Title 東南亞細亞に於ける黑陶、彩陶並に紅陶 : 金關...

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Title 東南亞細亞に於ける黑陶、彩陶並に紅陶 : 金關博士の論 文を讀みて Author(s) 鹿野, 忠雄 Citation 東洋史研究 (1945), 9(3): 142-151 Issue Date 1945-11-05 URL https://doi.org/10.14989/145828 Right Type Journal Article Textversion publisher Kyoto University

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Title 東南亞細亞に於ける黑陶、彩陶並に紅陶 : 金關博士の論文を讀みて

Author(s) 鹿野, 忠雄

Citation 東洋史研究 (1945), 9(3): 142-151

Issue Date 1945-11-05

URL https://doi.org/10.14989/145828

Right

Type Journal Article

Textversion publisher

Kyoto University

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/Q

東南亜細亜に於ける黒陶、彩陶並に紅陶

   

1-金閣博士の論文を讃みてII

 

最近読ん怒東亜先史服の論乞の中で、分開丈夫肪士

の「衣洵先史時代に於ける北方文化の影響」は、夫れ

が筆1 の特に回心を有する毫吋に就いてのもの丈に、

殊班筆者の興味を喚起した。同前文は亘阿に特づ見の

影陶を注意し、併せて黒陶、紅陶に就て述べ、之等三

種の土器を北方系(北支那的の意)なりと認められ、塵

哨先沢時代に北方文化要素の混入せることを宅張され

てゐる。墨泗先沢漬物にフィリ″ピン其他南方島嶼に

詔められず、支那大陸に優勢なる藻掻い遺物が存在す

ろ事に就て、マごフ滞在中殊更痛感し、蹄来後、「毫

                 

馮石器土器に見られる支那大陸系要某」を執筆した筆

者としては、同博士の説に對しては1 く貿成であっ

て、有力なる支持者を得た感がし、。力強く感ずる次第

鹿

  

  

巾d-

 

である。然しながら、黒陶、彩陶、紅陶に開しては恟

論すべきものがらり″夫れと同一又は近似せる土器が

東南。胞納亜の各地から晟掘報告せられて居り、終末此

の問題は東南亜細亜に於て最も注目す可きものx一に

登展すろ様に思はれるので、次に現在筆者が知る範幽

に於て、前坦二種の七がに批て知見を披泄し、今後の

注意を喚起すると共に大方の御敦示にあづかり良いと

思ふ。

     

 

   

 

熹洩に於て所謂湛陶を最』刊に震見したのは固分直一

氏であって、最近同氏は毫南、高疎剛州下に於ける多

徴のイ陶遺跡を登表七てゐる。金開沁士は國分氏の所

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/な3

蔵品を一見して、支那の黒陶に関係あるを指摘せられ

たが、筆者も爾者の闘係は疑ないものと思ふ。但し雨

者の精細なる贋物比較は試みて居られない様輿今後

 

一暦の研究が望ま七い。筆者も國分氏の東道によりて

 

烏山頭遺跡を訪ぴ、多数の黒陶破片を得たが、其の文

 

様・には刻線文、刷毛目文、凹黙文等があり、筆者の知

 

る範幽に於て、同地方には繩文は赤色土器に認めら

 

れ、黒陶にはない様である。黒陶は豪湖西海岸殊堰量

 

南地訪に多い1 しい。然し同種の土環は壷北圓山介

 

覗。墾丁遺跡、並に火焼島所子湖遺跡より出土して居

 

         

                 

 

る。之等は交易によるものかも知れぬが、現在の知識

 

に於て黒陶の允布中心は寂南地方にありと言って良い

 

であらラ。

争]ス那本土に於ける熊陶分布地の南限は浙江省杭州附

                   

 

近が従。米知られて居たが、更に南方にも及んで居る様

 

で、柿教授其他は祠建省武子遺跡トrり黒陶を報告して

 

居る。又ス乙フィール

≒が香港の石壁遺跡に関する

      

            

sIベ

論文Or’  Blackjarとせるものは少くも黒陶に関係あ

るものらしい。佛印には佛蘭西學者の多くの努力に拘

らず登見されて居ないが、今後り調査によっては其の

会見は充分期待出来る。7 イリッ。ピンには認められな

い様で、少くもベイ。ヤり敢授の蒐集品にぽ見ない。之

れを貧ずるに現在の知識に於ては、黒陶は支那大陸系

要素と認む可きものであるが、崔哨に導入された経路

に就ては、倚今後の研究に待つところが多いであら

     

二。彩

   

 

毫肩把於印倉

          

膨湖島良文港遺跡より発見された。夫れはロの廣い。赤

色の壷形土器(?)の破片べ胴部には繩文が隼

られ、其。の口唇部に紅色の塗料を以て、太い三本づi

の線(此の線は口唇部刀縁に直角)が若干の間隔をおいて

描かれて居る。叉國分氏が桃子園遺跡より舜られた土

器片中、廣口有識壷の頭部破片、並に高蛭の盤の二、

三破片に平行直様による水平並に斜文櫛目文(問者)

や、飛白式に置かれた平行直以斜行文(後者)が之れ

又紅色塗料で鵬かれたの旅礎見された・叉大び渓北岸

祀脚遺跡よりも國分、西村爾氏並に金闘博士により、

一種の彩陶破片が登掘されたが、之れは前掲のものと

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13㎜●4

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/如

は他趣を異にし、咀返塗料を用ぴて櫛目交並に網目文

が描かれて居る。

 

影陶の分布地に就ては、北支(河南・山西・匯西三省)を

中心とし、東は浦洲囚数河省、南測洲を維て北鮮雄基

介啄に及び、西は恍席代呼『近J沓ぺ牛山墓地、

朱I苓、彫り等の甘訓、六窓地方を経て露領トルキス

タン、西印度の七ヘンジョダロ、メソポタミヤ、南

1に

                    

露、西欣、地中海沼岸ら連互4 は周知の如くである

が、揚子江沿岸並に夫札以南に於ては従来殷l例な

く、更に山東、江休、安徽三省にも報告がたい。娘』

がれに北支系の彩陶なりとすれば、毫・㈹は不運願的分

布を示し、其の南限を示す事は明かである。

     

      

           

 

匹しながらマダリオユ師は最近贋兎省み豊より

‥()uurtcd I'otveryの白兎を報して居るのは注目に飢

す可く入力詳剤に就て未だ坤り得たいのは付念であ

る。yダリオユ師の報古によって彩陶が南方にも見出

さるゝ可能性が喚起埓’れ、更に南方を注意すれば、若

干の例を見出すのである・佛印にぶ㈹が唆見さ但るか

イかは筆者未だ之れを詳にしたいが、更に南下して馬

来I島ヶダー洲の汐子総に於ける岩蔭避難所から、

コリングス式は彩陶の一断片を酸掘じて居る(同氏論

文芦く夕才・回)。即ち夫れは可なり大きな壷の一断

片と加像され、地色は鮮黄色’であるが、之れに赤色塗

            

料を以て廣い1 状文と之れに直角に接する細線が描か

れて居るのが窺はれる。

      

。@

           

        

 

又エヴァンス氏が紹介したネグミスミラン州Kuala

Pilahに於ける蒐集品(タイピン博物館所蔵)なる注口

瓶(同氏著書pi.

XXX)には、共の胴部に縦走する六本づ

つの並行銅線群が若子の問隔をおいてめぐらされて居

るのが認め岬れゝ夫れが塗料によつて描かれたもので

ある事は疑ないがI

万更々フィ`リーつピンに於玉浅ろ種の彩陶がある事

はヽクルーバに博士の幹付(則書巾第一七圖゛によって

知られる。郎ち壬・族の蓋聯土器、並にビ・ル加号毫

附平鉢には白色又は白色と亦色の描謐が認められる。

筆者がごこフ科學局唯物館貯喊のフィリヴビご土器を

賓見した處では、前掲のものx他に、ビサヤ族にもあ

り、載にビJル族土器には彭陶が徴多く見られた。其

の器形は蓋附煮沸壷’圓底椀共他があり、黄褐色の地

色に濃赤褐色、白色、黒色の塗料を以て描かれてゐ

-u

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/μ5

     

 

   

 

金開博士は鄙漸先史遺物に於ける「北方的様相の第

三」として紅陶を皐げられた。夫して其の出土地とし

て、1桃子図、②二苓(高雄川鳳山郡小港庄)、匪鳥山

頭、ふ花9 山、ふ新城、6石坑、恥カフフン、I都

轡、巾圓仙介尿、印墾丁の「退跡を皐げられ万

る・剛より6までぱ、現在材料が手許になく詳細な比

較が出来ないので何とも言ひ得ないが、匿より10\Hで

ぽ何れも筆者い手元に標本があり、更に火焼島油子湖

並に豪気附近ヴノ両遺跡貧掘の土器片も所蔵して居

                

         

る。奈賄の紅陶に闘しては已に一文を卓したので節単

に述べるが、豪肺の紅陶と穏し得るものを詳細に観い

すれば、夫れには幾つかの`作類が認められるのであ

る。〈『筆者所蔵の材料に就てのみ辿べれば次の四類に

分つ事が出・米る。

 

第一類―人焼島油子湖遺跡、都営遺跡輦学筒東海岸

より出土するもので、焼成は不充分。粗雑物を混へ、

声剛は赤味を1 びた煉人色の塗料を相富厚く塗り研肘

せられて居る。又之れには直径三粍程の竹管(?)捺

印による圈鮎文が認吻娠札る事がある。。

 

第二類―豪泉附近のヴノ遺跡より出土するもので、

土器の表面に第一翔同禄の赤色塗料が塗られ研な甘ら

れて居るが、他の塗り方は薄く、且土器自身は焼威充

分で極め七堅硬である。而して直線平行文、波状組合

せ文等の刻線Itが施文されて居る。

 

第三類―圓山介塚より出牢ずるもので、赤色塗料は

前二者と梢異り、土器の材料も派別される。

 

第問類t墾丁遺跡よ・り出土するもので、前三者とは

大いに趣を異にし、焼成充分で外面内劾共に一様なる

黄禍包を呈し、塗料も同色に近く、塗り方t薄く、研

削やられて居る。

 

斯くの如く、筆者所蔵のもののみに就ても、共の閣7

に新別々求め得るから、一概に紅陶と言づても、今後

比較研『九が必要である・

 

紅陶は周知の如く、北支、満洲より軸鮮に及び我邦

倆生式土器にも認められ、一見北方系の如くにも見ら、

れ易いが、南方にも紅陶は少からす登見せられる。先

づ佛印に於ては、安南のサヒュイン遺咬デュクチ岩

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/妬

陰避難所、バウト〃遺跡等よりバルマク一Jエー、コ一^

1・I』ヽヤ゛つ等により報告されて居るo

 

フィ

   

⑩四

リ″ピンに於て紅陶は同島試器時代末期に初めて出現

する事が報告されて居る。而してベイヤー教授の談に

よれば、紅陶は初期鍼器時代の特徴的遺物であり、更

に下降してl:^orcela.in Age初期に及ぶ。紅陶を出土

する遺跡としては、ブラカンいリサル南州境のW遺

跡、ノヴァリタチェス遺跡Dがあり、更にリサル州に

六、ブラカン州に二の遺跡あり、其の或るものには稲

輦を押印した団鮎文が認められると言ふ。而してセブ

島荊家の或るものには古代傅承品として紅陶(一八世

紀のもの)が保存せられると言ふ。更に此の紅陶の流

れを汲むと思はれるものは、フィリ>。ピンの田舎に今

肯製作心れて居る様で、グリー四「土器に光1 を呉へ

るために目の細かい赤色スリ″プ(恐らくオーカー)を

塗り、介で研削する」と述べて居る。更に此の穫のも

のは東印度にも一般的のものらしく、粛藤正雄心一は

 

「只器面に光洋を附けるために川脂を熔着・とせる方頌

は廣く行はれてゐる。是は樹脂の粉末が窯内で溶解

し、暗褐色の粘膜状の光深浦を残すのである」と書か

れて居る。

 

インドネシアを離れて。、太平洋諸島に眼む綿挙れヽ

ば、先づ我がミクロネシアに紅陶が認められる。鈴木

正淮氏はづフウ島の一島なるゴupsag斗島の一石訳

洞より、中に石器と介器・を蔵する圓底の蓋附平椀を会

見されたが、夫れは径三〇糎、内外面共に赤色塗料

(多量の銭分を合む)が塗られて居る。而して更に拘に及

び、フィジー諸島に樹脂£材料とする赤色塗料を以て

する紅陶が製作されて居る事はマヴクラン八他が岨古

する如くである。

 

上述によって赤色塗料を用0 だ紅陶は、北方系と簡

箪に一言し去るには、いさxか不穏富であって南方地

域にも略萄遍的なる事が知られた事と思はれる。而し’

て土器製作の為法並に赤色塗料に就ても若干の侵化か

ある事が察せられる。盛岡出土の紅陶の如きも夫札に

幾種領かおる事が明かであるが、之等は賓物によって

隣接諸地方のものに比較する平が要求される。前掲第

 

一類の毫糾紅陶をフィリリピン臓器時代後期遺跡出土

と稗せられる紅陶に比較したところ、夫れ等は寸分違

はす、何等差異を認め得ない事を知った。よって爾者

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/な7

は恐6 く直接的O闘侑があり、豪測紅陶の或るものは

フィリッピンより導入されたと見るを適営と考へる。

ヤンセ博士が佛印より紹介した囮鮎文ある紅陶の寫員

は、一。見第一類に酷似するが、若し第一類と同一なhy

            

  

           

とすれば、此の種の紅陶はフィリ″ピン、佛印、崔湾

の三地方に廣い分布を示す事となるが、未だ賓物比6 

を行ふ機會を得ず、従って第一類紅陶はフィリ。ピy

に開係ありとするを、現在穏蜜と考へるものである。

    

 

印度に於ける黒陶紅陶並に彩陶

 

筆者は管物を見た事もたいし、叉其の詳細に就て

も知らないが、印度先史學の文献中には、何れも磨

研された1 色、紅色、並に一種の彩陶が諸遺跡から

出土する事が報ぜられてゐる。最後の彩陶0如きは

Polished bla'/k-aiid-a'ed I'otteryと通俗せられて居

り、紅陶で共の上部と内面が黒色塗料で塗られて居る

と言はれる。

 

今筆者の手許にある資料によって、夫れ等三種の土

器出土状態を見るに、マドラスのタンガル

跡から。

三種共に出るが何れも埋葬に用ひられたものであり、

 

繊3 ’硝子器が件出して居る。又同じくマドラスのカ

 

ルダマライ附近遺跡からも三種の土器が出る。南印度-

 

のデ″カン

がy

にも黒陶、彩陶、紅陶が出土し、前二

 

者はPyriform urn sites  tJ非常に多いが、ir'Oitery

 

cist sites  tJは少く、stoiie cist sitesには一計少い

 

と言はれるI久一九三。一年印度国9 副査告を骨子とし

 

て1 かれた三森定1

 

の著書には、ニルギリ丘陵の瓦

 

石遺跡より赤色と黒色の土器が青銅器と臓器に件出す

 

る事、ハント氏がライギル溌見の石棺群より胴研赤色

 

土器仙赤色の床部を有った黒色土器を会掘した事、

 

ショラプール土侯國に於て積石塚や石室墳より銅、青

 

銅、臓器と共に赤色と黒色の土器が会掘された事、並

 

に”ンダハぎりストがサティケマシガ’ラ゛の積石塚と石

’棺とより、臓器と玉類と共に赤色と黒色の土器が会掘

 

された事等の記事が見える。

  

前掲三種印度土器の詳司なる性皆に就ては其の記事

 

に接し得ないが、プレンダーレ

がワイナード地方よ

 

り得た黒陶に就ての説明によれば、焼成火良相常高

 

く、其Q組成は硫酸(五〇・九五が)、酸化鉛(痕跡)、

 

酸化銅(四・八七%)、酸化臓(コープ七七舛)、アル

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ミ9 

 

(コー・七こ%)、石友(三・五三が)、苦土(疸

  

跡)を示すと言ふ。何分印ぼの前掲黒陶、彩陶、並に

   

紅白に就ては筆竹未だ之れか二詐にしないので、之れ以

   

上言及す原~が出来ないが、其の殷見地が獄南亜細亜

   

文化供給地のIなる印度である文に、之等の土器の探

   

究は東唖先火學のためにも是非必要である。

     

 

   

 

以上筆春は1 八万陶並に紅陶、或は夫礼等近似の

七器が賤蜜豆綱亜に坦々と9 られろ事を役いた。支那

本土の~川と印他力三川らしきものとの副聯も俄に否

定し得ないが、奉伺o黒陶は恐らく支那本土に直接結

び附くものであらう。但し其の導入解路に就ては、北

支に直仏迎絡するものか、或咤咽建宵の武平あたりを

介して辿俯するものかは今後の探究に侍たねばなら

ぬ。

 

石加の問囲も同禄であって、此の七器句分布が七那

木土の東端に於て臥西、山西南省並に河北、河奈向省

の一部に止り、山東、江蘇、安徽三省並に楊子江以南

に未だ款見せられて居ない事は、北支と蚕飼とを直接

連絡するにn『せしめろ。殊にマグリオユ師の誤告す

るが如ぶ、廣収宵沁司に彩陶が良9 せられるとすれ

ば、現在の處崔肘と海幄を結び附ける方が蓋以、性がや

る。以上の考察はアンダーソンの見解に従ぴ、北支彩

陶が青海、甘肩を経て西方起源なりとする所説に従っ

たものであるが、青海、好尚より北支にか陶流傅の一

派が延びると共に、叉他の一派が青海、甘恥より門

川、貴州、廣y一回目を引て廣東省に至ったとする回想

的ルートも9 来注意せられて可い。叉インダス河貯っ

壬ヘンジョダ〃遺跡に血ハ型的なる彩陶が良9 せられて

居り、前掲印所作地に彩陶らしきものが少5 らす9 ら

れ、更に馬来牛1 ケダー、ネグリスミラン因州に彩同

社認められる事は、アンダーソンのよく北方ルートの

存在声共に、南方ルートの存在Aぺに‐応仁もので・め

るo而して 7。リ″ピン各地に見られろ鍋‐白、ミクロ

ネシアに台9 心れた郷陶も、此の南方ルートを俣定し

て初めて容易に悦明か附く事と思はれる。而し廿。剛に

亜迎屯大陸北部、並に北米大陸北部に石陶が肩見やら

れぬ以上、メキシベ中央亜米利加、南米北部に特殊

な台覧を鋤けた彩陶も、ポリネシアと南米との文化交

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/岬

。渉に開する多くの賛否雨論叱かゝはらすぃ『此の南方ル

 

ートによる傅播の一肩として検討されて可い。

 

前述の如く、紅陶は箪に北訪系とは見倣し得ず、夫

 

れは東南亜細亜にも普遍的なるものとして可いのであ

 

るが、之れが印度各地に晟見せられるとすれば、前掲

 

彩陶の南方ルートに於けると同様なるバードを考へて

 

可い様に思はれる。佛印各地の紅陶も前掲の考察より

 

睨するものでμ覧いが、フ「リ″ピン各地の紅陶は南

 

方系紅陶と見るを蓋然性あり、フィジー諸島の紅陶も

 

フィリッピンより壬ルヴカス諸島を経て小スンダ列島

 

を含む地域の何れかより傅播したと考へる事は、メラ

 

ネジア文化の西方起源脆に徴し、考へられる事であ

 

る。或るザハ‥に於て八幡一郎氏提示のサイパン島紅‐陶

 

は、其後筆1 所蔵のフ″リyビン後期銅器時代紅陶と

 

比較するに寸分相違なき事を知った。従ってフィリ″

 

ピンとミクロネシア西部忙於ける文化的交渉は、少く

 

もフaびツピン鍼器時代後朗に於てもあり、フパリッ

ピyより

れる。而

碩が導八ぶ・れた左見て問違ぴない事と思は

嶺潜の紅陶の第一類が同じくフ″リ’ピ

y紅陶と同一であり、フうリヅピンより導入された事

は明かであるが、崔・湾紅陶の或るものにはま苅冰十よ

り流入したものがあるかも知れない。此の問題な絹地

材料の比較研究によって明かとなるであらう。

 

以上筆者は泉南亜細亜に於ける黒陶ご紅陶並に彩陶

に軋いて、若干の事賓と課題を提示した。大方諸賢の

教示を望むと共に、此の問題が學界の注憲に上り、次

第に閥明される事を切望する。絡りに‰み、此の問題

を提示、筆者の興味を喚起された金開悼士に對し謝意

と敬意とを表する。

 

の座間丈夫I毫湯浅史時代に於ける北方文化の影柳、盗

   

喬女化論叢、頁一一一六。昭和一八年一二月。

  

(J鹿野忠雄Iwm石器土器に見られる支那大陸系要素、

   

(近刊拙著、東南胤細が民放學先史學研究第一岱所幔)

  

③國分直一I毫沢内部に於ける先史汽蹟とその漬物、南

   

方民族、第六巻第三位、頁四五!六二、昭和一六年一

   

一月。

     

  

④「民俗崔劈」の鈴白崎に一言指摘されたが、今其の脈

   

敷を詳にしない。

  

cLin Hufsixig。 Lhmg Huipu。

 &  Lui   Tyekaxig―

   

A Neolithic Site in WupiiiK。 Fukien.

 

第三回咄東

   

先史學會臓報告、pp.  133-141。  W.  S.  pis.。 1940

19・ I : . |

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/6∂

④Schofield。

  W. ―The   Proto-Historic Site of the

 

Ho-ig Kong C'.ilti-ire at Shek Pek。   Lantau。  Hong

 

‘{〇・扁心

 

第三川極東北史學會議報告、pp.  235-に-ao5。

 

W.

26als.。

194()’

⑦國分直一I酒湖陵良文港に於ける先史遺跡に就て、

 

南方民族、第六巻第四銃。頁五〇1五六、昭和一七年

 

十二月。

⑧金開丈夫I前掲論文。

⑧Magli〇iii。  R.―Some Aspects

of South China

 

Archaeological  Finds.第三川極東先史學會議報告、

 

pp.  209-229。 a)40.

⑩ColIiMM。 H’D.'―Report of aii A'"chaeological Ex-

 

caくatioi \-r\ Kedih。

Malay Peninsula.

  Bulletin of

 

tn e Raffles ]Vruseum。  Ser. B。  no. 1。   PP.  5-i6。

 

i936.

0Evans。

 1

 H.  N.

―Papers on the Ethnol0gy and

 

Archaeology  o{

 the  Malay Peninsula.   London.

 

1927.

⑩K。-0eber。  A.

 L.―People of the PJiilippines。 New

 

York i928.

⑩金閣火夫―前掲論文。

⑩鹿野巾-雄!磋溥の赤色塗研土器(近刊拙著、東南亜細

 

亜民族學先史學研究第一巻所牧)

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Page 11: Title 東南亞細亞に於ける黑陶、彩陶並に紅陶 : 金關 …repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/...覗。墾丁遺跡、並に火焼島所子湖遺跡より出土して居南地訪に多い1

/5/

 

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10. P。  190。  1930.

c松本信廣氏所蔵、詳細は同氏の登表に待ち、此禽に詳

 

姚を差し控へる。

    

 

 

第二章彩陶のところ(十四頁上段)にはバリン岩陰避

難所登掘彩陶片(コジングス原画)の圖版を附けるは

づでありましたが、印刷所が火災に遇つたがため、潰

憾ながら焼失しました。著者並びに讃者各位茄深くお

詫び申上げます。

                  

 

 

― 21 ―