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Title 多民族社会における宗教 ―シンガポールのヒンドゥー 教をめぐって― Author(s) 田中, 雅一 Citation 人文學報 = The Zinbun Gakuhō : Journal of Humanities (2005), 92: 1-39 Issue Date 2005-03 URL https://doi.org/10.14989/48666 Right Type Departmental Bulletin Paper Textversion publisher Kyoto University

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Title 多民族社会における宗教 ―シンガポールのヒンドゥー教をめぐって―

Author(s) 田中, 雅一

Citation 人文學報 = The Zinbun Gakuhō : Journal of Humanities(2005), 92: 1-39

Issue Date 2005-03

URL https://doi.org/10.14989/48666

Right

Type Departmental Bulletin Paper

Textversion publisher

Kyoto University

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『人文学報』第 92号 (2005年 3 月 )

(京都大学人文科学研究所)

多民族社会における宗教

シンガポールのヒンドゥー教をめぐって一一

田 中 雅 一一*

概して,現代の国民一国家は,……差異に対しては分類学的な管理を行い,多様な国際的スベクタク

ルを創出しては差異を懐柔し,世界的あるいはコスモポリタン的な舞台の上で少数派集団が自己表現

できるという夢想をもって彼らを骨抜きにする[アパデュライ 2004 : 80J 。

l 序 論

本書の目的は,多民族社会シンガポールにおけるヒンドゥー教がどのようなまなざしにさら

されてきたのか,そして当地のヒンドゥ一社会のあり方とどう関連しているのかを考察するこ

とにある。ここではとくにタイ・プーサムという祭りを取りあげる。

シンガポールのヒンドゥー教は,いわゆる「在外ヒンドゥ一教 overseas HinduismJ であ

り,少数派の宗教であり,また都市の宗教である。それはさまざまな意味でインドにおけるヒ

ンドゥー教とは異なる社会的状況下にある。シンガポールのインド系住民の人口は中国系,マ

レ一系に続き 3番目で少数派である Oまたシンガポールは高度に発達した都市国家であり,ヒ

ンドゥー教は都市化とグローバリゼーションの影響を受けてきた。

以下ではシンガポールのヒンドゥ一教を理解するために 2つの点について述べておきた l ¥0

1 つ は ヒ ン ド ゥ ー教の テ ク ス 卜 化 と 呼ばれ る現象であ る O も うl つ は , 本稿の中心と な る ス ペ

クタクル化である。どちらも多民族社会におけるヒンドゥー教のあり方を示唆する特徴として

あげることができる。

本来,ヒンドゥー教は儀礼を重視し,生活実践と密接に関係している宗教である。仏陀やイ

エスのような創始者もいないし,聖書やクゥルラーンのような聖典も確定していな L 可。ヴェー

ダはもっとも聖なる教典とみなされているが,その意味内容は現代のヒンドゥ一教徒の実践に

*たなかまさかず京都大学人文科学研究所教授社会人類学専攻 shakti@zinbun . kyァo to-u . ac.jp

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はほとんど、結び、ついていない。そして,その教義は聖典などの文字媒体ではなく,多くの場合

口承や実践を通じて継承されてきた。ヒンドゥー教とは教科書で学ぶべきものではなく,生活

実践の中で見ょう見まねで,そして意識することなく身につけていくものなのであるO儀礼な

どを実践する過程を通じて,その背後にある神話や象徴的な意味を学んでいくのである。

こうした特徴を踏まえ,ヒンドゥー教はしばしばオーソドキシ- orthodoxy と 対比さ れ る

形でオーソプラクシー orthopraxyの宗教と呼ばれてきた])。オーソドキシーとは神や創始者

の正しい教え (orthodox)を核とする宗教で,典型的にプロテスタント系のキリスト教が挙げ

られる。それはたんに聖典を重視するかどうかだけでなく,聖典の内容が教えあるいは信仰を

重視するかどうかが問題なのであるヘ

ヒンドゥー教は,思弁的な教義を発展させたにもかかわらず,そのオーソプラクシーの性格

ゆえに,インド亜大陸とその周辺を越えて広まるということはなかった。人はヒンドゥー教徒

になるのではない,ヒンドゥー教徒に生まれるのだ。それは「民族宗教」であり,異民族の改

宗を通じて普及する「世界宗教」とは言えない。インド亜大陸以外の土地へのヒンドゥー教の

普及は移民によって可能となった。シンガポールのヒンドゥー教も例外ではな ~ \oそれは,主

としてゴム・プランテーションの労働者としてインド亜大陸から導入されたインド系移民に

よってマレ一半島に広がったのである。

こうしたヒンドゥー教の性格はけっして不変的なものではな L 可。植民地支配下においてヒン

ドゥ一教が,キリスト教と接し,より意識的な宗教に変貌したことはよく知られている 3)。た

とえばヴィヴェーカナンダ Vivekananda (1863-1902) は , 1893 年に シ カ ゴの国際宗教会議

で欧米の聴衆に感銘を与え,ヒンドゥー教の地位向上に多大な貢献をした。そして 1897年に

ラーマクリシュナ・ミッションを設立し,他宗教からの改宗に先駆的な役割を果たした。同じ

頃,英語によるヒンドゥー教の書物が書かれ,これが今度はインドの都市エリートたちに大き

な影響を与えていったヘヒンドゥー教は内外へのミッション(伝道)の対象となり,身体技法

としてではなく,文字で理解可能な知識へと変貌する。これを本章ではシンハ [Sinha 1987:

174, 1993:839] に な ら っ て テ ク ス ト 化textualiza tion と呼ぶ こ と に し よ う 。 し か し , こ こ で

言うところのテクスト化とは,無文字社会の宗教が文字化することを意味したり,また儀礼を

文字で記述したりするということではなく,あくまで平易でわかりやすい文章や語嚢によって

宗教実践が伝達可能なものとなる過程を意味する 5)。それはたんに文字化だけでなく写真や図

一一広い意味でのテクストーーを使う場合も含まれてし 1る。したがってテクスト化を「教科

書化」と訳する方が妥当かもしれなし凡なお,本稿では,テクスト化がもたらす宗教実践への

影響などを問うのではな~ \6) 。 多民族社会にお け る 1 つ の潮流 と し て宗教実践の テ ク ス ト 化 と

いう事態を指摘したいのである。

さて,こうしたテクスト化を通じて,さまざまな教えや儀礼の取捨選択が生じる Oその典型

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は,動物供犠などの暴力的要素である。それらは,儀礼において中心的な位置を占めていたが,

植民地政府やホスト社会との関係で「改革」の対象となっていった。インドでは英国植民地政

府がまず指導し,これをエリート層のヒンドゥ一教徒が支持することになった。その典型は

1827 年に禁 じ ら れた サ テ ィ ー (寡婦殉死) で あ り , ま た19 世紀半ばに問題化す る 火渡 り や鈎

吊りという儀礼的所作であった7)。こうしたことは,インドだけでなく,スリランカやマレ一半

島(後述)でも起こった。

ところが,改革の対象となった暴力的要素が近年新たな要素が付け加わった。それが儀礼の

スペクタクル化で:ある。マカルーン [ 1 988 : 391-395J に よ る と , 1. 観る対象と な る も の ,

2. 大がか り な も の , 驚嘆を引 き起 こ す も の , 3. 演 じ る者 と観る者の役割の制度化, 4. 中心

となる人物の動作の存在の 4つがスペクタクルには必要である 8)。スペクタクル化とは,儀礼

が華美かっ大がかりになり実践よりも観る対象として変化していくことを意味する。つまり,

スペクタクル化する儀礼においては実践する者とそれを観る者あるいは楽しむ者という儀礼を

取りまく人々の対立が固定しつつあるヘこれもまた,ヒンドゥー教がマイノリティの宗教で

ある状況下で生じる傾向にある。なぜならその社会の多くは観る側に属するからである。そし

て,宗教的実践は観られることを意識してしぺ。これにはテレビなどのマスメディアの発達も

大いに関係しよう。儀礼は観衆を惹きつけるスペクタクル(見せ物)へと変貌してし1く。それに

ともない,暴力的要素は,野蛮で否定すべき要素,宗教にふさわしくない要素だという意味が

変化していく!o)。それはスペクタクルに不可避な「華」へと変化するのである。

シンガポールについて言えば,スペクタクル化した儀礼はインド系コミュニティの際だった

シンボルとなる。つまり,マイノリティとしてのヒンドゥー教は 2つの,一見矛盾する変化を

被るのである。 1つは実践から離れ,脱文脈化した知識,テクスト化した知識へと変容するこ

と,それは儀礼の否定とも言える。もう 1つは儀礼がスペクタクルとしてますます華美になる

ということ,この 2つである。どちらにも共通することはそれが日常的な実践から遊離してい

るということであろう。ヒンドゥー教は,即白的な慣習的行為(実践)から,他者を意識した,

より対自的な宗教へと変貌するのである I II。

本稿ではシンガポールにおけるヒンドゥー儀礼に以上のような変化を吟味したい。まず,シ

ンガポールにおけるインド系コミュニティの概要とヒンドゥー教について紹介する(第 2章か

ら第 4章)。つぎに,宗教のテクスト化の l例として,ヒンドゥー・センターの発足と宗教知識

という必須科目を紹介する(第 5章)。そして,いくつかの章に分けて,カーヴァディとタイ・

プーサム祭について詳述する(第 6章と第 7章)。その後,儀礼をめぐる言説の変化に言及する

ことでタイ・プーサムの現代的な意義を分析する(第 8章と第 9章)。さらに,考察としてタ

イ・プーサムについての先行研究の問題点(第 10章),テクスト化とスペクタクル化という 2

種類の変化を統合的に理解する試み(第 11章),そして,最後にスペクタクル概念について観

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光との関係で検討したい。

2 多民族国家 シ ン ガポ ー ル

シンガポールは沖縄本島より少し大きめの小さな島国であり,民族間,あるいは宗教聞の対

立は国家そのものの消滅につながりかねな L 、。このため,シンガポールでは,国家統合という

視点、から少数民族政策や宗教政策が提案されてきた [Lai 2004J 。 シ ン ガ ポ ー ル は1963 年に

マレ一連邦の一員として独立,その 2年後に分離独立する。シンガポールは,いまでこそ治安

の高さで有名であるが,マレーシア連邦への参加直後の 1 964年 7月にマレ一人による大規模

な暴動があった 1 2)。その際生じたのが,国家は保証されたが国民は不在という状況であった

[Lian1999:40J 。

1965 年8 月9 日 , マ レ ー シ アか ら の独立の直前に , 首相 と な る リ ー ・ ク ア ン ユ ー が記者会

見でつぎのように述べている。

わたしたちは,シンガポールで多人種の国民 a multi-racialnation を も つ こ と に な る 。

私たちがモデルを示すことになろう。この国は,マレ一人だけが国民ではない。中国人

(華人)だけが国民ではな l 'aインド人だけが国民ではな l 'aみんなが自分たちの場所を

もち,言語,文化,宗教について平等なのだ [Kho 1979:29J 。

ここには多民族社会という明白な認識が認められるが,独立当初はむしろ民族融合,新たな

シンガポール人の創出が試みられた問。その後各民族の特徴を強調する政策転換が生じること

になる a 1970 年代末以後に お け る 多民族主義の前提 と な っ た の は, シ ン ガ ポ ー ル は中国系

Chinese , マ レ 一系Malays , イ ン ド 系Indians , そ の他Others (ヨーロッパ系など)の 4つ(英

語の頭文字をとって, CMIO と表現さ れ る ) の諸民族か ら成立 し てお り , こ れ ら の集団に は特定の

言語,文化,宗教などが対応するという考え方である。そして, 70 年代末に始ま る 「華語を

話そうキャンペーン Speak MandarinCampaignJ , 言語教育の整備14) や , 80 年代の儒教, ヒ

ンドゥー教,キリスト教などの宗教教育の導入が実現した。しかし,キリスト教勢力の拡大に

よる脅威からこうした宗教教育は廃止され, 1990 年に は宗教調和維持法が施行さ れ る 。 そ の

後イスラーム勢力の世界的な復興に伴い,キリスト教に代わってイスラームの脅威が問題と

なった。なお,インド系コミュニティがシンガポール政府にとって脅威となったり社会不安の

材料になったりするということはほとんどなかった 1 5)。

民族の固定化は,ある意味で統合的な国民の創出という国民国家の理想、に反し,少数民族の

存在を認めているようだが問題がないわけではない。 CMIOといった民族を固定化し,各民族

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の内部における多様性を無視することになる。そして,異民族間結婚による子供たちのように,

そのどこにも属さない人,決定的な母語を有しない人が無視される,という問題が生じる 16)。

さらに,すくなくともその問に差異をつけないことで,国家(政府与党)は,民族問の対立の

当事者としてでなく調停者として振る舞うことができるし,また 1990年代に見られるボラン

ティアを中心とする自助集団の活動に見られるように,貧富の格差などを国家の責任ではなく

各民族固有の文化的な問題だという考えを正当化してしまう17)。もちろんこれが,統治という

視点からどの程度有効なのか,という点については異論があろう。実際,各民族の関係を固定

化してしまうことは,深刻な対立や分断を深める結果になりかねなし、からである。

3 政府と ヒ ン ド ゥ 一教

今日のシンガポールを含むマレ一半島に居住するヒンドゥー教徒の祖先は 19世紀にインド

からやってきた 1 8)。かれらの多くは当時の英領マラヤにおけるサトウキビやゴムのプランテー

ションで働く労働者であった。当時は 5人のうち 4人がヒンドゥー教徒で,その多くが南イン

ド出身の低カースト,とくに不可触民であった。反対に,高位のカースト,とくにバラモンは

見あたらなかった。 2000年のシンガポールの人口, 326 万の う ち , お よ そ26 万人, すなわ ち

7.9 パ ー セ ン ト が イ ン ド系 と さ れ る が, こ の 中 に は イ ン ド以外の南 ア ジ ア 出身の人々 や ヒ ン

ドゥー教徒以外の人々も含まれる 1 9)。そして,このインド系シンガポール人のおよそ 6害Ijがタ

ミル語を母語とする南インド出身者である 20)oヒンドゥー教徒はインド系シンガポール人の半

分を占める21l。かれらは,徐々にその地位を高め,代わりに 1980年代に増加したインドからの

出稼ぎ労働者が最下位の階層を占めることになった。

シンガポールには,ヒンドゥー教を扱う 2つの政府部局が存在する。 1つはヒンドゥー寄進

局 The HinduEndowmentsBoard で, も う l つ は ヒ ン ド ゥ ー諮問局The HinduAdvisory

Board であ る 。 前者の前身は イ ス ラ ー ム と ヒ ン ド ゥ 一教の慈善寄進委員会The Mohammedュ

anandHinduCharitableEndowmentsBoard と い う 名で1905 年に設置さ れた。 そ の き っ

かけとなったのは, 1905 年, ペナ ンでモ ス ク , 墓地, 寺院な どのた め に土地を配分 し た に も

かかわらずその一部が売買されるという事件である。宗教施設の健全な運営と管理の強化をめ

ざして法律が制定されたのである 22) 0 1968 年, シ ン ガポ ー ル独立後, こ れはHEB と ム ス リ ム

宗教カウンシル The MusulimReligiousCouncil , TheMajlisUgamaIslamSingapura に

分かれた。ヒンドゥー寄進局のメンバーは社会開発・青年・スポーツ省 Min istry ofCommu・

nityDevelopment , YouthandSports に よ っ て任命さ れ, 3 年間の任期であ る 。 そ の中心と

なる活動は 4つのヒンドゥ一寺院の管理運営であるお)。そして,毎月 Singαpore Hindu と い

う雑誌を出し,ヒンドゥー教の理解や情報の普及につとめている 24 )

~ 5

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本稿で詳述するタイ・プーサム祭の実施においてはヒンドゥー寄進局が,政府観光局ととも

に重要な役割を果たしている。たとえば,カーヴァディなどの儀礼参加者は参加費をはらわな

ければならないが,これはヒンドゥー寄進局とチェッティヤール寺院とで折半されるO後に見

るさまざまな規制もヒンドゥー寄進局を通じて実施されているOまた,観光局は外国人向けの

パンフレットなどを用意し配布している。国家はこれらの機関を通じて,タイ・プーサムに影

響を与えている。

もう lつのヒンドゥー諮問局は,インド系ムスリムの反乱 Singapore Mutiny を き っ か け

に,イスラーム諮問局 The MohammedanAdvisoryBoard と と も に1915 年に設置さ れ, 当

時の植民地政府にヒンドゥー教について諮問をすることであった。これは政府に諮問する行政

機関で,やはり社会開発・青年・スポーツ省に属す。これらの部局は,シンガポールのヒン

ドゥ一教とヒンドゥー教徒の保護や地位の向上をめざすものとして位置づけられている O

4 ヒ ン ド ゥ ー教の習合的性格

図 1ヒンドゥー寺院の前で中国式に礼拝す

る中国系シンガポール人

HillTemple) , 仏 教 徒 が こ れ ら の ヒ ン

ドゥー寺院にやってくることもまれではな

い(図 1 )26) 。 ま た , ヒ ン ド ゥ 一 孝文 j走が中

Timah Road の ム ルガ ン ・ ヒ ル寺院Murugan

南インドの場合と同じく,シンガポールにおいても寺院は重要な役割を果たしてきた。シン

ガポールには大小合わせておよそ 50の寺院が存在する。この中には HEBが管理する 4つの

寺院も含まれている。さらに,多数の小嗣

が存在する。各寺院には主神が把られてい

るが,境内にはそれ以外のさまざまな神々

を杷る小嗣がある。そこでは年に数回の祭

杷を行う。そして司祭をシンガポールある

いはインド,とくにタミルナードゥ州など

から雇用している。シンガポールのヒン

ドゥ一教に特徴的なことは,インドと異な

り,シヴァ派とヴィシュヌ派との区別が厳

密になされておらず,両派の神々が lつの

寺院に認められることである 25)。それだけ

ではない。仏陀や観音の像が境内に安置さ

れていることもあるし(たとえば Bukit

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国系の廟を訪ね病気治療などについて相談することもある2九これらの習合的な性格は,後に

見るようにシンガポール政府の基本方針で、ある,多宗教,多民族の共生や調和,さらには国家

統合の顕著な例だとも解釈できるし,実際そのようなものとしてマスメディアなどでもてはや

されてきた。しかし,ヒンドゥ一教徒の中には,他宗教との習合的な性格は自分たちの伝統や

アイデンティティを脅かすものとしてとらえられている [Sinha 1987:172-173J 。

さらに,結婚などを通じて,キリスト教に改宗するという事例がしばしば報告されており,

改宗問題がヒンドゥー教徒の頭痛の種となっている 28)。

年輩のヒンドゥ一教徒に言わせると,これは世代の問題でもある。若い世代は,ヒンドゥー

教への関心がきわめて薄いというのだ。かれらは自分たちの属するコミュニティの伝統を失い

つつある。そもそも宗教への関心が徐々に減ってきているのである2ヘ他方で,多文化共生の

文脈では,自分たちの宗教についていままでにまして意識せざるを得ない状況になっている。

年輩のヒンドゥー教徒たちの関心もこうした状況と密接に関係していると言えよう。

5 ヒ ン ド ゥ ー ・ セ ン タ ー と宗教教育

本章ではヒンドゥー教のテクス卜化について述べたい。若者のヒンドゥー教離れを阻止する

ために,多くの民間団体が独自の宗教教育プログラムを作成し,これを実施してきた。ヒン

ドゥ-・センタ- Hindu Centre はそ の種の団体のl つで, 1978 年に設立さ れた。 こ れま で

に多くのセミナーやワークショッフ。を組織してきた。その目的としてシンガポールでのヒン

ドゥー教の学習と実践を促進すること,宗教的慣用と異民族問の調和を保持すること,家族

の粋を保持し,若者のエネルギーを生産的なものに変えることをあげている [Stra its Times

1978.8.26J 。 ヒ ン ド ゥ ー ・ セ ン タ ー は, ヒ ン ド ゥ 一教徒にお け る宗派や言語の相違を考慮 して,

あえて「共通語」である英語を使用している Oヒンドゥー・センターは他の多くの集団を結び

つける統括組織となることをめざしている Oそれは,ヒンドゥー教がたんに偶像崇拝の宗教で

はないこと,ディーパーヴァリーやタイ・プーサムなどのお祭りの宗教ではなく,深遠な教義

をもっ宗教であることを若いヒンドゥー教徒に教えたいという [Stra its Times1983.2.3J 。

その機関誌『オームカーラ OmkaraJから引用しよう。

多くの儀礼や慣習が意義や意味をもっOしかし少数の者のみがこれらの儀礼や慣習を十全

な意識と理解をもって実践している。多くの者にとって,儀礼の遂行は慣習的な実践であ

る。……年輩者にとって,そのような(個人的な経験によって強化されている)盲目的信仰は

パクティ(信仰)を促進し,保持するかもしれなし」しかし,若い世代は鋭い探求心をも

ち,科学的探究の時代に住み,豊かな知識に囲こまれているため,そのような教えに盲目

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的に執着する用意がな l )。論理的な分析を適用し,理性の絶対優位を保持して,若い精神

はヒンドゥー教の複雑な概念にくじかれ当惑するOそのような若い精神には納得のいく説

明を与える必要がある。若い世代には実践の指針を包括的な形で教えなければならない。

現在存在する最古の宗教であるヒンドゥ一教の精神的かっ文化的価値を保持するために,

ヒンドゥー・センターは設立されたのである [Hindu Centre1982:33J 。

若い世代にヒンドゥ一教の本質を伝える方法は,儀礼や原典を通じてではなく,簡単な英語

で教えるということであった。

タミル系インド人のマニ [Mani 1993:800J に よ る と , こ の組織は, ヒ ン ド ゥ 一教に と っ

ての高文化を示すサンスクリット語や,もっとも聖なる時代を表していたとされるヴェーダ聖

典の宗教実践を賞賛する傾向がある。このためタミル語を使ってヒンドゥー教の普及や地位の

向上を押し進める意図はなかったとし 1う。

さて,ヒンドゥー・センターが設立されて間もない 1982年に,政府は,日本の高校生に当た

る生徒たちに宗教知識 Religious Knowledge と い う 科目 を必須科目 と し て導入す る こ と を決

定した。初年度の 1984年は,キリスト教,仏教それからイスラーム,ヒンドゥー教と世界宗教

WorldReligion の 5 科目が, 翌年 1 985 年に は儒教, 1986 年に は シ ク 教が加わ っ た。 こ れは,

これまでの道徳科目に代わって導入されたもので,宗教を通じて,愛国心の欠如,孝行の精神

などの衰退を克服し,さらに労働に関わる道徳的価値を普及させようとするものである。それ

は,西欧化,物質主義,中国からの共産主義の浸透に対抗するためであり,その背後には,と

くに儒教の普及とそれを核にする道徳的価値の確立,そして国民文化の創出という政府の意図

が認められる [Tamney 1996:37J 。

キリスト教と仏教は英語と中国語,イスラームはマレ一語,ヒンドゥー教は英語で教えられ

た。これは 1988年まで必須科目であった。必須科目をはずされてから,これらの教科を選択す

る学生の数は,イスラームをのぞいて激減し,実質 90年代になって学校教育の現場から自然

消滅する。政府は,特定の宗教を通じて「生活倫理」を普及するのではなく,新たに提案され

た,国民の心得とでも言える「国民共有価値 Shared ValuesJ を教育す る と い う 方針に変更

したのである 30)。圃民共有価値の基本内容は,個人よりもコミュニティ,そして国家を優先す

る,家族を社会の基礎とする,そして競争よりも同意を重視する,などである O

方針変更の理由は,宗教教育がキリスト教の解放の神学に見られるような潜在的に反政府的

な動きをかえって助長すると政府は考えたからである。布教を基本とするキリスト教などは,

宗教教育の場をこうした布教活動の一環として位置づけ,他宗教との対決の姿勢を強めていっ

たと理解されていた。事実,中国系住民の間でキリスト教への改宗は進んでいった:ぅ1)。そして,

宗教教育の必須科目廃止と前後して 1 990年には宗教と政治との分離を目指す宗教調和維持法

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MaintenanceofReligiousHarmonyAct が発効さ れた。 こ れ は明 らかに キ リ ス ト 教 と イ ス

ラームの危険を念頭に置いたものであった。

さて,ヒンドゥー・センターも宗教教育の導入に積極的に関わり,教科書作りで中心的な

役割を果たしている。そして政府から 2冊の教科書が出版されたが,この著者は南インドの

ポンディシエリーにあるシュリー・オーロビンド国際教育センター The SriAurobindo

InternationalCentreofEducation で英語を教え る マ ノ ー ジ ・ ダー スManoj Das であ っ た。

詳しいことは分からないが,かれにはすでにたくさんの著作があり,またその名前からタミル

人ではないことがわかる。そして,世界的に有名なベンガル出身の宗教思想家で、英国で、教育を

受けたオーロビンド・ゴーシュ Aurobindo Gosh0872-1950)32) と 密接に関わ っ て い る こ と

から,インドのある地域に偏らない,世界に通じる世界宗教としてのヒンドゥー教の普及を目

的とするヒンドゥー・センターの意向とダースのキャリアは合致していたと言えるOそこで強

調されていることは儀礼主義的性格の批判である(たとえば [Stra仇 Times 1983.2.3]など)。

こうして,若者たちのヒンドゥー教離れを阻止しようとするヒンドゥー・センターの願いは

短い期間ではあったが 1980年代に政府主導で実現されることになった。ヒンドゥー教が儀礼

中心の前近代的な宗教であるといった先入観を修正し,より簡潔でストレートな教義の教育が

求められた。知識がこうしてテクス卜化されたのである。これもまた,ヒンドゥー教の改革と

も言えよう。それは,地域やカーストの伝統に偏向しないヒンドゥー教の創造であった。そし

て,それは儀礼に多くの時間を費やしたくないシンガポールのヒンドゥー教徒の生活に適した

ものであった。

以下ではカーヴァディとタイ・プーサム祭についての記述に移りた l ' o

6 奉納儀礼カ ー ヴ ァ デ ィ 釦

人々は,病気やけがからの快復,係争での勝訴,入学試験や就職での成功,長旅の安全など

を求めて神々に祈願する。祈願がうまく成就すると,その感謝を表現してさまざまな儀礼行為

や寄進を行う。こうした行為は祈願の時に願掛けとして宣言するのが一般的であるOつまり,

祈願のときに「病気が治れば寄進をします」というふうに神に約束するのである。したがって,

人々は約束を守って儀礼的所作をすると言える。こうした所作をここでは奉納儀礼と呼ぼう。

奉納儀礼には,たんに寺院に参拝して簡単な供物を供えるものから,祈願した神のために新

たに寺院を建立し定期的な祭杷を執行させる場合までさまざまである。奉納儀礼は願掛けが

成就した後なされるが,一般にそれは寺院の祭りのときなど特別の日に合わせて実行される。

ここではそうした儀礼の典型的が力一ヴァディ kiiωtiである。カーヴァディは通常男性が行

う奉納儀礼であるO

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後で紹介する神話からも明らかなように,カーヴァディはとくにムルガン神への願掛けと密

接に関係している。願を掛けた者は願l )が成就すると,神のところまで牛乳の入った壷を運ぶ。

それは家からの場合もあれば,他の寺院からの場合もある。壷は天秤棒の両端に吊るすように

して運ばれるが,この棒(カーヴ kavu)にはアーチ型の覆いがついていて,孔雀の羽や色鮮や

かな紙片できれいに飾りつけられている(図 2,図 3 )。奉納者はこれを担いで,ミルクを神像

の安置されているところまで踊りながら運ぶ。このミルクは後で神像の濯頂に使用される。

力一ヴァディを行う者はその間態依状態にあることが理想とされ,また小さな針を身体中に刺

す自傷行為もしばしばみられる。

カーヴアディの起源とされる神話にはつぎのようなものがある。

あるとき聖者アガスティヤがヒマラヤに住むシヴァ神より 2つの丘を授かった。聖者はイ

ドゥンバンというアスラ(魔神)に命じて,この丘を南インドに運ばせることにした。ア

スラは 2つの丘を棒に吊るして南へ向かい,その途中現在のタミルナードゥナ卜|にあるパラ

ニというところで丘を置いてすこし休むことにした。休憩後再び丘を持ち上げようとした

図 2カーヴァディ [Sonnerat 1782, pI.71](インド・ノ f ラ ニ )

-10-

図 3カーヴァディ(スリランカ)

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多民族社会における宗教(田中)

がどうしても動かすことができな L 、。

イドゥンパンが不審に思ってあたりを

見回すと,一人の少年が立っていた。

丘を持ち上げることのできない自分を

あざ笑っているようにみえたので,イ

ドゥンパンは懲らしめてやろうと少年

に襲し1かかった。ところが反対に,イ

ドゥンバンは一撃で殺されてしまう。

というのも,この少年はシヴァ神の息

子ムルガンだったからである。イドゥ

ンバンの死を伝え聞いたかれの妻イ

ドゥンバニは,ムルガンに夫の蘇生を

祈った。ムルガンはその祈りに心をう

たれ,イドゥンバンを蘇らせた。こう

して,イドゥンパンは自己の愚かさを

恥じてムルガンに奉仕することになっ

たのである。今日イドゥンパンは,パ

ラニ丘の頂上にあるムルガン寺院の門

番として,小柄に杷られている [Babb

1976:6]。

イドゥンパンと同じように,天秤棒をか

ついでパラニのムルガン寺院(図 4,図 5 )

に参拝する奉納者たちは以上の神話を実演

しているのであるOここで興味深いのは奉

納者たちがまずアスラに自分たちをなぞら

えているという事実である。つぎにテイル

チエンドウール(図 6 )に関わる神話を紹

介する 34)o

神々とアスラたちとが壮絶な戦いを演

じていたころ,ムルガンはタミルナー

ドゥ州のテイルチエンドウールという

図 4 パ ラ ニ丘

図 5 ム ルガ ン神 と ノ f ラ ニ丘

図 6テイルチエンドウール

-11-

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人文学報

海岸までアスラの帝王スールパドゥマを追いつめた。かれはムルガンの率いる神々の軍勢

との戦いが自身に不利であると見て取り,海に潜って大きなマンゴーの木に変身した。こ

れにたいして,ムルガンはヴェール velという槍に似た武器を投げて,この巨木をまっぷ

たつに裂いた。裂けた木の一方が雄鶏となり,片方が孔雀となった。ムルガンは両者を慈

悲によって手なづけ,かくして雄鶏はムルガンの旗に,孔雀はかれの乗り物となった

[Clothey1978:122-123J 。

ムルガンは,雄鶏をあしらった旗やヴェール,そして孔雀とともに描かれるのは以上のよう

な神話に基づいている(図 7 )。さて, 2 番 目 の神話に従 う と , 孔雀の羽飾 り をつ けてい る棒を

もっ奉納者たちはムルガンの乗り物である孔雀を演じているとも言える。さらに,奉納者の身

体には,ムルガンがアスラを倒したときに使った武器ヴェールのミニチュアがたくさん刺さっ

ている。ここでも奉納者たちはムルガンによる殺害によって,いちばん近しい存在となって救

済されるアスラを演じているのである。

奉納者はミルク壷を運ぶ間,理、依状態にあることが理想とされると述べたが,想、依されてい

る者は一般に神の乗り物 vahαmにたとえられるOまた,動物供犠の際の犠牲獣一一一普通は

山羊や鶏一ーにたとえられることもある。犠牲獣は殺害の直前に水を掛けられ,それが身体

をフ、、ルンと震わせると,神がこの動物を供犠として受け入れたと考えられている。この震えが

神の層、依と同じものとみなされているので

ある。つまり,想、依は供犠と密接に関係し

ているという点で死の隠喰でもあるのだが,

また,それは神による受容だという意味で

再生と救済に通じる死と考えるべきであろ

つ。

アスラとしての自己をムルガンに捧げ,

象徴的な死(層、依,自傷行為,供犠)を通じ

て救済されるというきわめて自己否定的な

観念が認められるOそして,この自己否定

(象徴的な死)と再生の過程がムルガンへの

献身の表明であり,証なのである。

図 7ムルガン(旗とヴェール)

-12-

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多民族社会における宗教(田中)

7 タ イ ・ プー サ ム 35 )

7-1 縁 起

シンガポールのインド系住民にとって重要な祭りは 3つある。 1つはディーワーリー

Divali あ る い はデ ィ ーパー ヴ ァ リ ーDipavali で光の祭 り であ る。11 月 の新月 に行われ, 祝 日

である。それは基本的には家庭祭杷であり,南インドよりも北インドで盛んである。神による

アスラの退治を祝って家中の灯火に火をつけ,揚げた菓子を食べる。この日に親戚の問でサ

リーなどの贈与がある。

つぎに 4ヶ月かけて行われる, rマ ハ ーバー ラ タ 』 の ヒ ロ イ ン , ド ラ ウ パデ ィ 一女神を祝 う

火渡りの祭りがある。これはサウス・ブリッジ・ロードのマーリ女神寺院で行われるが,そこ

に杷られているドラウパディーが祭神である。 3番目がタイ・プーサム tαippucαmである。

後者 2つは南インド,とくにタミノレ系の祭りとして知られているOただし,このうち祝日(公

休日)となっているのはディーパーヴァリーのみである。

カーヴァディが多数見られるのはこのタイ・プーサムにおいてである。それは,タイ月(タ

ミル暦 1月半ばから 2月半ば)のプーサムの日に行われる。プーサム ρucαm Cpuりα) と は , 月 の

軌跡を 27に分けている星宿 naksαtraの 1つを意味する。換言すると月は 1日ごとに星宿を変

えて天空を 27日で移動する。タイ月では月がプーサムの星宿に入ったタイ・プーサムの日が

以下に示す理由から重要とされるOなお,この日は多くの場合満月の日と重なる 36 )。

ムルガンはかつてタイ・プーサムの日にヴァイディーシュヴァラ・コーイルというところで

母のパールヴァティから,スーラパドマの軍勢と闘うためにヴェールを送られたという(カー

ヴァディの神話 2を参照)。タイ・プーサムがムルガン神と結び、っき,祭日とされているのはこ

のような故事に由来する。

タイ・プーサム祭は 2日からなる。 1日目は本祭の前日でチェッティヤールによる儀礼が主

である。ムルガン寺院から山車が出てヴィナーヤガ寺院を往復する。またかれらによるカー

ヴァディが後者から前者に向かう。 2日目もかれらは寺院の周りを回る。 2日目は真夜中から

一般の人々がカーヴァディなどを担いでヴィシュヌ寺からムルガン寺院に向かう。これは 1日

中続く。

7-2 チ ェ ッ テ ィ ヤ ー ル

タイ・プーサムを祝う寺院は,シンガポールで勢力を誇ってきたチェッティヤール(金貸し

商人)・カーストが管理する,タンク・ロードに位置するムルガン CThandayアuthapani37 ))寺院

である(地図 1 )。寺院は 1859年に建立された。したがって,この祭りはチェッティヤール・

力一ストの祭りとも考えられる。正式名のダンダーユダパニはムルガンの軍神的性格を意味す

13 •

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人文学報

凡例

①ヴィシュヌ寺院

②カーリ女神寺院

③ムルガン寺院

④マーリ女神寺院

⑤ヴィナーヤガ寺院

⑥マーケット・ストリート

→前日のチェッティヤール行進往路

司前日のチェッティヤール行進復路

時一般の人々の経路

→当日のチェッティヤール行進進路

500m

地図 lシンガポール市街図

る。それは,先に示したアスラとの戦いの神話に言及したものと理解できる。シンガポールに

はチェッティヤールがおよそ 200家あり,力一スト内の幹はいまなお強い。このうち金貸し業

に深く関わっていた 17家族から 6名の男性が管理委員に選ば、れる 38)。この寺院には肉食のパ

ンダーラム司祭と菜食のバラモン司祭が複数雇用されている。前者が本尊のムルガンを,後者

は境内に安置されているシヴァとその妻のミーナークシーを礼拝する。タイ・プーサムに主と

して関わるのはパンダーラム司祭である O

祭りに先立って 13日間,ムルガン寺院に床屋が数人集まり,弟 IJ髪がなされている。これは,

願を掛けた人の御手しの行為である。

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祭りの前日早朝 4時に礼拝 teivariU,α 1)aiがあり,その後,寺院の管理委員長(チェッティ

ヤール)が,行進用の神像の前でバラモン司祭によるサンカルパ (s的初lpa請願儀礼)を受ける O

そして, 4 時半に , 行進用の ム ルガ ン像がム ルガ ン寺院の境内か ら銀色の山車へ と運ばれ, そ

こでまず委員長から,そして多くの信者から布(衣服)や花輪などの供物を受ける。車で号|か

れて山車がムルガン寺院から中華街に近いサウス・ブリッジ・ロードのマーリ女神寺院へと向

かう 39) (図 8 )。白バイ 3台が先導するO法螺貝や太鼓,立て笛などを演奏する楽師がつく。

この山車にはムルガン寺院のパンダーラム・カーストに属する司祭も添乗する。マーリ女神寺

院の前で立ち止まり,ここでも供物を受ける。そして,山車の上のムルガン像と内陣のマーリ

女神像の両方に,各寺院の司祭による礼拝が同時に行われる。チェッティヤール以外の参拝者

たち,およそ 200名がここで簡単な軽食を受け取る 40)。かれらの一部はムルガン寺院から歩い

てきた人々である。この後,やはりチェッティヤールが管理する,キヨン・サック・ロードに

位置する象頭神ヴィナーヤガ (Si th i Vinahagar)4 1) 寺院に向か う (図 9 ) 。 チ ェ ッ テ ィ ヤ ー ルた

ちはここで軽食を受け取る。山車は夕刻までとどまる。片道およそ 2.5キロの距離である。そ

の後,カーヴァデ戸ィがムルガン寺院から車で運び込まれる。

午後 2時にミルク粥 (ρo角的l) 42)を炊いて,これをヴィナーヤガに供える。 2週間にわたっ

て禁欲・菜食を守ってきた男たちがカーヴァディの用意をする O査を香煙で浄め,粗糖を 2つ

図 8 山車 図 9ヴィナーヤガ

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人文学報

の壷に詰める。牛乳の代わりに粗糖

を使うのはチェッティヤールだけで

ある。これらをカーヴァディに吊す

のである。そしてムルガン寺院と

ヴィナーヤガ寺院のパンダーラム司

祭たちによって礼拝を受け,聖灰で

祝福される。 4時半にふたたび礼拝

があり,用意したカーヴァディを担

いでチェッティヤールの男'性およそ

100 名が ム ル ガ ン寺院に向か う (図

10) 。図 1 0 カ ー ヴ ァ デ ィ を担 ぐ チ ェ ッ テ ィ ヤ ー ル

ノ f ー /レ ク ダム図 11

山車はその後 5時過ぎに寺院を出

て,ムルガンの武器とともにふたた

びムルガン寺院へと向かう。帰路は,

ヴィナーヤガ寺院の司祭も同行す

る。出発時にも多くの供物がムルガ

ンに捧げられる。帰路はチェ yティ

ヤールの商売の中心地であったマー

ケット・ストリートに立ち寄る。ま

た途中で Bank of India , Indian

OverseasBank , IndianBank そ

して UcoBankの前で飲料水やス

イートなどを行列に参加している

人々が受け取る o 9 時過 ぎに ム ルガ

ン寺院に戻る 13) 0 11 時に そ の 日最後の礼拝がな さ れ る O

この日の巡行に関わるのはチェッティヤールに限られている。これに木製のカーヴァディを

もっチェッティヤールが参加するが,針を刺したりはしない。かれらは,夜 7時頃に到着する

と山車が到着する 9時頃まで,境内で歌を伴う踊りを披露する。そして食事がふるまわれる O

チェッティヤールたちは翌日早朝 4時にミルク粥を炊き, 4 時半に も カ ー ヴ ァ デ ィ や頭に ミ

ルク壷 lつを乗せる儀礼,パールクダム ρi1rku tamを行う。後者はほとんど女性で参加者は

80 名足 ら ずで あ る (図11) 。 今度 は, カ ー ヴ ァ デ ィ と パ ー ル ク ダ ム の参加者あ わせてお よ そ

180 名が白バイ2 台に先導さ れ, 寺院の周 り を大 き く ぐ る っ と 回 る 44 ) 。 寺院のす ぐ手前で ヴ ィ

シュヌ寺院から出発した一般の人たちと合流する。粗糖はムルガン神に供えられた後,バナナ

16

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多民族社会における宗教(田中)

やブドウなど他の品目と混ぜてパンジャームラタムとして食べられる。寺院では当日たくさん

の食事が皆に配られる。そして,午後 6時に境内をムルガン神が行進する。

7-3 一般の人々

さて,ここでチエソティヤールの活動から離れて,一般の参加者に眼を転じた~ '0 前 日 , ム

ルガン寺院から 4キロほど北にあるセラングーン・ロードのヴィシュヌ CSrin i vasa

Peruma145 J ) 寺院に集ま る 。 こ の ヴ ィ シ ュ ヌ 寺院に隣接 し て ヒ ン ド ゥ ー寄進局の本部があ り ,

寺院もその管理下にある。この寺院は力一ヴァディの出発点に選ばれただけで,儀礼的なつな

がりは存在しない。人々は境内で簡単な礼拝をし,カーヴァディの準備をする。真夜中には,

あちこちで針刺しの光景が見られ,少数の人にとくに専門化しているわけでもないようであるO

そして,一部の人は暗~,夜道をムルガン寺院へと歩き始める 46) 0

このような実践を行う信徒は数日前から一ーときには 40目前から一一菜食,禁欲をする。

また 1日の食事も l回か 2回に減らす。タイ・プーサムの数日前には自宅でカーヴァディへの

礼拝を行う。儀礼の直前には水浴し身を清める。そして聖灰を体に塗る。カーヴァディが地面

に置かれ,その前にバナナの葉が敷かれる。そこにバナナの房やココヤシの実,ビンロウジな

どが供えられるOそしてそのまえで,家族や友人によって礼拝がなされる。ミルクを入れる壷

は香煙で清められ,ミルクを入れた後封印される。針をつける人は,まず額に金製の小さな

ヴェールを刺してもらう。これは刺すというより皮膚の表面につけるといった方が正確である。

そのつぎに,頬に水平に刺し,最後に舌にたいして垂直に刺す(図 12,図 1 3)。

ヴィシュヌ寺院を出るときにココヤシの実を地面

に叩き割る。途中セラングーン・ロードにあるカー

リ女神寺院の前でとどまり,一礼し,ココヤシを砕

図 1 2 顔面に ヴ ェ ー ルを刺す男た ち

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図 1 3 体に針を刺す

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く。ここで踊る人もいる。四つ辻で、は悪霊を追い払うためにライムを切って放る。

ムルガン寺院に着くと,運んできたミルク壷を寺院に供える。これは神像の聖化に使われる。

参加者には,家族や親族,友人たちがつきそい,ムルガン寺院に着くと参加者を囲んでレモン水

などを飲ませる。さらに寺院の外でカーヴァディを解体し,体に刺さっている針などをはずす。

ヴィシュヌ寺院からムルガン寺院への行路には,観衆のためのテントが 4カ所に設けられ,

椅子や展示パネルがしつらえである。展示パネルはタミル,英語,日本語,中国語による説明

が付いているO休日でないこともあり,夜になって行路の両脇は多くの人でごったがえす。と

くにインド系の人々はきれいに着飾ってこの祭りを見に来ている。また,ヴィシュヌ寺に隣接

する準備会場には,観光ガイドたちが外国からの観光客を連れてきている。かれらは,間近に

礼拝や針刺しの場面に接することができる。

参加者は 4種類に大きく分かれる。一番簡単なのは頭にミルクの壷をのせて運ぶパールク

ダムである。これには男女が参加できる。それ以外は男性のみで,木製のカーヴァディ par

kClVati, 少数だが背中 に鈎を刺 し て, そ こ に と お し た ロ ー プで山車iratαm を引 く 力 一 ヴ ァ

ディ irata kavati。 最後に, 金属製の 力 一 ヴ ァ デ ィ ( ア ラ フ ・ カ ー ヴ ァ デ ィ , ala初 初仰が, spiked

kavadD であ る 。 こ れは , 数 も少な いが, も っ と も人目 をヲ | く 。 人に よ っ て は頬や舌に針を刺

す。これに加えて顔などに針を刺したり,ライムや小さな査を鈎で体に吊したりすることも許

されている。

アラフ・力一ヴァディはアルミのフレームからなる(図 14,図 1 5)。これは重さ 45キロ以上

になる。これを肩パッドと腰で支えるのである Oそして,これが前後ならびに左右にアーチ型

のフレームを支える Oこのフレームを直接身体に刺さった棒で支えることもある O外から見る

と,円形に広がったスカートを頭からかぶっているような形になる。この上に(つまり頭上に)

ムルガンの像を描いた絵を掲げ,さらにその上にクジャクの羽などの飾りをつける。ここにミ

ルク査 2つが収められている。タイ・プーサムに参加する人は年々増えているが 47),アラフ・

力一ヴァディを運ぶ人は 650人前後にとどまっていて横這い状態である。アラフ・カーヴァ

ディは高価なもので 20万円ほどになる。

ムルガン寺院では,およそ 15, 000人に食事を用意する O

3 日後に 自宅で人々 を招待 し , イ ド ゥ ンパ ンへの礼拝がな さ れ る 48) 。 こ の と き鶏な どを供犠

し,酒なども飲む。またカーヴァディを担いだ人がトランス状態にはいることもある。この礼

拝によって初めて菜食・禁欲の期間が終了する Oなお,チェッティヤールの場合は家ではなく

ムルガン寺院のイドゥンバンの小向で礼拝をする。

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多民族社会における宗教(田中)

図 14アラフ・カーヴァディ(インド) 図 15アラフ・カーヴァディ(インド)

8 イ ン ド系国民の祭 り と し ての タ イ ・ プー サ ム

英字新聞を読むかぎり,力一ヴァディそしてタイ・プーサムはヒンドゥー教徒の祭りととら

えられていて,タミル人の祭りともチェッティヤールの祭りともみなされていないことである。

また,カーヴァディの参加者の名前から,タミル以外のヒンドゥー教徒がたくさん参加してい

ることが分かる。さらに,このムルガン寺院をはじめ,とくに前夜の儀礼は,この祭りに

チェソティヤールが深く関わっていることを示しているにもかかわらず,それについての記述

は見あたらな l )。これはタイ・プーサム時にチェッティヤールの活動を伝える 1960年代まで

の報道。)とは大きく異なっている。チェッティヤール自身がムルガン寺院の門塔からチェッ

ティヤールという言葉をはずしたり,目立たなくしたりしているということも事実である。し

かし,一方でチェッティヤールは自分たちの行う力一ヴァディとそれ以外の人々による力一

ヴァディとを厳密に区別している 50 )。

反対に,インド系以外の人間,たとえば中国系シンガポール人や,ドイツ人のような外国人

の参加は例外なく言及されている(図 16,図 1 7) 5])。 ま た政治家な どの動向 も報告 さ れてい る 。

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図 1 7 タ イ ・ プ ー サ ム に参加す る 2 名

の中国系シンガポール人

図 1 6 カ ー ヴ ァ デ ィ に礼拝す る 中国系 シ ン ガポ ー ル人

実際,閣僚級の政治家を来賓としてムルガン寺に

招待するのが恒例になっているし,過去には後に

首相となるリー・クァンユーも参加していた

[StraitsTimes1965.1.17J 。

これらの報道の方針から分かることは,インド系コミュニティの内部にさまざまな対立,た

とえばカース卜や出身地域の分裂があることにあえて触れようとしない態度である。タイ・

プーサムはインド系シンガポール人全員の祭りであり,事実多くの北インド系の信者たちも

力一ヴァディに参加している 52)。それだけではない。この祭りは,インド系シンガポール人以

外の人たちをも惹きつけている。政治家も敬意を払っている Oタイ・プーサムは,こうして,

エスニック・コミュニティの祭りであると同時に,多民族国家,そして共存をうたうシンガ

ポールにとっても重要なシンボルとなっているのである 53j o

こうした方針にたいして被害者と感じ政府に不満を持ったのはタミル人たちである。タ

イ・プーサムがいくら盛大に祭られ,おおくの観光客を内外から集めても,それはタミル人の

伝統としてではなく,インド系住民全体の伝統として表象されるからだ。タミル人はインド系

住民の中では多数派であるにもかかわらず,その主張が政府レベルで無視されるという状況が

生じたのである。タイ・プーサムだけではな~ \0 すで に指摘 し た よ う に , ヒ ン ド ゥ ー ・ セ ン

ターの活動やそれが密接に関係していた宗教知識はタミル語ではなく,英語によって教えるこ

とになっていた 54)。当時のこうした動きにタミル系の教師が批判を表明している恥。教科書も

タミル系の祭りなどは省略され,インド全般に見られるものだけが占めることになった 56)。類

似の動きは大学においても生じており,タミル研究の専攻は拒否されるが,南アジア研究なら

可能となった。タミル人にとって, 1970 年代か ら80 年代にかけての以上の動 き は 自分た ち の

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多民族社会における宗教(田中)

伝統の否定であり搾取であると映ったとしてもおかしくないだろう。

9 野蛮か ら荘厳な る儀礼へ

つぎに注目したいのは,タイ・プーサムならびにカーヴァディについての新聞の論調の変化

である。その変化は 1940年代の儀礼への批判から,儀礼の非宗教的要素への批判へと変化す

る。まず儀礼批判の背景を紹介した L 、。

9-1 反バ ラ モ ン運動 と儀礼改革

南インドのマドラス州を中心に反バラモン運動が登場したのは 1 9 10年代に遡る。それは少

数派の高力一ストであるバラモンを北からの侵入者と非難し,その支配体制を打破し,下層

力一ストの政治的動員を目的とするものであった。バラモンを北すなわちアーリア文化の担い

手ととらえ,そうでない人々を南インド固有のドラヴィダ文化を継承するドラヴィダ人と規定

した。 19 17年に正義党が, 1923 年に は , ペ リ ヤ ー ル と 呼ばれた ラ ー マ ス ワ ー ミ ・ ナ ー イ カ ル

E.V.RamaswamiNaicker(1879-1973) の 自尊運動 Self RespectMovement が始ま る 。

自尊運動は海外のインド系移民にも影響をおよぼし, 1929 年の ナ ー イ カ ルの マ レ ー シ ア訪

問を機に 1932年にはマレ一半島のタミル社会の間で、もタミル改革協会 Tamils ReformAssoュ

ciation(TamilarSeerthiruthaSangam) が生ま れた 57) 。 そ の 目的は, 社会福祉の普及, 女性の

地位の向上,平等主義の主張,禁酒や節制などであった。当時のマレ一半島やシンガポールで

バラモンは支配的な地位を占めてはいなかった。したがって,その矛先はバラモン的要素が色

濃い結婚式の改革に向けられた。結果的に結婚式はきわめて簡素になった。

儀礼の領域では,反バラモン運動とは関係なく,野蛮とみなされそうな動物供犠や身体を傷

つける儀礼(カーヴァディや火渡り)が問題となった。たとえば 1937年にタミル改革協会が,

時の植民地政府に以下のような手紙を書いている O

金属針による身の毛もよだっ白傷行為がこの国にあまねく見られる Oこれは最近ではとく

に労働者階級の聞にますます増えている。しかし,これは宗教上も道徳上も裁可のない悪

い慣習であり,これに反対する分別のある意見が多数を占めるようになった。ヒンドゥー

諮問局はこれを真撃に考え,マドラス政府と同じように,海峡政府にこの悪い慣習の廃止

を推薦することを願うばかりである [Nair 1972:33J 。

この手紙で言及されている自傷行為が力一ヴァディである。動物供犠は 1948年に廃止され

たが,それ以外の儀礼は数度の陳情にもかかわらず法律による禁止には至らなかった。かれら

21

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人文学報

は 1950年にも類似の陳述を行っている。その結果,ムルガン寺と火渡りの祭りを行うマーリ

アンマン寺院でカーウァディが禁止されたが,地域の富裕な住民からの圧力もあって,翌年に

はその禁止を解いている [Nai r 1972:34J 。 ム ルガ ン寺院で タ イ ・ プ ー サ ム祭の と き に行われ

る剃髪も 1 955 -56 年の2 年にわ た っ て改革運動に よ っ て禁止 さ れた と い う[Muthuswamy

1958:124J 。

さて, 1935 年に創刊さ れた 「 タ ミ ル ・ ム ラ ス Tamil MurasuJ 紙は , タ ミ ル改革協会の会

誌とも言えるものであったが 58),ここでもタイ・プーサムは批判されている [T,αmil Murasu

1940 Jo 上半身に小さ な金属製の壷を フ ソ ク で垂 ら し てい る 男性の写真の下に掲げ ら れて い る

キャプションはつぎのようなものだ。「へイ,シャンムガム,そんなに多くの壷を体に吊すた

め,いったいどんな罪をこの男は犯したのだ? J[TamilMurasu1940.1.3 1] 。 同 じ く ア ラ

フ・カーヴァディの写真には「あの世で救い m6tcamを得るためにこの世でこんな地獄を経

験している信徒たち ραた的地α ?J [1940.1.3 1] と い う 説明があ る 。 さ ら に , 翌 日 の写真説明

にも「真の信心 ur; maipti りα ρaktiの代わりに針を自分の体に刺してアールムガナーダン

Arumukanadan 神59)の恩恵 arulを受け取れ る と信 じ て い る信徒た ち J [1940.2.1J な ど, 解

脱 mok$a , 思恵, 信仰 (バ ク テ ィ bhakti) , 信徒 (パ ク タ bhak ta ) と い う 宗教的文脈では核と な

る言葉を使った辛鶏な文章がならぶ。そして最後の引用では身体的行為と信心とが対照的に呈

示されている。 1940年の「タミル・ムラス』紙で初めてタイ・プーサムが取りあげられたの

だが,それはカーヴァディなどの暴力的な実践を批判するためのものであるということがよく

わかる。本稿との関係で言えば,以上のような儀礼批判は,後のヒンドゥー教をテクスト化す

る動きに見られる改革と相通じるものがあるということである。

9-2 若者批判と規制の強化

1970 年代に な る と , な ぜか以前問題に な っ た儀礼の野蛮 さ を嘆い た り , 非難 し た り す る声

が聞こえなくなる 60)。強調されているのは,力一ヴァディのような儀礼は本来神聖なものであ

るということ,それが心ない若者たちによって台無しにされているという事実である。批判の

矛先は,カーヴァディという儀礼の実践ではなく,それを冷やかしたり,その機会を自分たち

のお遊びに利用したりしようとしている若者に向けられているのである。これが,エスニシ

ティや出身地域ではなく,世代間の問題であるかぎり,絶対的な対立に発展しないことにも注

意した L 、。

1973 年か ら , HEB は路上で音楽や ダ ン ス をす る こ と を禁 じ て い る 61) 。 し か し , こ う し た規

制はうまくし、かなかったようだ。その 5年後の 1 978年,シンガポールの英紙『ストレイツ・

タイムズJ] (2 月10 日 ) に は , 以下の よ う な批判が載 っ てい る か ら であ る 。 ま ず, そ れはつ ぎ

のように問うている。「タイ・プーサムは漫画,あるいは楽しみのみを求める人たちのオペラ

• 22 -

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多民族社会における宗教(田中)

なのか。それは厳粛さや謹厳さ失いつつあるのではないだろうか。」そして,ヒンドゥー教徒

たちの批判的な意見を紹介している o I タ イ ・ プー サ ム は カ ー ニ ヴ ァ ルみた い な も の に な っ て

いる。 J I多彩な色の奇妙な服を着て, かれ ら [若者た ち ] は奇天烈な し ぐ さ で道行 く 中を踊 り

通したり,また狼裂としかいいようのないしかたでふるまったりしていた。」そして,最後に

こう締めくくっている。「不作法にふるまった若者たちの多くは,特定の力一ヴァディの参加

者を支援してやってきているわけではない。かれらは楽しみを求めにやってきているくよそ者

outsiders> な の だ。 」 類似の批判が翌年の タ イ ・ プ ー サ ム につ いて も な さ れて い る [Straits

Times1979.2.5J 。

1982 年9 月 に は ヒ ン ド ゥ ー 諮問委員会の委員長, ナ ー ダ ン(S. R.Nathan) 氏が, ヒ ン

ドゥー・センターのセミナーでタイ・プーサムを取りあげ,それがカーニヴァルのようで露

出趣味としか思えないと指摘している [Straits Times1982.9.I I] 。 繰 り 返すが, こ れは ヒ ン

ドゥー・センターの目的である若者教育の重要 J性の強調に結び、っき,さらにはセンターそのも

のの正当化に連なる。

1990 年に は ヒ ン ド ゥ ー寄進局の公刊す る 『 シ ン ガポ ー ル ・ ヒ ン ド ゥ - j が, 路上で音楽に

合わせて踊ったりする支援者の数は少なくなったが,警察が楽器を没収するという事件が生じ

ているとか,宗教儀礼に参加していることを忘れて,ふさわしくない格好をしているなどと批

判している。タイ・プーサムについての非難は強

弱の差はあれ, 1991 年 [Straits Times1991.2.

4J ま で続いて い る o 1992 年 に な っ て初め て,

タイ・プーサムが秩序だっていると評価され,つ

ぎのような参加者の言葉を引用している。「過去

には多くの人々が叫び,遊び回っていた。このた

め集中するのが困難であった。いまはずっとよく

なった。 J [StraitsTimes1992.1.21]

植民地時代のカーヴァディに代表される野蛮な

儀礼への批判は,若者への批判にとって代わられ

たのである。しかし,そのためにはカーヴァディ

を見るまなざしも変化しなければならなかった。

カーヴァディはもはや吐き気をもよおすおぞまし

い儀礼というよりは,美しい儀礼として表象され

ていく。たとえば,政府の刊行物である

Sing ,αpore Hindu の表紙を対称性の美が強調さ れ 図 18 ~シンガポール・ヒンドゥ-~誌(1998, vol.9, no.1) の表紙 ( ア

た力一ヴァディの写真が飾っている(図 18)。ラフ・カーヴァディ)

- 23-

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とはいえ,カーヴァディそのものが

放任されていたわけではな l \oたとえ

ば 1995 年 に は カ ー ヴ ァ デ ィ の 高 さ

(4 メ ー ト ル以内) な どを規制す る規則

が正式に配布されることになった。そ

して,それは現在においても続い

ている(図 19)。筆者が 2002年に入手

した規則集 (Rules, Regulations and

Conditions Governing Thaipusam)62l

は全部で 16項目からなり,出発時間

や音楽演奏の制限,頬に刺す針の長さ

や,アラフ・カーヴァディの高さ ( 4

人文学報

E鍵EEX-P 緩舵機GS Pl 麗E SPEClflCATl O製

一MM

1

一∞伽

、-w

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-

m間

胸M 持

2.9m~

図 19カーヴァディについての規制 (2002 )

- 24

メートル)と幅 (2 .9メートノレ)などが

規定されている Oまた, 2005 年に は ム ルガ ン寺院の門に写真付き で規制につ いての説明が掲

示されていた。そこでは頬に刺す針の長さの規制 (30センチ以内)や人々が鈎で参加者を牽く

ことの禁止などが示されていた。

一方で,こうした規制を嫌ってマレーシアで力一ヴァディを行うシンガポールのヒンドゥ一

教徒もいる 63)。

10 パ ブの タ イ ・ プー サ ム論再考

タイ・プーサムについては,パブ [Babb 1976J の考察があ る 。 かれはデ ュ モ ン[2002J に

よるつぎのようなヒンドゥ一社会観を検討している。それは,西洋の個人主義が想定するよう

な自律した個人はヒンドゥ一社会には現世放棄という形以外に認められない,という主張であ

るOヒンドゥ一社会は階層化した(ヒエラルキカルな)社会であり。個人は他の個人との関係あ

るいはカーストなどの集団への帰属を通じて存在する。パブによると,タイ・プーサムには集

合的様相 coll ective mode と単独的様相singular mode と い う 2 つ の様相が並存す る 。 集合

的様相とは神と人,人と人のヒエラルキカルな関係を規定する関係である。単独的様相とは個

人の欲望充足を願う願掛けであり,痛みをものともしない儀礼的な所作である。かれはそこに

イデオロギーでは否定されているかに見える自律した個人の存在証明を認め,これを宗教的個

人主義と表現する O パブはタイ・プーサム全体の構造は,あくまで集合的な様相が支配してい

ると指摘している Oただし,ここでいう集合は儀礼を実践するかれらの友人や家族との関係で

あることに留意したい。

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多民族社会における宗教(田中)

たしかに,家族の価値や自身を取りまく人間関係は重要である。それは菜食の食事や禁欲と

いう準備段階において,家族の支援が必須だからである。そして,支援を通じて強化されてい

く家族の紳が頂点に達するのがタイ・プーサム当日カーヴァディの実施であり,その数日後に

自宅で行われるイドゥンパン儀礼であるOとくに,中国系シンガポール人など非ヒンドゥー教

徒の場合,家族や職場の人間たちの理解を得ることは難しいし,それゆえ成功したときの喜び

は大きい。しかし,それだけを強調すると,国家や民族など家族や職場より大きな社会関係に

ついて見落とすことになる。パブは,個人主義的な様相を強調するために,集合的様相を楼小

化していないだろうか64)。

シンガポールで:各民族が CMIOという形で強化,固定化していくのは 70年代になってから

なのであり,バブが調査した 1970年代初頭においては,国家の民族政策を無視することがで

きたかもしれない。しかし,シンガポールにおいてインド系住民がマイノリティであったこと

に変わりはなく,他民族や国家の存在を無視するべきではないだろう。

バブはまた,タイ・プーサムに見られる個人主義的様相はシンガポールの都市化に関係して

いるのではないか,とも指摘している。たしかに,そのような側面がないわけではない。 だが,

願掛け成就を示す儀礼は,もともと伝統的なヒンドゥー教儀礼に備わっていたものであった。

都市化によってそうした様相が相対的に活性化したかもしれないが,まったく新たな変容とは

言い難 l 'aシンガポールにおいてヒンドゥ一教儀礼はより個人主義化したかもしれないが,し

かし同時にマイノリティの宗教として新たな集合的性格をも強化している。かつて野蛮とさ

れた労働者の儀礼は,いまやインド系コミュニティのシンボルとなったのである。この性格に

ついて次章で考察したい。

11 テ ク ス ト 化 と ス ペ ク タ ク ル化にお け る 国家の役割

ヒンドゥー教のテクスト化には,その儀礼的,迷信的とされる要素を抑え,他の宗教に匹敵

するヒンドゥー教の教義を若い世代にわかりやすい形で教えるという目的があった。それはい

わば反儀礼的運動である。この意味で,植民地支配下で起こったヒンドゥー教改革運動と軌を

ーにする。タイ・プーサムの発展は,こうした動きに対立するかに見える。なぜならそれは過

剰な儀礼主義と言えるからだ。これまでカーヴァディが辿ってきた道を見ると,まず否定され,

その後見直され,現在ますますスペクタクル化して,人々を惹きつけているということがわか

る。

それではシンガポールのインド系コミュニティには 2つの相容れないヒンドゥー教が存在す

ると推定することができるのだろうか。すなわち, 1 つ は教義を中心と す る テ ク ス ト 化 し た ヒ

ンドゥー教で,もう lつはスペクタクル化をめざすヒンドゥ一教である 65)。

- 25 一一

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人文学報

図 20サブ・テクストにみられるアラフ・

カーヴァデ、イ

ドゥー哲学,神々・社嗣・礼拝,儀礼・

祭式・祭り,神話を教えるO第 4学年で

は儀礼についての教えが半分を占めてい

ることがわかる。そして,教科書ででは

ないが,カーヴァディについては副読本

で紹介されている。そこには,アラフ・

力一ヴァディもイラストで描かれている

が,これも痛みや残酷さ,あるいは派手さよりは,どちらかというと簡素な美しさが強調され

両者の関係を考える前にテクコミト化に

おいてもカーヴァディとタイ・プーサム

への言及があることをまずことわってお

きたい。ヒンドゥー教のテクスト化には

反儀礼的意図が含まれていると指摘した

が,まったく無視されてきたわけではな

いのである。たとえば,第 3学年でヒン

ドゥー教の基本,生活と宗教,世界文化

への貢献,叙事詩ラーマーヤナ,叙事詩

マハーパーラタを,第 4学年でヒン

ている(図 20) [CurriculumDevelopmentInstituteofSingapore1986:54J 。 それは, かろ

うじてテクス卜化の表象として耐えうるものとなっている。この表象は,すでに指摘した「シ

ンガポール・ヒンドゥー』紙のカーヴァディの表象と類似している。

このカーヴァディのイラストについて, 7 つ の質問がな さ れてい る 。 それは , 1.このイラ

ストがどの祭りと関係しているのか, 2. そ の祭 り と 結び、つ いて い る神の名前はな にか, 3.

どうしてこの神を崇拝するのか, 4. な にを信徒は運ぶのか, 5. なぜ こ れがな さ れ る のか,

6. いかに して準備をす る のか, 7. こ の祭 り に関す る伝説を述べよ , と い う も のであ る O こ

うした質問においても,自傷行為への言及は避けられている。そして,その暴力性や当時進ん

でいたスペクタクルな動きへの言及は注意深く避けられているのである。

以上の留保をつけた上で,テクスト化とスペクタクル化という分断の基盤となっているのは

なにか,と問うてみたい。世代なのか,階級なのか。タミル対非タミルの対立なのか,それ以

外の外的要素を想定すべきか。あるいは,こうした二極化は現代の宗教に一般的に見られるも

ので,特定の要因に還元すべきでないのか。タイ・プーサムを若者や労働者の祭りと考えるの

は,すくなくとも現代のシンガポールの文脈においては単純すぎると思われる。また,非タミ

ルとタミル系ヒンドゥー教徒との対立と見ることもできな ~ \oもはやタイ・プーサムはタミル

-26-

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多民族社会における宗教(田中)

の祭りとは言えな~\からだ。タイ・プーサムのスペクタクル化には観光やメディア環境の発達

が認められるとするなら,単純な社会学的要因への還元は避ける必要があろう。タイ・プーサ

ムはスペクタクル化しているが,しかし,それはエリー卜的な宗教への抵抗ではな~\。エリー

トたちはタイ・プーサムに認められる真撃さを否定してはいなし、からだ。かつてのようにタ

イ・プーサムが批判の対象なのではなく,その真正性を脅かす要素(たとえば若者たち)が非難

されているのである。

宗教についての若者の啓蒙はテクス卜を通じてなされるべきだと考えられているかぎり,タ

イ・プーサムにおける若者批判とテクスト化の動きは連動していると言えよう。しかし,後者

が功を奏して,タイ・プーサムが秩序だった儀礼となったのかどうか,という因果関係につい

ては疑問である。そこに働いているのは教育やテクストの力よりも,マスメディアによるキャ

ンペーンや政府機関による実質的な規制である。また,ヒンドゥー教のテクスト化も国家によ

る教育制度の変更によって可能となった。とすれば,重要なのは国家の役割であり,それがな

にを求めているのか,という問~\かけである。

テクスト化においてもタイ・プーサム,そしてカーヴァディを行うこと自体が否定されてい

ないのはインド系コミュニティのシンボルとして国家が保証していることと関係しているので

はないだろうか。それは,国民を形成するコミュニティの lつが実践するエスニシティ表出の

正当な契機とみなされているのである。タイ・プーサムを通じてーーその否定ではなく一一

インド系住民はシンガポール国民として認知されるのである。

第 2章で詳述したように,シンガポールは多民族社会としてみずからを位置づけている。そ

れは具体的に中国系,マレ一系,インド系と少数のその他から成る。これらの間に原則として

地位の相違はない。それを保証し,各民族の対立を調停する位置に政府そして与党の PAPが

ある。政府与党は,圧倒的に中国系の政治家が占めているにもかかわらず,露骨な中国系多数

派優遇政策を避けてきた。しかしそうすることで,政府与党は,民族対立の当事者になるこ

とを避け,より効率的に権力を行使することが可能となる。

政府の多民族政策を典型的に示しているのは祝日(公休日)の制定である。各民族に 2つし

か祝日は与えられていない。インド系の場合, 1 つ は全イ ン ド的な祭 り であ る デ ィ ーパー ヴ ァ

リーに,もう lつは同じインド系に分類されているシンハラ人を想定した仏教の祭日(ウェ

サソク ) 66 ) に割 り 振 ら れて い る 。 つ ま り , イ ン ド系の祝 日 に関す る か ぎ り , タ ミ ル よ り も全イ

ンド的な祭りが優先され,さらに少数にもかかわらず,中国系の宗教とも重なる仏教の祭日が

祝日として選定されているOその結果,人気の高いタイ・プーサムは祝日にはなっていない67)。

これはある意味で徹底した平等主義とも言えるが,他方で(とくにタミル人には)少数派を無視

しているともとられかねない。ここで注意しなければならないのは,多民族というのはあくま

で CMIOといった大きな枠組みであり,その内部の差異は無視されているということである。

- 27

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人文学報

これについてはすでにタミルの地位をめぐる考察で明らかにした。

本稿ではヒンドゥ一教のテクスト化について宗教知識の導入に注目した。これもまたさきの

シンガポール国民を構成する民族と宗教の関係を固定するのに貢献していることは明らかであ

ろう。つまり,国家の多民族政策の前提となる民族 (CMIO)の固定化いう視点から見ると,

テクスト化もスベクタル化も同じ固定化の過程である,ということになろう。すくなくともシ

ンガポールにおいては両者は矛盾しては l )ない,と言える。多民族の共存という視点は,まず

多民族が形あるものになって初めて意味をもっOインド系シンガポール人が儒教を選択するこ

とは認められなかったが, 1990 年代に中国人が タ イ ・ プ ー サ ム に参加す る こ と は分類を撹乱

させる行為とはとらえられず,むしろ多民族の共存を示唆する行為として注目されることに

なったのである。

こうして,アパデュライが「世界的あるいはコスモポリタン的な舞台の上で少数派集団が自

己表現できるという夢想をもって彼らを骨抜きにする J [アパデュライ 2004 : 80J と榔撤す る

状況が生まれる。少数民族は国家によってその存在を保証され,それが多くの外国人観光客が

集まる国際的な舞台で表現されるというのである O

12 ス ペ ク タ ク ルの逆説

従来のスペクタクル論における基調は,儀礼が世俗化することでスペクタクルになるという

単線的な近代化論に沿ったものである。たとえば,マカルーン[1988 : 396J に よ る と ス ペ ク

タクルは自発的な関わりを基礎とする点で,より義務的な祭り fest ivalと区別される。また,

ハンデルマン [Handelman 1997J は , 儀礼 と対比さ せて, ス ペ ク タ ク ルを近代的な官僚組織

に特徴的なパフォーマンスとみなし,それが国家イデオロギーを反映している,と述べている O

マカルーンが考察しているのは近代オリンピ yクであり,ハンデルマンは旧ソビエト連邦やナ

チス・ドイツの国家事業である。冒頭で引用したアパデュライの想定するスペクタクルもより

世俗的なものであろう。

タイ・プーサムは,以上のようなスペクタクル観から考えると,十分に世俗化していないと

言える。タイ・プーサムの参加者は義務的とは言えないが,祭りに他ならない。しかし,問題

はスペクタクルを世俗的な現象ととらえる視点そのものではないだろうか。タイ・プーサムが

なによりもスペクタクルとしてとらえられているのは,カーヴァディなどの実践者が行う自傷

行為なのである。この暴力的要素から宗教色が消えて,完全に「見せ物」になったのではない。

新聞についての考察からすでに明らかなように,タイ・プーサムにおいては,最近までつね

にドンチャン騒ぎ(カーニヴァル)と真撃な信仰とが桔抗関係にあった。それでは,真撃な信仰

とはなになのか。この中身も,すでに指摘したように変化している。 1 940年代において,自

~ 28

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多民族社会における宗教(田中)

傷行為は日朝笑の種であった。しかし,今日夕イ・プーサムがスペクタクルとみなされているの

は,まさにこうした自傷行為が真撃な信何の証と考えられているからである。それゆえこの白

傷行為は自尊心をくすぐる見せびらかしであっては~'\けないということが強調されている。た

だの見せびらかしのために数日あるいはそれ以上の禁欲生活を行うはずがないという声もある。

白傷行為の背後にある意図一一信仰一一ーが間われるのである。また,誇示するために観衆の

前で白傷行為を行おうとした人が,途中で血が止まらなくなって行進を棄権したというような

話を聞いたことがあるO血が止まらないような信徒は真の信仰を持ち合わせていない,という

ことになる。このように,タイ・プーサムのスペクタクルな性格は,見られていることを前提

とした「パフォーマンス」であってはいけない,という「反スペクタクル」的な考えによって

成立している 68)。

ここで,観衆の考えについても言及しておくべきであろう。非ヒンドゥー教徒,とくに外国

人観光客が期待し,求めているのは,アラフ・力一ヴァディに認められるような白傷行為であ

ることに変わりはない。しかし,二人の外国人とのインタビューからではあるが,それを以前

の改革運動者たちのようにおぞましいもの,野蛮なものととらえていないことがうかがわれた。

むしろ,自傷行為を行うヒンドゥー教徒への尊敬の念の方が強かった69)。換言すれば,タイ・

プーサムにおいて白傷という暴力的行為そのものが問いただされることはなくなった。そして,

この自傷行為がタイ・プーサム祭の真撃さを保証している。それがさらに異文化の真正さ

authenticity を求め る 観光客を惹 き つ け る のであ る 70 ) 。 そ こ で は, 観光を め ぐ る 観光客の要

求とかれらが期待している「本物らしさ」をもって応えようとするホスト社会との緊張関係が

生じにくい7 1 )。

そのような真撃さと真正さは,国家の思惑とは別のところで、民族の枠を越えて人々に訴える

ことにならないだろうか。そして,それが国家による民族分類学を撹乱し, I共存」 と い う 言

葉で収まらない状況が将来生じるかもしれないのであるOそもそも,白傷行為についての規制

そのものが真撃さと対立しているOまた 1966年にアラフ・カーヴァディの変形で,上部の構

造を支える太い金属棒と連結している腰に巻くバンドの代わりに直接金属棒を腹に差し込んで

支えようとする形式のハリ・カンブ・カーヴァディ kari kampukavati が発明 さ れた。 こ れは

現時点では少数であることもあり問題視されていないが,近い将来規制の対象になり,実践者

との間で葛藤が生じるかもしれな ~ '\ o

また,今は共存という形で理解されている非ヒンドゥー教徒の参加であるが,これもいつ搾

取や侵略という形で問題化するかわからな ~ '\ oシンガポールにおけるヒンドゥー教の習合的性

格については冒頭で指摘したが,タイ・プーサムについても類似の問題が潜在的に認められよ

つ。

- 29-

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人文学報

13 結 論

シンガポールのヒンドゥー教は長く多民族社会の状況下にあって大きく変貌を遂げてきた。

こうした変化として本論ではテクス卜化とスペクタクル化をキーワードに,とくにタイ・プー

サム祭のカーヴァディ儀礼に注目した。そして,そこに認められる暴力の意味の変化を考察し

た。暴力や痛み,身体,信仰がシンガポールという「スペクタクルの社会J [ドゥボール

1993 , 2000J にお け る生の復権の拠点と し て, ス ペ ク タ ク ルの逆説を含みなが ら , 人々 を ま す

ます魅了している。

1980 年代に な っ て, ス リ ラ ン カ の民族紛争の激化に と も な い少数民族であ る タ ミ ル人が大

量に欧米諸国へと移り住んだ。そして,かれらを中心に新しいヒンドゥー・ディアスポラ社会

が生まれつつある。そこでも力一ヴァディなどの儀礼が注目されつつある。本論での議論はシ

ンガポールという都市国家における分析であるが,同時にこれからのヒンドゥー・ディアスポ

ラ社会にも関わる試みとして位置づけたい。

追記本論は Tanaka [2003J に も と づ き 大幅に加筆修正をお こ な っ た も のであ る 。 ま た シ ン ガ

ポールについての記述の一部は田中 [2004Jと重複していることをことわっておく。現地語の

表記はタミル語とサンスクリト語である。固有名詞については慣用的表記に従った。シンガ

ポール滞在中は当時シンガポール大学の社会学科に所属していたチャン・コク・ブンとアーナ

ンダ・ラージャ両博士にお世話になった。またシンガポールのヒンドゥー教理解についてはや

はり社会学科に属していたA.マニと v.シンハ博士から示唆を受けた。アジア文明博物館のク

リシュナ・ガウリ氏にもお世話になった。滋賀大学の福浦厚子助教授からは関連文献や表記に

ついて教えていただいた。ここでは省略するが本論文のデータ収集にあたって多くの人々にお

世話になった。さらに,歴史資料については国立シンガポール大学図書館,シンガポール国立

公文書館,シンガポール国立図書館を利用した。最後にシンガポールではいつもお世話になっ

ている日本研究科のティモシー・ツ一博士に感謝の意を表したし」シンガポールで、の調査は小

泉潤二代表の科学研究費補助金「環太平洋地域における文化とシステムの動態J (2000-2002

年度)および文化庁プロジェク卜「世界の宗教事情 J (2000-2003 年度) に よ っ て可能 と な っ

た。 Cra ig Reynolds 博士の未公刊論文につ いて は オ ー ス ト ラ リ ア 国立大学のNick Tapp 博士

の手をわずらわせた。

1)オーソプラクシーという概念はヒンドゥ一教の文化人類学的研究においては Harper [1964J

が使用している。ほかにインドネシアのバリの宗教についてギアツ [Geertz 1973:177J に よ る

指摘がある。ギアツの説についてはパリの宗教を論じた山下[1 999Jが詳し L 、。

2)もちろんこうした対比は価値中立的なものではなく,儀礼より信仰を重視するプロテスタント

30

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多民族社会における宗教(田中)

中心主義の偏見に基づいている場合もあることに注意する必要があろう。

3) いわゆ る19 世紀に生ま れ る さ ま ざ ま な運動 ( ブ ラ フ マ ・ サ マ ー ジ, ア ー リ ヤ ・ サ マ ー ジ な ど

のネオ・ヒンドゥー教)はこうした例ととらえることができる。スリランカにおいてもキリスト

教との接触を通じて,仏教徒やヒンドゥ一教徒にあらたな意識が生まれたとされている tゴンブ

リッチ&オベーセーカラ 2002 : 305-362J 。 本論では考察の対象外であ る が, 異宗教と の接触

を通じて同じことがヒンドゥー教の長い歴史の聞に何度も生じたであろうことは想像に難くな l ' o

4) た と え ば20 世紀初頭に書かれ たFarqurar 口912, 1920J な どの概説書が与え た影響に つ い

て von Steitencron[1995:77J を参照。

5) 継承 と い う 性格を強調す る と マ ニ ュ ア ル (化 さ れた) 知識manual knowledge と い う 概念

[ReynoldsforthcomingJ と も類似 してい る 。

6)しかし,この間いが妥当ではない,というのではな L 、。テクスト化をめぐる古典的な人類史的

考察として[オング 1991,グディ 1 986JがあるOまた,テクスト化がオーソプラクシーから

オーソドキシーへという変化を意味するのかという問いについても答えを留保したい。ここでの

テクス卜化はあくまでわかりやすい言葉や図による表現であり,継承を目的とすることがらだか

らである。

7) サ テ ィ ー につ いては田中 [1998J , ま た イ ン ド お よ び独立後の ス リ ラ ン カ の改革運動につ いて

は田中[1999Jを参照。本稿はマレ一半島での改革運動を取り扱っているという意味で田中

[1999Jの続編である。

8) ス ペ ク タ ク ルにつ いて は他に[Manning 1992J を参照。

9) シ ン ガ ポ ー ル政府観光局Singapore TouristBoard に よ る2005 年のパ ン フ レ ッ ト で は,

spectacular と い う 形容詞が本稿で扱 う タ イ ・ プー サ ム祭 り に使われて い る 。 タ イ ・ プー サ ム に

ついては類似の指摘が [Karen Chia1999;28J に お いて も な さ れてい る 。 な お , シ ン ガポ ー ル

においてスペクタクルとされる典型は独立記念日に行われる催しである。これについては,

[Leong1999J や [Lim 1999J を参照。

10) 本稿で は取 り 扱わな いが, ス ペ ク タ ク ル化の典型は儀礼の芸能化であ ろ う 。

11) ス ペ ク タ ク ル と い う 用語は使 っ てい な いが, パ リ の ヒ ン ド ゥ 一教に見 られ る類似の矛盾する動

きについては山下の指摘[1 999 : 106-107J があ る 。

12) 1964 年の暴動につ いて は[Clutterbuck 1985:319-322J を参照。 ま た1970 年代前半のキ リ

ス卜教徒の大学生を中心とした反政府活動および宗教教育の廃止を引き起こしたとされるキリス

ト教徒の反政府活動については [Tamney 1996:28-33J を参照。 そ の他の民族 ・ 宗教対立に

関わる問題については [Narayanan 2004J が詳 し し 、 。

13) タ ン[Tan 2004J は シ ン ガポ ー ルの民族政策を独立後か ら , 第l 期1965-1979 , 第2 期1979ュ

1990, 第3 期1990-1999, 第4 期2000 ーの4 つ に分けて整理 してい る 。 かれに よ る と , 第1 期

はマレ一系住民の存在を意識しつつ,できるだけ民族性を強調しないでシンガポール人の形成を

めざした時期,第 2期は西欧文明の悪影響を恐れて,アジア的価値・道徳の発見に務め,とくに

中国系文化,中国系価値を強調した時期となるOしかし,それは中国系だけでなく他の民族的価

値の確認にも結び、ついていた。第 3期になるとシンガポールの「アジア化」はさらに進み,多民

族社会としてのシンガポールという視点が確立してし1く。そして,そこで民族ごとの自助集団が

果たす役割が意義をもつことになる。第 4期になると,諸民族が交流する場が問題視されてしぺ。

第 3期と第 4期は第 2期のさらなる展開としてとらえることが可能であるため,現在のシンガ

ポールの民族政策は第 2期に基礎ができたと言えよう。

-31-

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人文学報

14) シ ン ガポ ー ルの言語政策につ いては [岡部1984, 田中1987, 田村2000 :242-249J を参照。

15) 例外は1980 年代末か ら90 年代初頭にかけてス リ ラ ン カ での分離独立をめ ざす タ ミ ル人過激派

とシンガポールのタミル系コミュニティとの関係が取りざたされたときである。

16) こ の点につ いて は[PuruShotam 1998J を参照。

1 7) 以上の点につ いては[Chua 1995, 1998J を参考に し た。 「各人種聞にお け る形式的な く平等〉

を促進することで,国家は偏見や最買もなくすべての人種化した集団の上位に位置するく中立

な〉空間をみずから要求している。それは,各集団の権利を守る平等で公平無私な存在であるが,

それはつねに,国家利益の保護のもとでということである。 J [Chua1995:9J

18) シ ン ガポ ー ルの イ ン ド系移民につ いて は[Mani 1977, 1993;Sandhu1993J を参照。

19) 2000 年の統計で は総人口 が326 万, そ の う ち , 中国系が76.8 パ ー セ ン ト , マ レ 一 系が13.9

ノf一セント,インド系人口が 7.9パーセントである。宗教では, 15 歳以上の人口 に限 っ て言 う と ,

仏教が 42 .5パーセント,道教など中国の伝統宗教が 8.5パーセント,イスラームが 14 .9パーセ

ント,キリスト教 14 .6パーセント,そして,ヒンドゥ一教徒が 4.0パーセントである。それ以外

の宗教が 0 .6パーセント,無宗教が 14.8パーセントである。 1 980年の統計と比べると,この 20

年間の顕著な傾向は,仏教が 27 .0パーセントから 42 .5パーセントへと急増し,道教などが 30 .0

ノf一セントから 8.5パーセントへと急減している。そして,キリスト教が 10.1パーセントから

14.6 パー セ ン ト へ と漸増 し てい る 。2003 年の統計では総人口が344 万であ る 。 ただ し , こ れに

加えて外国人居住者が 80万人近くいる。 (htt p : //www. singsta t. gov . sg/keysta ts/c 2000/

handbook.pdf2004.11.15 参照)

20) 1980 年の統計では イ ン ド系 シ ン ガポ ー ル人の62.0 パー セ ン ト を タ ミ ル系住民が占め る O

2 1) ヒ ン ド ゥ ー教徒は1980 年で は56.3 パー セ ン ト , 1990 年で53 .1 パ ー セ ン ト , 2000 年で は55 .4

ノf一セントを占める。

22) こ の点につ いて は[Kho 1979:6J を参照。 ち なみに, 南イ ン ド ( マ ド ラ ス 州 ) で は1926 年

に類似の委員会が設置されている。詳しくは[田中 2002aJを参照。

23) 4 つ の寺院 と は , マ ー リ 女神寺院Sri MariammanTemple (建立 1 827年) ,ヴィシュヌ寺院

SriSrinivasaPerumalTemple (建立 1 855年),シヴァ寺院 Sri SivanTemple (建立 182 1

年) ,カーリ一女神寺院 Sri VairavimadaKaliammanTemple(建立 1 860年)である。

24) 詳 し く はhttp://www.heb.gov.sg/(2004.1 1.15) を見よ 。

25) そ の典型がMarsiling Rise の シ ヴ ァ ・ ク リ シ ュ ナ寺院であ る 。 こ れは ヴ ィ シ ュ ヌ の化身であ

るとされるクリシュナとシヴァを主神とする寺院である。

26) た と え ば, 近接す るDepot Road の 斉天大誕廟 と ル ド ゥ ラ ・ カ ー リ 一 女神寺院Ruthra

KaliammanTemple につ いての記事 [Stra its Times1989.2.3J やWaterloo Street の観音堂

悌祖廟とクリシュナ寺院 Sri KrishnaTemple につ いての記事 [Stra its Times1989.11.2J を

参照。

27) こ れにつ いて は [福浦2005J を参照。

28) 統計か ら も 明 ら かな よ う に , キ リ ス ト 教徒の数は年 々 増え て い る 。 ヒ ン ド ゥ ー教徒の数 は

1990 年か ら 見る と す こ し持ち 直 し て い る 。 注目参照。

29) 統計的に無宗教と さ れ る 人々 の数は1980 年の13 ノ ず 一 セ ン ト か ら1990 年の14.1 パ ー セ ン ト ,

2000 年の14.8 パー セ ン ト へ と増加 し てい る 。

30) 宗教教育の導入 と廃止の背景につ いて は[Chua 1995:21, Tamney1996:25-27J を参照。

また田村 [2000 :249-262J も詳 し し 、

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多民族社会における宗教(田中)

31) 1980 年 と1990 年を比較す る と , 中国系住民の間でキ リ ス ト 教徒が占め る割合は10.7 パー セ ン

トから 14 .1パーセントへと増加している [Tamney 1996:33J 。

32) オ ー ロ ビ ン ド ・ ゴー シ ュ は1893 年に ケ ン ブ リ ッ ジか ら帰国す る ま で14 年間英国で過ご し てい

るO帰国後はインドの文化と言語について研究する。 1905年以後過激なナショナリズム運動に

関わり,ほどなくして 1 908年に検挙されて刑務所に送られる o 1 年後に解放さ れ る が, 刑務所で

の体験が彼のその後を決定する Oかれは政治活動を放棄し,ヨーガの実践者となり, 1910 年に南

インドのポンディシエリーに道場を聞く。 1 926年には引退を決める。なお,かれの著作はすべて

英語で書かれている。

33) カ ー ヴ ァ デ ィ につ いてはすでに別の と こ ろ [田中2004J で紹介 してい る 。 本節はそれ と重複

することをことわっておきたい。

34) こ の2 つの神話は本来l つの神話の一部であ り , 順序は第2 の後に第1 の話が続 く 。 すなわ ち ,

第 2の神話に登場するスールパドゥマはイドゥンバンの兄である。兄が殺された後,イドゥンバ

ンは死者儀礼 sraddαを行っていたところ,その敬漫さに胸をうたれたアガスティヤから話を持

ちかけられたのである。

35) タ イ ・ プ ー サ ム の記述は 田中 自 身の観察(2002 年1 月 と2005 年1 月 ) に 基づ く が, 一部

Babb [1976J とEvers andPavadarayan [1 993J を も参照 し た。 他に Sinha [1987:118ュ

126J も詳 し し 、 。

36) 古典文献では, こ の月 (プ シ ャ ヤ月 ) は月 がプー サ ム (プ シ ャ ヤ ) 宿に入 っ て, 満月 に な る 月

とされている(京都産業大学教授矢野道雄氏の御教示による)。

37) 以下で はたんに ム ルガ ン寺院と呼ぶ。

38) 寺院管理に つ い て は[Muthuswamy 1958J が詳 し い。 も と も と 金貸 し 業 に従事 し て い た

チェッティヤールが管理する資格を持っていたが,今日金貸し業そのものがほぼ消滅した。 2008

年に根本的な改革がなされるとし寸。なお,管理委員会は祭りの翌日に毎年替わる。

39) 寺院を出てか ら の往路はTank Road , ClemenceauAvenue , FortCanningRoad , Stamュ

fordStreet , NorthBridgeRoad , ColemanStreet , ColomboStreet , HighStreet , HillStreet ,

NewBridgeRoad , NorthCanalRoad , SouthBridgeRoad , PickeringStreet , TelokAyer

Street , CrossStreet , SouthBridgeStreet そ し てマ ー リ 女神寺院で休憩 し た後, NeilRoad ,

KretaAyerRoad を通 っ て ヴ ィ ナ ー ヤ ガ寺院に到着す る 。

40) 朝食 と し て一般的な イ ド ゥ リ i t li , イ デ ィ ヤ ッ パ ン i tiyappαm, ヴ ァ ダ イ ωaai, ス イ ー ト の

ケーサリた ecariなどとコーヒーである。

4 1) ヴ ィ ナ ー ヤ ガは象頭の神で, シ ヴ ァ の長男, ム ルガ ン の兄であ る 。 ガ ネ ー シ ャGanesha , ガナ ノ f

ティ Ganapathi,ヴィグネーシュヴァラ Vignesvaraなどと呼ばれる。日本では歓喜天に対応

する。

42) ミ ル ク 粥は タ ミ ノレ社会で一般的に見 ら れ る供物で, 儀礼的状態の変化を示す。 詳 し く は 田中

[2002bJ を参照。

43) 復路はKeong Sail 王Road , NeilRoad , MaxwellRoad , RobinsonRoad , CrossStreet , Cecil

Street , D'ArmediaStreet , MalaccaStreet , MarketStreet , ChurchStreet , SynagogueStreet ,

SouthCanalRoad , NorthCanalRoad , HighStreet , St.Andrew'sRoad , StamfordRoad ,

FortCanningRoad , ClemenceauAvenue , TankRoad であ る 。

44) キ至路はRiver ValleyRoad , KillineyRoad , OrchardRoad , ClemenceauAvenue , Tank

Road であ る 。

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人文学報

45) 以下ではたんに ヴ ィ シ ュ ヌ 寺院 と呼ぶ。

46) 2005 年の タ イ ・ プー サ ム で は, ア ラ フ ・ カ ー ヴ ァ デ ィ は午前2 時か ら午後6 時ま での聞に 出

発しなければならない。さらに登録料のレシートの色によって,午後 2時を境に「午前」と「午

後」の 2つに出発時間が分けられている Oミルク壷を頭に乗せる所作と木のカーヴァディは午前

0 時5 分か ら 出発可能。 背中に小さ な山車を引 く カ ー ヴ ァ デ ィ ira t,α kil va ti は午前2 時か ら午後

2 時ま でに出発す る 。 そ し て , 午後2 時か ら 出発する ア ラ フ ・ カ ー ヴ ァ デ ィ は100 シ ン ガポ ー ル

ドルを預け,夜の 11時までにムルガン寺院に到達しなければならなし、しなかった場合は罰金

として 1 00シンガポールドルを没収させられる。真夜中から開始するのは,人数の問題だけでな

く,当日が平日の場合仕事を休めない人たちを考慮してのことである。

47) 1993 年に7 ,000 , 1995 年に7 ,700 , そ し て1996 年に は9 ,500 名の参加者が記録さ れてい る 。 最

近では 2001年に 1 5, 000, 2002 年に20 ,000 名が参加 し てい る 。2001 年か ら2002 年の急増につ い

ては不況を原因とする説明がある [Stra its Times2002.1.19J 。

48) こ れにつ いて は筆者未見。 イ ン タ ビ ュ ー に よ る 。Babb [1976:15J 参照。

49) た と えば, 5,000 人の食事を用意 し た [Straits Times1946.1.19J と か, 前 日 の山車の写真を掲

げる [Stra its Times1946.2.5, 1950.2.2, 1965.1.19J な ど。 タ ミ ル新聞だ と1949 年に はチ ェ ッ

ティヤー lレたちが人々に食事を振る舞っている写真と記事が掲載されている [T,αmil Murasu

1949.1.19J 。 同 じ く 翌年の 「ス ト レ イ ツ ・ タ イ ム ズ~ (1 950年 2 月 2日付)ではチェッティヤー

ルの活動を詳しく伝えている。

50) チ ェ ッ テ ィ ヤ ー ルは, 政府の規制に た い し かな らず し も盲従 し てい る わ けではな い。 た と え

は 1 996年の寺院改築にともなって出版された書物では,信徒が不快とみなすような規制を強化

することには跨踏していること,信徒はムルガン神と同じくらい重要であり,信徒が不快に思う

ことはムルガン神も不快に思うとさえ述べている [Palappan 1996:3 1] 。

5 1) タ イ ・ プ ー サ ム の時ではな いが, ド イ ツ人の商人がカ ー ヴ ァ デ ィ を行 っ てい る写真が記事と と

もに紹介されている [Straits Times1980.8.13J 。

52) タ イ ・ プ ー サ ム につ いて , 1980 年代半ばの観察に基づき シ ンハ はつ ぎのよ う に記述 じ てい る 。

「タイ・フ。ーサムは伝統的にこれを重視していなかった人々にアピールし始めた。かれらは,バ

ラモン,マルワーリ[北インド系の商人一一引用者注 J,北インド系の人々,また知識階級に属

する個人,そしてシク教やイスラームなどの他の宗教,さらに中国系など異なるエスニック・カ

テゴリーに属する人々である。かれらがこの祭りに数多く参加し始めたのである J [Sinha1987

143-144J 。

53) 最近ゲ ス ト と し て招かれた環境省大臣 リ ム ・ ス ィ ー ・ セ イ はつ ぎの よ う に答えてい る 。 「 こ れ

[インド系以外の民族集団が参加していることについて]は,すばらしいできごとだ。そのよう

な[民族の]相互協同や相互理解を何世代にもわたって浸透させ続けることができると思う」

[StraitsTimes2002.1.19J 。 ま た1999 年1 月31 日 の テ レ ビ ・ ニ ュ ー ス では財務大臣 リ チ ヤ ー

ド・フ一博士のつぎのような言葉を紹介している o I こ の儀式でわた しが発見 し た興味深い こ と

がらは,人種を横断する inter-racialことがらである。それは統合へのすばらしい方法である」

(NationalArchives の記録よ り ) 。

54) 言語につ いて は1990 年に O レ ベ、 ルの試験が, 従来の中国語, マ レ 一語, タ ミ ル語に加え, ベ

ンガル 2吾,グジャラーティ i吉,ヒンディ一語,パンジャーブ 2喜,ウルドゥ - a吾の 5つのどれかで

も試験を受けることが許され, 1991 年に は A レ ベル試験に も適用 さ れた。1994 年に は小学校卒

業の試験もこれらの言語で可能となった。こうして 1990年代になると教育における言語の制限

34~

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多民族社会における宗教(田中)

はいちじるしく緩和されている。この背景にはタミル系以外のインド系シンガポール人の力が強

く動いていると推察されるが,言い換えればタミル人の政治的力は衰退していると考えることが

できるOなお,ヒンドゥー・センターが発足した 1 978年にタミル言語文化協会 Tami l Language

CulturalSociety が生ま れてい る が, こ れは明 らかに非 タ ミ ル系の動 き に反撮 し た も のであ ろ う 。

55) 1983 年5 月 に タ ミ ル系の教員組合が英語だけでな く タ ミ ル語で も教え る よ う に教育省に訴え

ている [Stra its Times19830503 1] 。

56) 後述す る よ う に , カ ー ヴ ァ デ ィ の絵は教科書の副読本に認め られ る が, 教科書に タ イ ・ プー サ

ムは出てこない。

57) [LeeandRajoo1987:404J を参照。

58) r タ ミ ル ・ ム ラ ス 』 紙は 1 935 年創干Ij , 1936 年に独立 し1937 年12 月 よ り 日刊 と な る 。 ム ラ ス

muracu は タ ミ ル語で ニ ュ ー ス を知 ら せ る 太鼓を意味す る 。 「 タ ミ ル ・ ム ラ ス 』 に つ い て は,

[Sundaraju 1990J が詳 し い。 し か し , 1950 年か ら65 年ま での英字新聞 『 ス ト レ イ ツ ・ タ イ ム

ズ」では露骨な批判は見られない。

59) 6 つ ti ru の顔 muたαm を も っ人 と い う 意味の ム ルガ ン の別名。

60) 1970 年代か ら80 年代に か け て の英語新聞紙上の タ イ ・ プ ー サ ム を め ぐ る 論争に つ い て は

[Sinha1993:832~ 833J を も参照。 『 タ ミ ル ・ ム ラ ス 』 の調査は1960 年代ま でに と どま っ てい

て,調査中である。クリシュナンによると, 1980 年代にな る と そ の批判的傾向はな り を潜めて

いく [Krishnan , GauriParimoooFollowingMurukan:TaiPusaminSingapore , http:jj

muruganoorgjresearchjgauri_krishnanohtm(200401.50)J 。

6 1) こ の禁止の実質的な規制は警察に よ っ て1979 年に始ま る 。 だが, Sinha [1993:832-834J

によると,ヒンドゥー寄進局が禁止を緩和するように警察に訴えたとし寸。しかし,その後ヒン

ドゥー寄進局も警察にしたがって禁止を強化する立場をとった。

62) 英語 と タ ミ ル語で表記さ れて い る 。 タ ミ ル語では, ωiPPi1 cα vila tot αゅilti 1] αvitimu! ,α仇αlであ

る。

63) 同 じ指摘につ いて は[Willford 2002:258no15J があ る 。

64) マ レ ー シ ア の タ イ ・ プー サ ム を分析 し た リ ー[Lee 1989J は , バ ブに た いす る批判を示 し て

はいないが,やはりそこに少数民族としてのタミル(インド)系マレーシア人の意識を認めてい

る。

65) マ レ ー シ ア に お いて, イ ン ド、 系マ レ ー シ ア人の多 く がなおプ ラ ン テ ー シ ョ ン地域に住んでお り ,

タイ・プーサムはいまなお労働者たちの祭りである。カーヴァディはかれら特有の神や社会にた

いする関係を表すものとみなされている。この点について,タイ・プーサムが下層階級,下層

カースト,労働者の祭りであり,労働者の肉体と神との関係を祝う機会である,と指摘する

[Collins1997:102, Lee1989, Willford2002J を参照。[Lee andRajoo1987, Willford2002J

は,エリートのタミル人たちの活動についても論じている。マレーシアのタイ・プーサムについ

ては{也に [Ward 1984J も あ る 。

66) 釈迦の誕生, 覚醒, 人減を記念する 日 O こ れ ら三者は同 じ 日 と み な さ れてい る 。

67) た だ し , か つ て タ イ ・ プ ー サ ム の 日 は祝 日 の法案が施行 さ れ る1968 年 ま で祝 日 で あ っ た

[Sinha1987:130J 。

68) 日 本語でパ フ ォ ー マ ン ス と い う 言葉に含ま れて い る 嘘臭 さ が フ ラ ン ス の語spectacle に も認め

られる [Mann ing 1992:293J 。

69) こ の点につ いて は[Karen Chia1999:29J も , 観客が カ ー ヴ ァ デ ィ の実践者に た い し て尊敬

35

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人文学報

を懐いていると指摘する O

70) 観光 と 真正 さ と の関係につ いて は多 く の議論があ る が, 先駆者の マ ッ カ ネ ル [MacCannell

1973J に よ る と , 観光の期待さ れ る 目的 と は , 前景あ る い は表舞台に替わ っ て後景あ る い は裏舞

台に触れ,自分たちが見ている対象の「真の姿」を垣間見ることにある。この前提には観光の対

象がしばしば観光のためにしつらえたもの,したがって真ではないという想定がある。しつらえ

の裏にこそ真のモノや他者が存在し,それが真の観光体験なのである。最近の真正性の議論につ

いては [Olsen 2002J を参照。 他に [山下1999: 28-30J があ る 。

7 1) 観光, と く に文化的な真正さ を求め る エ ス ニ ッ ク ・ ツ ー リ ズ ム の問題につ いて は[van den

BergheandKeyes1984J を参照。 かれ ら は, 観光客が も っ と も嫌 う の は観光地にお け る観光

客の存在だと指摘しエスニック・ツーリズムの困難さを論じている。

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