存在と言語 存在文の意味論 - Nihon...

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』によれ 、「 いう にフランス ˆ etreして れた 、そ して した いう 1 。こうした った しているように、フランス ˆ etre」が、英 beドイ sein、それに対 する に対して、 「ある」 しく 「いる」があるだけ 、それに対 する かっ たこ にあろう。たしかに、ある概 について じたい きに、そ いうこ きわまり い。しかし がら、概 ついて じるため がある いうこ 、し 、そ たらくありさまを いかたち るため さまたげに りう る。 りわけ にこうした があるこ ィトゲンシュタイン える ころ ある。 つがここにある。す わち、 があれ 、われわれ それに対 する そう するこ ある。 2 ある概 したい 、そ について じるために いられているか く、そ たらきが、 よう よう によって されているかに ある。た 、「 を「 それぞれ から そう した しく ィトゲンシュタイン まれ あるがら、こ った かってしまった いえよ う。 をわれわれ じて らかにしたい 、「 いう く、まず「ある」 「いる」 いう する われる 3 * coglunch 大学、2001 5 11 )、 らびに、意 大学 2001 7 27 ため かれた。こうし えてくださった 々、 らびに、そ せてくださった 々に感 する。 1 (1982) 6 2 Wittgenstein (1958) p.1. 3 する」 いう 、「 いう がまず られ、それから した だろ うが、 っている。したがって、「 する」 し、 それ 「ある」 「いる」 較するこ あるこ あるが、ここ 割愛する。 1

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存在と言語—存在文の意味論∗

飯田 隆

柳父章『翻訳語成立事情』によれば、「存在」という日本語の名詞は、明治

四年にフランス語の「etre」の翻訳として現れたのが最初で、その後まもな

く哲学用語として定着したという1 。こうした訳語が必要になった原因は、

柳父も指摘しているように、フランス語の「etre」が、英語の「be」やドイ

ツ語の「sein」と同様、それに対応する名詞をもつのに対して、日本語には、

動詞の「ある」もしくは「いる」があるだけで、それに対応する名詞がなかっ

たことにあろう。たしかに、ある概念について論じたいときに、その概念を

表す名詞をもたないということは不便きわまりない。しかしながら、概念に

ついて論じるための便利な表現があるということは、しばしば、その概念が

実際にはたらくありさまを歪みのないかたちで見るためのさまたげになりう

る。とりわけ名詞にこうした危険があることは、ウィトゲンシュタインの教

えるところでもある。

哲学的困惑の最大の原因のひとつがここにある。すなわち、名詞

があれば、われわれはそれに対応するものを探そうとすることで

ある。2

ある概念を分析したいと思う者は、その概念について論じるためにどのよ

うな言葉が用いられているかではなく、その概念のはたらきが、どのような

言葉のどのような用法によって実現されているかに注目すべきである。たと

えば、「存在」の意味を「存」と「在」のそれぞれの意味から導き出そうと

した和辻哲郎—奇しくもウィトゲンシュタインと同年の生まれである—など

は、残念ながら、この点で基本的に誤った方向に向かってしまったといえよ

う。存在の概念をわれわれの言語を通じて明らかにしたいならば、「存在」と

いう名詞にではなく、まず「ある」と「いる」という動詞に着目するのが当

然と思われる3 。∗小論は、coglunch での発表(慶應義塾大学、2001 年 5 月 11 日)、ならびに、意味論研究

会での発表(東京大学教養学部、2001 年 7 月 27 日)のための原稿をもとに書かれた。こうした発表の機会を与えてくださった方々、ならびに、その場で有益な質問を寄せてくださった参加者の方々に感謝する。

1 柳父章 (1982) 第 6 章。2 Wittgenstein (1958) p.1.3 「存在する」という動詞は、「存在」という名詞がまず作られ、それから派生した動詞だろ

うが、現在では立派に日本語の一部になっている。したがって、「存在する」の用法を検討し、それと「ある」や「いる」の用法とを比較することは、十分意義のあることであるが、ここでは割愛する。

1

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「ある」や「いる」がどう使われるかの分析を通じて、存在の概念を明らか

にできると考えることは、もちろん、この二つの動詞が存在を表すという前提

に基づいている。だが、意外なことに、「ある」や「いる」に、所在とも所有

とも明確に区別されるべき存在を表す用法があるということは、関連分野の

研究者のあいだでの共通の前提とはなっていないようにみえる。したがって、

小論の目標の第一は、まずもって「ある」と「いる」に存在を表す独立の用法

があることを確立することである。第 1節は、この課題にあてられる。続く

第 2節では、存在を表す用法を所在を表す用法から明確に区別することによっ

てはじめて、英語の存在文に関連して議論されてきた現象(there-insertion)

に類似の現象が日本語にもあることが明らかになると論じられる。これら二

つの節を受けて、最後の第 3節では、日本語存在文の意味論をどう与えるべ

きかが議論される。存在概念の分析は、存在文についての満足の行く分析な

しにはありえないと考えられるからである。こうした議論を通じてしだいに

明らかになることは、日本語以外の言語に関して提案されてきた分析法の多

くが、日本語の存在文にも適用可能であるという事実である。日本語は、存

在概念を表す名詞として「存在」という間に合わせ的に作られた言葉しかもっ

ていないかもしれない。だが、それは、日本語に存在表現がないことを意味

しないだけでなく、また、日本語の存在表現が他の言語にくらべて特異だと

いうことも意味しない。それゆえ、日本語の存在文の分析もまた、存在概念

の理解へのひとつの通路となりうるのである。

1 「いる」と「ある」—所在・存在・所有

日本語の動詞「いる」および「ある」には、少なくとも三通りの用法があ

る4 。第一に、つぎの例文におけるような、所在を表す用法がある。

(1) 太郎は公園にいる。

(2) 大部分の本は学校にある。

第二に、存在を表す用法がある。

(3) 笑った多くの学生がいる。

(4) 太郎が読んだ多くの本がある。

最後に、つぎのような、所有を表す用法がある5 。

4 「いる」と「ある」がどう使い分けられるかという問題に関しては、周知のように、さまざまな議論がある。この点について私は何ら新しく付け加える論点をもたない。また、小論の範囲では、「いる」と「ある」の正確な区別が問題になることはない。

5 例文 (6)が示しているように、所有を表す「ある」は、性質や属性の帰属を表すこともできる。「物体には色がある」も同様の例だろう。小論ではもっぱら存在の「ある」について論じるので、所有の「ある」について論じることはできないが、この「ある」についても哲学的に興味深い問題があることが予想される。

2

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(5) 花子(に)は子供がいる。

(6) 花子(に)は勇気がある。

ただし、第一の用法と第二の用法はひとくくりにされることが多い。たと

えば、益岡隆志・田窪行則 (1992)は、「いる」と「ある」が用いられる構文

を「存在・所在の構文」と呼び、存在を表す構文の基本は「(場所)ニ+(存

在の主体)+ガ+イル/アル」の形であるとしている6 。よって、かれらは、

第二の用法を第一の用法に吸収させていることになる。同様に、Kishimoto

(2000) でも、「いる」と「ある」は、「所在–存在の意味 locative-existential

meaning」と「所有の意味 possessive meaning」という二種の意味をもつと

されている。

このように、第一の用法と第二の用法がひとくくりにされることには、(3)

や (4)のような文は一般に、所在を表すのにも用いうるということが関係し

ていそうである。だが、(3)や (4)の、所在を表す読みと存在を表す読みとは、

明確に区別できる。両者を区別するひとつのやり方は、「どこに」と問うこと

が意味をなすかどうか試してみることである。意味をなすならば所在を表し、

意味をなさないならば存在を表す。

一般に、存在の「いる」・「ある」は、所在および所有の「いる」・「ある」と

少なくともつぎの三点において異なる。

第一に、項構造が異なる。所在および所有を表す「いる」・「ある」は二つ

の項を取るが、存在を表す「いる」・「ある」は一つの項だけでよい。これは、

(3)や (4)に関して、「どこに」と問うことが、所在を表す読みについては意

味をなすのに、存在を表す読みについて意味をなさないという先の事実と合

致する。

第二に、時制にかかわる現象がある。存在の意味の「いる」・「ある」の時制

は、文全体の真偽に大きな影響を与えない。たとえば、(3)と「笑った多くの

学生がいた」の真偽は一致する。それに対して、(1)と「太郎は公園にいた」

のちがい、あるいは、(5)と「花子(に)は子供がいた」のちがいは、歴然と

している。

第三に、否定に関しても明瞭なちがいがある。(1)–(6)の文末の「いる」・

「ある」を「いない」・「ない」に置き換えて否定文を作ろう。その結果は、つ

ぎである。

(1) 太郎は公園にいない。

(2) 大部分の本は学校にない。

(3) 笑った多くの学生がいない。

(4) 太郎が読んだ多くの本がない。

(5) 花子(に)は子供がいない。6 益岡隆志・田窪行則 (1992) p.84.

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(6) 花子(に)は勇気がない。

ここで注目すべきことは、(3)と (4)から作られた否定文には、もとの (3)と

(4)にみられたような多義性がもはや存在しないことである。(3)および (4)

は、コンテキストによって与えられているある特定の場所に「笑った多くの

学生がいない」とか「太郎が読んだ多くの本がない」といったことを意味で

きるだけである。つまり、ここで問題にしているような操作では、所在の否

定と所有の否定を表すことはできるが、存在の否定を表すことはできないの

である7 。

それでもなお、存在の「いる」・「ある」と所在の「いる」・「ある」に関し

て、どちらか一方を他方に同化したいという誘惑は強いと思われる。前者が

後者に還元できると考えるか、あるいは、その逆が成り立つと考えるひとは、

そうした誘惑に負けたひとである。

存在の「いる」・「ある」が所在の「いる」・「ある」に還元できると考える

ならば、存在の読みの (3)や (4)での「いる」・「ある」は、本来は二項の動詞

である所在の「いる」・「ある」が、何らかの原因によって一項動詞のように

みえているだけということになる。こうした原因としては、

(a) 場所を表す項が量化—存在量化—されているか、あるいは、

(b) 場所を表す項が、発話のコンテキストにおいて暗黙のうちに

了解されている、つまり、その項は、いわゆるゼロ代名詞と

なっているか

のいずれかが考えられる。だが、つぎのような文に関しては、いずれの説明

も不可能である。

(7) 死滅した多くの動物がいる。

(8) まだ書かれていない素晴らしい音楽がたくさんある。

死滅した多くの動物がどこにいると言うのだろうか。まだ書かれていない素

晴らしい音楽がどこにあると言うのだろうか。(7)と (8)が、(a)もしくは (b)

という手続きによって別の文から派生した文であるならば、それらは必ず、

偽である—死滅した多くの動物はどこにもいない—か、無意味である—死滅

した動物がいるような特定の場所はありえないから、ゼロ代名詞によってそ

7 ただし、存在を表す文の「いる」・「ある」を「いない」・「ない」に交換するだけで、もとの文の否定を作れる場合がまったくないわけではない。それは、「多く」や「三人」といった数量詞をいっさい伴わない名詞句が主語となっている存在文の場合である。たとえば、

(i) 笑った学生がいる

の否定は

(ii) 笑った学生はいない

である。しかしながら、存在文と解釈された「笑った多くの学生がいる」を否定するには、「笑った多くの学生はいない」ではなく、「笑った学生は多くない」のような文を用いなければならない。第 2 節の終わりも参照されたい。

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うした場所を指示することはできない—かである。しかしながら、(7)と (8)

が有意味で真な文であることは明らかである。

では、逆に、所在の「いる」・「ある」を、存在の「いる」・「ある」に還元

するという可能性はどうだろうか。つまり、所在の「いる」・「ある」は、一

項動詞である存在の「いる」・「ある」に付加詞が付いて二項動詞とみえると

考える可能性である。

そうすると、所在地を表す表現は、動詞「いる」や「ある」の項を補填する

ものではなく、付加詞としてはたらいていると考えなくてはならない。もっ

と具体的には、(1)の「公園に」や (2)の「学校に」は、格助詞「に」を伴う

名詞句ではなく、後置詞「に」を伴う後置詞句であると考えなくてはならな

い。しかしながら、そうみなしうる根拠はない。いくつかの議論がありうる8 が、ここではつぎのような文を議論の材料に取ろう9 。

(9) いない学生がいる。

(10) いない学生はいない。

(11) ないものがある。

(12) ないものはない。

後置詞句は文にとって任意要素であるから、省略可能である。たとえば、

(13) 太郎が公園でころんだ。

の「公園で」は後置詞句であるから、これを省略して

(14) 太郎がころんだ。

としても、それだけで完全な発話を構成しうる文である。さらに、(14)は (13)

の論理的帰結でもある。もしも、(9)–(12)の「いる」・「ある」、および、その

否定形—「ある」の否定は「ない」になる—がすべて一項の動詞であるなら

ば、(9)と (11)は矛盾であり、(10)と (12)は同語反復ということになる。し

かしながら、明らかに、(9)–(12)によって、真であったり偽であったりする

主張を行うことができる。このことは、(9)–(12)で、名詞を修飾しているの

は、所在を表す動詞の否定—「ある」の否定は「ない」になる—であり、文

末の動詞は、存在を表す動詞、もしくは、その否定であると考えて初めて説

明がつく。前者では、所在を表す項が「ゼロ代名詞」化しているわけだが、多

くの場合、それは「ここ」で置き換えられる。よって、一見矛盾としか見え

ない (11)も、

(15) ここにはないものがある。

8 飯田隆 (2001a) pp.103f. 参照。9 (12) は、西山佑司氏が示された例文である。

5

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に言い換えられる。他の例文についてもまったく同様である。

この節を終えるにあたって、出来事を指す名詞句を項に取る「ある」につい

て簡単に触れておこう。これについても、所在、存在、所有の三通りがある。

(16) 日曜日に試合がある。 (所在)

(17) 太郎が勝った試合がある。 (存在)

(18) 出来事にはすべて原因がある。 (所有)

空間的対象の場合と異なり、出来事に関してその所在を問題にすることは、

それがいつの出来事であるかを問題にすることである。出来事に関してその

「所在」を述べる文に関して特徴的なのは、それが状態文ではなく出来事文と

なることである。状態文を出来事文から区別するひとつのテストは、非過去

の時制辞によって「現在時」を表せるかをみることである。「現在時」を表す

と解釈できるならば状態文であり、「現在時」よりも時間的に後のときを表す

としか解釈できないならば出来事文である10 。実際、このテストに照らせ

ば、(1)や (2)が状態文であるのに対して、(16)は出来事文である。

(16)の時制辞が未来時しか指せないのに対して、(17)の時制辞が未来時を

指すと解釈することはできない。(3)や (4)の場合と同様、(17)でも、重要な

のは名詞修飾節の時制であって、存在を表す「ある」の時制は形式的なもの

にすぎない。同じことが、

(19) 太郎が花子に勝ったことがある。

のような文についても言える11 。これだけでも、出来事を項にとる「ある」

について、存在の「ある」と所在の「ある」とを区別すべきことは明瞭であ

る。さらに、先の (7)や (8)と類似の例文がほしければ

(20) やり残したことがたくさんある。

といった文を挙げればよいだろう。やり残したことはいつ生じたのかと聞く

のは、死滅した多くの動物がどこにいるのかと聞くのと同様にナンセンスで

ある。

2 日本語の there-insertion

第 1節で存在を表す「いる」と「ある」を含む文の典型として挙げた二つ

の例文10 飯田隆 (2001a) pp.2–4 参照。11 つぎのような文の「ある」は、状態の存在を表すようにみえる。

(i) 太郎が花子の部屋にいることがある。(ii) 太郎が笑っていたことがあった。

しかし、こうした場合は、時間的に境界づけられることによって出来事の一種とされた状態—状態の位相(phase)—と考えた方がよいように思われる。

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(3) 笑った多くの学生がいる。

(4) 太郎が読んだ多くの本がある。

をそれぞれ、つぎと比較してもらいたい。

(21) 多くの学生が笑った。

(22) 太郎が多くの本を読んだ。

(3)と (21)、(4)と (22)がそれぞれ密接に関連していることは、一見して明ら

かである。これらの文の対は、意味上同一である12 だけでなく、形式的に定

義可能な文法的操作によって関係づけることができる。たとえば、(21)から

(3)を得るためには、つぎのような操作を行えばよい。

(i) 文末の述語を前方に移動して、その項となっている名詞句を

修飾する節にする。この操作により、「笑った多くの学生」という

複雑な名詞句ができる。

(ii) (i)の結果できる複雑な名詞句がその項となる述語として、「い

る」もしくは「ある」を文末におく。この操作により、文 (3)「笑っ

た多くの学生がいる」が得られる。

これは、(22)と (4)、さらには、つぎのような例にも通用するように一般化

できる。

(23) 先生が教室で三人の生徒を叱った。

(24) 教室で三人の生徒を叱った先生がいる。

(25) 先生が教室で叱った三人の生徒がいる。

つまり、(23)のような文と、それに対応する「いる」もしくは「ある」で終

わる文との関係は、前者が名詞句もしくは後置詞句の並びと文末の述語とか

らできていると考えるならば、つぎのように図式化できる。(こうした操作を

「『いる』付加」と呼ぼう。)

. . .Qk ϕ

から

. . .ϕ Qk いる/ある

ここで、「. . .」は名詞句もしくは後置詞句の並び、「Qk」はある名詞句、「ϕ」

は式である。さらに、「ϕ」は、必ずしも単独の述語であるとは限らず、その

前に名詞句もしくは後置詞句の並びが来る場合もある。これまでに挙げた例

に関して言えば、つぎのようになる13 。12 どのような基準によって意味が同一であるとするかには、もちろん、さまざまな立場がある。ここでは、真理条件が同一である二つの文は同一の意味をもつという立場を取る。13 (21) と (22) に対応する文としては、(3) や (4) のほかに、

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(21)と (3): 「. . .」は空列、「Qk」は「多くの学生」、「ϕ」は

「笑った」

(22)と (4): 「. . .」は「太郎が」、「Qk」は「多くの本」、「ϕ」

は「読んだ」

(23)と (24): 「. . .」は空列、「Qk」は「先生」、「ϕ」は「教室

で三人の生徒を叱った」

(23)と (25): 「. . .」は「先生が教室で」、「Qk」は「三人の生

徒」、「ϕ」は「叱った」

そして、ひとつひとつ点検すればわかるように、このパターンを示す文の対

は、真理条件において一致する。コンテキストが同一であれば、(21)と (3)、

(22)と (4)、(23)と (24)、(23)と (25)はそれぞれ、同一の真理条件をもつ。

ただし、このことが成り立つのは、(3)、(4)、(24)、(25)がすべて存在文とし

て解釈されたときである。たとえば、(3)が存在文ではなく、所在を表す

(26) 笑った多くの学生がここにいる。

のような文と同じ意味だと解される限りでは、それは (21)と同一の真理条件

をもたない。

日本語の存在文に関連してみられるこうしたパターンは、Milsark (1977)で

英語の存在文の特異性と言われ、その後、現在に至るまで盛んに研究されてき

た主題をいやでも思い出させる。つぎの例が示すように、英語には、「There」

で始まる文に現れることのできる名詞句と、そうできない名詞句とがある。

前者を「弱い名詞句 weak NP」、後者を「強い名詞句 strong NP」と呼ぶ。

(27) There were two/some/many students at the party.

(28) *There were all/the/most students at the party.

一時期、(27)のような文は、「there-insertion」と呼ばれる変形操作によって

(29) Two/Some/Many students were at the party.

といった文から得られると考えられたことがある。その場合問題になること

は、もちろん、

(i) 多くの笑った学生がいる。(ii) 多くの太郎が読んだ本がある。

のような文もある。こうした文は、「Qk」が、「(DkN)k」(「Dk」は「多く」や「三人」のような量化詞、「N」は名詞)といった形をもつとして、

「 . . . (DkN)k ϕ」対「Dk . . . ϕ N いる/ある」

といったパターンに従うとすればよいだろう。たとえば、

(iii) 太郎がたくさんの本を花子にあげた。(iv) たくさんの太郎が花子にあげた本がある。

は、このパターンを満足する文の対である。

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(30) All/The/Most students were at the party.

のような文になぜ、この同じ操作が適用できないかである14 。

ただし、日本語の「いる」付加を、英語の there-insertionと比較するには、

注意が必要である。まず第一に、(27)は「存在文 existential sentences」と呼

ばれてはいるが、われわれのこれまでの分類では、所在を表す文である。そ

して、つぎが示すように、所在を表す限り、(27)と (28)のようなちがいは日

本語にはない。

(31) 二人の/ ∅(空列)/多くの学生がパーティにいた。

(32) すべての/その/大部分の学生がパーティにいた。

英語の場合と同様の現象が現れてくるのは、これらの所在を表す文に対して

「いる」付加の操作を行って、存在文を作るときである。(31)からは、

(33) パーティにいた二人の/ ∅(空列)/多くの学生がいる。

といった文ができるが、(32)に同様の操作を施して得られる

(34) *パーティにいたすべての/その/大部分の学生がいる。

は、「ここに」のような要素がゼロ代名詞となっている所在を表す文として読

まれるのでない限り、非文である。

英語の「There is/are/was/were Q . . .」というコンテキストに現れること

のできる名詞句Qが、ある決まった種類の名詞句—弱い名詞句—に限定され

ていることは、英語の「特異性(peculiarities)15 」にすぎないのではなく、

日本語で「. . .Q いる/ある」というコンテキストに現れることのできる名

詞句Qの限定と同種の現象である。さらに、この現象が、英語と日本語がた

またま共有する特異性でもないと考えるべき証拠がある。それは、問題のコ

ンテキストに現れることのできる名詞句と、現れることのできない名詞句と

が、二つの言語でほぼぴったり重なることである。日本語の名詞句について

も、「いる」「ある」存在文に出現できる「弱い名詞句」と、そこに出現でき

ない「強い名詞句」という分類を行えば、つぎのようになる16 。

弱い名詞句14 この問題を最初に提起したのはMilsark (1974) であろう。この分野の研究の概観としては、

Lumsden (1988) がある。15 Milsark (1977) のタイトルを見よ。16 存在文だけでなく、所有の「ある」「いる」を含む文によっても、まったく同じ分類が得られる。

花子には . . .子供がいる。

の「. . .」の部分に、弱い名詞句と強い名詞句の分類で問題となっているような表現を代入して試してみればよい。空列、「多くの」、「何人かの」、「少数の」、「三人の」、「三人以上の」、「三人以下の」などを代入して得られる表現はすべて文法的に適正な文であるのに対して、「すべての」、「大部分の」、「半分の」、「両方の」、「その」などを代入して得られる表現は非文となる。「have」を用いた英語の所有文からも同様な分類が得られることについては、de Swart (2001)

pp.71f. を参照。つぎはそこで掲げられている例文である。

a. The house has windows / at least two windows / many windows / no

9

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• 数量詞を伴わない一般名詞句。「笑った学生がいる」など。

• 「多くの」、「多数の」、「たくさんの」、「何人かの」、「数人の」、「いくつかの」、「少数の」、「わずかの」などを伴う名詞句。「笑ったたくさん

の学生がいる」、「数人の笑った学生がいる」、「少数の笑った学生がい

る」など。

• 「三人の」、「三人以上の」、「三人以下の」などを伴う名詞句。「笑った三人以上の学生がいる」、「三人以下の笑った学生がいる」など。

• 問題がないわけではないが、固有名や人称詞(「私」や「あいつ」など)のような表現もこちらに含められるかもしれない。文脈が適切であれ

ば、「花子がいる」や「そいつがある」のような文は、存在文としても

許されるからである。英語においても同様な文は可能である(「There

is John.」)が、こうした表現は通常 weak NPには分類されない。

強い名詞句

• 「すべての」、「全部の」、「全員の」などを伴う名詞句。「*すべての笑っ

た学生がいる」、「*笑った全員の学生がいる」など17 。

• 「大部分の」、「半分の」、「三割の」、「30%の」などを伴う名詞句。「*

大部分の笑った学生がいる」、「*笑った30%の学生がいる」など。

• 「両方の」を伴う名詞句。「*両方の笑った学生がいる」など。

• 「その」、「あの」、「この」などの指示詞を伴う名詞句。「*その笑った

学生がいる」など。

• 「~の大部分」、「~の多く」、「~の半分」、「~のうちの三人」などの、いわゆる partitives。「*笑った学生の多くがいる」、「*学生のうちの笑っ

た三人がいる」など。

• 総称的(generic)な名詞句。「鳥は空を飛ぶ」を「空を飛ぶ鳥がいる」

と比較してみればよい。

英語の場合をいちいち挙げてはいないが、それとの対応はおどろくほどよ

い。英語の場合とのひとつのちがいは、否定表現にある。

windows / less than five windows . . .

b. *The house has all windows / most windows / neither window . . .

17 ここで「*」は、「いる」「ある」を存在のそれとして解釈したときの評価である。以下で「*」を付した文は、所在地を表す項が現れていない所在文と解釈されたときには、まったく問題のない文である。

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(35a) There are no students at the party.

(35b) No students are at the party

が示すように、「no students」のような表現は weak NP である。(35)のよ

うな構文は日本語にないから、対応する文は、つぎのようになる。

(36a) パーティにいた学生はいない。

(36b) 学生はパーティにいなかった。

数量詞を伴わない一般名詞句に「いない」もしくは「ない」を述語づけるこ

とによって、存在否定文をつくることができる。(36a)がその例である。こ

うした存在否定文と、それに対応する (36b)のような否定文とのあいだには、

「いる」付加とよく似た関係が成り立つ。図式的には、つぎのように表現でき

よう。

. . .N は ϕない

から

. . .ϕ N はいない

時制を無視すれば、(36a)は、(36b)からこうした操作によって得られたとみ

なすこともできよう。ただし、この例では、所在を表す「いる」と存在を表

す「いる」の両方が現れているので、混乱を招くおそれもある。つぎは、もっ

と単純な例である。

公園で生徒は笑わなかった

公園で笑った生徒はいない

3 日本語存在文の意味論

英語の存在文の意味論を与えるいくつもの方法がこれまでに提案されてき

た。その多くは、日本語の存在文にも適用できる。主要な選択肢はつぎの二

つである。

(i) 弱い名詞句を、(a) 量化表現とするか、それとも、(b) 個体

に適用される一階の述語とするか。

(ii) 「いる」「ある」を、(a)一階の述語とするか、それとも、(b)

一階の述語に適用される二階の述語とするか。

よって、四通りの可能性がある。

1. (i)(a)と (ii)(a) 弱い名詞句は量化表現であり、「いる」「あ

る」は個体に適用される一階の述語である。これは、gener-

alized quantifier (GQ) を用いる分析で採用されている。い

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までは古典と言ってよい Barwise and Cooper(1981) で取ら

れているのが、このアプローチである。

2. (i)(a)と (ii)(b) 弱い名詞句は量化表現であり、「いる」「あ

る」は二階の述語である。私の知る限り、この組み合わせが

採用されたことはない。

3. (i)(b)と (ii)(a) 弱い名詞句、「いる」「ある」はどちらも一

階の述語である。de Swart(2001)が、この立場を取ってい

る。二つの一階述語は、closure と呼ばれる演算によって結

び付けられる。

4. (i)(b) と (ii)(b)  弱い名詞句は一階の述語であり、「いる」

「ある」は二階の述語である。この立場に分類されるのは、

McNally(1998)だろう。

日本語存在文の意味論は、以下の課題を果たせるものでなくてはならない。

(I) 日本語存在文の真理条件を正しく与える。

(II) 「いる」「ある」付加のパターンで結び付けられている文の

真理条件が同一であることを説明する。

(III) 強い名詞句と弱い名詞句の区別がなぜ生じるかを説明する。

3.1 GQ

日本語名詞句一般を量化表現として扱うひとつのやり方は、飯田 (2000)で

構成された言語 L1 である。(21)および (22)は、L1 では

(37) (多く1学生)1笑った (x1)

(38) (∇1太郎)1(多く2本)2読んだ (x1, x2)

のように表現される(時制は無視する)。二つの 1項述語「いる」と「ある」

を L1の語彙に付け加える。(3)と (4)は、つぎのように形式化されよう18 。

(39) (笑った (x1) :多く1学生)1いる (x1)

(40) ((∇1太郎)1読んだ (x1, x2) :多く2本)2ある (x2)

L1 の意味論的公理として、つぎのものを付け加える。

任意の対象列 sについて、

|=s いる (xi) ⇔ s(i) = s(i)

|=s ある (xi) ⇔ s(i) = s(i)

18 L1 において、「多く」のような量化詞 D は、「(ϕ : Dk N)k」のように、修飾節 ϕ と名詞N のあいだに置かれることも可能である。

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つまり、「いる」および「ある」は、どんな対象についても必ず成り立つ述語

だと考える。

そうすると、コンテキスト C のもとでの (39)の真理条件は、つぎのよう

に導出される。

C のもとで (39)が真であるためには、任意の対象列 sについて、

|=Cs (39)であればよい。そのためには、

(i) s′1∼ sで、|=C

s′ 笑った (x1)で、s′(1) ∈ ∥学生 ∥C である、多くの s′ について、|=C

s′ いる (x1)

であればよい。ところで、「いる」についての意味論的公理によ

り、「|=Cs′ いる (x1)」は常に成り立つから、(i)は、

(ii) s′1∼ sで、|=C

s′ 笑った (x1)で、s′(1) ∈ ∥学生 ∥C

である、多くの s′ がある

と同値である。これは結局のところ、笑った学生が多くいるとい

うことに帰着する。(ii)は、(37)に関して導出される真理条件と

一致する19 。

これと同様にして、「∃」、「いくつかの」、「わずかの」、「三人以上の」、「(ちょうど)三人の」、「三人以下の」などを含む量化表現に関して、「いる」

付加のパターンに合う文どうし、その真理条件が一致することを示すことが

できる。

他方、この方法では、「いる」を、所在ではなく、存在と解釈した

(41) すべての笑った学生がいる

であっても、非文とはならない。(42)の形式的表現

(43) (すべて1笑った (x1) :学生)1いる (x1)

は、(18)や (19)と同じく L1の文である。ただし、(43)の真理条件を導出し

てみるとわかるが、これは常に真となる文である。一般に、強い名詞句から

作られた存在文は、常に真、もしくは、常に偽となる20 。よって、そうした

19 ただし、メタ言語において「多くの F について G」の真理条件は、つぎによって与えられる:F であって G であるものの数は、コンテキストによってきまるある数 NC より大きい。20 GQについての理論のなかで、このことはさまざまに説明されている。飯田 (2001b)では、真理条件意味論の枠内で GQ 理論の対応物を構成することを試みた。そこでの用語を用いてつぎのように定義できる。

量化表現 Q は positive strongである ⇔ すべての C, s について、domCs (Q) ∈ ∥Q∥Cs

量化表現 Q は negative strongである ⇔ すべての C, s について、domCs (Q) ∈ ∥Q∥Cs

この定義によれば、「すべての N」、「大部分の N」、「3 割以上の N」などは positive strong となり、「ちょうど半分の N」、「3割以下の N」などは negative strongとなる。飯田 (2001b)で

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文は何ら情報を与えるものではない。いま会話のなかで (41)が言われたとし

よう。もしも聞き手が、これを存在文として、(43)のように解釈したならば、

相手がなぜそんなとんちんかんなことを言ったのか理解に苦しむことになる。

だが、(41)には、それを所在文とする別の解釈も可能である。したがって、

聞き手は、こちらの解釈を取ることになる。こうして、強い名詞句が現れる

存在文が、実際の会話のなかで役割をもつということはない。

3.2 一階述語としての弱い名詞句

GQによるアプローチでは、(41)の存在文としての解釈は、文法的にも意

味論的にも許されるが、語用論的に排除される。(41)の存在文としての解釈

を最初から排除する方法はないだろうか。ひとつのやり方は、弱い名詞句は、

強い名詞句とちがって、量化表現ではなく一階の述語であると考えてみるこ

とである。「いる」「ある」も一階述語だとするアプローチもあるが、ここで

はまず、それが二階述語であると考えてみよう。そうすると、存在文は、一

階述語である弱い名詞句 αに二階述語「いる」もしくは「ある」を適用して

得られる。たとえば、(3)は今度は

(42) ((笑った (多く (学生)))が)いる

のように形式化され21 、「いる」の意味論は、

|=C (αが)いる ⇔ ∥α∥C = ∅

という公理によって与えられる。また、名詞の意味論的値である個体のなか

には、単一の対象だけでなく、対象の集団もあるとする。したがって、「多く」

や「三人」といった述語は、個体に直接適用されうる。たとえば、個体 xが

名詞句

(43) (笑った (多く (学生)))

の意味論的値であるためには、xが「笑った」「多く」「学生」という三つの条

件をともに満足することが必要十分である。日本語の「学生」は、個々の学

拡張された L1 においては、つぎのような「述定原理」が成り立つ。

|=Cs Qkϕ ⇔ ∥ϕ∥Cs ∩ domC

s (Qk) ∈ ∥Qk∥Csよって、

|=Cs Qkいる (xk) ⇔ ∥ いる (xk)∥Cs ∩ domC

s (Qk) ∈ ∥Qk∥Cs⇔ domC

s (Qk) ∈ ∥Qk∥Csこれより、「Qkいる (xk)」は、Qk が positive strong であれば必ず真、Qk が negative strongであれば必ず偽となることがわかる。21 ここで格助詞の「が」が現れているのは、後続する動詞のどの項になるかを示すためである。L1 では、変項のインデックスによってこのことを示したが、動詞がある程度細かく分類されているならば、変項の現れない形式化も可能である。

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生を指すこともできれば、学生の集団を指すこともできる。「多く」は、集団

としての学生に適用される。「笑った」は集団に対して適用されるが、それを

集団の構成員に分配することもできる。コンテキスト C のもとでの (43)の

意味論的値に関して、つぎが成り立つ。

∥(笑った (多く (学生)))∥C = ∥笑った ∥C ∩ ∥多く ∥C ∩ ∥学生 ∥C

したがって、(43)の C のもとでの真理条件は、

(44) ∥笑った ∥C ∩ ∥多く ∥C ∩ ∥学生 ∥C = ∅

となる。

他方、弱い名詞句が動詞と結合して作られる

(45) ((多く (学生))が)笑った

のような文((37)と比較せよ)の意味論を、つぎのような「述定公理」に従っ

て与えることができる。

|=C (αが)ϕ ⇔ ある xについて、x ∈ ∥α∥Cかつ x ∈ ∥ϕ∥C

これから (45)の C のもとでの真理条件は、(42)のそれ、つまり、(44)と同

じであることがただちに帰結する。

このように、「いる」付加のパターンに合う文どうしが真理条件的に同値で

あることは、GQによるアプローチの場合よりも、ずっと直接的に示すこと

ができる。強い名詞句が存在文に出現できない理由は、それらが量化表現で

あって、(集団を含む広い意味の)個体に適用される述語でないということに

求められる。よって、現在のアプローチは、存在文の意味論が満足すべき条

件の (II)と (III)を、GQによるアプローチの場合よりも、ずっとストレート

な仕方で満たせそうに思われる。だが、現在のやり方には、致命的な欠陥が

ある。それは、(I)の条件が満たされていないという点である22 。

これまでの説明から

(46) ((笑った (三人 (学生)))が)いる

の C のもとでの真理条件が

(47) ∥笑った ∥C ∩ ∥三人 ∥C ∩ ∥学生 ∥C = ∅

となることは明瞭だろう。だが、「三人」を「三人以上」ではなく「ちょうど

三人」の意味で解釈する限り、(47)は、(46)が真であるための必要条件しか

与えない。たとえば、十人笑った学生がいたならば、そのうちの三人から成る

学生の集団 aが存在し、(47)の左辺の要素となるからである。同様の問題は、

22 L.McNally (1998) p.378.

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「わずかの」や「三人以下の」のようないわゆるmonotone decreasing NPに

関してもある。

この問題が、「いる」や「ある」の扱いよりも、弱い名詞句の意味論から来

ていることは、先の「述定公理」にもまったく同様の欠陥があることからわ

かる。つまり、「三人」を「ちょうど三人」と解釈した

(48) ((三人 (学生))が)笑った

もまた、この公理に従えば、(47)という真理条件をもつことになる。だが、

(47)は、(46)の真理条件として正しくなかったのとまったく同じ理由で、(48)

の真理条件としても正しくない。

3.3 弱い名詞句の分類と述定公理

前節でのようなアプローチを改良するひとつのやり方は、弱い名詞句を三

種に分類して、その各々について、異なる形式をもつ述定公理を設定するこ

とだろう23 。文法的にはもっと精密な調査が必要なのだが、とりあえず、弱

い名詞句はつぎのいずれかの形をしていると考えよう。

(ϕ (D (N)))

(D (ϕ (N)))

ϕは「笑った」のような述語、D は「多く」のような数量詞、N は「学生」

のような名詞である。よって、つぎの二つの表現は、弱い名詞句の二つのタ

イプの例になっている。

(笑った (多く (学生)))

(多く (笑った (学生)))

ϕとDは空であってもよい。したがって、

(多く (学生))

(学生)

もまた、弱い名詞句である。

弱い名詞句を一階述語とみなすのは前と同じである。その構成要素となり

うる述語、数量詞、名詞もまたすべて、意味論的には、集団をも含めた個体

に適用される一階述語である。

どのような数量詞Dをもつかによって、弱い名詞句をつぎの三つのタイプ

に分類する。すなわち、

23 de Swart (2001) のやり方は実質的にはこれに帰着する。

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(i) monotone increasing: 「多く」、「多数」、「たくさん」、「何

人か」、「数人」、「いくつか」、「三人以上」などをDとして

もつ名詞句、および、Dが空である名詞句

(ii) monotone decreasing: 「少数」、「わずか」、「三人以下」な

どをDとしてもつ名詞句

(iii) non-monotone:「ちょうど三人」などをDとしてもつ名詞句

である。

これら三種類の弱い名詞句に対応して、異なる形の述定公理を採用するの

だが、その前に必要ないくつかの概念をここで定義しておこう。

まず、monotone decreasing な名詞句を特徴づける数量詞 D の各々には、

その反対である数量詞Dが存在すると想定する。たとえば、

少数 = 多数

わずか = たくさん

三人以下 = 三人より多く

といった具合である。数量詞 D をもつ monotone decreasing な名詞句 αに

対して、DをDに取り替えて得られるmonotone increasing な名詞句を「α」

と表記する。

また、弱い名詞句 αから、その中に含まれているDを取り去って得られる

表現を「⟨α⟩」で表す。たとえば、

⟨(多く (笑った (生徒)))⟩ = (笑った (生徒))

⟨(笑った (多く (生徒)))⟩ = (笑った (生徒))

である。

つぎに、メタ言語の存在論の一部として、ある個体が他の個体の部分であ

るという個体間の関係があると想定する。よって、「y ⊑ x」は、yが xの部

分であることを意味する。たとえば、太郎と花子という二人の学生から成る

集団を「a」で表し、太郎と花子と次郎から成る三人の学生から成る集団を

「b」で表すならば、「花子 ⊑ a」、「花子 ⊑ b」、「a ⊑ b」はすべて正しい。

述定公理はつぎのようになる24 。

[述定公理]

弱い名詞句 αについて、

24 ここに掲げたものはまだ十分に一般的でない。ひとつは、「(αが)ϕ」の形だけでなく、「(αを)ϕ」のように、他の格助詞が現れる文も扱う必要がある。もうひとつは、ϕは必ずしも一項述語とは限らないという点である。こうした欠陥を是正するように、現在の方法を拡張することはむずかしくない。

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(i) αが monotone increasingならば、|=C (αが)ϕ ⇔ あるxに

ついて、x ∈ ∥α∥Cかつ x ∈ ∥ϕ∥C

(ii) αが monotone decreasing ならば、|=C (αが)ϕ ⇔ すべて

の xについて、x ∈ ∥ϕ∥Cならば x ∈ ∥α∥C

(iii) αが non-monotone ならば、|=C (αが)ϕ ⇔ ある xにつ

いて、x ∈ ∥α∥C、x ∈ ∥ϕ∥C、かつ、すべての y について

、y ∈ ∥⟨α⟩∥C、y ∈ ∥ϕ∥Cならば y ⊑ x

個体 xが弱い名詞句 αの意味論的値であるためには、αの構成要素の各々

が表す条件のすべてを xが満足すればよい。よって、つぎもまた公理として

採用してよいだろう。

[述語修飾の公理]

X と Y が弱い名詞句の構成要素となりうる一階述語であるとき、

x ∈ ∥(X(Y ))∥C ⇔ x ∈ ∥X∥Cかつ x ∈ ∥Y ∥C

monotone decreasing な弱い名詞句が現れている例として

(49) ((三人以下 (学生))が)笑った

という文を取り上げよう。いま掲げた公理の (ii)によれば、この文のコンテ

キスト C に相対的な真理条件は、

(50)すべてのxについて、x ∈ ∥笑った ∥Cならば、x ∈∥∥∥(三人以下 (学生))

∥∥∥Cとなるが、

(三人以下 (学生)) = (三人より多く (学生))

であるから、(50)は、

(51)すべてのxについて、x ∈ ∥笑った ∥Cならば、x ∈ ∥(三人より多く (学生))∥C

と同値であり、述語修飾の公理を用いれば、これはさらに、

(52)すべての xについて、x ∈ ∥笑った ∥Cならば、x ∈ ∥学生 ∥C

ならば x ∈ ∥三人より多く ∥C

と同値である。(52)が述べているのは、「もしも笑った学生がいるならば、そ

れは三人より多くではない」ということである。これは (49)の真理条件を正

しく与えていると考えてよいだろう25 。25 (52)が (49)の正しい真理条件を与えると考えることは、少なくともひとりの学生が笑ったということを、(49) は含意しないと考えることである。しかし、(49) と同値になるはずの

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non-monotoneな弱い名詞句を含む文についても、述定公理が正しい真理

条件を与えることを同様にたしかめることができる。

さて、問題は、存在文であった。今度は、弱い名詞句だけでなく、「いる」

と「ある」もまた一階述語とみなそう。したがって、現在のアプローチは、存

在述語を二階ではなく一階の述語と解釈する点では GQと一致する。GQの

ときと同じく、存在述語はすべての対象について成り立つ述語であると考え

る。これを、公理として明文化しておく。

[存在述語の公理]

すべての対象 xについて、

x ∈ ∥いる ∥

x ∈ ∥ある ∥

この公理と、うえの三通りに分岐する述定公理からの帰結として、つぎが

得られる。

[命題 1]

弱い名詞句 αについて、

(i) αが monotone increasing ならば、|=C (αが)いる ⇔ あ

る xについて、x ∈ ∥α∥C

(ii) αが monotone decreasing ならば、|=C (αが)いる ⇔ す

べての xについて、x ∈ ∥α∥C

(iii) αが non-monotoneならば、|=C (αが)いる ⇔ ある xにつ

いて、x ∈ ∥α∥C、かつ、すべての yについて、y ∈ ∥⟨α⟩∥Cならば y ⊑ x

この命題を用いれば、つぎの命題が容易に証明できる。

[命題 2]

|=C ((D (ϕ (N)))が)いる ⇔ |=C ((D (N))が) ϕ

|=C ((ϕ (D (N)))が)いる ⇔ |=C ((D (N))が) ϕ

(i) 三人以下の笑った学生がいる

が、笑った学生がだれもいないときでも真であると考えることができるだろうか。もしもこうした点が気になるのならば、述定公理の (ii) の右辺を、付帯条件をつけた

ある yについて、y ∈ ∥⟨α⟩∥C かつ y ∈ ∥ϕ∥C 、すべての xについて、x ∈ ∥ϕ∥C ならば x ∈ ∥α∥C

に取り替えればよい。述定公理をこのように変更しても、命題 2 は成り立つ。

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この結果は喜ばしいものであるが、現在のアプローチにさまざまな問題が

あることも事実である。最大の問題は、一見共通の構文をもつとしかみえない

(53) 大部分の学生が笑った。

(54) 多くの学生が笑った。

(55) わずかの学生が笑った。

(56) ちょうど三人の学生が笑った。

が、このアプローチによれば、意味論的に大きく異なる四通りの操作を含む

文になってしまうことだろう。(53)は、量化表現による述語項の束縛である

のに対して、(54)–(56)は、二つの一階述語が共通にもつ項が量化されるとい

う大きな対比があり、さらに、後者のなかでも量化の仕方は三通りある。

この点では、GQの方に歩があるように思われる。GQによれば、(53)–(56)

は、そこに現れる名詞句の種類がちがうだけで、すべて同一の構文をもつか

らである。弱い名詞句を量化表現ではなく、一階の述語とみなすという現在

のアプローチが、GQに代わりうるだけの一貫性と説明力とをもつためには、

少なくとも、(54)–(56)に現れる操作が何らかの意味で「同一の」操作である

ことが示されねばならない。だが、ちょうど紙数も尽きたようである。これ

は宿題にまわすことにしよう。

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飯田隆 (2001a) 『日本語形式意味論の試み (2)—動詞句の意味論—』著者か

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