周作人研究通信...

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1 ONLINE ISSN 2432-6305 PRINT ISSN 2432-6410 ******************************************************************************************************* 周作人研究通信 第8号 2018 年 6 月 ********************************************************************************************************* 伊藤 徳也 「西山小品」の諸問題ーー日中近代文学史における ・・・1 伊藤 徳也 魯迅《野草》のタイトル命名の心境 ―秋吉收『魯迅 野草と雑草』に触れてー ・・・13 編集後記 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・18 ********************************************************************************************************** 「西山小品」の諸問題-日中近代文学史における 1 伊藤 徳也 要旨 近年中国語圏出身の日本語作家が活躍し始めた。完全な中国語ネイティブとして 楊逸が成功したが、彼女以前に、日本語創作を試みた人物がいなかったわけではな い。周作人が日本語で書いた「西山小品」は語り手に対する「情報の制限」をして いる。その中の「一人の百姓の死」は、特段ストーリーがなく、話中の謎が解明さ れずに物語が終わるテクストで、「謎の不解明」という語りの根幹は、志賀直哉の「網 走まで」からの示唆を受けたと考えられる。当時の中国の読者は、物語性の強い長 編小説に慣れていて、短くて物語性のない「西山小品」はほとんど理解できなかっ た。「西山小品」は、モダニティ、通俗文学と純文学の差異、日中比較文化論、それ ぞれの文脈において重要な意義を持つテクストである。 1 本稿は、南京大学外国語学院日本語学科で開催された「異文化間における日本研究・日本 語教育研究に関する国際シンポジウム」(2017 5 27 日)における講演「周作人の日 本語創作:理解されなかった「西山小品」の宙吊り性」の内容を改稿したものである。

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Page 1: 周作人研究通信 第8号home.netyou.jp/88/iton/zhouzuoren8.pdf1本稿は、南京大学外国語学院日本語学科で開催された「異文化間における日本研究・日本

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周作人研究通信 第 8 号2018 年 6 月

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伊藤 徳也 「西山小品」の諸問題ーー日中近代文学史における ・・・1

伊藤 徳也 魯迅《野草》のタイトル命名の心境

―秋吉收『魯迅 野草と雑草』に触れてー ・・・13

編集後記 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・18

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「西山小品」の諸問題-日中近代文学史における1

伊藤 徳也

要旨

近年中国語圏出身の日本語作家が活躍し始めた。完全な中国語ネイティブとして

楊逸が成功したが、彼女以前に、日本語創作を試みた人物がいなかったわけではな

い。周作人が日本語で書いた「西山小品」は語り手に対する「情報の制限」をして

いる。その中の「一人の百姓の死」は、特段ストーリーがなく、話中の謎が解明さ

れずに物語が終わるテクストで、「謎の不解明」という語りの根幹は、志賀直哉の「網

走まで」からの示唆を受けたと考えられる。当時の中国の読者は、物語性の強い長

編小説に慣れていて、短くて物語性のない「西山小品」はほとんど理解できなかっ

た。「西山小品」は、モダニティ、通俗文学と純文学の差異、日中比較文化論、それ

ぞれの文脈において重要な意義を持つテクストである。

1 本稿は、南京大学外国語学院日本語学科で開催された「異文化間における日本研究・日本語教育研究に関する国際シンポジウム」(2017年 5月 27日)における講演「周作人の日本語創作:理解されなかった「西山小品」の宙吊り性」の内容を改稿したものである。

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キーワード

周作人 日本語創作 志賀直哉 「網走まで」

1.中国語ネイティブの日本語創作

北京オリンピックが開催された 2008 年、日本では、中国出身の作家楊逸(1964

−)が第 139 回芥川賞を受賞して評判になった。いろいろ議論はあったが、やは

り、中国語ネイティブが一定水準以上の日本語で小説を書き、文壇で高く評価

されたというニュースは、大きな驚きを持って迎えられた。それまでも、リー

ビ英雄(1950−)のように、日本語ネイティブでない作家は活躍していたが、中

国語ネイティブが日本文壇で日本語作家として広く認められたというのは極め

て珍しい現象である。最近は、中国語ネイティブながら自然な日本語が書ける

人材も決して少なくないのだが、日本語作家として成功したのは今のところ楊

逸ただ一人と言ってよい。

生まれ育った場所を中国語圏まで広げると、東山彰良(1968−)と温又柔(1980

−)も大きな成功を収めている日本語作家としてあげなければならない。特に東

山は、直木賞(第 153 回、2015 年)を受賞した他、大藪春彦賞(第 11 回、2009

年)や中央公論文芸賞(第 11 回、2016 年)も受賞するなど、楊逸以上の成功を

収めているし、温も、2016 年には、日本エッセイストクラブ賞(第 64 回)を受

賞し、ごく最近、芥川賞(第 157 回)候補にもなっている。しかしながら、東

山と温は、人間形成を行う重要な時期を日本で過ごしており、成人後に来日し

た楊逸とはかなり条件が違う。中国語圏に文化的ルーツを持った日本語作家と

して邱永漢(1924-2012)や陳舜臣(1924-2015)もいるが、彼らも成年前に日

本語による教育を十分受けており、全く楊逸とは同列に語れない。

楊逸は、芥川賞を受賞する直前、「ワンちゃん」で第 105 回『文學界』新人賞

を受賞したが、その際、審査員だった作家の島田雅彦が、以下のように選評の

中に記している。

『ワンちゃん』は「女の一生」在日中国人バージョンである。中国人が日本語

で小説を書くということは、大正時代にはあった。日本留学中に自然主義文学

を模倣した作風のものがあったが、おそらくそれ以来であろう。2

島田が言うような、「大正時代」、「日本留学中に自然主義文学を模倣」して「日

本語で小説を書」いた中国人というのは一体誰なのだろうか。「大正時代」に「日

2 『文學界』2007年 12月号 p.24

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本留学」を経験し「自然主義文学を模倣」したと言えば、郁達夫(1896−1945)

が想起されるが、郁は日本語の作品を公的には残していないはずである。一方、

大正時代に日本で、日本語作品を書いた作家としては、陶晶孫(1897−1952)が

おり、彼は確かに 1921 年に、処女作「木犀」を日本語で書いているが、「自然

主義を模倣」しているとは思えない。また陶も成年前に日本で日本語による教

育を長く受けており、東山や温、邱、陳同様、完全な中国語ネイティブとは言

い難い。つまり、完全な中国語ネイティブとして成功を収めた日本語作家は、

やはり楊逸が最初と言うべきなのである。

ただし、楊逸以前にも、完全な中国語ネイティブが日本語創作を発表した例

が、実はなかったわけではない。それが標題に掲げた周作人(1885−1967)の「西

山小品」である。

2.周作人が「西山小品」を書くに至った背景

「西山小品」は、1921 年に日本語で書かれ、そのまま武者小路実篤が主宰す

る『生長する星の群』(第 1巻第 7号、1921 年)に発表された。エッセイとして

も読めるが、むしろスケッチ風の小説と言うべきだろう。後述するが、志賀直

哉のいわゆる心境小説とよく似た作品世界を形成している。周作人は何度か日

本語で書いた文章を発表しているが、その中で最も作品性の高いものがこの「西

山小品」である。ただし、周知のように周作人はあくまでも中国語作家であっ

て、日本語のものは、ある種余技的に書かれたものと言っていいだろう。

さて、彼は 1921 年時点において、「新しき村」に関わって武者小路実篤(1885

−1976)と親しく文通を続けており、「西山小品」はおそらく、武者小路からの

依頼によって書かれたものと考えられる3。この作品は、結果として、日本の近

代文学と中国の近代文学の交差点に位置する作品として、現在の私たちにも、

興味深い文学史的問題をつきつけているのではないか。これが本稿の基本的な

モチーフである。

「西山小品」が書かれた 1921 年は「文学革命」後五年たっていない時期で、

中国の作家文人たちは、正統文学の白話化運動の中で、近世白話小説などを参

考にしながら、新しい白話文体を模索中だった。まだこの時期の作家達は、近

代的学校制度の中の国語教育を受けていない世代で、独自に自分の白話文体を

3 周作人と武者小路実篤との関係、および、本稿が踏まえている基本的な資料、事象については、伊藤徳也(2012)『「生活の芸術」と周作人-中国のデカダンス=モダニティ』、勉誠出版、第9章「中国語情調表現の困難に対して」、p.200-p217を参照されたい。本稿の内容には、これと重複するところが多い。

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作りながら、創作をしなければならなかった。周作人は科挙受験世代なので当

然後世の作家のような国語(白話文)教育を受けていない。彼も主に翻訳を通

じて、あるべき中国語白話文体を模索していた。それは、言文一致運動を受け

て「口語文」で文学作品を書こうとした二葉亭四迷(1864-1919)などの日本自

然主義以前の日本作家たちが経験した模索とよく似た歴史的経験であった。

周作人が得意だった外国語は英語と日本語だったが、若い頃から続けていた

英語の中国語訳の経験に加えて、さらに、日本語からの翻訳文を工夫する中で、

自身の中国語文体も徐々に確立していった。彼の翻訳文は、基本的に意訳より

もかなり直訳に重きを置いた文体だったが、それは、新奇な物語だけ輸入しよ

うというのではなく、異国の文学の中国にはなかったような斬新な表現や思想、

発想などをも導入したかったからである。それが、結果として、新しい中国語

の文体の創造にもつながったと言える。彼が若い頃からトレーニングを受けた

古典中国語(正統詩文)の文体は、描写対象や形式、語法にかなり厳しい要求

や制限があって、あまり自由が効かなかったため、外国語文の直訳には不向き

であった。そのため必然的に、文学革命の主張に同調し、融通の効く白話文体

を採用することになったと言えよう。

そのような事情は、さかんに行われた明治日本における翻訳と日本口語文の

発達の関係と類似していたと言えよう。明治末の日本に留学した周作人は明治

文学発展の過程をよく知っており、日本近代文学の発展の過程は、自国の文学

の発展にとって大いに参照価値があると考えていた4。周作人は、日本の歴史的

経験を横目に見ながら、中国文学の新しい白話文体がどのようなものであるべ

きなのかを模索していた。それがどのようなものになるのか、当時明確な答え

はまだ出ていなかった。彼は当時特に、日本文学の口語文が表現する「情調」

の繊細さ、玄妙さに心を惹かれていたようで、そのあたりの事情が当時彼が書

いた文章の中から窺える5。そのようなタイミングで武者小路実篤から日本語原

稿を執筆するチャンスがもたらされたのである。ちょうど彼は大病を患って非

日常的な療養生活を送っていた。そこで彼は言わば「渡りに船」とばかりに日

本語による創作という、非日常的な、そして非常に興味深い試みに着手するこ

とになったのである。

3.「サイダー売り」----語り手に対する情報の制限

「西山小品」は短い二編の小編からなる。「一人の百姓の死」と「サイダー売

り」である。ここではまず、「サイダー売り」について検討する。この小品のあ

4 周作人《日本近三十年小説之発達》(1919)5 周作人《訳詩的困難》(1920)

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らすじはおおよそ以下の通りである。「西山小品」の二小編ともそうだが、簡単

なあらすじにするのが非常に難しい作品である。

寺では秦という「少しずるそうに見えるがまた何処かに無邪気な所もある」小

僧がサイダーを売っていた。彼を使っている親方はたまに見にくるだけだった。

ある日、「私」が豊一[幼い息子:引用者注]と散歩していると秦がさくらん

ぼのような果物を豊一にくれる。どこから取ってきたのかと聞く豊一に、それ

はどうでもいいじゃないかと「ずるそうな顔の上に優しい微笑を」浮かべ、数

百段の石段を「ずんずん」登っていった。それから半月ほどして突然親方の甥

がやってきて、店をたたみ秦にすぐ帰るようにと告げる。それは秦が帳簿をご

まかし、それでものを買って食べていたりしたからだという。秦は寺を出なく

なかったが、許されない。「私は立ち止つて暫く其の長い石段をとぼとぼと下

りて往く淋しい後ろ姿を見送って居た。」

この小編に対し、文革後最初に出版された周作人研究の専著である李景彬『周

作人評析』はかなり穿った解釈を披露している。それによれば、この作品の主

人公の秦は、帳簿をごまかすような少年ではなく、この話は、無辜の下層民が

冷酷な社会に虐げられる話だというのである6。つまり彼が売上をごまかしたと

いうのは、彼を陥れるための言いがかりだという解釈である。一方、戦前にこ

の小編に論及した趙景深(1902-85)は、うわさどおり秦は売上を横領した少年

とみなしている7。実際、秦はどっちだったのかというと、明らかに、正解など

どこにも存在しない。語り手は、うわさを紹介しただけであって、何も決定的

な断定はしていない。作者である周作人は、ここで語り手の知り得る情報を慎

重に制限しているのである。神の目のようないわゆる全知的視点は導入されて

いないし、語り手は秦の自意識の中に踏み込んでもいない。このように、語り

手の知りうる情報に制限を加えるというのは、推理小説の前半の伏線を張るよ

うな部分などでよく見られる近代小説の手法で、意識的に真相がわからないよ

うに配慮してあるのである。これとおなじような状況が、魯迅「故郷」の最後

の方に出てくる叙述に対する解釈の際も出現していたことが想起される。

「故郷」の最後の方に、わら灰の中に碗や皿が隠されていたのを楊二嫂が見

つけて、それは、わら灰をあとで持っていくことになっていた閏土が埋めてお

いたものだろう、というところに話が落ち着いた、という叙述がある。つまり、

碗や皿も家財として一応価値あるもので、それを、生活の苦しい閏土が、わら

灰とともにこっそり持ち去ろうとしたのだと皆は話し合った結果、結論づけた

6李景彬『周作人评析』(1986)、陕西人民出版社、p.94-967趙景深《周作人的西山小品》(1925)、陶明志(趙景深)編『周作人論』所収

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と「故郷」の語り手がほぼ述べているのだが、「故郷」の語り手「私」は、やは

り、「サイダー売り」の語り手の「私」が秦が実際に売上をごまかしたとは言っ

ていないように、閏土が埋めたとは言っていない。母親から聞いた話を言った

だけである。しかし、閏土が埋めた、という解釈や、楊二嫂が閏土を陥れるた

めに埋めたといった解釈が、戦前も含めて中華人民共和国建国後、さかんに示

され、交わされた。そのほとんどが、語り手に対する情報の制限という近代小

説の手法を度外視した解釈であった8。その意味で、秦は陥れられた無辜の少年

だ、という李景彬の解釈は、閏土は楊二嫂に誣告された被害者だという解釈同

様、語り手に対する情報の制限という近代小説の手法を度外視したものだった

と言えよう。

李著は、文革後始めて出版された周作人研究の専門書という時代的な制約を

受けていた。周作人という「漢奸」で左翼組織に属していなかった作家を正面

切って研究するには、当時はまだ、階級闘争論的な論調に寄り添わないと、研

究成果を出版することが難しかったのかもしれない。しかし、そうした政治的

思想的バイアスを排して、「サイダー売り」を虚心に読むならば、作品の語り手

「私」は、そうかもしれないが、そうでないかもしれない、という態度を慎重

に維持しながら語っていることは明らかである。作品を、何かのイデオロギー

やあるいは主張のための、材料とか手段として読むということは、結局は一面

的に文学テクストを読むということであって、そうすると、たいていそういう

作品の機微を閑却し蹂躙することになる。作品を作品そのものとして読むとい

うことは、そうした作品の機微を過不足なく汲み取るということであり、周作

人の「サイダー売り」は、次に触れる「一人の百姓の死」同様、そのことを非

常にシンプルに読者に要求している作品と言えよう。

4.「一人の百姓の死」----志賀直哉「網走まで」と

もう一編の方の「一人の百姓の死」というタイトルだが、その「百姓」は標

準的な日本語の「百姓」つまり「農民」という意味よりは、現代中国語の“老

百姓”に近い「民」の意味であろう。周作人自身がのちに中国語に訳す際は「百

姓」を“郷民”と訳しているので、「ある一人の民の死」と理解しておけばよい

だろう。あらすじはおおよそ以下の通りである。

寺の般若堂の一室に住む「私」は、夏休みに寺に来ていた豊一といっしょに寺

の中をよく散歩した。寺のロバの親子を見るのを好んだ豊一は、その二匹のロ

バの世話をしている男と親しくしていた。その後、自分の部屋に出入りする調

8 藤井省三『「故郷」の読書史』(1997)、創文社

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理人から、寺に肺病で危篤に陥っている男がいるという話を聞く。しかし、豊

一が親しくしていた男のことかどうかはわからない。その肺病の男は寺で夜通

し施餓鬼会があった日の明け方死んだと、また調理人が知らせに来た。その男

に身寄りはなかったらしい。その借金を帳消しにしたそば屋や乾物屋、そして

「山門の外の低い小舎に住んでいる貧乏な婆様など」が、買ってきた紙銭を焼

いて死者を弔ったという話を「私」は聞く。「私」にはそれを「迷信だと笑っ

てけなす」勇気が出なかった。

この不完全なあらすじだけからも、この小編に、語り手に対する情報の制限が

加えられていることがわかろう。

(前述の李著は、やはり、語り手に加えられた情報の制限を度外視して、肺病

の男は息子の豊一が親しくしていた男だと断言している。)しかも、「サイダー

売り」には、秦が帳簿の問題でクビになって北京に帰るという、ある程度のス

トーリーがあったのに対して、こちらの「一人の百姓の死」にはストーリーら

しいストーリーがない。話のオチがないばかりか、途中で提示される謎(肺病

の男が、ロバを世話していて豊一と親しくしている男なのかどうか)が最後ま

で解明されずに終わる極めてユニークな作品と言えよう。エッセイのようだが、

エッセイの終わり方とも違う、作品としての一種の独立性を漂わせる終わり方

である。ここには、彼が当時心惹かれていた日本の口語文作品の繊細で玄妙な

「情調」が醸し出されている、というのが、私の見立てである。このようなも

のを周作人が書くうえで、おそらく決定的な作用をした具体的なテクストが、

おそらく志賀直哉の「網走まで」である。

「網走まで」のあらすじはおおよそ以下の通りである。

「八月も酷く暑い時分」、宇都宮の友人のところに行くために、「自分」は「午

後四時二十分発の」「青森行」に乗った。そこへ「二十六七の色の白い、髪の

毛の少い女の人が、一人をおぶい、一人の手を曳いて入ってきた」。その「母」

は「自分とは反対側の窓の傍に席を取った。」その「男の子」に対して「自分」

は「顔色の悪い、頭の鉢が開いた、妙な子だと思った。自分はいやな気持がし

た。子供は耳と鼻とに綿をつめて居た。」医者によれば、「男の子」が「気むず

かしい」のは父親の「大酒」のせいらしいと母親が言う。この夫はいったいど

んな男なのだろうか。「きたない家の中で弱い妻に当り散らして、幾らか憂い

をはらす」「そんな人ではないだろうか。」などといろいろ想像をする。聞けば、

この「女の人」は気難しい子供を二人連れて北海道の網走まで行くらしい。一

週間ほどかかるという。「女の人」は、汽車の中で二通の手紙を書いた。宇都

宮に着き「自分」は下車、互いに名も聞かずに別れた。その際彼女は「自分」

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にその手紙を投函することを頼んだ。「自分」はその手紙を読みたいと思った

が読まなかった。「投げ込む時ちらりと見た名宛は共に東京で、一つは女、一

つは男名であった。」

「一人の百姓の死」と比べると、「網走まで」の方が分量が圧倒的に多く、描写

も詳細で、物語の膨らみ、奥行きがある。同等に比較するのは本来筋違いでは

あるが、しかし、細部の描写を捨象してテクスト全体を比較対照した時、両者

の間には、顕著な共通点があることに気づかされる。それは、物語の中にあら

かじめ謎が設定されているかあるいは途中で謎が生じ、読者はその提示された

謎に引っ張られて読んでいく。しかし、結局その謎は最後まで解明されずに物

語の幕が閉じるという点である。

「網走まで」の「女の人」は、なぜ、どういう事情があって、網走まで一週

間もかけて、扱いの難しい子供を二人連れて行かねばならないのか、彼女の夫

はいったいどのような男なのか、彼女が書いた葉書にはどのようなことが書か

れていたのか。これらすべての疑問を「自分」は感じながら、聞くこともせず、

最後までわからずじまいで、結局、語り手もその答えを最後まで示すことがな

い。そして「一人の百姓の死」は、一編全体の作品性がほぼこの「謎の不解明」

だけによって支えられていると言っても過言ではないようなテクストである。

「網走まで」の従来の評論や研究では、この「謎の不解明」という点は特に

主題化されて論じられたことはなかったようである。しかし、周作人が「網走

まで」を読んで、もし、「謎の不解明」が醸し出す玄妙な「情調」を特に印象に

深くとどめていたのならば、その印象が彼の「一人の百姓の死」というテクス

トに反映されたとしても決して不思議ではない。実際、周作人は、「網走まで」

を前年の 1920 年 12 月に中国語に翻訳していることが確認できる。この間の過

程を、日記などに基づいて年表風に示すと以下のようになる。

1919 年 7 月 7 日‐11 日 宮崎県日向の「新しき村」を訪問、「新しき村」同人

に歓待される

1920 年 12 月 28 日 志賀直哉の「網走まで」を中国語訳

1921 年 8 月 20 日 志賀直哉の「清兵衛と瓢箪」を中国語訳

8 月 26 日 武者小路実篤から手紙を受け取る

8 月 30 日 「西山小品」を書く

9 月 1 日 武者小路に原稿を送る

9 月 13 日 「西山小品」を中国語訳

1921 年 12 月 『生長する星の群』第 1巻第 9号「西山小品」掲載

1922 年 2 月 『小説月報』第 13 巻第 2号「西山小品」掲載

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「網走まで」を翻訳してから「西山小品」を書くまで半年以上間があいている

が、1921 年 8 月 30 日に「西山小品」を書くわずか 10 日前の 8月 20 日に同じ志

賀直哉の「清兵衛と瓢箪」を中国語に翻訳している。この時「網走まで」のこ

とを全く思い出さなかったとしたらむしろ不自然であろう。周作人のことだか

ら、「網走まで」のテクストから読み取ったのは、「謎の不解明」という点だけ

ではなかっただろう。繊細な感受性を持った周作人が、「自分」と「女の人」と

の間の微妙な感情の交流などに注意を払っていなかったはずはない。しかしな

がら、「西山小品」を構成していく過程で想起し、「一人の百姓の死」の語りの

根幹に取り入れたのは、明らかに、「謎の不解明」が醸し出す玄妙な「情調」の

方であった。

5.おわりに

前節の年表に示したように、周作人はまず日本語で書いた「西山小品」を、

すぐ自身で中国語に翻訳し、当時の中国文壇を代表する文学雑誌『小説月報』

の翌 1922 年 2 月の第 13 巻第 2 号発表にしている。その四ヶ月後の、同誌同巻

第 6号の「通信」欄(読者と編者とのやりとり、交流欄)に、「西山小品」に対

する印象を記した読者からの手紙が複数掲載されている。その読者の感想が実

に興味深い。黄紹衡(1922 年 4 月 12 日付、杭州一中)からの手紙はこう記して

いる。

小説月報十三巻二号、周作人先生の「西山小品」(1)「一人の百姓の死」、(2)

「サイダー売り」の二編は、私は読んで、平凡であっさり[“平平淡淡”]と

していてなんら面白みがないように思いました。その芸術的価値はどこにある

のかお聞きしたく思います。

李秀貞(1922 年4月8日付、新会)からの手紙は以下のように記す。

・・・周作人先生の「西山小品」に至っては、私のような文学に深い理解のな

い人間から見ると、「陽春白雪」[高尚すぎて理解できない]です。

この二通の手紙は、当時の中国の読者の「西山小品」に対する印象あるいは態

度を代表しているように思われる。当時の中国の読者はまだ、近世白話小説、

例えば、『水滸伝』や『西遊記』などの、物語性の強い長編小説を読み慣れてい

たのではないだろうか。そう考えると、彼らがこのような感想を持った理由も

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理解しやすくなる。短編が理解されなかったのは、魯迅と周作人が日本留学中

に翻訳・出版した『域外小説集』(1909 年)がほとんど読者を獲得できなかった

時と同じであろう。しかも、短いことだけではなく、「語り手に対する情報の制

限」という手法も、近世白話小説のような語りに慣れた読者にとっては、馴染

みが薄かったと推測される。つまり、中国文学史上で言えば先端的だった「西

山小品」の試みに一般読者の理解が追いつかなかったということである。もし

そう考えるのならば、それは、ある種のモダニティの問題だったと言えよう。

ところで、文革後に現れた中国のいわゆる“先鋒派”文学の試みの中には、「西

山小品」とも通じるようなものが感じられる。特に固定的で安定した語りを揺

さぶろうとするような点で共通性を強く感じる。それは、前の時代にヘゲモニ

ーを握った文学に、ある種の共通性(物語性、語り手のあり方など)があった

からではないだろうか。「西山小品」の前の時代は、近世白話小説(鴛鴦胡蝶派、

武侠ものなども含む)を代表とする通俗的白話長編小説がヘゲモニーを握って

いた。そして、文革後の“先鋒派”の場合は、茅盾の『子夜』から始まるいわ

ゆる「社会主義リアリズム」の長編小説が、文学のヘゲモニーを握っていた。

いずれも、長編でありかつ、単純で安定した語り手による物語であった。それ

らのヘゲモニーに対する強い批判・反発が、「西山小品」や“先鋒派”の前衛性

を生み出したと言えるのではないだろうか。その意味で、「西山小品」の出現は、

かなり特異な形であれ、中国語に自ら翻訳されることによって、中国における

文学の近代化、少なくとも文学形式の進展を顕示することになった。

ただし、この問題は、時代性だけではなく、通俗文学と純文学(大衆文学と

知識人文学)との間の大きな差を反映してもいた。時代がいかに進もうとも、

また、両者の境界が限りなく溶融し変化しようとも、娯楽性を求める通俗文学

と先端性を求める純文学との間には永遠に矛盾が発生しうる。進歩というもの

には誰もがついていけるわけではない。特に無限の、そして加速度的な進歩に

は。それは歴史的に見て明らかである。

「西山小品」の物語を支える「謎の不解明」について、私は実は、かなり前

に非公式な場で論じたことがある。それは、1995 年に東京大学駒場キャンパス

で私が行った着任講演の席上であった。その際私は、この「謎の不解明」が醸

し出す「情調」を近代的なものとみなして論じた。すると、日本文学特に短歌

など日本の定型詩を比較文学的に研究する川本皓嗣氏から、それは、近代性、

つまりモダニティではなく、ナショナリティ、つまり、日本独自のものが示さ

れているのではないか、という質疑を受けた。川本氏も十分な例示をしたわけ

ではなく、ある種直感的に提議されたようだったが、俳句にも造詣の深い川本

氏の指摘にはやはり傾聴に値するものが含まれていると思う。

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「西山小品・一人の百姓の死」冒頭(『生長する星の群』第 1 巻第 9 号第 1 頁)

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「西山小品・サイダー賣り」冒頭(『生長する星の群』第 1 巻第 9 号第 4 頁)

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魯迅《野草》のタイトル命名の心境 ―秋吉收『魯迅 野草と雑草』に触れてー

伊藤 徳也

一昨年度、つまり 2016年度に一年間かけて毎週一回、授業で魯迅の散文詩集《野草》を、駒場の学部生といっしょに読んだ。文学の授業ではなく、中国語

の授業である。一年生から四年生まで文科から理科までさまざまな学生が十名

程度集まった。中文志望者はいなかった。その中の半分程度がニアネイティブ

の学生で、彼らは、会話なら私などよりずっと流暢に中国語が話せるのだが、

魯迅の《野草》の読解となると話は違う。私にとっても、わからないところだ

らけだが、幸い、魯迅の作品とあって、少なからぬ先達による翻訳、研究があ

り、それらに助けられて、魯迅の評伝的史実や他の魯迅の著述との関係などを

学生に教えることができた。 ところが、授業中、先達の著述に明示されていなくて心細く感じたことがい

くつかあった。その中でも、最も心に引っかかったのは、魯迅が、なぜ、《野草》

を書き始めたのか、いったいどういうつもりで《語絲》連載当初から自分の連

作のタイトルを“野草”と名付けていたのか、という点である。このことにつ

いて作家本人の明確な証言はないようである。ただ、本人が書き残した記述と

して、連作《野草》(1924年 9月 15日〜)の最後に書かれた《題辞》(1927年4月 26日)にこうある。

生命的泥委棄在地面上,不生喬木,只生野草,這是我的罪過。

野草,根本不深,花葉不美,・・・〔下線部は引用者〕

これによれば、魯迅にとっての“野草”というのは、“喬木”と違って、根が浅

く、花も葉も美しくないものということになる。この“野草”観は、最初一九

二四年に、自分の今後書き続ける連作のタイトルを“野草”と名付けた時のイ

メージから、基本的にそう離れていなかったと考えるのが自然だろう。(書き進

めていくとともに、もっと他の意味やニュアンス、イメージが、そこに絡んで

いったとしても。)とすると、魯迅がこれから書き続けていく自分の連作を“野

草”と名付けたところには、彼のある種のコンプレックスが表明されていたと

想像することができる。“根本不深,花葉不美”という言辞自身はどう考えても

プラスイメージを表明しているとは取れないからである。それは、自分の作物

は喬木のような大きくてしっかりした美しいもの、たいしたものではなく、根

の浅い、美しさからは遠いもの、つまらないものだという自意識から発してい

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るように受け取れるが、その自意識には、謙遜というほどの余裕は感じられな

い。むしろ痛切な、自己卑下に近い感覚さえあったように、私には思える。 *

先年に出た秋吉收『魯迅 野草と雑草(九州大学出版会、2016年)は、著書全体の主旨が鮮明な、寄せ集めの論文集などではない、統合された、ほとんど

一つの作品であった。このような書物が、近現代中国文学の研究書として、無

事に世に出たことを、私は心から慶賀したい。この本は、先述した私の疑問を

氷解してくれている。 この書の主旨は、魯迅《野草》の“野草”とは日本語の「雑草」に相当する、

ということである。言わば、“野草”イコール「雑草」説である。その主旨につ

いては、論文抜刷をいただいた時からおもしろい観点だと感じていた。まず面

白かったのは、与謝野晶子の「雑草」という詩(1918年)を、当時魯迅と緊密な関係にあった弟周作人が《野草》と訳していたという指摘(ほとんど発見)

である。そして魯迅が《晨報副刊》に掲載されたそれを目にしたはずだという

推定も十分蓋然性があった。それがやがて《野草》創作に結びついた可能性が

あるという指摘も納得できるものだった。 周作人の翻訳が最初に発表されたのが 1920年で、魯迅が連作《野草》を書き始める 1924年まで比較的時間が空いており、また、晶子の表現と魯迅の《野草》の表現との差異がかなり大きいといった点が、両者の結びつきをあまり強いも

のとは感じさせない要素として残っていた。 また、魯迅が“野草”という語彙を選び出すにあたっては、当然もっと他の

材料もあり得たはずで、そっちの方の可能性を弱めるような、晶子の「雑草」

と魯迅の《野草》との間の決定的な結びつきを示すような材料を欠いてもいた。 しかし、秋吉氏は、魯迅と晶子の間の受容影響関係そのものよりも、魯迅に

とっての“野草”とはいかなるものだったのかという問いの方に、より注意を

集中させて、他の角度からの実証を重ね、そして、魯迅が“野草”という語彙

をタイトルに選ぶ前提として、“野草”が言辞としてはマイナスイメージを帯び

た語彙として使われていたこと、特に、当時大きな反響を巻き起こした成仿吾

《詩之防御戦》(1923年)が、“野草”という語彙を、“詩之王宮”に蔓延った、憎むべき、そして薙ぎ払われるべきものを指す貶義語として使っていたことを

指摘(これもほとんど発見)するに至った。しかも、成の文章の半年後には魯

迅が《説不出》というエッセイで、成を皮肉るように、“批評家”が“文壇”の

一切の“野草”を“掃蕩”するということに言及している。《説不出》の掲載が

《語絲》創刊号、《野草》の連載開始が《語絲》第 3号、つまり《野草》連載開始二週間前に、文壇に蔓延った“掃蕩”されるべきものとして“野草”という

言辞を魯迅は使っているのである。以上から、自身の連作に対する“野草”と

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いう命名の仕方は、ちょうど後の雑文集(《而已集》《三閑集》等)において、

論敵が魯迅を批判した際の核心的な貶辞を逆用したのと同じような命名の仕方

だったということがはっきりとわかる。このあたりの委細は、秋吉著の最終第

一二章「『野草』の成立」にある。 *

さて、秋吉著に記されている谷行博氏の指摘の通り(16頁/おそらく「中国語」と「日本語」が逆に記載された誤植と思われるが)、日本語「雑草」は中国

“野草”に翻訳できるとしても、必ずしも逆が成り立つとは限らない。つまり、

魯迅の“野草”を日本語に翻訳する際に「雑草」にしなければならない必然性

はない。(このようなことは、私が周作人の訳業を調査した時もしばしば確認し

たところである。)この問題は、魯迅にとっての“野草”の意味、ニュアンスを、

日本語で説明する際の問題であって、中国文学研究固有の問題ではない。とい

うのは、日本語を介在させない中国文学研究は中国語圏などにたくさんあるか

らである。 思うに、これは日中比較文化論の問題である。日本語の「雑草」の意味、ニ

ュアンスを照合することによって、魯迅の連作の標題“野草”の意味、ニュア

ンスを探ろうとする、極めて比較文化論的な実践である。翻訳というのはたい

ていそうだが、だからこそ秋吉著後半には、“野草”を「雑草」と訳した《野草》

の日本語試訳が付されているのだろう。(とは言え、魯迅の《野草》の中には、

前述の「題辞」とタイトル以外、“野草”という語彙がそのまま忠実に使われて

いる箇所はないので、従来の「野草」の日本語訳にトータルな形での変更を迫

るというものではない。) この秋吉氏の指摘に寄り添うとすれば、“野草”という中国語の語彙に含まれ

るイメージも、日本語の語彙「雑草」が醸し出すイメージに近いものだという

ことになる。比較文学の影響受容研究ならば、晶子の用例を歴史的にさらに探

る必要がでてくるだろうが、ここでは、「いま、ここ」における日本語人を念頭

に置いた比較文化論的実践として、しばしこの問題を考えてみる。 *

「雑草」という日本語の語彙は、俗にかなり鮮明なニュアンスを持って使わ

れている。有名なのは、プロ野球選手の鈴木啓示(1947年生まれ)、上原浩治(1975年生まれ)が自らを「雑草」になぞらえた発言だろう。いずれも投手だが、鈴木は「草魂」(雑草の魂)、上原は「雑草魂」を座右の銘にした9。秋吉氏

9 いずれも筆者伊藤がリアルタイムで認識していたことであるが、web上に多くの記事がある。鈴木啓示『投げたらアカン――わが友・わが人生訓』(恒文社、一九八五年)、上原浩

治『闘志力――人間上原浩治から何を学ぶのか』(創栄社/三省堂書店、二〇一〇年)とい

った書籍もある。

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が確認しているように、日本語の「雑草」には、成長が期待されていない、除

去すべきものとしてのマイナスイメージと、踏まれても除去されてもまた生え

てくる強靭な生命力を持ったものとしてのプラスイメージがある。しかし、両

者は並列的な関係にはなくて、後者のプラスイメージは、前者のマイナスイメ

ージに対する反動、抵抗としてある。つまり、後者は前者を前提にしている。

前提になっているのは、あくまでも、期待されて日の当たるエリートコースを

辿ってきたサラブレッドではないという、ある種自己卑下的なイメージである。

つまり、自分を「雑草」になぞらえる時点で、それはある種のコンプレックス

の表明になっている。 鈴木も上原も客観的には、十分すぎるほどの成績を挙げている偉大な野球選

手だが、一見それにそぐわないような強いコンプレックスを持っていた。とい

うよりむしろ、強烈なコンプレックスが彼らを偉大な選手にしたと言うべきか

もしれない。 それは実は、魯迅もよく似たものではなかっただろうか。魯迅が連作に最初

から“野草”という標題を付けたところには、やはり、彼の強烈なコンプレッ

クスが表明されていると言えないだろうか。 魯迅のコンプレックスについては、秋吉著の中にも指摘はあるが、私も、こ

の点に関しては、若干思うところがある。というのは、拙稿「耽美派と対立す

る頽廃派―周作人と陳源、徐志摩」10(2013年)で確認したのが、実は、周作人の陳源、徐志摩に対する一種のコンプレックスだったからである。むろん、

魯迅と周作人では感受性も表現も全然違うが、しかし、例えば、成仿吾《詩之

防御戦》に対する印象や感覚にはよく似たものがあったのではないだろうか。

そして、周作人が、陳源や徐志摩に対して、反感とともに、コンプレックスを

抱いていたように、魯迅も、西洋帰りの陳や徐に一種のコンプレックスを抱い

ていたと言えるのではないだろうか。 よく知られている通り、魯迅・周作人と陳源・徐志摩との間の敵対的な関係

は、所謂「女師大事件」(楊蔭楡校長着任が 1924年秋、学生による校長罷免要求が 1925年初)の中で顕在化するのだが、拙稿「耽美派と対立する頽廃派」で確認したように、細かく見てみると、実は、1923年の段階から、かなりセンシティブな関係になっていたことが窺える。このセンシティブな関係、後の敵対

的な関係を、ただ単に、個性豊かな文人同士の、相性や仲の悪さ、好みの問題

を反映したものとして考えていると、彼らを取り囲んでいたより大きな時代状

況、社会背景が見えてこない。

10 『周作人と日中文化史』(勉誠出版、2013年)所収

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九州大学出版会 HPより

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<編集後記>

昨年度末、私の十年上の先輩であり東大駒場(中国語部会、超域文化科学専攻)の同僚でもあ

った刈間文俊さんが東大を退職された。2 月 19 日(月)に開催された最終講義「唐人談義」は、

様々な趣向が凝らされたそれまで見たことも聞いたこともないような最終講義(とパーティ)だ

った。それは、お膳立てをしたのが主に、刈間さんが発足させ育ててきた LAP(リベラルアーツ

プログラム)という新しい組織だったからだろう。講義で深く印象に残ったのは、中国の知識人

との深い絆(“侠”的な)、常識や既成のシステムや形式に縛られない野太い意志、態度、そして

ユーモアのようなものだった。

故伊藤虎丸先生が「刈間君なんか、いろんな中国人とつながり合っててすごいよ〜」などと頼

もしげに語っていたことが思い出される。その中に、劉暁波とか陳凱歌はもちろん、巴金や浩然

もいたわけである。(最終講義の内容ではないが、退職の言葉は web に公開されていて簡単に読

める。http://www.c.u-tokyo.ac.jp/info/about/booklet-gazette/bulletin/597/)

その翌月 10 日(土)、東大本郷中文の藤井省三さんも最終講義をされた。膨大な業績を丁寧に

辿る学者らしい重厚な最終講義だった。東大中文(現代文学)の重い看板を背負ってのその八面

六臂の活躍には日頃から目が眩む思いだったが、振り返ってみて改めて圧倒された。

来月の 7 日と 8 日に、早稲田で「周作人国際学術研討会」が開催される。小川利康さんが周到

な準備をされて、中国をはじめイギリスなど海外から招いた 15 名程度の研究者と日本の研究者

を含め総勢 30 名以上が参加する盛大な会合となる。(http://zhouzuoren.ogawat.net)

(https://www.dropbox.com/s/1u6oegmbqpv10fk/%E5%91%A8%E4%BD%9C%E4%BA%BA%E3%82%B7%E3%8

3%B3%E3%83%9D%E8%AA%AD%E5%A3%B2%E8%A8%98%E4%BA%8B.JPG?dl=0)この会合によって周作人研究

が深まることは確実だが、周作人研究という枠を超えるような波動が起こることも期待したい。

さて、今号には投稿がなかったが、半年刊の逐次刊行物として国会図書館に登録してあるので、

無理をしてでも出すことにした。ごく少数の同好の士が原稿を持ち寄る雑誌である。でこぼこが

あって当然だろう。ただ、刈間さんや藤井さんの足跡を顧みるにつけ、こんな雑誌を出していて

いいのかという気がしないでもない。今後のことをちゃんと考えねばならない。

(文責 伊藤徳也)

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『周作人研究通信』第 8 号

発行:2018 年 6 月 27 日

編集:周作人研究会

連絡先:〒153-8902 東京都目黒区駒場 3-8-1

東京大学 駒場キャンパス 18 号館 伊藤徳也研究室

[email protected]

バックナンバー:http://home.netyou.jp/88/iton/index.files/Page1262.htm

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