバランスともいうべき歪みたるをよしとする

美意識が生まれたのはこの頃であろう。

琳派ときれいさび

やがて江戸時代に入って、本阿弥光悦により鷹が峰に芸術村が開かれ、光悦のもとで多

くの工人たちによって高度な蒔絵の漆芸品や工芸品などが作られ、また、俵屋宗達によっ

て装飾的な絵画が描かれ、それが尾形光琳、尾形乾山の兄弟に受け継がれて、琳派と呼ば

れる大きなうねりとなった。

寺院などの書院の床の間の壁面や襖が絵で埋められ、書や絵の屏風や衝立が飾られ、付

書院には蒔絵の硯箱などがおかれるようになった。

この頃になると、世の中も落ち着き、数寄屋建築が普及するにつれて、草庵の侘び茶も

きれいさびへと変化し、茶の席に絵が飾られるようになり、小堀遠州によって遠州七窯が

定められ、宗和の指導を受けた仁清によって華やかな色絵の茶盌や茶壺が焼かれ、乾山に

よってさびた色絵の茶盌や菓子器などが焼かれて、きれいさびに見合った多種多様な茶道

具が造られるようになった。

煎茶と文人画と京焼

一六五四年に中国より隠元禅師によってもたらされた煎茶は、やがて売茶翁や上田秋成

や木村蒹葭堂らによって広められるが、それにつれて文人画が台頭し、浦上玉堂や田能村

竹田、青木木米、田能村直入、富岡鉄斎らが出て、文化、文政から幕末にかけては、煎茶

が全盛しただけでなく、文人画もその全盛期を迎え、また、その影響を受けて、工芸の世

界にも木米や頴川、六兵衞、保全、和全、竹泉、宝山などの名工があらわれて、染付、金

欄手、交趾、青磁、白磁、南蛮など、多種多様なものが焼かれて、京焼もかつてない隆盛

期を迎えた。

このように茶道や煎茶がひろがるにつれて、書画や工芸が隆盛し、われわれ日本人の生

活の奥深く美術が浸透していったのである。

喫茶の風習もひろがり、五山の茶礼が確立されていった。

ただし、大徳寺と妙心寺は官寺を辞し野にあった。

一二一四年に、栄西が源実朝の宿酔を茶をもって治し『茶の徳をほむるの書』一巻を献

じているが、これがわが国最初の茶書で、のちにいう『喫茶養生記』二巻である。

ちなみに中国では、七六〇年頃に唐の文人陸羽によって『茶経』三巻が書かれ、「茶は

南方の嘉木なり」に始まって、茶の源、茶を作る具、茶の作り方、茶器、茶の煮立て方、

茶の飲み方、茶の記事、茶の産地、略式の茶、茶の図の十項からなる。

美術品の輸入と書院の茶

義満は、一三八二年に相国寺を創建し、これを機に官寺の制を定めると、一三九七年に

北山殿を造営し、一四〇四年には遣明使を派遣して、途絶えていた中国との貿易を再開し

た。この貿易で多くの文物がもたらされ、将軍家や五山禅院には、宋元の書籍や書画、調

度品などが満ちあふれたといわれる。

茶礼に用いる器具が大量にもたらされたのもこの頃で、すでに禅寺における茶礼は確立

されていたが、書画や茶道具などの美術品が大量に輸入されるにつれて、建築様式も寝殿

造から角柱で長押付で、それらを飾り立てる床の間や違い棚、付書院のある書院造へと変

わり、それとともに、茶道も道具を飾り立てる書院の茶へと変化していった。

これより書院造は、町屋や農家などの民家にまでひろがり、床、棚、書院を禁止する法

令まで出されたが効果なく、明治以後の都市住宅においても規範的な住宅様式として受け

継がれ、それが第二次世界大戦後の昭和三十年代までつづいた。

やがて義政の時代に入って書院の茶は全盛期を迎え、義政の命を受けて、これに用いる

道具が整理され、それぞれの器物には銘が付され、仕覆や挽屋に入れられて、桐と塗りの

二重箱に納められ、ものによっては名物裂の替仕覆がいくつも添えられて、これらを格付

けした『君臺觀左右』が編纂された。

大名物と名物

のちにこれを千利休や津田宗及らが鑑別し、山上宗二が『茶器名物集』に記録している

が、これらに収録されているものを大名物といい、小堀遠州がその後に、所蔵のものと、

新たにもたらされた茶器を鑑別して収録した『遠州蔵帳』のものを中興名物といい、松平

不昧によって収集された大量の道具を収録した『雲州蔵帳』に収められているものを雲州

名物という。ちなみに、現在、わが国の国公立の博物館や美術館に収蔵されている国宝や

重要文化財の多くは、この時のものである。

飾るスペースのない現代住宅

煎茶、茶道のいずれもは、茶庭や数寄屋や書院の洗練された空間で、書画を鑑賞し、焼

物や塗物、木竹、金物、裂などでできた茶道具を拝見し、花を愛で、茶と菓子を味わい、

酒と懐石を楽しむものである。

茶道が、禅寺の茶礼から美術品や茶道具を飾り立てる書院の茶へと移行するにつれて、

生活空間を形成する建築様式が、寝殿造から書院造へと変わり、書院の茶から草庵の侘び

茶へと変化するにつれて数寄屋造の広間や小間の茶室が生まれ、これが民家にまでひろが

り、都市においても規範的な住宅様式として受け継がれ、それが第二次世界大戦後の昭和

三十年代までつづいたが、それが昭和四十年代以降大きく変化し、機能性や防音、耐寒、

耐暑、耐震を重視した建築が一般化し、床の間や違い棚、付書院がなくなり、客間や応接

室までもなくなり、押入や畳すらなくなって大きく変わってしまった。

昭和四十年代から五十年代にかけては高度成長期で、六十年代から平成のかかりにかけ

てはバブル期で、それ行けドンドンという時代だったこともあって、忙しさにかまけて気

がつかなかったが、平成に入って低成長期からデフレの不況時代になるにつれて、心の癒

しに絵か壺でも飾ろうかと思っても飾るスペースもなく、茶を楽しもうと思っても炉を切

ることもできず、まさに足利時代の寝殿から書院に変わったのと逆になってしまった。

美術業界の行方

軸装の書や絵が売れなくなって久しい。昨今は香炉や花瓶や壺も売れない。家が建て替

えられる度に美術品が放り出され、高度成長期やバブル期に売ったものが、どんどん戻っ

てきて市場に溢れている。安さに引かれてついつい仕入れた書画や壺が、売れないままに

美術商の倉庫にうず高く積まれている。住宅建築の変化につれて、茶道も衰微しつつある。

したがって茶道具も売れない。かつてない現象である。売れないのは不況のせいでもデフ

レのせいでもない。

明治維新のあとと、大正時代の第一次世界大戦の頃と、昭和初頭の世界恐慌の時に、旧

大名家や旧財閥家によって、大量の美術品が売立てられたが、その時は新興の財界人がこ

ぞって買いにでた。今回はちと事情が違うようである。

いずれ高度成長期やバブル期に増えた業者の数だけ淘汰されるだろう。

近代建築が普及し、生活空間が大きく変化しつつある今日では、どのような美術が生ま

れ育まれて行くのだろうか。一部の貴族や大名などの専有物だった美術が、いま、われわ

れの手の届くところにあり、高等教育の普及によって美術への理解がひろまり、大衆の審

美眼も高まったというのに。これからはどんな美術が受け入れられるのだろうか。

私は、現代の住宅建築や生活空間にマッチしたコンテンポラリーアートや、自由闊達な

造型のクラフトの、その先に、これからの美術があるように思う。(終わり)

(工芸評論家・青山 清)

背景図版 : 本阿弥光悦 (銘)不二山

89

Page 9: NIHON ART JOURNAL May/June, 2012

わが国の美術と茶道

前回、茶道に二つの流れがあり、抹茶を喫する方を茶道、茶葉を煎じて喫する方を煎茶

という、と述べたが、ここでいう茶道は抹茶を喫する方の茶道である。今回はこの茶道と

美術とのかかわりについて述べ、終わりに、美術業界の行方について述べることにする。

喫茶のはじまり

中国より茶がもたらされたのはかなり古いことのようである。六〇七年と六〇八年の

二度にわたって小野妹子が遣隋使として中国に渡っているし、この前後には留学生の往来

の記録もあり、また、六三〇年には慧日が遣唐使として派遣されているので、その頃には

茶の栽培や喫茶の法も伝わり、これに用いる器物も輸入されていたと考えられる。

だが、記録としては、八〇五年に最澄が中国より茶の実を持ち帰って坂本に植えたとい

う日枝神社の記録がもっとも古い。しかし、当時は薬として一部の上流階級に珍重がられ

ていただけで、嗜好品として用いられ、喫茶の風習がひろまったのは、鎌倉時代に入って

からである。

臨済宗と茶

鎌倉幕府の開かれる前年の一一九一年に、栄西によって中国より禅の臨済宗と茶の礼法

がもたらされ、持ち帰った茶の実を明恵上人が栂尾に植えたのを機に各地で栽培され、臨

済宗とともに喫茶の風習が一気にひろまった。

臨済宗は鎌倉時代には武家の間にひろまり、室町時代に入ると公家社会にも受け入れら

れ、多くの禅僧がわが国と中国を往来した。

その当時の臨済宗の凄まじいまでのひろがりを物語るものに大寺院の建立がある。

一二〇二年に源頼家を大檀越として栄西が建仁寺を創建したのを皮切りに、一二三五年

には摂政九條道家によって東福寺が創建され、続いて一二九一年に亀山天皇が離宮を施捨

し無関普門を開山に南禅寺を創建し、一三一九年には大燈国師が赤松則村の帰依を受けて

大徳寺を創建、一三三七年には花園上皇が離宮を喜捨し関山慧玄を開山に妙心寺を創建、

一三三九年には足利尊氏が夢窓国師を開山に天龍寺を創建、一三八二年には足利義満に

よって相国寺が創建され、ついには一三九七年に同じ義満によって北山文化を象徴する金

閣が建立され、一四八三年には足利義政によって東山文化を象徴する銀閣が建てられた。

これらの臨済宗の寺院は、相国寺が建立されたのを機に、義満によって官寺とされ、五

山、十刹、諸山の制が確立され寺格が定められて力を持つようになり、これにともなって

●連載

─美術業界の行方(3)

草庵の茶と国焼

書院の茶が足利幕府の崩壊とともに廃れ、やがて村田珠光や武野紹鴎、千利休らによっ

て草庵の侘び茶が確立されると、やがて面皮や丸太の柱に長押を略した数寄屋建築による

広間、小間の茶室が築かれるようになり、茶道具もわが国独自のものが生み出されるよう

になった。

利休の指導を受けた長次郎と常慶やのんこう、光悦らによって楽茶盌が焼かれ、織部の

指導を受けた美濃や瀬戸の窯で織部や志野や黄瀬戸の沓形の茶盌や向付などが焼かれた。

また、一五九二年には朝鮮より工人たちが渡来して、九州や中国地方の諸窯で優れた物

が焼かれるようになった。

日本人独自の、破調の調、アンバランスのバランスともいうべき歪みたるをよしとする

美意識が生まれたのはこの頃であろう。

琳派ときれいさび

やがて江戸時代に入って、本阿弥光悦により鷹が峰に芸術村が開かれ、光悦のもとで多

くの工人たちによって高度な蒔絵の漆芸品や工芸品などが作られ、また、俵屋宗達によっ

て装飾的な絵画が描かれ、それが尾形光琳、尾形乾山の兄弟に受け継がれて、琳派と呼ば

れる大きなうねりとなった。

寺院などの書院の床の間の壁面や襖が絵で埋められ、書や絵の屏風や衝立が飾られ、付

書院には蒔絵の硯箱などがおかれるようになった。

この頃になると、世の中も落ち着き、数寄屋建築が普及するにつれて、草庵の侘び茶も

きれいさびへと変化し、茶の席に絵が飾られるようになり、小堀遠州によって遠州七窯が

定められ、宗和の指導を受けた仁清によって華やかな色絵の茶盌や茶壺が焼かれ、乾山に

よってさびた色絵の茶盌や菓子器などが焼かれて、きれいさびに見合った多種多様な茶道

具が造られるようになった。

煎茶と文人画と京焼

一六五四年に中国より隠元禅師によってもたらされた煎茶は、やがて売茶翁や上田秋成

や木村蒹葭堂らによって広められるが、それにつれて文人画が台頭し、浦上玉堂や田能村

竹田、青木木米、田能村直入、富岡鉄斎らが出て、文化、文政から幕末にかけては、煎茶

が全盛しただけでなく、文人画もその全盛期を迎え、また、その影響を受けて、工芸の世

界にも木米や頴川、六兵衞、保全、和全、竹泉、宝山などの名工があらわれて、染付、金

欄手、交趾、青磁、白磁、南蛮など、多種多様なものが焼かれて、京焼もかつてない隆盛

期を迎えた。

このように茶道や煎茶がひろがるにつれて、書画や工芸が隆盛し、われわれ日本人の生

活の奥深く美術が浸透していったのである。

喫茶の風習もひろがり、五山の茶礼が確立されていった。

ただし、大徳寺と妙心寺は官寺を辞し野にあった。

一二一四年に、栄西が源実朝の宿酔を茶をもって治し『茶の徳をほむるの書』一巻を献

じているが、これがわが国最初の茶書で、のちにいう『喫茶養生記』二巻である。

ちなみに中国では、七六〇年頃に唐の文人陸羽によって『茶経』三巻が書かれ、「茶は

南方の嘉木なり」に始まって、茶の源、茶を作る具、茶の作り方、茶器、茶の煮立て方、

茶の飲み方、茶の記事、茶の産地、略式の茶、茶の図の十項からなる。

美術品の輸入と書院の茶

義満は、一三八二年に相国寺を創建し、これを機に官寺の制を定めると、一三九七年に

北山殿を造営し、一四〇四年には遣明使を派遣して、途絶えていた中国との貿易を再開し

た。この貿易で多くの文物がもたらされ、将軍家や五山禅院には、宋元の書籍や書画、調

度品などが満ちあふれたといわれる。

茶礼に用いる器具が大量にもたらされたのもこの頃で、すでに禅寺における茶礼は確立

されていたが、書画や茶道具などの美術品が大量に輸入されるにつれて、建築様式も寝殿

造から角柱で長押付で、それらを飾り立てる床の間や違い棚、付書院のある書院造へと変

わり、それとともに、茶道も道具を飾り立てる書院の茶へと変化していった。

これより書院造は、町屋や農家などの民家にまでひろがり、床、棚、書院を禁止する法

令まで出されたが効果なく、明治以後の都市住宅においても規範的な住宅様式として受け

継がれ、それが第二次世界大戦後の昭和三十年代までつづいた。

やがて義政の時代に入って書院の茶は全盛期を迎え、義政の命を受けて、これに用いる

道具が整理され、それぞれの器物には銘が付され、仕覆や挽屋に入れられて、桐と塗りの

二重箱に納められ、ものによっては名物裂の替仕覆がいくつも添えられて、これらを格付

けした『君臺觀左右』が編纂された。

大名物と名物

のちにこれを千利休や津田宗及らが鑑別し、山上宗二が『茶器名物集』に記録している

が、これらに収録されているものを大名物といい、小堀遠州がその後に、所蔵のものと、

新たにもたらされた茶器を鑑別して収録した『遠州蔵帳』のものを中興名物といい、松平

不昧によって収集された大量の道具を収録した『雲州蔵帳』に収められているものを雲州

名物という。ちなみに、現在、わが国の国公立の博物館や美術館に収蔵されている国宝や

重要文化財の多くは、この時のものである。

飾るスペースのない現代住宅

煎茶、茶道のいずれもは、茶庭や数寄屋や書院の洗練された空間で、書画を鑑賞し、焼

物や塗物、木竹、金物、裂などでできた茶道具を拝見し、花を愛で、茶と菓子を味わい、

酒と懐石を楽しむものである。

茶道が、禅寺の茶礼から美術品や茶道具を飾り立てる書院の茶へと移行するにつれて、

生活空間を形成する建築様式が、寝殿造から書院造へと変わり、書院の茶から草庵の侘び

茶へと変化するにつれて数寄屋造の広間や小間の茶室が生まれ、これが民家にまでひろが

り、都市においても規範的な住宅様式として受け継がれ、それが第二次世界大戦後の昭和

三十年代までつづいたが、それが昭和四十年代以降大きく変化し、機能性や防音、耐寒、

耐暑、耐震を重視した建築が一般化し、床の間や違い棚、付書院がなくなり、客間や応接

室までもなくなり、押入や畳すらなくなって大きく変わってしまった。

昭和四十年代から五十年代にかけては高度成長期で、六十年代から平成のかかりにかけ

てはバブル期で、それ行けドンドンという時代だったこともあって、忙しさにかまけて気

がつかなかったが、平成に入って低成長期からデフレの不況時代になるにつれて、心の癒

しに絵か壺でも飾ろうかと思っても飾るスペースもなく、茶を楽しもうと思っても炉を切

ることもできず、まさに足利時代の寝殿から書院に変わったのと逆になってしまった。

美術業界の行方

軸装の書や絵が売れなくなって久しい。昨今は香炉や花瓶や壺も売れない。家が建て替

えられる度に美術品が放り出され、高度成長期やバブル期に売ったものが、どんどん戻っ

てきて市場に溢れている。安さに引かれてついつい仕入れた書画や壺が、売れないままに

美術商の倉庫にうず高く積まれている。住宅建築の変化につれて、茶道も衰微しつつある。

したがって茶道具も売れない。かつてない現象である。売れないのは不況のせいでもデフ

レのせいでもない。

明治維新のあとと、大正時代の第一次世界大戦の頃と、昭和初頭の世界恐慌の時に、旧

大名家や旧財閥家によって、大量の美術品が売立てられたが、その時は新興の財界人がこ

ぞって買いにでた。今回はちと事情が違うようである。

いずれ高度成長期やバブル期に増えた業者の数だけ淘汰されるだろう。

近代建築が普及し、生活空間が大きく変化しつつある今日では、どのような美術が生ま

れ育まれて行くのだろうか。一部の貴族や大名などの専有物だった美術が、いま、われわ

れの手の届くところにあり、高等教育の普及によって美術への理解がひろまり、大衆の審

美眼も高まったというのに。これからはどんな美術が受け入れられるのだろうか。

私は、現代の住宅建築や生活空間にマッチしたコンテンポラリーアートや、自由闊達な

造型のクラフトの、その先に、これからの美術があるように思う。(終わり)

(工芸評論家・青山 清)

背景図版 : 本阿弥光悦 (銘)不二山

89

Page 10: NIHON ART JOURNAL May/June, 2012

1 張大千 約443億円2 斉白石 約408億円3 アンディ・ウォーホル 約260億円4 パブロ・ピカソ 約251億円5 徐悲鴻 約186億円6 吴冠中 約176億円7 傅抱石 約158億円8 ゲアハルト・リヒター 約140億円9 フランシス・ベーコン 約103億円

10 李可染 約92億円

岸田劉生《黒き土の上に立てる女》大正3(1914)年

ピカソが中国の画家に

抜かれた!?

美術品市場調査大手のアートプライス

社(本社パリ)の発表によると、二〇一一

年に全世界で行われた絵画競売市場の制作

者別の落札総額において、歴史的に大きな

ランキング変動があった。中国の張大千

(一八九九〜一九八三)が、この一四年間

に一三回首位を守ったスペインのパブロ・

ピカソ(一八八一〜一九七三)を抜き、東

洋の近代画家として初めて第一位になった

のである。

その張大千の年間落札総額は、約

五億五四五三万ドル(約四四三億円)で、

個人としての過去世界最高額も更新。第二

位も、中国の斉白石(一八六四〜一九五七)

の約五億一〇五七万ドル(約四〇八億円)

で、中国勢が初めて「最も売れた画家」の

トップ・ツーを占めた。

続く第三位は、米国のアンディ・

ウォーホル(一九二八〜一九八七)の約

三億二五八八万ドル(約二六〇億円)で、

第四位が、ピカソの約三億一四六九万ド

ル(約二五一億円)と、西洋勢が盛り返

北斎展

ホノルル美術館所蔵

葛飾北斎生誕二五〇周年記念

葛飾北斎(宝暦十・一七六〇〜嘉永

二・一八四九)の生誕二五〇周年を記

念し、ホノルル美術館が所蔵する北斎

の優品・稀品を厳選して館外で初めて

一堂に紹介する展覧会が、石川、京都、

東京、福島を巡回中である。

出陳点数は約一七〇点で、展示内容

は二部構成。第一部では、錦絵を中心

にデビュー期から最晩年までの様式変

遷を年代順にたどり、第二部では、代

表作である六種類の揃物『富嶽三十六

景』『諸国名橋奇覧』『諸国瀧廻り』『琉

球八景』『詩哥写真鏡』『百人一首姥か

絵説』が陳列されている(『富嶽三十六

景』以外は全図)。二〇歳から八九歳ま

で約七〇年(!)の長きにわたり、極

めて多彩で旺盛な展開を示す、北斎芸

術のスケールの大きさを捉える一つの

展示方法として有効であろう。

米国ハワイ州にあるホノルル美術

館は、一九二七年の開館以来八〇年

以上、アジア美術の収集に力を入れ、

日本人芸術家の世界文化への貢献を

紹介することをその使命の一つとし

ている。所蔵する浮世絵コレクショ

ンの核となったのは、ミュージカル

「南太平洋」の作者ジェームス・A・

ミッチェナーと日系人の妻マリの寄

贈による約五四〇〇点であり、本展

出品作品の大半もミッチェナー・コ

レクションによる。

かつてミッチェナーは、「北斎が想

像で描いた素描が、レオナルド・ダ・

ヴィンチの画帳に紛れ込んでいたとし

ても、きっと見破られないだろう。な

ぜなら、北斎の想像力は普通の想像の

範囲を超えているからだ。北斎の優れ

た水墨画は、レンブラントの名作と多

くの点で似通っている。北斎の最良の

高階秀爾

『日本近代美術史論』

ちくま学芸文庫

 二〇〇六年

 東京大学名誉教授で、西洋美術研究の

第一人者である、高階秀爾氏が三〇代後

半で執筆した、日本近代の重要な画家・

思想家を論じた古典的名著。

一九六七年から六九年にかけて『季刊

藝術』で連載された「日本近代美術史ノー

ト」に、『世界』一九六九年四月号で発

表した一章を加えて、初め一九七二年に

講談社より単行本として出版。一九八〇

年に講談社文庫に入り、一九九〇年に講

談社学術文庫に収められ、二〇〇六年に

ちくま学芸文庫として復活した。

扱われるのは主に明治美術で、洋画家

の高橋由一、山本芳翠、黒田清輝、藤島

武二、青木繁、日本画家の狩野芳崖、富

岡鉄斎、横山大観、菱田春草、思想家の

アーネスト・フェノロサ、岡倉天心とい

う、幕末以降の西洋的近代化の孕む問題

が凝縮されたキー・パーソン達を目配り

良く取り上げている。それぞれの章は、

簡にして要を得た個人の伝記研究である

と共に、一冊全体で明治美術史の核心部

分を通覧する概説書としても読める。

他の著書にも一貫する、美術史家と

しての高階氏の特徴は、美術における外

的条件と内的条件の有機的反応、つまり

作品制作における歴史・社会・文化的条

件と、画家の心理・個性・才能的条件の

ねばならない。

東洋と西洋が肩を並べた今こそ、美術の

本当の価値とは一体何であるかを改めて再

考すべきではないだろうか?

劉生の幻の名作、51年ぶり

に現る

二〇一二年三月二四日に、《麗子像》で

知られる岸田劉生(一八九一〜一九二九)

の初期の油彩画で、半世紀以上行方不明

になっていた《黒き土の上に立てる女》

(一九一四年)が、東京都内のオークショ

ンに登場し落札された。

事前にマスコミ各紙で「五一年ぶりの発

見」が取り上げられ、広く注目を集めたこ

ともあり、落札価格は三六〇〇万円で、予

想価格七〇〇万〜一〇〇〇万円を大きく上

回った。出品者・落札者は、共に非公表。

この作品は、一九六一年に雑誌『国際写真

情報』に掲載されて以来、長らく所在が分

からず、焼失説も流布していた。

この作品は、当時二三歳で新婚の劉生が、

娘麗子を出産したばかりの一歳年下の妻・

蓁(しげる)をモデルに描いたと言われて

いる。副題は「農家の姫」であり、画面中

央で胸をはだけ、両足で堂々と

大地を踏みしめて立つ農婦は、

生い茂﹅

る﹅

草木と共に、瑞々しい

生命力溢れる豊穣のシンボルと

して描かれている。画面には、

若き劉生の愛情と自信と希望が

満ちている。

高く盛り上がる地面に繁茂す

る緑葉や、背後の晴れ渡った青

空は、翌年制作され、同年から

劉生が主宰する「草土社」の由

来となる《赤土と草》(一九一五

す。しかし、第五位は、再び中国の徐悲鴻

(一八九四〜一九五三)が二億三三四八万

ドル(約一八六億円)で追い上げている。

上位一〇名で見た場合、実に六名が中国の

近代画家である。

さらに、単品落札最高額においても、

二〇一一年五月二二日に、斉白石の《松

柏高立図 篆書四言聯》(一九四六年)

約五七二〇万ドル(約四五億円)で落札

され、ピカソの《読書》(一九三二年)の

三六二七万ドル(約二九億円)を超えて、

東洋の近代画家として初めて年間第一位を

獲得している。絵画競売における中国近代

絵画の台頭は、極めて著しい。

こうした、二〇一一年の中国近代絵画

の躍進の背景には、昨今の中国の急速な経

済発展による新興富裕層の増大に加え、中

国政府のバブル抑制政策の影響で、投資マ

ネーが不動産市場から美術品市場へ流入し

ていることが挙げられる。また、中国政府

は経済効果も視野に入れて芸術振興政策に

力を入れており、新興富裕層も自国の近代

絵画を積極的に評価しようとする愛国心が

強いことも知られている。

実際に、二〇一一年に中国は、全世界の

絵画競売取引額の四〇パーセント以上を

占め、米国や英国を抜いて世界一の活況を

呈している。また、上記の中国近代画家達

の作品もほとんどが中国国内で競売に掛

けられ、中国人により落札されたと見られ

ている。

従来、西洋の一極支配が長らく続いてき

た美術の世界に、東洋の存在感が大きく増

すことは、世界全体の文化的発展を考えた

場合には望ましいことである。しかし、も

し投機目的と自国中心主義だけが中国近代

絵画の高騰の原因であれば、それは本来の

美的価値とは懸け離れたものであると言わ

絵画は……余りにも印象深い人間の記

録なので、同様の画題をナポリで描い

たブリューゲルの傑作をすぐに思い出

させる」と語っている。

この賞賛は、北斎芸術がいかに人

種・国境・文化を超え、普遍的な人間

理解と芸術的創造力を備えているかを

示すものであろう。これに関連して、

一九九九年に米国『ライフ』誌が発表

した、「この一〇〇〇年で最も重要な

一〇〇人の人物」の内、日本人では唯

一北斎だけが取り上げられていること

も付記しておきたい。

本展で注目すべきは、何よりもまず、

そうした北斎の人間への洞察の深さであ

る。例えば、『富嶽三十六景』の内、有

名な《神奈川沖浪裏》や、図録の表紙で

ある《御厩川岸より両国橋夕陽見》では、

庶民の日々の営みの中でこそ悠然とした

美を醸し出す富士山を描いている。また、

人間を一人も描いていない《凱風快晴》

や《山下白雨》でさえ、実は描き出され

ているのは、その時々に富士山が見せる

表情を美しいと捉える人間のまなざしな

のである。

│どちらか一方だけではない

│両方

の複雑な絡み合いの様相をバランス良く

読み解く点にある。

また、西洋美術史の専門家であり、

二〇代で長期のフランス留学を経験した

著者は、西洋と日本の比較文化的視点に

も優れている。本書が、国際的観点から

日本画と洋画を等しく日本近代美術とし

て扱い、同時代の西洋近代美術と同等に

比較し、日本近代美術史をローカルでは

ないグローバルな位相へと進展させたこ

とは広く知られている。

さらに特筆すべきは、本書が、造形芸

術における異質な感受性の直観から出発

しており、その差異の分析を通じて、「西

洋とは何か」「日本とは何か」という問

題の考察に踏み込んでいる点である。

例えば、巻頭で述べられ本書全体の基

調をなす、由一の《花魁》の西洋的一点

透視遠近法とは異なる「破格な」表現に、

著者が感じた「違和感」と「快い興奮」

とは、西洋的感受性を一度経験したから

こそ如実に意識化しえた日本的感受性と

の内なる同胞的共鳴に他ならない。また、

由一の西洋画法に対する最初の開眼を、

三〇歳を越えた「嘉永年間」ではなく、

感受性が鋭敏な二〇代前半の「文久年間」

と見る学説も、著者自身の異文化体験に

根差すところが大きいと思われる。

従来の通説に反し、印象派の日本への移

植者と見なされていた黒田清輝の真の目的

を、定着しなかった西洋絵画の伝統的理念

としての「構想画」と洞察したり、国粋主

義者として知られる岡倉天心が、西洋美術

への理解から東京美術学校西洋画科の新設

や日本画における「朦朧体」の創案に深く

関与していたことを読解することにも、同

様の問題意識が通底していよう。

学問とは直観の実証であることを実践

した、清廉で卓抜な比較美術史家が開陳

する、明晰で知的感動に溢れる日本近代

美術史を精読したい。

年)や、後に重要文化財に指定される《道

路と土手と塀(切通之写生)》(一九一五年)

を既に予告している。人物や背景は非常に

具象的に描かれ、当時一般からは時代錯誤

や時勢逆行と評された、劉生の写実回帰の

実例となっている。

このように、この頃、武者小路実篤を始

めとする白樺派との交友から内心の欲求の

大切さを学び、ルネサンス絵画に「クラシ

ツクの強い感化」を受けていた劉生は、画

壇の主流である、脱リアリズム的・脱寓意

的な印象派以降の西洋近代美術の模倣に敢

然と背を向け、孤高に自らの欲する細密描

写や構想画に取り組んでいた。その西洋近

代美術を評価しつつ絶対視しない自由で自

立的な態度は、やがて西洋美術そのものを

相対化する視点も導き、次第に劉生を《麗

子像》を筆頭とする東洋的美意識の追求へ

と促すことになる。

その点で、この最初の転換期の典型例で

ある《黒き土の上に立てる女》は、劉生の

個人画歴において重要であると同時に、日

本近代美術史全体にとっても意義深い画期

的作品である。長らく失われていた劉生の

幻の名作が再び世に現れたことを、心から

喜びたい。

時評◉Review

on current events

展覧会評◉Exhibition Review

石川県立美術館

 二〇一一年七月一六日〜二〇一一年八月二一日

京都文化博物館

 (前期)二〇一二年二月一日〜二〇一二年二月二六日

 (後期)二〇一二年二月二八日〜二〇一二年三月二五日

三井記念美術館

 (前期)二〇一二年四月一四日〜二〇一二年五月一三日

 (後期)二〇一二年五月一五日〜二〇一二年六月一七日

いわき市立美術館

 二〇一二年七月二一日〜二〇一二年八月二六日

2011年絵画競売落札総額ランキング(制作者別)

参考:http://imgpublic.artprice.com/pdf/trends2011_en.pdf

書評◉Book Review

1011

戌亥蔵ウェブサイト http://inuigura.web.fc2.com/

Page 11: NIHON ART JOURNAL May/June, 2012

1 張大千 約443億円2 斉白石 約408億円3 アンディ・ウォーホル 約260億円4 パブロ・ピカソ 約251億円5 徐悲鴻 約186億円6 吴冠中 約176億円7 傅抱石 約158億円8 ゲアハルト・リヒター 約140億円9 フランシス・ベーコン 約103億円10 李可染 約92億円

岸田劉生《黒き土の上に立てる女》大正3(1914)年

ピカソが中国の画家に

抜かれた!?

美術品市場調査大手のアートプライス

社(本社パリ)の発表によると、二〇一一

年に全世界で行われた絵画競売市場の制作

者別の落札総額において、歴史的に大きな

ランキング変動があった。中国の張大千

(一八九九〜一九八三)が、この一四年間

に一三回首位を守ったスペインのパブロ・

ピカソ(一八八一〜一九七三)を抜き、東

洋の近代画家として初めて第一位になった

のである。

その張大千の年間落札総額は、約

五億五四五三万ドル(約四四三億円)で、

個人としての過去世界最高額も更新。第二

位も、中国の斉白石(一八六四〜一九五七)

の約五億一〇五七万ドル(約四〇八億円)

で、中国勢が初めて「最も売れた画家」の

トップ・ツーを占めた。

続く第三位は、米国のアンディ・

ウォーホル(一九二八〜一九八七)の約

三億二五八八万ドル(約二六〇億円)で、

第四位が、ピカソの約三億一四六九万ド

ル(約二五一億円)と、西洋勢が盛り返

北斎展

ホノルル美術館所蔵

葛飾北斎生誕二五〇周年記念

葛飾北斎(宝暦十・一七六〇〜嘉永

二・一八四九)の生誕二五〇周年を記

念し、ホノルル美術館が所蔵する北斎

の優品・稀品を厳選して館外で初めて

一堂に紹介する展覧会が、石川、京都、

東京、福島を巡回中である。

出陳点数は約一七〇点で、展示内容

は二部構成。第一部では、錦絵を中心

にデビュー期から最晩年までの様式変

遷を年代順にたどり、第二部では、代

表作である六種類の揃物『富嶽三十六

景』『諸国名橋奇覧』『諸国瀧廻り』『琉

球八景』『詩哥写真鏡』『百人一首姥か

絵説』が陳列されている(『富嶽三十六

景』以外は全図)。二〇歳から八九歳ま

で約七〇年(!)の長きにわたり、極

めて多彩で旺盛な展開を示す、北斎芸

術のスケールの大きさを捉える一つの

展示方法として有効であろう。

米国ハワイ州にあるホノルル美術

館は、一九二七年の開館以来八〇年

以上、アジア美術の収集に力を入れ、

日本人芸術家の世界文化への貢献を

紹介することをその使命の一つとし

ている。所蔵する浮世絵コレクショ

ンの核となったのは、ミュージカル

「南太平洋」の作者ジェームス・A・

ミッチェナーと日系人の妻マリの寄

贈による約五四〇〇点であり、本展

出品作品の大半もミッチェナー・コ

レクションによる。

かつてミッチェナーは、「北斎が想

像で描いた素描が、レオナルド・ダ・

ヴィンチの画帳に紛れ込んでいたとし

ても、きっと見破られないだろう。な

ぜなら、北斎の想像力は普通の想像の

範囲を超えているからだ。北斎の優れ

た水墨画は、レンブラントの名作と多

くの点で似通っている。北斎の最良の

高階秀爾

『日本近代美術史論』

ちくま学芸文庫

 二〇〇六年

 東京大学名誉教授で、西洋美術研究の

第一人者である、高階秀爾氏が三〇代後

半で執筆した、日本近代の重要な画家・

思想家を論じた古典的名著。

一九六七年から六九年にかけて『季刊

藝術』で連載された「日本近代美術史ノー

ト」に、『世界』一九六九年四月号で発

表した一章を加えて、初め一九七二年に

講談社より単行本として出版。一九八〇

年に講談社文庫に入り、一九九〇年に講

談社学術文庫に収められ、二〇〇六年に

ちくま学芸文庫として復活した。

扱われるのは主に明治美術で、洋画家

の高橋由一、山本芳翠、黒田清輝、藤島

武二、青木繁、日本画家の狩野芳崖、富

岡鉄斎、横山大観、菱田春草、思想家の

アーネスト・フェノロサ、岡倉天心とい

う、幕末以降の西洋的近代化の孕む問題

が凝縮されたキー・パーソン達を目配り

良く取り上げている。それぞれの章は、

簡にして要を得た個人の伝記研究である

と共に、一冊全体で明治美術史の核心部

分を通覧する概説書としても読める。

他の著書にも一貫する、美術史家と

しての高階氏の特徴は、美術における外

的条件と内的条件の有機的反応、つまり

作品制作における歴史・社会・文化的条

件と、画家の心理・個性・才能的条件の

ねばならない。

東洋と西洋が肩を並べた今こそ、美術の

本当の価値とは一体何であるかを改めて再

考すべきではないだろうか?

劉生の幻の名作、51年ぶり

に現る

二〇一二年三月二四日に、《麗子像》で

知られる岸田劉生(一八九一〜一九二九)

の初期の油彩画で、半世紀以上行方不明

になっていた《黒き土の上に立てる女》

(一九一四年)が、東京都内のオークショ

ンに登場し落札された。

事前にマスコミ各紙で「五一年ぶりの発

見」が取り上げられ、広く注目を集めたこ

ともあり、落札価格は三六〇〇万円で、予

想価格七〇〇万〜一〇〇〇万円を大きく上

回った。出品者・落札者は、共に非公表。

この作品は、一九六一年に雑誌『国際写真

情報』に掲載されて以来、長らく所在が分

からず、焼失説も流布していた。

この作品は、当時二三歳で新婚の劉生が、

娘麗子を出産したばかりの一歳年下の妻・

蓁(しげる)をモデルに描いたと言われて

いる。副題は「農家の姫」であり、画面中

央で胸をはだけ、両足で堂々と

大地を踏みしめて立つ農婦は、

生い茂﹅

る﹅

草木と共に、瑞々しい

生命力溢れる豊穣のシンボルと

して描かれている。画面には、

若き劉生の愛情と自信と希望が

満ちている。

高く盛り上がる地面に繁茂す

る緑葉や、背後の晴れ渡った青

空は、翌年制作され、同年から

劉生が主宰する「草土社」の由

来となる《赤土と草》(一九一五

す。しかし、第五位は、再び中国の徐悲鴻

(一八九四〜一九五三)が二億三三四八万

ドル(約一八六億円)で追い上げている。

上位一〇名で見た場合、実に六名が中国の

近代画家である。

さらに、単品落札最高額においても、

二〇一一年五月二二日に、斉白石の《松

柏高立図 篆書四言聯》(一九四六年)

約五七二〇万ドル(約四五億円)で落札

され、ピカソの《読書》(一九三二年)の

三六二七万ドル(約二九億円)を超えて、

東洋の近代画家として初めて年間第一位を

獲得している。絵画競売における中国近代

絵画の台頭は、極めて著しい。

こうした、二〇一一年の中国近代絵画

の躍進の背景には、昨今の中国の急速な経

済発展による新興富裕層の増大に加え、中

国政府のバブル抑制政策の影響で、投資マ

ネーが不動産市場から美術品市場へ流入し

ていることが挙げられる。また、中国政府

は経済効果も視野に入れて芸術振興政策に

力を入れており、新興富裕層も自国の近代

絵画を積極的に評価しようとする愛国心が

強いことも知られている。

実際に、二〇一一年に中国は、全世界の

絵画競売取引額の四〇パーセント以上を

占め、米国や英国を抜いて世界一の活況を

呈している。また、上記の中国近代画家達

の作品もほとんどが中国国内で競売に掛

けられ、中国人により落札されたと見られ

ている。

従来、西洋の一極支配が長らく続いてき

た美術の世界に、東洋の存在感が大きく増

すことは、世界全体の文化的発展を考えた

場合には望ましいことである。しかし、も

し投機目的と自国中心主義だけが中国近代

絵画の高騰の原因であれば、それは本来の

美的価値とは懸け離れたものであると言わ

絵画は……余りにも印象深い人間の記

録なので、同様の画題をナポリで描い

たブリューゲルの傑作をすぐに思い出

させる」と語っている。

この賞賛は、北斎芸術がいかに人

種・国境・文化を超え、普遍的な人間

理解と芸術的創造力を備えているかを

示すものであろう。これに関連して、

一九九九年に米国『ライフ』誌が発表

した、「この一〇〇〇年で最も重要な

一〇〇人の人物」の内、日本人では唯

一北斎だけが取り上げられていること

も付記しておきたい。

本展で注目すべきは、何よりもまず、

そうした北斎の人間への洞察の深さであ

る。例えば、『富嶽三十六景』の内、有

名な《神奈川沖浪裏》や、図録の表紙で

ある《御厩川岸より両国橋夕陽見》では、

庶民の日々の営みの中でこそ悠然とした

美を醸し出す富士山を描いている。また、

人間を一人も描いていない《凱風快晴》

や《山下白雨》でさえ、実は描き出され

ているのは、その時々に富士山が見せる

表情を美しいと捉える人間のまなざしな

のである。

│どちらか一方だけではない

│両方

の複雑な絡み合いの様相をバランス良く

読み解く点にある。

また、西洋美術史の専門家であり、

二〇代で長期のフランス留学を経験した

著者は、西洋と日本の比較文化的視点に

も優れている。本書が、国際的観点から

日本画と洋画を等しく日本近代美術とし

て扱い、同時代の西洋近代美術と同等に

比較し、日本近代美術史をローカルでは

ないグローバルな位相へと進展させたこ

とは広く知られている。

さらに特筆すべきは、本書が、造形芸

術における異質な感受性の直観から出発

しており、その差異の分析を通じて、「西

洋とは何か」「日本とは何か」という問

題の考察に踏み込んでいる点である。

例えば、巻頭で述べられ本書全体の基

調をなす、由一の《花魁》の西洋的一点

透視遠近法とは異なる「破格な」表現に、

著者が感じた「違和感」と「快い興奮」

とは、西洋的感受性を一度経験したから

こそ如実に意識化しえた日本的感受性と

の内なる同胞的共鳴に他ならない。また、

由一の西洋画法に対する最初の開眼を、

三〇歳を越えた「嘉永年間」ではなく、

感受性が鋭敏な二〇代前半の「文久年間」

と見る学説も、著者自身の異文化体験に

根差すところが大きいと思われる。

従来の通説に反し、印象派の日本への移

植者と見なされていた黒田清輝の真の目的

を、定着しなかった西洋絵画の伝統的理念

としての「構想画」と洞察したり、国粋主

義者として知られる岡倉天心が、西洋美術

への理解から東京美術学校西洋画科の新設

や日本画における「朦朧体」の創案に深く

関与していたことを読解することにも、同

様の問題意識が通底していよう。

学問とは直観の実証であることを実践

した、清廉で卓抜な比較美術史家が開陳

する、明晰で知的感動に溢れる日本近代

美術史を精読したい。

年)や、後に重要文化財に指定される《道

路と土手と塀(切通之写生)》(一九一五年)

を既に予告している。人物や背景は非常に

具象的に描かれ、当時一般からは時代錯誤

や時勢逆行と評された、劉生の写実回帰の

実例となっている。

このように、この頃、武者小路実篤を始

めとする白樺派との交友から内心の欲求の

大切さを学び、ルネサンス絵画に「クラシ

ツクの強い感化」を受けていた劉生は、画

壇の主流である、脱リアリズム的・脱寓意

的な印象派以降の西洋近代美術の模倣に敢

然と背を向け、孤高に自らの欲する細密描

写や構想画に取り組んでいた。その西洋近

代美術を評価しつつ絶対視しない自由で自

立的な態度は、やがて西洋美術そのものを

相対化する視点も導き、次第に劉生を《麗

子像》を筆頭とする東洋的美意識の追求へ

と促すことになる。

その点で、この最初の転換期の典型例で

ある《黒き土の上に立てる女》は、劉生の

個人画歴において重要であると同時に、日

本近代美術史全体にとっても意義深い画期

的作品である。長らく失われていた劉生の

幻の名作が再び世に現れたことを、心から

喜びたい。

時評◉Review

on current events

展覧会評◉Exhibition Review

石川県立美術館

 二〇一一年七月一六日〜二〇一一年八月二一日

京都文化博物館

 (前期)二〇一二年二月一日〜二〇一二年二月二六日

 (後期)二〇一二年二月二八日〜二〇一二年三月二五日

三井記念美術館

 (前期)二〇一二年四月一四日〜二〇一二年五月一三日

 (後期)二〇一二年五月一五日〜二〇一二年六月一七日

いわき市立美術館

 二〇一二年七月二一日〜二〇一二年八月二六日

2011年絵画競売落札総額ランキング(制作者別)

参考:http://imgpublic.artprice.com/pdf/trends2011_en.pdf

書評◉Book Review

1011

戌亥蔵ウェブサイト http://inuigura.web.fc2.com/

Page 12: NIHON ART JOURNAL May/June, 2012

図2:筆者撮影エクス=ロニャック鉄道路線の信号機 2006年8月23日

図4:ポール・セザンヌ 《切通し》 1867-68年

「鉄道画家」ポール・セザンヌ!

従来、ポール・

セザンヌ(Paul C

ézanne:

一八三九〜一九〇六)は、「自然愛好の画家」と

呼ばれ、近代化する大都会パリの喧騒を逃れ、

田舎の故郷エクス・アン・プロヴァンスの無垢

な自然の中で絵画を描いたと言われてきた。

この言説は、半分だけ正しいが、セザンヌの

もう半分の本質を捉え損なっている。つまり、

その人生と画業を偏見なく正確に調査すれば、

セザンヌは「自然愛好の画家」であると同時に、

「近代生活の画家」でもあることが判明する。

前章で私達は、セザンヌが《ボニエールの船

着場》(一八六六年夏)で「鉄道駅」や「電信柱

と電線」を画題化し、印象派に属した画家の中

で一番最初に鉄道絵画を描いていることを見

た。このことは、当時の「近代性(モデルニテ)」

の典型画題である蒸気鉄道については、彼等の

中でセザンヌが最も鋭敏な感受性を持っていた

事実を示している。

現に、セザンヌは一八六〇年代から晩年まで

蒸気鉄道でフランス中を移動している。例え

ば、セザンヌが、パリとエクスの往来にパリ=

エクス鉄道路線を利用していたことは、カミー

ユ・ピサロの一八九六年一月二〇日付息子リュ

シアン宛書簡から確認される。

あの全く南仏的な開放性で、大いに親愛の

情を示されたので、オレルはすっかり真に受

けて、エクス・アン・プロヴァンスへ親友

●連載

─美術への新視点

セザンヌと蒸気鉄道(3)

セザンヌについて行っても良いのだと思っ

た。翌日のパリ=リヨン=地中海鉄道の汽車

(train de P. L. M.

)で、待ち合わせることに

なった。「三等車(les troisièm

es

)で」と、親

友セザンヌは言った。さて翌日、オレルはプ

ラットフォームで目を見開いて四方を見回

す。セザンヌはいない! 汽車(Les trains

が動き出す。いない!!  オレルは、とうと

う「僕がもう乗ったと思ってセザンヌも乗っ

たのだ」と自分に言い聞かせ、意を決して乗

車する。リヨンに着くと、オレルはホテルで

財布の中の五〇〇フランを盗まれてしまう。

引き返すこともできないので、念のためオ

レルは、セザンヌの家に電報を打つ。セザ

ンヌは(エクスの)自宅にいた、彼は一等車

(première classe

)に乗ったのだ!(註1)

何よりもまず、セザンヌの生涯の拠点エ

クスは鉄道の街である。事実、エクス中心

街にある鉄道駅(図1)は三方向の鉄道路線

を連結している。編年的には、一八五六年

一〇月一〇日にエクス=ロニャック鉄道路線

(25km

)(図2)が、一八七〇年一月三一日に

エクス=メイラルギュ鉄道路線(26km

)が、

一八七七年一〇月一五日にエクス=マルセイ

ユ鉄道路線(34km

)が、それぞれPLM鉄道

会社により開通している(註2)。

ここで注意すべきは、エクスにおけるセザン

ヌの自邸ジャ・ド・ブッファンが、鉄道路線と

非常に隣接しており、丁度ロニャック行鉄道路

線とメイラルギュ行鉄道路線に挟まれた位置に

ある事実である。そうである以上、セザンヌが

約四〇年間アトリエを構えたこの自宅で過ごす

時には、近隣を爆走する蒸気機関車を常に身近

図1:筆者撮影エクス・アン・プロヴァンス駅 2006年8月26日図10:ポール・セザンヌ

《ベルヴュから見たサント・ヴィクトワール山》 1882-85年

図11:ポール・セザンヌ《サント・ヴィクトワール山と大松》 1886-87年

図7:ポール・セザンヌ《アルク渓谷の前の松》 1883-85年

図12:ポール・セザンヌ 《アルク渓谷》 1885年頃図8:ポール・セザンヌ《アルク渓谷の陸橋》 1883-85年

図9:筆者撮影ベルヴュから見たサント・ヴィクトワール山 2006年8月24日

図6:ポール・セザンヌ 《切通し》 1867-70年

図3:ポール・セザンヌ 《サント・ヴィクトワール山と切通し》 1870年頃

図5:ポール・セザンヌ 《切通し》 1867-70年

1213

Page 13: NIHON ART JOURNAL May/June, 2012

図2:筆者撮影エクス=ロニャック鉄道路線の信号機 2006年8月23日

図4:ポール・セザンヌ 《切通し》 1867-68年

「鉄道画家」ポール・セザンヌ!

従来、ポール・

セザンヌ(Paul C

ézanne:

一八三九〜一九〇六)は、「自然愛好の画家」と

呼ばれ、近代化する大都会パリの喧騒を逃れ、

田舎の故郷エクス・アン・プロヴァンスの無垢

な自然の中で絵画を描いたと言われてきた。

この言説は、半分だけ正しいが、セザンヌの

もう半分の本質を捉え損なっている。つまり、

その人生と画業を偏見なく正確に調査すれば、

セザンヌは「自然愛好の画家」であると同時に、

「近代生活の画家」でもあることが判明する。

前章で私達は、セザンヌが《ボニエールの船

着場》(一八六六年夏)で「鉄道駅」や「電信柱

と電線」を画題化し、印象派に属した画家の中

で一番最初に鉄道絵画を描いていることを見

た。このことは、当時の「近代性(モデルニテ)」

の典型画題である蒸気鉄道については、彼等の

中でセザンヌが最も鋭敏な感受性を持っていた

事実を示している。

現に、セザンヌは一八六〇年代から晩年まで

蒸気鉄道でフランス中を移動している。例え

ば、セザンヌが、パリとエクスの往来にパリ=

エクス鉄道路線を利用していたことは、カミー

ユ・ピサロの一八九六年一月二〇日付息子リュ

シアン宛書簡から確認される。

あの全く南仏的な開放性で、大いに親愛の

情を示されたので、オレルはすっかり真に受

けて、エクス・アン・プロヴァンスへ親友

●連載

─美術への新視点

セザンヌと蒸気鉄道(3)

セザンヌについて行っても良いのだと思っ

た。翌日のパリ=リヨン=地中海鉄道の汽車

(train de P. L. M.

)で、待ち合わせることに

なった。「三等車(les troisièm

es

)で」と、親

友セザンヌは言った。さて翌日、オレルはプ

ラットフォームで目を見開いて四方を見回

す。セザンヌはいない! 汽車(Les trains

が動き出す。いない!!  オレルは、とうと

う「僕がもう乗ったと思ってセザンヌも乗っ

たのだ」と自分に言い聞かせ、意を決して乗

車する。リヨンに着くと、オレルはホテルで

財布の中の五〇〇フランを盗まれてしまう。

引き返すこともできないので、念のためオ

レルは、セザンヌの家に電報を打つ。セザ

ンヌは(エクスの)自宅にいた、彼は一等車

(première classe

)に乗ったのだ!(註1)

何よりもまず、セザンヌの生涯の拠点エ

クスは鉄道の街である。事実、エクス中心

街にある鉄道駅(図1)は三方向の鉄道路線

を連結している。編年的には、一八五六年

一〇月一〇日にエクス=ロニャック鉄道路線

(25km

)(図2)が、一八七〇年一月三一日に

エクス=メイラルギュ鉄道路線(26km

)が、

一八七七年一〇月一五日にエクス=マルセイ

ユ鉄道路線(34km

)が、それぞれPLM鉄道

会社により開通している(註2)。

ここで注意すべきは、エクスにおけるセザン

ヌの自邸ジャ・ド・ブッファンが、鉄道路線と

非常に隣接しており、丁度ロニャック行鉄道路

線とメイラルギュ行鉄道路線に挟まれた位置に

ある事実である。そうである以上、セザンヌが

約四〇年間アトリエを構えたこの自宅で過ごす

時には、近隣を爆走する蒸気機関車を常に身近

図1:筆者撮影エクス・アン・プロヴァンス駅 2006年8月26日図10:ポール・セザンヌ

《ベルヴュから見たサント・ヴィクトワール山》 1882-85年

図11:ポール・セザンヌ《サント・ヴィクトワール山と大松》 1886-87年

図7:ポール・セザンヌ《アルク渓谷の前の松》 1883-85年

図12:ポール・セザンヌ 《アルク渓谷》 1885年頃図8:ポール・セザンヌ《アルク渓谷の陸橋》 1883-85年

図9:筆者撮影ベルヴュから見たサント・ヴィクトワール山 2006年8月24日

図6:ポール・セザンヌ 《切通し》 1867-70年

図3:ポール・セザンヌ 《サント・ヴィクトワール山と切通し》 1870年頃

図5:ポール・セザンヌ 《切通し》 1867-70年

1213

Page 14: NIHON ART JOURNAL May/June, 2012

に意識していたことは疑いない。

さらに注目すべきは、セザンヌがエクスで鉄道画題を非常に多様に描いている事実である。

まず、セザンヌは、このジ﹅

ャ﹅

・ド﹅

・ブ﹅

ッ﹅

フ﹅

ァ﹅

ン﹅

の﹅

庭﹅

内﹅

か﹅

ら﹅

眺﹅

め﹅

た﹅

、約一〇〇メートル先のロ

ニャック行鉄道路線の「切通し」を、《サント・ヴィクトワール山と切通し》(一八七〇年頃)(図3)

で写生している。また、この作品には、同路線の「切通し」に加えて、「信号機」も描く、《切通

し》(一八六七│六八年)(図4)と、《切通し》(一八六七│七〇年)(図5)という先行作品も存在する。

さらに、セザンヌには、同じく「切通し」を中心画題とし、「線路」も実写する、もう一つの《切

通し》(一八六七│七〇年)(図6)も現存する。

これらの作品は、セザンヌがエクスで非常に早い時期から蒸気鉄道の画題化に意欲的に取り組ん

でいた確かな証拠である。

これに加えて、セザンヌは、エクス=マルセイユ鉄道路線の「鉄道橋」を描いている。事実、セザ

ンヌは、エクス近郊のアルク川とその周辺の渓谷を越えるために架橋された鉄道橋を、《サント・ヴィ

クトワール山と大松》(一八八七年頃)(前々章参照)、《アルク渓谷の前の松》(一八八三│八五年)(図7)、

《アルク渓谷の陸橋》(一八八三│八五年)(図8)等で描き入れている。

そして、セザンヌは、エクス=マルセイユ鉄道路線の「蒸気機関車」も描いている。実際に、セザ

ンヌは、そのアルク渓谷の鉄道橋(図9)の上を疾走する汽車を、《ベルヴュから見たサント・ヴィ

クトワール山》(一八八二│八五年)(図10)、《サント・ヴィクトワール山と大松》(一八八六│八七年)(図

11)、《アルク渓谷》(一八八五年頃)(図12)で描き込んでいる。

このアルク渓谷の鉄道橋通過時に車窓から眺めたサント・ヴィクトワール山を、同路線の開通の

わずか半年後の一八七八年四月一四日付の手紙で、セザンヌが「何と美しいモティーフだろう」と

賛美し、正にこの年以降にこれらのサント・ヴィクトワール山を中心主題とする連作が開始されて

いることは、既に前々章で見た通りである。

驚くべきことに、セザンヌはこのアルク渓谷の鉄道橋を含む、エクス=マルセイユ鉄道路線の「電

車」さえ愛用している。現実に、一九〇三年六月二八日に電化されたこの鉄道路線の電車に(註3)、

一九〇五年三月末にセザンヌと一緒に乗車したエミール・ベルナールは、「回想のセザンヌ」(一九〇七

年)で次のように記録している。

それから、セザンヌは食事が済むと、御者に帰るように指示された。というのも、突然マ

ルセイユへ行き、「私の家族の残り」に会うことを決められたからである。私達は、電車(le

tramw

ay

)へ向かい、車内では二時間、酷暑の中を陽気に歓談した。私は、セザンヌの喜びに

満ちた表情や、顔色の良さや、打ち解けた気さくさに魅了された(註4)。

これらの事実から、既にエクスでさえ、セザンヌの日常生活には近代的な蒸気鉄道(や電気鉄道)

が定着し、セザンヌが画家としても「切通し」「信号機」「線路」「鉄道橋」「蒸気機関車」等の鉄道

画題に一貫した強い関心を抱いていることは間違いない。

そして、セザンヌは、このように外から眺めた蒸気鉄道の外観を描くことから出発し、前々章で

見たように、次第に内から捉えた蒸気鉄道による視覚の変容自体を画面上にある種の「感覚」とし

て「実現」しようとしたのだと推定できる。

この問題に関連して、西洋近代美術における「日本(Japon

)」の影響の内面化の過程は、「ジャ

ポネズリー(Japonaiserie)」から「ジャポニスム(Japonism

e

)」へと定義できる。つまり、「ジャ

ポネズリー」とは、「画題」上の影響として、団扇・扇子や打掛等の端的に日本産の物品を描く

ことであり(図13)、「ジャポニスム」とは、「造形」上の影響として、事物を画面枠で切り取る

ことにより画面外の広がりを暗示する等の日本的な空間表現を行うことである(図14)。

後者が前者に時間的に遅れる傾向があるのは、見たものをそのまま描くのではなく解釈して描く

ためには、その影響のより深い内面化が必要だからと考えられる。

これに倣えば、西洋近代美術における「機械(M

achine

)」の影響の内面化の過程は、「マシネズ

リー(M

achinaiserie

)」から「マシニスム(M

achinisme

)」へと呼称できる。そして、鉄道絵画の場

合、「マシネズリー」とは、「画題」上の影響として、鉄道駅、電信柱と電線、切通し、信号機、線路、

鉄道橋、蒸気機関車等の単純に鉄道機構の外観を描写することであり、「マシニスム」とは、造形

上の影響として、内面化された鉄道乗車視覚の特徴を、対象の歪曲化・点描化・横縞化や、遠景か

ら近景に近付くにつれて粗くなる筆致等で描出することと指摘できる。

セザンヌと実際に交流のあった印象派の画家の中では、「マシネズリー」の典型をクロード・モ

ネ(C

laude Monet:

一八四〇〜一九二六)に、「マシニスム」の典型をエドガー・ドガ(Edger D

egas:

一八三四〜一九一七)に見ることができる。

例えば、モネは、一八七七年にサン・ラザール駅連作(図15)に取り組む際に次のように証言し

ている。「見付けたよ……サン・ラザール駅だ! 発車の時には、蒸気機関車の煙がものすごく

立ち込めるから、ほとんど何も見分けることができない。うっとりするよ、正に夢幻の世界

だ(註5)」。

一方、ドガは、一八九二年に鉄道乗車視覚に感化された風景画連作(図16)を描いたときに次のよ

うに公言している。「(その二一枚の風景画連作は)今年の夏の旅行の成果です。私は列車の扉口に掴ま

り、曖昧に眺めていました。それが、私に風景画を描く着想を与えたのです(註6)」。

まず、モネのサン・サンザール駅連作は、それまで醜悪なものとしてほとんど描かれなかった蒸気

機関車を中心的に描き出す点に画期的先駆性があった。さらに、そのモネによる蒸気機関車の画題化

よりも、ドガによる鉄道乗車視覚の造形化の方が時期的に遅いのは、やはり蒸気鉄道の影響のより深

い内面化にはその分時間が必要だからと考えられる。

そして、こうした「マシネズリー」から「マシニスム」への移行を、印象派の中で個人画歴におい

て誰よりも早く達成した画家こそが、正に鉄道画家ポール・セザンヌと結論できる。(つづく)

(美術史家・秋丸知貴)

(註1) C

amille Pissarro, Lettres à son fils Lucien , présentées avec l ’assistance de Lucien

Pissarro par John Rewald, Paris, 1950, p. 396. (

邦訳『セザンヌの手紙』ジョン・

リウォルド編、池上忠治訳、美術公論社、一九八二年、一九三│一九四頁に引用。)

(註2) W

ikia

を参照。(http://trains.w

ikia.com/w

iki/Aix-en-Provence

)(二〇一一年七月一

日閲覧)

(註3) M

arcel Provence, Le Cours M

irabeau: trois siecles d’histoire 1651-1951 , Aix-en-Provence, 1976, p. 82.

(註4) Em

ile Bernard, “Souvenirs sur Paul Cézanne ” (1907), in C

onversations avec C

ézanne , edition critique présentée par P. M. D

oran, Paris, 1978, p. 77.

(邦訳、

エミール・ベルナール「ポール・セザンヌの回想」(一九〇七年)、『セザンヌ回想』P・

M・ドラン編、高橋幸次・村上博哉訳、淡交社、一九九五年、一三七頁。)

(註5) Jean Renoir, Renoir , Paris, 1962, p. 168.

(邦訳、ジャン・ルノワール『わが父ル

ノワール』粟津則雄訳、みすず書房、一九六四年、一六三頁。)

(註6) Edgar D

egas, Lettres de Degas , recueillies et annotées par M

arcel Guérin,

Paris, 1931; nouvelle édition, Paris, 1945, pp. 277-278.

 本記事は、二〇一二年一〇月に鉄道史学会の『鉄道史学』第三〇号で論文発表予

定の、「ポール・セザンヌの鉄道画題

│『前近代』と『近代』の対比」の一部である。

 また、本連載記事は、二〇一一年度に京都造形芸術大学大学院に受理された筆者

の博士学位論文『ポール・セザンヌと蒸気鉄道

│近代技術による視覚の変容』の

要約である。

 なお、本連載記事は、筆者が連携研究員として研究代表を務めた、二〇一〇年度

〜二〇一一年度京都大学こころの未来研究センター連携研究プロジェクト「近代技

術的環境における心性の変容の図像解釈学的研究」の研究成果の一部である。同研

究プロジェクトの概要については、次の拙稿を参照。秋丸知貴「近代技術的環境に

おける心性の変容の図像解釈学的研究」『こころの未来』第五号、京都大学こころの

未来研究センター、二〇一〇年、一四│一五頁。

(http://kokoro.kyoto-u.ac.jp/jp/kokoronomirai/pdf/vol5/K

okoro_no_mirai_5_all.pdf

図13:クロード・モネ 《ラ・ジャポネーズ》 1876年

図14:クロード・モネ 《睡蓮、水のエチュード》 1914-18年

図15:クロード・モネ《サン・ラザール駅、汽車の到着》1877年

図16:エドガー・ドガ 《風景》 1892年

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Page 15: NIHON ART JOURNAL May/June, 2012

に意識していたことは疑いない。

さらに注目すべきは、セザンヌがエクスで鉄道画題を非常に多様に描いている事実である。

まず、セザンヌは、このジ﹅

ャ﹅

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フ﹅

ァ﹅

ン﹅

の﹅

庭﹅

内﹅

か﹅

ら﹅

眺﹅

め﹅

た﹅

、約一〇〇メートル先のロ

ニャック行鉄道路線の「切通し」を、《サント・ヴィクトワール山と切通し》(一八七〇年頃)(図3)

で写生している。また、この作品には、同路線の「切通し」に加えて、「信号機」も描く、《切通

し》(一八六七│六八年)(図4)と、《切通し》(一八六七│七〇年)(図5)という先行作品も存在する。

さらに、セザンヌには、同じく「切通し」を中心画題とし、「線路」も実写する、もう一つの《切

通し》(一八六七│七〇年)(図6)も現存する。

これらの作品は、セザンヌがエクスで非常に早い時期から蒸気鉄道の画題化に意欲的に取り組ん

でいた確かな証拠である。

これに加えて、セザンヌは、エクス=マルセイユ鉄道路線の「鉄道橋」を描いている。事実、セザ

ンヌは、エクス近郊のアルク川とその周辺の渓谷を越えるために架橋された鉄道橋を、《サント・ヴィ

クトワール山と大松》(一八八七年頃)(前々章参照)、《アルク渓谷の前の松》(一八八三│八五年)(図7)、

《アルク渓谷の陸橋》(一八八三│八五年)(図8)等で描き入れている。

そして、セザンヌは、エクス=マルセイユ鉄道路線の「蒸気機関車」も描いている。実際に、セザ

ンヌは、そのアルク渓谷の鉄道橋(図9)の上を疾走する汽車を、《ベルヴュから見たサント・ヴィ

クトワール山》(一八八二│八五年)(図10)、《サント・ヴィクトワール山と大松》(一八八六│八七年)(図

11)、《アルク渓谷》(一八八五年頃)(図12)で描き込んでいる。

このアルク渓谷の鉄道橋通過時に車窓から眺めたサント・ヴィクトワール山を、同路線の開通の

わずか半年後の一八七八年四月一四日付の手紙で、セザンヌが「何と美しいモティーフだろう」と

賛美し、正にこの年以降にこれらのサント・ヴィクトワール山を中心主題とする連作が開始されて

いることは、既に前々章で見た通りである。

驚くべきことに、セザンヌはこのアルク渓谷の鉄道橋を含む、エクス=マルセイユ鉄道路線の「電

車」さえ愛用している。現実に、一九〇三年六月二八日に電化されたこの鉄道路線の電車に(註3)、

一九〇五年三月末にセザンヌと一緒に乗車したエミール・ベルナールは、「回想のセザンヌ」(一九〇七

年)で次のように記録している。

それから、セザンヌは食事が済むと、御者に帰るように指示された。というのも、突然マ

ルセイユへ行き、「私の家族の残り」に会うことを決められたからである。私達は、電車(le

tramw

ay

)へ向かい、車内では二時間、酷暑の中を陽気に歓談した。私は、セザンヌの喜びに

満ちた表情や、顔色の良さや、打ち解けた気さくさに魅了された(註4)。

これらの事実から、既にエクスでさえ、セザンヌの日常生活には近代的な蒸気鉄道(や電気鉄道)

が定着し、セザンヌが画家としても「切通し」「信号機」「線路」「鉄道橋」「蒸気機関車」等の鉄道

画題に一貫した強い関心を抱いていることは間違いない。

そして、セザンヌは、このように外から眺めた蒸気鉄道の外観を描くことから出発し、前々章で

見たように、次第に内から捉えた蒸気鉄道による視覚の変容自体を画面上にある種の「感覚」とし

て「実現」しようとしたのだと推定できる。

この問題に関連して、西洋近代美術における「日本(Japon

)」の影響の内面化の過程は、「ジャ

ポネズリー(Japonaiserie

)」から「ジャポニスム(Japonism

e

)」へと定義できる。つまり、「ジャ

ポネズリー」とは、「画題」上の影響として、団扇・扇子や打掛等の端的に日本産の物品を描く

ことであり(図13)、「ジャポニスム」とは、「造形」上の影響として、事物を画面枠で切り取る

ことにより画面外の広がりを暗示する等の日本的な空間表現を行うことである(図14)。

後者が前者に時間的に遅れる傾向があるのは、見たものをそのまま描くのではなく解釈して描く

ためには、その影響のより深い内面化が必要だからと考えられる。

これに倣えば、西洋近代美術における「機械(M

achine

)」の影響の内面化の過程は、「マシネズ

リー(M

achinaiserie

)」から「マシニスム(M

achinisme

)」へと呼称できる。そして、鉄道絵画の場

合、「マシネズリー」とは、「画題」上の影響として、鉄道駅、電信柱と電線、切通し、信号機、線路、

鉄道橋、蒸気機関車等の単純に鉄道機構の外観を描写することであり、「マシニスム」とは、造形

上の影響として、内面化された鉄道乗車視覚の特徴を、対象の歪曲化・点描化・横縞化や、遠景か

ら近景に近付くにつれて粗くなる筆致等で描出することと指摘できる。

セザンヌと実際に交流のあった印象派の画家の中では、「マシネズリー」の典型をクロード・モ

ネ(C

laude Monet:

一八四〇〜一九二六)に、「マシニスム」の典型をエドガー・ドガ(Edger D

egas:

一八三四〜一九一七)に見ることができる。

例えば、モネは、一八七七年にサン・ラザール駅連作(図15)に取り組む際に次のように証言し

ている。「見付けたよ……サン・ラザール駅だ! 発車の時には、蒸気機関車の煙がものすごく

立ち込めるから、ほとんど何も見分けることができない。うっとりするよ、正に夢幻の世界

だ(註5)」。

一方、ドガは、一八九二年に鉄道乗車視覚に感化された風景画連作(図16)を描いたときに次のよ

うに公言している。「(その二一枚の風景画連作は)今年の夏の旅行の成果です。私は列車の扉口に掴ま

り、曖昧に眺めていました。それが、私に風景画を描く着想を与えたのです(註6)」。

まず、モネのサン・サンザール駅連作は、それまで醜悪なものとしてほとんど描かれなかった蒸気

機関車を中心的に描き出す点に画期的先駆性があった。さらに、そのモネによる蒸気機関車の画題化

よりも、ドガによる鉄道乗車視覚の造形化の方が時期的に遅いのは、やはり蒸気鉄道の影響のより深

い内面化にはその分時間が必要だからと考えられる。

そして、こうした「マシネズリー」から「マシニスム」への移行を、印象派の中で個人画歴におい

て誰よりも早く達成した画家こそが、正に鉄道画家ポール・セザンヌと結論できる。(つづく)

(美術史家・秋丸知貴)

(註1) C

amille Pissarro, Lettres à son fils Lucien , présentées avec l ’assistance de Lucien

Pissarro par John Rewald, Paris, 1950, p. 396. (

邦訳『セザンヌの手紙』ジョン・

リウォルド編、池上忠治訳、美術公論社、一九八二年、一九三│一九四頁に引用。)

(註2) W

ikia

を参照。(http://trains.w

ikia.com/w

iki/Aix-en-Provence

)(二〇一一年七月一

日閲覧)

(註3) M

arcel Provence, Le Cours M

irabeau: trois siecles d’histoire 1651-1951 , Aix-en-Provence, 1976, p. 82.

(註4) Em

ile Bernard, “Souvenirs sur Paul Cézanne ” (1907), in C

onversations avec C

ézanne , edition critique présentée par P. M. D

oran, Paris, 1978, p. 77.

(邦訳、

エミール・ベルナール「ポール・セザンヌの回想」(一九〇七年)、『セザンヌ回想』P・

M・ドラン編、高橋幸次・村上博哉訳、淡交社、一九九五年、一三七頁。)

(註5) Jean Renoir, Renoir , Paris, 1962, p. 168.

(邦訳、ジャン・ルノワール『わが父ル

ノワール』粟津則雄訳、みすず書房、一九六四年、一六三頁。)

(註6) Edgar D

egas, Lettres de Degas , recueillies et annotées par M

arcel Guérin,

Paris, 1931; nouvelle édition, Paris, 1945, pp. 277-278.

 本記事は、二〇一二年一〇月に鉄道史学会の『鉄道史学』第三〇号で論文発表予

定の、「ポール・セザンヌの鉄道画題

│『前近代』と『近代』の対比」の一部である。

 また、本連載記事は、二〇一一年度に京都造形芸術大学大学院に受理された筆者

の博士学位論文『ポール・セザンヌと蒸気鉄道

│近代技術による視覚の変容』の

要約である。

 なお、本連載記事は、筆者が連携研究員として研究代表を務めた、二〇一〇年度

〜二〇一一年度京都大学こころの未来研究センター連携研究プロジェクト「近代技

術的環境における心性の変容の図像解釈学的研究」の研究成果の一部である。同研

究プロジェクトの概要については、次の拙稿を参照。秋丸知貴「近代技術的環境に

おける心性の変容の図像解釈学的研究」『こころの未来』第五号、京都大学こころの

未来研究センター、二〇一〇年、一四│一五頁。

(http://kokoro.kyoto-u.ac.jp/jp/kokoronomirai/pdf/vol5/K

okoro_no_mirai_5_all.pdf

図13:クロード・モネ 《ラ・ジャポネーズ》 1876年

図14:クロード・モネ 《睡蓮、水のエチュード》 1914-18年

図15:クロード・モネ《サン・ラザール駅、汽車の到着》1877年

図16:エドガー・ドガ 《風景》 1892年

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Page 16: NIHON ART JOURNAL May/June, 2012

New Viewpoint on Art Cézanne and Steam Railway (3)

Paul Cézanne: The railway painter. Conventionally, it is told that since Paul Cézanne (1839–1906) was “the painter who loves nature,” he escaped from a noisy, modern Paris that

developed quickly and painted instead amid the pure nature of Aix-en-Provence, his country hometown. Although this discourse is true to an extent, it has failed to capture Cézanne’s entire essence; if his life and works are correctly investigated without prejudice, it becomes clear that Cézanne is “a painter of modern life” as well as “a painter who loves nature.”

In the foregoing paragraph, we saw that Cézanne, who painted The Ferry at Bonnières (summer of 1866), topicalizing the railway station, telegraph pole, and electric wires, was the first among impressionist painters to depict the steam railway. In other words, among impressionist painters, Cézanne had the most acute sensibility with regard to the steam railway, which was the typical subject of “modernité” (modernity) in those days.

Actually, Cézanne moved around France on a steam train from the 1860s to his later years. Camille Pissarro’s letter to his son Lucien on January 20, 1896, shows that Cézanne took a train on the Paris-Aix line to travel between the two points.

After numerous tokens of affection and southern warmth, Oller was confident that he could follow his friend Cézanne to Aix-en-Provence. It was arranged to meet the next day on the P. L. M. train. “In the third class compartment,” said friend Cézanne. So on the next day, Oller was on the platform, straining his eyes, peering everywhere. No sign of Cézanne! The trains pass. Nobody! Finally Oller said to himself, “He has gone, thinking I left already,” made a rapid decision, and took the train. Arrived in Lyon, he had 500 francs stolen from his purse at the hotel. Not knowing what to do, he sent a telegram to Cézanne just in case. And Cézanne was, indeed, at home. He had left in a first class compartment! (1)

Moreover, Aix, which was Cézanne’s base throughout his life, is a railway town. In fact, the railway station (Fig. 1) near the main street of Aix connected three train lines. Chronologically, the railway company P. L. M. opened the train line from Aix to Rognac on October 10, 1856 (25 km) (Fig. 2), from Aix to Meyrargues on January 31, 1870 (26 km), and from Aix to Marseille on October 15, 1877 (34 km) (2). It is remarkable that Jas de Bouffan, Cézanne’s residence in Aix, was situated near the train lines from Aix to Rognac and to Meyrargues. Therefore, in a span of about 40 years, whenever Cézanne stayed at this house, which contained his atelier, he must have been conscious of the steam locomotive that roared past his house. Furthermore, it is important to note that, while he lived in Aix, Cézanne drew many railway subjects in various ways.

First, Cézanne sketched the railway cutting on the Aix-Rognac line as visible from his house garden about 100 meters away to create The Mont Sainte-Victoire and the Railway Cutting (c. 1870) (Fig. 3). Second, in his preceding works, he painted not only the railway cutting but also the railway signal on the same line: The Railway Cutting (1867–68) (Fig. 4) and The Railway Cutting (1867–70) (Fig. 5). Third, The Railway Cutting (1867–70) (Fig. 6) depicts

the railroad as well as the railway cutting. These paintings show his enthusiasm as he tried to topicalize the steam railway in his early years in Aix.

In addition, Cézanne depicted the railway bridge on the Aix-Marseille line. In fact, he sketched the railway bridge that spans across the Arc River and the valley in a suburb of Aix, as shown in The Mont Sainte-Victoire and Big Pine (c. 1877) (see preceding paragraph), The Pine before the Arc Valley (1883–85) (Fig. 7), The Viaduct of the Arc Valley (1883–85) (Fig. 8), and many other paintings. Cézanne also painted a steam locomotive on the Aix-Marseille line. Actually, he depicted the train passing through the railway bridge at Arc valley (Fig. 9), as shown in The Mont Sainte-Victoire Seen from Bellevue (1882–85) (Fig. 10), The Mont Sainte-Victoire and Big Pine (1886–87) (Fig. 11), and The Arc Valley (c. 1885) (Fig. 12).

Recall that in his letter dated April 14, 1878, only half a year after the opening of this line, Cézanne praised the Mont Sainte-Victoire, which he viewed from a speeding train that passed through the railway bridge at Arc valley, as a “beautiful motif,” and, subsequently, in about that same year, he began the series wherein he topicalized this mountain.

Surprisingly, Cézanne even enjoyed taking an electric train on the Aix-Marseille line, including the railway bridge at Arc valley. Emile Bernard, who took the train on this line, which was electrified on June 28, 1903 (3), together with Cézanne at the end of March 1905, described the event in his “Memories of Paul Cézanne” (1907) as follows:

As we were finishing our luncheon, he dismissed the carriage and announced that he was going to Marseilles to see “the rest of the family.” We went off to the tram and, during two hours of torrid heat, we chatted cheerfully. His radiant mien, healthy appearance, and carefree attitude delighted me (4).

From these facts, it is certain that, even in Aix, the steam (or even electric) railway had already become a part of Cézanne’s daily life, and, as a painter, he was passionate about railway subjects such as the railway cutting, railway signal, railroad, railway bridge, and steam locomotive. Moreover, we can assume that Cézanne initially drew the appearance of the steam railway and then gradually tried to “realize” on canvas the transformation of the visual perception induced by the steam railway as a “sensation.”

Consider, then, the internalization of the influence of “Japan” on Western modern art, defined as the process from “Japonaiserie” to “Japonisme.” In other words, while Japonaiserie is to simply draw, as a result of being influenced by the subject, goods made in Japan, such as the Uchiwa, Sensu, and Uchikake (Fig. 13), Japonisme is to express the influence of the form, such as the Japanese concept of space—for example, to express the influence through a painting in which the image exceeds the border (Fig. 14).

If the deeper internalization of influence required more time—that is, if the interpreting is later than the seeing—then the internalization of the influence of the “machine” in Western modern art is the transition from “Machinaiserie” to “Machinisme.” In the case of railway paintings, it is understood that while Machinaiserie is to simply draw, as a result of the influence of the subject, the appearance of the railway system, which includes the railway station, telegraph pole and electric wires, railway cutting, railway signal, railroad, railway bridge, and steam locomotive, Machinisme is to express the influence of the form, that is, to depict the visual features internalized while riding a running train on a painting by deforming objects, repeating transverse strokes, emphasizing horizontal ridgelines, and roughly depicting images of near objects.

Among the impressionist painters who were associated with Cézanne, we can find typical Machinaiserie paintings by Claude Monet (1840–1926) and typical Machinisme paintings by Edgar Degas (1834–1917). For instance, when Monet tackled the Saint-Lazare Station series in 1877 (Fig. 15), he said, “I’ve got it! The Saint-Lazare Station! I’ll show it just as the trains are starting, with smoke from the engines so thick you can hardly see a thing. It’s a fascinating sight, a regular dream world” (5). On the other hand, in 1892, when Degas painted the landscape series influenced by the passing sceneries viewed from a running railcar (Fig. 16), he explained, “[The 21 landscape paintings are] the fruits of my journeys this summer. I stood at the doors of the coaches and I looked round vaguely. That gave me the idea to do the landscapes” (6).

Actually, Monet’s Saint-Lazare Station series pioneered the topicalization of the steam locomotive, which had not been drawn as an ugly monster. We can also presume that, because the deeper internalization of the steam railway’s influence required more time, Degas’ formative representations of transformed vision induced by the passing sceneries seen from a running train were created later than Monet’s topicalization of the appearance of the steam train. Thus, we can logically conclude that the railway painter Paul Cézanne was the first impressionist painter who realized the shift from Machinaiserie to Machinisme.

(1) Camille Pissarro, Letters to his son Lucien, edited with the assistance of Lucien Pissarro by John Rewald, translated from the French manuscript by Lionel Abel, Boston, 2002, p. 280.

(2) See Wikia (http://trains.wikia.com/wiki/Aix-en-Provence) (Last retrieved on September 1, 2011)

(3) Marcel Provence, Le Cours Mirabeau: trois siecles d’histoire 1651-1951, Aix-en-Provence, 1976, p. 82.

(4) Emile Bernard, “Memories of Paul Cézanne” (1907), in Michael Doran (ed.), Conversations with Cézanne, translated by Julie Lawrence Cochran, Berkeley, Los Angeles, and London: University of California Press, 2001, p. 77.

(5) Jean Renoir, Renoir, My Father, Boston, 1962, pp. 174-175.(6) Edgar Germain Hilaire Degas, Letters, edited by Marcel

Guerin, translated from the French by Marguerite Kay, Oxford, 1947, p. 252.

Fig. 1 Aix-en-Provence station photographedby the present author on August 26, 2006

Fig. 2 The railway signal on the Aix-Rognac line, photographed by the present author on August 23, 2006

Fig. 4 Paul CézanneThe Railway Cutting, 1867–68

Fig. 5 Paul CézanneThe Railway Cutting, 1867–70

Fig. 6 Paul CézanneThe Railway Cutting, 1867–70

Fig. 3 Paul CézanneThe Mont Sainte-Victoire and the Railway Cutting, c. 1870 (Fig. 3).

Fig. 10 Paul CézanneThe Mont Sainte-Victoire Seen from Bellevue, 1882–85

Fig. 11 Paul CézanneThe Mont Sainte-Victoire and Big Pine, 1886–87

Fig. 12 Paul CézanneThe Arc Valley, c. 1885

Fig. 14 Claude Monet Water Lilies, Water Study, 1914–18

Fig. 15 Claude MonetThe Saint-Lazare Station, Arrival of a Train, 1877

Fig. 16 Edgar DegasLandscape, 1892

Fig. 13 Claude Monet La Japonaise, 1876

Fig. 8 Paul CézanneThe Viaduct of the Arc Valley, 1883–85

Fig. 7 Paul CézanneThe Pine before the Arc Valley, 1883–85

Fig. 9 The Mont Sainte-Victoire seen from Bellevue, photographed by the present author on August 24, 2006

1617

Page 17: NIHON ART JOURNAL May/June, 2012

New Viewpoint on Art Cézanne and Steam Railway (3)

Paul Cézanne: The railway painter. Conventionally, it is told that since Paul Cézanne (1839–1906) was “the painter who loves nature,” he escaped from a noisy, modern Paris that

developed quickly and painted instead amid the pure nature of Aix-en-Provence, his country hometown. Although this discourse is true to an extent, it has failed to capture Cézanne’s entire essence; if his life and works are correctly investigated without prejudice, it becomes clear that Cézanne is “a painter of modern life” as well as “a painter who loves nature.”

In the foregoing paragraph, we saw that Cézanne, who painted The Ferry at Bonnières (summer of 1866), topicalizing the railway station, telegraph pole, and electric wires, was the first among impressionist painters to depict the steam railway. In other words, among impressionist painters, Cézanne had the most acute sensibility with regard to the steam railway, which was the typical subject of “modernité” (modernity) in those days.

Actually, Cézanne moved around France on a steam train from the 1860s to his later years. Camille Pissarro’s letter to his son Lucien on January 20, 1896, shows that Cézanne took a train on the Paris-Aix line to travel between the two points.

After numerous tokens of affection and southern warmth, Oller was confident that he could follow his friend Cézanne to Aix-en-Provence. It was arranged to meet the next day on the P. L. M. train. “In the third class compartment,” said friend Cézanne. So on the next day, Oller was on the platform, straining his eyes, peering everywhere. No sign of Cézanne! The trains pass. Nobody! Finally Oller said to himself, “He has gone, thinking I left already,” made a rapid decision, and took the train. Arrived in Lyon, he had 500 francs stolen from his purse at the hotel. Not knowing what to do, he sent a telegram to Cézanne just in case. And Cézanne was, indeed, at home. He had left in a first class compartment! (1)

Moreover, Aix, which was Cézanne’s base throughout his life, is a railway town. In fact, the railway station (Fig. 1) near the main street of Aix connected three train lines. Chronologically, the railway company P. L. M. opened the train line from Aix to Rognac on October 10, 1856 (25 km) (Fig. 2), from Aix to Meyrargues on January 31, 1870 (26 km), and from Aix to Marseille on October 15, 1877 (34 km) (2). It is remarkable that Jas de Bouffan, Cézanne’s residence in Aix, was situated near the train lines from Aix to Rognac and to Meyrargues. Therefore, in a span of about 40 years, whenever Cézanne stayed at this house, which contained his atelier, he must have been conscious of the steam locomotive that roared past his house. Furthermore, it is important to note that, while he lived in Aix, Cézanne drew many railway subjects in various ways.

First, Cézanne sketched the railway cutting on the Aix-Rognac line as visible from his house garden about 100 meters away to create The Mont Sainte-Victoire and the Railway Cutting (c. 1870) (Fig. 3). Second, in his preceding works, he painted not only the railway cutting but also the railway signal on the same line: The Railway Cutting (1867–68) (Fig. 4) and The Railway Cutting (1867–70) (Fig. 5). Third, The Railway Cutting (1867–70) (Fig. 6) depicts

the railroad as well as the railway cutting. These paintings show his enthusiasm as he tried to topicalize the steam railway in his early years in Aix.

In addition, Cézanne depicted the railway bridge on the Aix-Marseille line. In fact, he sketched the railway bridge that spans across the Arc River and the valley in a suburb of Aix, as shown in The Mont Sainte-Victoire and Big Pine (c. 1877) (see preceding paragraph), The Pine before the Arc Valley (1883–85) (Fig. 7), The Viaduct of the Arc Valley (1883–85) (Fig. 8), and many other paintings. Cézanne also painted a steam locomotive on the Aix-Marseille line. Actually, he depicted the train passing through the railway bridge at Arc valley (Fig. 9), as shown in The Mont Sainte-Victoire Seen from Bellevue (1882–85) (Fig. 10), The Mont Sainte-Victoire and Big Pine (1886–87) (Fig. 11), and The Arc Valley (c. 1885) (Fig. 12).

Recall that in his letter dated April 14, 1878, only half a year after the opening of this line, Cézanne praised the Mont Sainte-Victoire, which he viewed from a speeding train that passed through the railway bridge at Arc valley, as a “beautiful motif,” and, subsequently, in about that same year, he began the series wherein he topicalized this mountain.

Surprisingly, Cézanne even enjoyed taking an electric train on the Aix-Marseille line, including the railway bridge at Arc valley. Emile Bernard, who took the train on this line, which was electrified on June 28, 1903 (3), together with Cézanne at the end of March 1905, described the event in his “Memories of Paul Cézanne” (1907) as follows:

As we were finishing our luncheon, he dismissed the carriage and announced that he was going to Marseilles to see “the rest of the family.” We went off to the tram and, during two hours of torrid heat, we chatted cheerfully. His radiant mien, healthy appearance, and carefree attitude delighted me (4).

From these facts, it is certain that, even in Aix, the steam (or even electric) railway had already become a part of Cézanne’s daily life, and, as a painter, he was passionate about railway subjects such as the railway cutting, railway signal, railroad, railway bridge, and steam locomotive. Moreover, we can assume that Cézanne initially drew the appearance of the steam railway and then gradually tried to “realize” on canvas the transformation of the visual perception induced by the steam railway as a “sensation.”

Consider, then, the internalization of the influence of “Japan” on Western modern art, defined as the process from “Japonaiserie” to “Japonisme.” In other words, while Japonaiserie is to simply draw, as a result of being influenced by the subject, goods made in Japan, such as the Uchiwa, Sensu, and Uchikake (Fig. 13), Japonisme is to express the influence of the form, such as the Japanese concept of space—for example, to express the influence through a painting in which the image exceeds the border (Fig. 14).

If the deeper internalization of influence required more time—that is, if the interpreting is later than the seeing—then the internalization of the influence of the “machine” in Western modern art is the transition from “Machinaiserie” to “Machinisme.” In the case of railway paintings, it is understood that while Machinaiserie is to simply draw, as a result of the influence of the subject, the appearance of the railway system, which includes the railway station, telegraph pole and electric wires, railway cutting, railway signal, railroad, railway bridge, and steam locomotive, Machinisme is to express the influence of the form, that is, to depict the visual features internalized while riding a running train on a painting by deforming objects, repeating transverse strokes, emphasizing horizontal ridgelines, and roughly depicting images of near objects.

Among the impressionist painters who were associated with Cézanne, we can find typical Machinaiserie paintings by Claude Monet (1840–1926) and typical Machinisme paintings by Edgar Degas (1834–1917). For instance, when Monet tackled the Saint-Lazare Station series in 1877 (Fig. 15), he said, “I’ve got it! The Saint-Lazare Station! I’ll show it just as the trains are starting, with smoke from the engines so thick you can hardly see a thing. It’s a fascinating sight, a regular dream world” (5). On the other hand, in 1892, when Degas painted the landscape series influenced by the passing sceneries viewed from a running railcar (Fig. 16), he explained, “[The 21 landscape paintings are] the fruits of my journeys this summer. I stood at the doors of the coaches and I looked round vaguely. That gave me the idea to do the landscapes” (6).

Actually, Monet’s Saint-Lazare Station series pioneered the topicalization of the steam locomotive, which had not been drawn as an ugly monster. We can also presume that, because the deeper internalization of the steam railway’s influence required more time, Degas’ formative representations of transformed vision induced by the passing sceneries seen from a running train were created later than Monet’s topicalization of the appearance of the steam train. Thus, we can logically conclude that the railway painter Paul Cézanne was the first impressionist painter who realized the shift from Machinaiserie to Machinisme.

(1) Camille Pissarro, Letters to his son Lucien, edited with the assistance of Lucien Pissarro by John Rewald, translated from the French manuscript by Lionel Abel, Boston, 2002, p. 280.

(2) See Wikia (http://trains.wikia.com/wiki/Aix-en-Provence) (Last retrieved on September 1, 2011)

(3) Marcel Provence, Le Cours Mirabeau: trois siecles d’histoire 1651-1951, Aix-en-Provence, 1976, p. 82.

(4) Emile Bernard, “Memories of Paul Cézanne” (1907), in Michael Doran (ed.), Conversations with Cézanne, translated by Julie Lawrence Cochran, Berkeley, Los Angeles, and London: University of California Press, 2001, p. 77.

(5) Jean Renoir, Renoir, My Father, Boston, 1962, pp. 174-175.(6) Edgar Germain Hilaire Degas, Letters, edited by Marcel

Guerin, translated from the French by Marguerite Kay, Oxford, 1947, p. 252.

Fig. 1 Aix-en-Provence station photographedby the present author on August 26, 2006

Fig. 2 The railway signal on the Aix-Rognac line, photographed by the present author on August 23, 2006

Fig. 4 Paul CézanneThe Railway Cutting, 1867–68

Fig. 5 Paul CézanneThe Railway Cutting, 1867–70

Fig. 6 Paul CézanneThe Railway Cutting, 1867–70

Fig. 3 Paul CézanneThe Mont Sainte-Victoire and the Railway Cutting, c. 1870 (Fig. 3).

Fig. 10 Paul CézanneThe Mont Sainte-Victoire Seen from Bellevue, 1882–85

Fig. 11 Paul CézanneThe Mont Sainte-Victoire and Big Pine, 1886–87

Fig. 12 Paul CézanneThe Arc Valley, c. 1885

Fig. 14 Claude Monet Water Lilies, Water Study, 1914–18

Fig. 15 Claude MonetThe Saint-Lazare Station, Arrival of a Train, 1877

Fig. 16 Edgar DegasLandscape, 1892

Fig. 13 Claude Monet La Japonaise, 1876

Fig. 8 Paul CézanneThe Viaduct of the Arc Valley, 1883–85

Fig. 7 Paul CézanneThe Pine before the Arc Valley, 1883–85

Fig. 9 The Mont Sainte-Victoire seen from Bellevue, photographed by the present author on August 24, 2006

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Page 18: NIHON ART JOURNAL May/June, 2012

◉特集新

人発掘

藤井雅一(黄稚) 《蓮》紙本 水墨 本間六曲一隻 2006年 364×176cm

19 18

Page 19: NIHON ART JOURNAL May/June, 2012

◉特集新

人発掘

藤井雅一(黄稚) 《蓮》紙本 水墨 本間六曲一隻 2006年 364×176cm

19 18

Page 20: NIHON ART JOURNAL May/June, 2012

藤井雅一(黄稚) 《蓮》紙本 水墨 2007年 85×42cm

2021

Page 21: NIHON ART JOURNAL May/June, 2012

藤井雅一(黄稚) 《蓮》紙本 水墨 2007年 85×42cm

2021

Page 22: NIHON ART JOURNAL May/June, 2012

青木繁《大穴牟知命》 明治38(1905)年

青木繁《女の顔》 明治37(1904)年

藤井雅一(黄稚) 《蓮独鯉》(襖絵)紙本 水墨 六 2010年 高台寺円徳院蔵

藤井雅一(黄稚)―中国と日本の美的昇華

例えば、服飾における美意識の差異を想起しよう。

一般に、中華服は余白を刺繍で埋め尽くそうとする。豪華絢爛だが、ちょっと息苦しい?

一方、和服は余白を無地でできるだけ残そうとする。瀟洒淡麗だが、ちょっと寂し過ぎ?

中国の重厚で濃密な美と、日本の軽妙で洒脱な美││中国と日本の二つの母国を持つ画

家・藤井雅一(黄稚)は、この二つの異質な美意識を融合させようと試みる。

同じ《蓮》を描いた作品を編年的に辿れば、藤井が自らの信念と確かな技量を導きの光

として、彼の言う「有と無」(存在と不在・具象と抽象・可能と不可能などの含意がある)の中

に究極の一点を探求し続けていることが分かる。

ついつい日本人は、日本的美意識は日本人にしか分からないと思いがちである。しかし、

そんなことはない、中国人にも分かるよ、同じ人間なのだからと、中国出身の藤井は言う。

「日本の装飾美││引き算の美学を、中国に紹介したい。中国人がまだ知らない大切な

美があることを、僕の絵筆で伝えたい。日本人として京都で約二〇年間生活する僕ならば、

決して不可能ではないと信じている。」

実に、一千年以上に及ぶ長い輸入超過の歴史の中で、この日本的美意識の中国大陸への

「輸出」は初めての実験ではないか? さらに藤井は、西洋の古今の絵画技法にも精通し、

その写実美は厳格なデッサン力の賜物であることも付言しておきたい。

一つずつ線を消し、一つずつ色を減らし、限界まで削ぎ落とした先に立ち現われる、ま

だ誰も見たことのない新しくて懐かしい美。それは、藤井のもう一つの願いである、新し

い日本現代美術への一つの貢献でもある。

もう一つの真実の国際的な前衛芸術が、ここにある。

藤井雅一

(ふじい

まさかず)/黄稚

(ホワン・ツィー)

 略歴

一九六四(昭和三九)年

江蘇省啓東市出生

一九八四(昭和五九)年

蘇州大学美術学院卒業

一九八五(昭和六〇)年

北京服装学院講師・同学院校章デザイン採用

一九八八(昭和六三)年

世界青年ファッションショー(スイス)入選により研修招待

一九九二(平成四)年

来日

一九九三(平成五)年

京都市立芸術大学大学院美術研究科に研究留学

一九九四(平成六)年

藤井伸恵と結婚

一九九五(平成七)年

京都で和装・洋装の意匠図案作画に従事

二〇〇七(平成一九)年

「墨の力

│日中・墨人交流展」(京都市美術館)出展

二〇〇八(平成二〇)年

一休寺《虎》(衝立)作画

二〇一〇(平成二二)年

高台寺円徳院《蓮独鯉》(襖絵)作画

二〇一二(平成二四)年

『藤井雅一・黄稚/画集 龍虎』(日本美術新聞社)近日刊行予定

美人画

 

再見

青木繁(明治一五・一八八二〜・明治四四・一九一一)は、明治期の洋画家。明治三二(一八九九)

年に不同舎に入塾して小山正太郎に洋画を学び、翌年東京美術学校西洋画科選科に入学して黒田清

輝の指導を受ける。

重要文化財指定の《海の幸》(一九〇四年)や《わだつみのいろこの宮》(一九〇七年)等、近代

日本美術屈指の名作を残すが、時代に容れられず困窮の内に早逝。享年二八歳。

《女の顔》(一九〇四年)と、《大穴牟知命》(一九〇五年)の右側の女性のモデルは、青木が不同

舎を通じて知り合った恋人・福田たね。《大穴牟知命》は、青木が『古事記』に題材を取ったもので、

兄弟に欺かれて瀕死の重傷を負った大穴牟知命(オオナムチノミコト)を、宇牟起比女(ウムギヒ

メ)が乳を塗って癒したという神話に基づいている。

当時二〇歳のたねは、青木の子(幸彦)の出産前

後で、母乳が良く出る状態であったという。なお、

この幸彦が後の尺八奏者福田蘭童であり、その子

(青木の孫)がハナ肇とクレージーキャッツのピア

ニスト石橋エータローである。

参考:青木繁・福田蘭童・石橋エータロー『画家の後裔』講談

社文庫・一九七九年

風薫る五月。『日本美術新聞』の第三号をお送

り致します。

日々、ニュースでは消費税増税が声高に叫ば

れ、空は晴れても、心の晴れ間はなかなか続い

てくれません。

「社会保障制度を維持するために必要」と言わ

れれば反論などできないものの、「果たして増税

推進者達は、同じ位の熱意をもって本気で無駄

な歳出削減に努めているのだろうか?」という

疑問も口をついて出てしまう今日この頃です。

せめて、庶民の苦労が、医療や子育や年金等

に有意義に生かされることを祈りつつ、小紙が

皆様の一時の安らぎの場となることを強く願う

次第です。 

(編集部一同)

本号の時評「ピカソが中国の画家に抜かれ

た!?」の編集中に感じたことは、中国の景気の

良さへの驚き以上に、良くも悪くも彼らの自国

文化に対する強い矜持でした。省みて、我が国

がバブル期に何を残せたのかを思うと、小さな

嘆息を禁じえません。 

(M)

日本美術新聞社の公式ウェブサイトを立ち上

げました。バックナンバーを無料で閲覧して頂

くことができます。編集部一同、皆様のご訪

問を心よりお待ち申し上げております(http://

ww

w.n-artjournal.com/

)。

(A)

編集後記

22

藤井雅一 ・ 黄稚 画集日本美術新聞社 近日刊行予定 龍虎

Page 23: NIHON ART JOURNAL May/June, 2012

藤井雅一(黄稚) 《蓮独鯉》(襖絵)紙本 水墨 六 2010年 高台寺円徳院蔵

藤井雅一(黄稚)―中国と日本の美的昇華

例えば、服飾における美意識の差異を想起しよう。

一般に、中華服は余白を刺繍で埋め尽くそうとする。豪華絢爛だが、ちょっと息苦しい?

一方、和服は余白を無地でできるだけ残そうとする。瀟洒淡麗だが、ちょっと寂し過ぎ?

中国の重厚で濃密な美と、日本の軽妙で洒脱な美││中国と日本の二つの母国を持つ画

家・藤井雅一(黄稚)は、この二つの異質な美意識を融合させようと試みる。

同じ《蓮》を描いた作品を編年的に辿れば、藤井が自らの信念と確かな技量を導きの光

として、彼の言う「有と無」(存在と不在・具象と抽象・可能と不可能などの含意がある)の中

に究極の一点を探求し続けていることが分かる。

ついつい日本人は、日本的美意識は日本人にしか分からないと思いがちである。しかし、

そんなことはない、中国人にも分かるよ、同じ人間なのだからと、中国出身の藤井は言う。

「日本の装飾美││引き算の美学を、中国に紹介したい。中国人がまだ知らない大切な

美があることを、僕の絵筆で伝えたい。日本人として京都で約二〇年間生活する僕ならば、

決して不可能ではないと信じている。」

実に、一千年以上に及ぶ長い輸入超過の歴史の中で、この日本的美意識の中国大陸への

「輸出」は初めての実験ではないか?

 さらに藤井は、西洋の古今の絵画技法にも精通し、

その写実美は厳格なデッサン力の賜物であることも付言しておきたい。

一つずつ線を消し、一つずつ色を減らし、限界まで削ぎ落とした先に立ち現われる、ま

だ誰も見たことのない新しくて懐かしい美。それは、藤井のもう一つの願いである、新し

い日本現代美術への一つの貢献でもある。

もう一つの真実の国際的な本格芸術が、ここにある。

藤井雅一

(ふじい

まさかず)/黄稚

(ホワン・ツィー)

 略歴

一九六四(昭和三九)年

江蘇省啓東市出生

一九八四(昭和五九)年

蘇州大学美術学院卒業

一九八五(昭和六〇)年

北京服装学院講師・同学院校章デザイン採用

一九八八(昭和六三)年

世界青年ファッションショー(スイス)入選により研修招待

一九九二(平成四)年

来日

一九九三(平成五)年

京都市立芸術大学大学院美術研究科に研究留学

一九九四(平成六)年

藤井伸恵と結婚

一九九五(平成七)年

京都で和装・洋装の意匠図案作画に従事

二〇〇七(平成一九)年

「墨の力

│日中・墨人交流展」(京都市美術館)出展

二〇〇八(平成二〇)年

一休寺《虎》(衝立)作画

二〇一〇(平成二二)年

高台寺円徳院《蓮独鯉》(襖絵)作画

二〇一二(平成二四)年

『藤井雅一・黄稚/画集

 龍虎』(日本美術新聞社)近日刊行予定

22

藤井雅一 ・ 黄稚 画集日本美術新聞社 近日刊行予定 龍虎

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