Title 明代茶馬貿易の研究 (下) : 茶法を中心として Citation … · 明代茶...

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Title <論説>明代茶馬貿易の研究 (下) : 茶法を中心として Author(s) 谷, 光隆 Citation 史林 = THE SHIRIN or the JOURNAL OF HISTORY (1966), 49(6): 861-879 Issue Date 1966-11-01 URL https://doi.org/10.14989/shirin_49_861 Right Type Journal Article Textversion publisher Kyoto University

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Title <論説>明代茶馬貿易の研究 (下) : 茶法を中心として

Author(s) 谷, 光隆

Citation 史林 = THE SHIRIN or the JOURNAL OF HISTORY (1966),49(6): 861-879

Issue Date 1966-11-01

URL https://doi.org/10.14989/shirin_49_861

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Kyoto University

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明代茶

馬貿易の

一茶法を中心

研究

(下)

として一

明代茶粥貿易の研究(下) (釜)

 臼   次

一 四川・絶披州・雲南の紳余馬貿易

二 鋏西の茶}馬貿易

 1 茶器司の題廃

 2 金脾償符と巴茶の官連  以上前号

 3 招商買運と私茶の流通

3

招商時運と私茶の流通

 正統十四年以後、四川の丁寧府よりする巴茶の官運と、

映西の三茶馬司における金牌信符の制が、共に停止された

ことは上述の如くであるが、しからばこれより後の駿馬貿

易は、いかなる推移をたどったであろうか。この点につい

てまず注目せられるのは、七色類藁巻一二、国事類、西岡

三馬考の条に、

 自正統十四年。北夷弓陳。土達被掠。辺方多事。軍夫不充。止

 将漢中府歳辮之数丼巡獲私茶。不過四五万斤、以易馬。其干遠

 地。一切停止。

とあることで、これは恐らく楊一清の「為修復下馬暇制第

二疏」(皇明経世文編著=五、楊石弓奏疏)に、

 近年。巡茶御史。招番易馬。止愚漢中府歳辮課茶二万六千二百

 余斤。兼以巡獲私茶。数亦不多。毎歳約用。不過茶四五万斤。

 以動乱馬。多芸過数百匹。至千匹而止。

とあるによったものであろうが、何れにしても正統十四年

以後茶馬貿易を左右したものが、四川の巴茶でなく陳西の

漢茶であったことを示増している点において注藏せられる

のである。よって次には此の点について検討を加えること

としよう。漢中府の茶園に対する茶課の微収については、

すでに引用した如く実録の洪武四年十忌月庚寅の条にこれ

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が見え、その叢記については同じくすでに引用した万暦会

意の戸部、課程、茶課の条に、 「険路茶課。初。工万六干

八百六十二斤一十五両五銭。」と云っている。明初の茶馬

貿易に充当された茶は、その殆んどすべてが四川の巴茶で

あったせいか、旧記の荒茶に関する記載は意外に少ないが、

しかし洪武以来正統に至るまで、とにかく四川の巴茶とと

もに陳西の漢茶が、少量ながらも茶馬貿易の資となってい

         ①

たことは確かである。

 さて、官茶による陳西の茶馬貿易は、正統十四年以後し

ばらく行われた形跡がないが、憲宗実録巻三憲、成化二年

八月辛丑の条には、次の如き記事が現れている。

 兵部。以調革欠馬。奏上区画事宜。…}、陳西各辺。膜奏欠

 馬。訪得。西寧至難壁蟹族。多産馬母地。彼所欠者。茶与青裸。

 若与互市。則善馬一匹。不需用茶百斤・青裸十五石。幽趣計之。

                         む  む  む

 所費五六両。価値既軽。較之京師関領。又免路途痩損。今宜査

  む  ゆ     む

 む

 取陳器官茶、就彼互市、工臨不敷、又羅買置釈。銀宜行戸部、

 暫借折線銀五万両、発甘薦総兵等宮ハ照生時佑、買易野臥、数

雪止・:喜・護近多廃弛・書区画・誉准や

すなわち陳西における茶馬貿易が停止されると、間もなく

オルドス方面は蒙古族の活動舞台となって来たが、逆に中

国側においては各層において軍馬の数に不足を来たすよう

になっていた。そこでこれが補給の手段として、北京の太

僕寺より寄養馬(京営の騎雄馬とするために順天府下で領養し

ている馬)を微発することが行われたが、それは何として

も長途の輸送にともなう困難があったので、此の際しばら

く中断されていた陳西の茶馬貿易を再開しようとするので

ある。そこで互市の資として目論んでいるのは、陳西の官

茶と戸部の銀爾であるが、この陳西の黒茶というのは、先

年来夢中府の茶課が三茶馬司に運び込まれたまま、使用さ

                       ③

れることもなく堆積されていたもののことである。警固の

堆積についてはまた同実録巻四五、三年八月己亥の条に、

                         む  む

 戸部会官。議愈愈挾西器機都御史項忠所奏事宜。…一、金田・

 欝欝葎馳・瀞降蹄籍皇野轡施恥聾今。蜘蜘燕瀞。鋒存却ヤ

 む  む        む     む     む  り  む

 余万遍。歳久渇爆者過半。乞験其纏矯者。貿易銀布着類。不

 堪者。義民肥田。変易鋤貫。井藩学辮潜。折収銀両・緕絹賭物。

 倶送布政司収貯。以備日後葉買茶課之用。俣上番平定用茶之日。

 働旧記民輸辮本色。庶宮私之聞。両得其便。…奏入。詔従其

 議。

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明代茶馬貿易の研究(下) (谷)

とある。すなわち漢中墨歳弁の中線は、宣徳十年より成化

二年に至るまでに六十砂蟹斤を積んで泡質せるもの過半で

あったため、成化三年以後の茶課はこれを銀嶺・緕絹に折

回して布政司に収乏し、本色茶課の微熱は勝馬貿易の再開

                      ④

される時期をまってこれを行おうとするのである。宜徳十

年より成化二年に至るまでは三十二年間であるが、いま漢

中潮の漢訳の歳満額を二万六千八百斤とすれば、三十二年

間には八十五万七千六百斤となる。この間に六十絵万斤の

堆積が生じていたということは、漢中事の茶課が殆んど茶

馬貿易のために使用されなかったことを意味するものであ

る。このことは正統十四年以後、陳西の茶馬貿易が四川の

謹書によって行われなかったのみならず、漢中の茶課によ

っても行われなかったことのr証左であろう。

 しかるに万暦会典巻三七、欝部、課程、茶課の条には、

 (能化)五年。令陳醐布致司。隠金触感処茶立。自筆化六年為

 始。働収本色。其漂折収銀布。零細年収蟹茶斤。送愛山馬司収

 貯。以傭易馬。

とあり、劇論布政司は成化六年以後、漢中島の愈愈を本色

で徴収し、これを各茶馬司に送って易馬に備えることとし

ている“正統十四年以後中断されていた陳西の専心貿易が

再開されるようになったのは、恐らくこの時であろう。そ

のことは同宗実録巻七八、薫化六年夏四月甲寅の条に、

 巡撫甘粛右愈都御史徐廷無言七事。…一、西寧地方番夷葉茶。

                 む  む     む  む  む     む     む  ロ

 如中麟人民之於五穀。不可一計業者。本朝旧館速馬之例。後景

 む  む    む  む     む       む  む  む  ゆ             む  ロ     む  む  む  む  む    む  む

 停止。透又挙行。然民間絶無興販。而官府又無病辮隙人。手蔓

 ゆ  む           む     ゆ   

 茶馬司晃茶不満千万。皇儲所司。異国番茶州県山場。定命則例。

 聴民採取。倶二軍西寧官庫収貯。換易番馬。給軍制操。舞与苑

 馬穿。洋種華牧。其民間所望茶。除新嘗外。余皆許給文愚、於

 陳西腹裏貨売。有私越黄河及河・桃・眠辺境、通番易馬者。究

 問如律。…転入。下所司知之。

  ⑤

と見え、茶馬の例は暫らく停止されていたが、近ごろまた

挙行されるようになったと云っている点にも窺われるので

ある。しかし茶馬司には成化三年の無茶変売以後、新たに

茶課の収跨されたも分がなく、漢中府の茶産も当時はいま

だ必ずしも多くなかったので、茶馬貿易を推進するために

は、遠く山東・河南・湖広方面などからも茶斤を収買しな

        ⑥

ければならなかった。しかしかかる四囲の清勢下において、

春菊府の砂面はやがて異常な発展を遂げるに至るのである。

43 (863)

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万麿会典巻三七、戸部、課程、茶課の条に、

 正徳元年議准。勘処婦中所属金州・西郷・石泉・漢陰等処。旧

 額歳辮茶課二万六千八百余斤。薪収茶課二万四千一百六十四斤。

 倶照数歳辮。永為定例。

  ⑦

とあり、国初以来二万六干八百籐斤であった茶課の歳額が、

正徳以後は五万一干鯨斤と倍加しているのも、その一つの

    ⑧

証拠である。しかし漢共謀の茶山の歳額が五万斤になった

にせよ、かつて四川から数十万斤乃至百方斤の茶が陳酉の

一口司に運ばれたことを思えば、全く比較にもならぬ少額

である。そこで成下以後における三図の茶馬貿易について

は、官茶のほかに別に商茶のあったことを考慮に入れなけ

         ⑨

ればならないのである。すなわち従来は官府の強い統制下

において、表面上全く弓馬貿易に介入することのなかった

商人が、ここにおいて活動の舞台に登場するのである。

 さて、図幅に代って商茶が重要な意味をもつようになっ

たと云うことは、換言すれば運茶の方法が官運より商運に

転換したと云う程の意味である。而して漢中の茶がこれに

よって三嘆馬司に運ばれるようになったのは、明文の示す

限りでは弘治三年以後のことで、孝宗実録巻四〇、弘治三

年七月戊寅の条に、

 巡豊麗西監察御史李驚言。西寧等三際馬司。為跡茶以易繋馬而

 設。比年以玉釧。故無茶易粟。其為民則便書。無茶馬司所思漸

 少。今各辺馬耗。而諸郡歳稔。無事於易粟以賑。難癖概説・河

 西二茶馬司。各踊報茶四十万斤。挑州茶馬司二十四万斤。召商

 申納。毎引不過百斤。毎商口過三千斤。押収其十之四。余者聴

 財貨売。総之可得茶四十万斤。約易馬可得四千匹。数足即止。

 戸部議覆。従之。

とあるのが即ちこれである。成化年間には陳西地方にしば

しば飢饅が起ったので、その救済のために商人を招募して

    ⑩

納乾せしめ、商人にはその代償として茶馬司の茶を支給し

た。そこで茶馬司の積茶が少なくなると、今度は商人をし

て産茶地方において茶斤を町勢し、秘密丁河州二茶馬司に

各々四十万斤、桃州愛馬司に二十四万斤を運ばしめ、総計

一百四万斤の内より、官はその四割を納め(かくすれば官は

茶約四十万斤を得て馬四千匹に易え得る計算である)、商人には

六割を与えてその貨売を許すこととしたのである。これは

機かに金茶法の上における一大変域であり、欽定続文献通

言巻二二、征権考、学界の条の按文には、 「此れ聖運を変

44 (864>

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明代茶馬貿易の研究(下) (谷)

                 ⑪

じて商運となすなり。」と云っている。

 さてその後弘治年間には、挾西の磯饒を救済するためや

三辺の糧儲を充実するために、また商人を招募して糧料・

草東を指定の倉場に上納せしめ、その代償として事忌司の

茶を放出することが屡々あった。いま万暦会典巻蕊七、戸

部、課程、歯噛の凡開中の条に見えるところを列噛すると

   び

左の,如くである。

㈲(弘治)七年。以映当歳鰻。胴中茶二衡万斤。召商港機欠糧倉

 分。上納備賑。

働(弘治)八年令。免羅馬。血中茶四百万斤。以等辺儲。

⑥(弘治)十四年。以里林・環慶・野原糧餉欠乏。将桃・河・西

 寧発売転写。量開心、五百万斤。弼商上納価銀。類解辺倉。羅

 買塗料。

㈲は実録には同年十一月壬子の条に、

 以幾時西安等七飢歳緻。命戸部至言茶一百万斤。三園納糧。以

 備賑済。…

とあり、険西布政司内における轍魚の導爆を救済するため

に行われたもので、開中額は会典に二百万斤と云っている

ところが一百万斤となっている。倒は岡年八月甲戌の条に、

 …各茶馬司茶四百万斤。募人入粟。以実辺儲。…従巡撫都御史

 二進及戸部鮎掛楊奇言也。

とあり、各茶馬司の茶四百万斤を壷中して辺儲を充実した

のである。⑥は同年五月丁巳の条に、

 巡出鉱鞍都御史陳寿。上辺儲事宜つ戸部覆議。請開中陳西茶四

 百万斤、子延繧令商人上納糧料・草束。…従之。

とあり、同じく閏七月丁酉の条に、

 命於陳西。再開中挑・河・西漸茶五百万斤。以助各辺軍儲。従

 巡撫都御史周季麟等請也。

とある。すなわちこの年には三茶馬司の茶を五月と閏七月

の両度に朋畏し、その合一計額は九百万斤となったのであり、

またその目的は共に辺儲の充実にあったのである。この弘

治十四年の関中については世宗実録巻四五鼻、嘉靖三十六

年九月辛亥朔の条にも、

 先是。戸部議。陳西順法易罵。正忌理外。類有藤余。節年陳腐

 可惜。所以先年広為開納、以助軍餉賑済之用。如巡撫陳寿等開

 中四百万斤、布政竃元甫麗中五更万々。係弘治年署内郡筆荒而

 増感。…

と見えている。すなわちこの場合、卓越陳寿等の上言によ

・4S (865)

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って四百万斤が開中されたとある点は、画嚢実録の記事と

一致していて問題はないが、布政心元甫の上言によって五

百万斤が開中されたとある点は、孝宗実録に巡撫都御史周

季麟等の奏請によって五百万斤が開中されたという記事と

所詮同一の事実を指すものに違いない。また盈虚の充実の

ためと内郡の賑荒のためとの相違も、ここではさして意に

介する程のことはあるまい。かくして上記の三例に冤られ

る弘治中の開中においては、藩中府の単産が飛躍的に増大

していたという前提条件が考えられると共に、一方弘治八

年の令に「免易馬」とある如く、それは殆んど官茶として

官貿易のルートに乗ることなく、転輸より貨売にいたる一

切の過程が、終始商人の手によって支配されたという事情

を汲み取ることができるのである。古今治平略巻二七、歴

代馬政の条に、

 茶馬法久弛。自弘治十年至十五年。止易々五千四十三疋。禰辺

 馬不足。辺軍慮干買馬。

とあるのはその明証である。かくの如くにして商茶の籟囲

が殆んど無制限に拡大されると、それはもはや落馬司附近

の合法的な販売区域に止まらず、むしろ禁を犯して蕃境に

流通するに至り、ここに繋馬貿易の統制を棄す最大の問題

が発生するのである。禅宗実録巻一九四、弘治十五年十二

月庚子、監察御史王紹の奏番に、

 洪武:軍楽間。茶馬之法。三年一次。官運保継妻等処茶腰越寧

 等茶馬司易馬。後指例不行。魚取漢中等処民納盃及巡獲薫煙充

 用。歳遣行人二宮巡視。薫化初。紫野監察御史。当蒋易馬。歳

                          む   

 以医師。加之毒監寺紋。足回直球。近年以来。十不及一。炉縁

     む                          む   む   む   む   む   む     む   む   ゆ       む

 私茶薄縁不行、而身熱報中之弊、復有以啓之。請自今停開中之

 例。厳物販之禁。伽下民閲即納、井巡獲私茶。与番謡及時互市。

と云っているのは之で、近年野馬の数が激減したのは、私茶

の横行と霧中法の実施によるものであり、これを停止する

ことが茶馬貿易の衰勢を挽灯するために忽ち必要な措置で

あることを指摘している。ここにおいて只中法は弘治十五

               ⑫

年に一旦停止されたのであったが、漢中府より茶馬司への

商運を何時までも停止するわけには行かなかったので、こ

れが改革の方法として、明史巻八○、食貨志、州法の条には、

  (弘治…) 十六年。取回図御山入。以督発馬胤以都細仰中八議一浩…兼業儲之。

 一清復議開中言。劇薬買茶。密貿其三之一。毎歳茶五、六十万.

 斤。可得馬万匹。帝従所請。正徳元年。一漕又建議。商人不願

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明代凹凹貿易の研究(下) (魯)

 領憐者。以塁壁商令自売。遂事為例永行焉。

と見えている。これは督理仁政都御史楊{清の建議により、

正徳元年、 「招商悪運、官商対分」の方式が定まったこと

を述べたもので、肩馬貿易の趨向を知る上にはなはだ重要

な意味をもっているが、その説明があまりに簡単なるがた

め、本旨とするところが明瞭でない。そこで以下にはその

経緯を詳細に跡づけて見よう。

 楊一清は弘治十五年十二月、兵部尚書劉大憲の抜擢をう

けて南京太常寺卿より都察院左副都御史に判り陳西の州政

を督理するに至ったもので、苑馬二瀬苑の荒廃を回復し兼

ねて茶馬貿易の改革に当ったのであるが、それは彼が正徳

二年三月病を得て退任するまでの四箇年の事績にかかるこ

   ⑬

とである。さて右の問題にたいする彼の意見は、 「為修復

弓馬旧制第二疏」(皇明経世文編巻コ五、楊石涼奏疏)において

最も精しく知ることができるので、繁を厭わずこれを摘録

すれば左の如くである。

 即ちまず延安下紐徳州知州洪平の呈称と、険西紀察司倉

事唐希介の呈称を掲げ、漢中執の勢州ならびに酉郷・漢陰・

石泉三連の課茶は、.もと合計二万六千二百八十九斤十四両

九銭であったが、のち流民を招撫して里数が増添されたの

で、成化年間には増幅数分について合計一万九百六斤十一

両の増課となった。而して以後もなお引続き三世・慶陽・

西安等の府の人民が流入して、開墾日に繁く栽止口に盛ん

であるが、茶課は旧額によって新たに起課されることがな

いことを述べ、然る後、

 …看得。漢中府前項産茶州県。国初。人民戸口不多。茶園亦少。

 所以額課止於如此。説話年間以来。各省逃移人民。掌骨栽植。

 茶株数多。已経節次編入版籍。州県里分。倶各増齢。戸口臼繁。

 茶圏伽増。不知幾処。遠見課伽旧。致令各処軒頑官舎軍民、逓

 年在山、紋買私茶、通番交易寛利。以此番人三楽官爵。沮壊馬

 政。相感査理。按察言分巡関南道嘗。親仁未報。訪得。葡項州

 三所産茶斤。不仮三三。三田而出。荒山茂林。耕治燭灼之余。

 三従而三三焉。民三三利。一家茶園。有三五臼程贋不遍者。有

 否余戸所佃茶園。止掃=戸茶課。其甚少者。亦多灘余。較三農

 夫終歳三三而恐不謄、又三三以三宮者。難易不岡。故話中一三。

 歳課不及三万。而商版私講。盃百余万。以三三。是六二験也。…

 査得。洪武三十年。欽依禁茶榜文内一重。本地茶圏人家。除約

 量本家歳用外。其余尽数。官為紋買。若売与人者。茶園入官。

 欽此。照得。畑中府産茶遅出。逓年所一両斤齎数十万。官課・

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 歳用。不三十之一二。其余野馬量販私恩之資。若商販停革。私

 茶厳禁。在山茶斤。無従笛売。茶園人戸。仰慕術育。何翫資籍。

 彼見茶園無利。不復葺理。将来風病亦翻。夫在茶司則病於不足。

 既無二副番人之望。在茶園則早酢無用。又恐終失小民之業。若

 不従宜処置。飽託不便。…

と云っている。羅初、忌中府の茶園はその数も少なく、そ

の面積も広くなかったので、そこから微臣される茶課の断

言も従って多くはなかった。ところが成化以来開墾が進み、

栽培が盛んとなり、なかには天然自然に繁殖するものもあ

ったので、一家の茶園でも大きなものになると、これを巡覧

するのに数臼を要するものや、百絵戸が洋種しているもの

などがあった。かようなわけで、漢中里の産茶額は、弘治の

頃になると年閥百数十万斤にも及んでいたのであるが、茶

舗は旧額のままに据置かれていたので、これに茶戸の歳用

(自家の年聞消費鐙)を加えても産茶総額の一、二割にすぎず、

                         ⑭

その鹸の百鯨塁上は茶商によって自由に販売されていた。

そこに当面の閥題があるのであるが(洪武の時代から茶課お

よび歳用の外は、ことごとく官に野選することになっていた)、

しかしこれを改革するに当って、茶商の営業を停止すれば、

茶園には茶が滞積して茶戸の生活が脅かされ、茶馬司では

茶が欠乏して番人の希望に副うことができない。揚一清は

かくの如く成藻琴来漢中府の茶話が飛躍的に増加したこと、

及びそれにも拘わらず茶課の暇額によっていることが商茶

-私茶の通行する最大の原臨であることを指摘したが、さ

りとて旧例の如く茶を官に収住し、陳西の軍夫を動員して

茶罵司に運送すること(琵官運)は、現に営為を輸送する

ことだけでも困難な宿況であるから、これを実行すればそ

         ⑮

の労役にたえないとし、そこで官需両便の法として提唱し

たのが招商買運の方式である。それは弘治十八年より始め、

山西・険酉などの寓商を招き、産茶地方に赴いてみずから

資本を出して官茶五、六十万斤を瞑毒し(毎商の買うところ

は一万斤以下とす)、これを各茶馬司に運送せしめ、再誕司で

は到着せる塩茶の三分の~を西寧・河州二衛に発売し(毎処

七、八万斤ないし十万斤)、その価銀を官庫に収籍して商人に

支払おうとするものである (茶一千斤ごとに難事五十爾。そ

                      ⑯

の内訳は茶価二十五両、蒸晒・装箆・心乱の費二十五両)。而し

て茎茶の三分の一を発売して商価を償おうとするのは、国

             ⑰

庫の欠乏によるものであるが、この方式によれば、到着せ

48 (868)

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朋代茶馬貿易の研究(下) (谷)

る茶のうちで蹉分の二が官貿易に充当ざれることになる。

しかしそれは正徳元年にいたって修正され、到着せる茶の

半分はこれを商人に与えてその自益を許し、宮は他の半分

を得てこれを馬に易えることとなったのである。

 さて楊一清の改革の成果は、武宗実録巻二五、正徳工年

夏四月丁酉の条に、彼の選言として次の如く見える。

 …及照日寧・挑・河三衛調馬。旧規廃弛年久。官茶無積。私販

 盛行。西番畜牧。思為私達所得。辺踏越馬。乃累行伍陪償。臣

 厳禁私販。猛毒嘗茶。申明旧制。絶色遠近番人。共易児・騙・

 野馬一万九千七十七匹。計今三層馬司処置見蓄茶四十五万余斤。

 足充二年易馬之用。■是於三辺歳給戦馬。不為無補。至於招番一

 事。難未嘗明復金牌獣類。而実坐収茶馬之利。…

すなわち改華前野販の盛行していた当時には、西番の馬が

ことごとく商人の手に帰していたので、彼は茶馬貿易の正

常化換言すれば漢中府の茶を官貿易のルートに乗せて、政

府の手に馬を獲得せんとしたのであるが、これによって在

任四年間に児・騙・騨馬一万九千七十七匹に易えたと云う

から、平均すれば一年に四千七百六十九匹の馬を買ったこ

と仁なるのである。

 次に宮商対分の法が始まって以来の茶馬貿易の趨勢は如

何であろうか。明史巻九二、兵志、馬政の条には、

 於正徳初。 (楊一清)請。亀戸茶御史。兼羅馬政。行太守・苑

 馬寺官。聴羽隠調。報可。御史餐唐。歳収茶七十八万盗塁。易

 鵬九千有馬。後法復弛。

とある。明史巻一八八、徐文博伝に附載の餐唐伝によれば、

彼は弘治十二年の進士で、山東寿光県の知県より召されて

御史となり、その後断江寧波府の知府を経て雲南樹明州の

知州に諸せられ、さらに陳西按察司の副使に遷って卒して

いる。この間彼が御史であった時代には、正徳四年に湖広

に出発したことも知られるので、前掲の明史意志の記載は

楊一溝の改革直後に墨る正徳前期のことと推定されるので

あるが、この時期には歳々に七十八万抵触を収めて馬九干

有奇に易えたとあるから、蓋し改革は一時多大の成果を収

めたものと云うことができよう。

 しかしすでに地墨の半額が商茶として陳西の辺境一帯に

零下されるようになった以上は、所詮茶馬貿易の上に良好

な結果が期待幽来そうにはない。すなわち商人が茶馬司に

運び込んで宮に納める茶は往往にして悪質のものであった

49 (869)

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が、競馬司の官吏はこれを十分に吟味することもなく収納

したので、いざ西番との間に取引を行うという段になると、

                   ⑱

新陳錯出して用をなさないことが多かった。一方良質の茶

は商人の手に在って出漁-実は私論1となり、七三の横行

は正規の官貿易を側面から圧迫することになったのであるゆ

世宗実録巻一三七、下堀十一年四月丁亥の条に、

           む  む     ゆ     む  ゆ  ゆ  む  む     む  む  む  む  む  む  む

 陳西巡按御史郭折雷。洒寧・挑・河三茶馬司。積茶至二十九万

 む  む  む  む  む  む  む  む    む  む  む  む    む  む  む  む  ゆ

 一千五百一十五箆。散塊私茶。亦十二万斤。徽・階二州・西安

 幅 

等衛。積貯尤多。宜令兵備・辺備等官、不拘年例之数、設法多

 易馬匹、以備征戦。事下兵部。議覆。延綴用兵。需馬為急。宜

 趣如御史雷行。報可。

                  ⑲

とあるのはかかる事態を反映したもので、西翠・挑・河三

茶馬司には三王工十九万 干五百一十五箆を生じたと云う

が・奮に含まれる環の茶を三婆とすれ晦・八‡万四

干五百四十五斤となる。ここにおいて問巻一六四、十三年

六月乙卯の条にはまた、

 戸部覆革西巡按御史劉希龍条奏茶馬四纂。…一、約忙中自蔵召

      関の雛2

 門易。善肖。往年間中焦茶。歳纏幌六十万二月。今一壇至百贈数十-万斤。官

 茶沮滞。番馬不来。規制漸壊。填塞為格。毎歳召回報中。限以

 八十万斤。除対半給商。其在官者。歳以瓢一十万骨董馬。余悉積

 貯。以備緩急。…議上。従之。

と見え、嘉靖十三年には毎歳の適中額を八十万斤と制限し

 ⑳

たが、この数は以後暫らくの間豊中の定額となったもので、

なおこのほかに課茶・私有を合せて通計九十万斤が示威弓

馬の正額となったのである。しかし三茶請司における商・

私・空茶の滞積はなおその後も引続き、これが整理を見た

              ⑳

のは嘉靖二十五年のことである。ついで万暦会典巻一五三、

兵部、笹熊、収買の条には、

  (嘉靖)三十年題准。改造勘合。分給諸番。毎歳三期。鷹執前

 来。比号納馬。酬以茶斤。如有背違。調軍征拗。又強弱。年例

 馬瀬。番有余馬。司有余茶。許其増申暴落。挑州増至一千二百

 五十照。河州増至一千七百四十匹。西寧増至二千照百三十匹。

とあり、嘉靖三十年には三茶馬司の易鉢額が増大している.

が、嘉靖三十六年以来は陳西辺鎮の軍餉を充実する必要か

ら、弘治中の例にならい定額外においてさらに…首書斤を

     ⑳

野中したので、この頃から再び商茶の過剰を来たし、,正規

の官貿易は圧迫を蒙るようになったのである。かくして万

県会血ハの同量同条にはまた、

50 (87e)

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明代茶馬貿易の研究(下) (谷)

  (嘉靖) 四⊥1 二年題准。 以後毎年開茶…。無謬五、 穴L↑万世。{間

 人以一再五十名為止。象限買直覧中。

  ⑮

とあり、嘉靖四十三年以後は毎歳の開中額を五、六十万斤

に減じている。

 なお茶馬貿易の資となる中国の茶は、もと陳西の漢中府、

四川の保影壁などの茶であったが、万暦の頃になると商人

は産額が多くて値段の安い細砂の茶に癬をつけ、これを買

込んで私茶のルートに乗せるようになった。そこで万暦二

十五年、戸部は実情に即した折衷的改革を行い、漢茶を主

とし湖茶をもってこれを佐けるという建前から、茶引を支

給するに嶺ってもまず漢引を支給し、輝輝が足らなければ

                    ⑳

湖引を支給するという態度をとったのである。しかし清朝、

姜図面の「酌選湖茶遡行辺茶疏」(道光楡林磨志巻四〇、芸文志)

に、

 む  む  む  む    む  り  り  む  む       む  ゆ       む    む     む  む     ゆ  り    む  む

 三法落馬。故明旧羽州茶・漢茶・湖茶。差茶自隆慶三年。題改

     

 折価。臣民有蜀省文移一遇。業経綾議行。彼中隔按。酌議開徴。

 む  む    む  む  む  む  り          む  む  む    む  り  む     む  む    む  む  む  む  む  む

 漢窯。自万暦十四年、題改折価。所有茶園茶課。晃在番徴冊報。

 む     む     む  む    り  む        む  む  む          む  む    む  む  む  む    む  む  む

 毎歳招商散引。前羅漢南及湖嚢。収茶転運。宮商糖分。以供招

 む  む    む  む  む  む  り       む  む  む    ゆ     む  む  む    む  む  む  む          む

 中耳。顧漢南州梁。産茶有限。且夢合複嶺。山程不便。商人大

 む    む  む  む  ゆ  む  む  む  ロ

 抵。浮漢江於落陽接買。…

とあるによれば、明言においては川茶・漢茶を差置いて、

最も流通していたのが湖茶であったことは疑いない。

 さて襲に、弘治以後商運が行われるようになってから、

商茶の進出が著るしくなったが、下端の進出はやがて私茶

の横行に繋がるものであることを云った。私茶とは云うま

でもなく密貿易に使用せられる茶のことである。元来、明

朝では国初から一貫して官吏・軍民がみだりに西番と貿易

を鴬むことを禁じており、太祖実録巻一〇六、洪武九年五

月己卯の条には早くも、

 禁秦蜀軍民。母線入西番互市。

と見える。しかし官府の統制が厳しければ厳しいだけ、密

貿易の利益は大きいので、禁令の効果は盗初から必ずしも

             ⑳

挙っているわけではなかった。そして私茶が出境すればす

るだけ、番入の官茶にたいする需要は減退するので、正規

の官貿易はこれによって側面から圧迫をうけ、等価の騰貴、

             ⑳

綿価の下落を来たすのである。されば鼠茶の出境を防止す

るためには、明朝政府においても関隙の巡禁を厳にするな

㊧ど、種々対策に腐心したのであるが、なかんずく最も重要

51 (871)

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なものは、洪武二十六年以来実施せられた金牌儒符の欄で

ある。但し金牌儒符の制は、金牌信符それ自身が重要なの

ではなく、むしろ之に先立つ眼軸こそ大切なのである。つ

まり官運においては、茶馬司に到着した茶の全額が正規の

官貿易の対象となるのである。しかるに金牌信符の制は、

前述の如く正統十四年に停止せられ、その後茶馬貿易は一

                    ⑳

時中止されていたが、成化六年に至って復活し、ことに弘

治三年以後は官運に代って商運が始まった。商運において

は茶馬司に到着した茶の半額は墨入の自売にまかされるの

である。私茶は国初以来常に存在するところであるが、商

運の開始とともに大量に番境に接近し得た商茶は、必ずや

私茶としても従来の規模を上園る影響を与えたことであろ

⑫う。揚~清の「為修復茶馬臓制以撫添番夷安里地方事」(皇

明経世文華巻一一五、楊石藻奏疏)には次の如く云っている。今、

各省の黒磯が多数西寧・河州・甲州方面に流長し、璽党を

なして深く番境に入り、西番との間に密貿易を行っている

が、ただ軍民のみならず将官・軍官も家人・伴当を遣わし

て同様のことを行っており、軍衛・有司のよく制御し得る

ところではない。思うに洪武・永楽年間には私茶の禁が厳

重で、これを犯す者は死に処したから、当時は私茶を販売

する者が少なく、間々あっても少額であったが、今は沿辺

の覚書に積年丘の如く、外境の今方に挙行蟻の如しと云う

有様である。これは禁今が軽きに失する(五百斤以上は充軍、

以下は徒刑)からであると。また梁材の「議騰馬事宜疏」

(皇明経世文意巻一〇六、梁端粛公理議)には次の如く云って

いる。茶司の周環地方は人罠の数が幾何もないが、商人の

茶はややもすれば数万斤に至るので、これを短期間にこと

ごとく売り捌くことはできない。しかし商人は家を馨るこ

と千里であり、長期間ここに滞在しているわけにも行かな

いので、 止むを得ずその茶を欝欝に除寄 (かけうり)し、

居民はこれを家ごとに積み戸ごとに蓄え、屋を塞ぎ棟に充

つ状態である。さればこの茶が番人に爆ぜざらんことを欲

してもそれは畠来ないことであり、かくして通番する老は

みな茶受地方の居民、その茶はみな商人抽選の茶で、交易

した馬匹は商人の往来を待って興販しているのが実情であ

ると。また世宗実録巻一一〇、嘉靖九年二月癸酉の条に、

 今。銀閣疏潤。好商私甫。彼皆取足賢竪。而不煩仰給干富。

とあり、神宗実録巻工八二、万暦二十三年二月土留の条に、

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明代茶馬貿易の研:究(下) (谷)

 妊商利湖南之賎。鍮境私販。番謡享私茶之利。無意納馬。而茶

 法馬政両謬論。

とあるものや、万暦四川総志巻二一、経署志、茶法の条に、

 近年以来。法弛人世。朝廷難磯之。禰権要私主之。致令商旅満

 関険、茶船循江河。毎茶百斤。私税白銀二銭。墨金五分。一年

 所加得。黄菅五六万両。

            ⑳

とあるものなども之である。

 以上の如く見て来ると、正統十四年盛は弘治三年を重要

な転機として、門馬三里馬司の茶畑貿易には、前後工つの

時期があったと考えてよいであろう。楊一清の「為修復茶

馬旧懐…以撫回番【夷安臥地方事」 (皇明経世文編巻=五、楊石涼奏

硫)に、

 頃自金牌制廃。私等盛行。翻訳撫諭巡察之官。卒莫之能禁。坐

 失認馬之利。垂六十年。鴛徒辺方欠馬騎征。将来遠夷。既不識

 給我茶。敢謂与中肋不相干渉。意外之憂。或従此生。

とあるのは、弘治十六年という時点に立って茶馬貿易の推

移を園臥した場合、正統十四年の金牌信符の停止以後が、

特に弛緩の時期と見倣されたのである。また皇朝馬政紀巻

一二、…陳西一二茶馬司馬の条に、

 祖宗旧倒有金牌。示諭番人。以茶器馬。成・弘前。遵此法行。

 馬称蕃息。正・嘉以後。此牌簸閣。台臣奉勅銘説辺。止愚筆兵

 道将領委宮。縛約数番。名日招易。祖宗騒制既更。禰且近年以

 来。往往求増額外之数。以致番夷過期蒲不評、二郎趣年不完。

 皆縁金牌廃難。

とあるのは、陽末という時点に立って圏秘した場合で、金

牌信符の停止された時期を正しく拙危していないが、野馬

貿易の推移を成・弘以前と正・嘉以後に分けて盛衰を説い

ている点が注目されるのである。而して「往往野外の数を

増さんことを求む」と云うのは、商人の開中耳について云

ったものと考えられるから、成・弘以前と正・嘉以後とに

分けるのも官運から商運への転換を目安としているものと

思われ、その場合弘治三年の創制よりも、正徳元年の定糊

を重視する立場を取ったものであろう。招商福運の制が茶

馬貿易の統制を適す根本要因となったと云う考えは、また

万暦陳西通志巻一〇、罵政、附録の条に、

 薄遇寧日。蕃人以茶蟻通。中国以茶易馬。非徒資戦用。且以制其

 死命也。国初コ立金牌軍制。名日差発馬。所以尊朝廷体統最善

 也。乃後蕃族臼有変易。金牌之制難拠婁。於是。有詩興招易之

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                    む  ゆ  む  む  む    ご

 規。掘易者即事市之総意也。此於体心已失認。顧趨正徳後。廃

       む  り    り  む  む     り       む    ゆ     ゆ  ゆ  む  む    む  む  む  む  む  む   

 給銀之令。行蝕分之法。於是。官商皆得易馬。而外憂尽易勲臣

 む  む    む  む     む    む  む  む  む  む  む  む       む  む  む     む  む       む  り  む

 茶爽。夫均分法。偶闘嘗幣一時無卦。暫為権宜之処耳。乃至今

 む  む  む     む   

 循二不二一瞥。

とある点にも窺われるのである。

 さて然らばこの茶馬貿易ことに招商買運の制と、民間華

牧制度との関係は如何であろうか。明代における民閥膏血

の捌度は、南北両直隷・山東・河南の民閾の馬戸に種馬を

領養せしめ、その本生の箪生駒が一定の年歯・身高に達し

た時、これを備用馬と称して京師の太僕寺に起解し、やが

て京営の騎操馬とすることにその本旨があった。しかるに

明代中期になると備畜馬の形質が低下して来たので、正徳

二年には従来の春駒に代って買子↑貰食買解)の方式が公

認されるようになったのである。この時事俵の対象となっ

た馬匹は、その尽くがいわゆる「西馬」であったわけでは

ないが、その中に西馬がかなり多く含まれていたことは疑

いない。今この点について考察するに、万暦景州志巻三、

兵馬の条には、

 夫牧馬所華。既不堪俵。売越歳俵之数。皆布子開封・真定諸処。

 購藤縄之下。破賀蕩産。朝夕飼養者。砦無用型物也。

とあり、景州は河間府内に在るが、起爆に際しては開封府・

真定府などの処において馬を市つたと云っている。このう

ち真定府は河間府の西境に隣接し、且つ北直隷において最

も養馬の額数が多い処であるが、開封府の方は河南に在っ

て景州よりの距離はかなり遠く、且つ養馬の虚数も甚だ少

ない。また開封府に限らず衛輝・彰徳・帰徳の三女も同様

で、これらはいずれも閥封府より更に少ない。かかる位置

にある開封府が市議の地として特筆されていることは餓程

注目に値することである。

 一体、北薩隷の地理は北京より附封に向って爾方やや西

に偏して延び、特にその南端部は山東・河南の色界に止ま

れつつ一条の懸路となって遂に黄河に達し、開封府をその

前面に望んでいる。これを逆に開封府の方から順次北に向

い府…名をもって呼べば、大名府・広平府・順延府・真定府・

河間府・保定府をへて順天府となるのである。禰してこの

六府の養馬州県数、営養種馬の額数、および毎歳の備用馬

額数を、万暦会典によって表示すれば次頁の如くである。

 一見して明瞭なように、種馬および備玄馬の欝欝は、大

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明代茶馬貿易の研究(下) (谷)

保河翼順広大 府

定闘定徳平名府府府府府府

三三三五    一 州

州州州   州一一 j    一 県

七六六九九〇県県県県自県 数

一                          一 種

七五七三霊○、    、    、    、    、    、 馬

九三六七七八四六三一七八 額

五〇五五〇〇匹匹匹三三匹 数

一一 ?三   二備

、    、    、              、

五七五七七一ェ○二四五七

九二七三四六 額

匹匹匹匹匹匹 数

名・真定の二三において最も多いが、州県の数から考える

と、中でも大名府の場合は他の諸府に比して倍額以上とな

るのである。禰してこの大名府こそは北直隷の南端に位置

して開封府に迫近しているのであり、このことは何等か特

別の意味を有っているように思われる。この疑問を解決す

るために極めて有力な示唆を与えてくれるものは、天下郡

国利病書巻五、北直、大名府志の条に見える左の記事であ

る。

 故菓。俵装薬随衆生。近鋼必市西馬。費毎数倍。 (田賦志)

 近年以来。辺方多蕩。馬非膿壮。不盛暑烙。往往市西馬以充額。

 費乃十倍。属不堪命夷。 (馬政志)

大名府志には右のごとく二個所にわたって俵馬に関する記

載があり、近年以来は「西馬しすなわち陳藤の唐馬貿易に

よって内地に将来された馬匹を濱買して額数に充てるよう

になったため、馬芦の負担が非常に重くなったことを云っ

ている。明刊の大名府志には、正統十年趙本纂修の十巻本、

正徳元年唐錦纂修の十巻本、嘉靖三十七年藩仲駿・趙益田

纂修の二十九巻本があり、播・趙本には万贋年間の諸縁が

ある。利回書に採録した記事がこのうちの溜・趙本に拠っ

たことは間違いないが、それが嘉靖の原本に拠ったものか、

万暦の畳畳に拠ったものかは遽かに断定しがたい。それは

暫らく措くとしても、大名府が備弓馬の起俵にあたり、陳

西の茶盆を市買したことは動かせぬ事実であるが、陳西の

茶馬が大名府に流入するためには、それはまず開封府に到

着したであろう。従って大名府が酉馬を市買したのは、や

はり開封府方面からであったことと思われるが、また大名

府が種馬・備用馬の額数において、他の諸府を遙かに上回

っているのも、要するに戦馬として最も優秀な素質をもつ

この西馬を、最も獲得し易かったと云う地理的条件による

ものではあるまいか。

 さきに景州志が開封において帯心すると云った馬匹も、

恐らくはこの西馬であったであろうが、またもう一つの市

55 (875)

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買の地と云っている真定については、嘉靖真定府志巻一六、

兵防、馬政の条に、

 及華生不如式。勢不得不出西馬。芳書費毎過倍。至有傾産生償

 官諜者。

とあり、遅くとも嘉靖の頃には真定府自身の起俵において、

西馬を市買することが盛んに行われていたのである。され

ば景州より真定に行って市買すると云う場合にも、何れは

この西馬か、或は西馬の血統を濃厚に引いた馬匹であった

であろう。すでに大名・真定・河間諸府において西馬を市

買したことが明らかとなった以土、広平・順徳・保定の諸

府においても事態はほぼ同様であったと考えなければなら

ぬ。実際、西馬は戦勢として最も期待せられていたところ

で、崇顧六年李煙毒の「条奏娼征事宜疏」にも、

 一、請西馬。京営馬匹。都係葭葺華牧華墨。恐転任衝突無用。

 応将西寧買到戦馬。濫発毎営五百匹。以一夕堅陥石之助。

と云っているが、騎西の茶馬は明代中期以後大抵三軽四鎮

に輸送されるようになっていたところ、明末崇醸のときに

は京師にも輸送されるようになったので、ここには三軍・

神橿・神機の三大営に各々五百匹の発給を要請しているの

              ル  ち  ヤ

である。その際京営の馬匹は、すべて民間華牧の駒に係る

もので、実戦の役に立たないように云っているが、無論そ

うした馬匹も多かったであろう中に、北直隷起解の備勝馬

などには、そのいわゆる西馬も混入していたことは、事実

として認めざるを得まい。従って「都且すべて」と云うの

は過当の言である。

 思うに県西の潜心貿易においては、直接政府の手によっ

て行われる官貿易のほかに、茶商ないし軍民・勢要によっ

て行われる私貿易があった。かかるルートによる統制外の

馬匹は、それが辺垂のほかかくの如く内郡へも流入し、語

用馬の起解に当ってはまた市買の魁象ともなっていたので

あろう。かく考えて来ると、明代における民間華牧の体制

は、国初その基礎が置かれる際、戸馬疑種馬の供給源とし

て過勤の茶馬貿易と密接な関係を有したばかりでなく、中

期以後においても、軍用馬の意解過程を通じて、またこれ

と密接な関聯を有したものと云わなければならない。

 ①気軽実録巻雲〇、宣徳五年九月丁幾の条には、漢中点に謄えるとこ

  ろの茶五万斤を挑州に運んで馬を市つたとの記享があり、また万暦ム鳳

  三二三七、戸部、諜程、茶課の凡関運の条には、正統八年の奏准とし

  て、金州の茶を西寧茶馬司に運んで馬に易えたとの記事がある。

56 (876>

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俗)明代茶馬貿易の研究(下)

② これは王復の区画事宜疏(皇明経世譜鯉濃九四、王荘簡奏疏)の文

 である。

③なお皇朝馬政紀巻一二、甘癒苑馬寺の条参照。

④万暦会典巻三七、戸部、課程、茶謀の条には「成化王年奏准。西寧・

 桃・河渠馬覇。綾多鹸茶。年久霜風。今後錘茶。毎百斤収銀五銭。芽

 茶三十五斤。思量収五銭。無銀。収締綱等項。単解本省有司収候。以

 補収買茶課支用。」とあり。

⑤徐廷章の上言は、塾明経世文編巻七〇、徐中図嚢疏の中に見えてい

 いる。

⑥憲宗実録巻八七、層化七年正月庚子。襟巻九一、七年五月戊寅。

⑦万暦隣西逓志巻八、茶法の条には「初。二万六千八百六十二斤一十

 五甲両五銭。弘治十八年。新藷二万四千 百山ハ十四斤。井劃一万一千二

 十↓ハ斤月一十・五衙H五銭。見ム議余資。五万一千ムニ}臼八十四二月一十・一二両四憲践Q

 係壷中府属西郷・石泉・漢書、及興安・紫陽五州県歳弁。分解各茶馬

 司。扁とあり。

⑧漢中府下五州県の課茶五万除斤を三軍馬司に運搬するには、西安・

 里中・臨挑・鷲昌・平涼・鳳翔六府より夫価(茶夫の脚価)を漢中府

 に類解して収貯し、前記五州県の大戸が茶を解って雪中膨に到ればそ・

 の価銀を受領して自ら騰興し、里中府より徽州をへて醗畠府に至り、

 これより三茶馬磯に運搬するのが例であった(新譜経世文編巻一〇六、

 梁材、梁端総勢奏議、議処茶運疏参照)。

⑨しかしそれに先立って=簿注意しておかなければならぬことは、成

 化以後における陵西の三聖貿易においても、弱川の総論が全く運ばれ

 なかったと云うわけではないのであって、憲宗実録巻二三六、成化十

 九年春置月壬寅の条によれば、漢中府単弁の茶課二万六千除斤は、当

 並進貫の番僧に対する給賜の茶額 (閥、五万斤)にも足らなかった

 ので、成化十九年以後は毎年、保鱗府の茶課十万斤を映西の里馬司に

 運び単給賜の欠額を攣った後{は易馬の資に充てるようにしたと云うの

 である。この.ことは万贋会典巻三七、戸部、課程、,茶課の条にも記載

 されているが、襲撃斤は勿論当時の茶断貿易を左右するような額では

 ないし、また弘治以後四川の茶課が多く折納される傾向にある(圏朝

 典彙巻九五、戸部、茶法、弘治三年十月号孝宗実録巻九九、弘治八年

 四月号酉の条参照)ことも、 一方に漢中の茶産の増大を暗示するもの

 である。

⑩明史黒八○、食貨志、茶法。

⑪万贋会典巻三七、戸部、課程、茶課の凡易馬の条には「弘治三年。

 以盗辺要事。令招悪報茶。西翠・河州各鴎十万斤。豊州二十万斤。運

 赴原援黒馬司。以茶衝斤。易上馬一匹。八十斤。易中馬一匹。」とあ

 り、同じく凡開中の条には「弘治三年。曲学露霜撫拝布政璃。出榜召

 商。報中掃引。赴巡茶御史処掛号。於産茶地方。収買茶摘。運赴原定

 茶馬司。以十分為率。六分聴其貨売。四分験収入官。」とある。

⑫万暦会典巻三七、戸部、課程、茶課の凡醐中の条に「(弘治)十五

 年令。今後不許腐商中茶。しとあり。

⑬ 孝宗実録巻~九四、弘治十五年十二月辛酉。武宗実録巻二四、正徳

 二年三月庚串。なお、この間彼は右都御史に陞肥している(武宗実録

 巻一五、正徳元』牛秋七月癸未の条参照)。

⑭楊一清の与内閣吏兵諸先生第幽霊(皇明経世文編巻=八、揚石湶

 文集)には門璽子四川東郷・利州諸処。誠今日私販之淵藪。其地密蓮

 社中。…」とあり、豊中府のみならず、これに隣接する照規の諸地域

 も当時嚢中の淵藪となっていたのである。

⑮ 楊一清の為修挙馬政事(皇明経倣文編…巻一一四、揚石心文集)には、

 険西地方の軍民は近年以来、虜変に廻しみ歳餓に賑しみ翠霞に困しみ

 修築に園しみ、駿西谷請所の行伍は空虚で徳操備禦にもなお人を欠く

 有様であると云っている。

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⑯ それは万暦会典巻三七、戸部、課程、単二の凡毒中の条に「(弘治)

 十七年令。裾亜当寺㎜購書五、 六十万斤。北原擬。給加蝋定限。柚聴甘バ白岡買窩

 運。歪各該茶司。取実収査験。伽委官於西寧・河彌二簸発売。価銀官

 庫収候給商。」と見えている。

⑰楊一清の為愚挙馬政事(皇明経上文編巻=四、揚石窟文集)には

 また「公私籔蜴。緕蔵豊虚。別難措騒。」とあり。

⑱殿御実録巻{四七、嘉靖十二年二月庚子。

⑲なお万暦会典巻一五三、兵部、白蜜、収買の嘉鱒十一年夏准を参照。

⑳明史食貨志訳註、茶法の註(一四六)参照。

⑳ 万読会薄青三七、戸部、 課程、茶課の凡閣中の条にも「(嘉靖)十

 猛密奏准。今後開茶之期。商人忌中。毎歳至八十万斤而止。鎌脚開中

 太澱、致鼠茶法。漏と見えている。

⑫ 世話実録巻軸五一、嘉靖三十六年九月辛亥朔。なお梁材の議茶馬事

 定疏(皇明経世文編巻一〇六、梁端粛公奏議)には「…霊夢今臼茶法

 欝之。毎年三空馬司。漢籍聴事納課茶。挑州一万一蒼九十鈴斤。河州

 一万八千三百七十絵斤。矯正二万五千六百餓斤。其各商茶。亦赴三茶

 馬司露分。又各数十万斤。窟茶貯庫。商茶就彼発売。当言蟻通州県衙

 門提流石茶。又滋強司踪庫。是商・私・課茶。砦聚於三辺茶馬司 。」

 とあり。

⑳ 世宗実録巻一八八、欝欝十五年六月乙未の条には「巡茶御史劉良鋼

 雷。…今計三飾鑓所貯。毎歳易馬之茶。挑・河可足三年。西寧可足二

 年。而商・私・課茶。又日揮増。積久腐欄。面無所用。…」とあり、

 万麿会典巻三七、戸部、課程、茶課の凡禁約の条には「(嘉立)十五

 年題准。今後陳西尊爵馬司積載。止留工年之用。毎年群馬。計該正茶

 外。分竃不許爽欝。」とあり。なお嘉靖二十五年の整理については、

 世宗実録巻三一七、藪下十一月脚韻および万暦会詩巻釜七、戸部、課

 程、茶課、凡折給…の条」参照。

⑳ 世一凧実録巻四…五一、嘉鰭嘱三十六錘ヰ九月辛亥朔。

⑳ なお世宗実録巻五三二、嘉靖四十三年三宅戊申の条参照。

⑳ 明史巻八○、食貨志、茶法。脚継実録巻二八二、万暦二十三年一 月

 丙午。岡巻三〇八、一 十五年三飛花辰。

⑳ 太祖実録巻一六八、洪武十七年十一月乙酉の条には、隣西都司が私

 茶を販売する者百四十人を捕獲した記事がある。

⑱ 太祖実録巻二五〇、洪武三十年二月丁酉の条に「魎因私幣繊境。馬

 墨入互市春少。予是。彼馬顔貴。中国之茶霞賎。面懸玩侮之心四生

 ム矢。」、英虚爪実録巻一八、正統一兀年六月辛丑の条に「客商庫漫雨勲一照文凋幽。

 惟販私茶。窟諜経五、七年不完。遂致官茶価低、買馬不便。」、応唱実

 録画一一〇、嘉~靖九扁ヰニ門月癸酉の条に「今趣剛強疏澗。好商私市。彼皆

 取足費竪。而不煩仰給予窟。」、神宗実録巻二八工、万腰二十霊年三月丙

 午の条に「番族享私茶之利。無意責馬。単二法馬政両弊秦。」とあり。

㊧ 太祖実録巻二五〇、豊前三十年二月二酉。

⑳ 但し金牌を齎らす内官でさえも私貨を爽帯して入幕する春があった

 し(宣宗実録巻九八、宣徳八年春正月癸亥)、茶を運んで番に入る桃

 蝿等の三衛の軍窟も往往にして私茶を爽溶したので(英宗実録巻一三

 三、正統十年九月己亥〔梁本壬申〕)、金牌豊漁の制においても聞茶の

 随伴が絶無ではなかった。

⑳尤もこの間においても私茶による密貿易は行われていたのであり、

 惣宗実録巻四五、成化三年八縁己亥の条にコ鰹部会嘗。議巡撫陳西右

 副都御史項忠樋里事宜。一、西寧・背景・河娼。倶有茶課司。市易番

 馬。以給甘粛・蟹夏・延緩三辺征戊之潮。旧制。毎歳再邊行人巡視。

 ゆ  む  む  む  む  ゆ  む       む  む  む  む  む  む  む    む  む     む   む  む   む  む  む  む  む  む

 今勢家及射利之徒。往往交通守備窟。私続書番。於是。茶馬之政遂壊。

 行人職卑欝軽。難以禁制。乞依巡塩事例。暫遣風力御史一員。往督其

 事。目茶馬既通之臼。切准瞬制濃鼠。…奏入。認従幕議。」とあるの

 は之である。

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⑳ 孝宗実録巻一五七、弘治十二年十二月乙抑、巡写録西御史王憲の奏

 器隠、問巻一九四、十五年・十二月庚子、監察御史王紹の奏言参照。なお、

 是よりざき宣徳のときに運茶支塩の例があった際にも同様の現象があ

 つた(英宗実録巻一八、正統元年六月辛丑の条参照)。また横材の議

 茶馬事宜疏(皇明経世文編巻一〇穴、梁端粛公奏議)にも「山隈西通

 番卒路有三。一日階蠣。一日臨挑。一発蘇州。黄河為限。関駐為険。

                         む     む  ゆ     ゆ  り  む  む  む  む

 三路厳守。蜀茶量能飛入番境哉。今商・私・課茶。智以文引渡河。歴

 饗宴至茶室夷。」とある。

⑳ 王廷桐の厳茶(皇明経世文編巻一四九、王氏家蔵文集)の文もこれ

 とほぼ同嫌である。

⑭ 拙稿門明代懸軍の一考察…北轡屋における備用器の趨解と馬嫡銀の

 折納…」 (東方学第二十一輯所収)参照。

⑳ 督戒疏紀巻五。

⑯ 万暦河戸府要心巻五、財賦士心、馬政の条に「(輿車二日)然所華之駒。

 類紫弱小。所在人戸解馬匹。如赴白州。一階中程。働蜂以去。」とあ

 り。

                       (茨木幾等学校赦諭)

萌代田馬貿易の研究(下)俗)

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