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50 シンポジウム 論 考 投稿原稿 会務報告 大会報告 Ⅰ.はじめに 人類何十万年かの歴史の中で,金属貨幣は何千年か, 国際通貨は 200 年ほどに過ぎない。そのマネーが,と いうより,マネーを生み出した社会が,いま人類・地 球に危機をもたらしている。 本稿では,国際金本位制からドル凋落までの歩みを, 高校生が納得できるように教える教案を描いてみたい。 そのためには,仕組みや推移の丁寧な説明と,統計 や新聞記事での裏づけを心がけ,過剰マネーが世界を 奔放に飛び回り,為替相場は安定せず,経済・金融政 策が管理不能に陥っている現状と背景も理解させたい。 Ⅱ.国際金本位制が成立するまで 国内取引や国際取引に,各地域の多様な金属貨幣が, 金銀の純度に応じ,そのときどきの金銀比価 1) ・相場 によって使われた。そのほかに政府紙幣,中央銀行券, 一般銀行の預金通貨も使われるようになった。 金本位制は,まず英国で,ナポレオン戦争が終わっ てしばらくした 1816 年,戦費増大による正貨流出の 恐れがなくなってから成立した。 ついで 1871 年,ドイツが,普仏戦争で得た賠償金 をもとに金本位制に踏み切り,ドイツと密接な貿易関 係にある北欧諸国が続いた。 米国では南北戦争中に停止されていた金兌換が, 1879 年に再開された。 日本はドイツと同じ 1871(明治 4)年に新貨条例に よって,形式は金本位制になった。日清戦争での賠償 金をもとに,ちゃんとした金本位制 2) になったのは 1897(明治 30)年 10 月である。 Ⅲ.国際通貨制度の推移 そして現在までの国際通貨制度の推移は,表 1 のと おりである。 3) まずは生徒に,表を概観させる。金本位制は,第 1 次世界大戦で中断された。再建されたが,世界大恐慌 を生み出した。景気回復のためには,金本位制を停止 して,管理通貨制度に移る必要があった。しかし各国 は,輸入を抑え,輸出を伸ばそうとして,為替切り下 げ,関税引き上げを競い,第 2 次世界大戦を招いた。 こうしたことを反省して,ブレトンウッズ体制がつ 国際通貨制度の歩みを 高校生に教える ─現在の世界金融危機に及ぶ─ e Journal of Economic Education No.32, September, 2013 Teaching High School Students the History of International Monetary System : Referring to the Present World Economic Crisis Minowa, Kyoshiro 箕輪 京四郎(元・横浜商業高等学校) 表 1 国際通貨制度の推移 網掛の行は固定相場制  斜字は日本 期  間 継続年数 制度の通称・変動幅・事件など 1880 ~ 1914 明 13 ~大 3 34 古典的金本位制 (±金現送費) 1897 ~ 1917 明 30 ~大 6 20 1914 ~ 1925 大3 ~ 14 11 14/7第 1 次世界大戦はじまる 1917 ~ 1930 大6 ~昭 5 13 23関東大震災 27金融恐慌 1925 ~ 1931 大 14 ~昭 6 6 再建金本位制 (±金現送費) 1930 ~ 1931 昭5 ~ 6 2 29/10大恐慌はじまる 1931 ~ 1945 昭6 ~ 20 14 39/9 第 2 次世界大戦はじまる 1945 ~ 1971 昭 20 ~ 46 26 ブレトンウッズ体制 (±1%) 1971 ~ 1971 昭 46 ~ 46 4 / 12 金ドル交換停止 変動相場制 1971 ~ 1973 昭 46 ~ 48 1 2 / 12 スミソニアン体制 (±2.25%) 1973 ~現在 昭 48 ~現在 40 変動相場制 The Japan Society for Economic Education NII-Electronic Library Service

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50 シンポジウム 論 考 投稿原稿会務報告

大会報告

Ⅰ.はじめに 人類何十万年かの歴史の中で,金属貨幣は何千年か,国際通貨は 200 年ほどに過ぎない。そのマネーが,というより,マネーを生み出した社会が,いま人類・地球に危機をもたらしている。 本稿では,国際金本位制からドル凋落までの歩みを,高校生が納得できるように教える教案を描いてみたい。 そのためには,仕組みや推移の丁寧な説明と,統計や新聞記事での裏づけを心がけ,過剰マネーが世界を奔放に飛び回り,為替相場は安定せず,経済・金融政策が管理不能に陥っている現状と背景も理解させたい。

Ⅱ.国際金本位制が成立するまで 国内取引や国際取引に,各地域の多様な金属貨幣が,金銀の純度に応じ,そのときどきの金銀比価 1)・相場によって使われた。そのほかに政府紙幣,中央銀行券,一般銀行の預金通貨も使われるようになった。 金本位制は,まず英国で,ナポレオン戦争が終わってしばらくした 1816 年,戦費増大による正貨流出の

恐れがなくなってから成立した。 ついで 1871 年,ドイツが,普仏戦争で得た賠償金をもとに金本位制に踏み切り,ドイツと密接な貿易関係にある北欧諸国が続いた。 米国では南北戦争中に停止されていた金兌換が,1879 年に再開された。 日本はドイツと同じ 1871(明治 4)年に新貨条例によって,形式は金本位制になった。日清戦争での賠償金をもとに,ちゃんとした金本位制 2)になったのは1897(明治 30)年 10 月である。

Ⅲ.国際通貨制度の推移 そして現在までの国際通貨制度の推移は,表 1 のとおりである。3)

 まずは生徒に,表を概観させる。金本位制は,第 1次世界大戦で中断された。再建されたが,世界大恐慌を生み出した。景気回復のためには,金本位制を停止して,管理通貨制度に移る必要があった。しかし各国は,輸入を抑え,輸出を伸ばそうとして,為替切り下げ,関税引き上げを競い,第 2 次世界大戦を招いた。 こうしたことを反省して,ブレトンウッズ体制がつ

国際通貨制度の歩みを高校生に教える─現在の世界金融危機に及ぶ─

The Journal ofEconomic Education

No.32, September, 2013

Teaching High School Students the History ofInternational Monetary System :

Referring to the Present World Economic Crisis

Minowa, Kyoshiro箕輪 京四郎(元・横浜商業高等学校)

表 1 国際通貨制度の推移 網掛の行は固定相場制  斜字は日本

期�  ��間 継続年数 制度の通称・変動幅・事件など

金本位制度

11880 ~ 1914 明 13 ~大 3 34

古典的金本位制 (±金現送費)1897 ~ 1917 明 30 ~大 6 20

21914 ~ 1925 大����3 ~ 14 11 14/7��第 1 次世界大戦はじまる1917 ~ 1930 大����6 ~昭 5 13 23�関東大震災 27�金融恐慌�

31925 ~ 1931 大 14 ~昭 6 6 再建金本位制 (±金現送費)1930 ~ 1931 昭����5 ~ 6 2 29/10��大恐慌はじまる

管理通貨制度

4 1931 ~ 1945 昭����6 ~ 20 14 39/9 第 2 次世界大戦はじまる5 1945 ~ 1971 昭 20 ~ 46 26 ブレトンウッズ体制 (± 1%)6 1971 ~ 1971 昭 46 ~ 46 4/12 金ドル交換停止 変動相場制7 1971 ~ 1973 昭 46 ~ 48 1�2/12 スミソニアン体制 (± 2.25%)8 1973 ~現在 昭 48 ~現在 40 変動相場制

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くられた。国内は,景気変動の緩和と完全雇用を目指す管理通貨制度,そして国際は,ドルに固定した為替相場で管理,というわけである。 ところが,ドルがばらまかれて信用を失い,変動相場制になり,再建された固定相場制も成功せず,再び変動相場制に戻って 40 年,今なお為替の競り合い

(関税も)やマネーの暴走などが続いている。 この表は,最後まで学んでから,もう一度,じっくり復習するとよい。

Ⅳ.兌換銀行券と当時の新聞記事 日本銀行兌換券と金貨(10 円か 20 円)を,パワーポイントで映すか,コピーして配る。 日銀券の「此券引換ニ金貨拾圓相

あい

渡わたし

可もうす

申べく

候そうろう

也なり

」という文言を読み上げ,裏面の,同じ趣旨の英文も読む。Nippon Ginko Promises to Pay the Bearer on De-mand Ten Yen in Gold. 動詞は,三人称単数現在だからsが付き,文末には終止符もある。Bearerは「持参人」,On demand は「要求あり次第」。全文は「日本銀行は要求あり次第,本券の持参人に,金で 10 円の支払いをすることを約束する」。 次いで,たとえば東京朝日新聞(1930/1/11 ㊏)の記事をパワーポイント(またはコピー配布)で示す。見出しは「東京驛へヅシリ 金貨四十箱 十一日よ来れとばかり 日本銀行へ納まる」。本文(抜粋)は下記のとおり。

 金解禁で生れた山吹き─極秘のうちに九日午後十一時二十分第三十二列車で大阪驛を積みだした處女金貨,五圓金貨で四十萬枚二百萬圓也は途中無事十日午後二時二十五分東京驛第三ホームに着いた つけた番人日銀大阪支店員二名と守衛君,夜中を通じて十四時間一睡もせずピストルを握りしめて金箱の上に座つてきたので身體が凍つてしまひさうであつたと…

 翌 12 日の夕刊には,前日のことが,「日銀へ押寄せた 金貨取換への群れ 賑かだが額は僅少」という見出しで次のように載っている(抜粋)。

 …日本銀行本店では…先ず金貨十八箱,二かますが運び込まれて十人の行員が緊張した面持ちでずらりと立つた 一方兌換者の方では…八時半兌換開始の時は約百人もの人が先を争ふ,まず番號札を受け

とつてそれに名前を書いて番號の呼ばれるのを待つて兌換するのだが いの一番は埼玉縣所澤町の醤油屋さんで深井保平君(三

四)朝の六時について待つてゐたのだ 「チャラチャラ」兌換所からは気持ちよい響きが聞えてくる…十一時半には二千人を越え…兌換する額は十圓,五圓稀に三十圓位のところが一番多く中には五百圓,千圓の人もあり…平均したら四十圓乃至五十圓といふ事にならう…日本銀行大阪支店でも早朝から大變な騒ぎ…市内二流銀行でお得意にお年玉代りに兌換した金貨を両替窓にだして御機嫌を取り結ばうといふ珍案を思ひつき大きな革ぶくろを給仕三四人に擔がせて景気よく乗り込んだのが數行あつたがいづれも出納係や守衛に,たしなめられてすごすごと引下つた…

  大銀行の兌換も日銀前に並んだのか。 正貨の,国内外への流出もあった。金額もケタ外れに大きい。「一月十一日金解禁が実施されると,待兼ねてゐたやうに正貨の流出が起つた。…四月末迄の正貨現送銀行名を示せば…ナショナル・シチー銀行7,600 萬圓,蘭印商業銀行 1,830 萬圓,…三井銀行 3,200萬圓,住友銀行 2,500 萬圓…。さて何故斯様に正貨が流出したかと言ふに,その一部は,金解禁前に,為替の騰貴を見越して日本へ入込んで居た資金が,解禁後海外へ逆流したものであり…」(『復刻版日本経済年報』東洋経済新報社,1997 年)。

Ⅴ.平価…金本位制の為替相場は固定的 1897 年の「貨幣法」は,1 円は「純金の量目二分」を含むとした。0.2 匁,つまり 0.75㌘である。一方,1米㌦は米国の法律(1837 年改訂)により 23.22 グレインである。 平価は,生徒に携帯などで計算させたい。 0.0648㌘が 1 グレインであるから 0.0648㌘:1 グレイン= 0.75㌘:x グレイン を解いて 0.75㌘= 11.574 グレイン そこで円とドルの比は 23.22 グレイン÷ 11.574 グレイン= 2.00622 つまり 1㌦= 2.006 円(100 円= 49.845㌦)である。 こういう金平価が,日英間,日独間などにあり,また米英間,米独間などにもある。 金本位制のもとでは,為替相場は安定する。(金平価+金現送費)が上限,(金平価−金現送費)が下限。両者間のごく狭い範囲での変動になる。

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52 シンポジウム 論 考 投稿原稿会務報告

大会報告

 この理屈を生徒に納得させたい。たとえば日米間の平価はほぼ 1㌦= 2 円,金現送費(運賃・保険料・取扱手数料・金利など)は 1%弱なので,実際のレートは 1㌦= 2.02 円が金輸出点,1.98 円が金輸入点となる。なぜか。ドル高ならば,輸入商は高い為替で支払わず,日銀で金を 2 円で買い,現送費を自己負担して送れば

(金輸出),2.02 円以内の支払ですむからである。逆にドル安ならば輸出商は,安い為替で受け取らず,「現送費は私が負担します」と言って,米国の輸入商から金を送ってもらう方法がある。輸入した金は日銀で 2円に替え,差し引き 1.98 円が手取りになる。

Ⅵ.日本の金本位制の歩み

1.為替相場の推移 金本位制になってからの,円の対ドル相場を図 1 に示した(日銀『明治以降本邦主要経済統計』による)。 1898 〜 1916 年までは金本位制であったから,きれいに変動幅が小さい。上記の説明が証明されている。 これに対して 1917 〜 29 年は変動幅が大きい。金輸出が禁止されていたからである。 1914 年に第 1 次世界大戦が欧州で始まった。ロンドン市場閉鎖などに伴い,日本の為替市場も動揺するが,欧州が戦争をしている間隙をぬって,日本は輸出を伸ばし,金が流入して 19 年までは円高であった。 第 1 次大戦は 18 年 11 月に終わり,20 年から戦争ブームの反動で大不況,23 年は関東大震災,1927 年

は金融恐慌。為替相場は下がり,変動幅も大きい。 1930 年 1 月 11 日に金輸出を解禁し,31 年 12 月 12日までの約 2 年,金本位制を続けた。図 1 の為替変動幅が,30 年は小さい。金本位制が続く 31 年に変動幅が大きいのは,年末の直前,12 月 13 日に金輸出を再禁止し,直ちに円相場が急落したからである。 31 年 9 月,英国が金本位制を停止すると,日本も近い,と横浜正金銀行(当時の外国為替専門銀行)にドル買いが殺到,同行は無制限に売り応じた。また,公定歩合を,10 月, 11 月と上げ,投機筋のドル買い資金の調達コストを高くした。それでも投機は収まらず,横浜正金銀行は降参,つまり 12 月 11 日に為替売りを中止,若槻内閣は総辞職した。 いま 1 ドルを 2 円で買っておき,将来ドルが高くなったとき(たとえば 1935 年は 3.5 円)売れば儲かる。 東京時事によれば,横浜正金銀行のドル売り総額7.6 億円のうち,買ったのは,ナショナル・シチー銀行 2.73,住友・三井・三菱 3 銀行で 1.73,三井物産 0.4各億円など。大阪毎日新聞の数字も近い。 ドル買いとは別に,金貨を求めて日銀窓口には「11日夜に…小口兌換請求は増加十数萬圓に達したが 12日に到るや兌換請求者はにはかに激増し」た。 13 日に犬養内閣が成立,直ちに金本位制を停止した。1929 年末に 13.4 億円あった正貨残高は,30 年末は 9.6 億円,31 年末は 5.6 億円に激減した(『日本銀行百年史 資料編』)。なお正貨とは,今の外貨準備金のことで,政府・日銀が所有する金貨・金地金,英米銀行への預金,英米の国債などである。

55ドル

50

45

40

35

301896

1898

大1

昭1

1900

1902

1904

1906

1908

1910

1912

1914

1916

1918

1920

1922

1924

1926

1928

1930

明31

金本位制金輸出禁止

27年 日本の金融恐慌

29年 世界恐慌

金本位制管理通貨制

大戦ブームで輸出増

関東大震災で復興資材など輸入増

図1 100 円のドル相場(各年の最高と最低)

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 再建金本位制は,日本に約 6 割の金を失わせ,2 年弱で終わった。

2.銀行券発行の推移 たとえば1916年末の日銀は,表2の網掛け部分のとおり,発行していた 6 億円のうち,4 億円に金の裏づけがあった(正貨準備発行)。そして,発行額全額が同時に兌換請求することはないから,ある限度額までは,お札を発行して市中銀行に貸したり,建物を買うこともできた(保証準備発行)。

表 2 日本銀行の貸借対照表(1916 年末) 億円

金地金 4.11 発行銀行券 6.01貸出金 2.09 預金 3.78国債 0.36その他とも計 10.78 その他とも計 10.78

資料:『明治以降本邦主要経済統計』

 その正貨準備発行と保証準備発行の推移を下の図 2で見ると,1914 年,世界大戦勃発後の輸出激増で,日本に大量の金が流入し,正貨準備発行が増えた。しかし 1920 年の不況で,21 年から正貨が減り始めたので,保証準備発行を増やし,貨幣量が金の量に制約される金本位制の弊害を和らげた。 1930 〜 31 年の再建金本位制で,さらに大量の金を失い,つれて正貨準備発行が減ったので,保証準備発行を増やした。図 2 を,しっかり読み取らせたい。 32 年 6 月から保証発行限度を 3 度も上げ,さらに 41年,正貨準備に関係なく発券できる最高発行額制限制

度に変えた。管理通貨制度の一種であるが,後述のとおり,31 年 9 月に勃発した満州事変以降の軍事費をまかなうために,「管理」という語感からは程遠く,緩める方へ進んでいく。

Ⅶ.欧米の金本位制の歩み

1.第 1 次世界大戦で金本位制を停止 以上は日本円の説明であり,図 1 は円の対ドル相場である。図 1 に英独仏を加えると,図 3 になる。

は金本位停止  は復帰

19130

10

20

30

40

50

60

14/8

17/9 円 25/5 30/131/12

31/9

31/724/8

28/6 36/9

14/8

14/8

米セント

15 17 19 21 23 25 27 29 31 33 35 37 39年平均

ポンド/10

マルク

フラン

図 3 英独仏日 通貨の対ドル相場(1913 〜 39 年)資料:�Board�of�Governors�of�the�Federal�Reserve�System,�Bank-

ing and Monetary Statistics 1914-1941, 1976

 どの国の折れ線も,金本位制停止(×),復帰(○),そして再停止(×)の順に並んでいる。そして○印の後,つまり金本位期は,日本と同じく相場が安定している。なお,米国についての折れ線と×○印がないの

1894 970

2

4

6

8

10

12 保証準備発行

正貨準備発行

14

16

18億円

03 06 09 12 15 18 21 24 27 30 33年末

金本位制金本位制

1900

図 2 日本銀行券発行の内訳推移(1897 〜 1933 年末)

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54 シンポジウム 論 考 投稿原稿会務報告

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は,このグラフが各国通貨の対ドル相場を示すものだからである。 戦争の雲行きが濃くなると,各国は海外への投資を引き揚げ,金準備を厚くした。世界大戦が勃発すると,英仏も,独も,14 年 8 月に金本位制を停止した(図 3の×印。なお英国の法律は 19 年 4 月)。 古典的金本位制では,ロンドンが「世界の銀行」であった。世界の貿易の 60%はポンドで契約されていたという。そしてロンドンで営業する銀行におけるポンド勘定の振替を通じて,貿易代金の決済が行われた。 戦争勃発などで,ロンドン市場がこの機能を制限すると,米国は欧州へ軍需物資や,小麦など食料品の輸出を増やすとともに,真空地帯になった南北アメリカ・アジアへも手を伸ばす。対価として金が大量に流入し,金準備は 1913 年末の 12.9 億㌦から 1917 年末には25.2億㌦に倍増する。そして債務国から債権国になり,世界の覇権は,英国から米国へ移り始める。 米国が 3 年遅れて 1917 年 4 月に参戦すると,中立国へ金が流出し,米国は 9 月に金輸出を禁止。ほとんどの国がすでに金輸出を停止していて,日本もすぐ金輸出を禁止した(図 3,日本の折れ線の×印 17/9)。

2.金本位制に復帰…再建金本位制 世界大戦は 18 年 11 月に終わる。大戦後,金本位制に復帰するのか(ケインズは反対した),復帰するとすれば旧平価のまま復帰するか,平価を切り下げて復帰するか,という問題があった。 世界各国は 1920 年にブリュッセル,22 年にはジェノアに集まり,インフレを止めること,財政収支を均衡させること,金本位制に戻ること,その金本位制も,金貨を流通させるより,金地金本位制または金為替本位制が望ましいこと,などを話し合った。まだ飛行機のない時代である。 最初に金本位制に復帰したのは米国(19 年 6 月)。上記の国際会議の前である。上述したが,債務国から債権国になり,金準備を倍増した背景がある。 次に復帰したのは,意外にもドイツである。ドイツは戦後の疲弊のうえに賠償支払いもあり,破局的なインフレになった(図 3 の折れ線が途中で途切れているのはそのため)。そこで巧妙な政策(説明は省略)でインフレを収め,24 年 8 月,金本位制に戻った。図 3の〇印 24/8 は,旧平価での復帰に描かれているが,実は 1 兆分の 1 のデノミがあった。 英国は,戦争による疲弊,インフレ,米国からの戦債などのため,ポンドは見る見る下がったが,財政を

引き締め,公定歩合を 7%まで上げて通貨を収縮させるなど涙ぐましい努力を払って物価を下げ,25 年 4 月に旧平価で金本位制(兌換停止のまま金輸出は解禁)に復帰した(図 3,○ 25/5)。 フランは,英国を上まわるインフレのため下がり続けた。26 年 7 月に成立したポアンカレ内閣の安定工作が成功し,1㌵= 4㌣弱の相場が 1 年半続いた 28 年 6月に,1㌵= 3.9185㌣(1㌦= 25.52㌵)で,つまり平価を約 1/5 に切り下げて復帰した(図 3 でフランの「○ 28/6」は「× 14/8」よりかなり低い)。 イタリア,ベルギーなども切り下げて復帰したが,日・米・英など多くの国は旧平価で復帰した。 第 1 次大戦前の金本位制は,いわゆる金貨本位制であった。金貨が,日本ではごくわずかしか流通していなかったが,欧米ではかなり流通していた。これに対し再建された金本位制では,前述のジェノア会議の決議などを取り入れて,金地金本位制,金為替本位制を採用した国が多い。米国や日本は金貨本位制を続けたが,多くの国が,「金と兌換できる国の外国為替」も外貨準備金とする金為替本位制を併行させていた。 なお第 2 次大戦後は多くの国が,ロンドンにポンド預金を置きながら,ニューヨークにもかなりのドル預金を置き,そのドル預金の振り替えを通じて,他国との代金決済をするようになった。

3.世界恐慌で金本位制は崩壊 1920 年代の米国は,住宅・車・家電を中心に,多少の振れはありながらもブームであった。 住宅建築契約高や鉱工業生産は下がり始めても,ニューヨーク株式は上昇を続け,1929 年 10 月 24 日に暴落した(暗黒の木曜日)。 世界恐慌は 1933 年まで続いたが,英国など多くの国は 1931 年,米国は 1933 年に金本位制を離れた。 この恐慌は,米国の株価暴落や各国の工業恐慌・農業恐慌・金融恐慌が相互に因となり果となり,影響し合いながら長く続いた。 まず農業恐慌。大戦後に欧州の農業が回復し,米国・カナダ・アルゼンチン・オーストラリアなどで農業の近代化・大規模化が進み,世界的に生産・在庫が過剰になり,価格が低落した。米国から来ていた資金も,ブームの株式市場へ流れ,ウルグアイ・アルゼンチン・オーストラリアなど農業国は 29 年 12 月に金本位制を離れた。 次いで金融恐慌。31 年 5 月,当時は大国のオーストリアで最大で,中欧・東欧の農業国へ長期・短期に貸

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し過ぎていた銀行 Credit-Anstalt が倒産した。 オーストリアの金融破綻は,隣国ドイツに及んだ。また 29 年までは,米国がドイツに資金を供給し,ドイツはその資金で経済を復興しながら,賠償金を英仏に支払い,英仏はその資金で復興しながら,米国に戦債の元金と利子を返済した。いわゆる 3 角関係が働いていた。ところが,米国の株式市場が過熱すると,米国の資金がドイツに行かなくなった。31 年,ドイツ中央銀行は不況にもかかわらず,資本流出を抑えるため,公定歩合を上げるとともに,平価維持のために金・外貨を放出した(国内均衡より国際均衡を優先)。7 月 13 日,ドイツ最大の毛織物会社の倒産による取り付けにあって,Darmstädter und National Bank(通称ダナート銀行)が支払いを停止,ドイツの全銀行が休業,そしてドイツは金本位制を停止した(7 月 18 日)。 この動揺は,植民地やドイツ,オーストリアへ貸し込んでいた英国に及ぶ。公定歩合を 2.5%から 3.5%へ,さらに 4.5%へ上げるが(ドイツと同じく国際重視),巨額の金・外貨が英国から流出し,ポンド相場が下がる。米・仏からの借款も使い果たし,31 年 9 月 21 日から金本位制を停止した(図 3)。 基軸通貨国の英国が金本位制を離れると,北欧・カナダなど多くの国が続き,日本も既述のとおり,英国の 3 か月あと,31 年 12 月に金本位制を離れた。 米国の金本位制停止は,英国の 1 年半後,33 年 4 月であった。1929 年の株式暴落から経済諸指標は悪化し,銀行の倒産が激増していた。1929 年は 659 行,30年は 1,350 行,31 年は 2,293 行,32 年は 1,453 行,33年は 4,000 行が倒産した。銀行恐慌が全国に広がった33 年 3 月 6 日,全米の銀行休業と金輸出禁止が布告された。銀行は 13 日から次々に再開したが,金本位制は 4 月 19 日,恒久的に停止された。 図3は年単位の折れ線である。ポンドが32年を底に,33 年は反転している。これは,ポンドが上がったというより,金本位制を離れたドルが下がり,続いて34 年に平価を切り下げたからである。ポンドは 33 年6 月に $4 を超え,11 月に $5 を超える。折れ線が 34 年は,角のように,わずかに目盛り線を超えている。 同じ理屈で,33-34 年は他の通貨も上がっている。図 3 の横軸にでも「米,33 年 金本位制停止,34 年 平価切り下げ」などと書き込む。 そのドルの平価切下げは,次のように行われた。 米国は,大恐慌で 3 割も下がった物価を回復させるために,「大統領がドルの金純量を 50%まで引き下げる(つまり金価格を上げる)ことができる」などの法

律を,33 年,金本位制を離れた翌 5 月に成立させた。そして金買い上げ価格が少しずつ引き上げられ,34年 1 月 31 日,1㌉= 35㌦(旧平価は 20.67㌦)で新平価を決めた。ドル安になれば輸入は抑えられ,輸出が進み,景気が好くなる。また輸入品の価格が上がり,物価が上がる。事実,32 年に 68.0 であった卸売物価指数(1929 年基準)は,34 年は 78.7,35 年は 83.9 と上がり,GNP も 33 年を底にして上向く。 以上,世界恐慌の背景・経緯の説明が長くなったが,要するに各国の不況は,金本位制のもとでは解決できず,金本位制が崩壊したのである。そして管理通貨制度になった。これについては節を改めて説明する。 関税の問題もあるが(説明を省く),以上のように各国は為替切り下げ・関税引き上げを競い,宗主国と植民地などを一体とする Bloc 内で,重要商品を自給自足する閉鎖的な経済が形成される。貿易は次のとおり激減し,遂には第 2 次世界大戦になった。1926 年の貿易額(輸出 + 輸入)を 100 とすると,最低に落ち込んだのは,米(32 年:32),仏(35 年:31),英(33年:56),日(31 年:54)である(国際連盟統計)。

Ⅷ.ブレトンウッズ体制 ドイツが無条件降伏したのが 1945 年 5 月 7 日,日本は 8 月 14 日。その前年,44 年 7 月,米国・ニューハンプシャー州ブレトンウッズのマウントワシントン・ホテルに 44 か国が集まって協定が結ばれた。早くも戦後の通貨・貿易体制を構想していたのである。 金本位制が国際均衡を重視(為替相場は安定)するが,国内均衡については硬直的で,とくに大恐慌を招き,雇用・物価・景気などの問題を克服できなかったことが身に沁みたのである。 新しい国際通貨制度としては国際通貨基金(IMF)と世界銀行を設けた(貿易制度としては貿易と関税に関する一般協定,いわゆる GATT ができた)。その内容は次のとおり…①各国の通貨は,ドルで表示(たとえば 1㌦= 3.3 マルク),②米国は,各国政府・中央銀行が持ち込んできたドルに対して,34 年以来の,1㌉= 35㌦で兌換する,③各国は平価の± 1%の幅以内に為替相場を維持(方法はドルの売り介入,または買い介入)。外貨準備が足りないときは IMF が貸す。④どうしても 1%幅を維持できないときは,IMF と相談して調整(切り上げ・切り下げ)することもできる。 各国の通貨は図 4 のように推移した。管理通貨制度の国際版である。ときどき調整する通貨もあるが,固

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定相場制であることが分かる。

358円4.0独

マルク4.0独

マルク4.0独

マルク

0.35英ポンド

4.91仏フラン4.91仏フラン

622伊リラ622伊リラ

4.37スイスフラン

4.37スイスフラン

20.8タイ・バーツ

2.02比ペソ150 200 250 300 350 400 450 500 550 600 650

1948各通貨

共通年末

50 52 54 56 58 60 62 64 66 68 70

図4 各国通貨の対ドル相場(1948 〜 71 年)資料:IMF,�International Financial Statistics

 ところが,米国の生産力が相対的に下がり,米国の貿易黒字は減り,71 年からは赤字になった(図 5)。逆に,日本やドイツは貿易黒字が増えた。図にはないが,貿易とは別に,米国の軍事贈与や政府援助も増え,とくにベトナム戦争の支出もあった。米国の多国籍企業の進出もあり,ドルは世界にばらまかれた。 かつてはドルは不足し,貴重であった。闇ドルは400 円とか 450 円もした。それがドル過剰になると,フランスやスイスは,過剰なドルを米国に持ち込んで,金に換えた。そこで米国の金準備は減り,71 年には100 億㌦を割りそうになった(図 5 の太い折れ線)。

′62 -100

-50

0

50

100

150

200億㌦

′63 ′64

160.6

104.9

米国の金準備

独日

′65 ′66 ′67 ′68 ′69 ′70 ′71 ′72

図5 米国の金準備と米日独の貿易収支資料:日銀『日本経済を中心とする国際比較統計』

 そこで 71 年 8 月 15 日㊐午後 9 時,ニクソン米大統領はラジオ・テレビを通じて,金とドルとの交換を

「一時」停止するなどの経済政策を発表した (朝日71/8/16 夕) 。日本は 16 日㊊午前 10 時で,株式市場などは開いていた。「ドル時代の終幕」という新聞見出しもあった。ブレトンウッズ体制は崩れた。

 欧米は市場を閉鎖し,変動制に移行した。日本は,なお 10 日ほど市場を開き,8 月 27 日㊎,変動制に移行した。「移行」というと,いかにも計画的に聞えるが,実は「もう固定相場は守れない」「IMF や米国に従えない」と言ったのである。この過程について若干工夫した教材を作ったが,別稿4)を参照いただきたい。

Ⅸ.スミソニアン体制から変動相場制へ 金本位制の場合と同じように,なんとか固定相場制を再建しようというわけで,1971 年 12 月,米国・ワシントンのスミソニアン博物館で,先進 10 か国の蔵相・中央銀行総裁会議が開かれた。そして 1㌉= 35㌦だった金価格を 38㌦に引き上げ (ドル切り下げ) ,1㌦= 360 円から 308 円に,1㌦= 3.66 マルクから 3.223マルクなどへと調整した。変動幅も± 1%から,やや弾力的に,± 2.25%に広げた。 しかし金とドルの交換は停止したままであった。 この「再建」固定相場制は短命であった。ドル売りが多発,米国は1973年2月12日,ドルを38㌦→42.22㌦へと10%切り下げた。日本は,2月10日㊏に為替市場を閉鎖し,14 日から変動相場制になって再開した

(朝日 73/2/13 夕)。 欧州では,EC6か国が,相互間では変動幅の小さい固定相場制,対ドルは± 2.25%の固定相場制で運営してきたが,73 年 3 月 19 日,対ドルは変動相場制にした。自分たちの間は,将来のユーロへの一本化をにらんで固定したままで,ドルに対しては,強くなる時も,弱くなる時も,一緒に変動しよう,という共同フロートである。Float は,辞書を引かせる。 変動相場制になって 40 年を超した(表 1)。その間

103円

1.67マルク

0.73ユーロ

0.69ポンド

85/9 プラザ合意

各通貨共用

4.9フラン

0 100 200 300 400 500 600 700 800 900

1000

70 75 80 85 90 95 00 05 10年末

図 6 日英仏独ユーロ通貨の対ドル相場(1971 〜2011 年)資料:IMF,�International Financial Statistics.

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に日英独仏・ユーロの対ドル相場は図 6 のように推移した(独仏は 99 年からユーロ)。 金本位制あるいは固定相場制のときと違って,大きく変動していることが分かる。またドルは,途上国通貨に対しては勿論,英ポンドや,ユーロに参加する前の仏フランに対しても,意外に下がっていないが,日独,そしてユーロに対しては,かなり弱い。5)

Ⅹ.管理通貨制度の歩み…日本の場合 表 3 は,日銀券が何を見合いに発行されたかという観点から,ごく最近までの日銀の歴史を時期区分し,各時期の典型的な年の主要勘定を示した。勘定名など連続していない個所もあるが,生徒に熟読させたい。 1 行目は金本位制の時代で,表 2 と同じ内容。 2 行目からは管理通貨制度の時代であり,1942 年については,日銀が,国債(軍事費調達目的)買い込み機関に堕した悲しい姿を読み取るべきである。 3 行目の 1965 年は,政府の高度成長政策に加担し,市中銀行を通じて融資を増やした。数値の桁が増えたのは,異常なインフレで,卸売物価が1942年の190倍になった,という背景がある。したがって,米国の物価上昇との関係もあるが,円も 1㌦= 2 円から 360 円に減価した。 4 行目はニクソン・ショックの 1971 年であり,日銀券発行の 75%は過剰ドルの買い取りに当てられた。360 円で買い取った 1㌦が,308 円になったため,日銀決算は初めて赤字になった。その事実と背景は『日本銀行百年史資料編』の日銀損益勘定や,朝日 1972/ 4/14 夕「千三百億円の赤字 日銀決算為替差損で記録的」などで確認できる。 1990 年代からの株価・地価の暴落,いわゆるバブル崩壊で,金融機関の不良債権が増え,銀行破綻が始まった。日銀は公定歩合を下げ続け,99 年 2 月に誘導目標金利(公定歩合に代わる政策金利)を,遂に前代

未聞のゼロにした。市中貸出金利も下がったが,金融機関は利ザヤを稼ぐことができ,息をついた。 ゼロ金利は,様子を見ながら2000年8月に0.25%に引き上げたが,自民党の圧力で(朝日社説 01/3/8 など),2001 年 3 月 1 日から,公定歩合を下げ,政策金利ゼロを復活した。そして同時に,金利政策はもう効かないので,同月 20 日から量的緩和政策を始めた。 量的緩和とは,金利を通じることなく,直接に資金量を動かす金融政策である。具体的には,市中銀行から短期国債などを買い取って,その市中銀行からの当座預金残高を増やす。その額は増え続け,2012 年末には表 3 のとおり発行銀行券の半分を超えた。そして発行銀行券を超す国債を買い込んでいる。戦時中とは違って,国債を国から直接買うのではないが,国債を増発しやすい状況を作っていることになる。 ゼロ金利・量的緩和にもかかわらず,市中銀行の貸し出しは 97 年末(493 兆円)からから減少を続け,2012 年末には 428 兆円に落ち込んだ(国内銀行)。 要するに,金融を緩和しても景気は好くならず,管理不能になっているのではないか。

Ⅺ . おわりに 管理不能になっているのは,日本だけではない。政策金利は,米国 0-0.25%,ユーロ 0.5%,英国 0.5%である。量的緩和もやり,中央銀行の国債保有も激増している。これらは各国内の状況である。 国際的には,基軸通貨国である米国の経常収支赤字の問題がある。1971 年 14 億㌦,72 年 58 億㌦が,2006年には 8,006 億㌦に激増した。グラフを描いてみると凄さが分かる。リーマン・ショックで減り,それでも2012 年は 4,750 億㌦である。ドルをばらまいても金と交換しなくてよいので,節度を失っているのである。 これが通貨発行者の特権(seigniorage:シニョリッジ)である。我々が家を買うには汗水たらして働

表 3  日本銀行主要勘定の推移 億円

年末 金地金 貸出金 国債 外国為替 発行銀行券 当座預金

1916 4 2 6 41942 6 18 58 71 271965 309 16,277 9,300 3,713 25,638 8851971 308 6,808 15,430 47,979 64,077 2,9472000 4,445 8,274 562,943 36,856 633,972 68,2702012 4,412 306,849 1,136,768 48,482 866,533 472,437

資料:1942 年までは『明治以降本邦主要経済統計』

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かなければならないが,日銀は通貨発行機関の特権で,お札を印刷すれば,ビルを建てることができる。貸し付けて金利を稼ぐこともできる。賃金も経費も払える。日銀は,ずるい!だから日銀が法人申告所得番付で,2 位を大きく引き離してトップになる年が多いのである(朝日 93/5/15 など)。 同じように米国は 1971 年以来,国際的にシニョリッジを振り回しているわけだ。 マネーの数量だけでなく,質・モラルの問題もある。所得を操作して,免税・低税率の租税回避國に移したり,内容が虚偽・不明確な証券化を重ねたり,人身・臓器・核兵器の売買をしたり,そして本稿のテーマに則して言えば,数々の通貨危機(バブルとその崩壊)を起こし,資源・食糧の騰貴,自然の破壊をもたらした。 各国内では,独占を禁止したり,中小企業・農業・労働者・消費者などを守る法律が,不十分ながら作られてきた。国際的にも,同じような視点に立ち,マネーを暴走させない制度,ブレトンウッズ体制とは別

の管理通貨制度が必要なのではないか。 そういう意識を高校生にも持たせたい。

 以上,出所を明記した個所のほか,日本銀行『増補改訂 日本金融年表 明治元年─平成 4 年』1993 年,そのほか多くの本や新聞から文章を,そのまま,あるいは多少手を入れて借りた個所も多い。

註1) 箕輪京四郎『国際金本位制度の成立から崩壊まで』横浜

商業高校「Y 校論叢」第 18 号,1980 年2) 1871-97 年の経過については,箕輪京四郎『外国為替をど

う教えるか─商業科教育法への提言─』横浜国立大学経済学会「エコノミア」第 45 巻第 1 号,1994 年,に多少の説明を書いた。

3) 金本位制の時期区分は,山本栄治『国際通貨システム』岩波書店,1997 年,による。本書から多くを学んだ。

4) 箕輪京四郎『高校の経済教育にリアリティーを…教案 5例を添えて』横浜国立大学教育デザインセンター 「教育デザイン研究」第 3 号,2012 年

5) 1965 年に 1㌉= 35㌦だった金は,石油と似た率で上昇し,2012 年には 1,685㌦になった。これだけドルが減価した,ということでもある。

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