Title 史記李斯列傳を讀む 東洋史研究 (1977), 35(4): 593-624 ...593 594...

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Title 史記李斯列傳を讀む Author(s) 宮崎, 市定 Citation 東洋史研究 (1977), 35(4): 593-624 Issue Date 1977-03-31 URL https://doi.org/10.14989/153645 Right Type Journal Article Textversion publisher Kyoto University

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Title 史記李斯列傳を讀む

Author(s) 宮崎, 市定

Citation 東洋史研究 (1977), 35(4): 593-624

Issue Date 1977-03-31

URL https://doi.org/10.14989/153645

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Kyoto University

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六五四三二一

起承鞠結の型

上室田五通の出慮

越古同とその三人の仇の物語

有子とその三人の弟子の物語

- 29一

Eコ

中園のへロドトスと稽せられる司馬彊の「史記」は、今日の考から言えば歴史であり、しかも歴史の組と見られるので

あるが、併しそれは租である花げに、まだ純粋の歴史になりきっていなかった。特に列俸の部分は多分に文皐的なもので

あり、言いかえれば創作された箇慮を多く含んでいるのであって、同時にそζ

が千古の名文として持て喋される所以でも

いわば科皐としての歴史事と、襲術としての文皐がまだ十分に分離していなかった時代の試作であったと見る乙と

が出来る。だから「史記」そのものを研究の封象として、その性質を捉えようとするとき、今日の歴史皐の方法を用いて

考註したり、分析したりしようとしてもそんなことで易々と手におえる代物ではない。史記がどのような史料に基づ

き、それがどのような標準で取捨選揮され、どのような手績きにより按排されて、現在のような形になったかを、とれか

ある。

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ら問題にしたいのであるが、私は先ず乙れぞ文章の問題として慮理した上で、歴史皐的な考査に論を進めて行きにいと思

ぅ。そしてとのような考察を施すに最も適首なのは、各八七、李斯列停であって、

乙の巻を解明する乙とによって、他の

部分の性質もそこからその大概を類推する乙とができると思われるのである。

李斯列俸が私の研究の目的に有利な黙は、

李斯の生存年代が

歴史家司馬彊から遁度の時代間隔をおいている所にあ

る。李斯は前二

O八年に死んでおり、

司馬遁はそれから約百二十年程を経て、前八六年に裂している。大約一世紀の歳月

は、歴史事買を純客観的に眺めるために十分な間隔である。殊に司馬軍は漠代の人であるから、漢代の歴史については史

料を獲易い一方、専制政治の束縛の多い下において、自由な護想を妨げられ易い立場に置かれている。然るに李斯は秦代

を代表する人物であって、司馬遷にとっては異代の人であるにけに、何等の制限を蒙ることなく筆を運ぶ乙とができる。

そして漢代に接する直前の時代であるだけに、

漢代を除けば最も史料を入手し易い使宜がある。ζ

のような候件の下で司

- 30-

馬蓮は、如何なる方法で、如何なる人間像に李斯を描いたかは、何人にとっても興味ある問題たるを失わぬであろう。

「史記」の列停七十巻について、文皐的に最も形式の整斉完備するものを求むるならば、李斯列俸は必ずその一に数え

られるであろう。何となれば乙れを誼んで先ず感ぜられるζ

とは、全睦として中固に固有なリズム、起承轄結の四段の起

伏に従って展開されて行く特色があるからである。

李斯列俸の主要部は四段に分れ、最初の起の部は彼の修業時代から、秦に入って悪戦苦闘の末に始皇帝の信任をかちと

乙れをうけた第二段の承の部では、彼が始皇を助けて天下統一の大事業を達成するに参劃し、丞相

となって朝廷の大権を委蝿され、位人臣を極むる祭器に浴しに得意絶頂の時代を取扱う。併しながら始皇帝の突然の死去

によって、政局が念終直下すると共に、彼の生涯も一大穂機に直面し、乙ζ

に第三段の縛の部が出現する。

ζζ

で彼は富

るまでの経緯を銃し、

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官趨高の甘言にのせられて方針を誤り、始皇の長子、扶蘇を退けて、少子胡亥を二世皇帝に擁立する。

果は大凶と出て、彼の悲惨な破滅に終るのが、

を、もう少し詳しく此慮で紹介しておく方が便利であろう。

第四段の結の部である。

後に論誼するための必要から、

きりながらその結

との四段の概要

起の段

乙乙に楓爽として登場するのは、立身出世の野心にもえ、準取の気象に富んだ育年、李斯である。現今の河南

省の上察豚の生れであるが、嘗時乙の地方は楚固に属していたので、列俸には楚の上察と言っている。年少にして郡の小

吏となったとあるが、果して楚の時代に、上察邑を監督する郡があったか、あったとすれば何慮であったか、我々は知る

乙とができない。司馬遷が郡の吏と言ったのは、恐らく乙れによって李斯が、相嘗な身分、少くとも地方指導者階級の末

端に位し得る背景を持っていたことを示したかったのであろう。

郡街門における小役人の李斯青年は、そこで役所内を走りまわる鼠を観察した。聞に住む溝鼠は不潔を食い、栄養が悪

く清せ乙けている上に、絶えず人や犬の近付くのを警戒して、びくびく神経を尖らせている。一方倉庫の中に巣くう家鼠

は、滅多に他から驚かされる心配がなく、たらふく穀物にありついて丸々と肥っている。そ乙で李斯は、鼠がその環境に

- 31-

従ってこのように生活上の苦笑に遣いができるものならば、人聞は猶更の乙とであろう、郡衝の小役人などは長く居るベ

き地位ではないと、見切りをつけて立ち去る。

現今山東省の鐸鯨のあたりは

嘗時楚に属して蘭陵邑があり、

名だたる大儒萄子が、

春申君に用いられて蘭陵令とな

り、職を罷めて後も居を定めて住んでいた土地である。李斯は蘭陵に赴いて萄子の門人となったが、その意のある所はも

ちろん、儒皐の奥義を極めるととではない。貫際の祉曾に役立つ帝王の術を皐んだとある。自己の準聞に自信を持つに至

った頃、仕官を思い立ったが、嘗時の楚闘は春秋以来の奮闘であるが、既に頚肢に陥っており、その才能を伸すべき見込

みはない。此等の固に比べて成長株として蝿墓さるべきは西方の未開園、秦を措いて外にない。そ乙で萄子に暇を乞う

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て、西に向って秦に入つに。

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乙の李斯の決心について、師の萄子がどんな態度を示したか、何も書いてない。併し事によれば李斯の乙の行には、

本意ながらも萄子が紹介肢を興えるくらいのととをしたかも知れないと思われる。

というのは萄子は本来、越の人であ

り、嘗時の秦における買力者の目不章は商人として長く越に留ったととがあったからである。とまれ李斯が秦に入ると、

たまたま荘裏王が死んで

(前二四七年〉、子の政、後の始皇帝が十三歳で王位に即いた。

ζ

の人は越で生れ、目不孝の保護

を受けるととが多かったので、邑不章が琴げられて相となり、文信侯に封ぜられて全権を委任された。李斯は首尾よくと

の文信侯口口一小童に取り入ってその舎人となるζ

とができた。舎人というのは賓客に劃する接待係であるという。

乙の時李斯がどれ程の年齢であったか明かでない。併し彼はその後、始皇帝の治世三十七年を終え、次の二世皇帝の二

年に殺されているから、若しとの時三十歳であったと偲定すると、その死は六十九歳の時になる。古代は概して卒均喬命

が現今より短かかったから、六十九歳まで長生きする人は少なかった筈である。従

って李斯が秦に入って呂不奪の舎人と

なったのは、三十歳よりも若干年若かったであろうと推定される。

年、秦の昭裏王三十一年から後の数年の間という乙とになる。

もしそうだとすると、

彼の生年は従っ

て、

前二七六

- 32ー

李斯は口口不章からその才能を認められ、推穆されて秦の政府に移って郎に任ぜられた。そζ

で直接、秦王に曾う機舎を

得て、説くに天下統一の計を以でしたとあるが、恐らく乙れは秦王が成人となって冠を着し帯叙したという在位九年(前

二三八年)以後の乙とであろう。乙れが大いに秦王を喜ばせ、

李斯は長史に任ぜられて

軍園の機密に参預する身となっ

に。ととろが此躍に思いがけぬ椿事が出来したというのは、彼のパトロンなる目不章が、個人的なスキャンダルに加えて、

内飽に連坐して菟職された乙とである。

乙の呂不掌の恩顧を受けた李斯は、幸にして呂不掌の巻き添えにあう乙とを菟れたが、乙れは彼の素早い身の振り方に

よつにものか、或いは抜目なく運動しに結果か、或いはそもそも彼の身分が公式に政府官吏となっていたため、法律的に

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何等問題がなかったのか、その濯の乙とは分らない。併し乙の問題の徐波として、政府部内に、外固から秦に聴入してき

た他所者の官吏は信頼できないから、そういう者を一切圏外に追放しようという議が起り、所謂ゆる逐客令が護布され

て、李斯もまたその中に指定されてしまった。李斯列停では乙の逐客令の動機を、韓が秦に迭り乙んで水利工事を行わ

せ、秦の財政を疲弊させようとした鄭園の謀が暴露した結果忙としているが、鄭闘の入秦は始皇帝嗣位の年の乙とであ

り、逐客令は即位十年の事件であるから、両者を関係つけるには年代が隔たりすぎている。乙れは司馬光の

「資治通鑑」

に従い、逐客令を目不掌失脚の儀波と見る方が遁嘗であろう。

嘗時既に客卿の地位を得ていた李斯にとって、乙れは正に晴天の震露である。

努力が、今や水泡に鯖しようという瀬戸際である。そこで李斯は必死になって、

これまで辛抱を重ね、悪戦苦闘してきた

乙の逐客令の撤回を計って運動した。秦

王に劃しでも上書して、との新令の不嘗な乙とを訴えた。それが逐客論である。秦王は乙の李斯の言に動かされて、先の

逐客令を取消し、李斯の官を復し、それから十六年の聞に李斯を参謀として六園を次々に卒定した。

承の段

秦王政即位の二十六年、六園の中の最後の斉を滅して、天下統一の大業が成就した時、李斯の官は、

- 33ー

丞相、御

史大夫に次ぐ廷尉に上っていた。ζ

の時李斯の年齢は恐らく五十五歳前後、

そしてこれから約十年の聞は彼が全盛巻誇る

黄金時代であった。

秦王政は

一統の君主となると、

王放を改めて皇帝と稽し、自ら呼ぶに朕を以てし、天子の死後に群臣が議して誼を定め

る例を慶して君主濁傘の鰻制を樹立した。

乙の裏には法家思想の信奉者である李斯の献策が興って大いに力あった乙とは

容易に推察できる。

丞相王結等が天子の一一族を各地に封建して、皇室の藩扉にしようと議した時に反封ぞ唱えて、郡鯨制を主張し、天下を

三十六郡に分ける乙とに結着させたのも廷尉李斯であった。但しこの時の李斯の上書は、始皇本紀に見える所で、列俸に

はては車輔の軌幅までも、中央で定めたとおりのも

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は漏れている。郡鯨制は同時に劃一制を意味した。

文字も度量衡も、

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のを、地方の隅々まで遵依せしめた。秦の官製文字、

いわゆる小象の原典となっている蒼頑篇の上七章は李斯の作と俸え

られる。但しこれは「漢書」謹文志に記載する所である。

天下統一の翌年、始皇二十七年から、地方への親察放行、いわゆる巡狩が始まった。

ζ

れは地方人民に射する示威運動

の意味が含まれ、特に新領土に劃しては中央に鎮座する皇帝の傘巌無比なることを周知徹底させるためであった。度々の

巡狩に李斯は常に随行して、石を立て銘を刻して、秦の徳を顕する儀に興った。乙の巡狩の記事も李斯列俸には殆んど省

略されている。

始皇二十八年、巡狩して山東の浪邪蓋に至って立てた刻石の列名を見ると、

の名があるが、それから六年たって、三十四年に朝廷で再び封建の議が出七時には李斯の位が丞相に準んでいに。始皇、が

威陽宮において置酒した際、宴に興っ七博士七十人の中、湾人の淳子越が封建制の利を述べて始皇の反省を促しにと乙

丞相腕林、

丞相王結の次に卿(廷尉)李斯

ろ、丞相李斯は始皇の諮問に答えて乙の議を反駁したが、更に進んで民間の私皐が政府の施策を非議して世聴を惑乱する

-34ー

弊害を述べ、巌重な思想統制を加えるべきを進言して裁可された。その統制の内容は、史官に識する史書にして秦の記録

に非ざるものは皆な乙れを焼き、博士の官が扱うもの以外、民間にある所の詩書百家の語多記したものは悉く官に提出さ

せて焼却し、敢て偶語するものは棄市し、古代を崇拝して現今を非難するものは族諒する、という巌しいものであった。

書籍にして民聞に私賦する乙との許されるのは、融商輔衆卜盤種樹の書であり、事聞は従って法令の挙が主となり、それは民

間の師に郎くを許さず、官吏について拳ベ、という趣旨である。

乙ζ

において李斯の貴盛は並ぶ者なく、

その身が位人臣を極めたのみならず、長子の李由は用いられて三川郡の守とな

り、他の諸子はみな秦の公主に向し、女はみな秦の公子に嫁しに。李由が三川郡から諦省した時、李斯は乙れを迎えて家

で置酒したが、百官の長は皆な伺候して需を上り、門廷に車騎数千が盈ち溢れた。との時李斯は萄子から、「物は叫んが盛

んなるを禁ず」と教えられたのを思い出し、

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斯は乃わち上奈の布衣、間巷の斡首にすいきなか?にのに、今上はそめ鷲下なるを知らず、抜擢して此に至らしめた。

嘗今人臣の位、臣の上に居る者なし。富貴の極と謂うべし。物は極まれば衰う。吾れ未だ駕を税く所を知らざるな

hJ。

と歎じた。

乙の言葉を聞くと甚だ殊勝であるが、寅はその謙遜めいた文句の裏に救いようのない騎倣の気が医されている

のではなかろうか。政治家が本来の任務をすっかり忘却して、ひたすら富貴に憧れ、その富貴を得てしまうと今度はどん

な手段を講じても現紋を失うまいと執着するようになりがちで、そ乙に思いかけぬ陥し穿が待ち構えているものだ。李斯

の生涯は此慮で危険な轄機を迎える。

始皇三十七年、李斯は行孝に塵従して、今の漸江省の舎稽に至り、海岸に沿って北上し、

浪邪を経て、河北、

山西から都に蹄る議定であった。李斯はζ

の時左丞相の位にあり、

始皇の少子胡亥、官官の越高等と行を共にした。然る

に河北省の沙丘蓋まで来七時に始皇の病気が急襲して、生命危険の徴候が現われにした。始皇もそれを自費し、遺書を作

轄の段

- 35-

成して、蔦里長城の前線に監軍中の長子扶蘇に輿え、軍隊を賂軍蒙悟に委任して速かに都に蹄り、始皇の喪を迎えるよう

に命令した。不幸にも乙の極秘の文書が官官超高の手にある聞に、始皇が病死したから、此庭に超高の魔手が棄却動する機

曾が生じたのである。

越高は始皇の側近を戒めて極力天子の喪を秘匿し、先ず少子胡亥に説いて、長子扶蘇を排除して代って帝位に卸くとい

う陰謀に加措せしめた。次は李斯である。本来ならば李斯は急遁前線の長子扶蘇、都に留守を預

っている右丞相の鴻去疾

と連絡をとり、始皇の喪を護迭して都に信仰るべきであり、恐らくそうすれば何事も起らなかった筈である。併し李斯個人

の立場を考えると、始皇がなくなってしまつに今、馴染の薄い扶蘇が天子となれば、

遠からずして自己は疎外されそうな

気配を感ぜずには居れない。その弱黙を越高に掴まれてしまっにのである。

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超高からその陰謀を告げて加措を求められに李斯は、

最初は型通りの反針を唱えては見たものの、個人的な利害得失を

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計算した上で決断を迫られると、本来優柔不断な李斯は、易々と悪魔の甘言に乗せられてしまう。乙れには始皇帝の専制

的な抑匪政治が、絶ての政治家から自信と気力を奪い去る結果を招いた乙ともある。もう六十歳を越え、事によれば七十

歳の方へ近か

ったかと思われる老齢の李斯は、

乙れまで始皇帝の下で単なる秘書官として働いて来たに過ぎなかったか

ら、濁自の判断を以て積極的に行動するようには慣らされていなかったのだ。

ように、超高の暗示を受けてその意のままに踊らされるのである。

乙れから後の李斯は魂をもたぬロボ

ットの

超高は胡亥、李斯と計り、始皇帝の遺書を握り潰して別に偽りの詔書を造り、

ζ

れを前線の長子扶蘇、将軍蒙悟の許に

この場合も、従来の始皇帝の恐

使者を遣して迭り届け、大軍を掌握しながら魚す所のなかった罪を責めて自殺を命じた。

怖政治に慣らされた扶蘇は何等反抗の態度を表わすことなく柔順に自殺を、途げ、

蒙悟は丘ハを解いて進んで囚れの身となっ

た。乙の最大難闘を突破した超高等は雀躍りして喜んだ。彼等は始皇の枢を護迭して都の威陽に開り、そ乙で喪を設して、

- 36-

胡亥を奉じて二世皇帝の位に即かせ、越高、李斯の商人が政治の衝に首るととになった。併しやがて乙の雨人の聞に僻裂

が生じると、李斯はうかうかと誘われて越高の設けた震にかけられ、悲惨な最期を遂げる遁のほうへ落ち乙んで行く。

結の段

李斯の方はたとえ良心を喪壷しても身は朝廷の大臣であるから、政治の施設とその影響とについて、専門的な

常識を具えており、限界を越えて遠く外れるζ

とを好まない。

ζ

れに反し越高は官官であるから、

その経験は狭い宮廷内

の騒引きに止まり、天下の資源は恰も無限なもののように考え、私利私欲を計って私腹を肥せばそれだけ自己に有利にと

思い乙み、寄生虫が宿主の血を吸い壷して宿主が倒れれば、寄生虫もまた契れねばならぬζ

とに思い至らない。

ととに二

世を挟んで、越高と李斯との聞に勢力争いが起るのである。

越高が二世の信任を獲得するために、ひたすら放縦自逸の生き方を指導すると、李斯は乙れに封抗するため、最初はζ

れに同調するかの如き言僻を弄して二世の歓心を維どうと試みた。そとに李斯に似合わしからざる幸楽を勘むるの上書が

ある所以である。

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二世がその兄扶蘇を排除して即位した乙とは、己に死んだ始皇の威光を懐り、詔書を偽造して行った乙となので、その

員相が次第に知れ渡って行きそうになると、王族重臣の聞に反抗の機運が盛り上ってくるのは嘗然の勢である。何よりも

との黙を恐れた趨高と二世は、先手を打って反抗しそうな勢力を次々と粛清して行った。その痛には従来の法律では不十

分なので新たに酷法を制定して片端から容疑者を死刑に虚した。公子十二人が威陽の市で刑死され、公主十人が杜の祉で

楳刑に慮せられた。大臣蒙氏はもちろん、有力者の珠滅される者が相い縫いだ。奏の恐怖政治は始皇帝以前から存在した

と乙ろであるが、刑罰を政治に利用するというやり方は、

一度始めると際限なくエスカレートするものであるという原理

は古今を問わず通用するらしい。

乙のような極度の抑匪政治が評判の良かろう筈はない。悪評は階層を越えて嫌がって行くものなのだ。超高はそれが二

世の耳に入る乙とを恐れた。暗愚な二世は自分も張本人の一人であることを忘れて、超高一人に責を負わせて慮分にかか

るかも知れないからだ。趨高は又もや甘言を以て二世を誘い、宮中の宴遊に涯頭させ、群臣を謁見させることをやめて、

ただ超高とのみ政治の相談ぞ行い、裁決を彼に一任するに至る。すると首席大臣の李斯すらも位から浮き上り、容易に二

世に近付くζ

とが出来ぬようになってしまった。

- 37ー

二世と超高との拙劣な政治は、ただきえ不評であった

秦の政治に劃する輿論の反抗を一層高揚させ、始皇が死ん忙翌

年、二世の治世元年七月には早くも陳勝、臭贋が叛旗を掲げて丘ハを集め、陳の故園の跡に擦って、圏を張楚と競した。世

にとれを陳王と稿する。

乙の報が威陽に達すると、超高は努めて事貧を隠蔽し、二世に射しては、鼠矯狗倫の群盗で憂うるに足らずと報告した

が、流石に李斯には事の重大きが理解できに。二世に謁見を申出ると、中聞に立った超高は、殊更に二世が逸繁に耽って

高奥を催した折を見計って、李斯を参内させる。果して二世は怒って、もう丞相の顔は見るのも嫌ピと言い出す。正に越

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高の思う壷なのである。

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李斯としては園家存亡の瀬戸際に立たされ、もはや超高と針決する乙とが避けられぬと悟ったか、始めて上書して超高

の短を弾劾しに。併しもう遅いのである。超高の手中に丸め乙まれている二世は、反って李斯を罪人扱いにして越高に乙

れを按治させた。それには絶好の口賓がある。それは李斯の長子李由が、三川郡の守となって、陳勝等の叛軍と気脈を通。

じていると言ャフのである。

秦の三川郡は、河水、洛水、伊水の三河によって名を得たと言われるが、

その彊域は判然としない。ただその名稿から

考えて、現今の洛陽から開封あたり迄を含んだであろうと推定され、何時の世にあってもとの地方は、政治的、軍事的に

重要な土地である。その治所は後陽、すなわち現今の鄭鯨の少しく西にあり、従って陳勝の張楚園とは近距離にある。そ

一向に討伐を加えようとせぬのは、敵と通謀し文書を往来しているに違い

ないという理由である。超高は二世の旨を受けて李斯を訊問し、李由と共に謀叛しに嫌疑によって、拷聞を加えて自由を

の郡守李白が、境内を賊軍の横行するに任せ、

そ乙で李斯は獄中から上書して、

その寛を訴えるのであるが、

乙の文章は名文である。

-38ー

強要した。

先王の時、秦の地は千里に過ぎず、丘ハは数十寓のみ。臣は薄材を壷し、謹みて法令を奉じ(中略)、還に六園を品兼ね、

其の王を虜にし、秦を立てて天子と魚せり。罪の

一なり。地は賢からざるに非ず。又北は胡絡を逐い、南は百越を定

め、以て秦の強を見わせり。罪の二なり。大臣を隼び、其の毎位を盛にし、以て其の親を固くす。罪の三なり。

以下、罪の七まで績いて、自己の功績を列翠して、二世の心を動かそうとしたが、中聞に立っている超高は乙の上書を

も握り潰して、上奏しなかった。反って二世からの特命の使者、御史、謁者、侍中であると稿して自己の私人をやり、獄

中の李斯を案聞きせ、李斯が希墓を抱いて員情を吐露すると、反って其の度に懲治を受けて痛めつけられる。李斯の方で

はこりこりしている時を見計って、今度は木賞に二世の使者が李斯の貫情調査にやってきた。李斯は既にあきらめている

ζ

れ以上の苦痛を避ける震に、何を訊れでも反抗せずに、嫌疑をかけられた罪献をそのまま承認した。使者が李斯

ので、

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の供述を持ち蹄って二世に示すと、二世は喜んで、すんでの所で李斯めに証れるところであったと、越高の明察を賞した。

二世の二年七月、李斯に死刑の剣決が下り、

獄中から引き出され、威陽の市において腰斬に昆せられた。李斯は同じ刑

に問われた中子に向い、

吾れ汝と復たび黄犬を牽き、倶に上奈の東門を出でて技兎を逐わんと欲するも、宣に得べけんや。

と歎息し、相い突して死についた。

乙れに連坐して三族が皆な夷げられた。長子の李由は乙れより先、楚の項羽のために

攻殺されていた。

を立てたが、子嬰は越高を殺してその三族を夷げ、

李斯列俸はこの後にエピローグがついていて、超高が二世に劃して鹿を馬と言い、還には二世を叫糾して、

その子嬰もまた漢の高祖に降り、

その甥の子嬰

やがて楚の項羽に殺されるまでの鰹

緯を記している。

上書五通の出慮

- 39ー

上に述べた所で分るように、李斯列俸はあり合せの材料をただ年代順に列べたというのではなく、務め敷設した軌道の

上に、起承轄結の順を追って李斯の

一生を展開させた文同学的な作品、一篇のドラマであると見てよい。ととろで歴史と文

事とはもともと性質の遣うものであるが、併し歴史の記述が文筆的であってはならぬという理窟はない。但しそれは何虚

までも、先ず歴史の約束を守ってからの上でのととであるべきは言うまでもない。

そんならば第一に李斯列俸は如何なる史料に基づいて書かれたが問題であるが、もちろん今日からこれを貧誼すること

た花やりようによっては、或る程度まではアプローチすることができるのではないかと考えられる。

先ず李斯列俸の中には五件の上書が含まれている。列俸の本文には、その何れにも題目が附けられていないから、今便

宜上、最可均の「全秦文」に附けられた題目を借用しようと思う。

は不可能である。

603

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604

ハ円上書諌逐客

これは普通に「逐客論」と稽せられ

「績文章軌範」など、諸種のアン

ソロジーに引用されている。

。議焼詩書百家語

乙れは略々同文が始皇本紀にも載せられているが、始皇在位三十四年の乙とである。

二世に向って逸楽を勧めた上書で、大臣の上書としては似合わしからざるもの。

伺上書割二世

帥上書言越高

田獄中上書

二世に劃して越高を弾劾したもの。

越高との闘争に敗れて獄中より二世に訴え、自己の功績を述べて二世の翻意を求めにもの。

その中に引用された上書奏議の類は、概ね出所の正しいものとして、議論の正否は暫く措き、

史料としては根本的なものとして高く評債されるのが常である。然らば乙の李斯列俸の場合は如何であろうか。

きて後世の史書ならば、

乙の問題について一つの手懸りを興えるのが右の中の

ωである。

と言うのは、

とれが始皇本紀の中にあるものと略々同

文ピからである。秦本紀及び始皇本紀は、恐らく漢の史官に識せられていた秦記系統の史料に依る所が多いと思われ、果

して然りとすれば、第一等の根本史料たるを失わない。但し史記はとの史料を採用するに嘗って、ニ子一句を忠買に轄寓

しにのではなかった。何となれば今雨者を比較すると、

重要な貼に於いて彼此出入があるからである。

先に私が李斯俸記の概要を述べる際に、李斯が思想統制を献議し、始皇の裁可を受けて貫施するに至った経緯を記した

- 40ー

部分は、便宜上、始皇本紀の記載に撲ったのである。今その統制の内容を更に詳しく述べれば、

臣請うらくは、史官の秦の記に非ざるものは皆な之を焼かん。博士官の職とする所に非ずして、天下敢て詩書百家の

語を臓する者あらば、悉く守尉に詣り、雑えて之を焼かん。敢て〔詩書を〕偶語するあらば奔市せん。古を以て今を

非とする者は族せん。吏にして見知して奉げざる者は輿に罪を同じくせん。

とあるが、李斯列俸においては、これに嘗る部分は甚だ短く、

臣請うらくは、諸の文築詩書百家の語ある者は、錨除して之を去らん。

とあるのみである。

乙の下には更に績けて、

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令下りて三十日にして焼かぎるは、鯨して城旦と篤さん。去ら

gる所の者は町四繋卜盤種樹の書なり。若し法令を皐ば

んとするあらば、吏を以て師と帰せ。

とあり、李斯列俸の文も略々同様である。南者を比較すると、本紀の文が原史料の面目をよりよく俸え、列俸の文は乙

れに節略を加えたに違いない乙とが直に察知される。

なおこの前文に、本紀では今皇帝の三字があり、

乙れは秦代の記録に屡々現われる表現で、今という副調に皇帝の二字

を添え、前代に射して秦代には、という意味を持たせたものである。然るに李斯列惇では乙れを、今陛下の三字に書き改

めている。乙の時代には後世のように皇帝陛下と績ける用法がなく、陛下という字は皇帝という字の代替として用いられ

ている。そして陛下という表現は、どうやら漢代になってから盛んに用いられるに至った言葉と思われる。乙の貼からも

本紀の文の方が原文に近く、列俸の文はそれを轄篤したに違いないという傍誼になると言えるであろ

李斯の上書∞は、

ャ「ノ。

但し李斯の上書は司馬遷が直接秦記の如、き政府所臓の史料に用いたかどうかには、なお疑問が残る。というのは漢代ま

で、もう少し二次的で便利な史料が存在していたと思われるからである。それは「漢書義文志」春秋家の中に、

- 41-

奏事二十篇(奏時の大臣の奏事及び名山に刻石せるの文なり)

とあって、

とれは秦代の歴史を書くには、正に打ってつけの史料ではあるまいか。そしてとのような種類の本が秦代に編

纂されるべき理由が昔時確かに存在しに。それは始皇以来、象問とは嘗世に必要な賓務の開学習ばかりであるが、従って将

来やや高級の官僚ともなろうとすれば、過去の大臣等が賞際に上書した奏議、或いは刻石の銘文などを手本として習って

おく必要がある。自分たちにも何時かは賞地に臨服用する時が来るかも知れぬからである。従って各官街にはとのような書

籍を数科書として備え付けておく必要があったと考えられる。既にそのような書籍が編まれるならば、李斯の上書などは

605

最も遁嘗な文例として、まっ先に採用されたに違いないのである。

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606

「奏事」二十篇、

乙のように考えてくると、口の上書は、別に政府史官の秦記のような貴重圃書に直接嘗らなくても、乙乙に翠げられた

又はこれに類する書があれば十分に役に立ったと思われる。更に考うるに付上書諌逐客の文も同じ書籍

の中に見出せたであろう。

李斯列俸の中には見えないで、反って始皇本紀の中に出ている李斯の上奏に、議贋封建の一文がある。

とれは始皇二十

六年に、天下一統の後、

丞相王結等が燕

・宵・荊等の遠地に諸子を封じて王となさんと請い、群臣も大かには賛成した中

に、ひとり廷尉の李斯が反劉を唱え、封建は行く行く天下大乱の原因になると申立てて始皇を諌めたのであった。乙の李

斯の議なとも恐らく

「奏事」二十篇の中に見出す乙とが出来たであろう。

そんならば李斯列惇中に見える他の上書もまた、確かな史料に基いた文章であろうかと言うと、貫はそうは言えないの

である。最も怪しいと思われるものから先ず問題としたいが、

それは伺獄中上書である。

乙の上書は前にも一寸鯛れにが、李斯が自己の功績を述べて、しかもそれを罪の一なりと数え初めて、罪の七に至って

いるものであるが、第一の罪の説明が非常に詳しく述べられているのに、第二以下はずっと簡単になり、

ほんの概要に止

- 42ー

まっているのは、前後アンバランスであるという感じを受ける。恐らく何か基つく所のある原文を轄寓する際に節略を加

えたに違いないと思われる。それにしても全世として緊迫感を読者に興える名文である。

ところが李斯列俸によると、李斯が乙の上書を奉ると、越高は吏をして棄去

って奏せきらしめ、囚人の身を以て安んぞ

上書するを得ん、

と言ったと言う。李斯がいま霊園いにばかりの上書が棄て去られたのならば、

乙れは政府の史官の許に保

管される乙とはなかった筈である。

乙の上書は李斯が殺される二世二年七月、若しくはその直前の乙とであり、翌年八月

には二世が越高に殺され、

その翌九月には超高も殺され、更にその翌月には柿公劉邦が威陽に入って秦王朝が滅びている

が、乙のような動蹴の際に

どうして一旦棄て去られた李斯の上書が残存する可能性がある忙ろうか。

乙う考えてくる

乙の上書は明かに後人の創作だと言わなければならない。

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すると李斯列俸に載せられた彼の上書と稽せられる五逼の中に、ハ円上書諌逐客、。議焼詩書百家語のような、ある程度

信頼すべき史料に依ったものと、伺獄中上書のように、後人が嘗時の事情を推察して創作したものと二種類がある乙とに

なる。そんならば他の二通の上書はその何れに属せしめて然るべきであろうか。

二通のうち、伺獄中上書に近い性質をもつのは同上書言超高である。

これも内容から見て、嘗時の権力者越高に反射す

また民聞に流れて好事家の聞に停播しそうな機舎ありとも考え

るものである以上、

政府の史官に保存されよう筈はなく、

られそうにない。

やはりζ

れは伺と同じく後人の創作に違いあるまい。

次は同上書封二世

であるが、

ζ

の内容は天子に逸楽を勧めるという所が珍無類である。更にその文章を検べると、秦

代らしからぬ表現が甚だ多いのが自につく。例えば、申韓之明術、能明申韓之術、雄申韓復生というような句があるが、

申は言うまでもなく申不審で韓昭侯(前三五八|一一一一一一一一一年在位〉に仕えたと吾一

TJから、李斯よりも百年以上も前の人である。

更に文中に、韓子日、

として二箇僚を引用するが、韓非子の能を嫉んで之を死地に陥れたと稽せられる李斯が、

- 43ー

それを彼と同門の韓非子と合せて申韓と稽するのは甚だ似合わしくない。

上書の

文に同輩の韓非子を引用するとは一寸考えられぬ乙とである。

なお乙の文中に世間の賢主と稀せられる名君の徳とは、死則有賢明之誼也、と定義しているが、秦は始皇帝が天子とな

ると同時に、群臣が議して前君主に射し誼を贈る制度を慶したととは史上に有名な事賓であるにも拘わらず、その時の朝

議に興った筈の李斯がこんな乙とを二世に劃して言う筈はない。以上のような見地から骨はどう考えても、李斯が貫際に

しかも相嘗年代の下った人の手になる創作としか見られないのである。

そうかと言って乙の三通の上書が、皆な司馬遁の自作とも考えられず、彼は恐らく何等かの史料を利用して輔骨持したに

違いないと思われる。司馬遷は卓越した史家には違いないが、但し今日のような巌密な史料批判の皐はまだなかった上、

史料が少ない時代であったから、若し利用すべきものがあれば、あまり深い検討を加える乙となく、そのまま「史記」の

上書したものとは考えられず、賓際は赤の他人、

607

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608

中に取り込んに例は甚ピ多く、乙の場合に限った乙とではない。

そんなら彼はどんな史料を利用したか、と言えば、もちろん自信を持つては答えられないが、

ではない。それは「漢書」華文志縦横家の中に

零陵令信

一篇

(秦の相李斯を難ず)

それらしい心首りがない

とあるものである。もちろん乙んな書は今日残っていない。信なる人物の姓すらも分つてはいない。併し察すると乙ろ、

ζ

れは李斯の議論を先ず翠げて、次に著者の難、すなわち反駁を述べたものであろう。縦横家であるから必ずしも史貨を

頼りとせず、鼎論の説得力を競う

一種の創作であってよい。事文志の下文には縦横家なるものの性質を述べ

て、

邪人が之を魚すに及びては、則ち詐援を上びて其の信を棄つ(師古田く、設は詐言なり)。

と言っている。恐らく司馬遷はこのような書の中から、李斯の議論とされている部分を採ったのであろう。

越高とその三人の仇の物語

- 44ー

ζ

のようにして李斯列停から上書五逼を除いて見ると、

あとに残るのは李斯の行事の梗概と、

それに趨高との鹿酬であ

る。そこで次に我々が検討を加えねばならぬのは、

乙の列俸の大部分を占める趨高との葛藤は如何なる史料に擦って書か

れたかの問題である。

ここで珠め考慮しておかねばならぬことは、李斯と越高との間の問答は、秘中の秘、何人も他から伺うζ

とを叶訂されな

い極秘の相談が多い乙とである。始皇の死の直後、超高は二世胡亥に勤めて奪嫡の計をなすのであるが、

乙れは二人だけ

の聞に極秘に進められた問答であって、第三者は誰一人として輿り聞くを得ない。嘗事者二人も後々まで、誰も他人に打

ちあげられない。若し他人に感付かれただけでも重大な結果を惹き起乙すであろう。次に越高は李斯を説、きふせてこの陰

謀に加措させるが、乙の問答もまに雨人の聞だけに限られにものである。李斯の合意を得ると、今度は二世と合せて三人

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しかも三人以外に射しては絶封の秘密が保たれなければならない。若し外部に洩れれば三人と

も致命傷を負わなければならぬ筈である。だからとの三人の聞に交された問答は、到底史料として昔時にも後世にも俸わ

り得ない性質のものである。言いかえればそれは創作に外ならない。

創作と見る時、

ζ

の部分は讃者のサスペンスを誘うべく、甚だ巧妙に、また数果的に工夫されている。始皇の詔令を偽

作して長子を殺し、少子胡亥ぞ後継者にしようという陰謀を打ちあげられた時、胡亥は決して卸座には承知しない。

だけが共通の場を持つが、

兄を贋して弟を立つるは、是れ不義なり。父の詔を奉ぜずして死を畏るは是れ不孝なり。

と言って、徳義を振りかやさして員向から反劃する。

それは尤なとと行。若し胡亥がζ

の立場を押通せば、超高の陰謀は根

本から覆える。そうしたスリリングな場面を表わしつつ、越古同が懸河の鼎を振ってまくしたて、形勢を盛返して結局悪事

に加携させるに成功する。次は李斯の番であるが、李斯も最初はやはり、

安んぞ亡園の言を得んや。此れ人臣の嘗に議すべき所に非、ざるなり。

- 45ー

と援ねつける。併し越高が執劫に利害を述べて説きつけると、本来は優柔不断な、書記的な才能しか持たない李斯は次第

・次第に軟化して屈服する。

嵯乎。濁り飢世に遭う。既に以て死する能わず。安くにか命を託せんや。

と歎息しながら、良心を買渡してしまう。いったん悪魔の岡崎きに乗せられて、身を任した上は、彼の運命は急轄直下、

落の底へ沈んで行き、もがけばもがくほど深みにはまって、最後は三族を夷げられるという悲劇に移るのである。

そんなら乙ういう物語の作者は誰か、と言えばそれは外ならぬ民衆なのである。私の考によれば古代中園は都市圏家的

社曾であ匂漢代までは春秋時代の都市園家における古代市民的生活が濃厚に残っていた。古代市民には社交場が必要で

あった。その必要に庭ずるのが市であり、都市における市は翠に商品交易の場であったばかりでなく、市民の憩いの場、

娯楽の場であること、古代ギリシアにおけるアゴラ、

609

ローマにおけるフォーラムの如きものであった。

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610.

というような非難を聞くこと

屡々である

若しも比較し損つにならば、もちろんそれは問題である

が、とれまでその仕損った貼を指摘された乙とは聞いていない。抑も問題は、

始めから左様な観黙を以て提起さる

、べきで

西洋と比較したピげである。

とのような私の考に劃して、

それはあまりに西洋に引きつけた解揮である、

が、西洋に引きつけたのでなく、

ない。人類が祉禽生活において要求する所は、

娯柴の場が必要なζ

とは言うまでもないので、私はそれを探して市に外ならぬ乙とを突きとめ、

西も東もそんなに違ったものではない筈である。古代人にも集舎、社交、

それが西洋の市の機能と

甚だ類似している乙とが、結果として判明したのであった。

さて戦闘・秦漢代の都禽における市では、市民が集ると、其中の二人、乃至三人が役者となり所作事を演じ、科白を述

べて、物語りを準行させて、民衆の喝采のうちに時間を潰した。ζ

れを偶語と稿した。偶語家、か専門職となって王侯に仕

@

えると、

ζ

れを優と稿した。寅は始皇の時代に、李斯の献議で民聞における一切の偶語を厳禁したことがあった。始皇本

紀三十四年の僚に

有敢偶語詩書棄市

とあるが、右の書は者の-謀、詩は街字と思われる。上から誼んで来ると、此慮には是非とも者という字が必要であるが、

先ず乙れを書と誤ったのでそれでは意味が逼ぜぬから、上文に詩書とあるのを見、意を以て詩字を補ったに違いない。果

- 46ー

して「史記」巻八高祖本紀、

漢元年十月の僚に、高租が威陽に入り、

父老に射して秦の苛法を述、へた際に

偶語者棄市

と記しているが乙れが正しい。きて偶語の意味は始皇本紀同僚下の集解に、

雁勧日く、民の緊語を禁ず。其の己を語るを畏るるなり。

とある。但し偶字が衰を意味するのではないので、正義には

偶は桝到なり。

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と言っているのは、そのような誤解を避けんがためである。乙の南保の言わんとする所は、偶語の文字の意味は封語、す

なわち二人が相謝して問答針話する乙とであるが、寅際には多くの人衆を褒めて聴衆とし、時にはそれが時事問題に及ん

で嘗路者を語る結果になる乙ともあった、と言うにある。

「史記」においては李斯列俸の場合のみならず、

ζ

のような民間の説話をそのまま資料に用いた所が甚だ多いのであっ

て、殊に内容が面白い話である場合において特に然りとする。

と乙ろで李斯列俸は起承の二段と、轄結の二段とで、

その雰園気が全然違う乙とは注意すべき現象である。何となれば

後二段においては名目的の主人公は李斯でありながら、賓際に活躍するのは越高であり、李斯の方は頗る生彩のないワキ

役を勤めているに、過ぎない。

とすれば司馬遷はいったい如何なる種類の偶語を資料として用いたのであろうか。どうやら

その物語は李斯が主役ではなかったらしく思われるのである。

もう一つ、李斯列俸の後半、轄結の二段において、主役を奪って活躍する超高の性格であるが、

それが悪役であるから

47一

には致し方ないとしても、

あまりにも悪魔的に描かれているのは何故かという疑問が生ずる。例えば二世が即位した後に

その兄を迫害するが、二世本紀においては

六公子は杜において裁死せられ、公子賂閏昆弟三人(中略〉、皆な流沸し叙を抜いて自殺す。

とあるピけであるが、李斯列俸の方には

公子十二人は威陽の市に朗惨死せられ、十公主は杜に疎死せらる。

と記している。二世や超高が自己の地位を安全にしようとする気持は分るにしても、

ぃ。或いは反って反動を生じて危険な事態に立至るかも知れぬと思われるのに、何故乙んなことをする必要があったか。

とれでは過嘗防衛と言わざるを得な

李斯の最期についても同様である。

611

斯に五刑を具えて論じ、威陽の市に腰斬す。

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612

とあるが、

「漢書」刑法志に

嘗に三族すべき者は皆な先ず、賎し剖し左右の祉を斬りて之を答殺し、其の首を長し、其の骨肉を市に苗す。其の誹

乙の中の具五刑とは、

誘晋誼する者は又七先ず舌を断つ。故に之を具五刑と謂う。

とあり、あらゆる苦痛を興えた後に公守つって命を絶つが、李斯の場合は答殺の代りに腰斬されたのである。超高と李斯と

の聞に、何故に乙のような酷刑を加えねばならぬ怨恨があったのであろうか。どうも皐なる官官のコンブレクスピけでは

説明できない噌虐性と言うより外ないが、

そんなら乙の噌虐性は何慮から来たのであろうか。

李斯列俸の後半に主人公的な役割を占める超高は、何の前鯛れもなく忽然と出現するが、買は趨高の素性は、同じく超

高の魚に犠牲に供せられた蒙悟の列惇中に記されている。私はそ乙で、越高は寅は秦に滅された越の一族であったという

記事を見て、諮然として悟る所があった。超高乙そは疏遠ながら越の王族の末喬として、秦に劃して亡園の恨を晴らした

に違いないの記。乙ζ

にもう一つの「越氏孤児雑劇」があったのだ。

「史記」蒙悟列俸によると、

- 48ー

趨高者。諸趨疏遠腐也。趨高昆弟数人。皆生隠宮。其母被刑傷。世世卑賎。

とあり、此に諸越と言うのは、斉の王族を諸国と言うように、趨王の一族の意味である。生隠宮の三字を、

と讃んだ。そ乙でその意味を解して、

「史記索隠」

では、憶宮に生る、

劉氏云うならく、蓋し其の父、

宮刑を犯し、

妻子渡せられて奴稗と震る。

妻後に野合し、生む所の子皆な越姓を承

け、並びに之ぞ宮す。故に兄弟隠宮に於いて生る、

と云うなり。

ζ

れは意味が剣然しないが、恐らく浪人されて女奴輔副となった母が、隠宮という場所に入れられ、次々に父なし

子を生んだが、前夫の姓によって、その子も越氏を名乗つに、と解しているものの如くである。すると今度は列停本文の

下文に、母が修刑を被る、とあるのと時間的に如何に績くかの問題が起る。一七び奴隷とされ、子を幾人も生んだ後に更

と言い、

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に刑死させられたでは念が入りすぎる。本文だけを讃めば、そんな複雑な意味が出て・来そうには思えない。寅は生隠宮の

三字の下の集解には、

徐慶日く、富者と震す。

乙れは隠宮の二字を解したものと思われる。恐らく乙の解揮に従って「責治遁鑑」巻七、秦紀始皇三十七年の候

ムピのhJ、

f」み也、

乙の文を

生而醸宮(生れて宮に隠せらる)

と讃んでいる。謄宮の二字は貧は「史記」始皇本紀三十五年の僚に既に出ているもので、その下の正義には

徐の刑は市朝に於いて見すe

宮刑は一百日蔭室に於いて隠せられ、之を養って乃わち可なり。故に隠宮と日う。輩室

に下すとは是なり。

とあり、

- 49一

つまり隠宮の二字は、名詞に讃めば臆するの宮となり、動調句に讃めば宮に隠するの意となるので、「賀治逼鑑」

は後の意味に取り、霊室に下す、と同義だと解したわけである。すると趨高の昆弟は数人あったが、生れながらにして、

言いかえれば生れると間もない時に宮刑に慮せられたのである。但し昆弟数人は皆な同腹とは限らない。だから越高の母

について言えば乙れと同時に死刑に慮せられたと読明を附け加えた。従って索隠の劉氏が見弟数人を皆な同じ母が次々に

生んピと解したのはそこに非常な無理がある。

そんならば趨高の乙の幼時の災難は如何なる事情の下に起ったかと言えば、もちろん確かなととは言えないが、

それを

推察せしめる事件の記録はないではない。始皇本紀十九年の僚に秦軍が越を滅し、趨王遷を捕虜とした記事の後に、

秦王師郡に之、き、諸の嘗て王が越に生れし時の母家と仇怨有りし者を、皆な之を院にせり。

と記している。抑も始皇帝の父荘裏王は質子として越に迭られ、甚だ失意の中に日を迭っている中、豪商口口不掌に認めら

613

れ、邑不章から一姫ぞ贈られ、

その腹に出来たのが始皇帝であって、或いは呂不章の子であるとも言われた。

乙の舞姫は‘

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614-

間部豪家の女とも稿せられるが、普通の常識で考えるならば、奴隷と同じ俊件で貰られたに違いないから、

貧家の子であ

って苦しい境遇に育ったと思われるのである。始皇帝の出世と共に乙の舞姫は太后となり、苦難の前半生を迭った越の地

を征服し、

嘗て自分に辛く首つに仇人に復川町立を遂げたと言うのである。しかも乙

の直後に舞姫太后は死んでいる。前後を

併せ考えると、超高の母が殺され、自身も宮刑を受けたのは此時の乙とではないかと思われる。

果して然りとすれば越高にとっては、始皇帝、並びにその宰相李斯は不倶戴天の仇である。単に租園越の仇であるばか

りでなく、自分自身の母、事によれば父にとっても、まに自己の宮刑恥辱を興えた仇でもあって、

憎んでも憎みたりない

そとで超高がひたすら秦の滅亡を希い、始皇の子供を兄弟同士殺しあいさせ、公主を礎死させたり、

更には李斯を殺すにも五刑を具えた上で腰斬するなど、極度の酷刑を用いた理由も、どうやら理解できるではないか。

存在である筈である。

超高は蒙氏に劃しても敵意を抱く理由があつに。それは

「史記」が説明するように、

嘗て超高が大罪を犯した時に、

- 50ー

毅が法によって之を治め、高に死罪を嘗てたことがあったからと言うだけではないらしい。それは戦園末期における秦と

皇即位の初に菅陽が叛した時、

越との戦において、越に向

って攻めてきた賂軍は蒙純であつに。殊に荘裏王の二年、彼は越を攻めて三十七城を取り、始

乙れを卒定したのも蒙矯であった。彼は始皇七年に死んだが、その子が蒙武であり、

蒙武

の子が蒙悟と蒙毅の兄弟である。

蒙筒が死んだ後、越方面の鰹管に嘗つに秦の将軍は王朝であるが、

蒙武はその下で働いていにと思われる

ふしがある。

何となれば彼は父の下で三五日の事情を翠び、地理に通じていたに違いないので、王羽にとって有力なブレーンにり得るか

らである。後に王朝が楚を卒定する大任を興えられた時に、副絡に選抜しにのは蒙武であったととを見ても、商人のコン

ビはずっと古くから存在していたものと考えられる。果して然らば越を卒定しに後に、始皇帝自ら間部に乗り乙んで断行

した虐殺に際して蒙武がその貫施に参加しにであろうという推測も決して不首ではない。越高は始皇の長子扶蘇に連坐さ

せ、蒙悟に迫って自殺せしめ、併せてその弟蒙毅を殺した。乙うして越高はその仇とする始皇帝、李斯、蒙驚の三家に封

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レて徹底的な復讐を遂げたのである。

李斯列俸に見ゆる限りにおいては、超高は只の官官ではない。大帝園の丞相ともあろう李斯を手玉にとって愚弄し、二

世のような暗愚な君を背景として百官を畏服した。だから蒙悟列俸を見ると、越高はその強カにして獄法に遁ずる故に始

その事に敦きを以て、

ぅ。超高自身も自ら刑儀の数民を以て居らず、宛として趨王の遺撃を以て自ら任じていたらしい。

きれば二世を試した後

に彼は自ら帝位に登ろうと試みたとある。李斯列俸に越高が丘ハを以て二世に迫った際、

劫して自殺せしめ、璽を引いて之を侃ぶ。左右百官従うもの莫し。般に上るに殿壊れんと欲する者三たびなり。高自

ら天の興せず、群臣の許さ、ざるを知り、乃わち始皇の弟を召して之に璽を授く。

と記している。右の文中、始皇の弟とあるは孫字の誤ではないかなどと論ぜられているが、乙れは軍に璽を保管せしめに

と見れば、弟でよいのではないかと思われる。何となればこのすぐ下文に、子嬰が位に即いたと記しており、

ζ

の子嬰は

始皇本紀の方にはっきりと、

二世の兄の子、

公子嬰と書いているので、

乙乙で別に説明を加える必要はなかったのであ

- 51ー

る。

ζ

のような明白な事買について、

「史記」が誤を犯す筈はないであろう。

始皇本紀によると子嬰は超高に擁立されたが、

その員意ぞ疑ってその二子と謀り、

いつわ

丞相高は二世を墓夷宮に殺し、群臣が之島』訣せん乙とを恐れ、乃わち詳りて、義を以て我を立てたり。我聞くに超高

は乃わち楚と約し、秦の宗室を滅して、開中に王にらんとすと。

とあって、恐らく乙のような風聞も賓際にあり得たととなのであろう。天下の皇帝でなければ、

せめて開中の王になりた

ぃ。やはり超高は只の宜官でなく

「越氏孤児」であったのピ。

615

萄子とその三人の弟子の物語

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仇の物語」を粉本として用い、

司馬遁は李斯列俸を著わすに首り、無名氏が偶語によって演ずる所の「績超氏孤児雑劇」又の名は「超高とその三人の

その後半部を纏め上げたらしいことは上述する所によって、略々推測され得たと思うが、

616

そんならばその前半部にも同様な乙とが行われなかったであろうか。私の考える所では、それは大いにあり得に乙とであ

り、やはり同様な偶語風の物語が、下書きとして用いられに形迩を辿る乙とができると思う。そして乙の場合の粉本の名

は「萄子とその三人の弟子の物語」とも名付けらるべきものであったらしい。

李斯列俸の前半部には萄子の影が所々

に映されているが、

く、偶語中に利用され、引合に出された萄子である。そして同様の性質をもっ萄子と弟子たちの物語の断片が漢代の諸書

乙の萄子はやはり純粋の儒家的立場から見た皐匠の萄子でな

に散見しており、

る。

此等の断片を接績すると

史料として司馬遷に提供してもよさそうな一篇の故事談が成立しそうであ

ぶのであるが、その皐問の目的は夫々互いに全く相異なる。先ず李斯は権勢欲、が盛んで、天下を以て己の任となし、

- 52ー

三人の弟子と言うのは、李斯と韓非子と、包丘子

(又は絢丘子)との乙とである。乙の三人は萄子の門に入っ

て一

緒に接

その

乙の目的の魚には手段を揮ばない。

次に韓非子は韓の

一一族であり、貴族社舎に

生長したと乙ろから、何よりも名器を追求する。不幸にして口が吃りであったので、書を著す乙とに専念して世に知られ

ためには何よりも立身出世が必要であり、

ょうとした。師の萄子から見ると、

最も才能が優秀で頭脳の明断な李斯と韓非子とを自分の皐問の後縫者としたいのであ

るが、二人の方は気が多すぎて本気に皐聞をしようという気にならないのが悩みの種である。もう一人の包丘子は員面白

に鼠半間に沈潜する根気はあるが、

いちばん頭が悪そうである。

まっ先きに萄子の許を飛び出したのが李斯である。恐らく萄子は一躍はそれに反封して見たのであろう。その際に李斯

が押し切って萄子に辞した時の言葉らしいのが、李斯列俸の初の所に載せられている。

萄子の許を去って西のかた秦に入り、呂不章の舎人となって秦王に曾う機舎を得、そ乙で大いに説くに帝王の術、天下

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統一の計を以でしたが、その言葉も李斯列俸中に牧められている。

その次は有名な逐客令に劃する李斯の反射の上書であるが、本文下の索隠に引用された劉向の「新序」には、

斯も逐中に在り。道上に諌室百を上り、始皇に達す。始皇人をして逐わしめ、腫邑に至りて還るを得たり。

とあるが、園境を越える前の間一髪で間にあったというのは、好んで偶語に用いられる技巧である。

次に萄子の許を去ったのは韓非子であり、彼は積弱の韓が、

日に日に都圏の奏に領土を輩食されるのを見るに忍びず、

頻りに韓王に献議して園政の建て直しを計ったが、一向に用いられず、

最後に滅亡の土壇場になって、韓王は韓非子を召

し、秦に使し秦王に説いて韓を存績せしめようと計った。併しその使命は失敗に終り、韓非子は自殺し、その三年後に韓

も滅亡に追いとまれにのである。

「史記」巻六三、老荘申韓列俸の韓非子は、李斯の震にその才能を嫉まれ、その謀計によって自殺を迫られにことにな

っている。乙の部分の記載は、李斯列俸の記載と相官応じて、甚に偶語的な特色を持っている。

李斯と倶に萄卿に事う。斯は自ら以て非に如かずと篤せり。

- 53ー

人或いは其の霊園を停えて露骨に至る。秦王「孤憤・五蜜」の書を見て日く、

睦乎、

寡人此の人を見、之と瀞ぶを得ば、

死すとも恨みざらん、と。李斯日く、此れ韓非の著す所の書なり、と。秦因て急に韓を攻む。韓王始め非を用いず。

念なるに及びて廼わち非を遣わして奏に使せしむ。秦王之を悦ぶも、未だ信じ用いず。李斯、挑買之を害とし、之を

控りて日く、韓非は韓の諸公子なり。今、王諸侯を弁せんと欲す。非は終に韓の震にし、

秦の震にせざらん。此れ人

の情なり。今、

王用いず。久しく留めて之を婦さば、此れ自ら患を遣すなり。如かず、過法を以て之を談せんには、

と。秦王以て然りと魚し、吏に下して非を治せしむ。李斯人を使わし、非に獲を遺り、自殺せしむ。韓非自ら陳べん

と欲して見ゆるを得ず。秦王後に之を悔い、人を使して之を赦せしめしに、非己に死せり。

韓非は説く乙との難、きを知り、「読難」を震る。書甚だ具わるも、終に秦に死して、自ら脱する能わぎるなり。

617

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てたこと、

乙れを讃むと、李斯と韓非子は同門のライバルであつに乙と、秦王が韓非子を賞めすぎて一一層李斯の競争意識をかきた

「読難」を著して遊説の困難を説、き、百も知り壷していながら、遊説先で死んピことを述べるが、最後に秦王

618

の赦兎を受けながら、

一足違いで間にあわなかった乙とは、李斯が秦王の使に追いかけられ、やっと臨邑で間にあったの

これは雨者が根原を同じくしている乙とを物語る誼援にと言えるであろう。

と好一割をなしていて甚だ面白い。

韓非子の自殺は始皇本紀によれば始皇十四年

(前一一三一一一年〉のことであり、李斯が逐客論を上った時から僅に四年の後に

過ぎず、李斯はまだそんなに重用されてはいなかったから、彼が韓非子を陥れにというのは、

一読として俸えらる所に過

ぎなかったと思われる。だから一方には、李斯が後に丞相になったと聞いて、萄子が心配のあまり、食を摩したという停

えがある。

「盤鍛論」段皐第十八に、文民平の言として、

あた

李斯の奏に相にるに方ってや、始皇之に任じ、人臣こなし。然り而して萄卿之が魚に食わず。其の不測の摘に躍るを

観んとてなり。

- 54-

とあり、同時に李斯列俸によれば、彼が得意の絶頂にあった時にも、萄子の言葉を思い出して反省している。

日く、陸乎、吾れ之を萄卿に聞く。日く、物は太だ盛んなるを禁ず、

乙れで見ると、若し李斯が韓非子を陥れたにしても、萄子はそんな事とは知らず、相い饗らず、李斯を忠買な弟子だと思

どうかは別問題で、

っていた乙とになっているのである。

但しそれが歴史事買に合うか

李斯が丞相に任ぜられた頃に

は、萄ヱ寸はもう此世には居なかったのが事買と思われる。

語から出たもので、

萄子の第三の弟子、包丘子については、前に引いた

「堕織論」段皐篇が殆んど唯

一の史料であるが、乙れもどうやら偶

しかもζ

れを合盟させるととによって、李斯、韓非子の説話が完成するらしいのである。問書には先

ず政府側の大夫の言として、

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昔、李斯は包丘子と倶に萄卿に事う。既にして李斯は秦に入り、途に三公を取り高乗に擦って以て海内を制す。功は

伊墓に伴しく、名は太山よりも

Eいなり。而して包丘子は聾摘蕎塵なるを菟れず。療歳の竃の如くして、ロ衆からざ

るに非ぎるなり。然れども卒に溝釜に死するのみ。

乙れに射して民間輿論を代表する文皐の側は人間の生き方において、李斯よりも包丘子を選ぶべき乙とら』主張する。

包丘子は腕蓬饗を食い、道を白屋の下に修め、其の志を楽しみ、之を康度第象よりも安しとす。赫赫の勢なきも、亦

た戚戚の憂なし。

李斯が秦に相として天下を席するの勢ゐるや、志は高乗を小なりとす。其の固固に囚われ、

せらるるに及んでは、亦た薪巻負いて鴻門に入り、上察曲街の径を行かんとするも、得べから、ざるなり。

雲陽の市に車制(裂?)

とあって、

乙の最後の僚は李斯列俸の結びと、殆んど同一である。

- 55ー

右の包丘子は或いは「漢書」巻三十六、楚元王俸に見える浮丘伯と同人かとも思われるが、果して然らば、乙れは魯の

申公の師であって、詩経の博受において重要な役目を果した乙とになる。乙の浮丘伯が萄子の弟子であった乙とは事寅で

あって間違いなく、

それが秦の滅亡後、

約二十年を経た口口后の時代まで生きており、

長安に出て弟子に教えたと言うか

ら、健康であり且つ長書であったと思われる。

若し私の推理に誤がなければ、

人生観を描いて世を調刺したものである。李斯はひたすら権勢を熱望して秦の丞相となり、韓非子はもっぱら名聾を追求

して天下の名土となったが何れも非業の最期を遂げた。ひとり包丘子は貧賎に甘んじて名利に惑わされず、恐らく李斯や

韓非子にその無能を瑚笑されながら、よく翠問の孤墨を守り、動乱の渦中にあって、天蓄を全うする乙とができた。きて

どれが本嘗の人間の生き方かと問いかけるのである。

「萄子とその三人の弟子の物語」は偶語として、李斯と韓非子と包丘子と、三人三様の

619

司馬遷はこの偶語を人に従って三部に切断した。韓非子の分は老荘申韓列俸に書きζ

んだが、

ζ

の部分が最も本来の面

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620

目を保っていると思われる。李斯の分は李斯列俸の前半の下書きに使用したが、韓非子との関係は重複を嫌って一切燭れ

ず、

萄子との関係も牟面を停えるに止めたので、全践として甚ピ不十分な書き方になっにのを菟れない。包丘子の分は全

然削除して用いない。波澗のない人生は俸を立てても面白くない上に、司馬蓮は隠遁者を最上の人生として賛美する債値

硯には共感しなかったと思われるのである。

..L. J、結

五ロ==ロ

李斯列俸は形式としては起承轄結のリズムを完全に具え、

その封象は天下統一の大業を輔佐した大政治家であるのだ

が、さて正直のとζ

ろ、

ζ

れを讃んでも大した感興を費えず、

また李斯という人物の印象もあまり剣然とは浮び上って乙

t

、。

ず,EPLW

いっ七いζ

れは何鹿に原因があるのだろうか。

- 56-

由来司馬蓮は不世出の名文家とされて来たようであるが、私は乙れには無傑件には賛成しかねる。というのは司馬軍の

文章の出来栄えには非常にむらがあるからである。その良否の擦って来る所を考えると、それは彼が利用し得た資料の如

何に懸っていると思われる。もしその材料が良かつに時には、自然にその出来上りも優秀であるが、もし欲する所の資料

が思うように揃わなければ、

その仕上げも従って不十分になるのは、別に司馬遷に限った乙とではなく、歴史皐というも

のの持つ不可避な宿命とも言えるであろう。

私が試みた分析に従えば、李斯列俸に用いられた資料は大別して四種類ある。第一は比較的信頼すべき公支書の流れを

扱む「奏事」二十篇の如、きもの、第二は秦漢の交に作成された縦横家流の著述で、事貫よりもむしろ議論に重きをおいた

一篇の如、きもの、第三は民間で語られた偶語のうち、超高を主人公とした復讐物語、私が名付けて「績越氏

孤児」文は「超高とその三人の仇の物語」とでも言うべきもの、第四は同じく偶語の系統で「萄子とその三人の弟子の物

語」とも言うべきもの、以上の四種である。非常に性質の違った四種類の責料を雑然と寄せ集めたために、李斯列俸は全

「零陵令信」

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睦として粘着力を歓き、内容的に首尾呼醸していない。しかも前半は

「萄子と三人の弟子」、

後半は「超高と三人の仇」

という風に異った粉本を用い、

しかもその何れもが、原本においては主人公の位置を占めて居らぬワキ役であったもの

を、そのまま持ちこんでシテ役を勤めさせたため、甚だ落着きが悪い。

殊に問題なのは李斯列俸の後金?を讃む時、

「越高とその三人の仇」の偶語における語りロがそのまま再現されているよ

うな感じを受ける黙である。

いったいとの物語が市井で演ぜられる時、談者と聴衆との同情は何方に傾いていたであろう

か。恐らくそれは越高の方ではなかったか。

それは最初の被害者であり、仇を討つ側であったから忙。漢初の人民の身鐙

にはまピ古代都市園家人の自由な血が流れていに。特に秦の始皇帝という抑匪者に射する反感がまだ忘られずに残ってい

に筈である。

と乙ろが司馬遷の立場は乙れと異っていた。司馬濯にとって、超高は何慮までも秦の後宮に奉仕する一宜官で、従って

その行魚は大逆不遁であった。若しも司馬遷が純然たる民間人であったならば、彼は大いに趨高に同情してもよかった。

- 57ー

何となれば彼は越高と同じように宮刑に慮せられ、最大の屈辱を受けたからである。或いはそれなればこそ、うっかり越

高に同情を表わしては、自身が武帝に封し怨撃を抱いたとの嫌疑を受けるかも知れぬと恐れにのであろうか。彼にとって

越高は、乙れを「趨氏孤児」たらしめではならなかっに。そ乙で原本巻二部に分け、李斯列俸においては、あれほど重要

な役割を占める越高が、何の前鯛れもなく全く突然に登場し、登場したと思うと殆んど濁りで舞蓋を占領する。超高の出

自は蒙悟列俸の方にまわされるが、此虚でも彼は「趨氏孤児」となって復讐する権利を拒否されている。

超高なる者は、諸越の疏遠の属なり。趨高の昆弟数人、皆な生れて隠宮され、其の母は刑修せらる。世世卑賎なり。

乙の最後の世世卑賎の四字は何を意味するか。上文にある疏遠の属だけでよさそうに思えるのに、わざわざとの四字を

つけた司馬遷の員意はと言えば、そんな身分であるからには、越のために復讐するような権利は全然持っていなかったと

乙のあたり、司馬蓮と一般大衆との聞には大きな感情のずれがある。司馬蓮は大漢帝園の

621

宣告するにあったと思われる。

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太史令である。

エリート官僚として持侍は、宮刑の屈辱によって張消しにされるような安っぽいものではなかったのであ

その大統

一を成就した貼において共通の面がある。だから司馬遷は始皇帝を

輔けて統一事業を途行せしめた謀主、李斯のために列俸を立てねばならなかった。と乙ろが貫際に首って見ると、乙れま

漢王朝は秦を減して興った帝園であるが、

でに李斯を主人公に据えた纏つ

に資料がない。

た。きて出来上ったのを見ると、我ながら面白くない列停になってしまったと思ったであろう。

そこで種々の性質の異ったものを寄せ集めて書き直さなければならなかっ

乙の司馬遷の首惑は巻末

の賛によく現われている。あれだけの大業を建てた筈なのに、李斯の悪い面ばかりが出ているからである。すなわち前半

では、折角大儒萄子の門に出たにも拘わらず、法家の皐に輯向してしまう。

六謹の蹄を知りながら、政を明かにして以て主上の歓を補うを努めず、霞乱脈の重きを持し、阿順有合し、巌威もて酷

- 58ー

刑す。

ついで始皇が死んだ後には

高の邪読を聴き、嫡を慶して庶を立つ。諸侯己に畔いて、斯乃わち諌争せんと欲するは、亦た末ならずや。

と、李斯の過失を師事げるが、併し司馬遷は乙れを以て、

その本質的な失敗とは見ていなかったらしい。、にから最後に、

然らずんば、斯の功は且つ周

・召と列せん。

と結び、もう少しで周公、

召公と並び稿せられる所だと評慣している。更に言いかえれば、世世卑賎なる越氏孤児や、萄

子の弟子の貧乏な隠者とは次元の異なる世界の人ピったと言う乙とになる。

乙の司馬遷の貴族主義、

エリート意識は、班

聞に引きつがれて更に甚しくなって行くのである。

史記列俸の中において、最もよく李斯列俸に似たものを求めれば、商君鞍列停、伍子脅列俸が拳げられるであろう。何

れも本園において志を得、す、若しくは迫害を受けて異国に入り、そ乙で孤軍奮闘して漸く地歩を築き上げ、

一時は大いに

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志を得て功業を樹立するが、最後には思いがけない破局に陥って身を減すに至るので、

動に乗って進んでいるのである。

その経歴がそのまま起承蒋結の波

乙の中で最も生彩のあるのが、伍子房門列俸の文章である。その物語が最も劇的であって、少時の迫害の酷虐、流浪の惨

苦、痛烈なる復響、そして最後に自身の悲祉なる最期、乙れだけでも自然に祭器が鳴り出して伴奏を奏でるであろう。だ

が待てしばし、乙れはいったい何慮まで本嘗の史買だったのであろうか。若し伍子脊の呉への亡命が事買であったとして

も、伍子膏が居なくても呉王僚の暗殺は起り得たであろうし、まに伍子膏が居なくても果軍の楚に射する進攻は起り得た

であろう。伍子膏は必ずしも此等の事買における必須の要素ではなかったかも知れない。乙の物語はむしろ偶語家の創作

ではなかったか。そして時代が春秋末という古い時代に設定されているために、戦園末乃至秦漢の偶語家は、史賞に束縛

されることなく、自由に空想を働かせて創作する乙とが出来たのではないか。そして司馬遷はその結果たる優秀な創作を

る制約が多くなり、従って文皐的でなくなってくる。その貫例が李斯列俸なのである。

伍子膏列俸の末尾の論賛において司馬遷は彼自身の君臣関係観を述べている。

nwd

Fhu

そのまま史料として利用する健倖に恵まれたのではあるまいか。と乙ろが時代が下れば下るほど、明かな歴史事寅からく

怨毒の人に於けるや甚だしい哉。王者も向お之を臣下に行う能わず。

他人から怨恨を受けるような行震は、王者でも臣下にしてはなりませぬぞ。

遷のせいいっぱいの抵抗だっ七のである。

ζ

の下文に、

乙れが武帝によって屈辱を興えられた司馬

向きに伍子宥をして、

(兄)事官に従って倶に死なしめば、何ぞ蝿蟻に異ならん。

に垂る。悲しいかな、子脅が江上に容しみ、道に乞食するに方りて、志山立に嘗て須奥も、部を忘れんや。故に隠忍し

て功名を成す。烈丈夫に非んば、執か能く此を致さんや。

小義を棄てて大恥を零ぎ、名は後世

623

とあって、伍子宥の復讐を認める護言をしている。伍子有は楚の名族であっ七ので、世世卑賎なる超高などとは違った人

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624-

種七ったのだろうか。

回目頭に述べたように「史記」は文

・史の未だ分離せざる作品である。ピからこれを研究するに、現在の歴史皐の考えを

以てして、にとえどんな鋭い理論を以て立ち向ったとζ

ろで、それは暖簾に腕押し、

一向に手醸えがないだろう。さりと

てその文皐的な面だけを重視して、司馬蓮の個人的な環境、その心情ばかりを頼りとして、情緒的に本鐙を掴もうとして

な作品であるからだ。

は、出てくるものは司馬遷個人であって「史記」ではない。何となれば「史記」は文撃的と言うよりは、

そして我々としては特に司馬遷の歴史家としての苦心を浸却すべきではない。

より多く歴史的

「史記」を研究するには、何よりも「史記」ψ

そして「史記」を語らしめるより外によい方法はない。そのためには、贋

く表面を掘り返すよりは、此庭ぞと思う地粘'を見つけて、出来る限り深くボーリングを試みる方がよい。深く掘るには絶

えず周囲からの土崩れを防ぐ用意も必要だ。そして壊れ易い土器をなるべく原形のまま掘り出そうとする時、最後へ行っ

- 60-

ていちばん必要なのは、金属製のスコ

ップよりは柔い人間の手だというζ

とになる。乙ちにき理論よりも、身躍を張って

得た経験によるカンが大切だと言いたいのである。

「史記」のような得鐙の知れぬ古典になると、研究の劉象となってあ

げつらわれているのは「史記」であるが、質はそれ以上に問われているのは研究者自身の人間であると魔悟しなければな

らないであろう。

註①私の起承鴎結についての考は、拙稿、東風西雅録四(卒凡枇

「中園古典文撃への招待」所牧〉に簡躍に述べてある。

②韓の鄭園の入事情の年は、「漢書」海油志から逆算するがよい。

「資治通鑑」秦紀はζ

れを荘袈王が死んで、始皇帝が嗣いだ前

二四七年にかけている。

③私の都市圏家についての考は、

支那城郭の起原異説(アジア史研究

'-'

中園上代は封建制か都市園家か(アジア史研究

中園古代史概論(アジア史論考上〉

戦闘時代の都市(アジア史論考中〉

④偶語、優などについての私の考は

調史剖記一史記優孟侍(アジア史研究

I)

東風西雅録一倍優〈卒凡枇「中園古典文皐への招待」所牧)

身振りと文事(アジア史論考中〉

E '-'

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On Reading the Biography of Li Ssu 李斯in the Sん清一c厄史記

               

Ichisada Miyazaki

   

When Ssu'ma Ch'ien 司馬遷wrote his Shih-chi, in addition to chro-

nicies which had been passed down since antiquity, he made use of stories

from the oral traditionwhich were told in public by men of the time・

This biography appearsin the lieh-chuan列傅section,but there are many

instances

 

in which Ssu-ma Ch'ien selected only the needed part of an

establishedstory for his purposes. However, by collecting the fragmentary

historical

 

materials from the records of the Han 漢 Dynasty, we can

reconstruct the original form of the storieswhich Ssu-ma Ch'ien disassem-

bled. Ssu-ma Ch'ien made use of two storiesin writing the biography

of Li Ssu. One was a story in which the main character was the eunuch

Chao Kao 趙高who was a descendent of the king of the state of Chao

趙which had been destroyed by the Ch'in 秦; and he successively took

revenge on his enemies, Ch'in Shih-huang秦始皇, Prime Minister Li Ssu,

and General Meng Wu 蒙武. The other story concerns Hsiin-tzu 萄子

and his three disciples,Li Ssu, Han-fei-tzu韓非子, and Pao-ch'iu-tzu包丘子・

Li Ssu who had a strong craving for power became prime minister of the

Ch'in, but later lost his position and was killed. Han・fei-tzu won fame

for his writings, but when he went and eχpressedhis views to Ch'in Shih-

huang, Li Ssu became jealous of him and had him killed under false pre-

tenses.

 

Pao-ch'iu-tzubecame sincerely devoted to scholarship and was poor

throughout his entire life; hedied peacefully, and his scholarship was

passed on to later generations. This is a didactic story which questions

which of these three men's differentlife-stylesis the very best.ぺNhat we

should pay attention to is that in these two storiesLi Ssu does not play

a main role・ but o㎡ya supporting role. We can see that the weakness

of Li Ssu's supporting role as described here was carried overwithout

change into the biography of Li Ssu in the Shih-chi。

                  

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