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Title 19世紀後半のアメリカ関税史 -経済変化に連動した制度の模索期-

Author(s) 小山, 久美子

Citation 経営と経済, 81(4), pp.59-85; 2002

Issue Date 2002-03-25

URL http://hdl.handle.net/10069/29265

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経営と経済第81巻第4号2002年3月

19世紀後半のアメリカ関税史

-経済変化に連動した制度の模索期-

小山久美子

Abstract

Many scholars including Japanese ones have often characterized the

U.S. tariffs during the latter half of the nineteenth century as their high

rates or the connection between high tariffs and giant corporations.

The object of this article is to try to interpret these tariffs from

another perspective •| the transformation of tariff making methods. The

Constitution grants tariff making prerogatives to Congress. However,

from the Civil War to the end of the nineteenth century, Congress began

to often set up temporary commissions which investigated facts regard-

ing tariff matters and whose commissioners were appointed by the

president. Besides, Congress often allowed the president to play a part

in the tariff making process through reciprocal treaties without the ap-

proval of Congress. These changes in tariffs indicate tendencies toward

(1) recognized importance of collecting and analyzing facts, (2) federal-

ism, (3) increased power of the Executive. During this period, the U.S.

experienced dramatic changes in economy and management. It is

natural that tariff making methods should have been expected to un-

dergo transformation.

Keywords: U.S., tariff, history

はじめに

アメリカの関税は,特に南北戦争期(1861~1865年)以降,1930年のいわゆ

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るスムート・ホーリー(Smoot-Hawley)法までほぼ一貫して高関税政策の採

用を続けており,第二次大戦後の自由貿易に繋がっていく低関税化へ向かう

契機となったのは,大恐慌が深刻化する中で成立した1934年互恵通商協定法

まで待たねばならなかったというのが通説であり1),南北戦争期"-'19世紀末

は高関税を定着させた時期と説明されている。また同時期の関税史に関する

研究は,我が国においては,当時独占化が進みつつあった産業をさらに保護

するための独占保護関税の時代として産業史との関連で論及されることが多

。)

nノ“、.

3しY

1 )中本悟『現代アメリカの通商政策』有斐閣, 1999年, 14頁;秋山兼治『日米通商摩擦

の研究』同文館, 1995年, 19頁;鹿野忠生「大恐慌期のアメリカ実業界と互恵通商政策」

『西洋史研究』第22号, 1993年, 1~34頁;鹿野「アメリカによる経済グローパル化の歴

史的前提Jrアメリカ研究』第34号, 2000年, 35~52頁;三瓶弘喜「ニューディール期ア

メリカにおける互恵通商政策構想Jr西洋史研究』第23号, 1994年, 88~118頁; Martha

Gibson, Conflict and Consensus in American Trade Policy, Washington D.C., 2000, p.6;

Robert Kuttner,“Managed Trade and Economic Sovereignty," in Robert Blecker ed.,

U.S. Trade Policy and Global Growth, New York, 1996, p.8; Judith Goldstein, Ideas, insti-

tutions, and American trade policy, International Organization 42, 1, Winter, 1988, p.187 ;

I.M.Dest1er, American Trade Politics : System Under Stress, New York, 1986, p.9.

2 )鈴木圭介編『アメリカ経済史IU東京大学出版会, 1988年は「南北戦争期の関税率引上

げから1934年の互恵貿易協定法にいたる時期のアメリカ合衆国関税法は一貫して高度な

保護関税体制であったJ(361頁)としており, r特に1890年から1909年にかけては,アメ

リカ合衆国における古典的独占形成期に対応した関税体制を形成したとされている諸関

税法が制定,施行されたとするJ(364頁)。関税と産業との関連を扱った体系的な研究書

として,鹿野忠生『アメリカ保護主義の基礎研究ーその支持基盤の史的分析一』創

言社, 1984年を参照。また同時期の関税を,関税から利益を受ける製造業者が他の主要

グループとともに連帯を組まなければ国家の政策として成り立たせる程,強力ではなか

ったとし,どのような人々との連合を組んだのかの状況で説明する場合もある (Richard

Bensel,“Congress, Sectionalism, and Public-Policy Formation since 1870" in Joel Silbey

ed., Encyclopedia 01 the American Legislative System, New York, 1994, p.1365)。

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上記の通説に対して筆者はすでに1922年, 1930年, 1934年に成立した関税

法を率の高低ではなく,関税設定における制度上の変革(議会から行政府へ

の権限委譲)という側面から考察しているが3),同時期もこの側面から解釈

しようというのが本稿の目的である。当時,アメリカが経済的,経営的に急

激な大変化を遂げる中で,関税においても,従来の議会という政治の場でな

される決定方法(そこでは議会特有のロッグローリング,つまり丸太転がし

といわれる議員の利益協力体制の影響を受ける)に変化が現れ始めていた。

その変化は,研究史上,同時期の関税が高関税,独占保護関税と特徴づけら

れている傍らで看過されがちであった。そのような中,企業・政府関係の視

点を重視する経営史家のガランボス(LouisGalambos)とプラット(Joseph

Pratt)が拡大する政府の存在(ただし時期は1901'""1930年としている)に着目

し,具体的にどのような変化であったかは説明されていないものの,政府の

産業横断的な政策としての関税政策も企業・政府関係において完全な私的シ

ステムから公的支配と私的支配の混合システムへの全般的な推移があったと

示唆していることは注目すべきである4)。

本稿の特徴は,南北戦争期"-'19世紀末の関税設定における新しい制度上の

改革を明らかにすることにある。加えて,その改革と当時アメリカが他分野

でも模索していた方向との共通項を抽出する。同時期はアメリカが経済的,

経営的にダイナミックに変化を遂げたたため,様々な面で制度上の変化が現

3 )拙稿「スムート・ホーリ一法成立に関する再解釈Jr社会経済史学』第63巻第 3号,

1998年;1フォードニー・マッカンパ一法からスムート・ホーリ一法へJr経営と経済』

(長崎大学経済学会)第79巻第 3号, 1999年;11934年互恵通商協定法成立Jr経営と経

済』第81巻第 1号, 2001年。

4 )ルイス・ガランボス,ジョセフ・プラット,小林啓志訳『企業国家アメリカの興亡』

新森書房, 1990年, 104~105頁。同書は, 1すべての個別企業はたいてい産業別の団体を

通してアメリカ議会が許す限りの関税保護を求めてロピイング活動を行い,このような

アメリカ的な政治上の意思決定のやり方はあいまいな結果をもたらし,競争政策をめぐ

る長い,激しい社会的な論争へと発展したJ(97~98頁)との言及に留まっている。

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れ始めており,それは実状と制度とのギャップを縮めようとするアメリカの

模索の姿を映し出しているともいえる。

本稿は以上のスタンスに立ち,南北戦争以前の関税にも言及した上で,南

北戦争期-----19世期末について率の高低,成立目的の側面からの通説的関税史

も概観しながら,制度上の改革の試みを1.関税に関する委員会設置 2.

大統領の互恵協定締結権に分けて,主要人物の働きかけを中心に考察する。

1節南北戦争以前

関税を賦課徴収する権限は合衆国憲法(1788年)で連邦議会に帰すると規定

されており,関税の決定は下院→上院としづ議会の政治の場で行われる。そ

の一方で,大統領へも建国以来,通商に関する権限が付与されており,従っ

て関税は議会(立法府)での決定(ただし大統領の是認が必要)を原則として,

大統領(行政府)の交渉による協定締結(上院の批准が必要)がそれを補完する

という制度上の特徴を有している5)。

1.議会での決定

独立宣言から13年後の1789年に最初の関税法が成立した。これは財政目的

であり,実際,関税が当時の連邦政府の歳入をほとんどを占めていた(ただ

し産業保護目的についても議論は当初から存在しており, 1792年のハミルト

ンCAlexanderHamilon)の「製造業に関する報告書」の中で保護主義の必要性

が説かれているものの,実際の立法には殆ど影響を与えなかった)6)。

しかしながら1815年に米英戦争が終結し,戦争により多くの幼稚産業が発

達するようになると, 1816年法で初めて産業保護目的が明確に盛り込まれ,

1824年, 1828年, 1832年と保護主義的基調が強まっていった(1828年法は特

5) Cynthia Hody, The Politics 01 Trade, New England, Hanover, 1996, p.39.

6 )詳しくはアレグザンダー・ハミルトン,田島恵次ほか訳『製造業に関する報告書」未

来社, 1990年を参照。

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に「唾棄すべき関税」といわれる程,南北戦争以前の関税水準としては最高で

あり,これは南部諸州の無効運動まで引き起こした)。関税に保護関税が盛

り込まれるようになると,当然,地域の利害対立が起きる。アメリカ内で,

北東部の製造業者,中西部諸州は高関税を主張したが,南部(綿花輸出に依

存)はそれに反対であった。(しかし実際に南部の声を有効にできたのは1833

年であった)0 1833年に,関税をめぐる南北の激しい対立の中,北部の代表

グレイ (HenryClay)と南部の代表カルフーン(John Calhoun)との間で取引

が行われた結果,いわゆる妥協関税法(20%を超える関税は超過の部分を10

年間で段階的に引き下げるという内容)が成立,関税は下降傾向となった。

歳入不足が保護主義に口実を与えることとなり,保護色の強い1842年法が成

立するものの,再び1846年法は1833年法の原則に戻り, 1857年法はさらに

1846年法を引き下げることになった。

南北戦争以前は,不況などにより歳入不足となるとそれを口実に保護主義

が強まる傾向にあったが,概して財政事情が良好であったため,関税率は比

較的穏やかなものであり,地域の利害対立はさほど表面化しなかった7)。

2.大統領の協定締結

建国当時,通商に関して大統領に付与された権限は,大統領の見解で公共

の安全が要求していると判断された場合,アメリカへの入港を禁止できる

(さらに大統領が妥当と思えば続行,または中止できる)権限であった(ただ

し1815年にアメリカは他国船での入港への差別を廃止した法を通過させた)。

互恵主義については,すでにジェファソン (ThomasJ efferson) が1793年

に通商に関するレポートにおいて,国務省が取引アプローチに関心を持って

いたことを表したと記され,また下院の製造に関する委員会が1821年に保護

7)朝倉弘教『世界関税史』日本関税協会, 1983年, 313~323頁 Raymond A. Bauer,

Ithie1 de So1a Poo1, and Lewis A. Dexter, Amen"can Business and Public Policy, Chicago,

1972, p.14.

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の便益に関するレポートの中で互恵主義に言及し,議会はまず関税を引き上

げ,それから外国が対応して関税を引き下げてくるのを待つべきとしてい

た8)。実際には, 1840年代頃より,国務省が中心となり,互恵的な市場開放

を図るための試みが以下のようになされた。

-ヨーロッパ関税同盟

1844年にタイラー(John Tyler)政権がドイツ諸国と互恵条約を交渉した

が,上院が輸入増加を恐れて却下した。

-カナダ

1846年にイギリスで穀物法が廃止されたため,カナダは特恵的なイギリス

市場参入の機会を失い,別の機会を必要とした。 1854年にアメリカとカナダ

は互恵条約に調印し,大きな商業的成功をもたらした(しかし共和党の保護

主義者の勝利により 1866年に条約は無効となった。 1855'"'-'1866年間で二国聞

の貿易量はおよそ 3倍となったが,アメリカのカナダへの輸出増はわずかで

あり,一方カナダは急増した)。

-メキシコ

1859年に,ビュカナン(James Buchanan)政権がメキシコと互恵条約を交

渉したのはひとつには,アメリカ・メキシコ戦争からの悪感情を静めるため

であった。しかし, 1860年に上院が協定を是認しなかった。理由は多くの議

員がビュカナン政権が奴隷制度を拡大しようとしているのではないかという

疑念を抱いたためだった。

-ハワイ

ハワイを併合しようと熱望していた,拡大志向のピアスCFranklinPierce)

政権は,天然品,特に砂糖,コーヒー,糖蜜の無税輸入を盛り込んだ互恵協

定を1855年に交渉したが,上院が他国へ同様の譲歩が拡大される懸念を表明,

ルイジアナ州の砂糖生産者の利害も影響し,締結は阻止された。

このように南北戦争以前は大統領による協定締結を上院が批准せず,行政

8) Alfred Eckes, Opening America's Market, North Carolina, 1995, p.63.

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府による関税決定はほとんど機能していない状態にあったの。

2節南北戦争期'""19世紀末の関税改革

南北戦争期"-'1890年代末の関税は,歳入源に加えて,産業保護の意味合い

を持ったことから,政治的争点(政治力拡大のための道具)として脚光を浴び

た。循環的な不況と周期的な歳入黒字により,関税問題は議会の議題にのり

続けた。また関税が保護手段となると,議員たちは特定利害を擁護すること

に走り,ロッグローリングがこの時代の顕著な特徴となった10)。

しかしながら,関税政策を新たな状況に適合させようと,制度上の改革の

試みも着実に重ねられていた。以下では,同時期の関税史を広く概観しつつ,

同時期に現れ始めた変化を1.関税に関する委員会設置 2.大統領の互

恵協定締結権,の二つに大別して考察していく。

1.関税に関する委員会設置

南北戦争期以降,関税に関する委員会が臨時的に設置されるようになった。

かかる委員会は,設置の是非を議会が決定しながらも,委員を大統領が指名

する点で,関税に関する議会の行政府への権限委譲と考えられることを予め

述べておきたい。

1860年代は, 1861年 3月にモリル(Morill)関税法が成立した。 1857年に突

然、起こった恐慌から歳入バランスが 9年ぶりに赤字になり (2,700万ドル),

1860年には赤字額は5,000万ドルに達した。それに対して1856年から1860年

9) U.S. Congress, House, Report No.1000, Amend Tariff Act of 1930: Reciprocal Trade

Agreements, 73rd Cong., 2nd sess., pp.7-11 ; James Bovard, Fair Trade Fraud, 1991,

New York, pp.228-229.なおアメリカ・メキシコ戦争は1846年に勃発し,アメリカ軍が

1847年にメキシコシティを制覇し終結した。これにより,アメリカはメキシコにリオグ

ランデ川北をテキサス領として認めさせた(紀平英作『アメリカ史』山川出版社, 1999

年, 154頁)。

10) Hody, The Politics, pp.33, 50.

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までの間議会は関税引き上げを行う代わりに短期公債により対応してきた

が, 1860年に共和党が議会の多数派となると,モリル(Justin Morill)の提案

する関税引き上げ法案が下院を通過した。 1861年に南北戦争が勃発し, 1864

年に終結するまで戦争の拡大とともに,戦費の支出は膨らみ,かかる財政的

な問題は保護主義者により強調された。戦争中,議会は異例的な内国税を賦

課し,繰り返し1861年のモリル関税法の関税率を引き上げた。これは追加的

な歳入を得ると同時に,製造業者に課した内国税によるコストアップの負担

を軽減するためであった。モリル関税法は,鉄鋼,毛織物などの重要品目を

従価税から従量税へと切り替えることにより巧妙に関税引き上げを行い,輸

入原料へも高関税を賦課したll)。

南北戦争は財政危機をもたらしたため,歳入問題に関する専門的助言を提

供できるような最初の機関である歳入委員会が設立されることになった。議

会は,可能であればまだ知られていない資金源を探し出すために,財務長官

に3人の委員を指名する権限を付与した。そのような委員会を提案したのは

ウェルズ(DavidWells,ジャーナリストで,経済問題に関する著作活動を開

始したばかりの人物)であり,彼はすでに財政状態の調査を行っていた。リ

ンカーン(AbrahamLincoln)大統領はウェルズへ委員長を務めるように求め

た。委員指名についてウェルズは,ペンシルヴァニア州の製鉄業者,コーウ

ェル(StepenCorwel1),イリノイ州シカゴの会計検査官,ヘイズ(Samuel

Hays)を提案した。ところが,同委員会が調査を開始した時,すでに戦争は

終わっており,取り組むべき問題はいかに不平等が起こらず,戦時中の課税

を軽減していくかであった。

11) Char1es Calhoun,“James G. Blaine and the Republican Party Vision, " in Ballard Cam-

pbell ed., Gilded Age, 2000, Wilmington, Delaware, p.20 ;朝倉『世界関税史.n325頁。モ

リルは1855年にホイッグ党として下院に入り, 1867年に共和党の上院議員となる。以降

1898年まで上院財政委員会に属し,彼が委員長の聞は互恵的な関税引き下げは上院では

通過しなかった。

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6ヶ月間の調査の後,歳入委員会が議会へ報告した内容は次の通りであっ

た。アメリカの産業,貿易に関するデーターが不足している状況を指摘した

上で,賛沢品目を除く関税の引き下げを勧告した。委員会は,原料に対する

関税を無税にすることを含む引き下げは,アメリカ製造業者のコストを軽減

し,よって外国市場での競争力を強めるとしており,国内市場保護のみに集

中するのではなく輸出拡大を奨励するような政策を主張した。保護主義に固

執すれば,輸出を通じての産業成長を促進する望みとは矛盾することになる

と示唆し,禁止的なレベルでの関税は消費者の反乱,システムの突然の崩壊

を招くと警告した。委員たちは,現行の関税設定プロセスの有効性を疑問視

し,政策は事実と専門家アドバイスに基づき決定されるべきと提案した。

ウェルズは,議会での関税設定プロセスは不適当だと考えていた。特に,

羊毛,毛織物の高関税を批判した。ウェルズは銅,銅陶器の関税引き上げ法

案を拒否した内容を盛り込んだジョンソンCAndrewJ ohnson)のメッセージ

を1869年に起草しているが,それも議会の特定利害の要求に喜んで応じる体

質への嫌悪感の表れだった。ウェルズは,法案はあまりにもしばしば大きな

原則に基づくというより小さな問題に基づいていると述べた。

南北戦争が終結すると,戦争期間中に導入された内国税が次々と廃止され

る中,関税は当初,内国税を補填するための目的で引き上げられたことが南

北戦争後には忘れ去られ,それ以降,高関税が定着,永続化することになっ

fこ。

ウェルズは,議会が戦時中の関税を引き下げようとしないことに対して批

判的であったが,それが議会の敵意をあおった。保護主義者はウェルズの勧

告を,自由貿易者の危険な見方だと非難,さらには大英帝国の経済的利益に

加担する人物であるとも非難した。 1870年に,議会は歳入委員会の専門家た

ちの仕事を不要とした。とはいえウェルズは後に再び関税引き下げの主なス

ポークスマン,民主党の関税引き下げ運動のアドバイザーとして共和党を悩

ますことになる。

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ウェルズは1870年代始めまでに行った分析により, 1870年代の経済の根本

的変化から,農業・工業生産は常に国内市場をかなり上回るだろうとして,

外国貿易拡大を主な解決策として提示した。そして処方築を関税政策と結び

つけた。高関税はアメリカの市場を制限し,低関税が市場を拡大するのだと

強調した。結果として民主党は,ウェルズからの影響もあり,同様のことを

低関税政策アピールの際,主張することになった。

しかしながら,大半の貿易拡大主義者の熱心な主張は1870年代の場合,関

税引き下げと結びつけてなされなかった。 1870年代はいかなるグループも貿

易拡大を1880年代,特に1890年代のように熱心に執劫に押さなかった。経済

拡大を緊急な国家事業とするような,危機意識もなければ,適切な政治的,

経済的制度も存在せず12),1870年関税法(無税品目リストの拡大,ココア,

コーヒー,茶などの関税引き下げが特徴的), 1872年関税法(綿花,羊毛,金

属,紙などの関税引き下げが特徴的)など1870年代は全体的には関税水準は

大幅低下となったものの,課税品については南北戦争期と変わらなかった13)。

1873年の財政的パニック(1870年代の中心的な出来事は1873"'-'1877年の聞

の不況であり,これは1880年代のものより深刻であったが, 1890年代に比べ

るとその度合いが低かった)に始まる,厳しく長い不況は保護主義的感情を

刺激した。 1874年の選挙により民主党が下院で多数派となったため,低関税

の主張者であるイリノイ什|のモリソン(Wi11iamMorrison)が下院歳入委員会

の委員長となり,ウェルズの助言により準備した法案を報告したものの,民

主党と共和党の保護主義者の連帯により成立しなかった。

ただし1870年代の不況が別の動きを引き起こしたことは特筆すべきであ

る。企業家たちは1870年代の深刻な不況の影響を経済的のみならず心理的に

も受けたため,自分たちの意向が反映されるような関税に関する委員会の設

置を求める動きが起こってきた。

12) Joseph Kenkel, Progressives and Protection, Lanham,1983, pp.ll, 13,15.

13)朝倉『世界関税史.], 328頁。

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1877年にフォ一トン(Joseph Wharton,ペンシルヴァニア州の製造業者の

組織で保護にコミットしているインダストリアル・リーグの執行委員会委員

長)が,議会は関税改正を試みる前に企業家に諮問すべきだと提案した。ウー

ル・マニュファクチュラーズの全国組織をはじめとする他の産業組織もフ

オートンの提案を支持する声を上げ,アメリカン・アイアン&スチール・ア

ソシエイション(組織の主目的は保護促進)もその一つであった。

1880年代に入ると, 1880年の選挙により共和党が両院で多数派となり,新

議会の召集前に企業家たちは著名な共和党員とともに集まり,保護政策の支

持と,関税委員会に関するフオートンのプランを支持した。議会は大統領に

対して,関税法に固有の経済問題すべてを徹底的に調べ,すべての利害に公

正さを提供するような,委員会指名の権限を事務的な援助とともに半年間と

いう期限付きで付与した14)。

1880年, 1881年, 1882年は歳入黒字となっため,それらを減らすために何

かをすべきという圧力が増す中で,アーサー(ChesterArthur)大統領下で,

議会は関税改革についてアドバイスするための臨時的な委員会の設置を是認

した。 1882年に設置された委員会の委員 9人がアーサーにより指名された。

アーサーは指名の時,前述のウェルズ、を無視し,委員はほとんど保護主義的

な製造業者が占めることになった。 9人は,ヘイズ(JohnHayes,ウール・

マニュファクチュラーズの全国組織の書記長で,熱心な保護主義者)委員長

のほか,ガーランド (AustinGarland,イリノイ什|の羊毛生産者),オリバー

ズ(Henry01ivers,ルイジアナ州の砂糖生産者),ケネー(DuncanKenner,

ペンシルヴァニア川|の製鉄業者),ボトラー(AlexanderBoteler),アンダー

ウッド(John U nderwood)はそれぞれウエスト・ヴァージニア州,ジョージ

ア州からの代表だが南部とはいえ低関税を支持しているわけではなかった。

他はアンプラー(JacobAmbler,オハイオ州連邦裁判官),マグマホン(Wi1・

liam McMahon, ) ,ポーター(RobertPorter)であった。

14) Kenkel, Progressives, pp.l9, 22.

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70 経営と経済

委員会は 3ヶ月間,東部,南部,中西部の29の都市でヒアリングを行った

が,要求される保護は様々であり,対立的であった。委員会が1882年12月に

提出したレポートは保護システムにはふれずに,特に砂糖,糖蜜などの原料

の既存の率の平均25%の引き下げを行うことを提案していた。委員会は関税

引き下げへの一般的な要求,ならびに保護主義への広い支持に留意し,かっ

率は議会に受け入れねばならないものにしなければならないことを認識して

いた。委員会の考え方は, I現在の経済システムを破壊するような急進的な

変化は結果として産業,商業全般に災いをもたらすことになる」というもの

で,幼稚産業のための保護の原則を受け入れ,既存の産業については内外生

産者の労働と資本の条件を関税率が平準化すべきと提案していた(ただし,

委員会が4000以上の品目の率を決定した根拠はミステリーであり,率は議会

のロッグローリングと同じくらい矛盾する,でたらめな方法で調整されたと

いう見方もなされた)。

政治家,企業家とも委員会の事実収集を結論的なものとして受け入れなか

った。次期議会は民主党が多数派になると予想されたため,アーサーの要請

により共和党はすぐに改正の仕事に取りかかったが,ロビイストたちは委員

会が勧告したものより高い率を主張した。実際,議会が通過させた1883年関

税法は委員会の勧告より高いものとなった15)。

1880年代は,民主党の復権により関税引き下げが期待されたものの,結局

は目立った変化がなかった。しかしながら,関税は主要な政治問題となった。

まず民主党が関税引き下げを政綱で取り上げ(1884年の場合,大統領候補者

のクリーブランド (GroverCleveland,民主党)とブレイン(James Blaine,

共和党)との争いのやや個人的様相を帯びており, 1888年には民主党が関税

問題に専心すると明言していた),共和党もそれに対抗して1884年, 1888年

の政綱で重要問題として取り扱った。

1888年(1888年の関税論争を引き起こした直接の契機は財政黒字であった。

15) Hody, The Politics, p.44; Kenkel, Progressives, pp.23, 24.

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19世紀後半のアメリカ関税史 71

1885年までにはその額は6,300万ドルになり, 1886年には9,400万ドルになっ

ていたが, 1888年には l億4,000万ドルにも達していた)の激しい論争のさな

か,保護主義者は適正な率を決定するための関税委員会の設置を試みること

を決定した。保護を必要とする根拠は,アメリカの生産者は外国の競争者よ

りも高いコスト(特に労働コスト,なぜならばアメリカの労働者は高い賃金

と生活水準を維持しているから)がかかっているというものだった。そこで

議会は1888年にライト (CarrollW right)に生産者コスト,賃金率,労働者の

生活コストを調査するよう命じた16)。ライトが労働局(後の労働省)で,調査

を通じてなすべき原則としたのは,事実を提示し,政策の責任者を妥当な推

論,結論に導かせることだった。ライトは統計局(statisticaloffices)の拡充

が良い政府になるための鍵となると考えており,事実が認知されれば政府の

悪いところが自発的に修正され得るのだと考えていた。当時は,どのように

政府が機能しているかも文書で明らかにされておらず,基本的な統計数字す

ら把握されていないのが実状であった。

しかしながら,ライトのレポートは内外コストの差異を平準化するような

関税システムを構築する試みがほぼ無益だということを表すこととなり,困

難さを提示することとなった(労働局は1891年に調査を完了し,委員会は消

滅した)17)。

1890年代は1890年にマッキンレー(McKinley)法, 1894年にウィルソン・

ゴーマン(Wilson-Gorman)法, 1897年にディングレー(Dingley)法が成立

し,この期間は独占化した国内産業の市場を擁護し,一貫して保護主義が強

化されたという評価がなされている。このような1890年代における 3つも

16) ]udith Goldstein, Ideas, Interest, and American Trade Po/i,り, Ithaca,1993,p.l02.

17) ライトは共和党員であり, 1884年~1905年の間,労働局(後の労働省)で働いた。それ

以前のライトは当時アメリカで最も経験があり,尊敬されていた統計家であり,例えば

1882年,マサチューセッツ州の町を対象に労働不安が多い原因を探る調査を行った。

1884年に労働局のコミッショナーとなり, 1905年まで労働省の統計家としてチーフを務

めたが,その後クラーク大学の学長を務めるため,政府職を退いた (Kenkel,Progres-

sives, p.28.)。

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72 経営と経済

の関税法による全体的な関税改正は,企業家をかき乱した。彼らの主な関心

は国家の政策が安定していることであり,一部の製造業者(おそらく保護主

義の主な受益者)は政治家の関税問題を解決する能力を疑い始め,このこと

が20世紀初の委員会設置を求める運動へと繋がっていく要因にもなるのであ

る18)。

以上のような関税に関する委員会設置について特に期待されたのは,事実

がどうなっているかの収集・分析であった。このような背景にはアメリカの

他の分野で事実収集・分析を重視しようとする潮流が存在していたことに留

意すべきである。

南北戦争期"-'19世紀末には歴史家,経済学者,政治学者,法律家などの学

識者の中に,もし問題が中立的,客観的,科学的,経験的に調べられれば,

事実の確認,知識は望ましい公共政策を提示し,国家が直面する問題を適切

に解決する可能性があるという考え方を示す人々が出てきた。分類化,専門

化(ダーウィン(Char1esDarwin)の分類学から影響)の考え方が重視され, 19

世紀末の改革では,包括的な権限を一人,あるいは少数者に任せることはせ

ず,問題を狭く,個別的に分類化し,個別に対処する機関に権限を付与する

傾向が出てきた。また,対立する様々な利害により立法をつくること,これ

は健全な発展に繋がるというよりむしろ障害となるという見解も出てきた。

たとえばゴドキン(E.L.Godkin)は,全体の討論で扱うにはあまりにもばか

げた問題の調査にはコミッティーか,コミッションを設置すべきと勧告し

fこ19)。

企業レベルでも,事実収集の重要性が認識され始めた。アメリカではビジ

18) Kenkel, Progressives, p.10 ; William Becker, The Dynamics 01 Business Government Re-

lations, Chicago, 1982, p.71.

19) Bernard Crick, The American Science 01 Politics, Westport, Conne., 1959, p.38 ; Wil・

liam E. Nelson, The Roots 01 American Bureaucraり,1830-1900,Cambridge, Mass., 1982,

pp.84,93.ゴドキンは Nationの編集長を務めるなど,当時アメリカで著名な編集者であ

った。

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19世紀後半のアメリカ関税史 73

ネスが全国的となった当初,列車がどこを走行しているのか,コストはどれ

ぐらいかかっているのかの基本的なデーターすら把握されていない状況であ

った。そのため鉄道が小さな地方の線から,より大きな地域,さらに全国的

な交通網へと発展し,最初のビッグ・ビジネスへと成長したが,安全,利益

の面で問題が出てきた。鉄道の経営陣は鉄道事故,規模の不経済により,新

しい管理方法を発展させていくことになった。命令と規定を書面で明文化す

ることにより,基本的な報告システムをつくることにより,新しいデーター

収集プロセスが確立されることになり,また企業内での大量の文書の分析・

伝達の仕組みの確立を基にした多くの会計技術が発達することになった。

次に製造部門状況をみるならば, 19世紀初~中葉までは大半の製造業者は

少数の管理者(一般的には l人)が少数の職長クラスの熟練工と,非熟練工を

場当たり的,成行き的な方法で管理していた。そのような小企業では管理者

と従業員は一般にインフォーマルな口頭でのやり取りにより,活動の調整が

可能であった。会計に関しても,外部取引のみ複式簿記により記録されてい

た。ところが, 19世紀の最後の数十年間で急速な成長が起こった。新しいア

メリカの通信・交通システム(郵便,鉄道,電信,電話)によるインフラの確

立は,国内市場を拡大し,生産技術の発達も起こり,生産増加をもたらした。

特に大量生産される製品の生産量が増大した。製品の量,種類が増すにつれ,

製造企業は鉄道企業が1840"-'1850年代に直面した内部調整,管理の問題に直

面し始めた。そして,管理のための情報,それが非数式(部門聞のやり取り

など)であれ,数式(原価計算データー,販売分析データーなど)であれ,そ

れに対する経営陣の要求が非常に強まっていき,情報の文書化,収集,分析

に多大の努力がなされることになった20)。

20) Alfred Chandler and James Cortada eds., A Natioη Tranゆrmedby lnformation, New

York, 2000, pp.l08-112, 130.鉄道企業は新しいデーター収集プロセスの確立,会計技術

の発達により,列車の運行位置を知ることが可能になったほか,資金の最大活用のため

に最大の利益があるところ部門へ資金を振り分けるられるようになった。製造企業でも,

経営者が階層的になるにつれ,また労働者の数が増えるにつれ,調整を欠くならば,混

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74 経営と経済

2 .大統領の互恵協定締結権

南北戦争期'"'-'19世紀末の大統領による関税設定方式の場合,これまで協定

締結に至るには上院の批准を必要としていたが,特筆すべきは1890年, 1897

年に上院の批准を必要としない形で,大統領に一部の協定に関して締結権限

が付与されたことである。かかる付与の立て役者となったのがブレインであ

る。 19世紀の政策決定者に課された制約を考慮するならば,これはブレイン

の大きな功績であった。なぜなら,大統領が議会の関税設定権を分け合う,

すなわちパワー・シェアリングという方式を引き出したからだ(これは20世

紀初の動向へ繋がっていく)21)。 以下,国務省の互恵主義推進とあわせて,

ブレインの考え方,行動を考察する。

ブレインはホイッグ党が共和党になった時, 1856年の最初の党全国大会に

メイン什|を代表し,出席した人物で,メイン州の議員に1859年当選し(1862

年まで務め,最後の 2年間は議長), 1862年に下院議員に当選した(1876年ま

で務めた)。南北戦争期には,リンカーン政権の行動を擁護する者としてワ

シントンで注目された22)。

南北戦争後,国務省内では外国への関与と領土拡大の熱意が復活した。リ

ンカーンとジョンソンCAndrewJ ohnson)政権下の国務長官は熱心な拡大主

義者であり'"、かに通商が国家の拡大に主に機能するか,つまり政治的覇権

は通商的優勢に従うと主張した。ハワイをアメリカの影響下に持ってこよう

として, 1867年に,ハワイからの砂糖と無税にするという,ハワイに有利な

沌と非効率の状態へと繋がることが認識された。そのため, 1.オーナーであれ,マネー

ジャーであれ,労働者であれ,自分の業務内容と手順をシステム化,文書化する, 2.

調整のための基礎として情報の収集・分析をおく,ことが重視され,一般的に「システ

ム」と「効率性」がすべてのタイプの製造業の管理者の合い言葉となった。また,原価

計算も普及し,会計職が特に1875年以降,企業内に設けられるようになった (Jbid.,pp.

109-110)。

21) Hody, ThePolitics, pp.33, 50.

22) Calhoun,“James," p.20.

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19世紀後半のアメリカ関税史 75

互恵協定を提出したものの,上院で承認されなかった。カナダとの互恵協定

の続行は1866年に打ち切られた。一部の製造業者は原料への関税がわずらわ

しく,互恵取引へ関心を持つようになっていたが,大半の製造業者,共和党

リーダー,保護主義的民主党員は,南北戦争後の平時経済へ移行するにつれ,

国内市場の確保が主眼となったのである。

1870年代,互恵協定に関しては,グラント (UlyssesGrant)政権下のフィ

ッシュ (Hami1tonFish)国務長官は, 1875年に議会にハワイとの互恵協定を

認めるよう説得し, 1876年の互恵条約により,ハワイからアメリカへの砂糖

をはじめとする商品すべてが無税となった。 1874年のカナダとの互恵協定は

上院により是認されなかった23)。

プレインは1870年代,セクショナリズムの問題と経済の問題の両方をバラ

ンスよく追求しようとした。すなわち,南部における黒人の投票権を認めよ

うとしない動きを憂い,彼らの市民権の保護を強調し,これらの点で地方権

限が失敗した時にはいつでも連邦政府の権限が行使されるべきであるとし,

かつ経済問題では,たとえば通貨問題を取り上げ,国家の経済政策を重視し

た。

1880年の大統領選で共和党のガーフィールド(JamesGarfield)が勝利し,

ブレインは選挙戦時の功績を認められ,国務長官となり,ラテンアメリカと

の通商関係を緊密にすることを重んじた積極的対外政策を導くことになる。

ガーフィールド政権のブレイン指名は1870年代の外国貿易政策をより積極的

にしようという意思の現れだった。しかしながら,ガーフィールドが暗殺さ

れ,代わって大統領に就任した元副大統領アーサー(ChesterArthur)は1881

年末,ブレインを離職させ,ブレインはしばらく執筆活動に入ることになる。

ブレインはその執筆,発言が注目され,共和党スポークスマンとしての人

気が上がり続けたため, 1884年についにはアーサーを破り,大統領の党の指

名を勝ち得た。民主党はクリーブランドを指名した。ブレインは再び国家の

23)鈴木『アメリカ経済史JI359頁;Lewis Ellis, Reciprocity, New Heaven, N.J" 1939, p.2.

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76 経営と経済

経済政策,特に関税の美徳を強調した。これはブレインが産業問題が公共の

関心を動員できると読んでいたためである。結果的には,大統領選でブレイ

ンは僅差でF必邑したが,共和党からは彼の主張に賞賛が寄せられることになった24)。

アーサ一政権の間,国務省はハワイとの協定の延長のほか,西半球諸国と

の互恵主義を推進する試みを行った。プエルトリコとキューバに影響を与え

るような互恵主義獲得のためにスペインとの交渉,メキシコとの交渉が模索

されたが, モリル上院財政委員会委員長は1884年にメキシコとの互恵協定

が上程されたときには,メキシコのような少ない人口と富の固との互恵主義

は引き合わないとして反対を表明し,この見解は議会で支持を受けたため,

1885年にこれらの西半球諸国主の協定は撤回された。

ブレインは,関税引き下げを求めることにのみ専心するという 1887年12月

のクリーブランドのメッセージを歓迎した。というのは1888年の大統領選で

関税問題が大争点となるからだ。ブレインは1888年の党の指名を勝ち得ると

みられていたが自ら辞退し,党はブレインの支持を得て,ハリソンを擁立し

た。ハリソンのキャンペーン・スピーチは,ブレインの経済的強調を反映し

ていた。共和党は1888年,上下両院,大統領を支配した。関税論争の争点は,

国家の経済的役割,介入度に関してであった。アメリカ人は熱心にレッセフ

ェールを信奉し,民間の生活へ政府が介入することに抵抗すると同時に,政

府の役割を拡大する傾向にあった。つまり争点は何の目的で,どれぐらいと

いうことにあった。大統領に就任したハリソンは関税保護を支持し,経済拡

大を積極的に進める準備をし,関税と経済拡大の点で考えを分かつブレイン

に政権に国務長官として入るよう求めた。二人は海外での経済利益を獲得す

べく精力的,知的に動いた。

ブレインは特にラテンアメリカとの外国貿易拡大の運動に時間の多くを費

やした。ブレインは常に経済利害を非常に意識した。政治キャリアを通じて,

彼はビッグ・ビジネス志向,産業志向を持っており,アメリカの成長に関心

24) Calhoun,“James," p.20.

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19世紀後半のアメリカ関税史 77

を持っていた。カーネギー(AndrewCarnegie)や,グレイス(W.R.Grace,

ラテンアメリカへの投資家,海運王),エルキンズ(StepehnElkins,義父の

デイビス(HenryDavis)とともにウエストパージニア州の富を支配,政治に

も強い影響力を持つ)をはじめとする広い仲間と交流を持っていた。彼の最

も親しい政治的支援者はフェルプス(WW.Phelps,ニュージャージー丹|の富

裕な企業家)とレイド (WhitelawReid,ニューヨーク・トリビューンの編集

長であり百万長者)であった。ブレインはニューヨーク・トリビューンを広

報手段として使い,産業界からの公的な反応を得ょうとした。あわせて国務

省は様々な経済団体の調査を行った。特に地方の商工会議所などの団体に,

パンアメリカン会議に好ましい反応を得るため,国務省の人間が訪問するな

どし,団体の関心を得ょうとした。農業部門に対しでも同様で、あった。個々

の企業への働きかけも効を奏した25)。

ハリソンとブレインのパンアメリカン会議を通じての拡大プログラムは具

体的な結果を出せなかった。が,互恵主義を通じての貿易拡大を進めようと

する主要人物としてブレインが自らを浮き彫りにしたことは重要であった。

そして彼らはその努力を今度は議会へ向けることになる26)。

1889年12月に,第51議会が召集されると,共和党が多数派となった議会27)

の下院歳入委員会(委員長はマッキンレー(WilliamMcKinely))は即座に法

案づくりに取りかかった。選挙の勝利が保護主義への支持とみて,歳入委員

会は法案起草の際に一つは1.保護主義へのコミットを盛り込もうとしたが,

もう一つは 2.歳入削減の必要性を満たすよう留意した。1.は関税引き上

げ品目の提供により 2. は最大歳入確保品である砂糖を無税にすることに

25) Joanne Reitano, Tariff Question, Pennsylvania, 1994, pp.41-42.

26) Tom E. Terri1l, The Tariff, Politics, and American Foreign Policy, 1874-1901,羽Testport,

Conne., 1973, pp.141,147.

27)議会の議席数内訳は,下院(民主党156,共和党173),上院(民主党37,共和党47)であ

った(有賀貞ほか『アメリカ史』山川出版社, 1998年, 87頁)。

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78 経営と経済

より,達成しようとした。中西部の羊毛生産者の要望を満たすべく,羊毛の

関税が引き上げられ,西部の共和党員の立場強化のため,農産物が課税リス

トにのせられた(これはカナダとの国境沿いの農民を保護するためであっ

た)。

1890年 2月になり,これらの法案の内容が外部へ漏れるとブレインはパン

アメリカン会議の努力が台無しになるとして,すぐに下院へ働きかけを開始

した。 2月10日,国務省の人間と歳入委員会の委員が会い,ブレインはパン

アメリカン会議に出ていた砂糖生産国からの譲歩を引き出すために砂糖関税

を活用したいと説明した。ブレインは共和党に対して議会がこれまで関税引

き下げをする時に互恵的なものを要求しなかったことに言及した。しかしな

がら,委員会は砂糖,羊毛についてはそのままにすることで抵抗を示した。

ブレインは今度は上院財政委員会へ目を向け,マッキンレ一法案が外国貿

易を増加させるような内容を含んでいないと述べた。このように行政府側の

リーダーが政党のリーダーを公に攻撃するのは前例のないことだったが,ブ

レインは市場拡大は経済的,政治的に緊急性を要するとして党内の統ーより

も重要だと考えていた。ブレインは農業,製造業の生産量が国内需要を上回

っていることを指摘し,新しい販売先を求める時であることを強調した。

下院本会議は1890年 5月21日にマッキンレ一法案を通過させ,この時点で

マッキンレー自身も互恵主義については議論するつもりはないと言明してい

た。ブレインの働きかけは当初上院でもうまくいかず,上院財政委員会は 6

月17日,羊毛,砂糖については何も変更されていない法案を提出した。しか

しながらハリソン大統領は同日の議会へのメッセージで,国務省の立場を擁

護し,砂糖を無税とした条項を非難した。ハリソンはアメリカが何かを与え

て何も受け取らないのは賢い取引ではないと主張した。ハリソンは市場拡大

の緊急性について明らかにブレインに合意しており,互恵主義への議会の是

認を取り付けるべく積極的行動を開始した。またハリソンのメッセージのほ

かにも,即座の反応が上院において起こった。同日,メイン州のヘイル

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19世紀後半のアメリカ関税史 79

(Eugene Hale)上院議員がブレインが起草した修正案(議会がさらなる法案

を通過することなく,アメリカの港を西半球諸国のいかなる国家からの商品

すべてに開放することを宣言する権限を大統領に付与するという内容)の動

議を提案したのである。

かかる提案は,その後の公的支持の取り付け,議会からの譲歩を得るきっ

かけとなった。続いてピアス(GilbertPierce)上院議員は修正案を提案した

が,これは砂糖輸出国との取引を重視したもので,議会が大統領に対して,

アメリカの輸出へ妥当な譲歩を与えるのに失敗した国々へ砂糖関税を賦課す

る権限を付与していた。このような上院の反応は,互恵主義が一部から真の

支持を受けていることを示していた。次第に,議会から,ブレインの互恵主

義はますます支持を受けるようになりつつあったが,もっと重要なことは大

きな支持が大衆からも寄せられるようになったことであった。ブレインは大

衆へのPRキャンペーンをとりまとめた。商工会議所,業界団体,商業団体

などに回報を送り,多くから好意的な反応が返った。農業グループも同様で

あった。数多くの共和党系,民主党系の各種新聞が互恵プログラムを支持した。

ブレインの考えは,国務省が支持する形でブレインの手紙の公開などを通

じて新聞でも報道された。大半は前述のニューヨーク・トリビューンからで

あった。このようにブレインが公共の関心を引きつけている間,ハリソンは

裏で政治的妥協を工夫,交渉した。ブレインがマッキンレ一法案に全く反対

でないことを明らかにすると同時に(保護主義の放棄ではないかという共和

党の批判に対して保護主義の最もよい救済策であると応えた),下院,上院

のリーダーへ働きかけた。特に上院で最も強力な人物,オールドリッチ

(Nelson Aldrich)はハリソンと共に修正案を起草する努力をした。オールド

リッチ修正案は砂糖,糖蜜,コーヒー,茶,皮革を無税とし(これらの品目

を生産する国との互恵貿易を確保するため),互恵的譲歩を得られない場合,

これらに再び関税を賦課する権限を大統領に付与していた。1890年 8月28日,

上院財政委員会はオールドリッチの修正案を採択した。 依然、として,議会

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80 経営と経済

からの敵意は存在したが,共和党リーダーたちは 8月 9月,互恵主義を成

功させるために働きかけを行った。結果,かかる修正案は上院本会議を 9

月10日,下院本会議を 9月27日に通過した。法案が通過したのは,ハリソン

政権の断固とした姿勢(同政権の要請により議会は意向に反して大統領に前

例のない柔軟性を認めた),共和党リーダーたちの働きかけ,世論支持によ

るものだった。

ここで特筆すべきは,議会が行政府へ関税決定プロセスへの参加権を付与

したことである。これまで議会はこれほど寛大なことはなかった。ブレイン,

ハリソンは最も保護されてきた特権を変えるよう議会へ説得し,成功したの

である28)。

次の1894年ウィルソン・ゴーマン法ではその条項が削除されたものの29),

それまでに互恵主義の実験は締結された協定数からみである程度成功したと

いえよう。ブレインは交渉を経験ある外交官,フォースター(John Foster)

へ任せ,フォースターは10の西半球諸国と協定を交渉,ハリソンはマッキン

レ一法で委譲された権限に従い,これらの協定を締結した。コロンビア,ベ

ネズエラ,ハイチがアメリカにとって妥当と思われる譲歩を拒否した時,同

28) Terrill, The TarifJ, pp.16ト165,167; Edward Kaplan and Thomas Ryley, Prelude ω

Trade Wars, Westport, Conn., 1994, pp.2-4.プレインは,進歩はレッセフェールを通じ

てではなく,政府による啓蒙された操作を通じてなされ得るという考えを持ち,政府の

潜在力に対して平均的なアメリカ投票者を共感させることに主眼をおいた(Terril,The

TariJJ, p.49)。

29) 1892年の大統領選で,民主党はブレインのプログラムをごまかしの互恵主義(保護主義

による詐欺)と非難し,マッキンレ一法を廃止することを公約した。下院法案の主起草者

であったウィルソン(WilliamWilson)が示した法案内容は全体的にみて約25%の現行率

の引き下げと多数の原材料の無税を含んでおり(これは国内での製造コストを削減し,製

造業者が海外での競争を可能にするような民主党の方法を反映していた)が,深刻な不況

が保護主義者の感情を刺激し,また上院のゴーマン(ArthurPue Gorman)が政党聞の議

席の僅差が意味するのは票を失う余裕がないことを認識して,他の上院議員とともに600

以上の引き上げ改正を付け加えたため,実際には共和党の場合とウールを無税にしたこ

と以外,区別できるものではなくなった結果となった(Kenkel,Progressives, p.35.)

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19世紀後半のアメリカ関税史 81

政権は追徴税を課し,飴と鞭を使う意思を示した30)。

1896年にマッキンレー(Wi1liamMcKinley)がブレインのプログラムの中

心的部分(金本位制に基づく健全な通貨を主張,関税保護主義,互恵主義)

を参考にして,大統領選で積極的なキャンペーンを展開した。マッキンレー

自身,率直に彼の政策はブレインの教えに多大に負っていると認めている。

後にマッキンレーは互恵協定の主な共和党内の唱道者となる31)0 1897年にマ

ッキンレーが大統領になると,議会に互恵主義の原則を再び受け入れるよう

求めた。ただしその際,市場開放は圏内生産者や労働者を犠牲にするもので

はなく,アメリカが生産できないか,する必要のない品目に譲歩を与えるも

のだと主張した。マッキンレーと行政府は,西半球諸国に対するのと同様,

アメリカ輸出品へのヨーロッパ諸国の差別を減ずるようなものにも,互恵条

項を活用しようとした。 1897年のディングレー法では1.マッキンレ一法

の互恵条項が復活(ただし無税品目がコーヒー,茶, トンカ豆,バニラ豆へ

変更)2 .アーゴル(粗酒石),ブランデー,シャンパン,ワイン,絵画-彫

像について大統領は20%の関税引き下げを基に互恵的関係を拡大する協定

(いわゆるアーゴル協定)を締結する権限を有する 3.大統領はアメリカが

輸入する品目に関して20%の範囲内で関税を引き下げることにより,またア

メリカに存在しない天然品を無税品目リストに入れることにより,互恵的関

係を拡大する協定(いわゆるカッソン協定)を交渉する権限を有する(ただし

3 .は上院の批准を必要とする)ようになった32)。すなわち 1.のような西

30) Eckes, Opening, pp.73-74.

31) Terrill, The Tariff, pp.48-49.

32)斉藤忠雄「世紀交替期におけるアメリカの関税政策」東北大学研究年報『経済学』第

39巻第 4号, 1978年, 63頁。 3.のいわゆるカッソン協定は,輸入産業(生産者,労働者)

を犠牲にして,輸出を優先するタイプであり,これは産業界と共和党員の中でも協定の

価値について意見が分かれた。カッソン(John Kasson)は国内市場保護よりラテンアメリ

カ,ヨーロッパへの輸出を優先,外国市場を保護することに優先順位をおき,幾つかの

ヨーロッパ諸国,ラテンアメリカ諸国と交渉した。それらが上院批准に持ち込まれた時,

上院の保護主義者から政策批判が起こったCKenkel,Progressives, p.43;拙稿「スムート」

p.69)。

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半球諸国を対象としたマッキンレ一法タイプに加えて 2.のような条項

(主にフランス, ドイツが対象)が盛り込まれたのである33)。

以上,南北戦争期------19世紀末までに行われた関税設定方法における変革を

集約してみると,関税に関する委員会設置と大統領の協定締結権拡大(議会

から大統領への権限委譲)に向けての動きであり,両者とも通常の議会政治

におけるロッグローリングが横行し,結果として必要な産業保護を越えた無

駄で,膨らんだ,広範囲にわたる高関税となってしまう状況を是正しようと

するものであった。そこには地域利害のもたれあいではなく,一国として国

益を重視して関税問題を考えていこうとする中央集権化(地域主義から連邦

主義へ)の現象がみられ,経済状況に連動した統一戦略の模索があった。

南北戦争後を強調するか,南北戦争前を含めるかは別として,アメリカで

は農業経済から産業経済への移行は顕著で、あり, 1880年代までには鉄道マイ

ル数,工場労働者数などにも明らかに変化が現れ,アメリカは世界における

大国のーっとなった。 1870年を境にアメリカの非農業生産額が農業生産額を

上回るようになり,工業化が至るところにみられた。ビッグビジネスが台頭

し,経済的な変化とともに,都市,農村で中産階級が支配的となり,南部の

プランテーション社会は表退していった34)0 1860年から1900年までの間にア

メリカの製造業の価値は500%以上の伸びを示した。 1900年までにはアメリ

カは鉄,鋼,石炭の生産量で世界第一位となっていた。同時期,主要な農産

物である,とうもろこし,小麦,綿花,家畜の生産量は130------150%の伸びで

あった。ただし,製造業,農業のそのような伸びにもかかわらず,アメリカ

は1873------1900年間で計13年間の不況を経験し,浮き沈み緩和の手段として,

輸出拡大の重要性も認識するようになった35)。

南北戦争後の経済的変化はまさに革命ともいえるほどの激変であった。一

33) Hody, The Politics, p.176.

34) Goldstein, Ideas, pp.81-82.

35) Hody, The Politics, p.46.

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方で,繰り返される不況のほかにも,新しい出自の移民の大量流入,ストラ

イキ頻発などの労働問題も起こり,全米的な再調整が求められるようになっ

ていた。依然、として存続する州権,連邦権の併存,時には対立さえみせる両

者は新たな関係を常に求められた36)。伝統的にアメリカでは,州政府の独立

性は奨励される必要があり,阻害されるべきではないという信条があったが,

急速に進む産業社会の速度とその規模の大きさが州権の守備範囲をはるかに

越えつつあった。南北戦争期になって徐々にではあるが着実な連邦権の拡大

があった。戦争初期, 1831年以来で初めて共和党により金融政策の中央集権

化がなされ,具体的には信用メカニズムと通貨の全国統一化が実施された。

ホームステッド法は西部への居住を迅速化する新しい試みであった。建国以

来,連邦政府の主な歳入源は関税(ほかに土地売却収入)であったが,戦争期

には所得税と他の新しい内国税の賦課により,新しい財政的基礎が築かれた。

戦争が進むにつれ,連邦公務員が著しく増加し,これらの多くは農務省

(1862年設置)のような新しい連邦機関のスタッフであった。政府の大陸間鉄

道企業への様々な支援は中央集権化政策の一つであった。戦争により奴隷の

身分から解放された自由民を守るための,共和党の施策も中央集権化へ繋が

った一つであった37)。

企業への規制という点でも,アメリカは連邦政府の役割を拡大する傾向に

あった。鉄道建設の初期の段階では政府による規制の必要はほとんどなかっ

たが,横暴が目立つにつれ何らかの規制が当初は連邦ではなく州レベルで考

慮され始めた。州は様々な規制立法を定めるほか,通商規制委員会をつくり,

鉄道運用に関する事実を調査をし,広報を行うことにより,鉄道会社の横暴

を一般に周知させようとしたのだ(後に,州、|は委員会をアマチュアではなく

専門的知識を持つ人材で構成させ,恒常的なものとした)。議会はさらに一

歩進んで,鉄道の規制の必要性を前提に法案を通過させ, 1887年に最初の連

36)山口房司『多分節国家アメリカの法と社会』ミネルヴァ書房, 1999年, p.317;松尾弐

之『不思議の国アメリカ~J 講談社, 2001年,

37) John E. Findling ed., EnのIclopedia01 American Political History, New York, 1984, p.554.

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邦レベルでの恒常的な規制機関である州際通商委員会(InterstateCommerce

Commission: ICC)がつくられた。これは 5人(上院の承認の上,大統領によ

る指名)から構成され,前述の汁|レベルでの委員会をモデルにしたものだっ

た38)。

そして,中央集権化,連邦主義は議会とは別の機関,多くは行政府が担っ

ていく傾向にあったことを付言しておきたい。連邦公務員の採用と昇進に関

する改革もなされ, 1880年代には採用・昇進の基準が従来の党派的関係から

能力,科学的専門性,業績に移っていった。政治における腐敗と党派性を拒

否し,官僚的行政,強い行政のリーダーシップを通じて効率性を増すことが

求められるようになったのである。政党の影響力は19世紀末全く消滅したの

ではなく,もちろん重要な力であり続けたものの,長い目でみれば,政党の

リーダーは連邦政府の官僚に対するコントロールを失った39)。なぜならば行

政府の方が党内の確執,党間の争いを常に行っている議会に比し,組織は弱

いにもかかわらず,小さいが,よく組織されており,議会よりはるかに多数

かつ多様の国民に奉仕するので,考え方が議会よりも革新的で,国家の統一

戦略を採りやすいからであった40)。

38)山口『多分節JIp.48 ; Terrill, The Tariff, pp.41-42 ;小林『企業国家JIpp.77-79.

39) Nelson, The Roots, p.119 ; Peter Nurdulli, The Constitution and American Political De-

velopment, Urbana, Illinois, 1992, pp.125,133.建国以来から1828年までは行政職への任命

は社会的地位,一般的知識が決定要因であったが, 1829年のジャクソンCAndrewJack-

son)政権よりスポイルズ・システム(政党と選挙への貢献により連邦政府職員を任命する

制度)が導入された。同システムの弊害については,職員の絶え間ない移動からくる非効

率性, 4年ごとの行政職をめぐる争いなどに対してかねてより非難があった。が,改革

の直接の契機となったのは,ガーフィールド(James Garfield)大統領を1881年に暗殺した

人物が行政職を求めたがままならなかった人であったことから世論が湧き起こったこと

による。 1883年のいわゆるペンドルトンCPendleton)法により,段階的にではあるが,従

来のスポイルズ・システムからメリット・システム(採用と昇進が党派的関係ではなく,

能力に基づく)へと変わっていったCNelson,The Roots, p.119;有賀貞『アメリカ史』山川出

版社, 2000年, 97頁)。

40) Hody, The Politics, p.33.

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おわりに

南北戦争期"-'19世紀末の関税は現代とは比較にならないほど,財政上の理

由から重大問題であり,政党の方針,地域産業の利害の点からも関税率をめ

ぐり政治的大論争が惹起されていた。研究史上では,同時期の関税は高関税

が定着し,産業への手厚い保護がなされた独占保護関税という面が強調され

ているのが現状である。しかしながら,同時期の関税はかかる面のみならず,

制度上で変化が現れ始めた時期でもあったことを看過してはならない。

南北戦争期"-'19世紀末は,アメリカが経済面,経営面でめまぐるしい変化

を遂げており,政府のあり方も変革が求められ始めたが,関税も例外ではな

かった。集約するならば,関税に関するコミッション(委員会)の活用,関税

設定における大統領(行政府)とのパワーシェアリングであり,これらが意味

するのは1.専門性と事実収集・分析の重視 2.中央集権化,連邦主義へ

の動き, 3.議会からの権限委譲といってよく,アメリカが経済・経営面で

の変化に連動した制度を模索している姿を映し出しているのである。さらに

これらの制度上の改革は, 20世紀初頭,ひいては1934年互恵通商協定法へも

受け継がれていき,前例としての機能を十分に果たすことになる点でも意義

があろう。