Title 『大江山絵詞』における漢文学の受容--洗濯婆の最期を め … ·...

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Title 『大江山絵詞』における漢文学の受容--洗濯婆の最期を めぐって Author(s) 白, 渓 Citation 京都大学國文學論叢 (2017), 38: 1-13 Issue Date 2017-09-30 URL https://doi.org/10.14989/227682 Right Type Departmental Bulletin Paper Textversion publisher Kyoto University

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Title 『大江山絵詞』における漢文学の受容--洗濯婆の最期をめぐって

Author(s) 白, 渓

Citation 京都大学國文學論叢 (2017), 38: 1-13

Issue Date 2017-09-30

URL https://doi.org/10.14989/227682

Right

Type Departmental Bulletin Paper

Textversion publisher

Kyoto University

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『大江山絵詞』における漢文学の受容

―洗濯婆の最期をめぐって

酒呑童子退治を題材にした絵巻は中世から近世に渡って数多

く作られたが、その中で現存する最古の酒呑童子絵巻と目され

ているのは『大江山絵詞』である

(一)

。十四世紀成立のこの絵

巻は本来、下総国香取神社の大宮司家(香取氏)所蔵の品であ

る。本論文では、以下『大江山絵詞』を略して香取本と呼ぶ。

また、香取本の詞書では「酒呑童子」は「酒天童子」と表記さ

れているが、本論文では「酒呑童子」に統一する。

香取本は、他本と比べて際立って異質な本文を有する伝本で

ある。このことは、安藤秀夫氏がまとめた酒呑童子絵巻の系譜

図からも窺える

(二)

。この系譜図で氏は酒呑童子絵巻の諸本を

古本系と流布本系の二つのグループに大別しているが、古本系

に属するのは香取本のみであり、それ以外の伝本はすべて流布

本系に分けられている。

さて、香取本の詞書は全体的に他のどの伝本よりも仙境訪問

譚の色彩が強いが

(三)

、これはまさに香取本に見られる異文が

もたらした結果なのである。香取本には、酒呑童子の住処であ

る「鬼隠しの里」を仙境に擬えて描こうとする作者の意欲が読

みとれる独自の文章が多く織り込まれている。本論文で取り上

げる洗濯婆の最期の場面もまた、香取本の他本にはない仙境訪

問譚の要素である。

酒呑童子絵巻では酒呑童子は時間を支配する力を持つ存在で

あり、童子自身が老いることなく数百年生きてきたことや、童

子の館の四方四季の庭がその顕れである。香取本では、鬼隠し

の里に二百年余り囚われた老婆が川辺で着物を洗う。この老婆

は童子が退治されて力が消えた後に故郷に帰ろうとするが、一

気に老いに襲われて山を出る前に亡くなった。酒呑童子絵巻の

諸本のうち、川辺で洗濯をする人物を老婆とするのは香取本の

みであり、他の伝本はすべて若い娘とし、洗濯婆に関する記述

が見られない。二百歳余りの老婆が登場する時点で香取本は他

本より鬼隠しの里と外の世界の時間の経ち方が異なることを強

調していると言えるが、更に老婆が死す場面によって童子の時

間を支配する力が如何に偉大かつ広範囲に及ぶかを鮮明に示す

のと同時に、時間の流れ方の違いを改めて読者に思い知らせた。

さて中国文学では、古くから外の世界と時間の流れ方が異な

ることが仙境の重要な特徴として描かれた。本論文では、香取

本の洗濯婆の最期の場面とこのような中国の仙境訪問譚との関

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連性について分析することを出発点に、香取本における漢文学

の受容の一傾向を明らかにしたいと思う。

香取本は現在上下二巻の絵巻に詞書のみの断簡が一巻付属さ

れ、共に逸翁美術館に所蔵されている。詞書巻の筆跡は絵巻の

詞書とは異なるが、巻末に付された跋文によれば、古くは二軸

の絵巻と同様に下総国香取神社の大宮司家に伝わって来た品だ

と言う。

さて、香取本では頼光一同は酒呑童子の棲む異界に入って、

最初に川辺で血のついた着物を洗う一人の老婆と遭遇する。こ

の部分は絵巻の上巻に記されており、本文を一部引用する。

(前略)(老婆)頭には、黒髪もなく、白髪なるか、かほ

はせ、たとへむ方なし。色々、さま〳〵に、血のつきたる

物を、あらひて、木の枝にかけ、岩のかとなんとに、ほし

かけたり。人〳〵是を見て、無疑、変化の物よと思て、忽

に命を、失てんとする所に、女、手を合て、「我更ニ、鬼

神変化の物にあらす。本はよな、生田の里の賤女にて侍し

か、おもはぬ外に、鬼王にとられて、(中略)古里もゆか

しく、したしき者も恋しけれとも、春行、秋たけて、既に、

二百余廻の、年月をかさねたり。此所は遙ニ、人間の里を、

はなれたり。(中略)是へおはしつる道には岩穴のありつ

るそかし。其の穴より此方は、鬼かくしの里と、申所なり」

とそ申しける。(略)

このように洗濯婆は頼光一同に身の上話を語るが、それによ

れば彼女は生田の里から鬼隠しの里に攫われて以来、二百年余

り童子に仕えてきた者なのである。頼光一同はこの洗濯婆との

出会いによって、自分たちがすでに外の世界と時間の流れ方が

違う異界に辿りついたことを知ることになる。

異界の案内役である洗濯婆は、酒呑童子が倒された後に再び

登場する。香取本は酒呑童子が討たれる場面で絵巻の下巻の詞

書が途切れ、その後の内容は詞書巻に記されている。詞書の巻

における老婆の二度目の登場は、以下のように描かれている。

(前略)又、有しきるものあらいし、老女、悦いさみて、

帰し程に、此年比は、鬼のちからにひかれて、却老、延齢、

いきをひも有つれ。今者、鬼王の通力も、失ぬるゆゑにや、

山を出かねて、老かゝまりてそ、ふしたりける。渭水を別

て、重てたゝむ、呂尚父か、額の浪かと疑はれ、商山を出

て、なを空かりし、遠司徒か、鬢のゆきかと、誤たれけり。

旧里に帰るとも、錦の袴をきされは、買臣の勇も、なかり

けり。家を離て、星霜既に、二百余廻に成ぬれは、をのつ

から、争か七世の孫をも、相見へき。されともなを、旧里

を、おもふ心有て、都の方をそ、かへりみける。蜉蝣の齢、

夕をまたぬ習にて、芭蕉の命、風にやふれしかは、いつの

なしみとはなけれとも、をの〳〵、あはれにおほえて、袖

をそしほりける。(略)

このように、老婆が二百年余り生きられたのは酒呑童子の力

のおかげであり、その童子が倒されて力が消えると、「渭水を

別て、重てたゝむ、呂尚父か、額の浪」、「商山を出て、なを空

かりし、遠司徒か、鬢のゆき」とあるように、老婆は突然老い

に襲われたのである。それでも老婆は故郷に帰ることに思いを

馳せ、「家を離て、星霜既に、二百余廻に成ぬれは、をのつか

ら、争か七世の孫をも、相見へき」と嘆いた。ここに見られる

「七世の孫」という語の原典は、中国の「劉阮天台山」という

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故事である。この故事は後漢の時代に劉晨・阮肇が天台山で仙

郷に迷い込み、そこで仙女と半年を過ごして帰郷するが、外の

世界ではすでに長い年月が経っていたという内容であり、仙境

と外の世界の時間の経ち方が異なることがストーリーの重要な

ポイントである。

「劉阮天台山」の原拠は南朝宋の劉義慶の『幽明録』と、梁

の呉均の『続斉諧記』である。この故事は現在多くの漢籍に収

録されているが、『幽明録』所引が主流であり、『芸文類聚』(巻

七・山部上・天台山)、『法苑珠林』(巻三一・潜遁篇)、『太平

御覧』(巻四一・地部六・天台山)などの書物が出典を『幽明

録』とするのに対し、出典を『続斉諧記』とするのは『蒙求』

(下・三四四「劉阮天台」)のみである。劉晨と阮肇が仙境か

ら故郷に帰った後の本文を引用し、香取本の洗濯婆の最期と比

較してみたいと思う。「劉阮天台山」は『幽明録』が宋代以降

佚書となり、また現存の『続斉諧記』にはこの故事が見られな

いため、直接原拠の本文を確認することができない。現在辿れ

る最も古いテキストは唐代の書物に収録されているものであ

り、その中で総章元年(六六八)成立の『法苑珠林』は「劉阮

天台山」の内容を詳しく載せているため、以下『法苑珠林』(

四)

所収の「劉阮天台山」の結末部分を引用する。

(前略)(劉晨・阮肇)既出、親舊零落、邑屋改異、無復

相識。問訊得七世子孫、傳聞上世入山、迷不得歸。至晋太

元八年、忽復去、不知何所。

「問訊得七世子孫」とあるように、仙境から故郷に戻った劉

晨と阮肇は七世の孫に会えたとされている。一方、香取本の老

婆の「家を離て、星霜既に、二百余廻に成ぬれは、をのつから、

争か七世の孫をも、相見へき」という嘆きを意訳すると、「故

郷を離れてすでに二百年以上経ったからには、当然のこと、ど

うして七世の孫に会うことができようか、いや、できないだろ

う」となる。すなわち、香取本では老婆は故郷に戻っても七世

の孫には会えないとされており、「劉阮天台山」と筋書きが逆

さまである。漢籍に見られる「劉阮天台山」は所収の書物によ

って本文の細部に違いはあるが、全て七世の孫に会えるという

結末が見られる。和文学の世界でも、古くから「劉阮天台山」

という漢故事は様々な文献で引用されてきた。『菅家文草』巻

第五「劉阮遇渓邊二女詩」の「半年長聴三春鳥、歸路獨逢七世

孫」が「劉阮天台山」の最も古い受容例であり、その詩序には

『幽明録』を出典とするこの故事が見られる

(五)

。『菅家文草』

以降の文献に見られる「劉阮天台山」は、ほぼ全て『続斉諧記』

に拠ったものである。寛弘四年(一〇〇七)に成立した源為憲

撰の『世俗諺文』では、「七世孫」という見出しに『続斉諧記』

所引の「劉阮天台山」が載せられている

(六)

。また、応保元年

(一一六一)成立の釈信教の『和漢朗詠集私注』では、「仙家

付道士隠倫」の「謬入仙家雖為半日之客、恐帰旧里纔逢七世之

孫」という文(原拠は『本朝文粋』巻十、大江朝綱「暮春同賦

落花乱舞衣各分一字応太上皇製」)の注釈に、『続斉諧記』所引

の「劉阮天台山」が用いられている

(七)

。さらに源光行の『蒙

求和歌』では和訳された『続斉諧記』の「劉阮天台山」が見ら

れ、延慶本『平家物語』(三「十六

少将判官入道入洛事」)で

語られた劉阮天台説話がこれを参酌して作られたことは先行研

究ですでに指摘されている

(八)

以上、香取本が成立する前の日本文献における「劉阮天台山」

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の引用を見てきたが、これらのテキストは文章形式が漢文、和

文に関係なく、劉晨・阮肇が七世の孫に会えたとする点で全部

一致している。漢籍所収の「劉阮天台山」が全部七世の孫に会

うという結末を有することと合わせて考えると、香取本の七世

の孫に会えないとする記述が直接「七世の孫」の語の原拠であ

るこの故事から生まれた可能性は非常に低いと言わざるを得な

い。前文で言及した「劉阮天台山」に関係する漢詩文も「歸路

獨逢七世孫」、「恐帰旧里纔逢七世之孫」とあるように、七世の

孫に会える前提で詠まれており、香取本に影響を与えたと考え

難い。こうなっては、調査の範囲を「劉阮天台山」以外の七世

の孫にまつわる記述が見られる説話に広めなければならない。

「劉阮天台山」が日本で広く享受されるようになるに連れて、

本来七世の孫が登場しない仙境訪問譚にまで、七世の孫に関係

する結末が書き加えられるようになった。このような「劉阮天

台山」との融合現象が見受けられるのは、中国の「王質爛柯」

と日本の浦島説話である。まず、「劉阮天台山」と「王質爛柯」

の融合について見ていきたいと思う。

『太平御覧』巻第七五三「工藝部十

囲碁」に「王質爛柯」

が収録されており、本文は以下の通りである。

晋書曰、王質入山斫木、見二童囲碁、坐観之。及起、斧柯

已爛矣。(

九)

このように、王質が山で仙人の囲碁を暫く見ている間に持参

の斧の柄が腐ってしまう程の年月が経ったのだが、「王質爛柯」

という漢故事は本来七世の孫に関する記述を持たない。しかし

和歌や漢詩の古注釈では、七世の孫が登場するこの故事が散見

される。具体的な例を挙げよう。『古今和歌集』(巻第十八・雑

歌下・九九一)には、紀友則の「王質爛柯」を踏まえて詠んだ

以下の歌が収録されている。

ふるさとは見しごともあらずをののえのくちし所ぞこひし

かりける

(十)

建久年間(一一九〇~一一九八)成立の『和歌色葉』では、

この歌の注釈として王質にまつわる話が用いられている。

是は晋の王質と云ふ人の博胡山と云ふ山にまどひてしあり

きけるほどに、仙人の囲碁うつ所にいたりにけり。しばら

くゐて一番をみける程に、つかへたる斧の柄はくちてをれ

にけり。(

中略)

それにおどろきて家にかへらむとするに、

頭のかみかうべを七めぐりおひたりけり。さわぎかへりて

みればありしすがたもうせて、みし人もなくなりて、いづ

くか我家ともおぼえざりけるを、古人に問ひければ、四五

百歳が先にぞ我七代の祖は山にまよひてうせにけるといひ

つたへたる。かへりて七世の孫にぞあへりける。朗詠抄云、

謬入二

仙家一

雖レ

為二

半日之客一

、恐歸二

舊里一

纔逢二

七世之

孫一

、云々。(

十一)

「かへりて七世の孫にぞあへりける」とあるように、この注

釈の王質説話は「王質爛柯」の筋書きをベースにしながら王質

が故郷に戻って七世の孫に会ったという結末が加えられ、「劉

阮天台山」との融合が見られる。末尾で触れている「朗詠抄」

の「謬入仙家雖為半日之客、恐歸舊里纔逢七世之孫」は前文で

も引用した『和漢朗詠集』「仙家付道士隠倫」所収の句であり、

「朗詠抄」とは『和漢朗詠集』のことを指す。現在七つの系統

に分けられている『和漢朗詠集』古注釈書の諸伝本の中に

(十二)

「謬入仙家雖為半日之客、恐帰旧里纔逢七世之孫」に対する注

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釈に「王質が七世の孫に会う」説話が見られるものが幾つかあ

る。例として、記述が比較的詳細な『和漢朗詠集永済注』の「王

質が七世の孫に会う」説話を以下に引用する。

(前略)王質ト云者、斧ヲ、コシニハサミテ、山ニイリヌ。

シツ

ヲノ

山ノナカニ、フタリノワラハ、囲碁ヲウチテ、ヰタリケレ

ハ、王質、ヲノヲ、ヒサノシタニシキテ、シハラクミヰタ

ルホトニ、日クレカタニナリケレハ、オトロキテ、カヘラ

ムトスルニ、コノオノヽエ、クチタリケレハ、アヤシミ、

ヲトロキテ、タキヽヲキラスシテ、家ニカヘリヌ。ミレハ、

トコロハ、ソレナカラ、アリサマ、ミナカハレリ。人ニト

ヘトモ、シレルモノナシ。人アリテ、ツケテ云ク、ワレ、

ツタヘテキク、ワカ先祖ニ、山ニ入テ、カヘラサリケル人

アリケリ。キミ、モシ其人歟。ヨクタツヌレハ、七代ノム

マコニナンアリケル。(略)

このほか、『和漢朗詠注』、書陵部本『朗詠抄』、『和漢朗詠集

仮名注』、『和漢朗詠集和談抄』の同じ箇所の注釈にも「王質が

七世の孫に会う」説話が載せられている。一方『和漢朗詠註抄』

では、「王質が七世の孫に会う」説話にさらに「武陵桃源」と

いう中国の異境訪問譚が取り入れられた説話が「謬入仙家雖為

半日之客、恐帰旧里纔逢七世之孫」の注釈として用いられてい

る。

(前略)武陵到於桃

源一

見二仙圍

碁一

。其程半日也。日晩歸

クレテ

奮里一

七世之孫一

云々。

ヘリ

このような桃源郷で仙人の囲碁を半日見たばかりに、故郷に

戻ると七世の孫に会ったという説話は、『和漢朗詠註抄』と『和

漢朗詠集仮名注』の「三月三日付桃」の「春来遍是桃花水

弁仙源何処尋」(王維

「桃源行」)に対する注釈にも見られる。

「七世の孫」という語はもはや原拠である「劉阮天台」の束縛

から解放され、七世の孫に会うことが仙境訪問譚の結末の典型

的なパターンになっていったことがわかる。

「王質が七世の孫に会う」説話は早い段階で和文学の世界に

取り入れられ、先行研究では久安六年(一一五〇)に崇徳院が

詠んだ「わが恋はをののえくちし人なれやあはで七世も過ぎぬ

べきかな」(『久安百首』

七八)という歌が紹介された。また、

『源平盛衰記』(四四

「女院出家」)の「誤て仙家に入りし樵

夫が里に出て七世の孫に逢たれ共」という記述が『和漢朗詠集

永済注』の「謬入仙家雖為夜日之客、恐帰旧里纔逢七世之孫」

句への理解から生まれたことも指摘された

(十三)

以上、「劉阮天台山」と中国の仙境訪問譚が融合し、新たに

生まれた七世の孫に関する記述を有する説話を調査した。その

結果、「劉阮天台山」と「王質爛柯」が融合した説話及び「王

質が七世の孫に会う」説話に「武陵桃源」の要素が混ざった説

話は、管見の限り、全て七世の孫に会えるとする点で一致して

いる。そして和文学の世界で見られる「王質が七世の孫に会う」

説話を踏まえた記述も、七世の孫に会うという筋書きに例外が

ない。総じて、七世の孫に会えないとする香取本とはあまり関

係がないようである。

次に、浦島説話と「劉阮天台山」の融合について検討してい

きたいと思う。すでに言及した『世俗諺文』では、「七世孫」

の見出しの下に「本朝浦島子同事也」という記述が見られる。

浦島伝説は古くから様々な文献で記されてきたが、その中で「七

世孫」という語が見られるものが『世俗諺文』の成立期である

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十一世紀以前には存在していたことがわかる。現存する最古の

浦島伝説は、『日本書紀』(「雄略記」

二二年七月条)の浦島子

の蓬莱山遊歴に関する簡潔な記録である。そして『日本書記』

以降の文献に見られる数々の漢文系浦島子の伝は、先行研究で

は大きく風土記系統と類従本系統の二系統に分けられている

(十四)

。風土記系統に属するのは『釈日本紀』(巻十二

述義八

雄略)所収の『丹後国風土記』を出典とする浦島子伝承と、

『扶桑略記』の雄略二十二年七月条の前半に記された浦島子の

伝である。一方類従本系統は『群書類従』所載の『続浦嶋子傳

記』・『浦嶋子傳』、『古事談』所載の「浦島子伝」、『扶桑略記』

雄略二十二年七月条の後半所載の「続浦島子伝」を含む。浦島

伝承と「劉阮天台山」の関連性にいち早く着目したのは契沖で

ある。『万葉集』の巻九に浦島伝説を題材にした一七四〇・一

七四一番歌が収録されているが、契沖は『万葉代匠記』巻四に

おいて、一七四〇番歌の「三歳之間爾」という句の注釈として

『菅家文草』所載の「劉阮天台山」を引用した

(十五)

。近年では

項青氏の考察によって風土記系統の浦島子の伝に「劉阮天台山」

が受容されていることが明らかになり、特に『丹後国風土記』

の浦島伝承が『和漢朗詠集私注』所載の「劉阮天台山」と極め

て近い関係にあることが指摘された

(十六)

。しかし実際に浦島説

話の本文に「七世の孫」という語が現れるのは『群書類従』所

収の『浦嶋子傳』からであり、それ以前の諸本では見られない。

類従本『浦嶋子傳』の成立期は未詳だが、柿村重松氏は「珠簾

動松風調琴の如き、尋不レ

値二

七世之孫一

の如き、將た天山の雪

合浦の霜の如き、平安時代以後通行の文字を用ひあるを以て、

後人古の浦島子傳に擬して、続浦島子傳記を抄略改造せしもの

なること明かなり」と述べている

(十七)

。重松明久氏は亀に変化

した仙女の美貌が「不異楊貴妃西施」と評されていることに注

目し、楊貴妃が中国における美女の代表となったきっかけは白

楽天の『長恨歌』であることから、類従本『浦嶋子傳』の成立

が九世紀半頃以前に遡れないことを指摘した

(十八)

。また渡辺秀

夫氏は類従本『浦嶋子傳』にしか見られない「嶋子忽然頂天山

之雪、乗合浦之霜」という記述が三統理平(八五二~九二六)

作の「禁庭翫月」の「天山不弁何年雪、合浦応迷旧日珠」(『和

漢朗詠集』、『江談抄』)を原拠にしていることを根拠に、その

成立期を延喜以降とした

(十九)

類従本『浦嶋子傳』の結末部分は、以下の通りである。

(前略)(浦嶋子)忽以至二

故郷澄江浦一

。尋不レ

値二

七世之

孫一

、求只茂二

萬歳之松一

。島子齢于レ

時二八歳許也。至レ

不レ

堪、披二

玉匣一

見レ

底、紫煙昇レ

天無二

其賜一

。島子忽然頂二

山之雪一

、乗二

合浦之霜一

矣。(

二十)

このように故郷に戻った浦島子は「尋不値七世之孫」、つま

り七世の孫に会えないことになっており、香取本の洗濯婆の故

郷に帰っても七世の孫に会えないことに対する嘆きと方向性が

一致する。類従本『浦嶋子傳』が『群書類従』所収の『続浦嶋

子傳記』の省略本である『古事談』所載の「浦嶋子伝」や『扶

桑略記』所載の「続浦嶋子伝」をもとに、改筆を施して作られ

たことは、すでに渡辺氏によって指摘されている。そして末部

に「七世之孫」という語が置かれたことについて、氏は単なる

修辞的引用ではなく、「浦嶋子の伝を異郷訪問譚として説話的

な基本の話型の中で再び捉え直そうとする姿勢を示していると

考えることもできよう」と述べた

(二十一)

。「七世の孫」という語

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が見られる浦島説話は、類従本『浦嶋子傳』以降の文献にも見

られる。先行研究では十二世紀成立の『綺語抄』「浦嶋子玉筪」

の項や『雑々集』「三十四

うら島が子のいはれの事」が紹介

されたが、これらの浦島説話は全て浦島子が七世の孫に会える

とし、会えないとする類従本『浦嶋子傳』との関係は不明であ

る(二十二)

。七世の孫にまつわる筋書において類従本『浦嶋子傳』

と同系統の浦島説話は、未だ発見されていない状態である。そ

して浦島子が七世の孫に会う説話は覚一本系『平家物語』巻第

一の「願立」などに受容されているが、会えないとする類従本

『浦嶋子傳』を取り入れた作品は管見の限り香取本のみである。

香取本は現段階で類従本『浦嶋子傳』の血筋を引くと断定でき

る最初の作品として注目すべきである。

さて香取本では、洗濯婆が見る見るうちに老け込む姿が「渭

水を別て、重てたゝむ、呂尚父か、額の浪」、「商山を出て、な

を空かりし、遠司徒か、鬢のゆき」に喩えられている。『本朝

文粋』巻二所収の巨為時の「答六条左大臣辞職表勅」に、「昔

呂尚父之面波、別渭水而猶畳、園司徒之鬢雪、出商山而既寒」

という句が見られる

(二十三)

。この句は『新撰朗詠集』巻下「老

人」の項にも収録される他、『群書類従』「文筆部」所収の内閣

文庫本『泥之草再新』の冒頭に掲げられている。『本朝文粋』

の巨為時の句にある「園司徒」は、『泥之草再新』と『新撰朗

詠集』では「袁司徒」になっている。「出商山」とあることか

ら、「園司徒」は『史記』「留侯世家」で「商山四皓」と呼ばれ

た商山に籠る四人の隠士の中の一人

―東園公がふさわしい

が、彼が司徒の職に着いたことがあるという記録は見られない。

一方「袁司徒」は金原理氏によれば、『後漢書』や『蒙求』に

出てくる袁安を指す

(二十四)

。『後漢書』「袁張韓周列傳第三十五」

に「章和元年、代桓虞為司徒」とあるように、袁安は桓虞に代

わって司徒の位に就いたことがある

(二十五)

。おそらく巨為時が

商山四皓の一人である東園公と司徒の職についたことのある袁

安を混同した結果、「商山を出る袁司徒」が生まれたのであろ

う。袁安を東園公と混同した上、呂尚と対句形式で書かれた漢

詩文は管見の限り、この巨為時の句しかない。香取本の「渭水

を別て、重てたゝむ、呂尚父か、額の浪」、「商山を出て、なを

空かりし、遠司徒か、鬢のゆき」という描写は、「昔呂尚父之

面波、別渭水而猶畳、園司徒之鬢雪、出商山而既寒」という句

を踏まえているのであろう。ところで、そもそも頼光一同と出

会う場面で「黒髪もなく、白髪なる」とされた洗濯婆が老いに

襲われるという筋書は矛盾しているように感じられ、「渭水を

別て、重てたゝむ、呂尚父か、額の浪」、「商山を出て、なを空

かりし、遠司徒か、鬢のゆき」という老け込む姿の描写も蛇足

である。浦島伝承が記された文献のうち、『万葉集』の一七四

〇番歌と『群書類従』所載の『続浦嶋子傳記』・『浦嶋子傳』は

玉手箱を開けたことによって浦島子が一気に年を取ったとす

る。前文で言及した『和漢朗詠集』の古注釈書に見られる「王

質が七世の孫に会う」説話のうち、書陵部本『朗詠抄』と『和

漢朗詠集仮名注』所載のものは王質が一気に老いるという筋書

を有する。

書陵部本『朗詠抄』

(前略)昔、樵夫、嵩山ニ入。山穴ノ中ニ、二人ノ老翁有

テ、囲碁ヲウツヲ見ルコト、半日也。一局終テ後、旧里ニ

帰テ見ルニ、皆カハリハテタリ。事ノ由ヲ問ハ、七世ノ孫

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也。我身ヲ見ハ、白髪老衰シテ、昔ノ姿ニ非ス。然トモ、

仙骨ヲ不レ

得、長寿ナラス。(略)

『和漢朗詠集仮名注』

(前略)昔シ、樵夫

入レ

山、路ニ迷テ、自然ニ仙家

晋王質ト云人王也

ルニ

ニ至テ見ルニ、二人ノ老翁有。石窟ニシテ碁ヲ打ツ。斧ノ

ヲウ

柄ヲ擔所レ

見レ

之。纔ニ半日ハカリト思シ、既ニ斧ノ柄朽チ

カツイテ

折レヌ。其時帰ント云。此二人ノ翁、仙道ヲ教ヘテ帰シ玉

ヘハ、纔ニ碁一番ノ後ト思テ、旧里ニ帰リ、其ノ栖ヲ見レ

スミカ

ハ、知人更ニ無シ。或女ニ近付テ

尋二

子細一

、女云、我七

ルニ

代ノ先祖、嵩山ニ入テ永ク失ニキト云事有リ、伝テ聞クト

云。其時知ヌ、此ノ女ハ、是レ我カ七世ノ孫也ト云ヘリ。

ナツカシサ思フ計リ無シ。我カ身ヲ見レハ、白髪老衰トシ

テ昔ノ資ニ非ス。孫コ又、仙骨ヲ得サレハ、寿不レ

長。但

シ、仙人ノ碁ヲ見シ程ハ、仙骨ヲ得ツレトモ、人間ニ帰テ、

又老衰シタリ。(略)

このように、仙境訪問者が仙境に留まった時間より遥かに長

い年月が経った外の世界で老いに襲われることもまた母体であ

る浦島伝承から独立し、仙境訪問譚の典型的なパターンになり

つつあったことがわかる。香取本の真っ白な髪の老婆が一気に

老け込むという矛盾した筋書は、作者が頑なに洗濯婆の最期の

場面を仙境訪問譚の枠組みに則って書こうとする態度がもたら

した結果であろう。すでに論じた通り、香取本の「渭水を別て、

重てたゝむ、呂尚父か、額の浪」、「商山を出て、なを空かりし、

遠司徒か、鬢のゆき」という描写には、「昔呂尚父之面波、別

渭水而猶畳、園司徒之鬢雪、出商山而既寒」という句が受容さ

れている。一方、類従本『浦嶋子傳』の作者は三統理平の「天

山不弁何年雪、合浦応迷旧日珠」を踏まえて、浦島子の老いて

ゆく姿を「忽然頂天山之雪、乗合浦之霜」と描く。訪問者が一

気に年を取るという結末を有する仙境訪問譚のうち、老いに襲

われる情景に日本の漢詩文が取入れられているのは管見の限り

香取本と類従本『浦嶋子傳』のみであり

(二十六)

、両者はこの点

でも繋がりを見せている。先行研究では「天山不弁何年雪、合

浦応迷旧日珠」が『和漢朗詠集』(巻上

月)に収載されてい

ることについて、この句が愛誦される有名な句であったことが

指摘された

(二十七)

。『泥之草再新』は鎌倉初期に藤原教家が平安

時代後期の漢詩文の長句と詩句を集めて編纂した一種の詩文制

作参考書であり、その内容は『教家摘句』・『教家集句』と同じ

だが、後半の四分の一ほどが欠落している

(二十八)

。「昔呂尚父之

面波、別渭水而猶畳、園司徒之鬢雪、出商山而既寒」が詩文制

作参考書の冒頭に載せられていることから、この句もある程度

知られていたことがわかる。このように、香取本と類従本『浦

嶋子傳』の作者はどちらも比較的知名度の高い漢詩文を作品に

取り入れたのである。香取本に於いて一つの漢詩文作品に原拠

を特定することができる文章は、本文全体を通してこの「渭水

を別て、重てたゝむ、呂尚父か、額の浪」、「商山を出て、なを

空かりし、遠司徒か、鬢のゆき」しかなく、不自然に感じられ

る。これもまた香取本の作者が洗濯婆の最期の場面を作成する

際に類従本『浦嶋子傳』、あるいはそれと同系統の浦島子の伝

を参照したためではないだろうか。

さて、香取本では洗濯婆の嘆き以外にも漢文調で書かれた文

章が何箇所か見られるが、それらは総じて直接一つの漢詩文に

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原拠を求めることができない。この現象自体香取本における漢

文学受容の一傾向を表していると言えるが、以下その起因につ

いて二つの具体例を挙げて分析していきたいと思う。

香取本の巻頭部分は現在失われているが、そのうちの数段分

は室町末頃の写本である陽明文庫蔵『酒天童子物語絵詞』によ

って補われる。それによれば、鬼退治に出発した頼光一同が大

江山の山道をさすらう場面では対句形式の文章が続く。その中

に、以下のような山の情景を描写する一文が見られる。

あそふ鳥の

雲に宿するかたらひさむく、

さるの木をいたひて月にさけふこゑよりほかは、おとする

物そなかりける。

網掛けをした部分では鳥の語らいと猿の叫ぶ声で対になって

おり、特に猿声に言及している下の句は漢文学との関連性が考

えられる。『和漢朗詠集』巻下の「猿」の項では、以下のよう

な漢詩文が収録されている

(二十九)

瑶台霜満

一声之玄鶴唳天

巴峡秋深

五夜之哀猿叫月

(「清賦」

謝観)

胡鴈一声

秋破商客之夢

巴猿三叫

暁霑行人之裳

(「山水策」

大江澄明)

暁峡蘿深猿一叫

暮林花落鳥先啼

(「山中感懐」

大江朝綱)

谷静纔聞山鳥語

梯危斜踏峡猿声

(「送帰山僧」

大江朝綱)

これらの例が示すように、漢詩文の世界では猿声が鳥の鳴き

声と対句形式で詠まれることが珍しくなく、香取本で「さるの

木をいたひて月にさけふこゑ」が「あそふ鳥の

雲に

宿するかたらひ」と対になって記されているのはそのことを踏

まえた結果であろう。①の「清賦」には「五夜之哀猿叫月」と

いう、猿が月に叫ぶ情景を詠む句が見られる。また月夜に猿が

木を抱く情景に関しては、『新撰朗詠集』巻上「落葉」所収の

「哀猨抱木唯携月」(

三十)

という句が連想される。しかしこの二

つの情景を同時に詠む作品は見当たらず、香取本の「さるの木

をいたひて月にさけふこゑ」という表現は一つの漢詩文をその

まま丸ごと取り入れたのではなく、複数の漢詩文で描かれた情

景を組み合わせた上で生まれたのであろう。そしてこのような

手法が、香取本に見られる対句形式の文章の原拠を求める作業

を困難にしたのであろう。

さて、香取本の頼光一同が酒呑童子の四方四季の庭を訪れる

場面では、西の方に見える秋の風景は以下のように描写されて

いる。(

前略)西の方をみれは、

群梢、雨にそんて、梧楸の色、紅なり。

百菓、露結て、蘭菊の花、芳はし。

われ松虫とは、なけれとも、心ひかるゝ、こゑ〳〵也。(略)

この文では、雨に染められたような梧楸の紅色と露が結んだ

蘭菊の花の香りが対句を成している。そして「群梢、雨にそん

て、梧楸の色、紅なり」に見られる「梧楸」という語は『文選』

所収の宋玉の「九辯五首」に「皇天平分四時兮、竊獨悲此廩秋。

白露旣下百草兮、奄離披此梧楸」(

三十一)

とあるように、中国文学

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では古くから秋の景色を描くのに用いられた。梁の鮑泉の「秋

日」という詩に「露色已成霜、梧楸欲夜黄」(

三十二)

(『芸文類聚』

巻三・歳時上・秋)とあるように、梧楸の葉は秋になると黄色

に変わる。一方日本の漢文学の世界では、「梧楸」が紅葉に代

わる語として用いられる現象が見られる。その証拠に、以下の

漢詩文では「梧楸」の葉の色は紅とされる。

『本朝文粹』巻第十

「冬日於神泉苑同賦葉下風枝踈」

源順

(前略)梧楸影中、一声之雨空灑。鷓鴣背上、数片之紅纔

残。(略)(

三十三)

『教家集句』

「葉落満関山応教」

雁嘶楡柳辺沙縟

隼撃梧楸峡水紅

(三十四)

「群梢、雨にそんて、梧楸の色、紅なり」とあるように、紅

色とされる香取本の「梧楸」も日本の漢詩文にのみ見られる「紅

葉」を意味する「梧楸」であり、中国文学の桐と梓を指す「梧

楸」ではない。雨の中の紅葉がまるで雨に染められたように葉

の紅色が一層鮮やかに見えるというのは、古くから和歌に詠ま

れた情景である。その最も早い例として、紀貫之の以下の二首

の和歌が挙げられる。

『古今和歌集』巻第十九

一〇一〇

きみがさすみかさの山のもみぢばのいろ神な月

しぐれのあめのそめるなりけり

つらゆき

『貫之集』第四

「同五年亭子院御屏風のれうにうた廿一首」

五一七

神無月時雨にそめて紅葉ばを錦におれるかみな

びの森

また院政期歌壇の金字塔とも言うべき『堀河院百首和歌』(一

一〇五~六)では、時雨に染められた紅葉が詠まれた歌は「紅

葉」と「時雨」の題で合わせて三首見られる。

「紅葉」

八五三

あさからぬやしほの岡の紅葉葉を何あやにくに

時雨そむらん

顕季

八六二

もみぢばのくれなゐ深き山里はたえず時雨やふ

りてそむらん

肥後

「時雨」

九〇八

いかにして時雨は色もみえなくにから紅にもみ

ぢそむらん

永縁

歌合の場でも雨に色付く紅葉の歌が作られ、当代著名な歌人

を多く集めて催された『中宮亮顕輔家歌合』(一一三四)の五

番には以下のような和歌が詠まれた。

三三

おしなべて紅葉の色に成りにけり時雨に染まぬ

梢なければ

宰相中将

「左の時雨に染まぬもみぢ葉、右の嵐にはつられたらんもみ

ぢ葉よりはまさりてや侍らん」という判詞が示すように、判者

の藤原基俊はこの歌を右の歌より優れているとした。そしてこ

の歌で描かれた梢の紅葉葉が全て時雨によって紅色に染まると

いう情景は、香取本の「群梢、雨にそんて、梧楸の色、紅なり」

に近い。このように、香取本における特定の出典が明示できな

い対句形式の文章の中には、漢詩文と関係ある語彙が使われて

いるものの、描かれた情景には和歌が取り入れられているとい

うケースも見られる。

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本論文で行われた香取本に関する全ての調査から、漢文学の

受容に見られる傾向を二点にまとめた。一つは中国文学に由来

するエピソードや語を取り入れる際に、直接中国の原拠を取り

入れるよりも、それを一度受け入れ、変容が行われた日本の漢

文学作品の方を積極的に受容する傾向である。洗濯婆の最期の

場面に見られる七世の孫に関する記述が「劉阮天台山」ではな

く類従本『浦嶋子傳』の影響を受けていることや、「梧楸」と

いう言葉の用法が日本の漢詩文に拠っていることがその表れで

ある。

もう一つは漢文の作品を取り入れる際に、それをそのまま受

容するのではなく、関連する内容を持つ他の作品と融合させて

新しく作り直す工夫を施す傾向である。具体的には、香取本の

「さるの木をいたひて月にさけふこゑ」という記述に漢詩文で

よく詠まれた猿にまつわる二つの情景が組み合わさっているこ

とが挙げられる。さて、香取本では洗濯婆は「蜉蝣の齢、夕を

またぬ習にて、芭蕉の命、風にやふれしかは」とあるように、

「鬼隠しの里」を出る前に倒れ伏して亡くなったのである。諸

文献に記された浦島説話の中にも一気に老いた浦島子が最後は

亡くなったことが明記されるものがあり、『万葉集』一七四〇

番歌の末尾には「ゆなゆなは、氣さへ縟えて、後つひに、命死

にける」という記述が見られる

(三十五)

。また『釈日本紀』巻十

二「述義八

雄略」に見られる『本朝神仙傳』所引の浦島子の

伝も「浦嶋子忽變衰老皓白之人、不去而死」という結末を持ち、

「事見別傳幷於万葉集」と附記されているように、『万葉集』

を受け継いでいる

(三十六)

。以上から、香取本の作者は類従本『浦

嶋子傳』だけではなく、浦島子が老いた末に亡くなるとする浦

島説話をも洗濯婆の最期の場面に取り入れたことがわかる。そ

してこのような幾つかの浦島説話の結末を融合させて香取本の

一つの場面に取り入れる点は、実に受容した漢文学作品に対し

て一ひねりを加えたがる香取本の作者らしいと言える。

さて、先行研究では香取本における漢文学の受容について、

酒呑童子の酒宴場面に見られる「銀の瓶子の、大やかなるに酒

入、金の鉢なんとに、なにの肉やらん、いとたかく、もりあけ

て、もちつゝ来り。彼もろこしの、張文成といひし人か、仙窟

にいたりて、神女にあひなれけんも、かくや有けんとそおほえ

ける」という異文が『遊仙窟』(中国唐代の伝奇小説、作者は

張鷟)の影響を受けていることと

(三十七)

、ストーリーの骨子に

『太平広記』などに収録されている「補江総白猿伝」という唐

代の小説が受容されていることが指摘された

(三十八)

。一方、日

本の漢文学作品と香取本の繋がりに関してはこれまで言及され

てこなかった。この空白を埋めるべく、本論文の調査で明らか

になった日本の漢詩文を積極的に取り入れる香取本の作者の姿

勢は注目されるべきである。

[注]

(一)本論文における『大江山絵詞』の解説は小松茂美編続日本絵巻

大成一九『土蜘蛛草紙・天狗草紙・大江山絵詞』(中央公論社

一九八四)、同氏編続日本の絵巻二六『土蜘蛛草子・天狗草子・

大江山絵詞』(中央公論社

一九九三)に拠った。また、本論文

では『大江山絵詞』の本文は全て横山重・松本隆信編『室町時代

物語大成』三(角川書店

一九七五)より引用し、陽明文庫本『酒

天童子物語絵詞』の本文は続日本絵巻大成一九に拠った。

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(二)安藤秀幸

「『酒呑童子』諸本論再考」

『国語国文』八四―

二〇一五年九月

(三)中西陽子

「酒呑童子の神性―表現と変遷」

『明治大学日本

文学』一七

一九八九年九月

(四)李瑄根編著

『高麗大蔵経』三九

「佛説佛名経・外二部」

東國大學校

一九七六

(五)日本古典文学大系七二

『菅家文草

菅家後集』

岩波書店

一九六六

(六)天理図書館善本叢書和書之部編集委員会編

『平安詩文殘篇』

天理大学出版部

一九八四

(七)本論文で引用されている『和漢朗詠集』の古注釈はすべて伊藤

正義・黒田彰編『和漢朗詠集古注釈集成』(大学堂書店

一九八

九)に拠る。

(八)増田欣

「平家物語と源光行の蒙求和歌」

『富山大学教育学

部紀要』一七

一九六九年三月

(九)李昉等奉勅撰

『太平御覧』

中文出版社

一九八二

(十)本論文で引用された和歌は全て『新編国歌大観』(角川書店

一九八三)に拠る。

(十一)佐佐木信綱

『日本歌学大系』三

風間書房

一九五七

(十二)『和漢朗詠集』の注釈書は院政前期から鎌倉室町期にかけて

かなりの種類が編まれ、現在これらの古注釈本は江注系、私注系、

註抄系、見聞系、書陵部本系、永済系、和談鈔系の七系統に分け

られている。黒田彰氏の「室町以前〈朗詠注〉書誌稿」(『中世説

話の文学史的環境』

和泉書院

一九九五)に、各系統について

の詳細な説明が載っている。

(十三)田中幹子

「〈斧の柄朽ちし王質〉が〈七世の孫に会う〉こ

―漢故事変容の諸相」

『就実語文』一九

一九九八年一二

(十四)浦島説話の諸本の系統分けは渡辺秀夫氏「『浦嶋子伝』の検

―成立と表現をめぐって

―」(『東横国文学』一二〈一九八

〇年三月〉。『平安朝文学と漢文世界』第八章「〈付説〉群書類従

本『浦嶋子伝』の検討」〈勉誠出版

一九九一〉に再録)に従っ

た。

(十五)久松潜一

『契沖全集』四

岩波書店

一九七三

(十六)項青

「平安時代における劉阮天台説話の受容と風土記系「浦

島子」伝」

『国語国文学研究』三二

一九九七年二月

(十七)柿村重松氏『上代日本漢文学史』(日本書院

一九四七)「第

二篇

上代後期」の「第二十一章

傳説と漢文」

に拠る。

(十八)重松明久氏『浦島子伝』(現代思潮社

一九八一)の「浦島

子伝

解説(四)」に拠る。

(十九)注(十四)の渡辺氏の論文に拠る。

(二十)本論文における『群書類従』の引用は、全て『新校羣書類従』

(内外書籍

一九二七)に拠る。

(二十一)注(十四)の渡辺氏の論文に拠る。

(二十二)林晃平氏『浦島伝説の研究』(おうふう

二〇〇一)の「第

二章

浦島太郎誕生の周辺」「第二節

浦島太郎誕生の諸問題二」

に拠る。

(二十三)本論文における『本朝文粋』の引用は全て岩波書店の新日

本古典文学大系二七に拠る。

(二十四)金原理

「『泥之草再新』管見

―祐徳神社蔵『教家集句』

の紹介をかねて

―」

『平安文学研究』六一

一九七九年六月

(二十五)班固撰

顔師古注

『後漢書』

中華書局

一九六二

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(二十六)浦島子が老いる姿は『万葉集』一七四〇番歌では「若かり

し、膚も皺みぬ、黑かりし、髪も白けぬ」と描写されており、『続

浦嶋子傳記』では「老大忽来、精神恍惚」とある。

(二十七)注(十四)の渡辺氏の論文に拠る。

(二十八)『群書解題』(続群書類従完成会

一九八八)、山岸徳平氏

『日本漢文学研究』(「山岸徳平著作集

一」

有精堂出版

一九

七二)所収の「〈泥之草再新〉について」に拠る。

(二十九)本論文に引用された『和漢朗詠集』の詩句は全て小学館の

新編日本古典文学全集十九に拠る。

(三十)和歌文学大系四七

『和漢朗詠集

新撰朗詠集』

明治書院

二〇一一

(三十一)新釈漢文大系八二

『文選』(文章篇)上

明治書院

九六三

(三十二)欧陽詢

『藝文類聚』

上海古籍出版社

一九六五

(三十三)この句は『和漢朗詠集』巻上「秋

落葉」にも収録されて

いる。

(三十四)金原理

「鹿島市祐徳神社蔵『教家集句』

―翻刻と解題

―」

田村円澄先生古稀記念会編『東アジアと日本宗教・文学

編』

吉川弘文館

一九八七

(三十五)日本古典文学大系五

『万葉集』二

岩波書店

一九六二

(三十六)國史大系八『日本書紀私記

釋日本紀

日本逸史』

國史

大系刊行會

一九三二

(三十七)高橋昌明氏は『酒呑童子の誕生

―もうひとつの日本文化』

(中央公論新社

二〇〇五)で酒呑童子説話における『遊仙窟』

の影響について、『大江山絵詞』以外の伝本をも視野に入れて以

下のように述べた。

(前略)逸本が鬼が城での童子の頼光一行にたいする歓待

ぶりを、『遊仙窟』のそれになぞらえているように、川辺で

若い洗濯女に出会うこと、彼女の反対を押し切って鬼が城

に着き、門傍らの建物に入ること、亭主の歓待を受け、数

多の美女が侍ることなど、逸本・サ本、さらには両本の出

発点となった祖本は、プロットの構成にあたって、間違い

なく『遊仙窟』の影響を受けている。(略)

(「第三章

竜宮城の酒呑童子」

一、「竜宮としての鬼が城」)

(三十八)黒田彰氏は「酒呑童子と白猿伝

―草子と唐代伝奇

―」

(『中世説話の文学史的環境』

和泉書院

一九九五)において

酒呑童子説話と「白猿伝」の筋書きを比較した結果、「細部の異

同はともかく、御伽草子がその骨格を白猿伝に負うていることは、

間違いない」と結論した。

(はく

けい・本学大学院博士後期課程)