Title 十七世紀後半-十九世紀前半 北インドにおける...

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Title 十七世紀後半-十九世紀前半 北インドにおける都城と市 場町 (村) の形成 Author(s) 佐藤, 正哲 Citation 東洋史研究 (1994), 52(4): 601-626 Issue Date 1994-03-31 URL https://doi.org/10.14989/154469 Right Type Journal Article Textversion publisher Kyoto University

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Title 十七世紀後半-十九世紀前半 北インドにおける都城と市場町 (村) の形成

Author(s) 佐藤, 正哲

Citation 東洋史研究 (1994), 52(4): 601-626

Issue Date 1994-03-31

URL https://doi.org/10.14989/154469

Right

Type Journal Article

Textversion publisher

Kyoto University

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十七世紀後竿J十九世紀前竿

北インドにおける都城と市場町

(村)

の形成

I

E

市場町(村)の形成

- 57-

t主

筆者が最近護表した十七世紀後半から十九世紀前牢のラ

lジャスターン地方のコ

lタ1王園の都城(都市〉に関する二

本の小論文は、本稿ならびに今後に展開を議定している筆者の一連のインドの「都市」研究の一部である。このうちの一

つは、同じ「カスパ

l」(古谷るという名稽で呼ばれる「都城」でも、その建設目的や機能において多様な内容をもって

(

1

)

「都城」研究のイントロダクションをかねたものである。他の一つは同園ウルマ

lル郡のパ

lタン

いたことを素描し、

601

確かに、都城ジャ

lルラ1パ

lタンの建設は、

ジャ

lルラ

lパlタン

QZE宮窓口〉村へと名稽の出演更を経て、十九世紀初めに都城ジャ

lルラ

Iパlタン

(

2

)

その村域

(nzr)の襲化を中心に百数十年にわたって考察した。

園家によってーとりわけ宰相ザ

lリム・スイング

(Nと

5ωMar・ロSJ

百三回口)村が、

の成立へと護展してゆく過程を、

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602

混同ω)

の政治的意固と政治的経済的目的とによって

人角的に「早産」された面がないわけではない。しかしながら、十

八世紀後宇から十九世紀にかけてのこの地域の史料は、嘗時数多くの新しい都城や語尾にぜ自]ベ市場〉をもっ市場町

したがって、都城ジャ

1ルラlパ

Iタン建設の背景には、こうした多

(村)の出現とその形成という事買を示している。

数の新しい都城や市場町(村)の出現ならびに形成という贋い裾野があり、

これをささえた嘗時の経済社舎の瑳展があっ

たと考えねばならない。

との関係、

本稿はこの時代に出現してくる多数の都城や市場町(村)のなかから若干のものをとりあげ、その形成過程を近鄭の村

都城と市場町(村〉との閥係ならびに後者の建設者などに検討をくわえつつ論じてゆくことにしたい。なお、

こうした都城や市場町(村〉の形成過程のなかで、

その内部構造とその襲化、とりわけこれを構成する諸祉舎集園の内部

3)

さらにはこれに政治権力がどのように関わるかといった問題を追求することはきわめて重

- 58ー

構造や各社曾集圏の相互関係、

要なことであるが、ここではスペースの制限もあり、次の研究課題とすることにしたい。

ラージャスターン州北部のビーカーネ

Iル市にある州立文書館(月間〕回目子自

ωSZ〉『

nE耳目w

回ERるが所蔵している奮藩王諸園と英領アジメlルの古文書のうち、奮コlタl王園と蓄ジャlラlワル王園の主とし

4)

て徴税関係の文書で、いずれもラlジャスターン語で記されている。このほかに、

(

5

)

サス・アトラス」が利用される。

筆者の利用する史料は

一九六一年および

一九七一年の「セン

I

コlタ

1王園の地方行政は、

「所領安堵」を認められていた他の王閣と同様に、

ムガル一帝園の郡〈宮吋

mg品、郷(円昌司P

時にはこの行政直劃に若干の手直しをおこない、

行政、

主園濁白の名穏をもった新しい郡郷の編成や村落の異動などをおこなっ

王園の防衛、

徴税などの必要性から

正白〉、村(ヨ

28〉といった行政匝劃を基本的にはそのまま利用していたが、

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ていた。十八世紀に入り、

一一帝園の渡落が明らかになるにつれ、この地方の諸王聞はこれまで陰に陽に準めてきた「所領」

周遁の帝園領の所領化を公然と推し進め、新たに編入した地域をふくめ、これまでの行政匝劃を大きく再編してゆくこと

コlタ

1王園ではその南半分を占めるほどの大きなバルサlナl郡は、その所領化の産物であり、行政直劃の

再編が何度かおこなわれた代表的地域である。

V』

Pムつ・-0

・fサJ

今t

(mRごにおかれて

いる郡もあり、その場合には例えば「都城マドカル城」

68E豆包王国同mR3というように、都城はその城塞名をつけて

所属する村数が多いコlタ

I(ナンドガオン〈ZS仏岡田

Oロ〉〉郡やバルサlナ

19曲同国同口同〉郡などは、

一般に城壁で圏まれた町である都城におかれていたが、

呼ばれていた。

郡と村

とのあいだに郷という行政匝劃をもち、一つの郷に三十

1六十箇村が所属していた。こうした複数の郷をもっ郡の場合に

は、郡都がその管轄匝域のなかにある郷の行政府は郡都と同じ都城におかれていたが、他の郷の行政府は都城におかれる

ナンドガオン(コlタl)郡の嘗時の五郷のうち、

ナンドガオン郷の行政府は郡都でもある都城ナンドガオンにおかれ

アランドケlラl(〉HSιrrRるや

lト

lン(関aroロ〉、カンワlスー〈穴

g-dq曲。、

- 59ー

ものもあれば、大きな村におかれるものもあった。

後に論じるディ

lゴ

Iド

(gmzδの四郷の行政府は、いずれもその郷と同名の大きな村におかれていた。これらの村は、後に見るように

S・一八

一O

(

hp・ロロ包)年代に都城となっている。

ていたが、

s・一七七

01一七八

O(〉・ロ・ロ

51ミNω〉年代にその郷の行政府が郷と同名

の大きな村におかれていたのはハリlガル(国R一岡田

H3、クlンディl〈関口包。、カ

Iクルニl(関共同区〉の三都で、その

(6)

他はすべて都城におかれていた。このうちハリlガル村は

S・一七八一〈〉・0・見区)年までに、ク

Iンディl村は

S・一

7〉

(8〉

八一一

(〉・ロ・

5E)年までに、ヵlクルニl村は

S・一

八二四(〉・ロミミ)年までに、いずれも都城となっている。

また、なかには郡郷の再編成の遁程で、村から都城に成長して新しい郷の行政府となった都城パンワlル(司自宅R)が

ハルサlナJ郡の二

O徐りの郷のうち、

603

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S-一七九八(〉・ロロ企)年までにはそれまで所属していたデlイケ

Iラl

(り25Rm〉郷の都城デlイケlラl

(

9

)

をふくむ一部の村をその管轄下にくみいれている。

S-一七八三(〉り・ロMm〉年にニ箇村から土地をえて形成された都

あり、

S-一七九八年にはデランプル郡の郡都として、

m)

(切

52官)郡の大牢の村を同名の都城とともに、その管轄下においている。スイング(声HY包括ご氏は、

城デランプル(り己

g宮町)は、

それまで所属していたビナ1イガl

ムガル時代の都

城の数を都城を郡都であると想定して一帝園の郡の数から一帝国全瞳の都城の数をわりだし、その数を西暦一六四七年に四、

)

七二ハと推定している。しかし、バルサlナ1郡の場合を例にとってみると、史料の入手で

三五

O、同一七二

O年に四、

きない十七世紀は別としても、十八世紀初めにはこの郡だけでも二十に近い敷の都城が存在していたことになる。

も、都城の数は、十八世紀を通じて増加していたことに注意しておかなければならない。したがって、

し台、

スイング氏の推計

は少なくとも十八世紀については安嘗しないといえる。

- 60-

いずれにせよ、新しい都城の出現は十八世紀前牢にその先躍をみるが、その本格的展開は十八世紀後半から十九世紀に

かけてである。この時期の新しい都城をその前身である村の機能においてみると、次の四つないし五つのタイプに分ける

ことが出来るようである。

ー、カンワ

lス、

もともと郷の行政府がおかれていた大きな村が、成長して都城になったもので、

ケlト

lン、ディ

Iゴlドなどがこれに一該嘗する都城である。

ナンドガオン郡のアランドケ1ラ

村が都城へと成長し、

都城パーラーヶ!ラ

1

9同

FFRるにかわってそれぞれクンジョ

lル郡およびアンタ

1郡の郡都となった都城クンジ

」れまで郡都であ司た都城にかわって新しく郡都になるもので

都城アlト

lン

(EOロ)と

dlル(阿ハロロ」OH)

や都城アンタl

(〉去るなどがその代表的事例である。

「市場」(間曲目』)の語尾をもっ市場町(村〉の成長で、

初めから都城として建設されるものと、

市場村から都城(市

場町)へと成長してくるものがあった。

都城ウメッドガンジ

(Cヨ白色

mg]〉は前者の事例で、

複数の村から土地を得

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また後者の事例である都城ガネlシュガンジ

22巾

rmg』)もその成り立ちは複数の村

から土地を得てのことであるが、

て「都城」として建設され、

この場合は市場「村」として建設されている。

城塞村の都城への成長であるが、

それは城塞の績大によるのではなく城塞をもった村の「村」部分が「都城」

護展したものである。それは城塞によってその安全が保障された城塞「村」が、

その一商工業活動を護展させたことに

よるもので、

「徴税蓋帳」などにみる住民構成からそれを知ることができる。

都城ラlジガル(HU]

宮町ご、

都城ムカ

五ンドガル(ロ、ErstRr)、都城パンワルガル(∞Eロ項目『問白円ごなどはこうした城塞をも

アた都城である。

新しい都城のなかでは、このタイプの都城がもっとも多く見られる。すなわち、郡や郷の行政府がおかれた都城で

もなければ、軍事的役割を果たすために形成された都城でもなく、またその「徴税蓋帳」の内容をみると一商人ないし

は職人・手工業者が多く、後者の場合には捺染工、織布工などの割合がかなり多い都城もあった。その都城域も他と

コイ

lラ

l

(穴2-る、

比べるとかなり大きく

ハドウォ

l

(切邑宅O)、ギルダルプラ(の

EEGEHるなどの都城は、後

- 61ー

にも述べるように一高ピlガl以上の都城域をもっていた。

以上のように、新しく成長してきた都城をその前身の村の機能にさかのぼって分類し、成立した都城の内容をみてきた

が、その内容からみると都城形成の主要な要因がいずれも経済的なものによるのではないかと推察される。新たに都城と

なり郡都とされた都城、

また郷の行政府がおかれていたにも拘らず、

ながらく村であった都城なども、

その住民構成に統

治階級であるバラモンをかなり多く見ることができ、政治的都市の性格を示しているが、同時に一商人あるいは職人・手工

〈ロ)

業者も多く、生産者向都市の性格をももっている。しかも、これらの新しい都城は若干の地域的偏りはあるにせよ、ほぼ

コlタ

1王圏全域にわたって郡郷に少なくとも一つは出現しており、このことは嘗時の経済的枇舎的援展を前提にして考

えなくては理解できないのではあるまいか。

605

ところで、新しく形成されてくる都城には、すでに言及してきたように二つの掛照的な形成過程があった。

一つは複数

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の村から土地を得て都城が建設されるもので、

さきにみた都城デランプルや市場町ウメッドガンジなどである。他の

一つ

は村が長い時聞をかけて都城へと成長してくるもので、その聞に多くの分村を生み新村として分離

・濁立させつつ、また

時にはそれを再び吸牧しながら、都城形成に至る道である。もちろん、都城形成後もそうした分村創出の過程が繰り返さ

れてゆくのは後にみる通りである。この時期の新しい都城の形成は、こうした後者の過程によるものが匪倒的に多く、前

(日)

者の場合は

一般的には新村の建設に多くみられ、都城についてはきわめて少ない。ここでは後者の都城形成の過程を検討

することにして、前者の都城建設については、衣節の「市場町(村)の形成」においてみることにしよう。

ここではコ

lタI郡

(S・一

七七二年からナンドガオン郡に名稿が繁更される)のディ

lゴlド(巴間

rz-Emoε村の都城形

成の過程を事例にとりながら、嘗時の都城形成一般を論じて行くことにしたい。この村をとりあげるのは、この村に闘す

また分村の創出と新村の形成がそれほど多くないため、

形成過程を園示して行く際の煩雑さを比較的さけることができると考えたからである。

る史料がかなり早い時期から比較的多く得られ、

地固上に都城の

- 62ー

表ーは

コlタl郡およびナンドガオン郡に所属する都城と村の徴税関係の記録を記したタクスィ

lム令225)と呼ば

れる文書を利用して、ディ

lゴlド村の都城形成に関わる必要な事項を掲載したものである。左端に記したヴイクラム

(リり

いずれも筆者が利用したタクスィ

lム文書の年度であるが、記載事項の重複している年度

サンバット暦

(Sと略記〉は、

については、年度の記載を省略している。

国版1(A)1(E)は、

郡の闘連箇所をコ

ピーし、これに表1の内容を書きこんで、ディ

lゴ!ドの村から都城への護展過程ならびに都城形成後

一九七

一年の「センサス

・アトラス」の現ディ

lゴ!ド

までを、村域および都城域の繁化に焦貼をあてながら、五つの年度に分けて園示したものである。

S-一七一九(〉・ロ-HgN)

年の記録によれば、

同年ディ

lゴlト村の村域は一八

(日〉

一一

Oビlガlで、この年までに

カンワルプラ村(村番鋭

一O九)三、

000ビlガ!とカリャ

lンプラ村(同

四)

せてい

るので、この村の

S-一七一八年以前の村域の贋さは少なくとも二五、

四、

000ビlガーを分離・濁立さ

一一

Oビlガーである。

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Dighod (Digod) 表 1

村(都城〕域(ピーガ-)

備考(括弧内は村番競〉

既に Kanwarpura(109), Kalyanpura

(114)を創出

Jagpura,後の Mandawari(103)に 300

ピーガーを追加

分村名

Mandoli 18,110

村/都城

年度(S)

1719

検地 14,675ピーガー, (可耕〉荒蕪地

1,156ピーガー,耕地償 17,795ルピー

S .1787年に Fatehpur(106)を創出

恥1andoli

Mandoli

Mandoli

17,810

「検地」

(S.1774)

14,351 Mandoli

「検地J16,110

16,110

17,810 村

1751

1763

1777

S.1828年に Ummedpura(108), S.

1844年に Deonagar,後の Deopura(115)

を創出。 Mandola(124)から400ピーガ

1805

1812

1847

9,633

「検地J9,995

(S .1864)

9,995

都城

都城

1851

1865 S .1862年 Deopuraから 1,000ピーガー

都城

カンワルプラ村(同一

O九〉と

s・一七一九年その村域八

OOピlガ!のジャグプラ

村は、

後に

(S・一七五一年までには〉マンダlワリl村

(同一

O三)と改名されているが、その績張に際しては、

ディlゴ

lド村やショlリl村(同一

O五)

から土地を

得ているので、この村の建設にもこれら二箇村が密接に

関わっていたのではないかと推測される。もっとも、こ

の村の記録は

S・二ハ九一

ハ〉・ロ

-H86年にまでさか

のぼることができるから、村の建設もそれ以前のことに

なろう。

「センサス・アトラス」ではディ

lゴ

lド村と

- 63ー

この村との聞にはショ

1リ1村が存在し、南者は地理的

に接するところはないが、

s-一七五一(〉・

0・見。。年

までにディlゴ

lド村はこの村に三

OOピlガ!の土地

を分興しているから、営時ディ

iゴ

lド村の村域はこの

マンダlワリl村にまで回廊のような形でのびていたも

のと考えられる。これを閏示したのが園版

11(A〉およ

び同(

B

)

である。なお、こうした地固からみると、この

村はディlゴ

lド村から分離・濁立した村であったと推

察される。

1883

衣に園版

1l(B)は、

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CA)-S.1718年以前 CB)-S .1719年

CC)-S .1790年 CD)-S.1828年

CE)-S .1862年以降

国版1

- 64-

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カリャlンプラ村(同一一四〉を分離・濁立させた後のディ

iゴlド村である。

の自己の村域だけでなく、後に建設されるウメヅドプラ村〈同一

O八)の村域の大部分をふくむ地域である。ウメッドプラ

村は、都城ディ

1ゴlドとカンワルプラ村から土地を得て建設されたが、その村域一、三八九ピ

1ガーにしめる都城ディ

嘗時のカンワルプラ村の領域は、地圃上

ーゴlドの土地はわずか八五ピlガlにすぎない。この地固でディ

1ゴlド村からウメ

γドプラ村に小さく突出している

部分は、筆者の勝手な剣断で線引きしたこの八五ピlガlの土地である。

ディlゴ

1ド村の領域は、カソワルプラとカリャ

Iンプラの二箇村の合計七、

000ビlガlが減って一八、

二Oビ

してしまい、

ーガーとなる。分村のマシドlリ

1村は、分村としては

S-一八

O五(〉-U-H三∞〉年の記録を最後に史料からその姿を治

「センサス・アトラス」にもその名を見いだすことはできない。

S-一八四四(〉-U-ロ∞叶)年に建

なお、

設されたデlオナガル村、後のデ1オプラ村(同二五〉の南に郊接するマンドlラl村は、男性名詞ないし「大きい」を

意味する語尾をもっており、同じく女性名詞ないし「小さい」を意味する語尾をもったこの分村マンド

lリーとは射をな

す関係にあアたのではないかと考えられる。そうであるとすれば、分村マンドlリーがデlオプラ村の位置にあってもお

- 65-

かしくはないわけで、デlオプラ村建設の遁程でその一部として吸牧されてしま司たのかもしれない。この村の建設者は

〈国)

ナlドナl(Z邑E〉村の村長デlオという者で、自己の名を村名につけたのは明らかである。

ディlゴlド村もコ

Iタ

1王圏全土にわたっておこなわれた

S・一七七四(〉-U-Hご斗〉年の「検地」

け、村域一七、七

OOピlガl、そのうち耕地一四、六七五ビlガl、

査定された地租高)一一、七九五ルピ

!と記録されている。

(土地調査〉を受

耕地債(耕地で

s・一七八七(〉・

0・H30〉年ファテーブル村(同一

O六〉が、

可耕荒蕪地一、

一五六ピ

lガI、

村域三、三四九ピ

1ガーをもって建設され、

S-一七九

O(〉・り・Haω)年に分離・濁立したので、

ディ

Iゴlド村の村

域は一四、三五一ビlガlに縮小する。これを示したのが、園版

11(C)である。

609

ディ

1ゴlド村が都城になった正確な年度はわからないが、

S-一八一一年前後、

遅くともこの

S・一八一二ハ〉・り・

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610

ミ日間)年には都城となっており、都城となって初めて創出したのが

S・一

八二八(〉・0・H3H)年のウメッドプラ村(同

る 一O八)である。その村域て三八九ビ

lガIの大半はカンワルプラ村から得たものであったことは既に述べた通りであ

「センサス・アトラス」でみるカンワルプラ村の領域は、この年度以降のことで、以上を圃示したのが、この園版1

(D

)

である。

s・一

八四四(〉・ロロ宅)年にはデlオプラ村〈同

一一

五)が、

さきのナlドナ1村の村長デlオという者によって村

域五、

O三三ピlガーをもって建設されている。そのうち都城ディlゴ

lドから九割以上の四、六一三一一ビ

Iガーを、

ドlラl村(同

一二四〉からは四

OOビlガーを得ている。これで都城ディ

lゴlドの都城域は九、六一三一一ビlガーにな

S-一八六二(〉・

0・Hg印)年にデ

lオプラ村が一、

000ビlガ!の土地を返還したので、都城域は一

O、六三

S-一八六四(〉・ロ

-H83年の「検地」は、

ーマ

るが、

三ピlガーとなる。

この王園のかなり貰い地核に劃しておこなわれている

が、この「検地」の結果、

この都城域はさきの「蓋帳」上の記録よりも少ない九、九九五ビ

1ガーであった。

園版

1l

- 66ー

(

E

)

は、この

S・一八六二年の都城域を示したものである。

これでもって都城ディlゴ

lドの形成と分村ならびに新村の創出活動は、

一躍終ることになる。

「センサス・アトラ

ス」に記載されている都城ディlゴ

lド周迭の村で

この嘗時まだ形成されていなかった唯

の村が、

ファテーブル村

(同

一O六)の北側で鄭接するパグワlンプラ

SE四gロ匂目白)村(同

一O乙である。

この村の建設は、都城ディlゴ

lド

に鄭接する村ないしはその周遣の五つの村から土地を得ておこなわれているので、

るが、都城域そのものには異同はなく、すでに最終的に確定している。しかし、決に述べるこれら五箇村の境界は、この

」れらの村の領域は大きく襲動してい

バグワlンプラ村の建設によ司て決まったのであるから、園版1

|(E)を「S-一八六二年以降」としたのは、都城ディ

lゴlドの都城域については正しいが、これら村落の位置関係については不正確な表現である。都城ディlゴ

Iドとこれ

ら周迭の村をふくめた相互の位置が、つまり「センサス

・アトラス」にみる今日の村の位置闘係が確定するのは、バグワ

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ーンプラ村が建設された

S・一九

O八(〉・

0・HgC年のことである。

このことは、この村の建設をもって、都城ディ

l

lドとその周迭に今日存在している村がすべて出揃ったことを意味している。

ーカl、

パグワ

1ンプラ村は、この地域ではもっとも遅く形成された村で、

ショ

lリ19ro--)村(同一

O五)から一

OOビlガl、

アトラlリヤ(〉可回日々白〉村(同八一)から三人

Oビ

ウグイプラ

(ceザ民俗)村(同一

OO)から四四九ビlガ

ファテーブル

(EZ官。村(同一

O六〉から五

OOビlガl、コードスワlン(問主

28)村(同一

O一一)から一、

O七

八ピlガーを得ている。この村の建設者についてはわからないが、このように複数の村から土地を得て建設されるのが、

昔時の村落の一般的な建設方法であった。ディlゴ

lド村が都城として形成されてくる過程は、また都城の護展過程とと

つぎつぎと分村を生み、これを新村として分離・濁立させてゆく過程でもあった。これは嘗時の都城形成の一般的

傾向であり、車に都城ディlゴ

1ドの形成にのみ限られるものではなかった。こうした分村を生み、新村として分離・濁

立させてゆくような村あるいは都城は、首時の卒均的な大きさの村と比較してみるとかなり大きな領域をもっていた。

(

)

別の機舎に検討したように、首時の村の卒均的な大きさは二、

000ビIガl前後から三、

000ビlガl弱であった

のに劃し、ここでいう大きな村や都城は、六、

000ピlガーから二ニ、

000ピIガlの贋さで、都城ディlゴ

lドは

- 67ー

別にしても、

マlングロlル郡のコイlラl(問。ロる、パーラーン郡のバドウォl(切包君。)、ラlイlプル郷のギルダルプ

ラ(の

EEH吉岡田)、カlクルニl郷のサルタlル

(ωEECなどは一

O、

000ビlガl以上の領域をもっていた。このう

ち、二箇村を分離・濁立させていること以外は史料不足でわからないバドウォl村は別として、コイIラl村は分村四、

(

サルタlル村にいたっては八箇村の分村をもっていた。これらの分村の多くは、時とともに新

ギルダルプラ村は分村六、

村として分離・濁立してい?たことはいうまでもない。

611

ここでは、郡都のなかで嘗時最大級の都城域をもっていたバlラlン郡の都城バlラlンの

S・一八六五(〉-UHg∞)

(mM)

年の記録をみておくことにしよう。

S-一七七回(〉-U-ロロ〉年以前におこなわれたものと考えられる土地調査によれ

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612

ば、都城パーラーンの康さは三二、

000ビ1ガ1で、

s・一七七四年の「検地」では四二、三

O入ビ

1ガ!と領域を増

加させている。これは前回の土地調査が「指出」などによって不正確だったため、今回の

「検地」によ

って謄畑

・隠回な

どが接見され、耕地の増加が記鍛されたのか、都城周遊の荒蕪地の開墾が準み、その土地が都城域に編入されたのか、あ

るいは都城パーラーンの設展と描大が周迭の村落を都城域のなかにくみこんだのか、

」こではわからない。

S-一七七四年の「検地」以降、都城パーラー

ンは九つの村に土地の贋さ合計二四、五六一ピ

Iガーを興えて

分離・溺立させ、さらに近年あわせて四、

000ビlガ1の土地をもっ新村二つを誕生させている。したがって、「蓋

帳」の上ではパーラーンの都城域は

一三、七四七ビlガーになっているはずであるが、貫際の「検地」では

S-一八五二

(〉・ロミ泊四〉年に五、二九七ピ

lガl、

S-一八六五(〉・ロ-H88年には六、

O七六ビ

lガ1で、

しかし、

「蓋帳」と賓際の調

査とでは大きな聞きがあった。

都城パーラーンとその周過の村については、

パーラー

ンはこれ以降新村を生むこともなく、これによって都城パーラーンの新村を創出する活動は一鷹終了したことを

「セ

ンサス

・アトラス」とこの

S-一八六五年の記録は

一致し、

また都城

- 68ー

示している。

筆者は別の機舎に、その都城域が二、

000ビlガーとなり一

OO年以上にわたって分村を一つも生みだしていない王

都コ

1タ

I(ナンドガオン〉を、

「完成した」あるいは「成熟した」都城といった表現で呼び、その内容をどのように考え

(ぬ〉

て行くかは今後の課題であるとしておいた。この都城パーラーンやさきの都城ディlゴ

lドなどは、さしずめこの種の都

城といってよいであろう。しかし、筆者が述べたのは、あくまでも分村や新村を生みだす活動であって、そうした活動が

終ったからといって都城の設展が止ま

ってしまうということではない。都城が自己の領域内につぎつぎと分村を生み、新

村を分離

・濁立させながら、都城域を小さくしてゆくことは、都城の

一つの設展の形態であり、都城の設展を示す

一つの

現象形態にすぎない。

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次節では、市場町(村)の形成について考察するが、

展の形態との関連で論じられることになる。

それは都城の護展の別の形態であり、

こうした都城のさらなる護

もちろん、

こうした護展は本質(内部構造〉の襲化を伴うものと考えられる

が、冒頭で述べたようにこの貼については別稿で扱うことにしたい。

11

市場町(村〉の形成

ところで、以上みてきたような都城の形成ほどに目立つ存在ではないが、十八世紀後半から語尾に

「市場」

(mg』)をも

そのもっとも早い記録は、

(幻〉

成立をみるアトロ

l(〉

5〉郷の市場町ガネlシュガンジである。もっとも、これ以前に市場町(村)がなかったわけでは

つ市場町(村〉の名が史料に見られるようになる。

s・一八一一一一

1二五(〉・り・ロ212)年に

:、。

ゅん、しV

都城では一般に週市

(ECが聞かれており、

都城カlンプル

(Eg85〉に郊接するチャlンドケlリl(EEL-

rroZ〉村や王都コlタlの川向こうにある都城パlタン

(E窓口〉は、

(

であった。しかし、

歳市(自己曲)が聞かれることで著名な市場村(町〉

- 69ー

市場町(村)が、

語尾に「市場」という濁特の用語をもって登場するのはこの時期になってであり、

以前にはまったく見られないことである。こうした市場町(村〉は、都城ガネlシュガンジ

(Oggの2252])あるいは

キγシャンガンジ村(呂

28Emrgmgむというように記されており、

前者を市場町ガネlシュガンジ

後者を市場村キ

ッシャンガンジというふうに呼ぶことにしたい。

市場村(町)の形成には、

既存の村が市場村へ設展して形成される場合と、

一つの村ないし複数の村から土地を得て新

しく建設される場合とがあった。

前者の事例は

さきの市場町ガネ

lシュガンジで、

都城アトロlの分村から市場町(都城〉に成長したものであるが、

分村がいつ生み出され、

それがどのようにして市場町になったのかは史料不足でわからない。

ジョ

1ルパl(Hosc郷の

613

市場村キ

ッシャンガンジ(百田

rg恒三)もまた分村から震展したもので、

史料の上では都城ジョールパlの分村7

yドリ

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614

-(宮包72)

として、

(〉ロ・見区)年にまでさかのぼることができる。これから

S・一

八五七(〉・ロ

-Hgo〉

(mA)

S・一八六五(〉ロ

』∞CS年の記録では市場村となっている。同じような形成過程を経てきたものと

S-一七八一

年までが分村で、

して、

s・一八五

O(〉-U・ミ由己年に

成立したパlンスト

ゥlニ

IS田口印子EC郷の市場村チャッタルガンジ(わ喜三国?

(M)

mmロ」)がある。その前身はダlパル

(Umg『〉村で、すでに

S・一

七八一(〉・ロロピ)年の記録にその名が見られる。

後者の事例としては、王都ナンドガオンの都城域の西にロ

Iジャリl(河3ZHC村から土地を得て

S-一八四二(〉・0・

(お)

』叶∞印)年に建設されたラlイlプル郷の市場村ドlラットガンジ(ロ

EE窓口むがある。また同じ

S・一八八八(〉・り

HEC

年に建設されたパ

lンストゥ

lニ

l郷の市場村小ラ

l

ムガンジ

(EBmg工岳民包)と市場村大ラlムガンジ

(Eg間同三・

(お)

EYHTごは、それぞれ前者は一箇村から、後者は二箇村から土地を得ている。三箇村から土地を得て建設されたのがバロ

(

)

s-一八八七

(〉・り

Hgo〉年郡都パロIドの西郷りに、またイタ

lワlGS者同)郡

ード郡の市場村キ

ッシャンガンジで、

(〉

-UH3C年に建設されたウメッド

一 70ー

の市場村ガネ

lシュガンジ(の

225曲三)は、

(

)

から土地を得て建設されている。市場町として王都の都城域の南に

S-一八コ二

(mm)

四箇村から土地を得ている。

S-一八四一

(〉・り・ミ∞品)年郡都イタlワ

lの南に都接する村など六箇村

ガンジ

(O曲目『白

Cヨヨ邑問白?と〉は、

ここで市場村(町〉の名稽について、筒車な考察を加えておきたい。

市場村(町)が新しく建設される場合は別として、

分村ないし本村から設展して市場村(町)が形成される場合、

その名稿は奮村落の名前ではなく、新たに名前がつけられ

ており、

しかも新しく土地を得て建設された市場村(町〉と同様な名前をもっている。

既にみたように、都城ジョ

lルパ

1の分村から成長した市場村キッシャンガンジの奮名はマッドリーであり、バ

lンス

トゥ

lニ

l郷の市場村チャッタルガンジの前身はダlバル村であった。

アトロl郷の市場町ガネlシュガンジは、都城ア

トロ

1の分村からの設展であるが、

その分村名は記されていない。なお、この市場町は十九世紀初めには衰微しはじめ、

s・一八五七(〉

-u・500)年からS・一八八三(〉・

0・5N昂)年の史料では「ケ

1ルリ

I村またの名ガ、不

lシュガンジ」

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(宮

EN担問

rEFt止の

Eggsむと記され、

「センサス・アトラス」

では、

S-一九一一一(〉・ロ-Hgm)年には都城アトロ

1の分村

(gaR)とされている。

現アトルl

(アトロl)郡の郡都アトル

Iに郷接する村で、

その名もケlルリーガンジ

(剛ハ

ym円-Fm曲三)というかつての村名を合成した名稽で残っている。

村から護展した市場村(町)や土地を得て新たに建設される市場村(町)が、

似たような名前をもっており、ここで取

こうした市場村(町)の意味や由来を考えてみることは、

り上げる市場村〈町)だけでも同じ名前のものが三組もある。

市場村(町〉の形成や建設ならびにその性格を理解する上で重要なことではないかと思われる。

市場村ガネ!シュガンジ(アトロl郷、イタlワl郷)のガネlシュ(ガネlγ

ャ〉は、

神であり、キッシャンガンジ(ジョlルパl郷、パロード郡〉のキγ

シャンはクリシュナ紳の別名で、この地域の人々に深

象の姿をした富と繁柴を象徴する

く浸透しているクリシュナ紳信仰を象徴する名稀である。

いは「保護」(ロゲZECのもとに市場村(町)の繁築とその安全を願い、

チャッタルガンジハパlンストPIE--郷〉は、

神の「傘」ある

-71ー

ドlラットガンジは、

その建設と護展が大いなる

「富」公gECをもたらしてくれることを祈念しての命名であろう。

また、大守口」R73小

(rrES3で直別するこつの市場村一フlムガンジ(バIンストゥlニ

I郷)のラlム(ラlマ)は、

絞事詩『ラ

Iマlヤナ』のラ

1マ王の名前であるが、クリシュナ神と同様にヴィシュヌ紳の化身である。も司とも、この

市場村はコ

lタ1園王ラ

1ム・スイング

E世(在位S-一八八四J一九二二〉の時代に建設されており、

ウメッドガンジ(コ

ータl郡)の建設が園王ウメ

γド・スイング(在位S・一八二七l一八七六)の治世と重なっているから、

いずれも園王の名

前を冠したものであろう。とりわけ、

王都のお膝元に都城として建設された市場町ウメッドガンジは、市場町護展の「希

望」(ロヨBE)もさることながら、

園家の肝煎りで建設されたように思われるので、

なおさらこれに園王の名前が冠せら

615

れでもおかしくはないと思う。なお、市場村ラlムガンジは、

にその建設者と考えられる村長が解職されたことによるのか、大ラ

lムガンジは後にキッシャンガンジに名稽を饗えてい

その大小で匝別するのが煩わしかったためか、それと同時

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ヒンドゥ

l教徒の名前には紳の名前が多いから、

「小」がなくなり、ラlムガンジになっている。

616

る。それとともに、小ラ

lムガン

ジの方は、

市場村(町〉の名前にその建設者の名前をつけたところもあったので

あろう。さきの市場村大ラ

Iムガンジは、紳の名前ではあるが、同時に後に述べるように建設者と考えられる村長の名前

でもある。

いずれにせよ、ここにみられる市場村(町〉の名稽には、

神の名や富、繁祭を意味するような言葉が使用され

ており、市場村(町〉の命名にあたって建設者などが縁起をかつぎ、繁築を祈っておこなったことによるのであろう。

圏版

2はイタ

lワ

l郡の市場村ガネlシュガンジ

それでは、市場村(町〉はどのようにして建設されたのであろうか。

を中心に、この建設に土地を提供した周謹の村の位置関係を知るために、

一九七一年の「センサス・アトラス」の現ピ

l

バルダ

l

q

e日左同)郡の一部を掲げたものである。市場村ガネlシュガンジ(村番誠一七四)は、

S-一八四一(〉・ロ-ZE)

年にゴ

lンディ!村(同一六六〉をはじめとして周浸六箇村から土地七、

00三ビ

lガl、

※太線内は、ガネーシュガンジを建設し

た6箇村

※.部分は、市場村(町〕ガネーシュガ

ンジと都域 (郡都)イターワー

圃版2

つまりゴ

lγディ

l村から三、

-72ー

00一ピ

lガl、ドlリl村(同一七六〉とチャ

l

ンダl村(同一七五)から各一、

OO一ビ

lガl、

ラノIディヤ

l村〈同一七三〉

から五

OOビlガ

ムゲ

lナ

l村(同一七二〉からて

OOOピ

ーガ

l、ド

lルリl村(同一九四〉から五

OOビl

ガ!の土地を得て建設されている。この市場村の

護展は早く、

S・一八四七ハ〉・0・尽き)年には市

場町となっている。

この市場村が誰によって建設されたかは明らか

ではないが、その建設に際して土地の提供がラ

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ーディヤ

I村についで多いゴ

Iンディ

I村は、その北鄭りが都城(郡都〉イタ

1ヮーであり、

この市場村建設が都城イタ

ーワ!との経済的ないしは一一商業的関係やその影響によるところが多いと思われる。この市場村の史料は比較的多いにも拘

らず、

建設者の名前がわからないということは、

によって建設されたのかもしれない。もちろん、都城イタ

Iワlの商人たちの闘輿も推定されないわけではないが、六箇

国家によってか、

あるいは比較的多敷の者(場合によっては村落共同健)

村からの土地を得て建設されるということは、これらの村の土地所有者層、嘗時としては一般に村長層の闘興が指摘され

ねばならないであろう。

パlンストゥlニ

l郷の市場村大ラlムガンジの建設は、近くの村の村長によっておこなわれたようである。嘗時、新

村が建設されると、

その村長職(官ECはその建設者に興えられるのが一般的であったが、

(

)

のカlムタl(関曲目予白〉

村の村長-フlム・ワグス〈HN曲目当局印〉に興えられている。

この市場村の村長識も近く

しかし、

この市場村建設の六年後の

S-一八九四(〉・り

H83年、

理由はわからないが解職され、

その村長職

(rMZω

『回目)は三人の者に輿えられている。

?ト

- 73-

れがその建設者であれば、自分の名をこの市場村につけたことは十分に考えられるところである。

S-一八四二(〉・り・ロ∞印)年にロ

1ジャリl(岡山&EHC村から土地を得て建設されたラlイlプル郷の市場村

また、

ドIラットガンジの建設者は、

(Unrr自由ロロmm〉、サ

Iラグ・ラlム(ωωFmHNEC、ダlナット・ラlイlの息子パ

y

ラブ・ダlス(回国FFU曲。であ

(

〉る。なお、

金融商人公Zどのタイトルをもっダlナγト・ラ1イI(UE忠岡山曲。、

ラチマン

-eタl

これに先立つ

S・一入=一九(〉ロ・可思〉年、

ダ1ナット

・ラ

Iイ!とラチマン

・ダlスは、一商一貰仲間と考え

られるナンド・ラlル

(zgιc-)およびチュットラ・ブlジ

((urc門岡田

E」)とともに、

ナンドガオン郡の都城ナlンタ

617

ビlガ!の土地を興えられている。

(

)

して行者(色。を置いている。

-(Z白星陪〉の公園

(gm〉にタンク(同

53を建設して行者

(ECを置き、

同年かれらは、

その扶持に園家から郊村サガットプラに二

O

同じ郡のアlワリl(〉

3-C村にもタンクを建設し、

また寺を建立

ダlナット

・ラlイ!とラチマ

ン・ダlスの名前は嘗時の史料に頻出しているので、

tJ

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かれらは現北部州

(C・句)のムホ

lパ(玄白70Z)

の出身であるが、

ずれもシャ

lのタイトルをもっ祖父ゴ

lピiナlト(の01E門ごと父ハルナ

lト(同REP〉、バッラプ・ダ

lスからすれば

曾祖父および祖父の名前とともに記され、その血縁関係を明示しているところから判断すると、かれら一族のコ

lタI在

住はかなり古いのではないかと推察される。

618

なり著名かつ富絡な一商人であったと考えられる。

し、

ところで、さきの市場村大ラ

lムガンジが存在するバ

lンストゥ

lニ

l郷には、他に二つの市場村があったことは既に

みてきたが、この狭い地域に市場村が三つも形成・建設されてくる背景には、どのような要因があったのであろうか。こ

れら三つの市場村の形成と設展の過程ならびに新村の建設朕況などをみておくことにしたい。

SI. , I r ~ &¥ L

※太線内がノミーンストゥーニー CBansthuni)郷

※語軍部分は、市場村(町)、 都城、 城塞 (その名

務については本文の関係箇所を参照〉

国版3

;'

;'

T.CKHAd R..̂

園版

3は

一九六一年の「センサ

ス・アトラス」の現キッシャンガンジ

- 74ー

郡から醤パ

lンストゥ

l=l郷の部分

を鎖大して示したもので、太線で圏ん

だ部分がその地域にあたる。なお

C々

きに述べたように、大ラ

lムガンジは

今日キッシャンガンジに、

「小」ラl

ムガンジはラ

lムガンジに名稿が襲つ

ている。

これら三つの市場村について、これ

まで述べてきたことを簡潔にまとめる

まず市場村チャッタルガンジ(村

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番挽一七

O〉は、

lパル村から護展したもので、

s・一八五

O(〉・0・H

這ω)年に市場村になったこと、

同じラ

lムガン

ジの名稽をもっ大小の市場村は、ともに

S-一八八八(〉-U-HSC年に建設されたが、

その土地は小ラ

Iムガンジ(同

四五)がビラ

lス村(同一四六)から、

(同一

O八〉の二箇村から得たことなどである。

大ラ

lムガンジ(同一

O七)はラ

1ニ

l

・バロ

1ド村(同一

O四)とディ

lロlド村

市場村大ラ

lムガンジは、建設された嘗時の領域は三、八一四ビ

1ガーであったが、

s・一八九ニ(〉-U-H∞ω印)年に

は九、三三

Oピlガ!となり、大きく接大している。園版3は今日の地固であるから、まずは建設された嘗時のおおよそ

の領域、

つまり村と村の位置閥係を確認しておきたい。市場村大ラlムガンジの南に熔接するラlラ

1プラ村(同一一一)

S-一八六四(〉・ロ-H83年カlムタl村(同二

O〉から分離・濁立しているから、

カlムタl村のもともとの領

域はこのラlラlプラ村をふくむ地域で、

大ラlムガンジに郷接していたことになるが、

この時黙ではこの市場村は生

したがって、

- 75ー

まれていないから、ディ

lロlド村〈同一

O八)と境を接していた。

(〉-U-H80〉年この郷の行政府のおかれている都城バ

Iンストゥlニ

l(同一=一)から生まれた村である。

この大ラ

1ムガンジが建設されたとき、その東側は全面がこの都城と都り合っていたことになる。

また

ヒlラlプル村(同一

O六)は、

S-一九

O七

この市場村の領域的援大は、その土地のかなりの部分をかつて母村であ司たラlニ

l

・バロ

lド村(同一

O四)から得

たことによる。その後キッシャンガンジに名稽を襲え、今日ではかつてのパlンストゥ

Iニ

1郷よりもはるかに康いキッ

シャンガンジ郡の郡都になっている。

市場村小ラlムガンジ(同一四五〉は、

名前の紛らわしい大ラlムガンジが今日では郡都キッシャンガンジになり、互

いに大小で匝別する必要がなくなったためか、市場村ラlムガンジになっている。この市場村も母村ビラlス(同一四六)

からわずか

一、九四四ピ

1ガlの土地を得て建設されたが、

s・一八九二(〉-U-Hg印)年にはその領域を七、

四八六ピ

619

ーガ

1に蹟大している。しかし、十九世紀後半以降その護展は鈍化したのであろうか、園版3でみるとその領域は縮小し

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620

ているようである。

市場村チャッタルガンジ(同一七O)はダ1バル村からの護展である。

七、七六四ビ

lガ!という庚大な領域をもっていたが、九

O年後の

S・一八六四(〉・

0・503年には三、

とその領域を牟分以下に狭めている。しかし、固版3で見るとその領域は康く、十九世紀後牢以降に抜大したのであろう

S-一九

O九(〉-UHgN)年には新村ドlラットプルを建設し、郷接する城塞ナ

lハルガル

(ο252与民間俗芸)

s・一七七四(〉・ロロ』吋)年の「検地」では、

一四九ビ

lガl

か。なお、

(同一七二〉から村落の導師(聞き口問EE)二人を招いている。

なお

この新村の名は園版3にはみられず、

また

S・一九

一二(〉-U-H83年の記録にも見られないから、再びこの市場村に吸牧されたのであろう。

なお、市場村大ラ

lムガンジは、都城バ

lンストゥ

lニ

Iに郷接していること、市場村小ラ

lムガンジの母村ビラ

lス

(同一四六)は、この時期に都城となった城塞パンワルガル

(08Z∞Zロ耳目同宮HY)(

同一二三)とその北側で境を接している

こと、市場村チャッタルガンジは、その東側で城塞ナl

ハルガル

(08ZZ与問宮子)(同一七一一〉に接し、

その西側には、

- 76ー

村を一つ越えてこの時期に都城とな?たジャルワ

Iラl

(同二ハ二)があることなど、これらの城塞や都城の存在は、市場

村の形成・建設との闘係においてきわめて重要である。

さて、バ

lンストゥ

1ニ

l郷の新村は、どのような出現の過程をとっているのであろうか。筆者はこの郷の

S-一七八

一(〉・0・ロNC年からS・一九一一一(〉・ロ-HgS年までの

タクスィ

lム文書のうち、

いくつかの年度をとってそこに記

載されている村を

「セン

サス

・アトラス」のキッシャンガンジ郡の地圃の該首箇所にマークし、

地圃を塗りつぶしてみ

た。ここでは園版3にその名が記されているが、

S-一七八一年のタクスィ

lム文書にはみられない、

つまりこの嘗時ま

だ出現していない村をチェックしてみると、それらは村番競一

O六、

一O七、

の村である。これらの村のうち、村番披一三八のク

lンディ

l

(関

DOE-)村を除くすべての村は、

スィ

lム文書のなかにその名を見いだすことができる。また、この郷の中央部にある村番統一三

O蓋前後の村は、その村

一三八、

一四三、

一四五

一六

S-一九一二年のタク

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域はきわめて小さいが、すべて

S・一七八一年までに出現している。

このことは、

1ルバティ

(3司

EZ〉川に沿ったこ

の地域が肥沃で農業生産力が高く、早くから開裂されていたことを示すものと考えられる。

さきのグlンディ

1村を除き、十九世紀半ばには今日その名をみる村がすべて出揃っていることは、この時期までに開

墾一、開費、新村の建設という生産力の外延的護展が一つのピlクに達したことを意味している。もちろん、郡郷によって

その時期には若干のズレはあるが、以上の貼は都城ディlゴ

lドとその周遣の村、都城パーラーンとその周過の村などは

既に見た通りであり、

さきの市場村ガネ

1シュガンジをもっイタ

Iワl郡やその歳市(白色白)で有名なチャ

1ンドケlリ

1村を鄭りにもつ都城カlンプルのカ

Iンプル郷でも同様である。

は、こうした農業生産力の瑳展があったと考えてよいであろう。

嘗時の市場村(町)の形成と建設、その護展の背後に

それでは、とうした市場村〈町)の形成・建設とその護展、

の郡郷の都城との閥係をどのように考えたらよいのであろうか。市場村(町〉の形成や建設はもちろんのこと、新しい都

城の形成もまた、農業生産力の護展を背景にしたものであることはいうまでもないが、ここで重要なことは、市場村(町)

同時期に形成されてくる都城と郡都に代表されるこれまで

- 77ー

とこれまでの奮い都城との関係であろう。

新しく市場村(町)として形成・建設されてくる村は、その多くが奮い都城の分村からの設展か、または都城から土地

の一部を得て、あるいはまた都城に鄭接して建設されて

いることである。このような事例は、既にたびたび言及してきた

(

)

都城カlンプルに鄭接し、歳市で有名な市場村チャlンドケlリ

I(のEE52Cにみることができる。

この村は市場村といっても、村名の語尾に「

mgどをもっているわけではなく、その形成は十七世紀にさかのぼると考

えられる。この村がどのようにして形成されたかは嘗時の史料がないのでわからないが、都接する都城カIンプルとの位

置閥係から考えるならば、都城カlンプルの分村から市場村へと護展したか、あるいは都城カlンプルから土地を得て建

621

設されたかのいずれかであろう。

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622

都城では一般に週市が聞かれており、

なかには歳市を開催する都城もあった。

都城はこういった市(いち)と寺院との

深い結びつきをはじめ、人々の出舎いと寺院への参拝ならびに遠近を問わず一商人や生産者たちの出舎いと一商品の生産と交

換、買買の場所であった。このチャ

1ンドケ

1リi村が郷りの都城カlンプルをさしおいて歳市を聞いていることは、こ

の村が都城カ

lンプルの都市(都城〉的機能、経済的機能を代行しているとみることができる。

プルが都城としての機能とその護展において、その限界に達していたことによるのであろう。

それはまた

都城カlン

既に指摘してきたように、この時期までに王都ナンドガオン(コiタ

i〉、

都城ディlゴ

lド、都城パーラーンなどは、

このことはその都市(都減〉的機能とそ

質質的には分村を創出し、新村として分離・濁立させてゆく活動を終えていた。

の設展が、これまでの都城域の枠組みのなかで展開することを不可能にするもので、

その打開の方向が求められていたと

いえよう。それが、都城域に形成・建設されてくる市場村(町)であり、

する新しい都城の出現であ司た。

蓄来の都城にかわって、新村の創出活動を展開

- 78ー

王都ナンドガオン(コlタ

l)

にしても、

すでに

S・一七七二(〉・

0・見広)年ナlトドクワlラl(Z巳E者向田〉の町に

ある著名なシュリ1

・ナlト・ジlgrユZ包r』

H)

寺院に劃して、

地租が寄進されている。

一方では寺院領として、他方では護展の払跡地のない狭い都城壁のなかで、新しい生産力の展開に

どう針鷹してゆくかが、嘗時都城ナンドガオンの重要な課題になっていたものと考えられる。十九世紀初めに形成された

コlタ

Iの名を聖地ナンドガオン名へと獲更し、その

都城ラlムプラ(何回ヨ司Rと、

さきに見た市場村ドlラットガンジならびに市場村ウメッドガンジは、

いずれもこの王都の

目と鼻の先に形成・建設されている。市場村ウメッドガンジは、瞬く聞に歳市で著名になり、

王都の機能を奪っている。

(お)

これらの市場村(町)と都城は、今日いずれもコlタ

l市の都市域

(FZロ〉円

g丘町ハ♀るのなかにくみこまれているが、

ここにもまたコlタlの都市(都城〉としての新しい、

かつ護展の別の形をみることができる。

Page 24: Title 十七世紀後半-十九世紀前半 北インドにおける …repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/...十七世紀後竿 J 十九世紀前竿 北インドにおける都城と市場町

十七世紀(あるいはそれ以前)からすでに郡都であった都城は、

十八世紀を通じて分村を生み、新村を誕生させていった

が、その活動も十九世紀に入る頃から女第に鈍くなり、十八世紀後半にはこれと競合するかのように、新たに都城あるい

は「∞

gどの語尾をもった市場町(村〉が形成されてくることをみた。新しい都城は、その大部分がこれまでの村(本村あ

るいは分村)の成長、護展によるものであり、市場町(村)の形成もまたそうした村からの護展によるものがあったが、

れと並んで既存の村、とりわけ複数の村から土地を得て市場町(村)として建設されたものもあった。

こうした新しい都城の形成や市場町(村)の建設、

〈沼山)

ったことは言うまでもない。なかでも、市場町(村〉の成立が、奮来の都城の分村から成長、震展したもの、あるいはそ

の郷接地に建設されたものであったことは、奮来の都城が嘗時の経済的、社舎的護展を支えきれず、都城としての護展が

その限界に達していたことを如賓に示している。そうした動きが、また新しい都城の出現を促したものであった。

いずれにせよ、本稿を終るにあたって、二つの大きな課題が残されることになった。その一つは、奮来の都城がその護

その内部構造はどのような内容をもっていたかを究明することである。また、これまで

設展が、首時の経済的、祉曾的護展によって生み出されたものであ

-79 -

展の限界に達していたとすれば、

展開されてきた新蓄の都城による新村の創出活動や既存の村から土地を得ての新村の建設といった活動が、十九世紀中葉

までにほぼ終了していることは、農業生産力の外延的設展がそのピ

lクに達したことを物語っている。したがって、第二

の課題はこうした経済的護展を前提にした場合、これにつづくイギリス支配下でのインド経済をどのように理解するかと

いうことである。

623

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Rajasthan under the

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J払h冶叫alra-

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右手:製,1-民<11

掛-'g[O

-g[-¥]'( -',;,会J

~盤。

(回)

Gupta, C. s.

, Census 0

1 lndia .1961

, Vol. XIV, Rajas-

than, part

IX-A, Census Atlas

, New Delhi

, 1967

.

Mathur, U. B.

, Census ollndi・'a

1971, Series

18-Rajas-

than, part

IX-A,

Administrative Atlas

and Supplement

to Administrative

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, 1976

(∞) Taqsims Tafa Harigarh, S.

1772

, S. 1780

, S. 1781

, Basta

No. 1/2,

Bhandar NO.6.

(ト)

Taqsims Tafa K

undi, S.1781

, Basta

No.1/2 and S.

1811, Basta N

o. 3/2

, Bhandar No.6.

(∞) Taqsims Tafa K

akurni, S.1781

, Basta N

o.1/2 and S.

1824, Basta N

o.3/2

, Bhandar No.6.

(∞) Taqszms Tafa

Deikhera, S.1780, S.1781

, Basta

No.

1/2, Bhandar No.6.

Jama Tafa Panwar, S.1798, Basta

No.51/1

, Bhandar N

O.1

(8)

Taqsim T

afa

Binaiga, S.1781

, Basta N

o.1/2, Bhandar

No. 6.

~J兵V.t!'

ω・1 -¥]<

K.¥!士制'i-'

Q~暗殺1s烈

Ittれ)~Y

:, t(l

O Jama Pargana D

elanpur, S.1798, Basta

No.51/1,

Bhandar No. 1.

(口)

Singh, M. P.

, To叩n,Market, Mi

nt and Port in

the

Mughal E

mTire,

1556-1707 (an Administrative-cum-

Economic S

tudy), Ne

w Delhi

, 1985,

p.29.

(岱)

;j!t,....l:'恥縦士~'l;;みJ

~心-i2舟νお

~J必ム-i2ム。

(~) 索

i雲「十〈車lm~十長卓lml~1寝

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11'111穏や主主総,

1~兵|社。

(ヨ)

Taqsims Pargana Kota (Nandgaon), Basta

Nos.1/1,

1/2, 2,

3/2, 4,

21/2, 21/2

, 22/1

, 22/2

, 23/2

, 27, 51, 53,

S.1719-1912,

Bhandar No.6.

(~)

1'.ll-

~-(bigha)ど'<余Q同Ij--Rーや保持。

(~) トーもムト-~t!'

<irrn¥-'

t!n一気-jEQ鴇jE望書

Q.f.ヨム以〉

rやJ制~ν

ムt(l~之Q

1やや

n一気-jEQ脳幹事~v.~奇心。

Govt.

of Rajasthan, Master Plan lor Kota, 1971-1991,

Jaipur, 1977

, Ma

p of

Kota.

(~コ)1~~翠判事['-4 ~え

E量、「入~Q

図総..lJ

ì足側

JJ'11111'(-

'.),' 組長

11阪会J~盤

。1~繋草~l寝

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he Growth of

Towns

Page 26: Title 十七世紀後半-十九世紀前半 北インドにおける …repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/...十七世紀後竿 J 十九世紀前竿 北インドにおける都城と市場町

出NU

(Qasbas) of Southeastern Rajasthan u

nder the

Mughals,"

p.61.

C~)

Taqsims Pargana Mangrol, S. 1866 a

nd Pargana Baran,

S.1864, Basta

No.23/2, Bh

andar No.6. Taqsim Tafa

Raipur ,

S.1846, Basta N

o.17/1,

Bhandar No.6.

Taqsim

Tafa Kakurni,

S.1878,

Basta No.27,

Bhandar NO.6.

C~)

Taqsim Pargana

Baran,

S.1865,

Basta No.23/2,

Bhandar NO.6.

C~ミ)1~~~j宴「十平~十〈主1~特ヤ〉江主」

4完全向精軍事110

νJ H引くー

l国平て-',,¥。

C~)

Taqsim Tafa Atro,

S.1825,

Basta No.4,

Bhandar No.

6.

cm 器提

i:t;:・4ミ-t<ι

.,l)

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l-1同11'

1同く

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l倫理:。

cm Taqsi・'ms

Tafa Jolpa

, S.1781

, Basta

No.1/2; S.1825,

Basta No.4; S.1835,

Basta No.7/2;

S.1857,

Basta No.

22/1; S.

1865, Basta

No. 23/2;

S. 1871

, Basta

No.

25;

S.

1878 , Basta N

o.27; S.1883,

Basta No.30;

S.1903,

Basta

No.53; 8.1912,

Basta No.51,

Bhandar NO.6.

(詞)

Taqsims Tafa Bansthuni, S.1781

, Basta N

o.1/2; S.

1851,

Basta No.18/2; S.1856 Basta

No.21/2; S.1865,

Basta No.23/2; S.1877,

Basta No.27; S.1883

, Basta

No. 30;

S.1903,

Basta No.53; S.1912,

Basta No.51,

Bhandar N

o.6.

c~)

Taqsims Tafa Raipur,

S.1847,

Basta No.17/1; S.1857

Basta No. 22/1;

S. 1871, Basta N

o. 25;

S. 1877, Basta N

o.

27; S.1883 ,

Basta No. 30;

S.1912,

Basta No.51,

Bhandar

No.6.

c~)

Taqsims Tafa Bansthuni,

S.1903,

Basta NO.53 and

S.

1912 , Basta N

o.51, Bhandar NO.6.

c~)

Taqsim Pargana Barod,

S.1912,

Basta No. 51

, Bhandar

NO.6.

cm Taqs加

Pargana(Tafa) Itawa

, S.1843,

Basta No.12,

Bhandar No.6.

cgJ) Taqsim Pargana (Tafa) Nandgaon,

S.1847, Basta N

o.

17/1,

Bhandar NO.6.

(宕)

Taqsims Tafa Bansthuni, S.1903,

Basta No. 53 a

nd S.

;xj

1912,

Basta No.51,

Bhandar No.6.

(2) Parτvana from Maharao Shri U

mmed Singhj i

to Shah

Danat Rai,

Lachhman Das,

Salag Ram,

Beta Balabh Das

Mohomya,

S.1845 in

Toji File

(Docket Cover).

(~)

Parτvana from Maharao Shri U

mmed Singhji to

Patel

and Patwari of M

auza Sagatpur T

afa Nandgaon,

S.1839;

Parω

ana f

rom Maharao Shri

Ummed Singhji

to Pate!

and Patwari of

Mauza A

wali Tafa Raipur ,

S.1839 in

Toji File

(Docket Cover).

(~) 1~~君~j建

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,l)λ~~-挺

J1同

1-1

同川

O(_,;;,,~~。

(苫)

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1同4く

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0零慢「十平一十〈事l恩寺号、「

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2宅入江主l~士約書重量E準型-R.\)n長

柄J

(己)'倒E雲閣

4く時製駆動.

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『鑓揮!ÇS!Hl三隙』線十川~総

111穏,

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11干ミー

<111'(-'.\~区。

(::g) Govt.

of Rajasthan,

op. cit.

, Ma

p of

Kota.

C~)

納堂

E子科、で〉

1ムQl'.!;!揮!C:!li告訴

1IIlUl.(¥

:, ¥-' ~三'~ドーお

l偽巴

i。

Gupta,

B. L., Trade a

nd Commerce in

Rajasthan dur-

ing the

18th Century,

Jaipur,

1987.

Bayly,

C. A

.,

R叫ん

rs,

Townsmen a

nd Bazaars-North lndian society

in the

age of British e

xpansion,

1770-1870ー,Cambridge, 1983 .

.¥).0兵士'

近話網f三トト弘幸号望書

CI'l草寺号者百三三くu.P.))

~兵士約

十E世~!a

Q4長11$(.誌謀略拠品Eυ.;2制匝Þ\~$~t-'~向。

ひミαコ

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of this paper is to show a series of cases of succession to the right of

administration of a waqf, which offers some hints to solve the problems

mentioned above.

  

A11 these cases had been brought many times between 1253 and 1352

by the members of the ‘Asrun family, who belonged to the Sh託‘i madhhab

in Damascus, and had been judged under many qadis, who belonged to

the different madhhabs. Qadi al-qudat al-hanafi al-TarsusI (d. 1357) noted

and tried to explain about these cases in his work al-Fatawa al-Υarsusiya.

  

From these cases which he wrote in his work, we see the followings:

  

1)Q呻s judged the cases based on the theory of their own madhhabs.

0f course they sometimes judged them within their own discretion.

  

2) It is certain that there seemed to be superiority between the madh-

habs, but there was no superiority between the judgements based on the

madhhabs.

  

3)The difference of the madhhabs which qadis belonged to is not the

factor that hindered them from disposing of the cases.

  

4) There was no relation between the madhhabs which the party sup・

ported and those the qa(μbelonged to. In the cases that we have seen. the

members of the 'Asrun family chose the different madhhabs at every

time.

 

One reason for this may be that the party chose the q呵i who

would pass a desirable judgement for the party's own.

THE FORMATION OF TOWNS (QASBAS)ANDMARKET

   

TOWNS(ORVILLAGES) IN NORTH INDIA,

           

A. D.1650~1850

Sato Masanori

  

The towns (qasbas) under the Mughals were the state capitals and

countyひαΓgα7zα) headquarters in the states of Rajasthan and in the state

of Kota in particular. These towns later became the centre of commerce

and crafts as well. Besides these towns, a lot of new towns and market

towns (villages) with a su伍χo£“gani”(market) came to appear in the

- 2-

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Kota State from the latterhalf of the 18th century according to the contem-

porary Rajasthani revenue records preserved at the Rajasthan State Ar-

chives, Bikaner, India。

  

New towns evolved generally from very big villages on their way to

which created several small villages(dakUl)and made most of them

independent (α∫li),and continued the same process even some time after

their formation. Most of these towns were commercial and / or industrial

in their character。

  

0n the other hand, market towns (or villages) were either estab-

lished very near an old town by夕'atels(village headmen), merchants or

the state by acquiring lands from its neighbouring villages,or they

developed from a small village that was attached to an old town。

  

Thus the formation of new towns and market towns (orvillages)

denotes clearlythat old towns of Kota region had already attainedthe peak

of their commercial and / or industrial activityaround the middle part of

the 18th century and had no capacity of further development within their

eχistingframework of economic and social organisation. However, it

seems that up to the middle part of the 19th century, the activity of

establishingnew villages had almost stopped, and they had to adopt some

new methods of agricultural and industrial production to realize further

the economic development of this region。

  

The economic and social structure of towns and market towns (vil-

lages) not discussed here is left asa topic to be studied later.

 

APRELIMINARY ESSAY ON POLITICAL STRUCTURE

IN SUNG CHINA―TAKING YI 議AND DUI對ASCLUES―

HiRATA Shigeki

  

This article analyzes yi and dui which p!ayed important roles in

decision of policies and eχistedoutside the process from design to enforce-

ment of policies, carried out in three departments, that is, Department of

Secretariat (中書省Zhong Shu Sheng), of Chancellery (門下省Men Xia

                 

-3-