カフェ変容史 - Gunma University ·...

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カフェ変容史 ―― 文学の中のカフェ 情報文化研究室 Die Entwicklungsgeschichte des Cafe s Shoji ARAKI Information and Culture 群馬大学社会情報学部研究論集 第16巻 105~126頁 別刷 2009年3月31日 reprinted from JOURNAL OF SOCIAL AND INFORM ATION STUDIES No. 16 pp. 105―126 Faculty of Social and Information Studies Gunma University M aebashi, Japan M arch 31, 2009

Transcript of カフェ変容史 - Gunma University ·...

  • カフェ変容史

    ――文学の中のカフェ

    荒 木 詳 二

    情報文化研究室

    Die Entwicklungsgeschichte des Cafes

    Shoji ARAKI

    Information and Culture

    群馬大学社会情報学部研究論集

    第16巻 105~126頁 別刷

    2009年3月31日

    reprinted from

    JOURNAL OF SOCIAL AND INFORMATION STUDIES

    No.16 pp.105―126

    Faculty of Social and Information Studies

    Gunma University

    Maebashi,Japan

    March 31,2009

  • カフェ変容史

    ――文学の中のカフェ

    荒 木 詳 二

    情報文化研究室

    Die Entwicklungsgeschichte des Cafes

    Shoji ARAKI

    Information and Culture

    Zusammenfassung

    In dieser Abhandlung wird versucht darauf zu antworten,wie die Cafes in London,Paris,

    Wien und Tokyo entstanden sind und sich entwickelt haben, was fu eine Rolle sie in der

    Gesellschaft gespielt haben,und wie sie in der Literatur beschrieben wurden.

    In den europaischen Metropolen wurden die ersten Kaffeehauser im17. Jahrhundert einger-

    ichtet und haben nicht nur im politischen und wirtschaftlichen Bereich,sondern auch im kulturel-

    len eine große Rolle gespielt. Tatsachlich waren die Cafes in London und Paris manchmal ein

    Herd der Rovolution,und die Literatencafe in Wien und Paris haben eine lange Tradition.

    Bei der Modernisierung Japans wurde1888in Tokyo das erste Cafevon Eikei Tei eroffnet,

    der auf ein Pariser Cafegezielt hat. Auch in Tokyo waren zwar einige Literatencafes zu sehen,

    aber die haben fast keinen Einfluss auf die Politik. Im Laufe der Zeit haben sich japanische

    Kaffeehauser in zwei Gattungen verzweigt:ein dem Bar ahnlich gewordenes Cafemit Bardamen

    und Alkohol,das andere nur mit Kaffee und leichtem Essen.

    Diese Bardamen im Cafeals neue Frauen der Zwanziger und Dreißiger Jahren,die damals in

    den Vegnugungsbezirk en der großen Stadten mit neuer Frisur und moderner Kleidung auftraten,

    haben viele japanische Schriftsteller in ihren naturalistischen Werken geschildert. Die Heldin-

    nen stellen einmal die reizende Femme Fatale,einmal die neue unmoralische Frauen dar. Nur

    damalige Schriftstellerinnen,die manchmal als Bardamen gearbeitet haben, konnten das arm-

    105群馬大学社会情報学部研究論集 第16巻 105―126頁 2009

  • selige Leben dieser Frauen realistisch und mitleidvoll darstellen.

    要 旨

    ヨーロッパで17世紀に誕生したカフェは実に政治や経済や文学の情報が集まる情報センターであっ

    た。カフェには客の情報収集のためたくさんの新聞が用意された。またカフェに集う市民たちは政治

    や文学について議論し、株取引も行った。カフェは一時郵便局の役割も果たした。ロンドンのカフェ

    は民主主義の発達を促し、パリのカフェは革命の震源地ともなった。世紀末のウィーンのカフェは輝

    ける世紀末文化の発信地であった。

    明治末期には日本でもカフェが誕生し、初期は知識人たちの溜まり場だったが、大震災後、大衆化

    されるにつれ、カフェは女給のサービスと洋食や洋酒の提供を特徴とするカフェと、コーヒーと軽食

    を提供する喫茶店に分かれていった。日本独特のカフェ文化は、政治的な影響はもたなかったものの、

    永井荷風や谷崎潤一郎や広津和郎などの作品の題材となった。彼等は新しい女としての女給を不道徳

    な女、妖婦、自由恋愛に身を焦がす女として描いた。自らも女給経験のある林芙美子や佐多稲子らは、

    女給の生活をリアルにしかし温かい眼で描いた。

    キーワード:情報センター 比較カフェ文化 文学の中のカフェ

    はじめに

    水原明人著『「死語」コレクション』に掲載されている「カフェ」という翻訳語は、1990年代のカフェ・

    ブームとともに見事に復活した。バブル崩壊後、渋谷や渋谷周辺の広尾や恵比寿や原宿や表参道では

    従来の「喫茶店」とは一線を画した間口の広いテラス式のヨーロッパ・スタイルの「カフェ」がブー

    ムとなり、また同時期にはアメリカのシアトルを本拠地とするアメリカン・スタイルのカフェ「スター

    バックス」も日本で全国展開を始め現在に至っている。広尾と表参道に出現したフランス式のカフェ

    はシャンゼリゼで最も有名なカフェで、映画「凱旋門」の舞台ともなったカフェ「フーケ」をモデル

    にしたものだそうである。パリからもおいしい本格的な食事のとれる「カフェ・レストラン」を中心

    としたカフェ・ブームの声が聞こえるが、日本のカフェ・ブームも実はカフェのグローバリゼーショ

    ンと連動しているといえるのではなかろうか。

    亀井肇著『若者言葉辞典』には「カフェめし」なる言葉も登場し、「カフェ」でゆったりとした時間

    を過ごし、スタイリッシュな「カフェ」のランチを楽しむ若い女性を中心に日本でも「カフェ」文化

    は徐々に定着しつつある感がある。昔懐かしい歌声喫茶や名曲喫茶やジャズ喫茶はあまり見かけなく

    なったが、メイド・カフェ、インターネット・カフェ、さらに猫と遊ぶ猫カフェなどのいわゆる「複

    合カフェ」も今や大都市の風物詩となった。もっともインターネット・カフェに寝泊まりする「ネッ

    荒 木 詳 二106

  • トカフェ難民」なる語も2007年の新語・流行語大賞のベストテンに選ばれるなど、「カフェ」は格差社

    会にある都市文化の光と影を示しているともいえるだろう。

    ところで「カフェ」という翻訳語は、どう定義され、いつ頃使用されるようになったのだろうか。

    また「カフェ」文化はどのように成立し、どのように発展していったのだろうか。まず2008年度刊行

    の岩波書店『広辞苑』第6版を参照してみよう。「カフェ」はフランス語のcafeの翻訳語であることが

    示され、元来はコーヒーの意であるとある。しかし定義としては次の二項目が挙げられている。①主

    としてコーヒーその他の飲料を供する店。日本では幕末の横浜に始まり、東京では1888年(明治21年)

    上野で開店した可否(カツヒー)茶館が最初。珈琲店。喫茶店。②明治末~昭和初期頃、女給が接待

    し、主として洋酒類を供した飲食店。カッフェ。カフェー。『広辞苑』の定義からすると、『死語辞典』

    の「カフェー」は②の意であることがわかる。因に女給とは女性給仕の意で、『「死語」コレクション』

    には大正時代の新しい女「モダンガール」としての「女給」が次のように説明されている。「女給が女

    性の新しい職業として認められたのは、大正時代に大流行したカフェーの登場以来のことである。当

    時純白のエプロンを胸からかけた若い女性のサービスは、それまでの花柳界の女性とはまったく違う、

    新しい時代の新鮮な魅力を感じさせた。しかも飲むのはビール、洋酒といった西洋の酒であり、コー

    ヒーである。小説家、詩人、画家なども好んでカフェーの客になり、小説や詩の題材にもしばしば登

    場し、女給は時代の先端をいく新しい職業になった」1990年代からのカフェ・ブームを第二次カフェ・

    ブームとするなら、大正時代のカフェ・ブームは第一次カフェ・ブームといえようか。わが国最大の

    小学館刊行『日本語大辞典』ではカフェではなくカフェーが見出し語として挙げられている。そして

    この語の語源であるフランス語のcafeはカフェ、カッフェ、カッフェー、カッヘー、キャフェとも記

    されるとある。この辞典でも『広辞苑』同様、フランス語の語源cafeが示されるが、飲料としてのカ

    フェーと飲食店としてのカフェーが分類され、さらに飲食店が、喫茶店と女給がサービスし洋酒を飲

    ませる洋風飲食店に分類されている。『日本語大辞典』は各項目に出典が示されているのが特徴である

    が、流行に敏感であったフランス帰りの永井荷風の2作品が引用されている。飲料としてのコーヒー

    の項では『地獄の花』(1902年)から「珈琲(カフェー)を啜る時」、また洋風飲食店の項では『カフェー

    一夕話』(1928年)から「銀座に限らずカッフェといへば」が引用されている。鷗外もドイツで好んで

    カフェ通いをしたようである。『日本語大辞典』の「カフェー」の項には、喫茶店に関する鷗外の『う

    たかたの記』(1890年)からの引用があり、「日課を終えて後は学校の向ひなる『カフェエ ミネルワ』

    という店に入りて、珈琲のみ、酒くみかはしなどして」とある。

    フランス語のcafeの語源を探っていくと、イタリア語のcaffe、さらにトルコ語のqahva、最後に

    アラビア語のqahwaへたどり着き、コーヒー伝播のルーツがわかる。アラビア語のqahwaとは人を

    興奮させる飲み物のことである。ワインも人を興奮させる飲料なのでqahwaと呼ばれたこともあっ

    たようだが、最終的にコーヒーがqahwaになったということである。また英語ではcoffeeと coffee

    house、ドイツ語ではKaffeeとKaffeehaus(またはCafe)の区別があるが、フランス語にはその区

    別がない。因にフランス語のcafeは白水社の『仏和大辞典』によれば、コーヒー、酒類も出す喫茶店

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  • (カフェ)の他、コーヒー豆、コーヒーの出る時間、カフェに来る客、コーヒー色、コーヒーの木を

    示すこととなる。フランス語ではもともとコーヒーを意味していたcafeがコーヒー店をも指すように

    なったのである。

    ところでコーヒーの原産地はアラビアではなく紅海を挟んだ対岸のエチオピアである。コーヒーは、

    1671年にイタリアの東洋学者ナイローニの記したコーヒー伝説によれば、エチオピアの西南のKaffa

    地方で山羊の群れが藪の中の赤い実を食べたら夜中まで飛び廻ったので、そのことを羊飼いたちが近

    くの僧院に訴え出た。羊飼いの一人のカルディが藪の中の実を食べてみて、覚醒作用を確認した。ま

    た調査した僧たちも赤い実の覚醒作用を発見し、煮出して飲んでみたら、深夜まで起きていて、祈っ

    たり、議論することができたとある。また山羊飼いが赤い実をその火に焼べたら香気が漂ったので、

    焙煎することを思いついたとの説もある。しかし臼井隆一郎著『コーヒーが廻り、世界史が廻る』の

    指摘によれば、コーヒーの起源伝説は、すべてイスラム神秘主義の宗教団体スーフィの伝説であると

    されている。イスラム知識人ジャジリーの『コーヒーの正当性のために』(1558年)で主張した説、つ

    まりイスラムの律法学者ザブハーニーがスーフィーに、覚醒作用のあるコーヒーをエチオピアから伝

    えたという説が一番確かだと思われる。コーヒーは食欲、睡眠欲、性欲を抑え、深夜の祈りを可能と

    するの僧侶用の飲料であった。

    9世紀にはその存在が確認されるコーヒーは、14世紀頃にはアラビアへ伝えられ、15世紀半ばころ

    から多分焙煎されて飲まれていた。以後アラビアがコーヒー栽培とコーヒー貿易を独占することと

    なった。コーヒー豆の種類として知られるモカは、コーヒーの最大の積出港の名前であった。その後

    コーヒーの支配権はオスマン・トルコに移り、1532年にはカイロで、1554年にはイスタンブールで最

    初のカフェ(Kavehaneコーヒーの家)が開かれることとなった。特に1511年のコーヒー禁止をめぐる

    宗教論争が終わってからは、酒を商っていた居酒屋が続々とお上公認のコーヒーを飲ませるカフェに

    変わっていった。現代のカフェーと同じく、当時のアラビア世界でも、仕事に疲れた人が、「公」から

    も「私」からも解放されたカフェで一杯のコーヒーを飲んで、一人でゆっくりと過ごしたり、知人と

    話したり、自由な時を過ごしたのであった。やがて、壁面をフレスコ画で飾り、絨毯の上に長椅子を

    置いた豪華なカフェには、政界や宗教界の大物や、有名な文化人が集うようになっていった。

    この黒い飲料に関する情報を初めてヨーロッパへもたらしたのは、オリエントへの旅を敢行したド

    イツ・アウクスブルク出身の医者兼植物学者レオンハルト・ラウヴォルフであった。彼は1582年発行

    の『東方旅行』でqahwaという美味な飲料を紹介している。1645年には当時東西貿易の最大の窓口イ

    タリアのヴェニスでヨーロッパ最初のカフェが誕生した。その後1652年にはロンドンで、また1689年

    にはパリでカフェがオープンした。ドイツ語圏では対トルコ戦争後の1683年に、ハプスブルク帝国首

    都のウィーンで初めてのカフェが開店した。ドイツへは、フランス経由でカフェ文化が広がり、1687

    年にブレーメンでカフェが開かれている。ベルリンでは少し遅れて1721年に最初のカフェが建てられ

    た。

    こうしてカフェはアラビアからヨーロッパへと伝わり、さらに19世紀には遠い極東の国日本へと広

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  • がっていく。この論文では、第1章でロンドンとパリとウィーンのカフェ文化を取り扱う。特に世紀

    末ウィーンのカフェについて、文学に描かれたカフェについて考察したい。第2章では日本のカフェ

    文化について、その歴史とともに、永井荷風や谷崎潤一郎さらに広津和郎などの文学作品に描かれた

    カフェを取り上げたい。またカフェを内側から見た女性作家の描いたカフェ、新興芸術派のカフェに

    ついても言及する。最後にヨーロッパ大都市のカフェと東京のカフェの比較をとおして、日本のカフェ

    文化の特徴を考察したい。

    フランスやドイツやオーストリアと同じく、イギリスでもカフェ=コーヒーハウスは政治・経済・

    文化に大きな影響を与えた。ただカフェ文化の盛んだった時期は国によって異なる。イギリスの場合

    コーヒーハウスの最盛期は17世紀半ばから18世紀半ばといわれている。

    イギリスでコーヒーハウスが初めて開かれたのは、清教徒革命の最中1650年のことであった。場所

    はロンドンではなくオックスフォード、開いた人物はユダヤ人のジェイコブといわれている。ロンド

    ンにはその2年後の1652年に、中東で商売をしていたエドワーズという商人が、ギリシャ人の召使い

    ロゼなる男に開かせた。当時のコーヒー・ハウスではコーヒーの他紅茶やココアも出されたが、清教

    徒革命の影響か酒も食べ物も出されなかった。イギリスで広く見られた各種クラブが続々と本拠地を

    コーヒー・ハウスに移したこともコーヒーハウスの隆盛につながった。因にコーヒー・ハウスは女人

    禁制で男性のみの社交場であったので家庭に取り残された主婦たちの憤激の対象でもあったそうであ

    る。小林章夫著『ロンドンのコーヒー・ハウス』には、『コーヒー・ハウス点描』なるパンフレットが

    紹介されている。コーヒーハウスの長所は次のようになる。第一に安い、第二に酒なしの真面目な雰

    囲気がある、第三におしゃべりやトランプなどを楽しめるとある。またコーヒー・ハウスは当初から

    権力を批判し革命を鼓吹する、自由な言論の場として人気を得た。ゆえに王政復古後はこうしたコー

    ヒー・ハウスは政府に目をつけられ、制限令を出されたり、スパイを放たれたりもした。コーヒー・

    ハウスは同時に情報センターであった。コーヒー・ハウスの顧客を構成する、政治や経済の情報を渇

    望する識字層の中産市民層は、情報を満載した新聞や雑誌をコーヒー・ハウスで読むことができた。

    ジャーナリズムはコーヒーと煙草の煙の中で生まれたといわれる。また世界最大の保険会社も小さな

    コーヒー・ハウス「ロイズ」から興ったし、郵便制度が発達する前は、コーヒーハウスは郵便の集配

    所の機能まで果たしたのであった。さらに文学カフェとしては王政復古期の最大の作家ドライデンが

    通ったコーヒー・ハウス「ウィル」があった。前述の『ロンドンのコーヒー・ハウス』では次のよう

    な興味深い記述がある。「ウィルにはドライデンを中心とした文学サークルがあり、その中で、詩人、

    劇作家を夢見る多くの人間がその習作に対して遠慮のない批評を浴びせられながら、自己の才能を磨

    いていったのであろう。今日のように詩が、あるいは文学全般が作者の個室、書斎において構想され、

    やがて活字化されて発表をみるという、ある意味ではきわめて孤独な作業であるという時代とは異な

    109カフェ変容史

  • り、十七世紀末においては詩作、劇作は公的な色彩をまだ色濃くもっていた」 しかしイギリスで全

    盛を誇ったコーヒー・ハウスも、18世紀半ばから徐々に衰退していくことになる。政治の安定、過当

    競争、顧客層の分化、酒類販売、植民地政策と関連したコーヒーから紅茶への転換、住環境の改善な

    ど様々な原因が挙げられている。以後コーヒー・ハウスは富裕層のためのクラブと大衆層のためのパ

    ブに席を譲ることとなった。しかし今やニューヨークよりも多いといわれるロンドンのスターバック

    スの多さは何を意味しているのだろうか。今は過去のものとなったコーヒー・ハウス文化に変わり、

    アメリカン・スタイルのコーヒー・ショップ文化がロンドンでも生まれつつあるのだろうか。それと

    も長時間に及ぶ議論や執筆活動はファースト・フード型のスタバでは不可能であろうか。

    18世紀および19世紀初頭のヨーロッパにおける「公共圏」について分析したハーバーマスは『公共

    性の構造転換』で、「公共圏」の例としてイギリスのコーヒー・ハウスを挙げている。前述した文学カ

    フェであるコーヒー・ハウス「ウィル」にも触れ、芸術や文学論議が、経済や政治の自由な議論にも

    つながり、サロンより広範な層の市民たちが出入りするコーヒー・ハウスが、貴族層と教養のある市

    民層の社交的な儀式を度外視した平等な関係の形成に寄与したと述べている。

    次にパリのカフェについて述べてみたい。パリで最も印象的なのは、エッフェル塔よりも凱旋門よ

    りもカフェではなかろうか。ウィーンと並んでパリは最もカフェが似合う町である。

    実はフランス最初のカフェが開店した地はパリではなく、ヴェニスと並ぶ東西貿易の拠点港マルセ

    イユであった。1671年にはマルセイユ出身の商人ラ・ロックが数人のパートナーと取引所近くにカフェ

    をオープンしていた。パリ市民がコーヒーに興味を持ち始めたのは、ルイ14世がオスマントルコの全

    権大使ソリマン・アガを宮廷に迎えて、大使が持参したコーヒーが宮廷内に反響を呼んでからといわ

    れている。コーヒーはパリ市民にとっては貴族的な飲料であった。パリに本格的なカフェが誕生した

    のはマルセイユに遅れること18年、1689年のことである。その年フィレンツェの貴族の血を引くシチ

    リア人のアイデアマン、コルテッリは、コメディーフランセーズ前の元の浴場施設を買い上げ、譲り

    受けた鏡や大理石や優雅な家具を活用して、トルコ趣味ではなくヨーロッパ趣味のカフェを作り上げ

    た。レモネードやアイスクリームも彼の発明だといわれる。コーヒーのみではなくジェラートも賞味

    できるエレガントで居心地のいいコルテッリのカフェ・プロコープは評判をよび、徐々に芸術家たち

    の社交場となっていった。このカフェは始めコメディー・フランセーズなどの演劇人の集まる演劇カ

    フェ、18世紀前半にはラフォンテーヌやボーマルシェらの詩人・文学者が集まる文学カフェ、その後

    啓蒙主義者のヴォルテールやディドロやダランベール、さらにアメリカからフランクリンも加わった

    政治カフェとなった。革命期にはダントンやマラーやロベスピエールなどの革命家が論議する革命カ

    フェともなったが、革命後は、ゴーチェやミュッセやネルヴァルらのロマン主義者やバルザックを客

    とする文学カフェに戻った。一時閉鎖の後はヴェルレーヌやゾラやモーパッサン、さらに画家のセザ

    ンヌが姿を見せるカフェとなったが、現在はパリ名物のレストランとして営業中である。ドールマン

    著『ヨーロッパのカフェ文化』にはカフェ・プロコープに関して次のような記述が見える。「 プロコー

    プ>では、フランスの公的生活全般について論じられ、新しい芝居やオペラが批評され、エピグラム

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  • が書かれ、政治的なニュースが伝えられた。 カフェ・プロコープ>は、 パリの真の新聞>であると

    いう名声をえていたのだ」

    ロンドンと逆に、パリではコーヒーが紅茶やココア(チョコレート)を駆逐した。ドールマンによ

    れば、コーヒーの勝利に貢献したのは医者や知識人であった。当時コーヒーに関して、医者のデュフー

    ルはこう断言した。「コーヒーは、酩酊と嘔吐を抑え、心臓を強くし、壊血病と脾臓の病気を治してく

    れる」 歴史家ミシュレは18世紀の精神的業績の多くにコーヒーが貢献したと述べた。「フランスでは

    人びとがこれほど饒舌に、気持ちよくおしゃべりを楽しんだことはなかった、、、精神が、まさにここ

    しかないというところで、おのれ自身の内部からほとばしり出たのだ。精神の輝かしい出現。その名

    誉の一部は疑いなく、時代の幸運な革命、新たな風習をつくり、人びとの気性を変える大きな事実、

    つまりコーヒーの流行に帰すべきものである」 また紫煙の立ちこめていたロンドンのコーヒー・ハ

    ウスとは異なり、パリのカフェでは室内禁煙となっていたので、喫煙者のためのテラスが発達した点

    も興味深い。

    カフェ・プロコープ以外のカフェはどうだったのであろうか。渡辺淳著『カフェ』によって、パリ

    のカフェ史を概観してみたい。フランス革命の時期には、パレ=ロワイヤル周辺のカフェが特別な役

    割を果たした。当時パリにはまともな新聞はなかったし、市民の大半が字が読めなかったので、新鮮

    な情報を求めて市民はカフェに集まったのだった。カフェ・ド・ラ・レジャンスやカフェ・ド・フォ

    ア、カフェ・コラザなどは王制打倒を叫ぶ革命的知識人の集会所となった。特にカフェ・ド・フォア

    は、デムーランが暴政打倒のアジ演説をしたカフェで、フランス革命はこのカフェから始まったとい

    える。革命が終結すると繁華街は、パレ=ロワイヤルからグランプルヴァールへ移行した。グランプ

    ルヴァールでは豪華な百貨店、レストラン、カフェーが軒を並べた。カフェ・リッシュでは大ブルジョ

    アととともに、ゴンクール兄弟やボードレールが姿を見せ、世紀末にはピサロ、モネらの印象派の画

    家や、ルノワールが顔を見せた。その他大きなテラスをもったカフェ・トルトーニやカフェ・ド・ラ・

    ペにも多くの有名な芸術家や政治家が顔を出した。

    その後第三共和制の時代にはグランプルヴァールは衰え、ブルジョアは豪華なシャンゼリゼへ、文

    学カフェはボヘミアンたちとモンマルトルへ移動する。モンマルトルの丘に点在するカフェには無名

    だった画家たちが寄り集まって芸術談義をかわした。カフェ・ラスーリやカフェ・ル・ゲルボアやカ

    フェ・ラ・ヌーベル・ラテーヌではドガやルノワールやセザンヌや印象派の 芸術の悪童>たちが、

    おおいに気炎をあげた。またカフェ・ラパン・アジルはモンマルトルのアヴァンギャルドの最後の砦

    として、ピカソやユトリロやモディリアーニらが詰めかけた。また同じく世紀末にはモンマルトル界

    隈には音楽や様々な見せ物付きのカフェ・コンセールも繁盛した。また各カフェにビリアードも置か

    れるようになった。

    19世紀後半から第一次世界大戦前のベルエポックの時代、芸術家たちはモンマルトルの丘をおりて、

    モンパルナスへと移動し始めた。カフェ・ラ・クロズデリー・デ・リラには詩人やデュシャンやレジェ

    などの画家、さらにアメリカからのヘミングウェイやドス・パソスが集い、ル・ドームにはエコール・

    111カフェ変容史

  • ド・パリの画家たちや、シュールリアリストたちが巣食い、ラ・ロトンドなどのカフェにはブラマン

    クやドランなどの野獣派の画家たちをはじめ、アポリネールやコクトーやラディゲなどの文学者やス

    トラヴィンスキーなども顔を見せた。

    1920年代にパリを訪れたアメリカの「失われた世代」の多くの作家やアーティストやジャーナリス

    トが、モンパルナスのカフェ・ル・セレクトを根城とし、このカフェーを彼らのヘードクォータとも

    呼んだ。当時の新しいアメリカ文学は、少なくともその一部は、モンパルナスのカフェから生まれた。

    パリ体験をもとにヘミングウェイは『移動祝祭日』を、フィッツジェラルドは『雨の朝パリに死す』

    を書き、ガーシュインは『パリのアメリカ人』を作曲した。後に『パリのアメリカ人』をもとに同名

    のミュージカル映画が製作されアカデミー賞を取ったことはよく知られている。1920年代、世界中の

    芸術家の集まるモンマルトルのカフェは芸術の溶鉱炉ともなった。

    ところで、戦争とドイツ占領時代を経て、戦後の1940年代半ばから実存主義の思想が花開いたのは

    サン・ジェルマン・デ・プレ界隈のカフェであった。サルトルやボーボワールを中心とする実存主義

    者たちはカフェ・ドゥ・マゴやカフェ・フロールに陣取り議論し、執筆に励んだ。これらのカフェは

    寒さに震える実存主義者たちを暖かく迎えいれた。またサン・ジェルマン・デ・プレ界隈は出版社や

    本屋の集まる情報センターでもあった。

    しかし60年代に入ると、パリは文学におけるヌーボー・ロマン、映画におけるヌーベル・バーグ、

    演劇における反演劇、思想における構造主義の発信地であったにもかかわらず、カフェ文化は衰退し

    ていき、現在に至っている。個人志向の芸術家たちはもはや集団的行動には不向きだといえるだろう

    か。しかし60年代半ばから各所にできた現代演劇のためのカフェ・テアトロなどは新しい芸術カフェ

    のありかたを示しているのかもしれない。ともあれ、性や職業や階層など一切のヒエラルキーを越え

    て、パリのカフェが今なおユニークな社交の場としてまた芸術の場として機能していることもまた事

    実である。

    パリ同様に、カフェ文化の全盛期は過ぎたものの、ウィーンのカフェも、実に多彩なコーヒーや美

    味なケーキ、調度の醸し出す重厚で豪華な雰囲気で多くの市民や世界中の観光客を引きつけている。

    1991年にウィーンで出版された『カフェ伝説集』には、多くのカフェ讃歌が掲載されているが、なか

    でも強烈なのが、カフェ文士の代表ペーター・アルテンブルクの『Kaffeehaus カフェ』である。

    心配があったら、それが何であれ、、、さあカフェへ

    彼女が、訳あって、ちゃんとした理由でも、君のとこへ来れなかったら、、さあカフェへ

    ブーツがぼろぼろだったら、、、さあカフェへ

    400クローネ儲けて、500クローネ使ったら、、、さあカフェへ

    医者になりたかった君が、今はしがない官吏でも、、、さあカフェへ

    お気に入りの彼女がなくても、、、さあカフェへ

    内心自殺したくてうずうずしたら、、、さあカフェへ

    人間が嫌いで軽蔑しながらも、人間なしではやっていけなかったら、、、さあカフェへ

    112 荒 木 詳 二

  • もうツケがきかなくなっても、、、さあカフェへ

    アルテンベルクの生きたのは19世紀末、多くの貧しい芸術家たちはカフェに集まり、しばしばツケ

    でまたは他人からの施しでコーヒーを飲み、世界中の新聞・雑誌を読み、芸術論議に花を咲かせたり、

    執筆したり、時には終日ぼんやり道行く人を眺めていた。このコーヒー讃歌には、貧しいながら助け

    合う、人間嫌いでありながら、仲間を求め合う世紀末のカフェ文士たちの姿が生き生きと描かれてい

    る。

    ナチスから逃れ、亡命先で非業の死を遂げた、典型的なウィーンのユダヤ系知識人シュテファン・

    ツヴァイクのカフェ讃歌もよく知られている。早熟なツヴァイクは大学入学前からカフェに出入りし

    ていた。彼にとっても、カフェは「見えない大学」であった。ツヴァイクは『昨日の世界 あるヨー

    ロッパ人の回想』で世紀末のカフェの思い出を描いている。

    「あらゆるあたらしいものに対する最良の教養の場は依然としてカフェであった。このことを理

    解するには、ウィーンのカフェこそ、世界のいかなる類似のカフェとも比べることのできない、

    特別な種類の施設であることを知らなければならない。そこは本来、一杯のコーヒー代さえ払え

    ば、誰でも近づける民主的なクラブで、そこではどの客もわずかな費用で何時間でも居座り、議

    論し、書き物をし、カードに興じ、郵便物を受け取り、とりわけ新聞・雑誌を心ゆくまで読める

    のだ」

    ロンドンのコーヒー・ハウスやパリのカフェ同様、世紀末のウィーンのカフェは、客にとって書斎、

    居間、郵便局、会議場及び学校の機能を兼ね備えた空間であった。ラジオやテレビのない時代、新聞・

    雑誌こそが世界とつながる唯一のメディアだった。国際都市ウィーンの一流のカフェには世界の新聞

    が備えられ、さらに文学や美術関係の重要な雑誌も並べられていた。

    「それゆえわれわれは、世界で起こっているすべてのことを直接知っていた。出版されたあらゆ

    る書物について、またどこで催されていようと、あらゆる上演について知り、すべての新聞の批

    評を比較した。オーストリア人がカフェにおいて世界のあらゆる出来事についてかくも包括的な

    知識を得、同時に新しい仲間同士で議論できたということぐらい、オーストリア人の活発な知的

    営為と国際的な視野の獲得とに多いに貢献したものはおそらく他にはいないであろう」

    当時のウィーン市民にとって、カフェは世界中の政治・経済・文化情報が集まる、最高の情報セン

    ターであった。しかも一杯のコーヒー代で情報を手にすることもでき、しかも誰でも自由に議論に参

    加でき、当時最高の知識人たちの話も聞け、彼らの情報の分析方法まで学べる、まさに見えざる学校

    であった。行間から当時のカフェーの客たちの旺盛な知的好奇心と知的水準の高ささえ窺える文章で

    ある。

    同じくカフェへ通いつめた皮肉屋の批評家ポルガーも当時の有名な文学カフェであるカフェ・ツェ

    ントラールを題材に『カフェ・ツェントラールの理論』を書いている。この文章は「カフェ・ツェン

    トラールは他のカフェのようなカフェではなく、一つの世界観である。その世界観の最奥の内容は、

    世界を見ないことである」と人を食ったような文で始まる。どうやら孤独がキイワードのようである。

    113カフェ変容史

  • 「カフェ・ツェントラールはウィーンと孤独の交わった場所である。その住民は大半が、人間嫌いも

    激しいが、孤独になりたがる人間を求める気持ちも同じく激しく、またそうした人間と交際を必要と

    する人々である」カフェ・ツェントラールは文士のような複雑で繊細、神経質で寂しがり屋の避難所

    でもある。「それは、気のおけない団欒の場に戦慄を覚える者たちにとっての気のおけない団欒の場、

    夫婦や恋人たちが、誰にも邪魔されずに寄り添っていることの恐怖から逃れる避難所、自分を求めか

    つ自分から逃れてきた人生を、自己の逃走する部分を、ここの新聞紙や味気ない会話やトランプのカー

    ドの背後に隠している、分裂に悩む者たちにとっての救護所である」ここには、カフェ・ツェントラー

    ルに集まる孤独な男たちの友情も感じられるが、さらに大都会の群衆のなかで孤独を嚙みしめる実存

    主義者の心性もまた見てとれるのではなかろうか。

    ポルガー同様、繊細なカフェ文士アルテンブルクも『カフェ・ロペラにて Cafel’opera』というス

    ケッチでカフェの快楽を歌った。カフェ・ロペラは緑に囲まれたプラーター地区にあった。

    「そうだ。これらのものには特別の繫がりがあった。紳士、淑女、マンドリンのトレモロ、そし

    て白樺、プラタナス、とねりこ。白いアーチ型ランプ、それに涼しい夜風には、、、私たちは軽や

    かな人生の中にある。自らの財産で生活する貴族たちのように、我を忘れた恋人たちのように、

    不意打ちや驚きの事件が起こりそうにもない賢者のように」

    こうして世紀末にカフェ文化は花開いたのだが、ウィーンのカフェはいつ頃誕生し、どう発展した

    のであろうか。ウィーンのカフェ誕生に関しては、波瀾万丈の伝説もあるが、今日ではオリエント貿

    易に従事するアルメリア商人ディオダートが1685年に「バッヘンベルク」館でウィーン最初のカフェ

    を開いたことになっている。その後1789年にはカフェ・ヴィーガントでウィーン風カフェ・コンサー

    トが開かれ、音楽とカフェの強い結びつきはウィーンのカフェの特徴となっていく。モーツァルトや

    ベートーベンもカフェで演奏した。コーヒー好きのベートーベンはコーヒーを味わい、遊び好きのモー

    ツァルトはビリアードを楽しんだ。またユングリングのカフェでは、ヨーハン・シュトラウス指揮の

    軽やかで愉快なウィンナ・ワルツが流れた。1820年に開設されたカフェ・白銀館は、豪華なバロック

    式建築で、詩人レーナウや、劇作家のライムントやグリルパルツァーが集う文学カフェであった。最

    もウィーン・カフェ史上最も有名な文学カフェはカフェ・グリーンシュタンドルであろう。このカフェ

    は1848年に誕生し、一時は「国民カフェ」と名乗り、ウィーン三月革命の革命家たちの溜まり場とも

    なったが、後に評論家のヘルマン・バールを始め、シュニッツラーやカール・クラウスやホーフマン

    スタールなどウィーン世紀末文化を代表する作家たちが集まったことで知られている。しかしこのカ

    フェが閉店騒ぎを起こすと、1860年にできたカフェ・ツェントラールへとカフェ文士たちは移動した。

    有名な文学カフェであるカフェ・ツェントラールでは、評論家のポルガーや作家のアルテンブルクや

    ツヴァイクらが議論し、執筆した。戦後の文学カフェでは作家ドーデラーらが集ったカフェ・ハヴェ

    ルカが有名である。

    ロンドンやパリのカフェ同様、ウィーンのカフェでも、新聞が最も重要な備品であった。

    平田達治著『ウィーンのカフェ』には、次のような記述がある。

    114 荒 木 詳 二

  • 「 ほとんど何でもすることができて、ほとんど何もしなくてよい>自由な場所カフェには、音楽

    はなくとも新聞だけは必ず備わっていなけらばならない。しかも老舗のカフェになればなるほど、

    新聞の数も種類も増え、その多くはウィーン特有のラケット型の木製キーホールダーにとめられ

    て置かれている。新聞は玉突き、チェスとともに、ウィーン・カフェを成り立たせ、構成する三

    大要因、いわばウィーン・カフェの三種の神器の一つであり、その筆頭に数えられるものなので

    ある」

    もう一つウィーンのカフェの名物は男性給仕である。シュヴァーナー著『ウィーンのカフェ』で、

    著者は男性給仕こそカフェの天使だと讃えている。タキシードに蝶ネクタイ着用のウィーンの男性給

    仕は、服装もマナーもしばしばお客より上品だと述べたあと、次のような文章を綴っている。

    「男性給仕は、その働きからすると、カフェの天使である。常連客は何もいわなくても、望んだ

    ものが手に入る。男性給仕が望みの新聞を持ってきて、御機嫌を伺ってくれるからだ。男性給仕

    は寡黙で上品で姿勢がいい。そして客たちには邪魔されないながらも、注意深く世話されている

    という印象を与える。そのためお客は他のどこよりカフェが居心地がいいのだ」

    カフェの街ウィーンについて、劇作家ブレヒトはウィーンを「数軒のカフェの回りに造られた都市」

    と名付け、前衛詩人アルトマンは「カフェの中に住む都市」といった。平田が説明しているように「オー

    ストリアの首都ウィーンほど、カフェが日常の暮らしから公的な催しに至るまで、市民の生活に深く

    かかわり、各人各様にそのライフスタイルの中へ溶け込み、多くの名店カフェを生み出し、独特のカ

    フェ文化を育ててきたところは他にないであろう」昔もそして今も、音楽文化の中心都市のウィーン

    は、またカフェ文化の中心都市でもある。

    日本のカフェの全盛期は大正末から昭和の前期であった。カフェを含む喫茶店の数は震災前年の

    1922年(大正11年)から1932年(昭和7年)の十年間で実に約64倍となっている。1927年(昭和3年)

    には日比繁治郎作詞・塩尻精八作曲の『道頓堀行進曲』がヒットし、「赤い灯青い灯 道頓堀の 川面

    にあつまる 窓の灯に 何でカフェが 忘らりょか」という歌詞が連日大阪の街に流れた。翌年1928

    年(昭和4年)には、今度は東京・銀座を歌った『東京行進曲』がヒットした。作詞西条八十・作曲

    中山晋平・歌手佐藤千夜子の黄金コンビによる大ヒットだった。「昔恋しい銀座の柳 仇な年増を誰が

    知ろ ジャズで踊って リキュールで更けて 明けりゃダンサーの涙雨」というこの曲は映画主題歌

    第1号でもあった。さらに1930年にはこれも映画の主題歌となった『女給の唄』が現れた。作詞は西

    条八十、作曲は塩尻精八、歌は羽衣歌子が歌った。カフェで働く女給の悲しい人生を歌った歌が大衆

    の涙を誘った。「わたしゃ夜咲く 酒場の花よ 赤い口紅 錦紗のたもと ネオンライトで 浮かれて

    踊り さめてさみしい なみだ花」 藤山一郎の歌う『東京ラプソディ』が巷に流れたのが1936年(昭

    和11年)のことであった。「花咲き花散る酔いも 銀座の柳の下で 待つは君ひとり君ひとり 逢へば

    115カフェ変容史

  • ゆくティールーム 楽し都恋の都 夢のパラダイスよ 花の東京」

    日本のカフェの起源とその前史について、『銀座細見』で美術研究家の安藤更生は次のように述べて

    いる。「銀座でカフェと銘を打った店は、松山省三氏のカフェプランタンにはじまる。しかしその前に

    多少カフェらしい店はあった。今もある台湾喫茶店、俗にウーロンと呼ぶ店がそれだ。これは明治三

    十九年に出来た。女給もいた。お鈴お幸などという名が、古い人によって記憶されている」 安藤に

    とっては女給と洋酒、さらに芸術がカフェの構成要素のようだ。「美しい女給によるサービス、南国の

    香り高い茶、赤く青い洋酒など、ウーロンはとにかくはじめてカフェらしい空気を銀座に漂わした。

    やがてプランタンが出来た。ここにカフェ史はその第一頁を満したのである」安藤にとって、銀座や

    新橋のビヤホールやソーダ水の「資生堂」や、しばしば日本最初の喫茶店とされる「欧化主義者」の

    「可否茶館」などは、カフェの代用に過ぎず、1911年(明治44年)カフェ・プランタンこそ「日露戦

    後の自然主義下の、奔放な青年たちの空気から醸し出された」正統的カフェなのである。実際このカ

    フェは有名な文士の他、「青 」や「女人芸術」のメンバーも集まる文学カフェであった。

    因に喫茶店の起源としてしばしば言及される「可否茶館」は1888年(明治21年)に鄭永慶によって、

    東京下谷西黒門町に設立された「珈琲店」である。鄭永慶は、父は中国代理大使、自らもアメリカ留

    学体験を持ち、中国語の他にフランス語と英語をマスターした当時の知識人であった。日本の浅薄な

    欧化主義に対抗し、この珈琲店を市民のサロンとも、知識人の溜まり場ともする理想をもって「可否

    茶館」を開いたのであった。カフェはまだ日本人にはなじみがないので「可否茶館」を店名としたよ

    うである。星田宏司著『日本最初の珈琲店』には次のような「可否茶館」の設立趣旨が引用されてい

    る。

    「今番尚館草創の趣向は、ひそかに外国珈琲茶館の古昔に擬したれば、僅かにその胚胎を作り、

    先ずもって諸賓の御来遊を仰望し、随て一碗の珈琲を売りしに、御蔭を以て手前の生活を図るに

    過ぎず、、、室中には内外の新聞紙及び雑誌類、或は東西官許の佳賭具(カード)を備ふるは勿論、、、

    かつ酒は勃児陀(ボルドー)伯林(ベルリン)の良醸にタバコは久巴(キューバ)、麻尼喇(マニ

    ラ)の名産を予備し置き、、、」

    とある。このいわゆる最初の喫茶店には、新聞雑誌が備えられ、ワインもタバコも販売していたこと

    がわかる。鄭永慶が東京帝大にも近い下谷にフランス風文芸カフェを誕生させようという熱意をもっ

    ていたことは同じ設立趣旨の文章に見える。

    「そもそも尚館の地は、、、高尚清雅の彊界に接近すれば、庶(こいねがわくは)、仏蘭西芸文珈琲

    館に擬せんことこれ難からざるべし」

    しかし鄭永慶の理想のフランス風文芸カフェは時代を先取りし過ぎたのだろうか、それとも高めの

    料金設定のゆえか、はたまた中国「茶館」とカフェの折衷様式のゆえか、常連客もあまりつかず、「可

    否茶館」は大きな赤字を抱え4年後の1892年(明治25年)には姿を消し、鄭永慶はアメリカへ逃亡し

    た。

    「可否茶館」の消滅からしばらくはヨーロッパ風のカフェ設立の動きはなかったようである。やっ

    116 荒 木 詳 二

  • と23年後の1911年(明治44年)に今度は思い切ってカフェの名をつけた「カフェ・プランタン」が誕

    生した。このカフェの成立事情について、『銀座細見』を見てみよう。

    「そのころ、日本にはカフエというものが全くなかった。たまたまそれに類似した機能を持つ家

    を求めるとしたら、ミルクホールか、殺風景なビヤホール、一品料理屋であった。、、、悠々と話し

    込んだり、人を待ち合わせたりするのに都合のいいような家、ヨーロッパのカフエのようなもの

    が欲しいという話が、新帰朝の画家たちや若い文学者たちの間に交わされた」

    「可否茶館」が個人営業だったのに対し、今回のカフェは初め経営を考えてクラブ制をとった。ク

    ラブの会員には、黒田清輝や和田英作や岡田三郎助などの画家、鷗外に荷風や潤一郎や杢太郎や白秋

    などの作家を始め、錚々たるメンバーが名を連ねた。創立者は松山省二と平岡権八郎、自由思想を危

    険視する対官憲対策もあって、フランス語で「春」を意味する「プランタン」と命名したのは「自由

    劇場」の小山内薫であった。カフェ誕生の時代的な背景を見てみよう。

    「時代は自然主義の勝利成って、さらに新しい文学運動に移ろうかとする時であった。劇団には

    坪内逍遙の主催する文芸協会あり、一方には小山内薫、市川左団次を中心とする自由劇場があっ

    た。イプセン、ノラ、ゴルキイ、ボルクマン、ズウデルマン、カチューシャ、そんな名がしきり

    に新聞や雑誌を賑わしていた。、、、青年はいっせいに新しい文学の方へ動いて行った。こんな空気

    を背景にしてプランタンは、いわばそれらの芸術家の創作の一つとして生まれでたのであった。

    だから当時のプランタンの二階は一種のパルナスであった」

    玉突き台は2台、天井には桃色の壁紙、壁にはフランスの石版画が掛けられていた。家具は白いカ

    バーのかかったテーブルに、曲木椅子と内装にも凝っていた。プランタンは多くの酒を集め、おいし

    い洋食を出すカフェとしても有名だった。名物は5色の洋酒にサンドイッチとマカロニであった。プ

    ランタン神楽坂店は日本に初めて麻雀が持ち込まれ、菊池寛や久米正雄らが麻雀に興じたことでも知

    られる。

    パリ風の文芸カフェを東京にも造ろうという志を持ち、実際に造ったという点では、日本で最初の

    喫茶店とされる「可否茶館」は日本で最初のカフェでもあったといえるだろう。もちろん、4年間で

    消滅した点、学生が中心で、文学カフェにはほど遠かった点を考えれば、第二次世界大戦で焼けるま

    で存続し、設立当初は当時の多くの芸術家・作家を集めたカフェ・プランタンは日本初の本格的カフェ

    だったといえよう。しかし欧風カフェを目指した「可否茶館」の鄭永慶もカフェ・プランタンの松山

    省二も、バーとも区別のつかない女給中心のカフェの時代がくると少しでも予想したであろうか。し

    かしヨーロッパのカフェでは、長い間原則的に女性が排除されたのに対し、可否茶館にもカフェ・プ

    ランタンにも初めから女給がいた点では、既に初期のカフェに、将来の種が胚胎されていたともいえ

    るのではないだろうか。

    そもそも日本の定義からすれば、コーヒーその他酒類ではない飲料とお菓子等を提供する店が「珈

    琲店」または「喫茶店」、食事中心で酒類も出す店が「食堂」「レストラン」など、酒類中心に提供し、

    軽食も出す店が「居酒屋」「バー」「キャバレー」などとなるだろうが、日本のカフェ設立者が目指し

    117カフェ変容史

  • たヨーロッパのカフェではコーヒーも酒も食事も出すのでややこしい。日本のカフェでは「可否茶館」

    がコーヒー中心、カフェ・プランタンが洋酒および洋食中心、その後大阪発のカフェに特徴的なのが

    女給中心とカフェの中心がずれていった。また日本の統計資料を見ると、カフェは喫茶店に入ってい

    る点にも注意しておかなければならない。

    プランタン設立の同じ年「精養軒」資本の3階建ての巨大なカフェ・ライオンが誕生した。

    ここはビールが中心で和服に白いエプロン、幅広い紐を背中でリボンのように結んだ若い美人の女給

    を集め評判を呼んだ。ライオンは1階がバーとサロン、2階が食堂と余興室、3階が小部屋から成っ

    ていた。ライオンでは食堂が家族連れで賑わい、看板はビフテキだっだ。

    初田亨著『カフェーと喫茶店』では「洋酒はカフェにとって切りはなすことのできない存在であっ

    たものの、日本では洋食とともにカフェーが育っていったともいえる」と洋食の重要性が強調されて

    いる。

    本格的にカフェが大衆化したのは、タイガー・サロン春・ユニオン・美人座などの大規模なカフェ

    が続々と誕生した震災後のことであった。大阪資本の大規模カフェは、大阪弁の使用、マンツーマン

    の接待、金ボタンのボーイ、豪華な内装、各部屋異なる意匠などのサービスでセンセーションを巻き

    起こした。建物全体をネオンサインで飾ったカフェも現れた。従来の東京のカフェに見られたインテ

    リの雰囲気は薄れ、大衆的で気取らない雰囲気が喜ばれた。一方では小規模のカフェが銀座や浅草の

    裏通りや、新宿渋谷をはじめ東京全体へと広がっていった。この頃になると、洋食を提供する店は少

    なくなり、もっぱらアルコールのみを提供するカフェが増えた。喫茶店の中には、特殊喫茶と称し、

    昼は喫茶店、夜はウェイトレスが客を接待しアルコールを出すカフェと喫茶店の融合した店も出現し

    た。女性と気軽に話せ、あまり高くなく、芸者と違って時事問題の話題にもついていける女給のいる

    カフェは当時の大衆にとってはたいへん魅力のある社交場だった。

    前述の『カフェーと喫茶店』によって、カフェと喫茶店の歴史を整理してみる。明治期にはカフェー

    と喫茶店を区別する必要性がなかったが、カフェもその範疇に含まれる喫茶店は震災後激増し、1929

    年(昭和4年)には、「 カフェ> バー>等取締要項」が出され、営業時間を12時までとする他、風紀

    を乱した場合行政処分をするとの通達が出ている。その理由は次のようなものである。

    「最近驚クヘキ勢ヲ以テ増加シツツアル カフェ> バー>ノ如キソノ顧客ノ多クハ賞味ニ口腹ノ

    満足ヲ得ムトスルヨリハ寧ロ嬌艶ナル婦女ノ媚ヲ購ハムトスルノ傾向次第ニ募リ種々ノ階級ヲ通

    シテ之ニ出入リスル者其ノ数ヲ知ラズ、斯クシテ今ヤ将ニ カフェ> バー>の全盛時代ヲ告グル

    ニ至レリ」

    ここでは取締の上ではカフェとバーが一体であることがわかる。

    1933年(昭和8年)には「特殊飲食店取締規則」が定められ、洋風の設備(椅子・テーブル)を持っ

    て、女給が接待する店は「特殊飲食店」とされ、「一般飲食店」と区別されている。喫茶店はそのどち

    らにもはいるということからすると、カフェは「特殊飲食店」、喫茶店は「一般飲食店」とされている

    ことがわかる。この昭和8年には、特殊飲食店の喫茶店であるカフェが普通飲食店の喫茶店の約2倍

    118 荒 木 詳 二

  • あったが、その後カフェは減り続け、喫茶店は増え続けた。昭和6年の喫茶店とカフェを調査した「東

    京市商工名鑑」では、喫茶店は現在の甘味店と喫茶店が合わさったような店が多く、食事は半分くら

    いの店で提供しているが、アルコールは提供してないということがわかる。カフェにはアルコールと

    洋食のどちらか、または両方提供している店が多いことがわかる。昭和初期には喫茶店とカフェは分

    離して、女給がいてアルコールと食事を提供していた店がカフェ、女性のサービスもアルコールもな

    く、コーヒーや牛乳や汁粉や食事を提供していたのが喫茶店と棲み分けがされていることがわかる。

    日本の都市においては、当初「珈琲茶館」やカフェ・プランタンに導入されたコーヒーと食事と酒

    を提供するヨーロッパ型カフェが、次第に分離して、コーヒーと食事を出す喫茶店と食事と酒と女性

    サービスを提供するカフェになっていった。その両者とも日本の都市生活者には欠かせないものと

    なっていった。初田の次の記述は十分に説得的である。

    「都市のたまり場として喫茶店が主役になっていった時、カフェーと喫茶店とは、異なる性格を

    もたされ、それぞれ別な方向に歩み始め、その違いを明確にしてきたのである。カフェーと喫茶

    店は内容の異なる施設としてそれぞれ定着していった。しかし、その内容は異なるものの、とも

    に近代の都市生活に欠くことのできない存在として、大きく成長していったのである」

    ところでフランス文化に憧れ、既にパリやリヨンでカフェを経験していた永井荷風は、震災後のカ

    フェについて、『問はずがたり』のなかで次のように描写している。

    「東京の市街は震災の為に全滅したやうに噂されてゐたのだが、帰って來て見ると、被害の後は

    殆認められないばかり、迅速に復興しやうとしてゐ最中であった。銀座通りを初めいづこの町々

    にも女の大勢居る一種不可思議なカフヱーなるもの(仏蘭西人ならBrasserie de femmeとでも

    言ふのだろう)が出來てゐて、街上には無暗矢たらに燈火が輝き、ラヂオとレコードの奏楽が終

    日耳を聾するばかり」

    Brasserieは庶民的なビヤ・レストラン。荷風の留学当時は女性のサービスもあったのだろうか。荷

    風の『断腸亭日乗』にもしばしば「一種不可思議なカフェ」に関する記述が登場する。大正15年12月

    20日の日記には売春へ走るカフェの女給の描写がある。荷風は軽蔑的な意味を込めたのだろうか、カ

    フェの女給を酒肆の婢としている。

    「、、、各自好む所の婢を自働車に載せて去る。これこの酒肆の婢に戯れ巫山一夜の夢を買はむと

    する者の好んでするなす所なり。そもそも現今市中に流行する酒肆なるものの状況を見るに、巴

    里のカッフヱーに似てその実は決して然らざる処、あたかもわが社会百般の事西洋文明を模倣せ

    んとして到底よくすることあたわざるものと相似たり。酒肆の婢は日々通勤すれども、給料は受

    けず、客の纏頭にて衣食の道を立つ」

    荷風は冷静な目で、底の浅い日本の西洋化を批判し、女給の非人間的な境遇の原因を暴く。好んで

    カフェ通いした荷風なればこその表現であろう。荷風が名作『つゆのあとさき』を脱稿したのは昭和

    6年であるが、それに先立って昭和2年の「日乗」にはカフェ・タイガーとカフェ・黒猫が登場する。

    両カフェとも女給の濃厚な接待で有名であった。文中では太牙楼とあるカフェ・タイガーは正月から

    119カフェ変容史

  • 賑わいを見せていた。昭和2年1月1日の日記には「風なく寒氣烈しからざるを幸い銀座に往き太牙

    楼に登り見るに 客雑踏空席殆無し、、、」とある。同年5月24日荷風は開店したばかりのカフェ・黒猫

    を訪れている。「銀座一丁目東側に黒猫といふカフヱー本日開店す。巴里のChat-noirと云ふ酒肆の名

    を取りたるものなるべし、、、」

    日本の近代化に絶望し、俗を捨て、愛にも不信感を抱く荷風は、しかし流行のカフェや喫茶店を訪

    れては、女給との交友を楽しむ近代的日本人であった。銀座の新しい風俗、新しい女に対する荷風の

    興味は尽きない。『つゆのあとさき』でも荷風は、銀座の女給君江の男性遍歴をとおして、時代と新し

    い女の現実の姿を描こうとした。しかし女性を男性の性的な玩具以上のものとして見ることのできな

    い古風な、分裂した近代人荷風にとって、性的な快楽を知り、男性の運命を狂わせながら、そして男

    を利用しながらも、男に寄りかからない新しい女性は嫌悪の対象であり、また同時に時代の子として

    刺激的存在でもあった。

    君江を取り巻く男性の一人、初老で独身の法学博士松崎の述懐は、前述の『問はずがたり』と重な

    る外から見た時代批判であると同時に、「新しい女」にみる時代批判でもある。

    「西洋文明を模倣した都市の光景もここに至れば驚異の極、何となく一種の悲哀を催さしめる。

    この悲哀は街衢のさまよりもむしろここに生活する女給の境遇について、更に一層痛切に感じら

    れる。君江のような、生まれながらにして女子の羞恥と貞操の観念を欠いている女は、女給の中

    にはかれ一人のみでなく、まだたくさんあるにちがいない。君江は同じ売笑婦でも従来の芸娼妓

    とは全く性質を異にしたもので、西洋の都会に蔓延している私娼と同型のものである。ああいう

    女が東京の市街に現れて來たのも、これは要するに時代の空気からだと思えば時勢の変遷ほど驚

    くべきものはない」

    『つゆのあとさき』と同じく震災後の大衆文化台頭の時代風俗を描いた小説に、1924年(大正14年)

    から1925年(大正15年)にかけて発表された谷崎潤一郎の『痴人の愛』がある。欧州留学体験のある

    荷風が日本の西洋化に対してその精神性の欠如を嘆いているのに対し、潤一郎の西洋理解は表面的か

    つ物質的なところにその特徴がある。横浜山の手の外人街に住み、洋風の家屋に住み、西洋料理のコッ

    クをおいて、洋風な生活に心酔していた谷崎にとっては、西洋とは「整然たる街衢や清潔なペーブメ

    ントや美しい並木」以上のものではなかった。『痴人の愛』の冒頭では、現在では「あまり世間に類例

    がないだろう」が「追い追い諸方に生じるだろう」夫婦について、「有りのままの事実を書いて見よう

    と思います」とあり、最新の風俗を代表する記号として、カフェと給仕女(女給)が登場する。「私が

    はじめて現在の私の妻に会ったのは、ちょうど足かけ八年前のことになります。、、とにかくその時分、

    彼女は浅草雷門の近くにあるカフエヱ・ダイヤモンドと云う店の、給仕女をしていたのです」この小

    説は大衆消費社会の記号が過剰に溢れている。電気会社の技師と、西洋人の容貌をした幼妻ナオミの

    住居は流行の文化住宅、カフェのほか、デパート、ダンス、活動写真、海水浴といった当時の風俗が

    次々と描写される。これらの風俗はしかし現代の読者にとってはセピア色の写真以上のものではない。

    中村光夫が『谷崎潤一郎論』で描いているように、新しい恋愛、性欲の解放こそこの小説の主題で

    120 荒 木 詳 二

  • ある。「しかしこの古びた風俗小説に、その描写の所々に著しい酸化をさえきにしなければなお読むに

    堪える魅力をあたえているのは、作者がここで西洋からうけた唯一の実質的な影響、すなわち恋愛ま

    たは性慾の解放を、極限の世界で実験しているためです」谷崎は、西洋に対する幻想と新しい女に関

    する幻想を、ヨーロッパ世紀末に好まれた「ファム・ファタール 運命の女」であるナオミ像に結晶

    させた。

    荷風は道徳観や貞操観のない私娼型の女をカフェの女給像としたのに対し、潤一郎はカフェの女給

    に代表される新しい女に道徳を越えた男の幻想としての「ファム・ファタール」を見た。荷風の『つ

    ゆのあとさき』には、ゾラの『居酒屋』に代表される自然主義の影響を、潤一郎の『痴人の愛』には、

    ワイルドの『サロメ』やフロベールの『サランボー』やヴェーデキントの『ルル二部作』に代表され

    る世紀末芸術の影響を見るのはそれほど難しいことではないであろう。

    『つゆのあとさき』や『痴人の愛』以外でカフェの女給を描いた小説で、ベストセラーになったも

    のに、広津和郎の『女給』がある。この小説は1930年(昭和5年)8月から1932年(昭和7年)2月

    まで雑誌『婦人公論』に連載された小説である。小説は女給小夜子と女給君代の二部構成である。モ

    デル問題で菊池寛との訴訟も引き起こしたこの小説は、広津の豊富なカフェ体験に基づくストーカー

    や認知問題などリアルな描写が魅力であろう。広津は菊池寛の批判に答えて次のように小説の主題を

    説明している。

    「結局この 女給>は、君を書くのが主でも何でもない。この主人公の過去の苦しみを書くのが

    主である。一見ヴァンプ型にしか見えないこの女主人公の口から語られた過去の彼女の苦しみが、

    僕を感動させたのだ」

    女給小夜子の主題は前半が、北海道に暮らすヒロインが妊娠して、上京し、内職しながら出産、生

    活苦からのカフェ勤め、帰郷という女給小夜子の苦難の人生描写である。

    「ねえ、もう泣くのは止して頂戴。坊やが泣くと阿母さんは身を切られるようだよ。ねえ、もう

    黙って頂戴。ああ、ほんとうに阿母さんは辛くって、辛くってたまらない。ねえ、阿母さんは坊

    やが可愛いだけで生きているのよ。切ない、切ない思いをしてね、、、」

    少々紋切り型だが、リアルでウェットでわかりやすい描写が人気の秘密であったのだろう。第一部

    後半はカフェの客相良の求婚問題が描かれる。妻子を捨ててストーカーとなって女給小夜子を追廻し、

    終に自殺未遂を引き起こす相良の行動から、カフェを巡っての狂った情熱が描かれる。女給小夜子は

    男に翻弄されながら生きていく人生をこう語る。

    「ほんとうに男が作っているこの世の中では、女は男に気に入られるよりほかに生きて行く道は

    ないんですわ」

    「新しい女」と珍しがられたり、「毒婦」と軽蔑されながら生きて行く女給たちの、本音はこうとこ

    ろにあったのではなかろうか。第二部女給君代は、女好きの花形ラガーに本当の恋をしてしまい、妊

    娠し出産したヒロイン君代の愛と「カフェエの女の貞操なんて信じられない」と逃げまくる調子のい

    いラガーマンの話である。女給君代の純情と歓喜、嫉妬と怒りとあきらめが描かれ、恋愛小説として

    121カフェ変容史

  • 読める。広津は荷風や潤一郎や当時の多くの男性と違って、女給に対する暖かい目を持って、偏見な

    しに女給の世界を描いているといえるだろう。

    軽快なタッチで、大都会の夜を描いたのは新興芸術派の代表格龍膽寺雄である。龍膽寺は1930年(昭

    和5年)発行の『モダンTOKYO円舞曲』に収められた『 路スナップ 夜中から朝まで』で、東京

    の夜の繁華街を描いている。1929年(昭和4年)に「 カフェ> バー>等取締要項」が出された後の

    銀座のカフェの状況はどうなっているのだろうか。

    「裏ギンザのカフェ街。丸山警視総監の新取締令が徹底して、カフェ街の表戸は時刻と共にいか

    めしく閉ざされるんですが、スクリーンの𨻶には仄々と灯影が覗き、御常連のおなじみ客をとり

    まいた女給さんたちの艶めいた私語が、忍びやかに表へ洩れるんです。試みに扉の𨻶に耳を押し

    付けて、中の気配を覗ってみたまえ。女給さんたちの忍び笑いがムズ痒く背筋を匐い廻るから。、、、

    扉を開けると、色電燈の仄暗い衝立ての影に、頰紅の鮮やかな女給さんたちと膝組み合わして、

    卓子を囲んだモダン派作家の一群、いずれも名だたる、町の猟奇者の面々です」

    風紀の乱れを糾すべく、バーと一体化したカフェを取り締まる条例もあまり効果はなかったらしい。

    龍膽寺雄は昭和初期のネオン輝く銀座の快楽を、カフェに集まるカフェの女給とモダン作家の姿をと

    おして活写している。

    同年に、東京帝国大学在学中の太宰治はカフェ・ホリウッドの女給と心中未遂事件を起こしている。

    カフェ・ホリウッドで痛飲して三日後、太宰は人妻だった女給と鎌倉の海へ入水自殺を企てたが、そ

    の時の事件を『虚構の春』や『人間失格』に描いている。『人間失格』では、「銀座の或る大カフェの

    女給から思いがけぬ恩を受けた」主人公は、その女給ツネ子と再会し、痛飲した後、心中が話題とな

    る。「それから、女も休んで夜明けがた、女の口から 死>という言葉がはじめて出て、女も人間とし

    ての営みに疲れ切っていたようでした。また自分も、世の中への恐怖、わずらわしさ、金、れいの運

    動、女、学業、考えると、とてもこの上こらえて生きていけそうもなくその人の提案に気軽に同意し

    ました」この作品で太宰は作者と同じように人生に疲れきった女給像を造型している。

    川端康成の初恋の人もカフェの女給であった。カフェの名前はエラン、女給の名前は伊藤初代で「ち

    よ」と呼ばれた。カフェ・エランは佐藤春夫や谷崎潤一郎や帝大生などのインテリの溜まり場だった。

    このカフェは酒も出したが、珈琲と菓子が中心の、震災後のカフェとは違う文学カフェであった。1921

    年(大正10年)東京帝国大学学生の川端は初代にプロポーズした。その時川端は23才、初代は16才で

    あった。二人は結婚の約束をし、川端は幸福の絶頂にあったが、結婚直前の初代からの一方的な手紙

    で、破談となった。川端は『篝火』で、自らの破れた恋を作品に結晶させた。『篝火』の舞台は鵜飼の

    町岐阜である。主人公の朝倉は岐阜へ求婚の旅に来ている。朝倉は久しぶりに再会した婚約者のみち

    子と散歩の途中、彼女を、距離をとった、冷静な目で観察してしまう。「體臭の微塵もないような娘だ

    と感じた。病氣のように蒼い。快活が底に沈んで、自分の奥の孤独をしじゆう見つめてゐるやうだ」

    主人公は自分と同じ孤独をみち子に認める。孤独こそ近代人を結ぶ絆でもある。そして恋心について

    ほろ苦い認識に達する。「全く、まだ形も見えないこの十六の小娘をどうするのだ。ここに命一つとし

    122 荒 木 詳 二

  • て生きてゐるみち子とは同じ血が通ってゐない人形のみち子を、私は空想の世界で踊らせてゐたので

    はないか。これが戀心といふのか」 川端は、最後の場面に、この上なく美しいみち子を登場させて、

    美しく『篝火』を締めくくっている。「そして、私は篝火をあかあかと抱いている。焔の映ったみち子

    の顔をちらちらと見ている。こんなに美しい顔はみち子の一生に二度とあるまい」川端は女給初代を

    美神に昇華させて、悲しい恋に決着をつけた。

    カフェや女給を内側から描いた女性作家の作品には、林芙美子の『放浪記』、佐多稲子『レストラン

    洛陽』、平林たい子『砂漠の花』、宇野千代『脂粉の顔』などがある。いずれの作家も地方出身者で、

    カフェの女給も体験し、また貧困を経験しながら、奔放な男性遍歴を持つ。この中では『放浪記』や

    『砂漠の花』は作者の自伝的要素が強い作品である。文学作品としては佐多の自選短編集にも収録さ

    れてある『レストラン洛陽』が一番まとまりがあるように思われる。

    1929年(昭和4年)に発表された『レストラン洛陽』では、震災後のカフェの様子がよくわかる。

    当時安普請のカフェが急激に増加し、また入れ替わりも激しかった。「浅草六区の近く、、、セメント造

    りの真四角な、可成り大きな建物、それがレストラン洛陽であった。、、、それは一定の場所をセメント

    で囲ったというに過ぎないバラックの建物である。、、、レストラン洛陽は震災後に出来た店なのだ。復

    興の東京にいち早くどんどん増えていったカフェの一つである」小説ではカフェの衰退とともに女給

    たちの運命も下降線を辿る。「震災後に張ったカフェーが、この頃次々に閉業していった。二三日前も

    カフェー梅月が店を閉めて、扉や二階の窓ガラスに貸店の貼り紙が出されたのであった」洛陽は大半

    の大カフェと同じく一階がレストラン、二階が特別室と呼ばれる個室である。その中で働く女給の生

    活は一見華やかなようでも、実際は死とも隣り合った不安定この上ない生活である。この小説には男

    性作家には見られない、生活感や現実感がある。女給の家族の描写、お客の女給への軽蔑の視線、女

    給の夫たちの嫉妬、パトロンたちの横暴など女給の視線から見たカフェの描写がこの小説の特色をな

    している。ヒロインたちのうち、子持ちの女給お千枝は近衛の脱走兵と榛名山中で心中、人妻の女給

    お芳は脳梅毒で死亡、子持ちでパトロンのいる女給夏江の肺病の夫は自殺未遂後死亡という具合に女

    給たちの悲惨な生活が容赦なく描かれている。

    一方林芙美子の『放浪記』は1930年(昭和5年)改造社から出版された。林芙美子の放浪は1922年

    (大正11年)から1930年頃まで続くが、この時期はカフェの全盛期と重なっている。まさしく放浪時

    代、林芙美子は大都会東京の町を点々とし、職を変え、男性遍歴を重ねた。林は新宿や神田で生活の

    為カフェの女給として働いた。1925年(大正14年)の7月の日記に女給の生活の記述がある。

    「煮えくり返へるような階下の雑音の上に、おばけでも出て来さうに、シンと女給部屋は淋しい。

    ドクドク流れ落ちる涙と、ガスのようにシュウシュウ抜けて行く、悲しみの氾濫、何か正しい生

    活にありつきたい」

    と書く林には、「酒を飲み、酒に溺れる」女給生活は本来の正しい生活ではなかった。同年の八月の日

    記でも「外のカフヱーでもさがさうかな。まるでアヘンでもすってゐるやうに、ずるずると此仕事に

    溺れて行く事が悲しい。毎日雨が降る」と書く。また同年十月には「真実に何か書きたい。それは毎

    123カフェ変容史

  • 日毎晩思ひながら、考へながら、部屋に帰るんだが、一日中立ってゐるので疲れて、夢も見ず寝てし

    まふ。淋しいなあ。ほんとうにつまらないなあ」と、天職の作家生活を夢見ている。さらに同年十一

    月にも「生きる事が実際退屈になった。こんな処で働いてゐると、荒んで、荒んで、私は万引きでも

    したくなる。女馬賊にでもなりたくなり、インバイにでもなりたくなる」と書いている。同僚の女給

    の手紙を書いてやったり、一緒にどら焼きを食べたり、おしゃべりしたり、仕事を探しに一緒に横浜

    へいったり、『放浪記』には、貧しい同僚の女給との友情も感じられる。全体として見ると『放浪記』

    には、カフェの女給生活に対する繰り言の中から、底辺で生活しながらも、自立し、目標を忘れない

    昭和初期の新しい女の逞しさと明るさが立ち上ってくる。

    終わりに

    21世紀の今日の日本では新しいカフェ文化が定着しつつあるといわれるが、カフェを題材とした小

    説はあまりみかけない。2001年刊行の嶽本のばらの『カフェ小品集』がわずかに目を引く。この小説

    は、ステンドグラスのある喫茶店、赤い三角屋根の喫茶店、イタリアン・バロック式の趣味に溢れた

    喫茶店などが実名入りで登場する、ガイドブック兼短編集である。東郷青児や高畑華宵を壁に飾った

    歴史のある名曲喫茶で旧式の苦い珈琲を飲みながら主人公は恋を語り、また破れた恋を懐かしむと

    いったストーリーが繰り返される。題名にはカフェとあるが、実際は昔からの「喫茶店」だけが取り

    上げられている。村上春樹の小説には、カフェが重要な役割を果たしそうではあるが、わずかに2005

    年刊行の『東京奇譚集』のカフェが印象に残るくらいである。この小説では、音楽の流れていない、

    クッションが最高な椅子のあるカフェで、主人公が気持ちよくディケンズの『荒涼館』を読む場面が

    印象的である。しかしここでも喫茶店をカフェといいかえただけであろう。

    町田康は1999年発行の随筆集『つるつるの壺』で、パリのカフェと我国の喫茶店の違いについて次

    のように説明している。町田によれば、その差は外面的には、サービスの機敏さ、メニューの多彩さ、

    テーブルや椅子の配置、勘定の仕方などであるが、一番異なっているのはカフェの客の心の持ち方と

    いうことになる。「じゃあ翻ってカフェはどうかというと、、、人々の目的はそういった仕事の事柄にな

    く、あくまでも茶であり、飯であり酒であり、また無駄なお喋り、休息にあるのであった、店内は弛

    緩しきっており、カフェでノートパソコンを広げて仕事している阿呆など唯のひとりもいないのであ

    る」 カフェの客が「弛緩しきった午後」を過ごすようになった時、はじめて日本のカフェ文化はパ

    リ並みになるのであろう。

    パリのカフェ文化には17世紀後半から始まり今日に至る300年余りの伝統がある。パリと並ぶカフェ

    文化の花開いたウィーンもパリとほぼ同様の伝統をもつ。ロンドンでコーヒー・ハウスの文化が花開

    いたのは17世紀半ばから18世紀の半ばまでの約100年間であった。東京ではコーヒー茶館の開店が1888

    年であるから、日本のカフェ文化は120年の歴史がある。ただし洋酒と女給を特徴とする日本独自のカ

    フェ文化の最盛期は震災後から昭和10年頃までの10年余りであった。

    124 荒 木 詳 二

  • ロンドンのコーヒー・ハウスやパリのカフェは、清教徒革命やフランス革命に大きな影響を及ぼし

    た政治カフェの役割を果たしたのに対し、ウィーンや東京のカフェは一部の例外を除き政治家・革命

    家の拠点とはならなかった。民主主義の成熟度の違いであろう。ただしどこの大都市でもカフェは、

    作家や芸術家の集まる文学カフェの時代をもった。とくにパリのカフェは文学カフェとして長い間機

    能し、ウィーンの世紀末のカフェも芸術の温床であった。日本の明治期のカフェも、設立当初は芸術

    家や知識人の集まるパリ風のカフェを目指したが、震災後は女給を侍らせて、洋酒を飲むバーに変わっ

    ていった。現代ではヨーロッパの文学カフェは、観光名所として残存するが、作家たちが集まる場で

    はなくなった。セルフ・サービス式のアメリカ式コーヒー・ショップは世界のどの都市にも見られる

    が、「弛緩しきった午後」を過ごせる場所ではない。

    日本では、特に震災後、カフェがコーヒーと軽食を出す喫茶店と、洋食と洋酒を出し、女給のサー

    ビスがあるカフェに分かれたことは既に述べたが、酒と女性の密接な結びつきは水茶屋以来の日本の

    伝統といえるかもしれない。茶と菓子を提供した茶店がいつのまにか女性の接待付きの水茶屋に変化

    した過程を、カフェも辿った。しかし女給となった新しい女たちは、昔の芸者と異なり、新しい髪、

    新しいファッション、新しい考え方の女であった。

    この新しい女である女給は、多くの作家たちの創作意欲を刺激した。荷風や潤一郎が外国文化の大

    きな受けつつ、また文明批判を絡ませながら、女給を主人公にした名作を書いた。広津和郎はヒュー

    マニスティックな眼で、恋をしたり嫉妬したりする普通の人間としての女給の姿を描いた。新興芸術

    派は風俗の一コマとして女給を描き、川端や太宰は女給との恋の結末を作品化した。実際に女給とし

    て働いた女流作家たちは、内側から女給を描いた。林芙美子は自由恋愛を繰り返し作家志望を捨てな

    い女給の内面を自伝的に描き、佐多稲子は赤裸々に女給たちの生態を描いた。女給は流行歌にもよく

    歌われ、モダンの象徴であるとともに、また男社会に弄ばれる悲しい女の典型でもあった。女給をシ

    ンボルとする都市文化は昭和初期を過ぎると欧米文化を受け入れない国粋主義者の、さらにはマルク

    ス主義者の攻撃の対象となっていく。大正時代から昭和初期にかけて花開いたモダニズム、そしてモ

    ダニズムの一つである日本のカフェ文化も徒花にすぎなかった。

    昼はおしゃれなランチを食べ、午後は町行く人を眺めながら、ゆったりした時間を過ごし、夜はビー

    ルやワインを飲みながら友人たちと歓談するような、本来のパリ風カフェは21世紀の忙しい日本人に

    とってもやはり見果てぬ夢であろうか。

    ⎧|⎩

    原稿提出日 平成20年9月9日修正原稿提出日 平成20年11月19日

    ⎫|⎭

    参考文献

    安藤更生 『銀座細見』 中央公論社 1977年

    今西英造 『演歌に生きた男たち』 文一総合出版 1980年

    臼井隆一郎 『コーヒーが廻り 世界史が廻る』 中央公論社 1992年

    亀井 肇 『若者言葉事典』 NHK出版 2003年

    125カフェ変容史

  • 川端康成 『篝火』(『川端康成全集』第1巻所収) 新潮社 1988年

    川原忠彦 『シュテファン・ツヴァイク』 中央公論社 1998年

    川本三郎 『荷風と東京』 都市出版 1996年

    菊盛英夫 『文学カフェ』 1980年

    小林章夫 『ロンドンのコーヒー・ハウス』 PHP研究所 1994年

    小林章夫 『パブ 大英帝国の社交場』 講談社 1992年

    嶽本のばら 『カフェ小品�