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Title [書評] 松本肇著「唐宋の文學」
Author(s) 川合, 康三; 西上, 勝; 淺見, 洋二; 乾, 源俊; 和田, 英信
Citation 中國文學報 (2001), 62: 97-150
Issue Date 2001-04
URL https://doi.org/10.14989/177869
Right
Type Departmental Bulletin Paper
Textversion publisher
Kyoto University
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書
評
松本
肇著
『唐未の文学』
(創文社、二〇〇〇年へ本文二五八頁、人名索引、書
名・作品名索引1六頁)
暗
合
康
三
京都
大学
西
上
勝
山形
大学
浅
見
洋
二
大阪大
学
乾
源
俊
高知
大撃
和
田
英
信
お茶の水女子
大学
○
もう
一つの
「書評」の試み
日本の中国文学研究において、最も遅れているのは書評
のジャンルではないだろうか。論文や学術書の数は近年急
激に増加しているがtLかしそのなかで
「書評」は必ずし
も増えているとは言いがたい。中園には
『謹書』のように
書評に重きを置-雑誌'さらには
『書品』・『園書評論』な
どのような書評専門誌まであるにしても'中囲全髄の論文
数の、日本と比較にならない多さからすれば'中国でも書
評の比率はまだ高いとはいえないだろう。日本や中国のそ
うした状況に比べると'アメリカでは書評がはなはだ盛ん
なようだ。たとえば
"HarvardJournalofAsiaticSt
udies"
などでは、毎親の半分近-を書評が占めている。欧米の文
献目録を
一目してもわかるように、書評というものが彼の
地でははなはだ重視されているように見える。日本におけ
る書評の低迷はどこに問題があるのだろうか。
日本の書評は、二つの種類に分けることができる。一つ
は新聞や小雑誌の書評であ-'短い文のなかで'も
っぱら
97
書
評
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中国文学報
第六十二筋
紹介の機能を果たしているものである。専門が分化し出版
物が増大しているなかにあ
って、こうした紹介はいよいよ
有用になってきている。たとえば雑誌
『東方』は書評欄が
薄い雑誌のかな-の部分を占めているが、それを通して私
たちは最近刊行されている本のあらましを知ることができ
るし、さらには取-上げられた本を自分で謹んでみた-な
ることもある。
もう
1つは学術誌に載せられる書評である。中囲文学専
門の学術誌も最近はとみに槍え、それにともなって誌面の
後ろの方に掲載される書評も増えてはいるのだが、しかし
専門誌の書評はいかにあるべきかという認識や理念がまだ
確立していないのではないだろうか。
最も大きな問題は'書評とはすなわち許債することだと
いう思いこみが根強-支配していることである。かつて、
書評のコツは九割はめて
一割けなすことだと教えられたこ
とがある。「はめる」にせよ
「けなす」にせよ'そこには
書評とは鮎教をつけることだという
「偏見」が前提となっ
ている。許債しょうとすれば'学生に封して成績許債をす
る教師のように'おのずと書評者自身を高みに据える倣慢
さが要求されることになる。そしてそこに賛際に繰り贋げ
られているのは、許債の封象としやすい部分を取-上げて
批判することである。そのなかでも正誤の問題は黒白がは
っき-しているから'諜-を指摘するという安易な方法を
執る。その結果は'あ
っさ-言ってしまえば、自分の方が
よく知
っている、自分の方が謹む力がある、という知識量
や讃解力の誇示に終わるにすぎない。評債の封象としに-
い問題-
解揮とか考え方とか'人によって異なるような
鮎については鯛れられないことになる。そこにこそ著者が
一番言いたかったことがあるはずなのに'それが避けられ
てしまう。しかし謀議や遺漏などは個人的に俸えればすむ
ことであ
って、それだけが書評の内容であるとしたら'そ
れは日本の書評の貧しさを示すものにはかならない。
書評は本に部数をつけることではないはずだと言
っては
みても'賓際に書評と評債を切-離すことはむずかしい。
ことは書評に限られるものではな-'研究の営為そのもの
についても首てはまる。私たちは研究の場においては'た
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とえば
一時期の中国で行われていた'国家イデオロギーを
確固たる基準として過去の文学を裁断するような研究に抗
して'あからさまな評債を避けようとする。が'賓際には
許債の基準が政治的イデオロギーのようにわか-やすいも
のでないだけであ
って、研究においても複雑で暖味な基準
が暗に作用していることは否めない。書評に関しても'暗
款の評債が常に働かざるをえない。そもそも刊行された多
-の書物のなかから
一冊の本を取-上げること自髄'
一つ
の許債を伴
っている。そして評債には昔然'基準となるも
のがあ-、その基準を語ろうとすれば、それは書評から離
れて'書評者自身の考え方を提示することになるLt自分
自身の内部の基準は確かにあるにしても、いざそれを語ろ
うとすると'はなはだむずかしい。さらに加えて、ことに
文学研究の場合、基準が人によって様々であるという問題
もある。それぞれどのような態度や方法によって文学に臨
むのか'それは今のところ多様であるほかないし'多様で
あ
ってよいだろうが'ただ書評の場合は同じ土俵にのぼら
なければ組み合うこともできないので、文学研究の基本的
書
評
な立場が
一定していないという事賓は'書評にと
って本質
的な困難をもたらしている。
許債を完全に切-離すことは不可能であ-、評債の基準
も人によって分かれているにしても、少な-とも単純な評
債を直接の目的としない書評は'いかにあるべきか。ある
べき姿を室に描いてみれば'評者が正面から著者に向かい
合い、著者の提起した問題に封してともに考え'
一緒に取
-組むことによって'嘗該の書物を越えて新たな知見がも
たらされるようなものであろうか。それを通して'著者は
自分
一人では得難いことを得られ'評者は本を手だてにみ
ずからを前進させる'つま-は本と書評の融合から新たな
世界が生み出されてい-'そういう書評はあ-えないもの
だろうか。
理想の書評はどのようなものか、それ自健'考えるべき
問題をのこしているLt明確なヴィジョンすらない段階で
いきな-着手することもできないがtと-あえず私たちは
ここに
1つの試みを提起しょうと思う。それは書評ではあ
るのに、封象となる書物や著者が表面にあらわれない'つ
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中囲文撃報
第六十二筋
まりは
一見すると書評の髄裁をなしていないものである。
私たちが
「書評」のなかで書こうとするのは'その本を謹
んで鰯覆された自分自身の考えである。それがあ-までも
普該の書物を通して感じた-考えた-したことである以上'
その本から離れた存在ではない。とはいえ'書評の封象は
直接には言及されていない。書評の讃者-
というものが
あるとすれば'讃者は本と書評とを重ね合わせて読むこと
を要求される。重ね合わせた紙を透かしてみることによっ
て、初めて書評として機能しうる。したがって'この書評
の試みは該書のいわば
「裏本」を書-ことにほかならない。
「裏本」の語が不穏首であるならば'「異本」と言おうか。
私たちが松本肇氏の
『唐末の文学』を取-上げるのは'
この本の意囲するところに共鳴するからである。中国古典
文学には'言うまでもな-'強固な枠組みが存在している。
他に類がないほど長-
一貫して持増してきた文学的因襲と
いう時間軸'或る時代を覆い蓋-す文学的環境という室間
軸'そのなかで
「文学」が営まれてきた。そのためにその
鰹系のなかに身を投じなければ、憶得することはむずかし
い。と同時に'そこから脱しなければ
「今」において中国
古典文学がもちうる意味を問うこともできない。中国古典
文学は常にそうした背馳する二つの要求を強いる。その葛
藤のなかで'松本氏は従来の枠組みから脱出Lt現在の知
によって解きほぐすことを選ぶ。『唐末の文学』という書
名から線想される内容は心地よ-裏切られ'著者の関心を
燭馨する問題だけを選び取って自在に筆を走らせている。
しかしその姿勢には共感を覚えても、結果については私た
ちは不満を抱かざるをえない。果たして本書を通して、私
たちは自分の内部の固定観念に揺さぶりをかけられただろ
うか。著者の該博な謹書が却
って安易に西欧の知に結びつ
けて解決してしまい'そこからこそ考え始めるべき糸口が
見過ごされてはいないだろうか。私たちは松本氏が取-上
げた問題の幾つかをめぐって、私たち自身の思いを馳せた
く
田㌣
つ
。
執筆にあたっては'五略の一人ひと-が部分ごとに塘普
して草稿を書き、それを五暗全員が検討したうえで'討議
を生かしながらさらに楯富者が書き改めるというかたちを
- JO()-
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とった。共同執筆と個人執筆の長所を兼ね備えようとして
の方法である。
(川合康三)
T
「華山遭難」-
古典受容と作者像形成-
韓愈
(七六八1八二四)の同時代人である李肇
(王志保
『唐放言』巻
1に
「元和中
(八〇六-八二〇)中書舎人李肇撰国
史補」とある)は、国史として残されるべき公的な記録に
加えて'韓愈が華山で危う-遭難しかかった逸話を
『国史
補』に記録した。この極めて些細な記録には'中国の古典
文学を受容する際に働き績けてきた機制について'今日改
めて考えてみようとする時'恰好の端緒が残されている。
我々はあるテキストを謹み'様々な作者像を思い描-こと
ができる。その
一方で'思い描いた作者像に依
って'その
作者が残したテキストを謹み解いている。このような二つ
の文学的な営みが'中国の古典文学を受容する時には
一腰
どう働き合
ってきたのか'その
一端をかいま見るき
っかけ
をこの短小な記事は我々に輿えて-れているのだ。
書
評
この記録から、韓愈は高所恐怖症であ
ったなどとナイー
ブに思い描いてみるのは自由であるとしても'その想像に
基づいて韓愈の作者像と文学についてさらに述べようとす
るならば'それは軽率であると言わざるを得ない。李肇や
同時代の人々にとっては'韓愈がいかに
「好奇」であ
った
かを博える華山遭難の記事を謹むだけで'あ-あ-と韓愈
の人物像を想起することができたのだろう。そうした想像
を喚起する強い力を持
っていたために'この記録は以後長
-記憶されていった。しかし'現代に生きる我々にとって
は'李肇の記録はもはやあま-にも短小に過ぎて、昔時韓
愈が奇矯な
一面を持
つ人物と見なされていたのだと知るこ
とはできても'それ以上のことを想像するのはもはや難し
-なってしまった。そもそも遭難騒ぎの真備など、現代に
生きる我々にとってはもはや何らの意味も持たない。だが'
この記録に関わる言説の蓄積をもう
一度丹念に辿ってい-
ことによって'我々は古典受容の際に働-機制の
一端をう
かがい知るとともに、そこから文学のもつ可能性について
も思いを致すことができるかもしれない。
- 101-
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中国文筆報
第六十二筋
五代の儒者、沈顔はこの記録に先学の教訓を謹み取ろう
と試みた。沈俸師の孫であ-、唐未の天復年間
(九〇一-
九〇四)に'進士に及第して官途を開いた洗顔であったが'
戦乱のさなか江南に流浪のやむなきに至る。後'ようや-
呉に落ち着き'知制詰'翰林学士に至-、順義年間
(九二
一-九二七)に没した、と晃公武
『郡斎議書志』(淳配州年間
二
七四1二
八九の成立。その巻1人別集類
「沈顔警書十巻」)
は博える。華山での遭難騒ぎの記録には'賓は
「条に趣き
位を余る者」に封する韓愈の訓戒が込められているのだt
と説-沈顔の
「登華旨」は'同時代の文学に抗する意園を
もってまとめられた
『誓書』の中の一篇である。元結
(七
一九1七七二)「白樺」にいう
「警者」'すなわち
「時俗に
従乗せず'常世に鈎加せられざる」自分という立場、そう
いう立場への共鳴に由来する書名
『誓書』に、洗顔の世俗
に野崎しようとする自意識は十分に露わであると言える。
加えて'その自序には
「孟珂よ-以後千絵年'百千の儒者
を経るも、みな末だこれを聞くこと有らず。天その極まる
を厭い、付して郁子に在-」という-だ-があ-'そこか
ら洗顔の誇大虚誕ぶ-がうかがい知れる'と晃公武は許す
る。『誓書』はすでに失われ'今ではそのT部が博わるに
過ぎないけれども'「登華旨」(『唐文粋』巻四八古文類
「析衣
徴」)の末尾に記された
「悲しいかな'文公の旨'沈子徴
か-せばほとんど晦からん」という言葉や'「ああ'天下
の大'寓物の衆'その日を乱し耳を惑わす者、ただ硫扶鄭
衛のみにあらず。則ち知る'聖賢に非ざればそれ視聴に惑
わざる者稀なるを」(「視聴歳」'『唐文粋』巻七八歳類)とい
う慨嘆からは'自分自身を聖賢の道の継承者として権威付
けようとする意園がよ-窺える。
洗顔は、韓愈は聖賢の道を受け纏いだ人物'且つ自分に
とっては直近の先人であ-'韓愈の精神をこの世で継承し
ているのは自分だけだ、という疎外感を帯びた誇-を述べ
た。そのように韓愈を受容したのは洗顔ばか-ではなく'
宋初の古文家も同じだった。柳開
(九四七-1〇〇〇)や穆
修
(九七九-一〇三二)らは'孔孟を継承する
「大聖賢人」
として韓愈を尊崇Lt韓愈への完全同化を聾高に宣言した。
だが'彼らのそうした悲壮感さえ漂う主張は'世間の無開
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心や無理解に抗う構えに止まるものであって'つまるとこ
ろ
「不遇の境遇にあってこれから世に出ようと欲している
いわば在野の聾」(川合康三
「古文家と揚雄」'『日本中国学曾
報』第五二集'二〇〇〇)に過ぎないと言われる。そもそも'
世俗を超越した聖人賢者として韓愈の作者像を形成Ltそ
れを崇める態度は便宜的ともいえるものであって'柳開自
身が述懐するように、容易に
「之を愛するの名は有れども'
誠に之を用いるの賓は無」(「迭李憲序」)き態度に韓じてし
まう可能性を学んでいた。謹み手が自らの権威を確立する
ため、或いはもっと世俗的な身分保障の手だてにするため
に思い描かれた作者像は'その用途に叶い目的を達した途
端に謹み手の脳裏から希薄化Ltやがては消失してしまう
だろう。そうした浅薄な作者像に満足せず'よ-深い内包
をもつ作者像を形作る試みは'さらに後の謹み手に委ねら
れた。後の謹み手を新たな讃解に誘
ったのは'やは-テキ
ストそのものが持
っていた力だったのだろう。
李肇から三百年近-後に生きた士大夫'貌泰
(『者渓漁隈
叢話』前集巻一二に
『桐江詩話』を引いて
「魂道輔、嚢陽人'元
書
評
砿
(l〇八六1
1〇九四)名士也'輿王介甫兄弟最相厚」とい
う)は'自分の請書別記の中に、李肇の記録と'それはで
たらめだと断じた沈顔
『誓書』の見解を引いた上で'韓愈
の
「張徹に答う」詩の句を掲げ'沈顔の見解に改めて反論
する'といういささか手の込んだ文章を書き残した。魂泰
のこの文章は'彼の詩話
『臨漠隠居詩話』と筆記
『東軒筆
録』に'それぞれほぼ同文の二通-として今日に俸えられ
ている。恐ら-貌泰は、韓愈の人物像を'我々が不鮮明に
感ずる程ではないにしても'李肇のように明瞭に感じ取る
ことが難しくなってしまっていたに違いない。だから'こ
れは李肇には思いもよらないことであっただろうが'韓愈
自身が書き残したテキストを使
って、華山遭難の具備を明
らかにしようと試みる。同時代人の李肇には自明だった'
生身の人物に伴うアウラの如きものが消え失せたとき'そ
の人物が残したテキストを謹み鱒ごうとする者は'テキス
トを通してある特定の作者像を形成せざるを得ないように
なる。だから魂泰はテキストを謹み解いた上で'作者像を
形成しょうとする。その鮎に限って言えば、硯賛世界に生
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中囲文学報
第六十二珊
きる同時代人の噂として韓愈のことを耳にすることがもは
やできなかった貌泰は'今日、韓愈の残したテキス-を目
前にする我々と同じ状況にあ
ったといえるのではないか。
十
1世紀以降の中国の士大夫は、韓愈のテキスIをいかに
「用いる」ことができるかをめぐ
って様々な讃みの試みを
頼けた。そうした試みの跡の
一つとして'魂泰が得意げに
語
ったような'書き手の履歴とテキス-の内容との封照符
合を指摘することもあ
ったわけだ。魂泰は'李肇の場合の
ように華山での遭難騒ぎを
「韓愈好奇」を端的に示す事薯
として見ようとしているだけではないように思える。韓愈
がどのような履歴や状況下で華山での遭難を健験したのか'
魂泰はむしろその経緯をたどろうとしているといった方が
い
い
。それは、魂泰にとっては'韓愈がいかなる人物か'
もは
や自明のものではなか
ったからではないか。自らと同
じょうに行動し思考する人間の章相として、韓愈の華山で
の鰻験を慎重になぞろうと試みている。その試みに資する
材料として選ばれているのが'韓愈が自ら我が身の来し方
を回顧する内容のテキスト'「張徹に答う」詩であること
にも留意したい。この全百句五十韻からなる五言詩では、
気心の知れた後進である張徹、彼はやがて自らの縁戚に連
なることになるのだが'その若者に向けて'韓愈はこれま
での二人の付き合い、そこで得た気持ちの通った野遊びの
倍験'交錯するお互いの履歴を振り返-'赦されて蹄京す
る自らの知らず知らず昂揚する思いを素直に披涯している
ように謹みとれる。華山でのやや無謀な登琴の思い出も、
気心の知れた友人にこれまでの忘れられない経験の
1つと
して数えるべ-書き加えられたのだろう。この詩は、韓愈
が残した詩の中では'なおやや生硬さが残る初期の作と位
置づけるべきものなのかも知れないけれども'これよりも
前に編年される
「経常箭」や
「山石」「叉魚」といった作
品群に通底する、これまでよ-見知られた自然景観の表現
に止まらず'自らの世界の見方を新たな様式で形象してみ
ようとする意欲が見られ'魅力あるテキストであることは
確かだ。魂泰にと
っては、新たな景観を求めて積極的に行
動する作者像が新鮮に映
った。読み手は'そこから自らが
欲する作者像を形成しうるように、テキストを受容するの
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ではないか。
これに反し'謹み手にと
って新鮮味を見出せないテキス
トは、軍に陳腐に感じ取られるだけでな-、加えて極めて
卑俗な性格を作者像に付興してしまう致果を持
つ。そのこ
とをよ-例示するものに'「韓愈俗物」説をあげることが
できると思う。こうした韓愈像も、生身の人間としての記
憶が薄れ'類型的聖人と見て満足する謹み方が超克された
後に、始めて形成されるようにな
ったのではないだろうか。
1面的な韓愈像に満足しない新しい謹み方を提示した謹み
手としてよ-知られているのがへ欧陽修
二
〇〇七-
1〇七
二)だろう。彼は韓愈
「感二鳥賦」と高弟の李期の手にな
る
「幽懐賦」とを謹
み比べ
て'こう
い
った。「凡そ昔鞠と
よ
時を
一にする人'通
有-て
文を
能-する者、韓愈にし-は
なし。愈かつて賦有り。二鳥の光条を羨み'
一鞄の時無き
を歎-に過ぎざるのみ。これその心をして光条にして飽か
しむれば、則ちまた云わず」(「讃李朝文」へ『居士外集』巻二
三'景柘三年'
一〇三六'作)。若年の欧陽修のこの頭書剤記
では'単純な聖人韓愈像が早-も動揺し始めていることが
書
評
分かる。韓愈が提起した問題は、欧陽修らにと
ってはなお
切賓な人生観にかかわるものではあ
った。だからこそ、韓
愈のこの朕は謹まれ積けた。欧陽幡自身
「その談笑に資Lt
諸誰を助け'人情を寂し'物態を状するは、
一に詩に寓し
て'その妙を曲蓋す」(『六一詩話』)と述べたように'韓愈
の文学には高い評債を惜しまない。だがその
一方で、他者
の
「光条を羨み」自らの
「1鞄の時無きを歎-」ような'
緑利にのみ懇々とする人間の生き方は'欧陽情と
っては極
めて卑俗に見えた。それは、欧陽修の脳裏には
「有道而能
文者」は首然に相磨な廃退を融合から受けるべきだという
格率が'もはや疑うべ-も無いものとな
っていたからでは
ないか。葛暁音氏がいうように'「韓愈の理想は末代には
現章に愛わ
っていた」(葛暁音
「北宋詩文革新的曲折歴程」も
と
『中国社倉科撃』
一九八九年第二期'いま
『漠唐文学的壇襲』
北京大学出版蔽、
一九九〇)のだ。
この後、欧陽修の文名が世に喧俸されるのを聞いて'自
らの文学的営みを始めていた次世代の読み手にと
っては'
韓愈の俗物性はもはや否定Lがたいものとな
ってしま
った
JOJ
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中国文学報
第六十二筋
ようだ。そしてそうした作者像が、さらにテキストそのも
のに向かう眼差しを鋭-していったのではないだろうか。
貌泰の得意げな指摘も'こうした作者像の奨達と無関係で
はあるまい。程較
(l〇三三-二
〇七)は'韓愈が世俗の
名著にとらわれていたことを'弟子に
「退之は正に名を好
む中に在-」と語って
(『河南程氏遺書』巻一八'伊川先生語
四)'不満を表明した。さらに、胡仔
『苔渓漁隙叢話』前
隻
(成子紹輿十八年tll四八)が蘇拭
(一〇三六-1一〇一)
の言葉として記録するのは、杜甫
「示宗武」詩
(大暦三年、
七六八へ五十七歳の作)と韓愈
「示見」詩
(元利十年'八1五'
四十八歳の作か)との詩句を引き比べて、そこから作者の
人格に説き及ぶものとしてよ-知られたものだ。二つの詩
がともに息子への呼びかけを内容としながらへ杜甫と韓愈
の態度は異なるtと蘇拭は述べたという。蘇珠は、杜甫が
息子を聖賢の道に進むべく励ますのに射し'韓愈は緑利ば
か-に目が向いていると'優劣をつける。こうした語-口
は蘇珠には似つかわしからぬ安易な批評のように見える。
しかし'韓愈が思想家としてはなお十分な深みに到達し得
ていないという認識そのものは、嘉砿六年
(一〇六一)二
十六歳で制科に鷹じた際に上進された政論の
1篇
「韓愈
論」にも'「韓愈の聖人の道におけるや、蓋しまたその名
を好むを知-て'いまだその賓を楽しむ能わず」とはっき
-公言されていた。韓愈が
「示見」詩で子に向かって誇る
のは'功成った後の物質的豊かさ
「成敗極致」ばか-だと
いう見方は、朱薫
(二
三〇-1二〇〇)にも受け継がれて
いる。来貢は
「この篇の誇る所は'乃ち
「感二鳥」(集巻
一「感二鳥賦」)「符謹書」(集巻六
「符謹書城南」)の成敗極致、
しかして
「上宰相書」(集巻一六
「後十九日復上音」)の所謂
行道憂世は、則ちすでに復た言わず。その本心はいかんぞ
や」(冒自費先生集考異』巻三)と述べて、作者韓愈の人格が
若年から壮年に及んで1倍どう蟹質してしまったのかと疑
義を提示する。テキストに封する注視が贋-かつ深-なる
につれて'
一面的な作者像だけを思い描いて済ますことが
できな-なったのか。テキス-を介して、そこに謹み取ろ
うとしていたのが、自分自身が考え得る最善の生き方であ
ることに来貢は気づいていたのだろうか。ともあれ、韓愈
JOd
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から二百年後の謹み手にとっては'自らの
「成致極致」を
誇るような生活の描き方そのものが'あま-にも単純だっ
た。人間の内在的気高さに解れないまま、物質的豊かさの
みを轟歌しているかに見えて、卑俗とされた。韓愈の詩文
を謹み継いで生きた二百年後の中国の士大夫にとって、物
質的豊かさよ-も'内的精神性に眼差しを向けることこそ
が、最善の生き方と考えられていたのだろう。俗物批判と
いう謹み方が'むしろ鮮明にそうした謹み手のモラルを浮
かび上がらせる。
活の趨翼
(l七二七卜
一八l四)は'韓愈が
「示見」詩で
利緑によって子を誘旅するのは洩はかな見識であ-'宋儒
の議論をかもしたのは首然であるとしながらも'史許家に
似つかわし-それが唐代の習いでもあったのだtと次のよ
うに指摘する。「知らず利線を舎てて品行を言うは、これ
宋以後の道学諸儒の論へ宋以前には固よ-この説無し。顔
氏家訓'柳氏家訓を観れば'また何ぞ嘗て栄辱を以て勧戒
を為さざらんや」(『甑北詩話』巻三)o趨翼の見解に沿
って、
唐代の
「柴辱を以て勧戒を為す」風と並んで'宋人の俗物
書
評
批判をも歴史的産物として相野化し'詩に込められた勧戒
について是非する立場を離れて詩を見ることはできないだ
ろうか。そうして杜甫の
「示宗武」詩を見るならば'子が
立身すべき時期を迎えながら、それに十分癒えてやれない
まま'あてどな-放浪するしか術のない自分の身の上をや
るせな-振-返っているようにも謹める。韓愈の
「示見」
詩にしても、そこに見える父親が子に封して自らの一生を
かけてかちえた業績を誇る気持ちは'俗悪といって片づけ
られない感情が潜んでいるかのようだ。それは'現代にあ
っても、すでに滑稽であることは免れないことであるにし
ても、少な-とも理解できない感情ではない。韓愈の表現
はあまりにあっけらかんとした楽天的なものであるとは言
え'自分が目指す生き方を獲得し得たことを喜ぶ'素直な
達成感がよ-謹みとれるように思う。
杜甫や韓愈が書き記したテキストは'彼らにまつわる逸
事を書き留めた同時代の記録者の思い'彼らの死後それを
謹み継いできた中国の士大夫たちの思いを経て、さ
ま
ざ
ま
な作者像を結んできた。それらの作者像は、それぞれの時
707
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中国文学報
第六十二冊
代の謹み手が自分自身にとってふさわしいモラルを探求し
た果てに得たものであった。そしてその探求の営みとは、
賓は自分自身がいかなる人間であるかを知るためのかけが
えのない手だてに他ならなかったのではないだろうか。現
代西欧の評論家
G・スタイナIは'六歳の時ウィーンから
避難したパリの仮住まいで父から手ほどきを受けたホメロ
スの
『イーリアス』讃解に激し-揺-動かされて以来'そ
れが生涯の伴侶となったと回顧している。彼にとっての古
典とは'次のように定義づけられている。「私は文学へ音
楽'その他の諸垂術'哲学的議論、等々の古典とはわれわ
れを
「謹む」表現形式の謂であると定義づける。われわれ
がそれを謹む
(聞-、感じる)よりも'それがわれわれを
謹む。この定義に暖昧性はおろか、逆説的なものは何もな
い。取-組むたびに古典は、「理解したか?」「責任をも
っ
て再想像をしたか-」「君は私の問いかけと、愛貌し豊か
にな
った存在
の可能性に基づ
いて行動する用意がある
か?」と問いかける」(『G・スタイナ1日侍
(ERRATA)』、
工藤政司諸'みすず書房、
l九九八'第二章'二十五頁)。現代
に生きる我々にもまた'様々な人々に謹み継がれてきた韓
愈のテキストを介して'スタイナIのひそみに倣
って、
我々自身のモラルを求めることができる可能性が残されて
いるのかもしれない。松本肇氏が'韓愈の華山遭難のエピ
ソードから'冒険心あふれる生き方を自らが尊ぶべき格率
としたように。
(西上
勝)
二
「半夜鐘」-
詩観の饗遷-
唐
・張継の七言絶句
「楓橋夜泊」は'数多い唐詩のなか
でもと-わけ名高い詩の
一つに教えられる。贋-謹まれた
アンソロジー、中国では
『千家詩』・『唐詩三百首』'日本
では
『三鰹詩』・『唐詩選』、そのいずれにも収められてい
ることが'
一般への流布を物語る。輿謝蕪村が師匠から讃
-受けた携
「夜半亭」がこの詩に由来し、泉鏡花が内容に
は関わらないものの、小説に
『鐘聾夜半録』と題している
など、文人の間にも痕跡をのこしている。さらに愈胆の筆
による碑の拓本が日本にも贋-俸わ-、書としても親しま
108
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れている。本文の字の異同が多いことも'この詩が贋-博
播していたことの謹左になろう
(今'問題とする
「半夜
鐘」についても'「夜半鐘」に作るテキストがかな-ある)。
詩そのものが人口に腺炎していたのみならず'その詩の
なかの
「半夜鐘」をめぐる議論が'宋代の詩話をにぎわし
てきたこともよ-知られている。果たして賓際に深夜に寺
の鐘が鳴るかどうかtという問題である。詩が事章と合わ
ないことを指弾するのは、「寓生」を旨とするわが俳句に
もあって、夏目軟石の句
「落ちざまに虻を伏せたる椿か
な」に封して'椿の花は上向きに落ちるものだと非難され
たことがあったように'古-て新しい問題ともいえる。
「半夜鐘」について最初に疑義を呈した欧陽情
(一〇〇
七-一〇七二)『六
l詩話』のその修を今
一度謹み返してみ
わす
ると、のちの議論では
逼
れ
られたことも含まれている。
詩人会求好句'而理有不通'亦語病也。如
「袖中諌草
朝天去、頭上宮花侍宴韓」、誠馬佳句臭。但進諌必以章
疏'無直用
草之理。唐人有云、「姑蘇台下塞山寺'牛
書
評
夜鐘聾到客船」。記者亦云'句則佳臭'其如三更不是打
(一作撞)鐘時。如貢島笑倍云、「寓留行造影'焚却坐碍
身」。時謂焼殺活和尚、此尤可笑也。若
「歩随青山影'
坐寧日塔骨」'又
「濁行揮底影'数息樹達身」、皆島詩。
何精粗頓
(1本無頓字)異也。
(郭紹虞圭編'中囲古典文学理論批評専著選輯
『六
1詩話
・白
石詩説
・淳南詩話』人民文学出版社、
一九八三。引用者接台宇
宙作墓。)
詩人が佳句を追い求めるばか-に'すじが通らないこ
とがあるのは、それも表現の映陥である。「袖中の諌草
ゆ
天に朝して去
き'頭上の宮花
宴に侍して締る」という
のは、まことによい句である。しかし諌言を上程するに
は必ず章疏を用いるもので、草稿をそのまま使うという
ことはありえない。唐人の詩に、「姑蘇垂下寒山寺'半
夜の鐘聾
客船に到る」という。「いい句ではあるが、
三更は鐘を打つ時刻でない」という人がいる。貢島が僧
侶の死を笑して、「寓留す行道の影、焚却す坐稗の身」
- 109-
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中国文学報
第六十二研
(「実相巌和尚」詩)という。生きている坊さんを焼き殺
してしまったと言われたが'これが
一番おかしい。「歩
みて随う青山の影'坐して学ぶ自塔の骨」(「贈智朗揮師」
詩)とか
「濁り行-滞底の影、敷しぼ息う樹連の身」
(「迭無可上人」詩)とか'いずれも貢島の詩だ。(一人の
詩人のなかで)精粗がか-も異なるのはどういうことだ
ろう。
欧陽修は詩が事案と齢齢することを詩の映陥として、三
つの具髄例を挙げている。「袖中--」詩は作者を挙げて
いない。「姑蘇・-」
の作者はもちろん張継であるが'こ
こでは
「唐人」としか言わない。「幕留--」詩は貢島の
作であることを明示するのみならず、貢島の他の二篇の詩
の句を引いて'
一人の作者のなかでか-も違うことにいぶ
かりの念を示している。三人の詩人の詩句を挙げながら、
作者を記す態度には明らかな違いが認められる。詩句と作
者の結び付きがしだいに強-なっているのだ。だから貢島
に至っては、貢島という
1人の詩人の内部における整合性
が問題とされている。張継については
「唐人」とまでは規
定しても、名を奉げていないのは'貢島が個性ある詩人と
して周知されていたのと違って'「姑蘇--」詩が'唐詩
という性格まではもっていてもう張纏という個別の作者と
の結びつきが希薄であったためだろうか。草書'我々の認
識においても'盛唐詩に時折見られる'よ-知られた詩篇
はあってもその作者についてはなじみがないtという例の
1つに張継は入るだろう。
問題の提起も'賓は欧陽修自身のことばとして直接畿せ
られたものではない.張裾の詩については
「説者亦云」、
君島については
「時謂」と言うように'いずれも他者の意
見として記しているのである。「説者」「時謂」という言い
方は'『六
1詩話』にはほかにも見える。たとえば梅毒臣
の言葉を記した候のなかに、
聖愈嘗云'「詩句義理維通'語渉洩俗而可笑者'亦其
病也。如有
『贈漁父』
一聯云'『眼前不見市朝事'耳畔
ヽヽ
惟聞風水聾』。説者云'『患肝腎風』(四字一作
『此漁父肝
-Ilo-
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戒熱而腎臓虚也』)。又有詠詩者云
(一本無以上六字)、『蓋
ヽヽ
日寛不得、有時蓬自乗』。本謂詩之好句難得耳へ而説者
云'『此是人家失却猫鬼詩』。入管以為笑也」。
梅尭臣がこう語ったことがある。「詩句は意味が通じ
ても'言葉が通俗的でおかしいのは'やは-鉄陥だ。
『漁父に贈る』の一聯に'『眼前に見ず
市朝の事'耳
畔に惟だ開-
風水の聾』という。『肝臓と腎臓の病気
だ』という人がいる
(四字は
『この漁師は肝臓が炎症を起こ
し腎臓を病んでいるのだ』とも作る)。また詩について詠じ
た人がいて
(上の六字がないものもある)、『蓋目
覚めて
得ざるも'時有りて還た自ら束たる』という。もともと
はよい詩句を得難いことをいっているのだが'それを
『これは飼い猫がいな-なった人の詩だ』という人がい
て、大笑いになった」
。
また'「時謂」は'松江に作られた新しい橋を唱
った蘇
舜欽の詩を構えた候にも見える。
書
評
ヽヽ
--時謂此橋非此句雄偉不能稀也。--
--この橋はこの雄々しい詩句こそふさわしいと人々
に言われたものだった。--
ここでの
「時謂」は世間の評判'その時代の人々の賞賛
を代表しているものであり、先の
「説者」は詩句をわざと
ふざけて解樺して座興に供している'そういう場のなかで
馨せられたものである。作者が讃者に要求する詩の謹み方'
それは詩を成-立たせている文学環境のなかで無言のうち
に成立している枠組みであるが'それを承知のうえで本来
の意味を敢えてずらし、ふざけた解樺を投げかけて興じ合
う、そんな雰囲気のなかでの言餅であることがわかる。も
ちろん欧陽修自身も
「時謂」や
「記者」の馨言に輿してい
るのだが'こうした言い方は、欧陽修個人の濁特の見解を
主張するというよ-も'このような故意の曲解を呈してお
もしろがる場というものがあり'その雰囲気のなかで馨せ
られた言辞であることを示している。
-111-
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中国文学報
第六十二筋
同じ-
「説者」の言として記された
「夜半鐘」をこうし
た文脈のなかにおいてみると、必ずしも張椎の詩の致命的
鉄隅を欧陽修が取-上げて糾弾したというものではな-、
このように暇庇を指摘することもできるといった軽い戯れ
として受け止められよう。もともと詩話なるものは'正面
から文学の正しいあ-方を論じたものではな-'軽やかな
座談といった性格をも
っているが、「記者」のことばとし
て記されるこの場合は'気軽な座興と結びついていること
がいっそうはっき-している。
とはいえ'そこに欧陽修やその周連の人々の詩観が反映
していないわけではない。そしてここには詩と草葉との関
係についての重大な問題提起が含まれていることは確かで、
だからこそ以後に績々と議論が生じているのだ。
欧陽修が
「理有不通」というのは'詩が草書と齢齢する
ことを指している。詩は事案と繋がっていなければならな
いとしながらも'「理」さえ通ればいいというわけではな
いことは'梅尭臣の語として記された
「詩句義理錐通'語
渉洩俗而可笑者、亦其病也」の修からも明らかだ。二つの
修は
一軒として謹まれなければならない。「義理」は
「通」
じても
「語」がおかしい
「病」、「好句」を追求するあま-
「理」が通じない
「語病」-
欧陽修は詩と事賓との関係
における両極端を挙げているのである。
欧陽修は事賓に忠賓であ-さえすればいいと考えていた
わけではないことが確認されたが'しかし後席する詩話は'
「理有不通」の指摘だけを取-上げて'それに封する反語
を頼々と拳げている.
1連の反論が根嬢とするのは、賓際
に深夜に鐘を撞-ことがあること'過去の書物にもそれが
見られること、その二つにまとめられる。そこには文献資
料
(史書と唐詩)と昔時の事案とを等債に扱う態度が期せ
ずしてみられる。文献資料のなかでも史書と唐詩とがとも
に事賓を示すものとして同等にみなされている。つまり書
かれていることと規賓のことが直別されず、また歴史の言
説も詩の言説もひとしなみに事賓の記録として受け止めら
れていたことを示している。これは今日我々が文献の記述
と賓際とを、また史書と詩とを直別する態度とは隔た-が
ある。事賓であることの説得にはしばしば自分自身が髄験
112
![Page 18: Title [書評] 松本肇著「唐宋の文學」 中國文學報 (2001), 62: 97 …repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/177869/1/cbh0… · Title [書評] 松本肇著「唐宋の文學」](https://reader034.fdocuments.in/reader034/viewer/2022052014/602c1eb71f54475a21086c8d/html5/thumbnails/18.jpg)
したことが語られるが、末代の詩許には自分が佳験してみ
て初めて詩が理解できたというかたちの評債が記されてい
るのも'それと通じるところがある。
末の詩話は半夜の鐘が事賓として存在していたか否か、
その間題に終始するものであって'もし事賓でないとした
ら'詩の解得にどのような意味が加わることになるか、そ
うした方向には説き及んでいない。しかしそこから新たな
詩の解梓が生まれていることが'五山の注輝からうかがう
ことができる。村上哲見
『漢詩と日本人』(講談融、一九九
四)'堀川貴司
「『三倍詩』注梓の世界」(『日本漢学研究』第
二壊
'一九九八)などに詳し-論じられているのを借-れ
ば、元の樺囲至
(鍍天隠)の注に、
霜夜客中愁寂。故怨鐘聾之太早也。夜半者、状其太早
而甚怨之之辞。説者不解詩人活語'乃以馬賓半夜。故多
曲説、而不知首旬月落烏噂霜満天、乃欲曙之候臭。岩鼻
半夜乎。--
(『槍注唐賢絶句三僅詩法』)
書
評
霜の降-た夜に族の身は寂し-'そこで鐘の音が早す
ぎるのを怨むのである。「夜半」というのは'早すぎる
ことを示す怨みの言葉である。詩人の
「生きた言葉」が
理解できない注稗は'賓際に寅夜中のことだと考えて'
様々な曲説を立て'首句の
「月落烏噂霜満天」が、夜が
明けようとしている時刻であるのに気付かない。本営に
夜中であるはずがない。--
ヽヽ
とあるのを承けた義堂周信は'天陰がもう朝が来たと解す
ヽヽヽヽ
るのとは逆に'眠れない夜がなかなか明けないと捉える
(『三膿詩幻雲抄』)のだが'「夜半」を賓際の時刻ではなく、
心理のもたらす錯覚を借-たレ-リックと見なしていると
ころは同じだ。さらにそこから尾ひれをつけて'中諦
(辛
は敵中)のように'妓女と密曾する約束を反故にされた寂
参の思いを張纏が唱
ったものだという解樺まで登場する
(『聴松和尚三膿詩之抄』)。五山の恰たちがこうした解輝を
生み出した背景には'異性を思って眠れないというモチー
フが定着していた相聞歌の土壌があって'詩歌に接する際
ー 113-
![Page 19: Title [書評] 松本肇著「唐宋の文學」 中國文學報 (2001), 62: 97 …repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/177869/1/cbh0… · Title [書評] 松本肇著「唐宋の文學」](https://reader034.fdocuments.in/reader034/viewer/2022052014/602c1eb71f54475a21086c8d/html5/thumbnails/19.jpg)
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第六十二冊
にそれが暗に作用を及ぼしていたのだろう。
五山の解樺が展開したこのような方向へ中国では向かわ
なかったようだが、しかし明代に至ると'「半夜鐘」が賓
際にあったか否かという末代の議論を
二親に無数にする新
たな意見が提起される。胡麿麟
『詩薮』外編巻四の一棟で
ある。胡癒鱗によれば'事賓か否かを巡って議論するのは、
昔の人にからかわれているようなものだという。「聾律之
調」'「興象之合」'それこそが詩にとって重要なのであっ
て'「直画たる事賓」に拘泥する必要はないというのであ
る。詩と事案のつなが-を否定する論は'『詩薮』のその
前の候にも繰-蓮されている。
葦蘇州
「春潮帯雨晩来急、野渡無人舟自横」。宋人謂
源州西潤、春潮絶不能至'不知詩人遇興遣詞'大則須禰'
小則芥子'寧此拘拘。擬人前政自難説夢也。
孝磨物の
「春潮
雨を帯びて晩来急な-'野渡
人無
-して舟自ら横たわる」について、宋人は源州の西潤に
は、春潮は絶封来ることがないという。詩人が詩興に巡
-合
って表現するのは'大なるものは須潤に至-'小な
るものは芥子に至るまで自由自在、こんなことにこだわ
-はしない。疲れ者の前で夢の話をするような、わけの
わからぬことである。
寺唐物の七絶
「源川西澗」'ことにその末句の
「野渡無
人舟自横」は名句としてと-わけ名高いものだが'それに
封しても、事賓との敵齢を難じる議論があったことを挙げ
て'胡療麟は詩に封するそうした態度を異っ向から否定す
る。胡鷹麟の詩学においては
「膿格聾調」'「輿象風神」、
それが根幹に据えられ'詩が事賓と
1致するか否かは問題
ではない'それがわからない人は詩がわからないのだ、と
いう立場である。
この論調は'詩観のうえではまった-異なる清の衰枚に
も共通している。『随園詩話』巻八にいう'
唐人
「姑蘇城外寒山寺'夜半鐘聾到客船」、詩佳臭。
114
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欧公議其夜半無鐘聾。作詩話者又歴畢其夜半之鐘以諾賓
之。如此論詩'便人夫閑性塞'塞断機括'豊非詩話作而
詩亡哉。
唐人の
「姑蘇城外寒山寺'夜半の鐘聾
客船に到る」'
この詩はよい。欧陽修は夜半には鐘の音はないと非難し、
詩話作者たちは夜半の鐘を列挙して賓.諾した。このよう
なかたちで詩を論じることは'性露を塞いでしまい'機
括を閉ざしてしまう。これこそ
「詩話生じて詩亡ぶ」と
いうものだ。
欧陽修の批判もそれに封する反駁も'いずれも詩を損な
うと断罪する。それは詩にと
って肝要な
「性塞」「機括」
を阻害するというのである。衰枚のいわゆる
「性量説」は'
胡摩麟が連なるところの前後七子の復古的立場を否定する
ところから生じているのだが'事賓
への拘泥を否定する黙
においては通じ合うところがある。それぞれが主張する概
念は違っていても'詩を言語外の現賓との関係で捉えるの
書
評
ではな-'詩内部の味わいを何よ-も重税するという鮎で
共通するのである。
以上に見てきたきたように'欧陽修が
「半夜鐘」は賓際
にはありえないと難じたことに射して'後席する末代の詩
話では文献と鰹験に基づいて反論を連ねていた。欧陽情の
指摘とそれに封する反論'どちらにも前提となっているの
は'詩は事賓と敵蔚してはならないという事賓優先の立場
である。但し欧陽修が必ずしも事賓偏重主義でないことに
は留意しておかねばならないがtと-あえずこの議論の展
開に限れば'欧陽修はそれを提起した最初の人であり、以
後の論はすべてその掌のなかで反論しているに過ぎない。
問題は彼らはなぜ詩と事責との関係に拘-始めたのか、そ
れは中園の詩の歴史のなかでどのような意味をもつかtと
いうことだ。
事賓を尊重する'ないし偏重するtという態度は'中国
ではもともとはなはだ根強いものであった。たとえば
『授
紳記』にこんな話が載
っている。魂の文帝は
『典論』のな
JJ5
![Page 21: Title [書評] 松本肇著「唐宋の文學」 中國文學報 (2001), 62: 97 …repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/177869/1/cbh0… · Title [書評] 松本肇著「唐宋の文學」](https://reader034.fdocuments.in/reader034/viewer/2022052014/602c1eb71f54475a21086c8d/html5/thumbnails/21.jpg)
中国文学報
第六十二冊
かで
「火昆布」というものはあ-えないと断じた。ところ
がのちに西域の使者が
「火昆布」を賛際に献じるに及び、
明帝は石に刻した
『典論』のその部分を別-取ったtとい
う
(『三国志』巻四
「少帝紀」襲松之注)。しかしここで問題
とされているのは、『典論』という文のなかの、事賓と敵
齢する記述である。詩についても事賓を優先する見方があ
らわれるのは'末代まで待たねばならない。宋に至って突
如としてこうした議論が出てきたことは、この時期に詩軌
の大きな禦化が生じたことを示している。すなわち、それ
以前の'文学内部の規範が強固に存在していた時代にあっ
ては'詩句はその枠組みのなかで機能するものであるから、
それが賓際とどのような関係にあるかは'問題にされるこ
とはない。すべては文学的因襲と文学的環境のなかでのみ
成立しているのである。事賓との関係が問われるようにな
ったのは、文学を成立させていた強固な枠組みが緩み始め
たからだ。文学は日常と地頼きのものとして捉えられるよ
うになる。それが宋詩の日常化といわれるものであ-'文
学の俸続にはかつて取-上げられることのなかった素材'
感情'思考がどっと入って-るようになる。詩を囲
ってい
た枠が解催し、現賓との間に障壁がな-なったがために、
詩は事賓と
一致しているかどうかが問われるようになった
のである。
胡鷹麟が詩の
「輿象」を重視して'事賓とのつなが-を
否定したことは'詩を再び日常世界'硯賓世界と切-離し'
詩的感興が生動するもう
一つの世界へと戻すものであった。
とはいえ、それは唐以前の詩が文学的因襲のなかで自立し
ていたものともはや同じではない。文学的因襲のなかにあ
る讃者は、因襲の鰹系のなかに組み込まれている。讃者と
いう濁立した存在はな-'文学的因襲だけが自立している
のである。それに射して胡麻麟の唱える
「興象」は謹み手
と詩作品の間で感取されるものなのである。だからそれが
できない讃者は
「療人前政自難説夢也」と否定されること
になる。衷枚の
「性壷」説は中心とする概念は異なっても、
作品と謹み手の関係では同じである。いずれも話者が作品
世界から猫立Lt讃者自身が
「興象」な-
「性塞」な-を
馨勤しないかぎ-'詩の世界に入っていくことはできない。
F]F15]
![Page 22: Title [書評] 松本肇著「唐宋の文學」 中國文學報 (2001), 62: 97 …repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/177869/1/cbh0… · Title [書評] 松本肇著「唐宋の文學」](https://reader034.fdocuments.in/reader034/viewer/2022052014/602c1eb71f54475a21086c8d/html5/thumbnails/22.jpg)
末代から明代
へのこの韓換は、詩観の歴史のなかで非常に
大きな埜化であったと認めなければならない。
詩と事賓とを合致させようとする宋人の議論を否定Lt
作品世界を硯賓世界とは別個に存在するもう
一つの世界で
あるとする胡歴麟
・哀枚の詩観は'今日の我々にと
っても
理解しやすいものである。しかし作品に自立した世界を認
めるにしても、胡磨麟や哀枚の立場とそのまま重ね合わせ
ることもできない。詩
(ことば)と硯賓との関係を今'
我々はどのように捉えるか、今日の言語観に即して'そこ
から
「半夜鐘」をめぐ
ってもう
一つの論が書かれなければ
ならないだろう。
(川合康三)
三
「作家と作品」、「詩識」'そして
「恐ろしい
文
学
」
-
作品が謹まれるということト
作品とは'多数の讃者の多様な謹みに封して開かれた存
在であるが、そのことによって本質的に不安定であること
書
評
を免れない存在でもある。作品は、いったん生み出される
や'不特定多数の讃者のさまざまに異なった讃みの視線に
さらされて、さまざまにその姿を襲える.作品に表現され
たメッセージが唯
一無二のものであ-、それが讃者のもと
へと謀議されずに博達されること'そのことを指して作品
の安定と呼ぶとするなら'作品とは不安定であることを運
命づけられた存在であると言
ってもいいだろう。
作品の不安定性は'例えば
『本事詩』瑚戯篇や
『唐放
言』矛盾篇に見える自店易と張砧との次のようなや-と-
にもあらわれている。張砧がはじめて自居易に出合
った時
なげう
のこと、自店易は張砧の
「鴛鷺の細管
何度に
抱
つ
'孔
雀の羅杉
阿誰に付す」という詩句を指して'犯罪者に封
する尋問だと言
った。すると張砧は自居易の
「上は碧落を
窮め
下は黄泉'両虎
正々として皆見えず」という詩句
を指して'日蓮の地獄めぐ-だと麿じた。張砧の詩句は妓
女の死を悼んだ
「感王将軍柘枝妓披」(『全唐詩』巻五二
)
と遺される詩の
1節'白居易の詩句は言うまでもな-
「長
恨歌」の
1節。互いに相手の詩を故意に曲解して戯れたの
- 117-
![Page 23: Title [書評] 松本肇著「唐宋の文學」 中國文學報 (2001), 62: 97 …repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/177869/1/cbh0… · Title [書評] 松本肇著「唐宋の文學」](https://reader034.fdocuments.in/reader034/viewer/2022052014/602c1eb71f54475a21086c8d/html5/thumbnails/23.jpg)
中拭文学報
第六十二冊
である。これとよ-似たタイプの*l言が
『六
一詩話』にも
記されている。梅尭臣によれば、ある人は某氏
「贈漁父」
詩の
「眼前
市朝の事を見ず'耳畔
惟だ風水の聾を聞
-」という
一節を指して'肝臓と腎臓を患
ってでもいるの
かと言
ったという。いずれも笑い話にすぎないが、ここに
は作品の言葉がいかに不安定なものであるかがよ-示され
ている。例えば、張砧の詩句は亡き妓女の遺品を前にした
哀しみを'また梅毒臣があげる某氏の詩句は俗世を離れた
漁父の姿を表現した言葉として謹まれることを本来ならば
望んでいるはずなのだが、詩の題も見ずにそれだけを取-
出して謹めば、女性宅から奪
った盗品のゆ-えについて問
いただす取調官の言葉'また内臓疾患のため目や耳に牽調
きた
を
来
し
た人物をうたった言葉として謹むことは充分可能で
あり'作品の言葉はそうした線期せぬ謀議の危機を避ける
ことはできないだろう。
右の例は'本文=
テクスーの
一部分が取-出される場合
の意味俸達の不安定性を示すものであるが、たとえ本文全
髄が謹まれる場合であ
っても、作品はこの不安定性の危機
を完全に免れているわけではない。自覚的な作者であれば'
この種の危機を可能な限-未然のうちに回避しょうとする
だろう。そのために彼
(彼女)らはどうするか。テクスト
に、そのテクスIが本来位置づけられるべきコンテクスト、
つま-メッセージの意園やメッセージが生み出されるに至
った背景などについての説明を附け加えようとするだろう。
あるテクスIが誤讃もし-は曲解されるのは'単純な讃解
ミスを除けば'ほとんどの場合本来のコンテクストから逸
脱したかたちで謹まれているからである。(本来のコンテ
クス-などというものが本首にあるのか疑
ってみなければ
ならないが、ここではその鮎にまでは立ち入らない。)請
の題や序といったものは'こうして本来のコンテクストを
明示しょうとする配慮から生み出されてきたはずである。
右の張砧の詩や梅重臣があげる某氏の詩の
一節にしても'
「感王将軍柘枝妓穀」'「貯漁父」という題によって指し示
される本来のコンテクストに従
って謹まれる限-'盗人に
野する尋問の言葉'内臓疾患による身鰭の不調を訴えた言
葉として誤讃される危険性は'ほぼ完全に回避されるだろ
F]F]El
![Page 24: Title [書評] 松本肇著「唐宋の文學」 中國文學報 (2001), 62: 97 …repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/177869/1/cbh0… · Title [書評] 松本肇著「唐宋の文學」](https://reader034.fdocuments.in/reader034/viewer/2022052014/602c1eb71f54475a21086c8d/html5/thumbnails/24.jpg)
1つ
O
LかLtすべての作者が常に題や序などを附け加えるこ
とによって作品のコンテクストを説明して-れるわけでは
ない。例えば'李商隙の艶詩。それは
「無題」と題するこ
とで'讃解のための指針を讃者に野して説明することを敢
えて避けている。李商隙の場合はなかば意園的にそうした
のだと思われるが、それとは異なって、コンテクスーを提
供することにもともと無頓着な作者'結果的にコンテクス
トをのこさなかった作者というのも数多-存在する。最も
端的なのは
『詩経』に収められる詩の作者であろう。『詩
経』の詩は題や序をもたない。私たちが現在目にする
『詩
経
(毛詩)』には題や序が附されているが、それは基本的
に後から附されたものであって本来のものではない。『詩
経』の詩の作者は'コンテクストの提供に無頓着であると
いう鮎において、私たちが通常考える作者というものの位
置から若干隔たった所に身を置いている。そもそも
『詩
経』の詩は題や序だけではな-、作者の署名を鉄-。作品
を支え、作品をとりま-コンテクストについての説明の機
書
評
能を拾うもの
(G∴ンユネッ-の言う
「パラテクスト」)のな
かで、題や序以上に重要なのは作者の署名だと思われるが'
彼
(彼女)らは敢えて自らの固有名を作品に附け加えよう
とはしなかったのである。(
ただし、『詩経』には詩の本文
に作者自身の名が書き入れられたと推定されるものが少し
だけのこっている。例えば小雅の
「節南山」には家父'
「巷伯」には寺人の孟子'大雅の
「路高」と
「桑民」には
吉甫の名が'いずれも本文の末尾に本文の一部に組み入れ
られるかたちであらわれる。
一般的に作者の署名は作品の
本文=
テクスIの外部に位置するものと考えられるから'
これらの固有名はテクストの一部となっている鮎で'い
わ
ゆる作者の署名とは若干異なると言うべきかもしれない
の
だが。)
『詩経』の詩における作者と作品の関係について考える
とき'清の勢孝輿
『春秋詩話』巻
Tが饗風の詩について述
べる次の言葉は興味深い。「風詩の襲'多-は春秋間の人
の作る所な---。然れども作者名のらず'述者作らざる
た
は何ぞや。蓋し昔時は砥
だ詩有-て詩人無し。古人の作る
- 119-
![Page 25: Title [書評] 松本肇著「唐宋の文學」 中國文學報 (2001), 62: 97 …repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/177869/1/cbh0… · Title [書評] 松本肇著「唐宋の文學」](https://reader034.fdocuments.in/reader034/viewer/2022052014/602c1eb71f54475a21086c8d/html5/thumbnails/25.jpg)
中国文学報
第六十二冊
と
っ
所'今人援-て己の詩と馬すべ-'彼の人の詩'此の人廉
ぎて自作と馬すべし。言志を期すのみ。人に定詩無-、詩
に定指無し。以て故に名のるべ-も名のらず'作らずして
作る」。作品は特定の作者に蹄層する作者固有の所有物で
ある-
こうした理解の枠組みをはずれた所に
『詩経』の
詩は位置しているのだと努孝輿は考えている。賓際'『春
秋左氏博』などには
『詩経』の詩を自由に採用するかたち
で意志を俸え合う外交上のや-と-が記されている。した
がって、努孝輿のように考えることも可能であろう。かつ
て作品は、作者の署名によって指し示されるコンテクスー
の支配を離れたかたちで'贋-不特定多数に使用されてい
た。つま-'作品は作者だけではな-、それを詠む
(請
む)者にも蹄屠する
1種の共有物であ
った。だから、作品
の帝展先をあらわす作者の固有名も必要とされなかったの
だtと。この考え方は今日ではなかば常識となって虞-受
け入れられていよう。(例えば願易生
・薄凡
『先秦雨漢文
学批評史』上海古籍出版社へ
一九九
〇tは'努孝輿の右の
尊言を引用しっつ
『詩経』解碍撃史を論じている。)
だが、たとえ
『詩経』の詩が作者の署名によるコンテク
ス-の支配を離れたかたちで流通するものであ
ったとして
も、作品のメッセージとして表現された
「志」を歪曲して
使用すること'「志」を謀議することは許されなか
ったは
ずである。『孟子』寓章上篇が
「詩を説-者'文を以て解
を害わず、静を以て志を害わず」と言うように。では'作
品の
「志」を正し-讃解するためにはどうすればいいか。
『孟子』高車下篇が唱える
「知人論世」とは、そのような
問いに封して提出された方策のひとつであ
ったと言
っても
いいだろう。詩を讃むためには'その詩を書いた
「人」す
なわち作者'更にはその作者が生きた
「世」すなわち時代
状況を理解することが必要だと孟子は言う。作者と、それ
に附随して作者の生きた時代状況に関する情報が、ここで
は作品を理解するためのコンテクスーとして求められてい
る。『詩経』の詩の作者たちは自身が作者であることを積
極的には求めなかった。彼
(彼女)らに作者であることを
求めたのは'孟子のような
「詩を説-者」すなわち後世の
讃者だ
ったのである。漠代
になると
『詩経』
の詩に序
120
![Page 26: Title [書評] 松本肇著「唐宋の文學」 中國文學報 (2001), 62: 97 …repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/177869/1/cbh0… · Title [書評] 松本肇著「唐宋の文學」](https://reader034.fdocuments.in/reader034/viewer/2022052014/602c1eb71f54475a21086c8d/html5/thumbnails/26.jpg)
(『毛詩』序)が附される。それもやはり作品を謹む讃者の
立場から'作品に表現された
「志」の理解のために正しい
とされるコンテクス-を確定しようとする試みであったが'
ここでも作者という存在がクローズアップされるに至る。
孟子の言う
「知人論世」の賓践と言
ってもいい。例えば
『毛詩』序を見ると、固有名をあげて作者を指定するもの
が三十例ほどあ-、このほか官職名や
「君子」「国人」な
どの語によって指定するものも含めれば'全膿の三分の一
近-の作品について作者に言及する言葉が見える。『詩経』
解樺撃のなかで作者の指定は重要な課題となっていたこと
がうかがわれる。作品を支えるコンテクストのなかで主要
な位置を占めたのは'作者に関する情報だったということ
だろう。(無論'三分の
一という数は決して多いとは言え
ない。作者を明らかにしようと努めつつも'資料上の制約
もあってのことか、三分の二以上の作品についてはそれを
放棄しているのだ。)
右に見たように'
古-は作者自身が作品に署名すること
は
1般的ではなかったし、題や序によって作品のコンテク
書
評
ストを説明することにも積極的ではなかった。作者自身が
そういった配慮に自覚的になるのは漠代以降のことであろ
う。『詩経』の詩の序が作られ作品のコンテクストの探求
が行われた漠代は'謹者の側からだけではな-、作者の側
からも作者という存在が追求され尊兄された時代だったの
である。観音期になるとこうした自覚的な作者の存在は
一
盾明確なものとなる。そのことは、晋の陸機
「文賦」(『文
選』巻一七)に見える次の言葉からも確かめられる。「必ず
こと
支-普
擬する所の
殊
な
らざれば、乃ち闇に
嚢
の
篇に合することあ
こころ
おそ
-。予が
懐
に
梓軸すと難も'柁人の我に先んずるを
伐
る
。
いやし
やぶ
あやま
す
苛
-
も廉を
傷
-
て義を
懲
ら
ば、亦た愛すと錐も必ず指
つ」。自分の文章の表現がたまたま他人のそれと同じにな
ることがあるが、その場合は敢えてその表現を棄て去るべ
きだと陸機は言う。努孝輿が
「古人の作る所'今人援-て
己の詩と馬すべ-、彼の人の詩'此の入唐ぎて自作と為す
べし」と述べるような作者とは異なって'自己と他者の直
別にあ-までも潔癖であろうとする作者'作品の唯
一無二
の蹄屠先であり所有者であろうとする作者、そういった作
I-I_71-
![Page 27: Title [書評] 松本肇著「唐宋の文學」 中國文學報 (2001), 62: 97 …repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/177869/1/cbh0… · Title [書評] 松本肇著「唐宋の文學」](https://reader034.fdocuments.in/reader034/viewer/2022052014/602c1eb71f54475a21086c8d/html5/thumbnails/27.jpg)
中国文学報
第六十二筋
者の姿勢がここには表明されている。
このようにして'作者に関する情報は作品を支えるコン
テクスーとして必要不可鉄のものとな-、讃者は
(作品は'
あるいは作者はtと言い換えても同じことだが)作品の背
後に作者をめぐる物語を求めずにはいられな-なる。それ
が普然の権利であり義務であるかのように。なお'ここに
言う物語とは'創作=
フィクションという意味に必ずしも
限定されない。事賓の記録をめざすものと通常は見なされ
る史博の歴史記述もまた
1種の物語である。そして、作者
をめぐる物語のなかで最も中心的な役割を掩うことになっ
たのは
『史記』をはじめとする歴史書の文学者の博記であ
ろう。漠代に著された
『史記』の例えば屈原の俸記は、屈
原の
「離騒」をめぐって次のように言う。「屈平
王の聴
-ことの聴ならずして'読話の明を蔽い'邪曲の公を害し、
方正の容れられざるを疾み'故に憂愁幽思して離騒を作
る」。作品がどのようにして生み出されたのかへ作品の背
景をなす作者と作者をとりま-時代状況に関する情報を提
供するこの記述は'『毛詩』序に見えるい-つかのそれと
極めてよ-似通っている。つま-
『史記』の屈原侍は'屈
原という作者の書きのこした作品を讃解するためのコンテ
クスIの説明と言
ってもいいような性格を強-帯びている
のである。(ちなみに屈原
「離騒」もまた'テクス-内部
に作者の固有名が書き入れられた最初期の特異なテクス-
のひとつである。)
ここで私たちは次のように考えるかもしれない。文学者
は作品を書きのこすことによってはじめて文学者となる。
したがって'文学者の文学者としての侍記は必然的に作品
のコンテクストについての記述とならざるをえないtと。
賓際へ以後も歴史書の文学者の博記にはそういう要素が受
け継がれてゆ-。だがへ例えば後に正史と呼ばれることに
なる歴史書の文学者の俸記を概観するとき'右に見た
『史
記』屈原博の
「離騒」についての記述のように'個々の作
品
(と-わけ詩)のコンテクスーを説明して-れる記述は
意外にも極めて少ないものであることに気づく。ある作者
のある特定の作品のコンテクストを知ろうとしても、ほと
んどの場合それらの俸記は'必要充分な情報を輿えてはく
722
![Page 28: Title [書評] 松本肇著「唐宋の文學」 中國文學報 (2001), 62: 97 …repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/177869/1/cbh0… · Title [書評] 松本肇著「唐宋の文學」](https://reader034.fdocuments.in/reader034/viewer/2022052014/602c1eb71f54475a21086c8d/html5/thumbnails/28.jpg)
れないだろう。正史の博という形式では個々の作品のコン
テクスIをひとつひとつ掬いあげることはできなかったの
かもしれない。おそら-'この映如を埋めようとして'特
に唐代以降'例えば
『朝野愈載』『隔唐嘉話』『唐国史補』
『劉賓客嘉話録』『本草詩』『雲渓友議』『唐扶言』『北夢頚
言』など、文学者とその作品をめぐるさまざまな逸話を記
した
一群の筆記小説は生み出された。(末代になると、こ
の流れを
一部汲むかたちで多-の詩話も生み出される。)
唐末の孟菓
『本事詩』は、そのなかでも代表的な著作の
ひとつである。まず'この著作が掲げる
『本事詩』という
題名に注目しよう。ここに用いられる
「本事」とは作品の
背景となる出来事、作者をめぐる物語を意味する。詩作品
の背景となった詩人の逸話を'作品を理解するために必要
なコンテクスIとして記述しょうとする姿勢が、この
『本
事詩』という書名には端的に示されている。唐の呉競
『禦
府古題要解』が劉孝威の楽府詩
「鳥生八九子」について
「但だ烏を詠ずるのみにして、本事を言わず」(ただし現行
本に見えるこのコメン-は呉萩の原本に後人が施したものであ
書
評
る)と述べるように、多-の場合作品のテクスIは
「本
事」という作品が位置づけられるべき本来のコンテクスI
を放いたまま議者の前にあらわれるのだが、その時やは-
読者は作品の背後に
「本事」を探ろうとする欲求を抑える
ことは難しい。こうした欲求に答えるのが
『本尊詩』であ
-'このほか作品の
「本尊」を記述する一群の筆記小説だ
ったと考えられる。ちなみに
「本草」とは'『漢書』重文
志が
『春秋左氏俸』について
「本事を論じて博を作-'夫
子は空言を以て経を説かざるを明かにす」と述べるように
「室言」ではない事賓の記録を志向する語である。史書の
侍の本文を指して
「本事」と言うこともある
(『史通』論
質)。「本末」とほぼ同義の語と言っていいだろう。その意
味でも'これら筆記小説はこれまで見てきた序や博の流れ
を汲むものである。筆記小説と史侍との関係については'
両者の類縁性を踏まえるならば多-を言う必要はないだろ
う。賓際'正史の記述が筆記小説に取-入れられるのはも
ちろんのこと、筆記小説の記述が正史
(例えば
「唐書』)の
博に取-入れられるなど'両者の関係は密接である。『唐
- 123一
![Page 29: Title [書評] 松本肇著「唐宋の文學」 中國文學報 (2001), 62: 97 …repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/177869/1/cbh0… · Title [書評] 松本肇著「唐宋の文學」](https://reader034.fdocuments.in/reader034/viewer/2022052014/602c1eb71f54475a21086c8d/html5/thumbnails/29.jpg)
中国文学報
第六十二筋
国史補』という書名にしても
「国史」の補いであろうとす
る姿勢のあらわれである。
一万㌧序との密接な関係につい
ては次の例をあげよう。『本事詩』事感篇には元積の
「贈
貴明府」詩の
「本事」を記録する保があるが、そこでは元
積の督該の詩の序文が全文引用され'孟柴自身の言葉はわ
ずか十九字が加えられているだけである。元積の序文の記
述が首該の詩の
「本事」となっていると考えたからであろ
、つ0い
ま述べたように
『本事詩』をはじめとする筆記小説の
記述は'序や博と同じ-作品の本来のコンテクスト、すな
わち作品の背景をなす出来事の事賓の記録であることを
一
面で志向している。しかし'志向したからといって結果が
ともなうわけではない。したがって、次のような批判もし
ばしばなされた。例えば
『夢渓筆談』巻四は
『唐書』と
『本草詩』の李白
「萄造難」についての記述を比較して考
謹するなか、筆記小説というものの性格について
「蓋し小
説の記す所、各おの1時の見聞に得て'本末は相い知らず'
率ね舛諜多し」と言う。小説の記述は'理想的な
「本末」
-
「本事」の記録とはな-得ておらず信頼できないという
のである。(なお'『夢渓筆談』は
『唐音』の誤-も指摘し
てお-'正統的とされる史書の記述がすべて事案の正確な
記録であると考えているわけではない。更にもうひと言附
け加えるならば'このとき沈括が判断の稼-所とした李白
集中の
「章仇乗壇を刺った」とする記述も'今日の覗鮎か
ら見れば事案であるとは認められない。)今日でも、この
『本事詩』は
「詩物語」(狩野直喜
『支那小説戯曲史』みすず
書房、
一九九二)というようなとらえ方をされる。ここで
「物語」というのはフィクションという傾きを多分に含ん
で用いられていよう。確かに
『本草詩』に記される
「本
事」には'
一見すると事案ではないと思われるような記述
が多-'そのことは例えば次にあげる
『本事詩』情感篇に
見える戎豊の詩の
「本事」についても指摘されている。
戎豊はある妓女に思いを寄せていたが'その妓女を上司
の韓操に差し出さねばならな-なった。妓女と別れる際に、
彼は湖のほと-で宴席を設け詩を作
って妓女に贈-'その
詩を韓涙の前で詠ずるよう言い含める。後に、韓混のもと
- 124-
![Page 30: Title [書評] 松本肇著「唐宋の文學」 中國文學報 (2001), 62: 97 …repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/177869/1/cbh0… · Title [書評] 松本肇著「唐宋の文學」](https://reader034.fdocuments.in/reader034/viewer/2022052014/602c1eb71f54475a21086c8d/html5/thumbnails/30.jpg)
へ行
った妓女が韓涙の前でその詩を詠ずると、韓操は戎豊
が妓女に思いを寄せていたことに気づ-。そこで結局'韓
操は妓女を戎豊のもとに拝してやった。問題の詩は
「題湖
亭」あるいは
「移家別湖上亭」(『文苑英華』巻三1六㌧『全唐
詩』巻二七〇)などと題されて俸えられるもので、次のよ
うにうたわれる。
「好し去らん
春風湖上の亭、柳保藤蔓
つな
すべ
離情を繋ぐ、責
鷺
久し-住めば
揮
て
相い識-'別れんと
欲して頻-に噂-
四五聾」
。『本事詩』のこの候について、
例えば博旋環
「戎豊考」(『唐代詩人叢考』中華書局'
一九八
〇所収)は、この詩はその題と本文の内容から見て妓女と
の別れに際しての作とは見なせず、したがってここに記さ
れた
「本事」は事賓ではないとしている。(博氏は別の根
接もあげてこのことを論語しているのだが、ここではふれ
ない。)
だが、果たしてそうだろうか。このようなとらえ
方をするとき、ある種の線断が入-込んでしま
っている危
険はないだろうか。
確かに'戎豆のこの詩の現在博えられる題名
「題湖亭」
または
「移家別湖上亭」は'孟葉が記すような
「本尊」を
書
評
は
っき-と指し示してはいない。「移家」の語に着日すれ
ば'むしろ戎豊自身の引
っ越し、旗立ちを指すと考えるの
がふつうであろう。しかし'この
「本事」との間に決定的
な敵齢を来すとも言いに-いのではないだろうか。そもそ
も
『本事詩』の記述のなかにこの題名はあらわれないのだ。
些細ではあるが、この鮎には注意する必要がある。更に言
えば'この題がどこまでオリジナルを俸えているか疑
って
みなければならない。題は後世の讃者によって改愛されて
いる危険性があるのだから。本文についても'妓女との別
れの席で作られ'韓涙が戎豊と妓女との深い仲を察知する
に至
った詩の言葉として謹むことは充分可能だろう。この
詩でうたわれているのは、湖のほと-から立ち去-がた-
別れを哀しむ者の思いである。この詩を聴いて戎星が妓女
に思いを寄せているのが分かったとあることから'私たち
はこの詩のテクスト内の蓉話者として戎呈自身を想定し、
彼が妓女に寄せる思いがテクスト内に直接書き込まれてい
るものと思ってしまいがちだが
(また'そう思
って謹む限
-博氏と同様の結論にたどりつかざるを得ないが)、必ず
125
![Page 31: Title [書評] 松本肇著「唐宋の文學」 中國文學報 (2001), 62: 97 …repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/177869/1/cbh0… · Title [書評] 松本肇著「唐宋の文學」](https://reader034.fdocuments.in/reader034/viewer/2022052014/602c1eb71f54475a21086c8d/html5/thumbnails/31.jpg)
中国文筆報
第六十二筋
Lもそうである必要はないだろう。戎豊が妓女になり壁わ
って、妓女の思いを代梓するかたちで書いた
(そして、そ
れを韓操の前でうたわせようとした)ものとも考えられる
のではないか。つま-'戎星が妓女に寄せる思いがテクス
ト内に直接書かれていたからではな-'戎豆のもとを立ち
去-がた-別れを哀しむ妓女の思いが表現されていたから'
あるいはそういう思いを表現した詩を戎星が書きそれを妓
女が思いを込めて詠じたから'だから韓操は二人の仲を見
抜いた-
そのように考えることも可能ではないだろうか。
(ついでにひとつの想像を附け加えると'ある作品の本文
をさまざまなコンテクストに鷹じ題を襲えるなどして繰-
返し使用する、というようなことも賛際には行われたかも
しれない。戎豆のこの作品の場合にも'本来は戎豊自身の
「移家」にともなう留別というコンテクストのもとで書か
れたのだが、それを妓女の放立ち'妓女との別れというコ
ンテクストにおいて再使用した可能性を想定できないだろ
うか。)
だが、わざわざ附け加えるまでもないことかもしれない
が、右の
「本手」がフィクションか否かはいまとなっては
確かめるすべがないし'この場合それを論ずることにあま
-意味はない。むしろ'ここで指摘したいのは'先に自店
易と張砧とのや-と-'梅尭臣の饗言などを例に確認した
作品の不安定性'それと同じものが戎豊の詩の讃解をめぐ
っても露出せざるを得ないということである。すなわち'
「本草」=
コンテクスーの設定の仕方次第で、作品はさま
ざまにその姿を襲え得るということ。同様のことは'「詩
識」という現象においても指摘できるように思われる。
「詩誠」すなわち詩による確言とは、ある作品に表現さ
れたメッセージが後に現賓化する'あるいは現賓化したよ
うに見えることを指して言う。例えば、唐の武元衛は
「夏とど
夜作」(『全唐詩』巻t三
七)と遺して詩を作-
「清景を
駐
む
よし
・王
るに
国
無
し'日出づれば事
遠
た生ぜん」-
すがすがしい
夏の夜の時間を止めてお-ことはできず'夜が明ければま
た煩わしい
「事」に追われるのだろう'とうたった。翌朝'
武元衛は殺害されてしまうが、この詩句が不吉な務言すな
わち
「詩識」となったのだと'後に唐詩人の侍記
『唐才子
- 126-
![Page 32: Title [書評] 松本肇著「唐宋の文學」 中國文學報 (2001), 62: 97 …repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/177869/1/cbh0… · Title [書評] 松本肇著「唐宋の文學」](https://reader034.fdocuments.in/reader034/viewer/2022052014/602c1eb71f54475a21086c8d/html5/thumbnails/32.jpg)
俸』巻四は言う。この詩が作られた時鮎では'ここに述べ
られた
「事」が武元衛の殺害を意味することになるとは誰
しも思い至らなかっただろう。本来そのようなコンテクス
トのもとに書かれた詩ではなかったはずだから。この詩句
が武元衡の殺害を準言するものであったと人々が考えるに
至
ったのは'詩が書かれた後'作者の武元衡が殺害された
後のことである。このように、「詩誠」とは多-の場合、
作品が書かれた後の時鮎になってはじめて構成されるコン
テクスIへと昔該の作品を置き換えて謹むことによって成
立するものである。作品が作者の手元を離れた後'言い換
えれば本来のコンテクス-の支配を離れた後の時鮎の讃者
であるからこそはじめて許される特殊な作品の謹み方'そ
れが
「詩識」と呼ばれる現象だと言ってもいいだろう。
もちろん'作者もまた自らの作品を謹む護者のひと-で
ある。いま
「詩識」とは後の時難の讃者による'後の時鮎
での詩の讃解に関わる現象だと述べたが、後の時鮎の讃者
のなかには作者自身も含まれる。例えばへ播岳は
「金谷集
作詩」(『文選』巻二〇)のなかで石崇との永遠の友情を誓
書
評
って
「自首
締する所を同じうせん」とうたった。後に'
この詩句が不吉な確言ででもあったかのように、播岳は石
崇と同じ刑場で虞刑される。『世説新語』仇陳篇や
『青書』
藩岳博の話者はこれを指して
「詩識」だと言うが'こうい
う見方
(謹み方)をしているのは作者の播岳自身でもある
だろう。『世説新語』や
『青書』によれば'刑場で庭刑を
前にした播岳はこの詩句を思い起こして石崇に語-かけて
いる。作者自身、自らの過去の作品が、思いもよらない姿
で目の前にあらわれたことに不意を衝かれて驚き'感慨を
催しているのである。換言すれば'作者自身が'かつて自
らが想定した本来のコンテクストとは別のコンテクストの
なかに自らの作品を置き直しへ別のメッセージを表現した
テクストとしてそれを謹み返しているのだ。作品は本来の
コンテクスト
(だが繰-返せばうそのようなものが本昔に
あるのだろうか)のなかに安住しない。常に別のコンテク
ストのなかに身を移し換え'別の姿にな-愛わろうとする。
自身の作品であ-ながらも'自身の想定を超えた所で別の
姿に埜わ-果ててしまった作品の不安定な振る舞いに封す
727
![Page 33: Title [書評] 松本肇著「唐宋の文學」 中國文學報 (2001), 62: 97 …repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/177869/1/cbh0… · Title [書評] 松本肇著「唐宋の文學」](https://reader034.fdocuments.in/reader034/viewer/2022052014/602c1eb71f54475a21086c8d/html5/thumbnails/33.jpg)
中国史学報
第六十二筋
るとまどいを含んだ驚き-
播岳の
「詩識」をめぐる物語
が私たちに語って-れるのは'自らの作品の不安定性に直
面した作者という存在についての物語であるのかもしれな
\0
し
作品の
「本事」すなわち作品のコンテクストをめぐる筆
記小説や史博の一群の記述は'作品がいかに書かれたか'
作品の制作のあ-方を俸える資料であると同時に、作品が
いかに謹まれたかへ作品の受容
・讃解のあ-方を俸える資
料でもある。(ふつう前者の資料として扱われることが多
いが、第
1義的にはむしろ後者の資料として扱われるべき
だろう。)そこから浮かびあがって-るのは'作品という
ものが多様な謹みを招かずにはいられない存在であ-、そ
してまた多様な讃みの視線にさらされるが故に揺れ動-こ
とを免れない存在であることである。作品はコンテクスト
によって支えられることを求めるが、しかしコンテクスト
の設定次第でどのようにもその姿を襲えられてしまう.
「寄託」や
「比興」といった中国文学に特有の表現のメカ
ニズムもこのうえに成-立っている。もちろん'これを指
して多様な讃解を許容する作品の豊かさと言うべきである
Lt文学の普遍性というものもこれによって保護されてい
よう。だが同時に'それはしばしば
「附合」を招き寄せ、
例えば蘇軒が巻き込まれた筆禍事件に見られるように'政
治的な力による作品の弾墜さえも引き起こす。作品がそれ
白檀で他の支えを借-ずに存在すること'自己完結的で唯
一無二の固有性を備えた存在であること、そのことを指し
て作品の自律
(自立)と呼ぶとするなら、ここから浮かび
あがって-るのは作品の他律=
非自律性とも呼ぶべきもの
である。
だから'文学作品とは'じつは極めて脆弱な側面をもつ
存在であると考えなければならないのだろう。では'この
理解のうえに'例えば
「恐ろしい文学
(文学は恐ろしい)」
という命題を重ね合わせるとしたらどうか。果たして文学
は本営に恐ろしいのだろうか。確かに文学は恐ろしいもの
なのかもしれない。しかしそれは'文学が強固で安定した
自律的な存在であるからではないだろう。この鮎を確認し
てお-必要がある。先に引いた
『漢書』重文志の言葉を借
72g
![Page 34: Title [書評] 松本肇著「唐宋の文學」 中國文學報 (2001), 62: 97 …repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/177869/1/cbh0… · Title [書評] 松本肇著「唐宋の文學」](https://reader034.fdocuments.in/reader034/viewer/2022052014/602c1eb71f54475a21086c8d/html5/thumbnails/34.jpg)
-て言えば'おそら-文学は
「空言」にすぎない。不安定
で弱々しい
「空言」であるからこそ'文学は自らを支え、
自らを満たして-れるコンテクスト=
物語を求めるが、ひ
とつの物語に安住することができず、
謹者に封して次々と
新たな物語を要求する。「恐ろしい文学」という命題もま
た、そのような物語の言説のひとつとして組み込まれ'消
費され、やがて見捨てられてゆ-ことを免れないだろう。
文学は自律
(自立)できない'弱-不安定な存在である。
私たちひと-ひとりの人間存在がそうであるように。だか
らこそ、文学は恐ろし-'また敢えて言えば魅力的なので
はないだろうか。
(浅見洋二)
四
「作家と作品」1
滴仙人と呼ばれた李白-
長安に出てきた李白は'賀知章の訪問をうけ
「萄遭難」
をさしだしたところ'涌仙人と呼ばれて絶讃された。この
話は'唐末の
『本事詩』に書き留められて以降、五代の
『唐放言』や元の
『唐才子停』に受け継がれることによっ
書
評
て、ひろ-知られるところとなっている。しかしわれわれ
がよ-知っている、このような唐末の小説から出た話は、
もとをたどってゆ-と往々にして草書とは食い違っている
場合が多い。まずはこのことに言及するい-つかのテキス
トを時間の順に追うことによって'話がどのように構成さ
れていったか'ひととお-見てゆこう。その過程のなかで、
事賓とは認められない要素がどうして入-こんでくるのか、
考えてみることにしよう。
李白が賀知章から涌仙人と呼稀されたことについては、
李白本人がそのことを述べている。諦仙人という名は彼自
身のお気に入-だったようで'自作の詩のなかにしばしば
日柄するところであるが、なかでも
「封酒憶賀監」詩
(tl
首の一)ならびに序には、このときの様子が最も詳細に記
されている。序には
「太子賓客賀公、長安の紫極宮に於て、
余を
一見し、余を呼んで詞仙人と為す。因って金亀を解き'
酒に換えて楽しみを為す」と、詩には
「四明に狂客有り'
風流の賀季異。長安に
lたび相見て'我を詞仙人と呼ぶ」
- 129-
![Page 35: Title [書評] 松本肇著「唐宋の文學」 中國文學報 (2001), 62: 97 …repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/177869/1/cbh0… · Title [書評] 松本肇著「唐宋の文學」](https://reader034.fdocuments.in/reader034/viewer/2022052014/602c1eb71f54475a21086c8d/html5/thumbnails/35.jpg)
中国文学報
第六十二筋
とそれぞれ述べている。
これによれば'場所は長安の老子
廟
「紫極宮」で'道教という共通の背景をもっこの大先輩
の詩人は、初野面で彼の風貌を見るな-
「詞仙人」と呼ん
だのであ
った。「長安紫極宮」とは、『李白全集校注嚢梓集
評』(百花文蛮出版社'一九九六)によれば'京兆府紫極言の
別稀または正名で'おそら-長安城内の長安願所轄直内に
あ
ったもののこと'従来
「西京太清宮」とされているのは
読-であろうtということである。天賓二年
(七四三)≡
月の詔によって'西京
・東京
・天下諸郡の玄元皇帝廟が'
新たに
「太清宮
・太微宮
・紫檀宮」とそれぞれ改構されて
いた。なお、「封酒憶賀監」詩は'賀知章の没後に彼を偲
んで書かれたもので、唐瑛
『李白詩文繋年』(作家出版社'
一九五八)は天賓六載
(七四七)に懸けている。
さて李白に績いてこのことを記録するのは'彼と親し-
交わ-を結んだこともある杜甫である。安緑山の謀反の際'
李白は永王燐の起兵に参加したかどで罪に問われ'いった
ん稗放されたものの'ふたたび夜郎に流されることになる。
ときは乾元二年
(七五九)'常時秦州にあ
った杜甫が李白に
宛てた
「寄李十二日二十韻」詩には、彼
への思いを'自身
の見知
った詩人の半生記とも言うべき記述のなかに描きだ
している。その冒頭に
「昔年
狂客有-'爾を滴仙人と渡
す。筆落つれば風雨を驚かし、詩成りて鬼神を泣かしむ。
聾名
此よ-大き-'滑没
一朝に伸ぶ。文彩
朱握を承け'
流俸必ず倫を絶つ。龍舟
樺を移すこと晩-、獣錦
袖を
奪うこと新たな-」と'賀知章による滴仙人の呼稀をき
っ
かけに、彼の榊に入
った創作ぶ-が話題とな
って、不遇で
あ
った彼が
1朝にして宮仕えするまでになったことが述べ
られている。このあと'杜甫自身が彼と出合い楽しいとき
をともにしたこと'安緑山の乱を経ていま繋がれてあるさ
ま'それに封する粁護の気持ち、と順に述べられてゆ-の
だが'李白の人生がひらける発端のエピソードとして'こ
の十数年前の話を位置づけて語-起こすのである。李白の
記事が'滴仙人という呼稀を得たことの得意さ'賀知章と
のよしみを言うことに重鮎があるのに封して、この杜甫の
記事は'涌仙人の呼稀をき
っかけに出世の道がひらけると
いう'事柄を理解するうえでの文脈が用意されていること
- 130-
![Page 36: Title [書評] 松本肇著「唐宋の文學」 中國文學報 (2001), 62: 97 …repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/177869/1/cbh0… · Title [書評] 松本肇著「唐宋の文學」](https://reader034.fdocuments.in/reader034/viewer/2022052014/602c1eb71f54475a21086c8d/html5/thumbnails/36.jpg)
に気がつ-が'これには詩人の半生を四十句二十韻のなか
に描きだす、杜甫の書き方がひとつの要因としてかかわ
っ
ている。
ところで'この杜甫の停える李白の就職にいたる経緯は'
詩のなかにも解れられるように'離職して長安を離れた直
後にふた-が出合いtLばら-の親密な交遊のときをも
っ
ていることからしても、出庭にかんしてはこれ以上ない確
かなものである。しかし、その内容については、これも李
白と交わ-のあ
った魂寮の俸えるところに擦れば、賓際は
もうすこし違
ったものであ
ったようだ。
貌寅は、かつて李白から手稿を手渡され編纂するように
依頼されたが、安史の乱で散逸して約束を果たせずにいた
ところ、上元末年
(七六1)にたまたまこれを得て刊行し
た。そこに付された
「李翰林集序」には'自身が科挙に登
第した喜びとともに'刊行の経緯がそのように述べられて
いるが'李白の就職の経緯にも次のように言及している。
李白は久し-峨眉山に居たが、友人の造士
・元丹丘ととも
に玉異公圭によって推薦された。李白はまた玉異公圭によ
書
評
って翰林に入ったと。これが章際のところであろうと現在
認められている説だが、とするとさきに杜甫が言
っている
ようにみえた'涌仙人の呼稀が就職に直結したかどうかに
ついては'じつは不確かである。それはことのある見え方
を述べた話と言えようか。ひとびとの間ではそのように言
われており'杜甫もそれを採用したというところであろう
か。さて魂寮の序にも滴仙人の話は記されていて、これが
ひろ-知れた話だということがわかるが'ただこの魂薪序
における扱いは'杜甫とはやや違
っている。というのは'
李白が翰林に入ったという記述の後に積けて
「名は京師を
動かす。大鵬膿は時に家ごとに
一本を赦す。故に賓客賀公
白の風骨を奇とLt呼びて滴仙子と為す。是に由-て朝廷
歌を作るは数百篇」と言い'これを素直に謹めば'嫡仙人
の呼稲が就職後のことのように見えるからである。魂寮の
書き方が時間の先後に頓着していないということだろうか。
こうしたことについてもうすこし考える材料を提供して-
れるのは'貌寮序の翌年に書かれたもうひとつの李白文集
の序である。
- 131 -
![Page 37: Title [書評] 松本肇著「唐宋の文學」 中國文學報 (2001), 62: 97 …repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/177869/1/cbh0… · Title [書評] 松本肇著「唐宋の文學」](https://reader034.fdocuments.in/reader034/viewer/2022052014/602c1eb71f54475a21086c8d/html5/thumbnails/37.jpg)
中囲文筆報
第六十二筋
賓歴元年
(七六二)に篤い病の床にあ
った李白は、枕上
で草稿寓巻を手ずから李陽妹に授けて序を書-ように依頼
した。その
「草堂集序」には'李白の家系から文学の指向
へ、さらに宮廷に召されて以降の経歴へと筆が進められて
ゆ-のだが'話仙人の話については'翰林に入ったあと同
僚の誹諸によ-帝に疎んじられ'飲んだ-れてさまよった
という記述に緯けて
「又た賀知章
・崖宗之等と'自ら八仙
の遊を為し'公を詞仙人と謂う。朝列
滴仙の講を賦すこ
と、凡そ数百首。多-は公の意を得ざるを言う」と述べら
れている。翰林に入ったあとにこの話題が配され、朝廷の
詩人が彼のために歌を作
ったという文脈は魂穎序とおなじ
だが'ここではさらに
「八仙の遊」というもうひとつ別の
話柄のなかに詞仙人の話が組みこまれるように'さらに饗
化を被
っている。「八仙の遊」といえば杜甫の
「飲中八仙
歌」がすぐに思いあたるが'杜甫自身も虹に昔時ひとびと
のあいだで稀されていたものをもとに書いたと考えられて
おり、その鮎では必ずしも李陽妹の記述の信悪性を云々す
るものでない。李白は賀知章のほかにもうひと-名が拳が
る荏宗之とも詩のや-とりをしてお-'ここで
「自ら八仙
の遊を馬」したというのは、時人に
「八仙」と稀されるそ
うした酔狂な交遊をみずから任じて馬していた、というよ
うな意味であろう。「公を詞仙人と謂う」とは、その交わ
りのなかで李白を詞仙人と呼んでいたtというほどの意味
で、したがってこれをもって賀知章による涌仙人の命名が
就職後のこととする根接にはならない。宮廷の詩人が彼の
ために歌を作
った話も'ここでは
「嫡仙の講」で'李白の
不満を言ったものだ、というように髪わっている.事後二
十年経って書き留められるこれらふたつの文集序の記述に
は'それぞれい-つかの話題が絡みあってそのひとの経歴
が形成されてゆ-様子が窺え'ここからことの起こった時
期も含め尊書がどうであったかを云々するのはなかなかむ
ずかしいことのように思える。詮索はこれ-らいにしてお
こ、つ。
次に滴仙人の話題を記録する文章が現れるのはtLばら
-時間を経たあとのことである。ときは元和十二年
(八一
七)、宣
・欽
・池等州の観察傍として赴任していた苑博正
132
![Page 38: Title [書評] 松本肇著「唐宋の文學」 中國文學報 (2001), 62: 97 …repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/177869/1/cbh0… · Title [書評] 松本肇著「唐宋の文學」](https://reader034.fdocuments.in/reader034/viewer/2022052014/602c1eb71f54475a21086c8d/html5/thumbnails/38.jpg)
は'李白終蔦の地である普塗へ李白の孫女を訪れ、その言
うところの遺志によって墓を移した。その際に書かれた
「唐左拾遺翰林学士李公新墓碑序」に、やはりこの話題に
も言い及んで
「長安に在-し時'秘書監賀知章
公を渡し
て滴仙人と為す。公の烏棲曲を吟じて云う'此の詩は以て
鬼面を失せしむべLと」と述べ'以下
「酒中八仙」の話
へ
と績いてゆ-。ここで注目されるのは'この話題にはじめ
て作品名が加わっていることだ。これについて考えるため
には'杜甫の
「寄李十二日二十韻」詩に戻らなければなら
ない。それは詞仙人命名をいう杜詩冒頭二句に績いて
「筆
落つれば風雨を驚かし、詩成-て鬼神を泣かしむ」と述べ
られていたところである。ここは'賀知章による涌仙人の
呼稀をき
っかけに、李白の一気吋成の'柵に入った創作ぶ
-が話題となって、有名になってゆ-tという文脈で謹ん
だ。しかし、この蒋俸正の記述に擦れば、この二句がその
まま賀知章の聾吉の内容として括弧で括られねばならない
ことになる。ふたとお-の取-方はいずれも可能であ-、
いずれと決する決め手があるわけではない。しかし、これ
書
評
は名作
「烏棲曲」をめぐって生じた話題であると考えたい。
箔俸正は、杜詩から生じた話題を'そこに書き留めている
のであろう、と。この苑俸正の文章が興味深いのは'彼の
出生が李白とは
「甲子相懸た-」ながらも'たまたま父の
文集中に李白と唱和した詩を見
つけて、これは
「通家の
奮」だと親近感をおぼえ、そこで人間よ-彼の遺篇逸句を
拾いつねづね口ずさんでいた'という詩人と作品に酎する
意識や行動が記されている鮎である。李白没後五十年の昔
時、この半世紀という時間は'そのひとが確かに賓在した
ということをまだかろうじて賓感できる時ではあっただろ
うが、苑俸正はそのうえに自分の知
っている肉親の思い出
を重ねて'李白を思い描くことができたのであろう。
このあと曾昌三年
(八四三)に書かれた装敬
「翰林学士
李公墓碑」にも涌仙人の話は記される。そこでは李白の墓
にたち寄
った彼がその才を愛でて墓碑を作る旨が述べられ
たあと、詩人のひととなりについて、常人と異なるのは
「或は日-、太白の精
下降す、故に字は太白な-と。故
に賀監渡して詞仙と為すは'其れ然らざらんや」と'太白
![Page 39: Title [書評] 松本肇著「唐宋の文學」 中國文學報 (2001), 62: 97 …repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/177869/1/cbh0… · Title [書評] 松本肇著「唐宋の文學」](https://reader034.fdocuments.in/reader034/viewer/2022052014/602c1eb71f54475a21086c8d/html5/thumbnails/39.jpg)
中国文筆報
第六十二冊
の精が降
ったものだからとして、滴仙人の話へと繋げられ、
その呼稀もも
っともだと括られる。ここでは詩から感じら
れる
「天上物外に在-て'神仙曾集'雲行鶴駕'瓢然の状
を想見するが若き」印象にしたがって、その詩人像が形成
されるようだ。
以上のような段階を経て、冒頭の
『本事詩』の話となる。
鑑にお気、づきのことかと思うが'ここまでの記述に
「萄遭
難」は出てこない。光啓二年
(八八六)の序をもつ首書に'
はじめてこの作品は登場し'重要な役割を果たすことにな
る。
やど
李太白'初めて萄より京師に至-'逆旗に
舎
る
。賀監
はじ
知章、其の名を聞き'首めて之を訪う。奴に其の姿を奇
とLt復た為る所の文を請う。萄道難を出し以て之に示
す。讃みて未だ尭らざるに'稀歎すること教四'壊して
涌仙と為す。金魚を解き酒に換え'輿に傾けて醇を蓋-
まじ̀
す。期するに日を聞えず。是に由りて稀替光赫た-。賀'
又た其の烏棲曲を見、歎賞苦吟して日く'此の詩は以て
鬼神を泣かしむ可Lと。故に杜子美
詩を贈-て蔦に及
べ-0
箔博正の墓碑序から七十年'蓑敬の墓碑からは四十徐年
の年月を経て'この記述のなかでは'苑俸正が感じること
ができた詩人の賓在感は鑑に抜け落ち'その代わりにと言
うべきか'事柄のディテールにさまざまな説明が加えられ
ているのを見ることができる。その最大のものは'涌仙人
の呼稀にさきだって、賀知章に
「萄遭難」を謹ませている
鮎である。そもそも最初の話はどのようなものであったか。
李白本人の記述に戻
ってみる。彼は'賀知章が
「余を
一見
Lt余を呼んで詞仙人と為す」と述べていた。この話は'
後漢以来の人物評論に端を費する'あるひとが世に出よう
とする際に有力者の鑑定を得て'その評語が滑乗の出世に
おおき-開輿する風習を思わせる。鑑定の妙味は'それが
瞬時に行われ、しかも本人にぴった-の評語にあらわされ
るところにあった。またそれがゆえに風乗というものは'
- 134-
![Page 40: Title [書評] 松本肇著「唐宋の文學」 中國文學報 (2001), 62: 97 …repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/177869/1/cbh0… · Title [書評] 松本肇著「唐宋の文學」](https://reader034.fdocuments.in/reader034/viewer/2022052014/602c1eb71f54475a21086c8d/html5/thumbnails/40.jpg)
われわれが思う以上に重要な債値をもっていた。王堵
「文
人輿薬」(『中古文人生活』上海実株出版社'一九五T、『中古文
学史論集』上海古典文筆出版社へ一九五六'『中古文筆史論』北
京大学出版社'1九八六)には'後漢の郭泰や許勅の話をは
じめとする多数の事例とともに'このことが詳述されてい
る。また曹操が許勅に
「治世の能臣'乱世の姦雄」(『三国
志』巻
1「武帝紀」斐注引孫盛異同難語)と許された話などは'
この人物評の最もよ-知られた例であろう。王滝によると、
この風は六朝時代を通じて行われていたというが、いまこ
の李白の例を見ると'なお唐代にまで息づいているようだ。
その風が賓際に行われているということと、それを語る話
の型がなお存積しているというふたつの意味において。
それでは
「滴仙人」という名づけの意味についてすこし
考えてみよう。これを
「仙人のようだ」と言ったらご-午
凡な名である。「誠」それ自鰹はよ-ない意味の語である
が'神仙世界からの流滴であるとして
「仙人」に冠するこ
とにより、仙界の無上の債値とあわきって'われわれ人間
の側からすれば慣値的なことば
「滴仙人」に特化したもの
書
評
である。人間であ-ながら'本来は仙人であるtと目には
見えない債値を身に纏ったことを、ここで李白はよろこん
だわけだ。それは紳仙界からみれば不本意な'反債値的な
名であるが、人間界に轄ずれば
「すねにきずをもつ」のが
素性の諾Lでもあ-却
って動章にもなって'かつ仙界の
「わる」の匂いも漂わす。「天上から落ちてきた男」とは
確かにかっこうがいい。この意味の重層性は、例えば、こ
れをきっかけとして'天上から放逐された李白が'人間界
では、これまた神仙世界にしばしば模される宮廷に、逆に
召し抱えられるようなことにもなってゆくtというところ
にまで及んでいる。さらに言えば、宮廷に入った李白が同
僚の議言によって放遺され'人間界でもおなじ憂き目にあ
うというような
「おち」までついて。ときはあたかも唐王
室自憶が老子を租として'みずからを道教の神々の系園に
組み入れようと董策していた時代である。開元年間の終わ
-にかけては
『道徳経』の御注御疏が完成し頒示され'開
元二十九年
(七四1)には西京
・東京
・天下諸郡に玄元皇
帝廟が設けられる。同年'玄宗皇帝自身の夢のなかにあら
135
![Page 41: Title [書評] 松本肇著「唐宋の文學」 中國文學報 (2001), 62: 97 …repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/177869/1/cbh0… · Title [書評] 松本肇著「唐宋の文學」](https://reader034.fdocuments.in/reader034/viewer/2022052014/602c1eb71f54475a21086c8d/html5/thumbnails/41.jpg)
中国文学報
第六十二筋
われた老子の玉像が模観山間よ-出土し、明-る天賓元年
(七四二)には田同秀なるものによって玄元皇帝の降臨が
幻視され'その言のとお-函谷散開の平喜董よ-蛋符が尊
兄される'というようなことが起こる。このように世を挙
げて玄宗の道教信仰から生じた幻想
へと投じてゆ-熱い雰
囲気のなかで、「滴仙人」の名があたえられたことを考え
ると、李白のよろこびようもいかばかりであったか。しか
しそれにしてもなぜ賀知章はわざわざ
「滴仙人」というこ
とばをとっさに選んだのであろうか。「詞」ということば
がどうもひっかかる。これについては李白の漂わせる雰囲
気が開輿しているに違いないが'ここで思いあたるのは、
李白の家系をめぐって'先租が
「罪に非ずして'修支に涌
居」したという'李陽泳
「草堂集序」の記述である。家族
が
「紳龍の始め
(七〇五)、局に逃蹄」したとき'李白は鑑
に出生していたとみられ、すなわち自身の記憶にはな-と
も'遠-おそらくは危険な族をして萄に流れ着いた家庭の
雰囲気というものは'幼少時の李白の人格形成におおきな
影響を及ぼしたであろう。「罪に非ず」と言うもののそれ
は何らかのとがであるに相違な-'いずれにしても遠地に
「摘居」した、この家系の
「きず」が'李白本人の意識に'
そして風貌にも纏われていたのではなかろうか、と想像す
る。その負の刻印をとらえ'瞬時に翻してよい意味に縛じ
たとしたら、賀知章の感覚が抜群であったことになる。李
白のよろこびも'自分の存在が認められ'宿年の劣等感が
捕われたからこその歓喜ではなかったか。「詞仙人」とい
う語は'「妃諭された仙人」という観念とともに既に六朝
時代よ-あ-'李白の例が最初であったわけでは決してな
いが、このように見て-ると'まさに李白のために用意さ
れたかのような呼稀であ-'のちに
「詞仙人」といえばこ
の事例をまず思い起こすことになるのも合鮎がいこう。
ともか-、この賀知章の呼稀は、そのひとの美質を言う'
人物評論のオーソドックスなあ-方ではな-、規格にはず
れていることを言うもうひとつの方向においてなされたも
のであ-、それが逆に仕官に結びつくというように撃化を
遂げながらへ語-つがれることとなった。李白本人のテキ
スーと、杜甫以降のテキストとの間には'事柄のみを記す
Jjd
![Page 42: Title [書評] 松本肇著「唐宋の文學」 中國文學報 (2001), 62: 97 …repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/177869/1/cbh0… · Title [書評] 松本肇著「唐宋の文學」](https://reader034.fdocuments.in/reader034/viewer/2022052014/602c1eb71f54475a21086c8d/html5/thumbnails/42.jpg)
のとその文服を用意するのと、ひとつの断層があるかに見
えたが'じつは杜甫もよ-古い物語のコンテクスーによ-
つつ書いていたことになる。杜甫のテキストが事案を忠賓
に俸えていたと考えるのはわれわれの思いこみであ
って'
杜甫が倦えているのはこうした物語の枠組みをとおして見
える、ある物事の見え方であるへということになろうか。
この
『本事詩』の話が妙に気が抜けているのは、そのひ
との能力を瞬時に観'資質を言いあてるという、人物鑑定
の妙味が作品を介在させることでだいなしになったためで
あるがtでは賀知章に
「萄遭難」を謹ませる話が付け加え
られることによって、どのような新たな意味を話に加える
ことになるのか。有力者に詩が投ぜられるのは、就職の事
前運動として作品を献呈する
「行巻」の風習を思わせる。
科挙の受験者はあらかじめ自作を
一巻にまとめて'合格の
可能性をたかめるため、ときの有力者に投ずることが行わ
れた。この
「行巻」の風習については'程千帆
『唐代進士
行巻輿文学』(上海古籍出版社、一九八〇)に詳し-述べられ
ている。とすると'人材の登用にあたって風栄や評判を基
書
評
準にするのと、詩や文における才能を重んじるのと'話の
讃解にあたってこの百数十年の間に断層が生じている。こ
れは融合構造やひとびとの意識において起こった撃化と関
係、づけられるものかどうか。ことはそんなに単純なもので
もあるまいが。さてそれでは'ここに関係づけられるのが'
他の作品ではな-て、どうして
「萄遭難」でなければなら
ないのか、考えてみる。これについては、同時代の
『河岳
英塞集』に
「萄道難等の篇の如きに至
っては、奇の又た奇
と謂う可し」と挙げるのによっても、代表作としてよ-知
られていたことが大前提となるが、そのうえでこの詩の含
意がおおき-開輿している。含意というのは'葛の地
へ功
名を求めて旅立
つひとへ'そのむずかしさを道中の険難な
地勢にたとえて一軍っもので、楽府題の歴史をたどれば'陳
なん
の陰鐙が
「萄道の難きは此の如し'功名は
諺
ぞ
要む可けん
や」(「萄遭難」)と述べるのによっても、また李自作の解樺
をめぐ
つては中庸の挑合が
「李白
萄道難し'蓋て為す成
る無-して締るを」(「迭李鎗及第韓萄」)と、李白の生平を
それと封照的ないまの友人の境遇に比して述べるのによっ
137
![Page 43: Title [書評] 松本肇著「唐宋の文學」 中國文學報 (2001), 62: 97 …repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/177869/1/cbh0… · Title [書評] 松本肇著「唐宋の文學」](https://reader034.fdocuments.in/reader034/viewer/2022052014/602c1eb71f54475a21086c8d/html5/thumbnails/43.jpg)
中国文学報
第六十二冊
ても'これが常時のひとびとの共通認識であ
ったことがわ
かる。道行きのうたが人生行路の困難さの比愉であるとい
う認識は'楽府
「行路難」をはじめ古い時代から文学俸続
のなかに息づいていた。とすると、この人生における出世
の得難さを嘆いたtとされる作品
「萄遭難」がこの場に組
みこまれることで'それが有力者の承認によって'彼の賓
人生において逆に作品に書かれた状況自性を乗-越えさせ
るき
っかけともなるtという逆説的な展開をもたらすこと
になる。そうした面白みを物語に添えている。このような
話の展開に鷹じて'「初めて萄よ-京師に至-、逆族に舎
る」と'故郷の苛からはじめて長安に出てきたばか-であ
ると状況設定が行われ'常初の布衣のさまを際だたせ、の
ち
一樽して葉巻を得るはなばなしさが演出されるのが見て
とれる。賓際には、この天質時の上京が李白にと
って最初
のものでな-、これ以前に都を訪れていたことは確かであ
-'「萄よ-」とあるのも含めて'ここに言われるのは話
の脚色にすぎない。
作品が組みこまれたあと'その含意にしたがって話が潤
色されてゆ-様子は'このあと五代の
『唐放言』において
よ-穀かである。そこでは
「李太白、始めて西萄よ-京に
至-'名
甚だし-は振わず。因-て業とする所を以て賀
知章に賛謁す。知章、萄道難
1篇を寛て'眉を揚げこれに
謂て日-'公は人世の人には非ず、是れ太白星の精ならざ
る可きゃ」と、葛から出てきた詩人の不遇が
「名
甚だし
-は振わず」とことばに表され、また
『本事詩』で賀知章
から訪ねたとしていたのを、みずから手みやげを持参して
訪れ'作品をさし出したと改めている。「眉を揚げ」驚い
たという措寓も脚色の痕があらわである。『本事詩』の李
白に除裕があったのに比べると、こちらはみずから不遇の
状況を切-開いてゆこうとするふうであ-'なにやら科挙
の受験生めいているのは、編者の王走保が唐末の進士で'
この書が唐
1代の貢拳のことを細か-記載するのと関係が
あろう。さらに元の
『唐才子博』では
「天賓初'萄よ-長
安に至-、道いまだ振わず、業とする所を以て賀知章に投
ず。謹みて萄遭難に至-'歎じて日-'子は涌仙人な-と。
乃ち金亀を解き酒に換え、終日相い楽しみ'遂に玄宗に薦
138
![Page 44: Title [書評] 松本肇著「唐宋の文學」 中國文學報 (2001), 62: 97 …repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/177869/1/cbh0… · Title [書評] 松本肇著「唐宋の文學」](https://reader034.fdocuments.in/reader034/viewer/2022052014/602c1eb71f54475a21086c8d/html5/thumbnails/44.jpg)
めらる」と、『本事詩』の話の配列にしたがって'ところ
どころ書き方は
『唐披言』のを抄
っている。問題の箇所に
ついて言えば、『本事詩』では賀知章から
「為る所の文を
請う」とあ
ったのが'『唐妖言』では
「困-て業とする所
を以て賀知章に賛謁す」と愛化し、いままた
「業とする所
を以て賀知章に投ず」と、遂に
「行巻」の自作を投ずる行
為が言われることとな
った。しかも
「讃みて萄遭難に至
-」とあるように'賀知章が謹んでいるのはよ-ながい編
纂物だということが明らかになっている。また
「天賓初
--遂に玄宗に薦めらる」と、事柄の起こった時期やこと
の顛末などについての説明が首尾に加えられているのに気
がつ-が'これは奴に
『新唐書』に記してあったのを承け
ていよう。
以上で李白滴仙人の話は終わりである。われわれはこの
考察をとおしてどのような教訓を導き出すことができるの
か。いま二鮎にしぼってすこし考えをまとめておくことに
したい。書
評
ひとつは'この考察を始めるにあたって最初に立てた問
題の立て方をめぐ
って。「ある話が、もとをたどれば事賓
ではないことが多い」とLT事案でない場合
「なぜそのよ
うな要素が話のなかに入って-るのか」と考えていった。
しかし、考察をとおして直面したのは、そもそものもとに
なる
「事案」とは'いったいどのようなものであるかtと
いうことだ。この話のもとになっているのはう賀知章が李
白を滴仙人と呼んだ、ということである。確かにそのよう
なことがあったのであろう。しかしそれは、確かにそのよ
うなことがあったのであろう、という以上の意味をもたな
い。というのも、考察の過程であきらかになってきたよう
に、賀知章が名をあたえたのも'李白が名を得てよろこん
だのも、鑑に備わっていた人物鑑定をめぐる風習にしたが
ったまでのことであ-'さらに言えば人物鑑定をめぐる物
語をまたみずからの役割にしたがって演じているに過ぎな
いtと捉えることができるからだ.つまり、鑑にある話に
したがって、新たなふるまいがなされ'またそれを記す仕
方もおなじ話の型によっている。それをさらに他者の日で
- 139-
![Page 45: Title [書評] 松本肇著「唐宋の文學」 中國文學報 (2001), 62: 97 …repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/177869/1/cbh0… · Title [書評] 松本肇著「唐宋の文學」](https://reader034.fdocuments.in/reader034/viewer/2022052014/602c1eb71f54475a21086c8d/html5/thumbnails/45.jpg)
中囲文筆報
第六十二筋
記録する杜甫の記述。貌寮、苑俸正というように。幾重に
も重ねられてゆ-。とすると最初にあるのは事柄ではな-'
物語のほうではなかろうか。と、このように言うこともで
きる。辛苦と物語のあいだというのは、じつに微妙なもの
だ。も
うひとつは、この考察のテーマである'作者と作品の
関係をめぐ
って。正確には'「作者と作品の関係」という
問題をどのように扱うべきか、ということについてである。
というのも'ここに扱
った事例では、作品は後から関係づ
けられただけで'つまるところ話に登場する作者とは'そ
の場面において本来かかわ-がなかった。作品のほうに中
心をおけば'その作品の制作状況を説明する材料として、
鑑にある'まった-関係のない話が用いられた。たまたま
作者本人にまで記述を遡ることができたことによって'以
上のようなことがあきらかになったわけであるが'これが
ひとつの事例に過ぎず、作品と作者を結びつける話は、賓
際にはよ-多-のさまざまな場合が想定されるであろうと
はいえ'おなじように、いずれ後代の謹み手のさまざまな
意識を纏いつつ現在われわれの目にする資料のなかにある
ことは確かである。作者と作品の関係を、後饗の資料によ
りつつ'話のなかの関係そのままに受け取
ってわれわれが
考えるとしたら、また話に纏わる徐剰物に無関心であると
したら'それは軽率のそし-を免れまい。そこに言われて
いるのは作者と作品の
「か-そめの」関係である、という
ことをもういちど確認する必要がある。
われわれが作品を謹んで直接把握することになる作者'
われわれが作品そのものから感受する作者、これを藁の意
味での
「作品と作者の関係」と考えよう。そうすることに
よって、作品のまわりに纏わ-ついていたさまざまな付属
物から'いったん自由になろう。これら付属物が'それ自
佳われわれから観れば非常に古い時代のものに属し'古い
こと、作者の時代に近いことに慣値があるとのみ考えるの
は、ひとまずやめにしておこう。それによって'後の資料
の
「誤謬」を異に受ける'晃の意味での
「誤謬」をひとま
ず避けることにしよう。しかしこう言
ったとたんに'次の
ような聾も聞こえてきそうである。なるほど、後出の資料
ー 140-
![Page 46: Title [書評] 松本肇著「唐宋の文學」 中國文學報 (2001), 62: 97 …repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/177869/1/cbh0… · Title [書評] 松本肇著「唐宋の文學」](https://reader034.fdocuments.in/reader034/viewer/2022052014/602c1eb71f54475a21086c8d/html5/thumbnails/46.jpg)
における作品の作者との関係は'場合によって
「控遷され
た」ものである。とはいえ'それを考えた昔時の讃者は'
どう考えていたか。彼らな-に、作品から作者の
「異の」
姿を思い浮かべたのではないかと。確かに、そうすると、
彼らが作品から作者を思い浮かべたのと'いま提案したよ
うに、われわれが作品から作者を思い浮かべるのと'そこ
に本質的な差異を認めることができるであろうか。
ここで次のようなことに思いあたる。われわれは作品か
ら作者について思いを致す際、具鰹的な、李白や杜甫とい
った'特有のキャラクターをともなった作者像を思い描か
ざるをえないようになっているのだと。われわれは作品を
謹む際に'それを書いたのが誰であるか'知らない詩人で
あればいま謹む作品によって作者像をもとうとし、知
った
詩人であれば、鑑に知
っている作者像にしたがって作品を
謹みすすめ、新たな壁化を付け加えようとする。したがっ
て'作者の名の放けた作品を前にしたとき、言いようのな
い不安に駆られる。しかし考えてみれば、このような作者
と作品の関係は'詩歌の歴史が起こったはじめからのこと
書
評
ではないし、そもそも
『詩』がはじめうたわれていたよう
に、また五言詩のもととなった漠代の歌謡がうたわれてい
たように'原初的な形態は特定のだれかのものでない、も
しくはだれのものでもある感情がうたわれたものであ
った。
建安詩人によって、このうたの形式が取-あげられ'自身
の抱負を天下国家の問題とからめて述べる語-方が試みら
れて以降、作品と作者が密に結びついた書き方、謹み方が
次第に定着してゆ-のだと。われわれが作品から導かれる
作者というものを'具腰的な、特有のキャラクターをも
っ
た、ひとりの人間の像として思い描-や-方でしか'テ
キ
ストの外に外在化された形象としてしか考えられないとす
れば、それはわれわれ自身がこの建安以降の中国古典詩の
書き方にあま-に探-浸りすぎているからではあるまいか。
「古楽府」と呼ばれるはじま-のかたちにおいて、「作者」
はもちろんこのようなわれわれの習慣によっては捉えられ
ず'物語の
「語-手」やそれがうたわれていたとすれば
「歌い手」と呼ばれることになろう。これと'作品のなか
に出て-る族人や兵士との関係はどのようなものであろう
141
![Page 47: Title [書評] 松本肇著「唐宋の文學」 中國文學報 (2001), 62: 97 …repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/177869/1/cbh0… · Title [書評] 松本肇著「唐宋の文學」](https://reader034.fdocuments.in/reader034/viewer/2022052014/602c1eb71f54475a21086c8d/html5/thumbnails/47.jpg)
中国文学報
第六十二冊
か。「古詩十九首」のような作品においては'またこれと
異な
って'人生の短さを嘆き'その解決に向けての思考が
あらわれていたが'他とは違うその特有の思惟をなす圭鰹
として
「作者」は捉えられなければならないだろう。いま
評者はこのような考えの端緒にいた
ったばか-であ-、提
示した問題に充分な説明をあたえる準備があるわけではな
いが'「作者と作品の関係」を中国古典詩にふさわしい仕
方で論ずるのであれば'作者をテキストの外にではな-'
内在するものとしてみる'このような硯鮎は放かせないで
あろうと思う次第をへと-あえず述べたまでである。これ
によってどのような新たな中国古典詩の見え方が提示でき
るかはういまは多言をもちいず'来るべき機合を期して、
もうすこし考えてみることにしたい。
(乾
源俊)
五
「古文の修辞学」-
欧陽情の場合-
欧陽情の古文
への志向が'少年期における韓愈の尊兄に
端を鷺するものであることは'その日博的叙述のなかに明
白に語られている
(「記者本韓文後」、『外集』巻二三)0
韓愈の文章に鯖饗を受け'欧陽修が目指したものは'ま
ずは文鰹の襲革であ
った。昔時通行の形式的美文
「時文」
に封する嫌悪は、「古文」
への希求と表裏をなして'これ
もまた彼の文集の随所に言及されている。小論で考えてみ
たいことは'文章表現という営みにおける文腰のも
つ意味、
と-に欧陽情による
「古文」という文健の選樺と彼の表現
営為との関わりについてである.
周知のとお-
「時文」は'
1句あた-四字もし-は六字
という
〓疋の字数、二句ひと-みでの封偶構成という形式
的規制を有する。そしてこうした規制は用語の遥拝にも影
響を及ぼす。それはおおむね古典に由来する文学語蓑であ
-、依摸した古典にもとづ-
〓疋の喚起性は期待されるも
のの'習用による槌色は避けられず'指節
・用語ともども'
おお-は美的緊張感を喪
って株式化する。
これに封し
「古文」は、右のような規制からは自由なス
タイルとされる。そしてその表現形態の自由さは'と-あ
えず多様な表現の可能性につながるものであ
ったと想像さ
- 142-
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れる。事青、以下に見てゆ-ように欧陽修の表現営為は'
「文」の可能性に封するおよそ病的といってよいまでの執
着の様相を呈する。
中国の文章史のうえで'欧陽情ほどその表現営為の
「過
程」に関心を寄せられた表現者はいないであろう。われわ
れが文学作品として目にするもののほとんどは、表現営為
の結果としてのこされた最後のかたちなのだが、欧陽傭自
身の文章と'それを受容したひとびとが蓉した様々な言説
の双方に'彼の表現の
「過程」が露出しているように思わ
れる。具鰭的には次のようなことである。
ひとつには韓愈の表現に封する踏襲
・模擬、あるいは両
者の類似について。「古文」の再興という観鮎からすれば、
このことは異とするに足-ないかも知れないが'やはり少
なからぬ人々の注意を引いたようである。
たとえば南末の孫変の
『(履斎)示鬼編』(巻七
「租述文
意」)は'欧陽情が韓愈の文章に学んだことを指摘したう
えで、欧陽修の
「本論」が韓愈の
「原道」に、「上苑司諌
書」が
「諌臣論」に'「書梅聖愈詩稿」が
「迭孟東野序」
書
評
に'さらに
「縦囚論」「怪竹耕」が
「原人」に似ていると
Lt同じ-陳善の
『刑乳新話』(巻六
「欧文多擬韓作」)はこ
のほかに、「祭具長史文」と
「祭醇中丞文」'「弔石畳卿文」
と
「祭田横墓文」の類似を指摘している。
洪遇もまた'韓愈の
「盤谷序」の
「宋於山'美可茄'釣
於水、鮮可食」と、欧陽幡
「酵素亭記」の
「臨渓而漁'渓
深而魚肥'--山毅野萩'雑然而前陳」を封比Lt「欧陽
修の文勢は大よそ韓の語を化せるな-'然れども--煩簡
ひと
工夫は則ち
倖
L
からざる有り」とtより局所的な部位なが
ら'両者の表現を具鰹的に挙げ'その類似と繁簡の相違に
注意を喚起する
(『容斎三筆』巻二
「韓欧文語」)0
ここでは時代は降るが明
・孫緒の指摘を見ておこう。
欧陽公序梅聖余日'「聖命日以其不得志者葉子詩而蓉
之、便其得用於朝廷'作為雅頒'以歌詠大宋之功徳、呈
不偉哉」。此等語意'全是撃昌泰
「迭孟東野序」所謂
「窮而在下着、孟郊東野始以其詩名へ抑不知天格和其聾'
而便鳴国家之盛耶、抑牌窮餓其身'思愁其心腸、而使自
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中国文学報
第六十二筋
鳴其不幸耶」。欧公国非踏襲劉窃入着'想其讃韓文熟、
不日知其鵠用耳。(『沙渓集』巻一三、雑著、「無用閑談」)
欧陽公は梅聖命の詩稿に序して'「聖命は自らの不遇
の思いをすすんで詩に覆した。これがもし朝廷に用いら
れ'雅や煩を作り'わが大末の偉大さを歌いあげていた
ならば'どれだけ素晴らしいことであったろうか」と。
これはすべて韓昌黍
「孟東野を送る序」の
「窮して下に
いるものでは孟郊'字東野が'はじめてその詩によって
名誉をえた。いったい天はその歌聾に調和をもたらし'
囲家の繁条をうたわせるのであろうか。それともその身
を窮乏させ'その心を憂いに沈ませて、みずからの不幸
をうたわせるのであろうか」に学んだものである。もと
よ-欧陽公は踏襲
・剰窃をよしとするような人ではない。
きっと自ら気づかぬうちにその表現を用いるほど、韓文
に習熟していたということであろう。
欧陽傭
「梅聖愈詩集序」(『居士集』巻四二)と韓愈の
「迭
孟東野序」(『韓昌泰文集』巻一九)は'ともに豊かな詩才を
抱きながら不遇であった
(あるいは不遇にある)友人'梅
尭臣、孟郊について述べた文であるが'彼らの詩をその境
遇が反映したものととらえ、国家隆盛の詣歌にふた-の詩
才が畿拝されるべき理想
(もし-は可能性)を語るところ'
そしてそれが叶えられない硯賓に封する詠嘆をにじませる
鮎など、たしかに両者には否定Lがたい共通性がみとめら
れる。
ただ、陳善が韓欧両者の類似について、「蓋し其の歩深
馳験は亦た似ざる無きも、但だ其の句語に倣いしのみに非
ず」(『刑乳新話』)とコメントするように'両者の用語
・措
辞そのものは必ずしも同
一ではない。興味深いのは'素材
の選揮'モチーフの構成'論の運びといった、表現を深盾
で支える要素'すなわち馨想や思考の
「かたち」の共通性
に目がとまることである。音数律や対偶などの表面的形式
が剥離されたため'かえ
ってよ-深層の形式が浮かび上が
ったというべきか。
欧陽修の表現営為について'いまひとつ注目すべきこと
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は'その堆敵
・改蟹についてである。最もよ-知られるの
は
「酔翁亭記」(『居士集』巻三九)に関する次のエピソード
であろう。
欧公文亦多是修改到妙庭。頃有人買得他
「醇翁亭記」
藁。初説
「源州四面有山」'凡数十字。末後改定'只日'
「環源皆山也」五字而己。(『朱子語類』巻一三九)
欧公の文章の多-は、手直しを経て素晴らしいものに
なったのであるo先頃ある人が
「酔易亭記」の原稿を手
に入れたところ、はじめは
「催州の四面に山有-」以下
数十字であ
ったものが'最後には
「源を還-て皆山な
り」のわずか五字に改められていた。
周必大もまた前輩の言として'欧陽修がその文章を壁に
かけておき朝夕に改訂をほどこしたことを紹介し、それゆ
え俸乗のテクストや手帖に文字の異同が多々みられると述
べる
(「欧陽文忠公集践」).「三上
(馬上、枕上、席上)」
書
評
(『掃出録』)、「三多
(多看'多倣、多商量)」(『後山詩話』)
の話柄にもうかがえるように'欧陽修の文章制作における
刻苦は、昔時の人々に贋-浸透していたようだ。
「酔纂亭記」の話題において注意してお-べきは、最初
の敷十字が修改の結果、最後には五字に縮約されたこと。
すなわち修改の過程が用字の塵鮪と重ねられている鮎であ
る。少ない言語容量によ-多-の情報を盛-込むことが必
ずしも名文の修件ではなかろうが、少な-ともここでは'
「環源菅山也」の五字が'それ以前の敦十字に匹敵する情
報を停達し'そのうえでよ-簡省な表現た-得ていること
を
「妙虞」と評慣している。さきにみた洪遇も'韓愈と欧
陽修の類似した表現の繁簡の相違に目をとめていた。
欧陽修自身にとっても、言語表現の経済性が文を作る営
みにおいて一定の位置を占めていたことは'たとえば
「進
新修唐書表」(『表奏書啓四六集』巻二)に'『奮唐書』に封
する
『新唐音』の利鮎を挙げて'「其の事は則ち前よ-増
し、其の文は則ち善よ-省-」と述べることばにうかがわ
れる。馬が犬を蹴-殺したという同
1の事態を'同僚が
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中国文学報
第六十二筋
「有夫臥於通衝'逸馬蹄而殺之」と表現したのに封し、そ
の冗漫さを否定して
「逸馬殺犬於道」としたというエピ
ソード
(宋・畢仲絢
『帳府燕開銀』)が侍えるものもまた、欧
陽修の簡省への志向と'それを彼の表現の特質の1つとと
らえた讃者たちの認識であろう。
さきに欧陽情の表現営為の
「過程」の露出について梱れ
た.いま友人ヂ珠に手向けられた
「軍師魯墓誌」について、
その表現の過程そのものを自ら解説してみせた希有な作品、
「論ヂ師魯墓誌」(『外集』巻二三)の冒頭の
一節を見てお
こう。誌
言、「天下之人'識輿不識'皆知師魯文学議論材能」。
則文学之長'議論之高、材能之美'不言可知。
又恐太略、
改修析其事'再述於後。述其文'則日
「簡而有法」。此
一句、在孔子六経'惟春秋可首之。其他経非孔子自作文
章。政雄有法'而不簡也。修於師魯之文不薄夫。而世之
無識者'不考文之軽重、但責言之多少'云
「師魯文章不
合砥著
1句造了」
。
墓誌には
「天下の人は、彼を直接に識る者か否かを問
わず、みな師魯の文学
・議論
・才能を知っている」と書
いた。これで師魯のすぐれた文章
・学問、議論の高遇さ'
才能のすぼらしさは、言わな-ても分かるはずだ。ただ
簡略に過ぎることを恐れ'その言わんとしたところを候
節ごとにことわけて説明しておいた。まず師魯の文章に
ついて
「筒にして法有り」と述べた。「簡にして法有-」
とは、孔子の六経のうちでは'ただ春秋のみがこれに昔
てはまる。その他の経書は孔子が自ら書いた文章ではな
いので、「法」は備わってはいるが
「簡」ではないので
ある。わたしは師魯の文章については深-理解している
つも-だ。ところが世間の見識のない連中は'表現に込
められた意味の重さ
(「文之軽重」)を省みずに'ただこ
とばの量
(「言之多少」)のみを責めたて、師魯の文章は
ただこの一句のみでは言い蓋-せないなどという。
ここでは
「文之軽重」と
「言之多少」が野比され'前者
と後者の相関関係から
「言之少」が
「文之重」によって補
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償されると述べる。ここにもまたと-あえずは、言語の表
現
・博達機能が維持される限り'よ-簡省な表現をよしと
するみかたが謹み取られよう。
欧陽情の文章をめぐるこうした言説をみるとき'欧陽傭'
そして彼の読者たちの意識のなかに共通して、表現を
コンテンツ
フオーム
「内
容
」
と「形
式
」
に分けてとらえる二元論的な言語観
が見出されるように思う。欧陽修のことばを用いるならば'
先にも引いた
「其の事は則ち前よ-増し'其の文は則ち奮
よ-省-」(「進新修唐音表」)の
「事」と
「文」がこれに相
普しょうか。このことは同
一の
「内容」が複数の相異なっ
た
「形式」をと-うるという認識に基づ-。すなわち語る
べき
「内容」をよ-よ-博える
「形式」の模索が文章制作
の課題として位置づけられる。
こうした
「何
(内容)」と
「何如
(形式)」の闘わ-'あ
るいは
「内容」とそれに野療する
「表現」の繁簡について
は'賓のところ
『春秋』以来、中国の歴史叙述の要諦とし
て議論されてきたところであった。たとえば劉親は、「故
に春秋は
1字を以て褒乾し、喪服は軽きを挙げて以て重き
書
評
を包む。此れ言を簡にして以て旨を達するな-。鄭詩は章
を聯ねて以て句を積み'儒行は説を糎にして以て餅を繁に
す。--故に知る繁略は形を殊にLt隠顕は術を異にする
も'抑引して時に随い'愛通して合に適するを」(『文心離
龍』「徴聖」)と。また唐の劉知幾は'「夫れ国史の美なるも
たくみ
のは叙事を以て
工
と
為し、叙事の工なるものは簡要を以
つづまやか
て圭と為す。筒の時義は大なるかな。--文
約
に
して
事の豊かなる。此れ述作の尤も美なるものな-」(『史通』
「叙事」)と。
右に挙げた二例はいずれも併催文の書き手による嘗吉で
あ-、となれば
「事」と
「文」の繁簡の按配は'文髄の何
如を問わず'まずは文章表現における課題のひとつであっ
たとみとめられる。ただ'「古文」の選樺によって得られ
た、音数律等の形態的規制からの自由は'簡省な表現への
志向をよ-先鋭化させたことは否定できないように思う。
封偶という形式のよってきたる所について劉親は、「造
さす
化の形を朕-るや、支健は必ず双な-。紳理の用を為すや、
めぐ
た
事は孤立せず。夫れ心に文辞生じ'百慮を
遅
ら
し裁
つに'
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中国文学報
第六十二筋
ま
高下は相須ち'
自然に封を成す」(『文心願龍』「麗辞」)と。
すなわち、野偶は表現以前にすでに自然のものであ-、認
識
・蔑想と文章表現のかたちが
一致したとき'おのずと封
偶の形式が馨現すると述べる。文髄を認識の枠組みとする
このような考えを肯定するならば'断文と異なる新たな文
倦
「古文」の選樺は'認識のありかたの饗化を映すものに
他ならず'表現の営みはそれを盛-込む新たな
「かたち」
の模索ということになるであろう
(-
なおここで
「かた
ち」というのは'言節の形態にとどまらない'よ-深層の
形式を指していう)
。
形態的規制を取り去った新たな
「かたち」は'まずは多
様な表現の可能性を想像させる。たとえば欧陽修は、詩や
詩人にまつわる逸話を語るジャンルとして
「詩話」を創始
したことで知られるが、登場人物の語ることばを話柄のな
かに多-と-いれつつ、士大夫暦の話題交換の場を活菊Lt
さらにはテクストそれ自鰭として'欧陽修が聞き手に語-
かける
「話」を再現するそのスタイルは'「古文」の選樺
によって獲得された新しい表現の領域といってよい。
いっほう
「かたち」とは'そもそも規制と不可分のもの
でもある。選樺と配置によって形作られる
「かたち」には'
自ずとその
「かたち」を律し整える
「法」への志向が伴う
はずだ。「事」と
「文」の繁簡に封する欧陽修の過敏なま
での関心は'そうした新たな
「かたち」の追究
・模索が'
見やすいかたちで露出したものに他なるまい。
ただ新しい
「法」の模索が単純に
「言之多少」に還元さ
れるようなものではないことは'欧陽修自身によっても十
分に認識されていた。先の
「論ヂ師魯墓誌」に見た
「文」
の
「軽重」という要素は、「言」の
「多少」のように数値
的にたやす-把捉されるものではない。自作解説という前
例を見ない手だてをとってまで語-たかったことは'おそ
ら-はこの間題の複雑さであろう。
同時に目をとめて考えておきたいことは、いわゆる
「内
容」と
「形式」の微妙な闘わ-についてである。「内容」
「形式」をつなぐ深層の形式をかりに右では
「かたち」と
表記したように'そもそもこの両者'裁然と二分するのは
むつかしい。韓愈
「迭孟東野序」と欧陽修
「梅聖愈詩集
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序」を封比する論者たちにとって、彼らがみとめた両者の
類似性とは'「内容」についてであろうか。それとも
「形
式」であろうか。か-に
「内容」であるとするならば、こ
の場合の
「内容」とは、優れた才能を抱きながら不遇であ
った
(あるいは不遇である)友人について'という抽象化
を経たものととらえなければならない。そしてこうした抽
象化は、すでに表現の
「形式」の領域に足を踏み入れてい
る。文の新たなる
「かたち」を模索する欧陽情は'このこ
ともまた誰よ-も強-意識していたのではないか。
ことばによる表現と、それによって描き出される言語外
の硯賓との封療関係は、たとえば詩における
「半夜鐘」の
エピソードにみられるように'欧陽情にとっては常に意識
されるものであったと思われる。「半夜鐘」が語るものは、
詩は言語外の現章
・事案を侶-な-反映すべきものとする
欧陽修の文学観であろうが、この限-において表現の
「形
式」は、語るべき
「内容」に封して従属的な位置にあると
言わねばならない。
書
評
しかし.ながらこれとは逆に'ことばが世界を作るという
意識、換言するならば'「形式」「内容」を超えた
「かた
ち」が世界を作-出す
(-
あるいは見出された新しい世
界が
「かたち」を得て現出する)という意識が欧陽情をと
らえたことは全-なかったであろうか。このことにつき、
欧陽修自身が明確に語ることばを見出すのはむつかしい。
ただ銭錘書
(『管錐編』「毛詩正義」「洪奥」)が紹介する
明
・郎瑛の記事は、このことを考えるにあたって'興味深
いことがらを俸えて-れる。自ら源州を訪れた郎瑛によれ
ば'「源を環-て菅山な-」という
「酵翁亭記」のことば
に反して'かの地は四方に開けていて'ただ西に郵郡山が
見えるのみであったという
(『七修類稿』巻三
「牛山」)0
「醇纂亭記」の冒頭をあらためて見てみるならば、「源
を環-て皆山な-。其の西南の諸峰、林墾尤も美し-'之
を望むに蔚然として深秀なる者は'珊瑚な-。山行するこ
と六七里'漸-水琴の混演として両峰の間に潟ぎ出づるを
聞-者は'醸泉な-。峰回-道轄じて'亭の翼然として泉
上に臨む者有-、酔翁亭な-。--」と。
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![Page 55: Title [書評] 松本肇著「唐宋の文學」 中國文學報 (2001), 62: 97 …repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/177869/1/cbh0… · Title [書評] 松本肇著「唐宋の文學」](https://reader034.fdocuments.in/reader034/viewer/2022052014/602c1eb71f54475a21086c8d/html5/thumbnails/55.jpg)
中国文筆報
第六十二筋
叙述の範囲
・封象がしだいにせばめられ、「記」の主題
である
「酔翁亭」に接近する。全髄から部分へという集
約
・韓換が繰り返され'それぞれのユニッ-は'「環源皆
山也」「--郵邪也」「--醸泉也」「--酔翁亭也」とい
うように、「也」字の指標によって段階をはっき-示しな
がら結ばれる。
ここに修辞優先の志向のみを認めるのも'あるいは現
賓
・事賓との食い違いを見出し、「半夜鐘」に関する費言
との撞着をあげつらうのも、いずれもさほど意味あること
ではないだろう。このあと
「記」は、
一日のなかで'ある
いは
一年のなかで'折々に移-ゆ-自然の美しさ'時宜を
得た宴遊の楽しさをつづる。「醇翁亭記」が語るのは'榔
珊山中のこの地においてのみ許された禦しみ'ここにおい
てのみ見出される美しきであ-'右に引いた書き出しの部
分は'この
「醇翁亭」という選ばれた空間へのアプローチ
をみごとにことばによって再現している。欧陽修によって
硯賓の中からす-い取られた
「酔翁亭」の慣値
・喜びが'
この
「かたち」によってはじめてことばに定着され、世界
に現前することを得たといえるのではなかろうか。
(和田英信)
150