Title 『大清刑律』から『暫行新刑律』へ--中國における近代 …」L...

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Title 『大清刑律』から『暫行新刑律』へ--中國における近代 的刑法の制定過程について Author(s) 田邉, 章秀 Citation 東洋史研究 (2006), 65(2): 239-271 Issue Date 2006-09 URL https://doi.org/10.14989/138194 Right Type Journal Article Textversion publisher Kyoto University

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  • Title 『大清刑律』から『暫行新刑律』へ--中國における近代的刑法の制定過程について

    Author(s) 田邉, 章秀

    Citation 東洋史研究 (2006), 65(2): 239-271

    Issue Date 2006-09

    URL https://doi.org/10.14989/138194

    Right

    Type Journal Article

    Textversion publisher

    Kyoto University

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    浩一幕巳い副司尚

    部汁一民跡部

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    3

    E待

    『大清刑律』

    第一章

    (

    )

    (

    )

    (一一一)

    第二章

    第三章

    から

    『暫行新刑律』

    ||中固における近代的刑法の制定過程について||田

    大清新刑律草案の起草と審議

    大清新刑律草案の起草と督撫の意見

    憲政編査館における審議

    資政院における審議

    新刑律草案上奏の権限をめぐる問題

    『暫行新刑律』の施行

    l土

    一九世紀後半以降、相次ぐ内憂外患により、清朝の支配盟制は明らかな動揺を見せていた。こうした問題に針臆するた

    め様々な改革が試みられ、光緒一一六(一九OO)年の義和圏事件及びそれに績く八カ園連合軍の北京占領後には、西太后

    のもと統治瞳制の抜本的饗草を目指す「新政」が始まり、近代的な法典編纂事業や司法制度の改革もこの時期ようやく本

    格的に試みられることとなる。従来濁立した法典を持たなかった民法、商法や訴訟法などの制定が進められるとともに、

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    法一幕任問『叫阿部汁一いh跡部ハ中日宍)出・

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    基本的には刑法典であった

    『大清律例』にかわる新しい刑法の編纂も賓行され、行政機構から濁立した審判醸の設置も進

    められていった。そしてこの一連の事業の中で準備された法典や各種の法律の多くが中華民国誕生後も基本的には縫承さ

    れていくこととなり、近代中園における法瞳制を賓質的に規定していくこととなる。

    なかでも刑法典である

    『欽走大清刑律』は、中華民国成立後に責質的にはほぼ同内容の

    『暫行新刑律』として施行され、

    一九二八年蒋介石の圃民政府より新しい刑法が制定されるまで、中華民国の刑法として機能していた。さらに一連の審議

    過程の中で推進振と反封抵の聞で激しい議論が戟わされてきたこともあって、この『大清刑律』

    の編纂過程はこれまで多

    くの研究者の注目を集めてきた。

    (i)

    まず代表的な先行研究として小野和子「五四運動時期家族論の背景』が奉げられる。小野氏はこの論争を日本の民法典

    論争に匹敵する「刑法典論争」と位置づけ、三綱(忠・孝・節)、特にこのうち孝と節をキーワードとして論争の考察を行

    うとともに、これが五回運動時期の停統的な家族制度批判の背景となっていったことを賓誼している。このほかでは、黄

    (2)

    源盛、張仁善、李貴連、松田恵美子、挑勝旬氏らが、この論争を礎教汲と法理抵との封立という覗酷から捉えている。ま

    た、

    kF50ロω告の吉ペ2ロぬ氏の研究は、資政院での新刑律の審議を、昔時の新聞がどのように報道していたかについて

    (3)

    も着目している。

    「政治官報」や「清末誇備立憲棺案史料』(以下『棺案史料』と略す)所牧の上奏丈、あ

    るいは草案作成から審議において主要な役割を果たすことになる沈家本、勢乃宣、楊度らが護表した丈章の分析だけに止

    (4)

    まり、憲政編査館から資政院にいたる審議過程の考察は充分になされていない。小野氏の研究は資政院の速記録を使い審

    ただし従来の研究は、主として

    議の過程を詳細に検討しているが、閲心の中心は前述の通り「孝」と「節」の問題に集中しており、また資政院での審議

    終了後から頒布に至るまでの経緯については言及がない。概して先行研究は思想史的闘心に偏っており、新刑律頒布に至

    るまでの手績きについての検討が不十分である。しかしながら、

    さまざまな批判はあるにせよ清朝政府が立憲制を志向し

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    ていたのであれば、法律がどういう手順で頒布されたか、あるいは頒布されるべきと考えられていたのかという問題は、

    法律の内容やその日疋非をめぐる論争と並んで重要な論貼であり、昔時の政府と園舎の閲係についての認識を探るうえでも

    重要な問題となる。しかも刑律は訴訟律や民律と異なり、清朝政府において頒布された法典であり、法典編纂過程の典型

    例とみなすこともできる。よって本稿が主要な課題としたいのは、「大清刑律」

    の頒布に至るまでの手績きをめぐって起

    こった意見の相違を検討することである。

    そこでまず昔時の法典編纂にかかわる機関について簡単に言及すると、刑法や民法などの基本法典を起草していたのが

    修訂法律館である。そして憲政編査館は軍機大臣の管理の下、この時期に起草された多くの法律を審議する役割を捨って

    いた。また資政院は園舎の前身として、宣統二(一九一

    O)年に開設されたが、珠算案の審議等と並んで、法典の新訂及

    ぴ修改については、その議決を経るべきであることが定められていた。昔時準備されていた法典は、まず修一訂法律館で起

    草され、次いで憲政編査館の審議を一経た後、資政院において議決を得るということが、ひとまず師走路線となっていたの

    である。

    以上のような経過を経て新刑律は頒布されるはずであったが、責際には頒布までの手績きをめぐって新刑律推進一以内部

    に見解の相遣があった。これは昔時いわゆる立憲振と目されていた清朝の中央官僚たちが、来るべき園舎と政府の関係を

    どのように捉えようとしていたか、また賓質的な「立法権」がどうあるべきかという議論にもつながってくる。さらに、

    この頒布に至るまでの手績きをめぐる問題が、今見る形での『大清刑律』を成立させる直接の契機となり、さらに中華民

    の援用が決定され『暫行新刑律』として施行される際にも影響を輿えることとなった。

    固に入ってただちに『大清刑律』

    こうした貼を本稿では明らかにしていきたい。

    241

    以下本稿の構成を説明する。第二章で新刑律草案の起草から資政院における審議過程までを述べる。ここで特に注目し

    (5)

    たいのは新刑律草案の骨抜きをはかるため、正文の後ろに附則として附けられた暫行章程の取り扱いである。暫行章程が

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    (6)

    近代的刑法としての新刑律の性格を大きく損なうものであるという賄は先行研究でもつとに指摘されるところではあるが、

    資政院においてこの暫行章程がいったん麿止されたことを明らかにする。この暫行章程が麿止されていたという問題は先

    行研究においても見落とされてきた貼であるが、暫行章程が新刑律に奥える影響を考えれば、草案に封し同じ賛成の立場

    をとるにせよ、暫行章程があるのとないのとではその意味合いが大きく異なってくるはずである。

    ついで第二章では新刑律頒布にいたるまでの手緩きをめぐって推進抵の中に見解の相違があったことを明らかにする。

    上述のようにこの問題は清末の賓質的な立法権の所在にも関わってくる。第二章では史料として首該時期の新聞報道のほ

    (7)

    か、新刑律草案の審議にこの時期一貫してかかわっていた迂築賓の日記を使用する。庄柴賓は日本の早稲田大撃に留撃し、

    首時は民政部左参議粂憲政編査館編制局正科員の任にあり、同時に資政院議員にも名を連ね、とくに資政院法典股の副委

    員長として、院内の審議に主導的な役割を果たしていた。したがって彼の日記には新刑律草案にかかわる記述が数多く見

    られる。

    そして第三章では、民園初年に『大清刑律」が『暫行新刑律」として賓際に施行されることとなるその経緯を見ていく。

    特に他の法典の頒布施行状況と比較していくことで、「大清刑律」が頒布までこぎつけたことにいかなる意義を見出しう

    るのかについて検討していきたい。

    信用一土早

    大清新刑律草案の起草と審議

    一¥-〆

    大清新刑律草案の起草と督撫の意見

    義和園事件後に、瞳制の抜本的饗草の必要性を悟った清朝政府は、「上からの近代化」に着手することになる。いわゆ

    の開始である。その中で法律制度の改革も模索されることとなるが、光緒二八(一九O二)年、清朝とイ

    る「光緒新政」

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    ギリスとの聞で締結されたマツケイ候約において、中国の法律および裁判制度が改善されればイギリスは領事裁判植を放

    棄する準備があるとの丈言が入れられ、他の列強諸圃もこれにならったことで、清朝政府は近代的な法典の整備を目指す

    こととなった。

    (

    8

    )

    (

    9

    )

    (

    日)

    同年沈家本・伍廷芳が修訂法律大臣に任命され、修訂法律館も設立し、さらに日本人法律顧問が招聴され、近代的な法

    典編纂の準備が着々と進められていった。

    (日)

    そして光緒三三(一九O七)年、日本人顧問岡田朝太郎の手により起草された新刑律草案が沈家本から上奏された。抽総

    則は八月、八刀則は十一月のことである。この草案は岡田の年来の抱負を貰現したもので、罪例を刑例の前におき、また判

    決を下す際の法の適用については、頒布以前の罪であっても新法で裁き、奮法で罪に問うていないもののみ無罪にすると

    (ロ)

    いった他の園の刑法には見られない特徴も備えていた。また総則提出の際には新刑律制定の理由として、領事裁判権を撤

    廃することを含めた三つの理由が奉げられ、また新刑律の五つの特徴として、①更訂刑名(従来の五刑を厳止し、死刑・懲

    役・耕一市鋼・罰金に改める)、②酌減死罪(死罪適用の範園を縮小する)、③死刑唯一(死刑の方法を絞刑のみとし、かつ公開庭刑を慶

    (日)

    (

    V

    N

    )

    止する)、④捌除比附(罪刑法定主義の確立)、⑤懲治教育(責任年齢(一六歳)の設定)、が表明された。ただしこのうち②、

    ③については現状にかんがみて別に暫行章程を用意し、奮律の規定を適用するという構想も示した。

    また草案の中でもっとも問題詞附されることとなる礎教との闘係についても、起草者である岡田自身、隼親属・屍瞳墳

    (日)

    墓・誘拐に闘する罪を加重して、中国の風習に配慮したと述べている。

    かくして新刑律草案が完成したのであるが、この草案が憲政編査館に迭られた後、各部、各督撫にその是非が諮られる

    (

    )

    (

    )

    ゃ、皐部や安徽巡撫橋脚…をはじめとして、績々と反封意見が寄せられた。草案の具樫的な問題貼として多くの督撫が言及

    している酷は、①比附の醐除、②量刑を裁判官に任せる、③死刑が絞刑のみ、④奮律に比して刑が軽すぎる、⑤日本語か

    243

    ら取り入れた語葉が多い、⑥掌親属に封する犯罪に針し凡人に課される刑と大差ない、⑦無夫和姦(配偶者のいない女性と

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    和姦に及ぶこと)が無罪、

    の七賄である。暗殺に閲する部分だけでなく、①、②のように近代刑法の基本的な原則につい

    ても反封意見が強かったのである。その好例は山西巡撫賓棄の上奏丈であり、そこでは以下のように述べられている。

    細川則は律に正僚が無ければ、罪とすることはできないことを明白にしており、思うにこれは比附を削除して、音山のま

    まに軽重をなすことを避けようとするものであろう。しかし候目は千費高化する事象にすべて針臨することはできず、

    邪な者が罪を避ける門を聞くことになる。罪名の等差は、また某刑より某刑までとして、上下がかけ離れており、こ

    とごとく裁判するものが自ら審議し定めることを許している。目下裁判の人材は快乏しており、法律に習熟していな

    (時)

    いものでは、任意に罪を高下させ、レ庭断が公平でなくなる恐れがある。

    この上奏の後半で問題とされていた貼は法が恋意的に運用される危険性であり、督撫の多くは現肢に鑑みて裁判官による

    時々の判断に信頼を寄せることができず、むしろあらかじめ法によって量刑まで定めるべきだとする「律」の設想が根強

    く残っていた。また新刑律草案が領事裁判権を撤廃することをその目的のひとつとしたことについても、瞳教を無頑した

    (

    )

    法律では、領事裁判制度の問題を解決する前に固が傾いてしまい、本末縛倒になると指摘した督撫もいる。

    その一方で少数ながら新刑律草案に賛成を示したのが、山東巡撫哀樹勲と、連名で上奏丈を提出した束三省線督徐世昌、

    吉林巡撫陳昭常、署黒龍江巡撫周樹模であった。哀樹勲はまず法律改正が、列園競争の時代にあっては、園を守るため必

    要不可依であるとしたうえで、威嚇主義的な奮律がすでに時代にそぐわないものであると指摘し、領事裁判権撤麿という

    (初)

    所期の目的を達成するためにも新刑律草案の施行が必要であることを主張した。

    また束三省総督徐世昌らは法律が憲政の根様であるとした上で、平等や人格の隼重といった酷にも一定の理解を示して

    いる。また嘩数抵の督撫の多くが否定的見解を表明した罪刑法定主義についても、彼らとは封照的にそれを規定した第一

    O候の築註において賛成意見が述べられている。

    本僚の規定を考えると、これは比附を麿止するためのもので、本律の中でも最も精神のあるところである。刑律を護

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    布するのはもともと人民に何をなすべきかなさざるべきかを明らかにするためであり、凡そ律例の許さないところは

    律に照らして罪を科す、というのが正首な庭置である。(中略)現今の改正刑律の意圃は法典を整頓して明示するこ

    とで、圏内の臣民が従うのに弊害が無く、外園の固民が信じ守ることに疑いが無いようにすることである。この種の

    不完全な制度は欧米各国ではもう既に禁例とし、わが圃の最近の撃者もその非を知っている。本律がこの制度を採用

    (況)

    しなかったのは、もっとも完全ですばらしいことである。

    ここで徐世昌らが述べているのは、人民への法の明示の必要性であり、領事裁判制度撤廃のためにも罪刑法定主義の確立

    が必要であることを主張している。

    一方で檀数振が常に裁判官の恋意性のみを問題にしたのは、統治の安定のために、ど

    うすればすべての罪を遺漏無く捕捉し得るのかという「律」の琵想に固執していたためと思われる。

    一部賛意を示した督撫はいるものの、大部分は反封意見ばかりの各地方官の音山見提出を受けて、宣統元年一一一月

    には法部向書廷烹が修訂法律大臣の沈家本らと連名で第二次草案を上奏した。

    以上、

    一次草案からの主な壁更貼は、倫常にかか

    わる部分を一等加重するというもので、君主、尊親属に封する罪に饗更が加えられた。また草案中の車語が若干修正され

    一方で比附や量刑についての規定は、正丈上では壁更されなかった。

    しかしながら三綱五常の、水遠に遵奉されるべきことが改めて再確認され、このため刑律本丈とは別に附則の五僚が追加

    されることとなった。この附則五僚についてはすでに小野和子氏の専論があり、その内容について詳細に検討しているが、

    (出)

    ここでも行論の必要上各候の規定について見ていきたい。第一僚は量刑判断について奮律を参照し別に判例を用意して援

    引させること。第二僚は中園人に封しては倫紀礎教にかかわる罪(十悪、務塚、犯姦生寸)は奮律によって裁くこと。第三僚

    は君主に釘する罪や内乱罪には斬刑が適用できること。第四僚は強盗罪については最刑でのぞむこと。第五僚は中国人に

    245

    は隼親属に針して正首防衛をみとめないこと。以上の五黙である。第二候、第五伎は中園人のみ封象とすることが明示さ

    れている。この附則がつくことによって、露骨に奮律の復活が誼われ、まさに新刑律の精神は骨抜きにされようとしてい

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    (お)

    たことがわかる。ただしここで奉げられている諸賄がなお附則という形をとり、正丈中に組み込まれなかったのは、領事

    裁判制度を廃止するという目的を達成するためであった。

    なおこの間には新刑律施行までの経過措置として

    れていた。宣統一万年八月修訂法律館より草案が上奏されたのち、憲政編査館へ迭られて審議され、翌宣統二年四月憲政編

    『大清律例』に大幅な修正を加えた

    『大清現行刑律」の修訂も進めら

    査館より上奏、これが裁可されて頒布施行の運びとなった。ただし「大清現行刑律』

    (お)

    の枠を出るものではなかった。

    の内容は、時勢に麿じて若干の修正

    が加えられたものの、本質的には

    『大清律例』

    r-¥

    一)

    憲政編査館における審議

    宣統二(一九一

    O)年になると、新刑律草案は憲政編査館に迭られて審議されることになったが、ここでもやはり草案

    が櫨教をないがしろにしているとの批判の撃が奉げられた。その筆頭は憲政編査館参議の勢乃宣であり、正柴賓は、労の

    (釘)

    主張について「礎教に閲する部分については言葉遣いがはなはだ巌しい」ものであったと記している。勢乃宣が新刑律に

    封して修正を求めるために準備したものが「修正刑律草案説帖」であり、これは宣統三年持乃宣自らが編集した

    『新刑律

    修正案柔録」に牧録されている。まずこの説帖の旨頭では第二次草案提出の際の上奏丈が引用されるとともに、この法部

    が用意した草案について「倫常にかかわる諸僚について奮律を参照して正丈の中に修正編入されていない」と不満の意を

    (岱)

    述べ、「奮律の中で倫常にかかわる諸僚については、逐一修正のうえ新刑律の中に入れるべきである」と主張している。

    こうした勢乃宣の批判に封しては、沈家本自らが筆を執り反論を加えた。それが「沈大臣酌擬灘法説帖」であり、勢乃

    官一の修正案に封し、経主目、史書を引用して勢の論撮を切り崩すとともに、おおむね判決録を用意することで、従来の嘩数

    に添った形で法を運用することも十分可能であるとの主張を展開した。さらに犯姦、子孫違反数令の一一貼についてはもっ

    ばら敬育にかかわる問題であり、刑罰を課す必要性はないこと、とくに無夫和姦については諸外国の法律でもこれを罰す

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    る規定がなく、領事裁判権撤廃の観酷から言っても到底正丈中に組み入れることはできないと主張した。これに封し勢乃

    宣は一一際の納得を示したものの、犯姦、子孫違反数令については再反論を加え、再度この二僚を正僚に繰り込むべきだと

    (MU)

    主張した。

    またこの時期新刑律草案をめぐって議論が交わされたのは勢乃官一と沈家本だけではなく、憲政編査韻内部においても、

    館員たちの聞でたびたび意見が戟わされた。『正柴賓日記」によれば、七月一一日には呉廷隻が説帖三件を提出し、その内

    容は「曜教のことばかりを言、つ過ちを痛烈に批判し、玉老(勢乃賃)と針極をなしている。議論は精妙にして透徹してお

    (鈎)

    りわかりやすい」ものであったという。爾者の封立は説帖のやり取りだけにとどまらず、七月六日には合議の席上で、呉

    廷撞らと持乃宣との聞で争論が繰り虞げられることとなり、その様子について「舌戦は長時間におよび要領を得なかっ

    (出)

    た」と表現されている。

    こうした憲政編査館における議論の様子は、各地の新聞においても逐一報道されるところであった。これらの記事によ

    ると、反封汲の代表は勢乃官一と沈林一であったという。沈は勢と歩調をあわせて反封意見を主張し、比附の復活などを唱

    (犯)

    えた。これに封

    L新刑律草案賛成抵として反論にたった代表が呉廷墜と楊度である。八月には憲政編査館内の曾議で雨者

    が激しく議論し、呉廷警は領事裁判制度撤麿の必要性を訴えたうえで、勢乃官一の主張を人遁に反すると斥け、持乃宣が主

    張するような刑律は外園人に到底受け入れられないと主張した。また楊度は、暗殺には国家主義と家族主義の匿別がある

    こと、中園の新刑律は国家主義に進むべきだということを主張した。

    後日の編制局舎議でも、持乃宣が反封の聾をあげた主要二酷である無夫和姦と子孫達反数令の問題が論じられたが、こ

    (社)

    こでも雨僚について法律上に明記して罪を定める必要はないとの判断がなされた。

    247

    以上が憲政編査館内における新刑律草案の審議過程である。説帖のやり取りから賓際の合議における議論を通して憲政

    編査館としての新刑律草案への取り扱い方が決定されていったのだが、憲政編査館員のなかには日本への留皐経験を持つ

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    (日)

    ものが多く、新刑律推進振が多数を占めていたため、結局労乃宣の強く主張した無夫和姦と子孫達反数令の雨案が正文の

    中に明記されることはなかった。そしてこうした議論の結果を受けて、資政院の審議に供するための第三次草案が準備さ

    れることとなる。草案の準備は憲政編査館内の館員たちの手で行われたが、任性宋賓もこの作業に加わっており、彼の日記

    によれば八月九日から十六日まで連日新刑律草案の修改作業を行っていた。また草案提出の際の上奏丈の原案は呉廷印刷ヱの

    (お)

    手で起草された。

    (幻)

    そして一

    O月四日に第三次草案が上奏されることとなる。この草案において特筆すべきことは附則五僚の内容が修正さ

    れ、暫行章程という名に改められたことである。そこでは奮律を適用するというような露骨な文言は影を潜め、

    ひとまず

    法律の篠丈に合わせた形で櫨教に配慮することが園られた。その暫行章程の内容は、以下の五僚からなる。第一僚が君主、

    内乱、外患、隼親属殺傷などの罪には斬刑が適用可能。第二僚は墳墓琵掘、死瞳遺棄罪には死刑が適用可能。第三候は、

    強盗罪は情状に庭じて死刑が適用可能。第四僚は無夫和姦有罪。第五僚は箪親属に封しては正首防衛適用不可、というも

    ので、要するに草案正丈に比べて礎教を重んじ、良俗を最刑によって維持しようとするものであった。そして附則五候か

    ら暫行章程への愛更理由としては、まず附則五僚の第一僚については「別に判決例を編輯して援引に資するのは各圃の通

    例である」としてその麿止の理由を説明した。そして倫紀礎教にかかわる罪は奮律によって裁くことを定めた附則五僚の

    第二僚については、「第二僚が列畢する各項についてはなお奮律を用いるというのはほとんど全瞳の数力を泊失させるも

    ので、ことに朝廷修訂の本意にもとる」とし、あわせて家族制度にかかわる諸僚については草案内で配慮されていること

    が述べられている。

    憲政編査館での審議は新刑律推進汲が優勢であり、勢乃宣の櫨教に閲わる犯罪については正文上に明記すべきだとする

    主張は斥けられた。反封振に配慮するために設けられた附則についても、内容が緩和されたうえ、奮律を適用するといっ

    た露骨な文言も取り下げられ、形式についても整えられたものとなった。ただなお耀数日以の意見を完全には無嗣すること

    46

    11 寸11

  • L 」

    法一幕任問『叫阿部汁一いh跡部ハ中日宍)出・

    3

    E待

    ー「

    はできず、この暫行章程を安協的措置として引き穣き残さざるを得なかったのである。

    以上が憲政編査館による草案審議の模様であり、

    いよいよ資政院の審議に附されることとなる。

    f ¥

    一¥-〆

    資政院における審議

    前節で見てきたような経緯をたどり準備された第三次草案は、園舎の前身に首たる資政院の審議にかけられることとな

    った。資政院は宣統一一年九月に開院され、ここでは各種の法案や珠算案の審議が執り行なわれていたが、その一方で立憲

    政盟樹立を求める運動は過熱していき、各省諮議局などの要請も受けて、九月二

    O日資政院でも圃曾速聞を求めることが

    全合一致で可決され、

    二四日には園合連聞を迫る上奏が提出された。これに封し朝廷は園舎の間合、憲法の頒布の珠定を

    (お)

    四年繰り上げ、官一統五年に短縮するとの上論を下し、園舎請願運動の沈静化を園った。

    一月一日より新刑律草案の審議が開始されることとなったのだが、こ

    」のように立憲制への動きが加速していく中、

    こで政府特汲員として草案の主旨説明を行ったのが楊度である。楊度は演説の中で暫行章程についても言及し、まずここ

    で規定されていることが、新刑律の主旨と符合しないため附則にまわしたと説明した。

    つまり第一僚は死刑唯一の方針に

    反すること。第二、三伎は死刑減少の方針に反すること。第四僚については娼妓などの存在は認めざるを得ず、立法上の

    差支えがあるうえ、誼擦を求めることが困難で審判上の支障があり、さらに諸外固には無夫和姦についての規定がないた

    め領事裁判権撤廃が困難となり、外交上の支障にもなると指摘した。第五候は、立法上、父子といえども公平に扱わなけ

    ればならないという原則に反すると説明した。さらに楊度は績けて、暫行章程が暫行とされる所以は人民の程度が不足し

    ているからであるとした上で、先に資政院により園合同連聞の要求が出され、現に園舎の開設が首初の宣統九年から宣統五

    年に短縮されたことを指摘し、

    249

    全園人民の程度は宣統五年には憲法を遵守する能力があるとしたのに、何故宣統五年には新刑律を遵守する能力がな

    47

    11 寸11

  • L 」

    法一幕任問『叫阿部汁一いh跡部ハ中日宍)出・

    3

    E待

    ー「

    250

    いとすることができるのか。この問題は正首な解轄を得ることができるだろう。しかるに憲政編査館が草案を編訂し

    たのは一

    O月三日以前であり、この草案を一時に更改することはできなかった。まして資政院はすでに成立し、閉A官

    以前に急ぎその審議に附さないわけにはいかず、なおのこと更改の徐暇はなかった。よって暫行章程についても慶止

    できなかったのである。現在いわゆる人民程度の説についても、先に貴院諸君は園舎開設を請、ったとき、政府は人民

    の程度に封し確貰に把握しているわけではないけれども、資政院議員は全国人民の代表であり、人民の程度に釘して

    も政府に比べて適切かつ明確に把握していると言明している。ひっきょういかなる種類の刑律を適用すべきであり、

    人民の程度はいかほどであるか、諸君の議論と判断を待たないわけにはいかない。

    と述べた。なお附言すれば、憲政編査館より第三次草案が奏呈されたのは一

    O月四日であり、宣統五年には園舎を開設す

    (mm)

    るとした上議が下されたのはその前日の一

    O月三日であった。楊度の見解としては暫行章程の「暫行」はあくまで憲法公

    布のときまでのことであり、

    いわんやそれが宣統五年に切り上げられ、新刑律施行とのあいだにわずか二年のずれしかな

    い以上、もはや暫行章程は不要のものであるといわんばかりである。

    その後審議が績けられたが、結局草案については、きわめて重大な新法典であり、各議員が熟語して慎重に審議すべき

    (叫)

    であるとの意見が出されたこともあり、法典股(資政院内の法典委員舎。副員長は庄楽賓)の審議に附されることとなった。

    法典股での審議中、勢乃宣は「新刑律修正案」を提出した。彼が提示した修正案は、非常に多岐に渡るが、要するに隼

    親属と卑幼、夫と妻の聞に起こった殺人傷害等の犯罪に封し、借等親層や夫については刑を軽く、卑幼や妻については刑を

    重くすることを要求したものである。また子孫違反数令を正候内に定めること、暫行章程第四・五候を正候に繰り込むこ

    (引)

    とも要求した。なおこの修正案は資政院議員の過半数に及ぶ百名を越える賛同議員の署名を得て提出されたのであった。

    こうした曜数汲の動きに封しては、北京の政亭界の人士も強い危機感を持っていたようであり、新律維持舎なるものが

    結成され、資政院議員たちに新刑律賛成を働きかけ、同時に反封一淑に辞駁を加えることが拘束された。さらに新律維持合

    11

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    法一幕任問『叫阿部汁一いh跡部ハ中日宍)出・

    3

    E待

    ー「

    の集舎には資政院議員の陸宗輿と羅傑が訪れて新刑律の必要を訴える演説を行い、参加者は三百人を越えて大きな盛り上

    (必)

    がりを見せたと報道されている。新刑律草案をめぐる北京の雰園気の一端をうかがい知ることができよう。

    さて上記のように新刑律草案をめぐってはげしい動きのある中で、正坐宋賓を中心とする法典股は一

    一月二日から一六日

    にいたるまで、憲政編査館より祇遣された政府特汲員も交えて連日新刑律草案の審議が績けられ、新刑律草案に封してさ

    (必)

    まざまな修正が加えられることとなった。新刑律の審議が再開されたのは二一月六日のことであり、まず正栄賓から股員

    舎の審議結果の報告が行われ、そこでは新刑律は家族主義を保存した酷も多いと述べて、礎教抵の議員に一躍の配慮を見

    せた。法典股員舎の具躍的な修正箇所については多岐に渡るが、その中で特に指摘しておかなくてはならない貼が暫行章

    程の廃止であり、これにより終始議論の的となっていた無夫和姦の問題は、

    ったのである。

    ひとまず完全に無罪として扱われることとな

    (叫)

    つまりこの問題は正文に組み込むかどうかというごく形式的なレベルの封立ではなく、有罪か無罪かを量一

    正面から問うものであったことがわかる。さらに強盗などについても死刑を適用する、反乱や隼親属殺人については斬刑

    の適用も可能というような規定はすべて削除されたことになる。この暫行章程廃止について、圧柴賓は法典股員舎での草

    案修正報告の最後に

    暫行章程については、なお一言書明すべきことがある。暫行章程の存在理由は、昔時の政府委員の演説によっても

    十分なものではなかった。その後股員舎の討論で暫行章程は不要にできるとした。すでに理白書を用意して融書長に

    迭り、印刷して各位のもとへ分迭してもらった。詳細は理白書の中ですでに説明しており、各位はすでに全員これに

    目を通しているので、本議員はさらにもう一度説明する必要はない。

    と述べている。『正柴賓日記」

    (一心)

    の一一月二

    O日にもその他の饗更賠とともに「暫行章程捌除」と列翠されている。また一

    一一月六日の修正結果報告の際に述べられている理白書については、幸いにもその概要が『申報』に掲載されているので、

    251

    それに基づいて内容を紹介すると、

    一一月一日に楊度が行った草案の主旨説明同様、暫行章程が新刑律の五つの特徴に反

    11

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    法一幕任問『叫阿部汁一いh跡部ハ中日宍)出・

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    E待

    ー「

    252

    することが繰り返し述べられた上で、

    暫行章程五箇候と新刑律が採用する主義とは根本的に併用することができない。もし中園の奮俗にこだわるのであれ

    ば、新律は編一訂する必要がない。もし人民の程度が不足しているというのであれば、これは頒行期限を早めるか遅く

    するかの問題であり、決して新刑律賓行の際に、別に暫行章程を設けて、もってこの新刑律を破壊することはできな

    (必)

    ぃ。本股員舎は一度ならず討論し多数決で表決を採り、必ず(暫行章程を)削除すべきであるとした。

    とその廃止の理由を述べている。

    庄の審議結果報告の後に草案の逐候審議が行われることとなった。死刑は絞首刑を以ってすることなどを定めた第七章

    刑名の部分についても何の異議も出されず賛成多数で可決された。

    つまり暫行章程で取り上げられていた斬刑の適用や、

    死刑適用範園の掻大などは、ここでは特に問題調されなかったことになる。また督撫たちの聞ではあれほど問題覗された

    比附の削除についても、まったく反封論は提出されることなく通過することとなった。そうした中で暫行章程でも規定さ

    れ、また持乃宣が正候に繰り込むことを要求した、等親属に封する正首防衛の問題についても議論されたが、結局隼親属

    に封しては正首防衡を認めないことを正僚の中で明示すべきだという勢乃宣らの主張は、

    二O人ほどの賛同を得るのみで、

    否決されるにいたった。

    (釘)

    翌七日は特に問題なく審議が進められ、八日議論が姦非罪に至ったところで、無夫和姦を有罪にするか否かで延々と議

    論が繰り庚げられることとなる。この中では、「この一僚について不要を主張すれば明らかに礎教に背くこととなり、正

    候に入れることを主張すれば、領事裁判権を回牧するのに障害となる恐れがある。原案がこの候を暫行章程に入れたのは

    大壁な苦心を費やしてのことである。今法典股員舎が暫行章程を一律に削除してしまい、このため櫨教の保全を訴える人

    はさらに力を入れ、人数も多くなった。本議員の意見は暫行章程を残すべきだという主張である。」という意見も出され

    るなど、暫行章程を一律に廃止したことへの不満も表明された。最終的にこの問題については、有罪・無罪いずれとする

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  • L 」

    法一幕任問『叫阿部汁一いh跡部ハ中日宍)出・

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    E待

    ー「

    かで表決がとられることとなった。投票は記名で行われ、無夫和姦有罪に賛成のものは白票を、反針のものは藍票をそれ

    ぞれ投じ、その結果、白票多数すなわち無夫和姦有罪となり、さらにこの候文を正僚に繰り込むか、それとも暫行章程と

    いう形をとるのかについての決も採られ、結局無夫和姦は有罪としたうえで、正佼に規定するということでこの日は決着

    (

    )

    (

    )

    を見た。正栄賓は日記の中で、この日の結果をもって「全瞳失敗」であるとし、「余問問として蹄る」と記しており、そ

    の落謄振りがうかがわれる。

    以上資政院の無夫和姦の採決では勢乃宣らが勝利を収めたかに見えたが、これに封し迂柴賓ら無夫和姦の無罪を主張し

    て藍票を投じた人々(蛍時彼らは藍票盆…と呼ばれ、ム円票を投じた議員は白票黛と呼ばれることとなるo)

    も巻き返しを園ることと

    (同)

    なる。九日の審議に際しては、正装賢、陸宗輿らを中心に彼らの多くが鉄席戦術をとったため、この日の審議はほとんど

    (日)

    進まなかった。そして正栄賓と陸宗輿は、今後の審議の封麿策を協議するべく、資政院での審議が始まる前に藍票を投じ

    (臼)

    たものたちで集まることを約し、資政院での審議最終日にあたる翌一

    O日藍票黛の面々は、本合議の前にあつまり封庭策

    を協議した。その結果、審議の順番が最初にある新刑律草案を、議事の最後にもっていくよう提案すること、そして徳則

    採決の際には、改めて三讃に附するよう主張することが約束された。要するに時間稼ぎを行って、分則の審議を完了しな

    いようにするものであった。

    結局この日の議事は彼らの思惑通りに進行することとなり(ただし総則の三讃については省略された)、新刑律草案はとり

    (日)

    あえず総則のみ賛成多数で通過し、分則については審議未了ということになり、資政院の全議事日程は終了した。

    ここまで資政院での新刑律草案の審議過程を見てきたが、資政院における議論を先に見た督撫たちの反封意見と比較す

    ると、ここではもはや全面的な反封論が提出されることはなく、罪刑法定主義の確立や斬刑の慶止、死刑の減少も問題覗

    253

    されることはなかった。暫行章程が廃止されていた状態での議論であるから、こうした合意についてはおおむね新刑律に

    11

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    法一幕任問『叫阿部汁一いh跡部ハ中日宍)出・

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    ー「

    254

    賛成であったことを示すものとして許債できる。資政院議員の聞では新しい刑律の制定が支持を得られていたことを意味

    するものであり、その結果として総則が賛成多数で承認されることになる。

    親属聞の差別規定と櫨教に反する行篇についての刑罰を正保内において明確に規定することであり、少なくとも資政院の

    一方で努乃宣ら曜数汲がより強く求めたのは、

    審議段階ではもはや新刑律に封し全面的な反封の聾が翠げられることはなかった。労乃宣にしても、資政院閉曾後に編纂

    (日)

    の蹴文において、全瞳に封する反針でないと静明につとめている。

    した「新刑律修正案葉銀』

    以上資政院における審議の様子を述べてきたが、この総則のみ通過、分則は審議未了という資政院の審議結果は、特に

    憲政編査館員の新刑律推進振にとってきわめて不本意なものであり、資政院での審議結果を無数にして、憲政編査館車濁

    で草案を提出しようという動きが出てくる。こうした動きは必ずしも資政院の審議結果を受けてだけのことでなく、すで

    に先の憲政編査館内における審議の折にも提起された問題ではあった。そこで以下章を改めて、草案上奏の権限をめぐる

    問題についてみていくこととしたい。

    信用二土早

    新刑律草案上奏の権限をめぐる問題

    「はじめに」でも述べたように憲政編査館は軍機大臣の管理の下、この時期に起草された多くの法律を審議する役割を

    捨っていた。さらに光緒三三年に定められた憲政編査館塀事章程においては「本館擬訂及び考核の件は法典及び重大事項

    で資政院において議決されるべきものを除き、それ以外の各件は軍機王大臣の閲訂を経ていれば、上奏して裁可を得た後

    (江川)

    施行するo」と規定されていたこともあって、首時の憲政編査館には資政院軽頑の傾向があり、また賓務上の必要からも

    (日)

    多くの法案が資政院での審議を待つことなく施行されていった。

    一方で、宣統元年に改定された資政院院章では、その第

    (貯)

    一四候第四項において、新定の法典およびその修改については資政院が議決すべきであることが明記されている。したが

    11

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    法一幕任問『叫阿部汁一いh跡部ハ中日宍)出・

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    ー「

    って宣統二年段階においては、首然新刑律が憲政編査館の審議を経た後資政院の議決を得るべきと考えられていたことに

    なる。しかしながら新刑律については、論争が過熱する以前から憲政編査館軍濁で上奏しようという音山見を持つものがい

    た。例えば

    『正柴賓日記」によると、六月一六日、館員同士で新刑律問題が論じられたさい、正柴賓が憲政編査苗より上

    奏して資政院の議決に附し院議の協賛を得るべきだと主張したのに針し異論が唱えられた。その様子については「余は憲

    政編査館より奏呈して資政院に迭り協賛を得るべきだといったところ、仲魯(劉若曾)、梶甫(達書)らは力を霊くして反

    封した。伯扉(胡初泰)は院章を引いて刑律は新定の法典であるのだから資政院の審議にまわすべきだと抗論した。争論

    (

    )

    は久久として要領を得なかった」と記されている。なおここで正栄賓と胡初泰が資政院の審議にまわすことを主張したの

    (日間)

    は、彼ら二人が資政院議員に任命されていたという立場の問題もあろう。

    そして憲政編査館内では前章で見たような争論が交わされることとなるのだが、こうした状況は新刑律推進振に強い危

    倶を抱かせるものであった。賓際七月の

    『時報』の記事にはこの聞の泊息として「新律を主持するものは衆論の激しさを

    見て資政院の核議に附すことを欲せず。議員諸君の程度がこれに協賛するには不足していることを恐れているからであ

    (ω) る」という報道がなされている。

    そして八月二四日には、こうした憲政編査館内の意向が具瞳的な形で迂柴賓の耳にも入ってくることになった。この日

    楊度と胡繭泰より正栄賓にたいし新刑律推進振の人々は資政院の審議にまわさない意向であると聞かされる。これに封し

    正柴賓は「余は新案に賛成といえども資政院には(法律の)議決の権があるのだから、もし交議しなければ法に違うこと

    になる。いま最初の開院のときに首たって政府が院議を忌避する端緒を聞くことは、ことに立憲の精神と合致しない。持

    論は仲和(章宗群)諸君とすこぶる異なる。哲子(楊度)、伯平(胡加泰)は仲和の意圃は資政院議員の中には法律の知識を

    255

    有するものがなお少なく、交議すれば恐らく破壊されようと述べ、余に深く我慢して熟慮するよう勧めた。余は初義を堅

    (臼)

    二君と繰り返し討論した」。この記述から察するに憲政編査館車濁で新刑律草案の上奏のうえ頒布しようという動

    持し、

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    法一幕任問『叫阿部汁一いh跡部ハ中日宍)出・

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    ー「

    256

    きの中心は章宗鮮であり、逆に資政院の審議に附することを強硬に主張したのは正栄賓ということになる。

    結局推進汲内のこの頒布にいたるまでの手績きをめぐる意見の相遣は翌々日の八月二六日、軍機大臣である統朗と那桐

    (臼)

    ひとまず決着を見たのだった。

    も臨席のうえで、刑律草案を資政院に提出することが決議され、

    ただし資政院での審議結果は前節で見たように総則については採決を得られたものの、分則については、無夫和姦の問

    題で大いに紛糾して結局は労乃官一の主張が通り、あまつさえ審議未了という結果に陥った。これは宣統二年に新刑律を頒

    布するという立憲制の九カ年のプログラムにも支障が出てくる結果でもあった。したがって首初から資政院の審議に附す

    ることに百定的であった憲政編査館内の推進振にとっては非常に不満の残る結果であったろう。賓際憲政編査館側の動き

    はすばやかった。早くも資政院が間合同したその日の一一一月一一日、正栄賓は章宗鮮より、館議によって刑律原案をもって上

    奏のうえ頒布し、資政院とは合奏しないことになったと聞かされるのである。『正栄賓日記』には「憲政編査館の館議で

    は刑律原案をもって頒布し、また資政院とは舎奏しないこととなったという。余はこれを聞いて惇然とした。ことに憲政

    (mm)

    前逢の危憧である」と記している。またこの聞の消息を惇える記事として『時報」にも「植臣は資政院が修正した新律に

    (臼)

    大いに不満であり、憲政編査館が編纂した原案をもって頒行することを奏請すると決めた」という報道がなされている。

    そして翌一一一日には藍票黛の人士が集まって刑律問題の善後策を協議することとなった。まず正柴賓は午前中に憲政編

    査館に赴き達書にあって、彼に新刑律頒布の問題で協力を求めた。そして午後には藍票黛の面々が財政皐堂に集まり、ま

    ず正栄賓よりこの問題についての報告が行われた。日記には彼の護言は以下のように記されている。

    政府は刑律問題に針し、清車に本年頒布が定められているにもかかわらず、資政院は議決することができなかったの

    で、原案を頒布しようとしている。もしこのようなことになれば、本院の協賛立法権において非常の危険が生じるこ

    とになる。速やかに維持の方法を準備すべきである。

    このあと衆議討論され、憲政編査留に封し以下のように封慮することが決定された。すなわち、①総則については資政

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    法一幕任問『叫阿部汁一いh跡部ハ中日宍)出・

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    E待

    ー「

    院・憲政編査館の舎奏とすること。これが受け入れられなければ、②頒布の年限を改める。これも受け入れられなければ、

    ③早急に資政院の臨時舎を開曾する。もしこれも拒否されれば全員議員を辞職する、というものである。このあと正栄賓

    は陸宗輿とともに憲政編査館に赴き、

    そこで楊度と討議した結果、ひとまず彼らの聞では以下の結論が得られた。まず線

    則については憲政編査館・資政院の曾奏とすること、

    ただし不同意の黙については特別に明記して、上論によって是非を

    決める。また分則については憲政編査館の車奏として総則と同時に頒布するものの、翌年改めて資政院の審議に附して迫

    (町山)

    認を得ることを聾明するとされた。

    (

    )

    さらに一五日にも、正柴買は劉若曾、達書と刑律の頒布問題を協議している。

    ただしこうした藍票黛の議員及び憲政編査館側の動きは白票薫の議員からは、資政院での審議結果をないがしろにする

    動きとして、批判の聾が奉げられた。「申報」ではこの間の藍票、白票雨薫の消息を以下のように惇えている。

    近日来雨薫の暗闘ははなはだ激しい。藍票黛の一部は先に新刑律通過の総則を期限どおりに上奏すると主張し、また

    新刑律全部を一律上奏すべきだと主張するものもいる。白票薫はこの消息を聞きまったく反封の説を主張している。

    たんに全部を上奏することができないと一百うだけでなく、総則もまた上奏すべきではないと。

    究し、

    一方で抵制の方法を研

    (訂)

    一方で書を議長におくり「資政院が未議決の案を出奏することができるのか否か」と惇えた。

    また労乃宣は、憲政編査館における審議の際に用意した説帖のほか、賛同者の文章を集めて

    その序丈及び肢丈においても自己の修正案が多数の議員の賛同を得たことを再三述べ、自らの正古性

    『新刑律修正案葉録』を編纂

    し印刷に附したが、

    を訴えている。

    ただし藍票黛であれ、白票薫であれ、資政院議員たちがどのように動こうと、憲政編査館としては新刑律頒布の時期を

    遅らせる意思はなかった。例えば資政院での園舎速開要求を受けて園舎の開舎が宣統五年(一九二二年)に繰り上げられ、

    257

    光緒三四年に定められた一連の立憲珠備のスケジュールもそれぞれ首初の珠定から前倒しされることとなった。このなか

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    法一幕任問『叫阿部汁一いh跡部ハ中日宍)出・

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    E待

    ー「

    258

    では新刑律の施行時期も、宣統五年から一年早まり宣統四年に壁更され、頒布時期についても首初の珠定通り宣統二年と

    (俗)

    することが、この段階においても堅持されたのである。

    そして二三日には憲政編査館の館議において、総則を合目奏し、分則を車奏とすること、明日同時に奏呈することが決定

    された。また分則の草案は董康の手で起草されたようであるが、法典股員舎の修正案と原案をあわせて劃酌の上、取捨選

    (ω)

    擦が行われたものになっていた。

    (m川)

    翌二四日に線則と分側がそれぞれ上奏された。分則については憲政編査館の原案ということであるから、

    O 月四日

    憲政編査館から上奏された第三次草案を進呈することとなり、資政院法典股の修正結果も原則ここでは反映されず、また

    第三次草案に盛り込まれていた暫行章程も復活されることとなったのである。そして翌二五日にはこの雨上奏丈が正式に

    (九)

    裁可された。

    以上新刑律草案上奏の擢限をめぐる問題についてみてきた。

    従来先行研究では、分則が審議未了にもかかわらず、官一統二年一二月二五日に新刑律草案が裁可され、現在見る形での

    『大清刑律」が頒布されたことについて、車に筆一一百備立憲のスケジュールにあわせるためと説明するだけであった栴この

    結論を得るに至った裏側には、上記のような憲政編査館と資政院議員の新刑律推進振との聞でのやり取りがあった。そし

    てこの問題は車に反封振を如何に封じ込めるかという戦術的な問題にとどまるものではなかった。それだけであれば、正

    柴賓らは新刑律草案の審議を資政院に迭るよう主張する必要はない。資政院に迭らなければあれほど議論が紛糾すること

    もなかったはずである。彼らが草案に封して資政院の閲輿にこだわったのは、「正栄賓日記』にも記されているようにこ

    れが園舎の前身である資政院の「立法権」に関わるからであり、

    ひいてはそれが園舎と政府の関係にも影響してくると考

    えられたためであろう。刑法典でさえ資政院の議決を経ることがなければ、首然この後に控えている訴訟法や民法などの

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  • L 」

    法一幕任問『叫阿部汁一いh跡部ハ中日宍)出・

    3

    E待

    ー「

    (ね)

    審議にも影響を及ぼす可能性さえあった。そうなれば資政院、それに績く園舎の法律議決権が損なわれ、三擢分立の原則

    も成り立たなく恐れがある。その意味では資政院で総則が通過していたことで、ひとまず総則のみでも資政院・憲政編査

    留の舎奏にこぎつけることが可能となり、資政院の審議権も確保することができたわけである。この貼は資政院の審議結

    果の意義として指摘しておかなくてはならない。

    一方で憲政編査館とすれば立憲制に向けて新しい法律を制定するに際し、資政院から横槍を入れられることは意に沿わ

    ない事態であり、しかももともと章宗鮮に代表されるように、憲政編査館員の新刑律推進汲は資政院議員の法律知識の程

    (九)

    度について懐疑的であった。そして資政院の新刑律推進一祇としても、憲政編査館側の危倶が的中してしまったことで、抽ね

    則のみ舎奏、分則は車奏のうえ翌年の審議を待つというある意味安協的措置を採らざるを得なかった。また附言するなら

    ば、資政院が責任内閣の設立をめぐって軍機大臣を弾劾したため、首時軍機大臣の資政院に封する態度が非常に険悪であ

    (お)

    ったことも、憲政編査館から資政院抜きで新刑律草案を上奏しようとする動きが出たことの背景のひとつと考えられる。

    また勢乃宣の修正要求については、資政院で多数の議員の支持を得た無夫和姦の問題を含めて、(貫際に頒布された

    清刑律』

    のなかで反映されることはなかった。これは憲政編査館と資政院議員の新刑律推進振が協議し、勢の修正要求を

    封じ込めることで、近代的刑法にはなじまない瞳教の立場に立つ批判から新刑律草案を守ったという許慣を下すことがで

    きる反面、

    一方では資政院議員の多敢意見を無組したこということにもなる。また暫行章程は不要であるとの認識はある

    程度共有されていながら、結局新刑律推進抵自身が審議の櫨績を拒否したため、第四次草案の流産を招くこととなり、そ

    の結果、清朝の段階では、最終的にこの暫行章程を廃止することはできなかったのである。

    信用二一土早

    『暫行新刑律』

    の施行

    259

    前章までに述べてきたように、様々な好絵曲折を経ながらも、

    ひとまず『大清刑律」は頒布されるにいたったのだが、

    11

    「大

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    法一幕任問『叫阿部汁一いh跡部ハ中日宍)出・

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    ー「

    260

    結局辛亥革命勃護のため、宣統三年第一一回の資政院で珠定されていた分則の審議は行われることもなく、また清朝の名に

    おいてこの法律が施行されることもなかった。政府と資政院ないし園舎の「立法権」を、巡る争いもこれ以上の展開を見る

    ことはなかったのである。そして中華民圃においてむしろ意味を持つのは、『大清刑律』が、経過に多少の問題貼はあれ、

    (同)

    ともかく頒布されていたということであった。

    宣統帝退位後、

    一九一二年三月一

    O日に臨時大総統に就任した哀世凱は、「現在民固の法律は未だ議定頒布されていな

    ぃ。あらゆる従前施行の法律および新刑律は、民園の園盟に抵摘する各僚は放力を失うが、その他は暫行援用して遵守に

    (η)

    資せ」との大総統令を設し、清代において施行されていた法律とあわせて、刑法に闘しては新刑律を暫行援用することを

    布告した。この命令を受けて、法部より哀世凱にたいして、名稽を「暫行新刑律』と改めること、帝室にかかわる罪など

    の候丈を削除すること、また帝園を中華民国に、臣民を人民に改めることなどが提案された。饗更がこうした最低限のも

    のであった理由については、新しい刑法の施行が急がれていることとあわせて、法部の濁断で大幅な愛更を施すことがは

    ばかられたためでもある。ここで奉げられた修正事項についても「法部より擬定し暫行となし、臨時参議院の成立を待つ

    て再び提議を行えば、施行の困難も克れ、また立法の権限を借越することにもならないだろう」と述べられている。ただ

    し暫行章程については「あるものは死刑唯一の原則に達い、あるものは刑はその罪に首たるの本意を失い、あるものは個

    人の私徳に干渉し、あるものは法律の解稗に通じていない。経過法であるといっても、法律と章程を雨存させる理由はな

    ぃ。園瞳には閥わりないところであるが、この法律新頒のときにあたり、断じてこのような暇庇を留めておくことはでき

    (同)

    ない。嘗然一律に削除すべきである。」として法部は暫行章程の廃止を表明している。資政院法典股における暫行章程を

    廃止すべしとの判断は、中華民国に入りようやく賓現に至るのである。そして三

    O日にはこの提案が正式に裁可され、修

    (乃)

    正事項が京外の各司法街門へ通告されることとなった。

    こうした北方の動きに封し、南京の臨時政府および参議院でも、三月二四日に司法線長の伍廷芳より「前清が制定した

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    ー「

    民律草案、第一次刑律草案、刑事民事訴訟法、法院編制法、商律、破産律、違警一口律のうち、第一次刑律草案の帝室に閲す

    る罪の全章及び内乱に閲する罪の死刑は適用しがたいが、その他はみな民国政府より纏績して有数であることを聾明し、

    (

    )

    以って臨時遁用の法律となし、法を司るものが根擦を有するようにしたい」との提案がなされた。この第一次草案とは、

    光緒三三年(一九O七)に上奏されたものと考えられる。この伍廷芳の提案は参議院の審議に附されることとなり、四月

    三日には審議が完了した。なおこのさい前年資政院議員の地位にあり、無夫和姦の表決に際しては藍票を投じた、

    つまり

    無罪のほうに投票した陳命官は、「政府は法制局に命令して各種の法律中民主の固瞳と抵鰯する各僚には注記を加えるか

    あるいは注記のうえ修正した後、本院より公布施行を議決させる」との一文を加えるべきだとの護言がなされ、この提案

    (

    )

    (

    )

    は賛成多数で可決され、参議院の決議の末に附されることとなった。

    こうして出された参議院の決議案では、清代に施行されていた各法とともに、新刑律及び刑事民事訴訟律が臨時に適用

    されることが確認された。ただし刑律は伍廷芳の提案した第一次草案ではなく、正式に頒布されたものを援用することと

    された。

    以上が南京臨時政府の決定であるが、結局法制局による修正作業は完了せず、法律の援用については、先に北京で定め

    (幻)

    られた法部の提案が優越することとなった。従って新刑律の修正貼についても先の法部の決定に従うものとなり、この結

    果現在見る形での『暫行新刑律』が中華民国の刑法の役割を果たしていくこととなる。この『暫行新刑律』は、正式に南

    (斜)

    北統一の政府が誕生し、参議院が南京から北京に移動したのち、その参議院の議決を経て四月三

    O日正式に公布された。

    南北壁方ともにほぼ同様の決定がなされたことで、耳目行新刑律』

    の施行はきわめてスムーズに行われたということが

    できる。

    これが暫行新刑律の施行に至るまでの経過であるが、ここで比較のため訴訟法についても見ていきたい。刑事訴訟律及

    261

    び民事訴訟律は宣統一一年に草案が完成していたものの、資政院の審議にかけられることはなく、頒布されることはなかっ

    11

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    法一幕任問『叫阿部汁一いh跡部ハ中日宍)出・

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    た。このため先の三月一

    O日の大線統令でも言及がなく、法部は管轄各節丈として、各審判街門がいかなる事項を管轄す

    るかを定めた部分のみ切り出して、これを暫行援用することを大総統に呈請した。この提案は四月七日大総統の批准を得

    られたが、

    一方で訴訟律全睦については、「刑訴民訴雨草案はすでに完成を告げているものの、なお未だ法律としては成

    立しておらず、正式に頒布もされていない。(中略)全案を修正のうえ参議院に提議しその議決を待って、あらためて公

    (

    )

    (

    )

    布を行う」とされ、五月にこの「民刑訴訟律草案管轄各節」が司法部令として通告されることとなった。さらに八月には

    京師高等検察一聴が民刑訴訟律草案全躍を援用できるのか否かを照合した際にも「全律はなおいまだ公布されておらず、全

    (釘)

    瞳を援用することはできない」との決定が改めて通告されている。正首な手績きを経ることなくなし崩しに清末に起草さ

    れた法律が用いられることには抵抗があったことがうかがえる。

    このように訴訟律と比較することで、刑律の方は清朝においてひとまず『大清刑律』がすでに頒布されていたことが、

    『暫行新刑律』の施行を容易にしたこと、とくに新刑律が哀世凱の大総統就任直後に暫行援用を表明するにあたっての大

    きな法的根振になっていたことがわかる。昔時議舎が存在しない北京の臨時政府においては、掲自に法律を公布する権限

    はなく、援用するにも頒布済みであることが必要保件となっていたのである。清末においては資政院の法律議決権は、政

    府によって軽詞附される傾向にあったが、革命直後のこの時期にあっては哀世凱以下北京の臨時政府においても、法律の公

    布には議舎の議決が必要だとの認識は、確固たるものになっていたことが見て取れる。

    以上が民園成立直後の法律の施行服況であるが、もちろん昔時の政府も、こうした不完全な情勢に甘んじていたわけで

    はなく、速やかに各法典を起草する準備も進められていた。七月には法典編纂曾が設立され、その職掌の筆頭に民法、商

    (ω∞)

    法、民事訴訟法、刑事訴訟法の編纂が定められた。また刑法についても、『暫行新刑律』と全く同内容のものが、六月に

    (凶)

    園務院より大総統へ進呈され、さらに大総統より参議院におくられることとなった。領事裁判権撤廃のためにも正式な法

    (卯)

    典が一刻も早く制定されるべきだとの考えによるものであり、刑法にいつまでも「暫行」の二字が冠されることは不適首

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    と思われたのであろう。ただしこの草案は正式な刑法としてすぐに参議院の議決が得られることはなく、

    ひとまず法典委

    員舎の審議に附されることとなった。その後は刑法も含めて他の法典の編纂事業も遅々として進むことはなく、翌民園二

    (一九二二)年には、早くも第二革命の勃護、園舎の崩壊という事態を迎えることとなるのである。こうした政治的な混

    乱のため、首然法典編纂事業は停滞を鈴儀なくされた。そして暫行援用のはずの

    『暫行新刑律』は、同国頭で閥れたように

    一九二八年まで存績することとなる。

    かかる事情により、清末の新刑律草案の審議結果と、民国一冗年一一一月の暫行援用を定めただけのものであるはずの大穂統

    令が、首初は議期し得ないほど大きな意味を持つことになったのである。

    ただし責際に施行された

    (引)

    『暫行新刑律』も過渡期ゆえの混乱により、施行に閲する細則が繰り返し護せられた。そのう

    ぇ、この法律が昔時どれほど遵守されていたかとなると、

    やや心もとない情勢ではあった。民国元年から二年にかけてだ

    一例を奉げれば、一冗年六

    (幻)

    月麿東司法司に向けて、死刑には絞首刑のみとし、他の方法を用いてはならないとの通達が出されている。新刑律の五つ

    けでも、司法部や大理院から各地方に向けて頻繁に新刑律の遵守を求める命令が出されている。

    の特徴として繰り返し強調されていた死刑制度の執行にしてこの状態である。

    そしてやがては帝位に就かんと欲する哀世凱の下、

    (mm)

    れることとなった。

    いったんは麿止された暫行章程も、「暫行補充候例」として復活さ

    以上、清末から民園初期における刑法典の起草から施行に至るまでの経緯を見てきた。

    近代的な刑法は清末において、その内容についてさまざまな批判にさらされながらも、草案の審議にあたっていた憲政

    263

    編査館はおおむね推進の立場にあった。ただし暗殺祇への配慮として暫行章程という安協的措置をつけざるを得なかった。

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    これに封し資政院の審議では、この暫行章程を廃止することがいったんは決定され、また線則については審議を通過する

    ことができたが、無夫和姦が有罪のうえ正候に繰り込むこととなったため、新刑律推進祇が以降の審議を拒否し、八刀則は

    審議未了となった。

    ただしこの結果は憲政編査館と資政院の聞の法律上奏の権限をめぐる問題を額在化させ、憲政編査館単調で新刑律草案

    を上奏頒布しようとする動きが出てきた。これに封し新刑律推進抵の資政院議員たちは、憲政編査館の動きを資政院の立

    法権の危機に首たると考え、反封音山見を突きつけ、その結果総則については資政院と憲政編査館の舎奏となり、分則につ

    いては憲政編査館の車奏となったものの、ひとまず碍限定通り『大清刑律』として頒布されることとなった。これにより園

    舎の前身である資政院の法典審議権はひとまず確保されはしたが、この結果はいったんは廃止した暫行章程を結局は復活

    させることにもなった。しかしともかくも珠定通り『大清刑律」として頒布され、このことが中華民国に入って

    『暫行新

    刑律』として施行する上でも大きな意味を持つことになったのである。

    本稿では刑律の施行に至るまでの動きを中心に論を進めていったが、刑律を含めて清末民園初期に成立した新しい法律

    や司法制度が賓際にどれほど有殺に機能していたか、また首時の一吐舎にどのような影響を及ぼしたかという問題について

    は考察が及ばなかった。ただ、首時は過渡期ゆえに様々な混乱が生じており、早くも民固二(一九二一一)年から三(一九一

    四)年の段階で新しい司法制度の設計は行き詰まりを見せ始める。その中では民園に入りようやく正式に誕生した律師

    (

    )

    (競護士)の取り締まりも重大な懸案事項のひとつとなっていた。律師は官の立場ではない法の専門家であり、彼らの具

    (町山)

    瞳的な活動は清末民国初期の法制繁革が一吐舎にどのような影響を輿えたのかを考えるうえで重要な糸口となろう。以上の

    貼を今後の課題としていきたい。

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    ー「

    +Z

    (1)小野和子『五四運動時期家族論の背景』(京都大串人文

    科皐研究所共同研究報告『五四運動の研究」第五幽一五、

    同朋壮、一九九二年)

    (2)黄源捺『中園停統法制輿思想」(五南国書出版公司、一

    九九八年)、張仁善「稽・法・枇舎||清代法律特型輿枇

    舎愛遷』(天津古籍出版枇、二

    OO一年)、李貴連『沈家本

    惇」(法律出版壮、二

    000年)、同『沈家本評惇』(南京

    大挙出版祉、二

    OO五年)、松岡恵美子「清末植法争議小

    考」(一)竺乙(『法的学論叢』、第一三七巻第二競、第五競)、

    挑勝旬「清末における「植法之争」ーーその法思想史的考

    察」(『H本大準大向学院法卒研究年報」、第三五競、二

    OO

    五年)など。黄氏の著書はこの時期の法整備について多く

    の論文を牧めているが、特に本稿とかかわりが深いものに

    「大清新刑律的植法争議」がある。

    (3)

    〉ロωロロ

    ω山戸ーロ

    }Eペ25mR町OBH口出20口

    EFOHLZO百四

    ?の聞と月丘

    DHBωEGg-叶O山口}戸口問印山口L

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    H)-2JミOH)阿見図。同ι1h入戸〈

    o-N川YEEHr2ωリ

    NCCω

    (4)『宣統二年第一次常年曾資政院合同議速記録』(東京大島ナ

    東洋文化研究所蔵、以下『速記録」と略す)

    (5)清末には修訂法律館員であり、民園期司法部総長も務め

    た江庸は斬円行章程を「有此暫行章程而新律之精神童失」と

    許している。(江庸「瓦|年来中岡之法制」、申報館編輯

    『最近之五十年』、申報館、一九二三年所収)

    (6)

    暫行章程の専論としては小野和子「清末の新刑律暫行章

    265

    程の原案について」(柳出節子先生古稀記念論集編集委員

    曾編『中園の惇統枇舎と家族||柳田節子先生古稀記念』、

    汲士門書院、一九九三年所牧)がある。

    (7)「正栄賓日記』(『北京大皐国書館館戴一旦栗本叢書』第一巻、

    天津古籍出版枇、一九八七年)。同書は正条賓が宣統元

    (一九O九)年から宣統三(一九一一)年までの期間に記

    した日記の稿本を影印出版したものである。この日記につ

    いては、すでに小野前掲論文においてその重要性が指摘さ

    れているものの、これを利用して草案の審議過程を検討し

    た研究は、管見の限り向小明『留日間学生奥清末新政』(江

    西教育出版枇、二

    OO二年)のみで、山川氏の研究にしても

    迂楽賓が草案の修訂作業に携わっていたことを言及するの

    みである。

    (8)

    ただし伍廷芳は光緒三三年(一九

    O七)、駐美公使に任

    A叩され、後任には合康三が充てられた。

    (9)

    修訂法律館の設置に闘しては島田正郎『清末に於ける近

    代的法典の編纂』(創丈枇、一九八

    O年)の第一章「修訂

    法律館の成立」に詳しい。島田氏の著書は刑律も合めこの

    時期の法律法典編纂事業について詳細に検討したものであ

    る。

    (日)日本人法律顧問については、註

    (9)島同前掲書、宮坂

    宏「清図の法典化と円本法律家||清末法典編纂の問題に

    ついて||」(仁井田陸博士追悼論文集第三巻『H本法と

    アジア』、勃草書房、一九七

    O年所牧)、李貴連著/松田官邸

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    法一幕任問『叫阿部汁一いh跡部ハ中日宍)出・

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    ー「

    266

    美子詳「近代中園法の愛革と日本の影響」(池田温・劉俊

    文編『日中文化交流史叢書』第二巻『法律制度』、大修館

    書庖、一九九七年所牧)等参照。なお各法典の捨賞者につ

    いては、刑法が岡田朝太郎、民法が松岡義正、尚法が志田

    錦太郎、区間獄法が小川滋二郎である。彼らは法律の起草だ

    けでなく、京師法律的学堂において法的学教育にも従事してい

    た。

    (日)なお岡出朝太郎「清園改正刑律草案(総則)」(『法皐協

    曾雑誌』第二九巻、第三競)によれば、草案は六次まであ

    った。第一次草案は光緒三三年沈家本により上奏されたも

    の。第二次草案は叔日撫らの意見を受けて法部と合同して官

    統一花年に上奏されたもの。第三次草案は憲政編査館での審

    議を経て資政院に提出されたもの。第四次草案は資政院法

    典股で第三次草案に修正を加えたもの。第一瓦次草案は資政

    院をマ通過した徳則と審議未了に終わった分則を合わせたも

    の。第六次草案は軍機大臣により、五次草案の線則に一部

    修正が加えられたもの。これが『欽定大清刑律』として頒

    布された。各草案の所在については、註(1)小野前掲書

    に詳しい。このうち第三次草案から第五次草案までは未見

    であるが、後遮するように第三次草案については憲政編査

    館の上奏文より、第四次草案については迂築賓の報小口によ

    り、その修正内容を知ることができる。

    (ロ)岡田朝太郎「清図説成法典及ヨヒ法案ニ就イテ(『法且宇

    志林』第一一一一巻第八・九競)」

    0

    及び宮坂宏「清末の近代法

    典編纂と日本人事者||刑律草案と岡田朝太郎||」(『専

    修大向島干枇舎科向学研究所月報』四六・四七競、一九六七年)

    (日)比附とは、罪を下すのに正篠が無い場合は、他の候文を

    引いて判決を下すことをいう。大清律例にも罪刑法定主義

    の原則は・なかったわけではなく、むしろあらゆる事態に封

    廃して、一つの犯罪に封しては自動的に量刑まで決定され

    るという、過剰なまでの罪刑法定の原則があったのだが、

    この比附が存在することで、斑論上は常に法律中の候文に

    存在しない罪で裁かれる可能性が残されていたのである

    (もちろん法の怒意的な運用が容一認されていたということ

    ではない)。また近代以降の刑法と中園の律における本質

    的差異として、滋賀秀三は「現在われわれの刑事司法ーー

    またとくに刑法皐ーーが、罪となるか否かの判定を中心課

    題としているということができるとすれば、中園の刑事司

    法は、いかなる程度の罪であるかの測定を中心課題として

    いたということができるのであるo」と述べている。(滋賀

    秀三「清朝時代の刑事裁判ーーその行政的性格。若干の沿

    革的考察を含めて||」(『清代中園の法と裁判』所牧、創

    丈一吐、一九八四年)七五頁)o

    このほか比附については、

    中村茂夫「比附の機能」(『清代刑法研究』所牧、東京大準

    出版合、一九七二年)参照。

    (M)

    「修訂法律大臣沈家本奏刑律草案告成分期繕草呈覧拝陳

    修訂大旨摺」光緒二二二年八月二六日『棺案史料』八四五頁。

    (日)岡田前掲論文「清園航成法典及ヨヒ法案ニ就イテ」

    (日)「光緒朝東華録』先緒三四年五月辛卯

    (口)「開侠安徽巡撫病胸…奏刑律草案略陳大要数端摺」光緒三

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    法一幕任問『叫阿部汁一いh跡部ハ中日宍)出・

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    ー「

    四年七月二五日『政治官報』二九八競

    (同)「山西巡撫賓棄奏刑律草案銭註呈覧並陳名数綱常宜特立

    防関摺」宣統元年間二月二

    O日『槍案史料」八六八頁

    (印)「直隷総督楊士擦刑律草案摘棚秒読訪更訂摺」光緒三四年

    九月一四日『政治官報」一二四五披

    (初)「山東巡撫衰樹助奏刑律賓行宜分期控室百備摺」宣統元年間

    一一月一口『槍案史料』八六四頁

    (幻)同前註

    (幻)凶立故宮門博物院園書文献館裁宮中槍一八四一九O競法部

    向童日廷木…「奏呈修正之刑律草案」

    (お)註

    (6)小野前掲論文

    (弘)前掲註(幻)「奏呈修正之刑律草案」。この槍案には清車

    として第二次草案に嘗たる『修正刑律草案』が附されてお

    り、附則五候はその末尾にある。

    (お)以上のような虎置をとったためか、首時から廷奈は奮律

    を知るのみで、新刑律草案などの改革にはすこぶる反封の

    意があるとの世評が立った。例えば「大公報」では「現開

    法部廷尚書白以潟熟欄富律、於新訂諸律多所反針、賓矯改

    良法律之一大阻碍o」(「新法律之阻障」『大公報』宣統二年

    一一月五日)とする記事が掲載されている。また同趣旨の記

    事として「法部尚書但知大清律例」『申報』官一統二年二月

    八日、「法尚更動消息」『申報』宣統二年二月一九日なども

    ある。

    (お)『大清現行刑律』については島目前掲書第七章「大清刑

    律草案と大清現行刑律」参照。

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    (幻)「迂築賓日記』官一統二年六月一一一一一日

    (お)特に修正を迫って翠げられている論貼は干名犯義、犯罪

    存留養親、親属相姦、親属相殴、妻殴夫夫峨妻、犯姦(特

    に無夫和姦を無罪としている黙)、子孫違反数令の諸黙で

    あり、いずれも家族制度にかかわる貼について、刑事罰が

    課されない、あるいはその罪が軽すぎるということが問題

    視されるとともに、等親属の卑幼に針する犯罪(とくに暴

    力行策)�