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ヨハネ福音書2章で語られる救済思想 その提示方法を中心に  The Salvation Narrated in John 2 A Narrative-Critical Approach 前川 裕 Yutaka Maekawa ヨハネ福音書2章で語られる救済思想 31 キーワード ヨハネ福音書、救い、物語批評 KEY WORDS The Gospel of John, Salvation, Narrative Criticism 要旨 ヨハネ福音書2章において語られている救済思想について物語批評の立場から考察 することを目的とし、構造/形式・レトリック・状況設定・登場人物・視点・筋・ナ レーターの7点から検討する。2章において救済に関係する内容は以下である。(1)奇 跡物語は、イエスがこの世界に働きかけ、変革する力を持っていることを示す。また 宮浄めはイエスを仲立ちとした神とのつながりという新しい救済のあり方を示す。 (2)イエスの母と召使いが示すイエスへの従順は、救済を実現するための重要な要素 である。(3)イエスの宮浄めは、既存の宗教体制およびその救済の力への問題提起で ある。(4)弟子の信仰が救済と密接に関わっていることが示唆される。(5)「しるし による信仰」について二つの見解が示され、さらに救いに関する決定論の存在が示唆 される。また2章のもつ読者への効果は以下のとおり。(1)奇跡や宮浄めは読者のイ エスに対する関心を高める。(2)「しるしによる信仰」によって、信仰についての問 いを呼び起こす。 SUMMARY The salvation narrated in John 2 is approached from the perspective of narrative

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ヨハネ福音書2章で語られる救済思想  その提示方法を中心に  

The Salvation Narrated in John 2 A Narrative-Critical Approach

前川 裕Yutaka Maekawa

ヨハネ福音書2章で語られる救済思想

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キーワードヨハネ福音書、救い、物語批評

KEY WORDS

The Gospel of John, Salvation, Narrative Criticism

要旨 ヨハネ福音書2章において語られている救済思想について物語批評の立場から考察することを目的とし、構造/形式・レトリック・状況設定・登場人物・視点・筋・ナレーターの7点から検討する。2章において救済に関係する内容は以下である。(1)奇跡物語は、イエスがこの世界に働きかけ、変革する力を持っていることを示す。また宮浄めはイエスを仲立ちとした神とのつながりという新しい救済のあり方を示す。

(2)イエスの母と召使いが示すイエスへの従順は、救済を実現するための重要な要素である。(3)イエスの宮浄めは、既存の宗教体制およびその救済の力への問題提起である。(4)弟子の信仰が救済と密接に関わっていることが示唆される。(5)「しるしによる信仰」について二つの見解が示され、さらに救いに関する決定論の存在が示唆される。また2章のもつ読者への効果は以下のとおり。(1)奇跡や宮浄めは読者のイエスに対する関心を高める。(2)「しるしによる信仰」によって、信仰についての問いを呼び起こす。

SUMMARY

The salvation narrated in John 2 is approached from the perspective of narrative

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基督教研究 第75巻 第2号

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criticism, in particular, through its structure/form, rhetoric, settings, characters, point of view, plot and narrator. Major themes related to salvation in John 2 are: 1)a miracle story shows the power of Jesus to affect and change this world, and the temple cleansing shows a new route to salvation in connection to God through Jesus; 2)the obedience of Jesus’ mother and servants is an important element to realize salvation; 3)the temple cleansing criticizes the present religious systems and its power for salvation; 4)the disciples’ faith is suggested to be closely related to salvation; and 5)there are two opinions on ‘belief in signs,’ and the determinism expressed about salvation is offered without detail. The effects of John 2 on its readers are: 1)a miracle story or the temple cleansing raises the readers’ interest in Jesus; and 2)two different views on ‘belief in signs’ lead readers to consider the foundation upon which belief should be established.

1 はじめに

1.1 問題設定1.1.1 本研究の基本的関心 新約聖書は紀元1-2世紀にかけて作成されたキリスト教文書の集成である。それらは当然ながら、作成された時代背景に規定された文書である。その意味では世界に数多ある古典文献と同列の存在といえる。しかし他の古典文献と異なる新約聖書の特殊性の一つは、21世紀においても、信仰への導きとして用いられる文書であるという点であろう。新約聖書を読むことはしばしば入信の契機となる。ではいかなる点において、紀元後早い時期に記された文書が21世紀の読者に影響を与えることができるのか。これは現代の聖書学が解明すべき課題の一つである。新約聖書においては、その歴史的意味についての研究が数多く積み重ねられてきた。それらは多大な価値をもつ。しかし実際のところ、歴史的知識を持たない読者であっても、聖書を読むことによって信仰に導かれる例は少なくないと思われる。このような課題を解決するための研究方法の一つに、文芸学的研究(または文学的研究、Literary Criticism)が挙げられよう。聖書本文を、物語の世界内においてどのように読むことが可能なのかを考察することを通して、現代において新約聖書を読むことの意義、聖書文書が読者に与える力を明らかにすることができるであろう。これは現代のキリスト教、また教会の働きに対する大きな貢献になりうる。

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1.1.2 本論文での検討内容 以上の関心を踏まえ、本稿ではヨハネ福音書が内的読者(implied reader)に伝えようとしている救済思想について、物語批評的な観点から検討する1。人間(ないし世界全体)の救済2は、人々が宗教に求める意義のうちでも重要なものの一つである。新約聖書文書の救済思想では、マタイやルカ、またパウロ文書に関して主に論じられてきた。ヨハネ福音書における救済についての研究は比較的少ないことが指摘されている3。それではヨハネ福音書において、救済思想は従属的なものであろうか。例えばヨハネ福音書の中心的テーマがキリスト論であることは研究者間でほぼ共有されているといえる。しかし、「キリストとは何者か」を問題にするのはなぜか。キリストが救いを与える存在であるがゆえに、キリストに関心が寄せられるのではなかろうか。その意味で、救済思想はヨハネ福音書においても重要な内容の一つであろう。これを明らかにすることは、ヨハネ福音書の思想を考える上で不可欠の点である。 われわれはこれまで物語批評の手法を用いて3-11章を各章ごとに分析してきたが4、これはヨハネ1:19-12:50における物語の流れの中で示される救済思想という全体構想に基づいている。今回は2章を取り扱い、この部分から読みとれる救済思想およびその思想の提示のされ方について検討を試みる。すなわち、ヨハネ福音書の内的読者が思想をどのように受け取るよう期待されているかを調べることによって、この福音書がもつ影響力を考察する。

1.1.3 ヨハネ福音書における2章の位置づけ ヨハネ福音書2章は、ヨハネ福音書に示された救済思想を観察する上で重要な章である。1章ではプロローグの後、洗礼者ヨハネとイエスとの関係が示される(1:19-34)。そこではヨハネによって、イエスが「世の罪を取り除く神の子羊」と説明されるが(1:29)、イエス自身による言明は現れていない。また弟子たちがイエスのもとに集まってくることが説明されているが、そこでは明確な救済思想は示されていない5。2章において、イエス自身が直接の活動を開始する。一つ目の行動は比較的狭い範囲の交わりであり、イエスの最初の奇跡行為である(2:1-11)。二つ目は広く人々に開かれた場での行為であって、神殿という重要な場所における振る舞いである(2:13-22)。物語の冒頭部分における言動は、続く福音書の物語に強く影響しうる。これらのことから、2章において示された思想内容はヨハネ福音書の3章以降の部分に大きく関与してくると考えられる。

1.2 方法論 本研究では、物語批評(Narrative Criticism)の方法を用いる。物語批評は、文学

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一般の批評方法のうち、レトリック批評(Rhetorical Criticism)の一部分である物語論(Narratology)を踏まえつつ6、特に聖書の分析において適用された方法である7。1982年の Mark as Story8を嚆矢とし、その後マタイ9・ルカ10・ヨハネ11に適用された。Mark as Story は発刊後30年を経て第三版が出版され、またこの30年の研究状況を回顧する研究書も現れた。物語批評の方法論への入門書や12、物語批評に基づく注解書も出版されている13。物語批評は聖書研究の一手法として定着していることは明らかである14。 物語批評は「物語が、価値判断・信仰・認識との関係で、読者が受け取るように意図された効果に関心を抱く」15手法である。これは、テキストを透かして見いだせる歴史状況や歴史的な著者の思想16を探るのではなく17、物語の内的読者に対する効果を考える立場である。物語批評は読み手への影響を重視する18。また伝承過程での二次的な本文の発展や編集の有無を考慮せず、読者が現在手にしているテキストから読み取れる内容を考える。 しかし新約聖書の福音書の場合、本文と歴史との関係は一般文学ほど単純ではない。創作文学とは異なり、新約聖書に見られる物語の背景にはイエスおよび原始キリスト教団の歴史が存在する19。そのため、福音書の記述は歴史を一定程度反映している可能性がある。このため、物語批評の手法を通してテキストの背景にある歴史的事実を探るという立場もあれば、歴史を切り離した20テキストそのものから読みとれることを考えるという立場も可能であり、研究者によってもさまざまな見方がある21。ここでわれわれが用いる文芸批評的手法は、歴史的手法と断絶するものではなく、両者が協力しつつテキストのメッセージを探っていくことを目的とする。 また物語批評による分析においては、読者は扱う章までの内容は知っているが、その後の内容はまだ知らない、という物語内の時間軸設定を重視する。従来の思想研究において前提とされていたのは、各文書の全体から対象となる語句を集めてそれらを整理し、体系的な思想として再構築するという作業である。しかし文書の読者は、予めまとまった思想をもって文書を読み始めるわけではない。むしろ、読み進めるに従って内容理解を深めていくことになる22。 ここでは、ヨハネ福音書1章の内容は既知とするが、それ以後の章の内容は未知であるとする23。つまり既に読んだ部分についての後方参照やほのめかしはあるが、福音書の物語への前方参照は考慮しない24。 物語批評における分析項目は研究者によって異なり、完全な一致を見ていないのが現状である25。この点で物語批評は方法論的に十分整っていないと考えることもできるが、それでも聖書学および文学一般両方の分析において共通する項目は多い。その代表例として、レゼグエの教科書に挙げられている Rhetoric, Setting, Character, Point

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of View, Plot26を物語批評の基本項目と見なすことができる。ただし、彼の述べるRhetoric は Structure と Form をも含む広範囲なものであり、この点は分離した方がより明確な分析ができると思われる。また物語の語り手としての Narrator は、物語の進行を支える存在として無視できない。そこで、ここでは Structure/Form、Rhetoric, Setting, Character, Point of View, Plot, Narrator という7項目で分析を行う。

1.3 研究史 ヨハネ福音書の救済思想の研究史の概要については既に述べてきた27。ヨハネの救済思想はさまざまな切り口から検討されているが、いずれも福音書の各所にばらばらに見られる表現・思想を取り上げ、福音書の物語の筋を考慮せずに、一つの形にまとめたものである。救済思想をヨハネ福音書内部の物語展開との関係から考察したものはまだ存在せず、この点にわれわれの一連の研究の意義がある。

2 テキスト

 ここでは現在に伝えられるヨハネ福音書本文のうち、2:1-25を対象とする。テキストは現在における最新の標準的な本文であると考えられるネストレ=アーラント28版を用いる28。この範囲における他の研究者による錯簡の指摘はなく、ネストレ=アーラント版の本文をそのまま採用する29。また本章における本文批評上の問題については、本文の意味に大きな影響を与えるような点は認められない30。

3 ヨハネ2章はどのように救済思想を提示しているか

3.1 構造/形式 スティブは2章を2:1-11,2:12,2:13-25の三つの部分に分ける。2:1-11については A1 1-1/ B1 3-5/C 6-8/ B2 9-10/ A2 11というキアスムスを指摘する31。これによって、「ナレーターは石の水がめと水およびそれらの象徴的価値に読者を注目させようとしている」32。彼の提案は興味深いが、われわれが着目すべきなのは石の水がめおよび水そのものではなく、それらを用いて行われたイエスの奇跡である。この物語の頂点は明らかに2:9-11である。ぶどう酒の品質が、イエスの奇跡の質および彼の力の大きさを示している。それゆえにこの物語は、中間に頂点があるキアスムスの形式ではなく、始めから終わりに向けて発展していくものであると見るべきである。 スティブが言及するように、2:12はヨハネ福音書における接続句の一つである33。これはイエスおよびその家族と弟子たちの地理的移動を示している。ここでカファル

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ナウムは、ガリラヤからエルサレムに至るイエスの旅を結びつけている。 スティブによれば、2:13-25も A1 13/ B1 14-17 /C 18-21/ B2 22/ A2 23-25というキアスムス構造である34。A1と A2はたしかにこの部分のインクルジオになっているが、2:14-22の間に明確なキアスムスを見いだすことは難しい。より適切な構造は、この話が末尾に至るまで展開しているという考え方である。 またモロニーは対話に注目し、対話を基準として分割する。例えば2:13-25は、2:13(状況設定)、2:14-17(イエスの行動)、2:18-20(対話)、2:21-22(ナレーターによる注釈)、2:23-25(結句)となる35。 われわれは2:1-11および2:13-22の間には共通の構造があると考える。それは両者とも、イエスの奇跡を見ることないし言葉を聞くことによって、弟子たちが彼を信じたと述べている(2:11, 22)。イエスの奇跡ないし言葉は彼の追随者に信仰を引き起こす。この二つの物語は徐々に頂点に向けて展開してゆき、弟子たちの行為で結ばれる。それゆえにこの二つの部分の目的は、弟子たちがイエスに対してどのように反応するかを示すことである。 また2:12は地理的な移行を示している36。同様に2:23-25は、2章全体の記述を受けて3章へと物語を進める橋渡しをしている。よってこの二つの部分は移行句と見なすことができる37。 以上の考察を踏まえ、ここでは以下のような構造を提案する。  A1 2:1-5 カナの婚礼:導入38

  A2 2:6-10 イエスの奇跡  A3 2:11 弟子たちの信仰  B 2:12 移動  C1 2:13-14 宮浄め:導入  C2 2:15-21 イエスの行動  C3 2:22 弟子たちの信仰  D 2:23-25 ユダヤ人たちの信仰A と C の部分については、物語の進行が類似している39。中心的主張はいずれも各部分の最後の部分、A3/C3の弟子たちの信仰にあるといえる。それらは D におけるユダヤ人たちの信仰と対置されている。物語の流れから考えると、2章ではイエスへの信仰が中心的なテーマとなっていることが明確となっている。

3.2 レトリック ヨハネ2章には以下のようなレトリックが見られる。 既に見たように、ここには二つのインクルジオが見られる。使われ方は同様であ

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り、2:1および2:13で状況設定とともに導入がなされ、2:11および2:22-25で結びがある。このような類似性は、これらが同じレトリックを使っていることを明確に示している。 ヨハネ2章では、否定表現がしばしば用いられている(2:3, 4, 16, 19)。これらの否定表現は物語の緊張感を高め、それに続く表現のインパクトを強める。これらは修辞的に用いられていると考えられる。 またここでは明示的・暗示的な語りが見られる。カナの物語では、奇跡そのものがどのように行われたかは明確ではない40。そもそも、奇跡が行われたという記述もない。ただ、水がぶどう酒に変えられたというナレーターの言葉によってのみ(2:9)、そこに奇跡があったことを知ることができる。すなわちここで重要なのは、奇跡は実行する過程ではなく、結果がポイントであるという点である。奇跡の結果として、弟子たちはイエスを信じた。反対に宮浄めにおいて、実行の過程は明らかである。イエスは鞭を作り、神殿の境内を浄める(2:15-16)。これは奇跡ではないものの、この叙述によって、イエスが単なる奇跡行者ではなく、神のために熱心に行動する者であることが分かる。 2章において、イエスの体が神殿の比喩とされていることは重要である。ユダヤ人たちが実際の神殿と誤解するのはアイロニーといえる。注意すべき点は、「イエスの言われる神殿とは、ご自分の体のことだったのである」はイエスの言葉ではなく、ナレーターの解説であることである。この点でも、ヨハネ福音書におけるナレーターは福音書の物語を解釈する上で無視できない存在である。 またイエスは自分の時がまだ来ていないという(2:4)。逆に言えば、イエスの時というものがあることになり、それがいつであるかという期待を読者に与えることになる。 これらのレトリックを通じて、イエスが既存のユダヤ社会のあり方、特に神殿に代表される宗教的側面に変革を起こそうとする者であることが示される。そして弟子たちが信仰に入っていく姿を通して、イエスが信じるに値する者であることを主張している。

3.3 状況設定 ヨハネ2章における地理的設定は以下の通りである。  2:1-11 ガリラヤのカナ  2:12 カファルナウム  2:13-25 エルサレム2章において、イエスはガリラヤからエルサレムへ移動する。最初のしるしはガリラ

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ヤで行われ、宮浄めはエルサレムで行われる。福音書におけるこれら二つの重要な箇所が近接して現れており、双方ともに弟子たちの信仰を立てる結果となっている。この場所設定は重要であり、イエスはガリラヤとエルサレムの両方で活動したこと、弟子たちがそれを知っていたことを示している。

 この部分における小道具(プロップ41)として以下を挙げることができる。 「婚礼」には、イエスの母とイエスに加えて、イエスの弟子たちも招かれている。誰の婚礼であるかは明らかにされていないが、花嫁や花婿が問題になっているわけではないことは本人たちが全く登場しないことからも伺える。これは人々が集まる機会としての舞台設定であり、イエスの最初の奇跡は多くの人のいる場所で行われたことを示している42。 「ぶどう酒」はカナの奇跡における主要な小道具である。ぶどう酒の不足が、イエスの奇跡のきっかけとなる(2:3)。イエスは水をぶどう酒に変える(2:8-10)。ぶどう酒という日常的な飲み物におけるイエスの奇跡は、イエスの力が身近なものに働きかけるものであることを示している。 「石の水がめ」は「ユダヤ人が清めに用いる」ものであると説明されている

(2:6)。これは清められた水が入っているが、それをぶどう酒に変えるというイエスの行為は、ユダヤ教のものを変化させて新しいもの、しかも良いものにするという含意を示している。 宮浄めにおいてイエスが用いた「鞭」は、イエスの行動の過激さを強調するものであり、鞭を使ったということがイエスの怒りを明らかに示している43。 「鳩」は商売人の屋台の一つであるが、ヨハネ福音書のみが「鳩を売る者たちに言われた」と言及する44。これはヨハ1:32において聖霊が「鳩のように天から」降りてきたという言及を受け、特に鳩商人を非難したものと言える。

 これらの状況設定および小道具は、既存のユダヤ社会を批判し、そこからは救済がもたらされないことを示している。

3.4 登場人物 ヨハネ2章は比較的短い章であるが、多くの登場人物が見られ、また以下に考察する通りそれぞれが独自の機能をもっていると言える45。

3.4.1 イエス イエスは本章における中心的な登場人物である。彼は奇跡と宮浄めを行い、物語を

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進行させる。彼の行為は常に意図的であり(2:4, 15)、時には非常に激しい態度を示す(2:15-16)。2章を通してイエス自身の内面的変化はなく、一貫した人物として描かれている46。

3.4.2 イエスの母 イエスの母はここで名前無しに登場する。2:1において、イエスや弟子たちよりも前に、場面の説明の中に現れる。この順序は彼女の重要性を暗示するが、事実カナの物語は彼女無しには語り得ない47。イエスは彼女に対してぞんざいな態度を示し、自らと関係がないかのように語るものの(2:4)、彼女はそれに従う。 イエスの母はカナの物語の前半を進行させる48。イエスにぶどう酒のことを告げ、召使いたちにイエスの言葉に従うよう命じる49。彼女自身も、イエスの言葉に従っている。彼女の姿勢はイエスを信じる者の模範となっている。

3.4.3 弟子たち 弟子たちはこの章全体に現れるが、物語の進行においては何の役割も果たしていないし、弟子たち自身の言葉もない。ナレーターに言及されるのみである50。ここでの弟子たちの役割はイエスと共にいることであり、彼を信じる者の例となっている

(2:11, 22)。 また弟子たちは、「イエスが死者の中から復活されたとき」に聖書とイエスの言葉とを信じた、と説明される(2:22)。イエスが死から復活するというのはここで初めて言及されるが、弟子たちはイエスの死後もイエスへの信仰を保っていたことが窺える。

3.4.4 召使いたち 召使いたちは脇役であるが、2章においては重要な登場人物である。召使いたちはイエスとその母に命じられ、彼らの指示に従う。ナレーターは、よいぶどう酒がどこから来たかを召使いたちは知っていたと記す(2:9)51。召使いたちは水がめを水で満たし、世話役のところに運んでいく。言葉や感情などは示されていないが、何が起こったかは知っていた。召使いたちはイエスの使者であり、彼に従い、その命令通り行う。イエスの母と同様、イエスに従う者の例として描かれている。

3.4.5 世話役 世話役もまた脇役であり、この物語においては召使いたちよりも役割は小さい。世話役は水から変えられたぶどう酒を味見し、それが上質のぶどう酒であることを確認

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した(2:9-10)。ぶどう酒がどこから来たかは知らされていない。世話役は花婿にぶどう酒について知らせた。世話役の言葉に注意すべきである。世話役はぶどう酒が良いものであると告げたが、それはイエスの奇跡が最上のものであることの証言となっている。世話役はイエスの奇跡の証言者として機能している。

3.4.6 ユダヤ人たち ユダヤ人たち( vIoudai/oi)は2:18以下に現れる52。イエスの行いに対して、「どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と問う(2:18)。注意すべき点は、ユダヤ人たちがイエスからしるしを求めていることである。実際、しるしを通してイエスを信じたという(2:23)。しかしイエスはユダヤ人たちを信用しないと説明される

(2:24)。このような齟齬が起きるのはなぜかという疑問がここで読者に与えられている53。

3.4.7  多くの人 「多くの人」は2:23において言及されている。この人々は過越祭の間にエルサレムに集まった人たちである。イエスの行ったしるしによって彼を信じたが(2:23)、ナレーターはイエスが彼らを信用しなかったという(2:24)。この人々は流動的な状態に置かれており、これによって読者は「イエスは信じるに値するのか」という問いを投げかけられている。

以上のような多数の登場人物は、イエスのしるしとさまざまな人々の信仰について語っている。2章の段階では、弟子たちは信じるが多くの人々はまだ中途半端な状態に置かれている。この状態がどのように変化していくかが、福音書を読む上での注目点として示されている。

3.5 視点 2章にはイエスの初期の宣教活動が述べられている。これはイエスの最初の公的な活動であり、重要な視点がいくつか見られる。 語法的な視点については、2章は基本的にユダヤ教世界の話題を扱っていることが挙げられる。結婚式自体はユダヤ教に限らないものであるが、その場で奇跡を行うための素材は「ユダヤ人が清めに用いる」水がめであった。また2章後半ではエルサレムの神殿が舞台となっている。いずれもそれらが変化することを求めているのであり、ユダヤ教からの転換を現している。 時間・空間的視点については、ヨハネ福音書の早い段階である2章でガリラヤとエ

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ルサレムの両方に言及されていることが挙げられる。この二つは、3章以降に続く物語のなかでイエスが活動する地域である。カナの物語および宮浄めは過越祭の近い時期に行われており、前者は個人的なもの、後者は公的なものである。これはイエスが過越祭と関係があることを示しており、福音書の最後において過越祭の期間に十字架に掛けられることを暗示している。 心理的な視点では、ここではナレーターの解釈が多数含まれている(2:9, 11, 21-22)。これらのエピソードを通して、ナレーターは弟子たちがイエスを信じたことを示す。ナレーターは、彼らがどのようにして、またなぜイエスを信じたかに関心を抱いていることが明らかである。その点は、イエスの初期活動および復活後の両方において見られる(2:22)。 思想的な視点としては、2章においてユダヤ教の要素が随所に見られることが挙げられる(2:6, 14, 20)。この物語においては、イエスとユダヤ教とが対立する関係であることが含意されている。

3.6 筋 2:1は「三日目に」で始まるが、これは典型的なヨハネ福音書の表現である54。ガリラヤが、イエスの公的活動が始まる最初の場所であった。個人的な事項である婚礼行事において、イエスはぶどう酒の不足を最良のぶどう酒によって補う。イエスの力が示されるのは、彼の母及び召使いたちの従順さのゆえである。 それからイエスたちはカファルナウムに向かい、そこに滞在する。カファルナウムは新約聖書時代には有名な場所の一つであったらしい55。 その後、イエスは過越祭の期間にエルサレムに移動する。宮浄めは、イエスの驚くべき暴力的な行為であった。これは弟子たちの信仰につながるが、ただし回顧的に語られている(2:22)。 2章の筋はイエスの行為とそれによる弟子たちの信仰という結末であり、このパターンは後の各章においても模範となる。

3.7 ナレーター 2章においては、ナレーターが頻繁に姿を現す。場面の設定(2:1-2, 11, 13)のみならず、状況の解釈についても頻繁に言及する(2:9b, 11, 17, 21-22, 23-25)。とくに、イエスの行為のあとに弟子たちが信じたという記述は繰り返され(2:11, 22)、読者がそのように読むことを求めている。さらにユダヤ人たちがイエスを信じたがイエスは信じなかったと言う2:23-25は全てナレーターの語りであり、方向性を定めているのは明らかである56。

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4 物語批評を通じて得られるヨハネ2章の救済思想

(1)イエスのもつ力 カナにおける奇跡物語は、イエスの大きな力を示している。これはイエスの最初の奇跡であり、無生物である水に対しての行為である。これによって読者は、イエスには自然に働きかけ、変化させる力があることを知らされる。これが救済の基礎となる力であり、この世界にあるものがこの世を救うものに変えられるという確信に導かれる。読者はイエスがこの世界における悪を変化させることができるという期待を与えられる。 また宮浄めにおけるイエスの言行は、イエスの実行力を示している。神殿を荒らすという行いは、当然ながらユダヤ人たちに非難を引き起こす(2:18)。しかしイエスは、神殿を三日で立て直す、と宣言する。(2:19)。神殿は神と出会う場所であり、それを立て直すということはイエスが神との関係を立て直すことができることを示唆している57。イエスを仲立ちとした神とのつながりという新しい救済のあり方がここで暗示されていることになる。(2)従うことの重要性 イエスの母と召使いたちは、イエスの言葉や行為が理解できないながらも、イエスに従った。この人々の従順がなければ、イエスの奇跡は完成しなかった58。従順はイエスの力、つまり救済を実現するための重要な要素と見なされている59。(3)既存の体制への批判 エルサレムにおける宮浄めの場面では、神殿の現状がイエスの怒りを引き起こした。彼の暴力的な行いは、既存の神殿および社会状況に対する問題提起となっている。これによって、救済は既存の宗教体制からは得られないものであることを示そうとしているが60、2章ではその点はまだ示されていない。(4)弟子たちの信仰 2章における二つのエピソードは、いずれも弟子たちの信仰で結ばれる61。彼らは、カナの婚礼においてイエスの奇跡を見ることで、また宮浄めにおいてイエスの言葉を聞くことで信じたとされる。宮浄めの末尾につけられた説明は、イエスの復活を前提としている(2:22)。これは、弟子たちがイエスの宣教の始め(カナの婚礼)と同時に復活後においてもイエスを信じていたことを示す。イエスを信じることが大変強調されており、救済についてもイエスへの信仰と関連があることがうかがえる。(5)弟子たちの信仰と他の人々の信仰との違い 弟子たちも「多くの人」もイエスを信じたが、イエスは後者を信じなかった

(2:24)。この違いはどこからくるのか。両者とも、イエスのしるしをみて信じており

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(2:11, 23)、違いは見受けられない62。 ナレーターはイエスが人々を信じなかった理由として、イエスが全ての人のことを知っていること(2:24)、また人間からの証を必要としなかったこと(2:25)を挙げている。まず、イエスは人々の心を知っていて、それによりイエスが信じる人々・信じない人々をすでに決めていることになる63。つまりイエスが受け入れる人は、信仰者の側ではなく、イエスの側で決められている。救われるか否かは、イエスの定めによるのである64。ではそれを決めるのは何であるかが問題となるが、2章では未だ明らかにされておらず、今後の章で説明されていくことになる。 また、イエスは人間からの証を必要としていない。1章ではすでに洗礼者ヨハネによる証が述べられていたが(1:29-36)、洗礼者もまた人間であるから、他に証を行う者があることになる。人間以外にイエスの言葉と行いを保証する者がいることになるが、2章ではまだ明らかにされていない。 以上から、2章においては、救われるためにはイエスによって受け入れられることが必要であること、そしてイエスの言行を保証する者によってそれが保証される、という主張を読み取ることができる。

 2章において救済に関する内容は明確ではないが、後の章において発展していく要素が多数提示されている。ヨハネ2章は、今後の物語においてどのような点に最も注意すべきかを読者に示す機能をもっている。

5 読者に対する効果

 ヨハネ2章で語られた救済思想の読者に対する効果は、以上の分析において触れてきた。これらをまとめると、以下を挙げることができる。(1)イエスに対する関心を高める。カナにおけるイエスの奇跡の力は読者を惹き付

け、イエスに対する興味を高める。また宮浄めにおけるイエスのふるまいと、それについてのナレーターの説明は、「イエスはなぜこのようなことを行うのか」という問いを読者に引き起こす。

(2)信仰についての問いを呼び起こす。ナレーターは、弟子たちおよび他の多くの人々が共にイエスを信じたにもかかわらず、イエスは多くの人々の信仰を受け入れなかったという。ここから、弟子たちの信仰と多くの人々のそれとの違いはどこにあるのかという疑問が生まれる。また読者は自分たちがどちらのグループに属するのかを問われる。

 以上のような関心が、読者に福音書をさらに読むように促す動機となる。

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6 結び

 本稿の考察を通じて、ヨハネ2章は、イエスの宣教の始めにおけるイエスの行動と弟子たちの信仰とを強調し、イエスが与える救済についての基礎的な概念を提供することが示された。これらはヨハネ福音書に関しても重要な内容であり、2章は福音書の初めの部分において福音書全体に通じるテーマを提示している。加えて、これらは読者が福音書をさらに続けて読み進める際の情報となり、読者がこの福音書を理解する道筋を与えていることになる。この意味で、2章はヨハネ福音書において非常に大きな役割を担っているといえよう。以上のように、福音書の内容について前後の章の相互関係に注意を払うことにより、読者はヨハネ福音書の救済思想をより深く理解することができるのである。

* 本稿は日本基督教学会近畿支部会(2013年3月12日、神戸国際大学)における研究発表を改稿したものである。

注1 以下の論では、「読者」は原則としてヨハネ福音書の「内的読者」のことを指す。

2 ファン・ダ・ヴァットは救済思想(salvation, soteriology)の簡潔な定義を以下のように示してい

る。「神との関係の再構築の行為、あるいはどのように霊的(spiritual)な死から生へと移行するか。

関連する問いは、何から、いかにして、何へと人間は救われるのかである。焦点は救済の結果には向

けられない」(Jan G. van der Watt, “Salvation in the Gospel according to John”, in: Jan G. van der Watt

(ed.), Salvation in the New Testament: Perspectives on Soteriology(NTS 121), Leiden, Boston: Brill,

2005, 101)。

3 van der Watt, “Salvation”, 101-103. これは必ずしも文献の絶対数の少なさを意味しておらず、他の神学

テーマに比して少ない、という意図であると考えられる。

4 過去の研究については、拙論「ヨハネ福音書3章の救済思想―その提示方法を中心に―」『基督教研

究』74巻2号、2012年、15-29頁を参照。

5 1:51のイエスの言葉は、天と人の子との関係が明らかにされることを述べているが、その救済として

の位置づけは明らかでない。

6 Cf. Sonja K. Foss, Rhetorical Criticism. Exploration and Practice, Long Grove, IL: Waveland Press, 20094,

esp. 307-354. 日本の聖書学においては Rhetorical Criticism は「修辞学批評」と訳され、新約聖書を法

廷演説・助言演説・演示演説の三種によって修辞学的視点から分析するものとされるが(Cf. 原口尚

彰「修辞学批評(新約)」、樋口進・中野実監修『聖書学用語辞典』、日本キリスト教団出版局、2008

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年、158-9頁)、本稿でいう Rhetorical Criticism は「レトリックのプロセスを理解するために、象徴的

な行為や細工を組織的に調査し説明するよう構成された質的研究方法」(Foss, 6)という、より広い

意味で用いている。

7 “Narrative Criticism” と “Narratology” は聖書学分野ではほぼ同義に使われることが多い。

8 David Rhoads, Joanna Dewey, Donald Michie, Mark as Story: An Introduction to the Narrative of a

Gospel, Minneapolis, MN: Fortress Press, 19821, 20123.

9 Jack Dean Kingsbury, Matthew as Story, Philadelphia, PA: Fortress Press, 1986.

10 Robert C. Tannehill, The Narrative Unity of Luke-Acts: A Literary Interpretation, 2 vols., Philadelphia, PA:

Fortress Press, 1986.

11 R. Alan Culpepper, Anatomy of the Fourth Gospel, Augsburg Fortress: Philadelphia, PA, 1983(R. A. カル

ペッパー(伊東寿泰訳)『ヨハネ福音書 文学的解剖』日本基督教団出版局、2005年).

12 Allan M. Powell, What Is Narrative Criticism? Philadelphia, PA: Fortress, 1991; D. F. Tolmie, Narratology

and Biblical Narratives: A Practical Guide, Bethesda, MD: International Scholars Publications, 1999;

James L. Resseguie, Narrative Criticism of the New Testament: An Introduction, Grand Rapids, MI: Baker

Academic, 2005.

13 Mark W. G. Stibbe, John(Readings: A New Biblical Commentary), Sheffield: JSOT Press, 1993; R. Alan

Culpepper, The Gospel and Letters of John, Nashville, TN: Abingdon Press, 1998, 109-250; Francis J.

Moloney, Belief in the Word: Reading the Fourth Gospel, John 1-4, Minneapolis, MN: Fortress Press,

1993; ibid., Signs and Shadows: Reading John 5-12, Minneapolis, MN: Fortress Press, 1996; ibid., Glory

not Dishonor: Reading John 13-21, Minneapolis, TN: Fortress Press, 1998.

14 欧米では十分に普及したといえる状況であるが、対して日本での研究は、一部の研究者による論文や

翻訳があるものの、まだ広範な支持を得られているとはいえない。これは日本の聖書学がドイツ語圏

由来の歴史手法を重視し、英語圏の聖書学研究に目を向けることが比較的少なかったことが影響して

いると思われる。

15 Richard N. Soulen and R. Kendall Soulen, Handbook of Biblical Criticism, fourth edition, Louisville, KY:

Westminster John Knox Press, 2011, 134. ただし研究者によって重点の置き方が異なるため、他の定義

の仕方も見られる(「聖書文書の『文学性』に注目する」(Resseguie)、「内的読者に重点を置く」な

ど)。このようなばらつきも、物語批評の理解を困難とする一因であろう。

16 厳密には「現在において可能な限り著者の自筆に近いものとして再構成された本文から得られる思

想」と言うべきであろう。現在再構成された本文が著者の自筆と同一であるという保証はない。ヨハ

ネ福音書の場合、いわゆる「教会的編集者」の手を経ていると考えられているため、歴史的な著者の

思想を探るには編集史の手続きが必須となる。

17 パウエルは、物語批評によって著者の意図を明らかにすることが可能であると述べる(Mark Allan

Powell, “Narrative Criticism: The Emergence of a Prominent Reading Strategy,” in: Kelly R. Iverson,

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Christopher W. Skinner, Mark as Story: Retrospect and Prospect, Atlanta, GA: Society of Biblical

Literature, 2011, 19-43, esp. 32)。

18 スキナーは、物語批評の課題は「内的読者はどのようにテキストに応答すべきか」という問題に対し

て答えることであると言う(Christopher W. Skinner, “Telling the Story: The Appearance and Impact of

Mark As Story,” in : Iverson and Skinner, Mark as Story, 12)。

19 史的イエスの存在を否定する説は繰り返し現れるが、有力な根拠に基づいているわけではない。イエ

スの歴史性についての最近の研究としてアーマンのものがある。Cf. Bart D. Ehrman, Did Jesus Exist?

The Historical Argument for Jesus of Nazareth, New York, NY: HarperOne, 2012. 原始キリスト教団の存

在を否定する説は寡聞の範囲では存在しない。

20 「歴史を切り離した」ということは、必ずしも無歴史的な立場からの考察ということではない。ある

テキストの背景にある歴史的状況(例えば紀元一世紀におけるサマリア人=ユダヤ人関係など)を考

慮することは十分にあり得るし、それを前提としないとそもそも意味が読みとれないこともあり得

る。そのような背景知識としての歴史は、文芸学的な読解においても必要である(ただし、研究者に

よってその立場は異なる)。しかし歴史状況に絶対的な優位性をおくことはない。

21 パウエルは、物語批評の中に「著者指向 author-oriented」「テキスト指向 text-oriented」「読者指向

reader-oriented」の三つが混在していると指摘する(Powell, “Narrative Criticism,” 26-42)。

22 なお、この順序に配置した(実在の)著者の思想が現れている、という考え方とは別である。本論で

は、実在の著者の思想については問わない。あくまで、現在の文書を順々に読み進めることによっ

て、内的読者が読みとりうる思想を検討する。

23 Cf. Ito, H, ‘Narrative Temporality and Johannine Symbolism’, Acta Theologica vol. 23, no. 2, 2003, 117-

135; idem, “The Significance of Jesus’ Utterance in Relation to the Johannine Son of Man: A Speech Act

Analysis of John 9:35,” Acta Theologica vol. 21 no. 1, 2001, 59.

24 一度全体を読んだあとで、再度全体を読み返すことによって初めて全体的な思想を把握できるという

考え方もある。これは一度読むことによって福音書全体を後方参照として用いることになる。この立

場は従来の方法に近いといえよう。Cf. Jean Zumstein, “Relecture der Prozess der Relecture in der

Johanneischen Literatur,” NTS 42(3), 1996, 394-411.

25 研究者による違いについては、拙論「ヨハネ福音書3章の救済思想」27頁、注15を参照。

26 James L. Resseguie, Narrative Criticism of the New Testament: An Introduction, Grand Rapids, MI: Baker

Academic, 2005参照。なおこれらの物語批評用語の日本語訳についてはまだ統一されているものがな

い。

27 拙論「ヨハネ福音書8章の救済思想」54頁および同「ヨハネ福音書6章の救済思想」50-51頁参照。

28 Nestle-Aland, Novum Testamentum Graece, Stuttgart: Deutsche Bibelgesellschaft, 2012.(以下 NA28)

29 Cf. 伊吹雄『ヨハネ福音書注解』知泉書館、2007年、79-84頁。

30 メツガーはこの範囲において5箇所を指摘し、そのうち C 評価が2箇所含まれているが、いずれにつ

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いてもわれわれは翻訳委員会の決定に異議を唱えるものではないと考える(Bruce M. Metzger, A

Textual Commentary on the Greek New Testament, Stuttgart: Deutsche Bibelgesellschaft, 19942, 172-4)。

またコンフォートはこの範囲で6箇所を指摘している(Philip W. Comfort, New Testament Text and

Translation Commentary, Carol Stream, IL: Tyndale House, 2008, 261-2)。

31 Stibbe, John, 43-44.

32 Stibbe, John, 44.

33 Stibbe, John, 48.

34 Stibbe, John, 49.

35 Francis J. Moloney, Belief in the Word: Reading the Fourth Gospel, John 1-4. Minneapolis, MN: Fortress

Press, 1993, 94.

36 これが移行句であるとの指摘や(R. ブルトマン(杉原助訳)『ヨハネの福音書』日本キリスト教団出

版局、2005年、123頁他)、編集者による付加であるとの指摘は従来からなされている(Raymond E.

Brown, The Gospel According to John. AB27, Garden City, N.Y: Doubleday, 1966, 113)。リンダースはこ

の句を「的を外した付加(a pointless addition)」と呼ぶ(B. Lindars, The Gospel of John, NCB, Grand

Rapids, MI: Eerdmans, 1972, 132)。

37 ブラウンは明確に2:1-11, 12, 13-22, 23-25の四区分を提案している(Brown, 95)。

38 対話に注目するモロニーは、これをさらに2:1-2の状況設定および2:3-5の対話に分ける(Moloney,

78-9)。

39 モロニーはこの二つの物語が類似している点として、状況設定、対話、行為、ナレーターによる場面

についての結びの言葉を挙げている(Moloney, 94 and 129)。

40 ブルトマンによれば、奇跡の過程が説明されていないのは奇跡物語の様式道理であるという(邦訳

121頁)。

41 “[T]he type of detail that could easily be omitted and no one would notice.”(Resseguie, Narrative

Criticism, 105)しかしこれは大切な点である。

42 もっとも、奇跡そのものは衆人環視の中で行われたわけではない。

43 共観福音書における並行部分では、イエスは鞭を作らない(cf. マコ11:15、マタ21:12、ルカ19:45)。

44 共観福音書において、鳩を売る者への言及はあるが、彼らに語りかけるという動作はない。

45 2:12にはイエスの兄弟たちが現れているが、名称のみで物語上の機能はないと考えられるため、ここ

では扱わない(スティブも扱っていない。Cf. Stibbe, 44)。

46 スティブはここでのイエスの人物像を complex and developed(2:1-12)および a number of quality

(2:13-25)と解釈するが(Stibbe, 44 and 50)、一見謎めいて見える行いも一貫した思想のもとにある

行動として読者に伝えようとしていることはナレーターの言葉から読み取ることができ、統一された

ものと考えるのがふさわしいといえる。

47 スティブは、母が人格を備えた脇役であって象徴的価値を持つと説明する(Stibbe, 44)。脇役には違

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いないものの、きわめて重要な位置を占めていることにはもっと注意すべきである。

48 モロニーは、イエスとその母との出会いが葡萄酒の産出と世話役の反応を導き出すと述べ、物語の緊

密な結合を強調する(Moloney, 78)。

49 スティブは、イエスの母のこの言葉によって、イエスは何かをせざるを得なくなる状況に追い込まれ

ていると解釈するが(Stibbe, 45)、それは考え過ぎであろう。

50 Cf. Stibbe, 44.

51 スティブは葡萄酒の由来を知っていたのは召使い・イエスの母・弟子たちであったと述べながらも、

召使いの位置づけについては何も述べていない(Stibbe, 45)。

52 すでに1:19において「エルサレムのユダヤ人たち」および「祭司やレビ人たち」が現れている。モロ

ニーは1:19では「ユダヤ人たち」は直接現れておらず、2:18で初めて実際の登場人物となっていると

説明する(Moloney, 95)。彼が「ユダヤ人たち」は2章で初めて現れるという点を強調する理由は、

理想的なユダヤ人としての「イエスの母」がまず現れ、続いてイエスに反対するユダヤ人として「ユ

ダヤ人たち」が登場する、という順序であるが、そのような順序にこだわるべき積極的意味はないだ

ろう。

53 スティブはユダヤ人たちが中立的か敵対的か(彼は好意的とは説明していない)は文脈によって決ま

るという(Stibbe, 50)。

54 Cf. Stibbe, 45-6.

55 共観福音書の記事によれば、そこにはシモン・ペトロの家があった(Mt 17:25; Mk 2:1他)。ヨハネ福

音書の原著者は、この伝承との関係を示したかったのかもしれない。

56 この点について、スティブは特に2:13-25の物語において直接発話が減少し、ナレーターの傍白が増

えることを指摘している(Stibbe, 50)。

57 モロニーは、ここで神殿が神の住まいではなく「わたし〔=イエス〕の父の」住まいであるという主

張が決定的な点だとし、プロローグで提示された神とイエスとの関係がここで具体化されたと述べる

(Moloney, 96-7)。われわれの主張は、神とイエスとの関係が明らかにされることによってイエスによ

る救済の可能性が開かれるというものであり、この点でモロニーの主張と同じ方向性を持っている。

58 ブルトマンはここでのマリアの態度や召使いの導入については細かい説明がないことに驚くべきであ

ると述べるが(邦訳644頁註28)、それは本論で述べたように従順が主張されていたからであると考え

ることができよう。

59 モロニーは2章では「イエスの言葉を受け入れること/受け入れないこと」が重要であると述べるが

(Moloney, 130)、それはわれわれが従順の重要性を主張しているのと同じことを意味している。

60 これは「ユダヤ人たちが、彼らの不信仰の思い上がりによって、彼ら自身が啓示の出来事の道具とな

る」(邦訳126頁)というブルトマンの考えに対応する。既存の宗教体制はイエスを指し示すために利

用されているだけで、そこに救いはない。またブラウンはイエスの奇跡によって既存の宗教的組織・

慣習・祭儀がその意味を失ったと述べており(Brown, 104)、本論での主張と一致する。他方モロ

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ニーは、2-3章の物語において著者は読者に対して、ヨハネ共同体が生まれてきた元であるユダヤ教

の中に真の信仰がある可能性(特に2章のイエスの母と3章の洗礼者ヨハネ)を示し、共同体は自分た

ちの由来がそのような真の信仰であるユダヤ教であることを知ることで慰めになるという(Moloney,

131)。

61 モロニーはこの部分において do,xa に注目するが(Moloney, 88-89)、われわれは弟子たちの信仰に着

目する。

62 モロニーによれば、ヨハネにおける動詞 pisteu,w がしるしによる信仰/不信仰の両方に使われている

ことで、読者が真の信仰の質を理解する途上であることを示しているという(Moloney, 105)。しか

し「真の信仰」がいずれであるかは2:23-24において明らかにされておらず、彼の見解は十分な説得

力を持っているとはいえない。

63 決定論は「ヨハネ福音書の救済論における中心的課題の一つ」であり、特に信仰者の決断の自由との

関係が問題になっているが(簡潔なまとめは Udo Schnelle, Theologie des Neuen Testamnets, Göttingen:

Vandenhoeck & Ruprecht, 2007, 673-6を参照)、われわれは物語の順序を考慮しており、2章の段階に

おいてはまだそのような自由は現れていないと考えている。

64 モロニーは、イエスの言葉に対する率直さが正統信仰の基準であり、またナレーターが繰り返し直接

読者に語りかけることによって、読者に正統信仰と、その命や救いにとっての重要性を理解させよう

としているという(Moloney, 130)。しかし「イエスの言葉」に対する反応は救いの可否を示してい

るものの、イエスの側で救いが定められているのであれば、「イエスの言葉」に対する反応の如何が

正統性の基準になると考えることはできないであろう。

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