RPDCA 12 RPDCA SWOT 12 SWOT...校内研修プログラム開発・実践部門 エントリー名:珠洲市立直小学校 小町成美 (平成30年度第2回次世代リーダー育成研修)
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Title 体育教師像について -明治期の教科体育を中心として-
Author(s) 神, 文雄
Citation 長崎大学教養部紀要. 人文科学篇. 1984, 25(1), p.111-130
Issue Date 1984-07
URL http://hdl.handle.net/10069/15191
Right
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http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp
長崎大学教養部紀要(人文科学篇) 第25巻 第1号 111-130 (1984年7月)
体育教師像について
-明治期の教科体育を中心として-
神文雄
Image of the Physical Educator
-Physical Education in Meiji Period-
FUMIO JIN
学制公布(5・8)の明治初期、この時期ほど教員が社会変化の先端に在った1)
ことはない、といわれている。教育の必要を感ぜず、また新教育法に不平ある人2)
々が学制の実施を歓迎しない、なかにあって、教員が社会で演ずべき役割はこ学
制が民衆の知的水準を早急に高めて先進文明諸国に追いつくという国家的必要と1)
政府の治安対策の必要とに基づいて布かれた、という事情にもよるだろう。
明治10年代に入ると中央政府の威権が確固不動のものとなり、その後の教育政
策は政府の方針に近く行われるようになった。教員にしても開花路線の惰性でし
ばらくは自由民権運動に踏みこむが、まもなく政府の制卸の手綱にかえって保守
的役割を演ずるようになってしまう。この間の事情に関しては教育令とその改正3)
にかかわる過程がかなり関連している、といわれている。
教員が民衆の前で開花の伝達の役割を効果的に演じていくためには、保守的役
割に加えて威信を保持する必要があったのである。学制によって登場した教員の4)
威信は制度による威信であり、この威信は官の権力を背後に負った役人や軍人と5)
同性質のものといってよい程であった、という。学校での三大節祝賀会など、神
聖な儀式場面の形式を整えたりすることこそは制度による指導者たる教員の、そ6)
の威信が最高度に発接される機会であった、のである。憲法公布(22・10)以前の7)
官権なるものは強大驚くものであった、のだろう。学校の教科目の首位に"修身〝
を置いたり、本論でかかわりをもつ軍隊教育をとり入れたりするのである。教員
のなかでとくに軍と結びつく背景をもたされたのは、教科・体育を担当する教員
であった。
if1匹 神文雄
教科としての体育は、まず学制の公布によって"体術〝 (実施方法を示した"小
学規則〝では体操)と称せられスタートした。しかし体操書や体操図を指導のよ8)
りどころとした形式的な徒手体操であった、といわれるように、具体的内容を示
す段階ではなかったのであろう。教育令(12- 9)によっても小学校の教科は、
読書、算術、地理、歴史、修身等が中心で、体操は罫画、唱歌、物理、生物、博
物とともに土地の状況によって授けてよい程度の位置づけでしかなかった。翌年
の改正(13・12、改正教員令)でも罫画、唱歌とともに依然として選択科目とし
て据えおかれおり、学校令(19・4)のもとではじめて正科に位置づけられ、時
間割の中に組み込まれるまでにはかなりの時間を必要としたのである0
このように随意科とされたことについての見解がある、この、体操についてい
うならば、真に全国の小学校に共通・必修の教科として学習させるほどの確固と
した内容と、その内容を適切に指導できる教員を得ることが多分に懸念されたこ9)
とが大きな理由だろう、という指摘にかなりの重さを感じてみたい。
以下、本論は"体育教師像〝について、教員の養成と教科内容の変遷のかかわ
りから追求するものである。
1教員の養成
教員養成の嘱矢となったのは体操伝習所である。外国人教師(リ-ランド・医
学博士、 AMHERST, COLLEGE出身1850-1924)を招弊し、体育研究所兼体
育教師養成所として設立(11・10)された。のち高等師範学校への改組・体操専
修科の設置(19- 4)によって廃止されるまで7年6カ月の存続であった。
このあと教員の養成は進まず、陸軍軍人を主とする専科教員の検定制度をもっ
て代用する。教育の表面上では体育科が登場するのだが、結果としては近代体育10)
を理解した教員の養成という本来的な仕事が全く忘れられてしまう、わけである。
体育教員の養成が再開される(32・6)のは体操専修科生の卒業(20- 7)か
ら12年もたってからのことであり、それも断続的なものにすぎなかった。
その推移を追ってみたい。
l)体操伝習所
体操伝習所は、日本の風俗、慣習その他国情に即した体育法の制定と、それを
指導できる教育者の養成を目標としたのであった。設立以来、 ①官費伝習生・25ll)
名、 ⑧府県伝習員126名、 ⑨別課伝習員・ 73名、計236名の卒業者を送り出した。
体育教師像について一明治期の教科体育を中心として113
表1体操伝習所卒業者
荏別
.卒 L業 期. 人員入.P所卒 業 期 間.
官甲 組 21 12- 4
14- 78年3P月
費伝 乙 組
26
13-1015- 7
1年9月
習坐 乙 組 14- 3
15二1丁年4月
1 期 15- 1 6月* 15- 7
伝
府 恒 2 期 23 15- 916- 7
Io月
- 甘一層「 17 16-1017- 6
「- 官有
習
良
「 「l層「
県 5 期
18 17- 918- 3
- 甘方
27 18- 118- 7
- 「育項
-すす 28 18-19- 3
ーl‥領事
1期 ′20 17- 9 一一甘薯自 別 2画
一甘酢
18- 322 18- 2
18- 71 万
6 18- 9 - 一つ享
費 課 頂19- 3
一頂「 1 一8丁一9- T B-I 19- 6
*府県師範学校教員**府県師範学校取調員
リーランドが残した体育上の功棟
は、修業時代を除けば日本滞在中の
3年間(11・9,日本政府から正式
に伝習所の教師として任命され、 14
・7,離日するまで)に限られてい12)
る、といわれている。
彼の離日(14-7)とともに、伝
習所の方向が転換する。このあと
(14- 9)文部省所轄学校の学生・
生徒と府県派遣の伝習員に体操術を
授けるのを目的とした。また府県伝
習員以外の自費による(別課伝習員
といっている)者の入学も許可して
いる。
2)体操修業員・専修生
学校令の公布(19- 4)を控えて
文部省では師範学校での(兵式)体
操の指導を現役士官に依存しようと
したが、実を結ばず下士官をもって
これに充てることになった、これが
体操修業員である。さらに高等師範学校に体操専修科を設置し、ここで修業員と
同じく軍人(下士官・上等兵)を対象として体操教員の養成を始めたのである、
これが体操専修生である。
<修業員・修業期間-4カ月(19* 2-19- 6)で、 20名を招募した。対象
は陸軍歩兵下士官で常備現役を離れ1カ年以内の者、品行端正にして精神気
力の体操教員たるに適する者、身長5尺2寸以上の者、年齢35歳以下の者で、
在学中の学資の支給、卒業後は文部省より指定する府県立の学校へ奉職など
を定めている>
<体操専修生・15名、修業期間が10か月(19- 9-20- 7)となり、歩兵下士
官に上等兵が追加されているほかは修業員とほぼ同じであった>
3)検定制度
学校令の制定以来学校が整備され、就学児童・生徒が増加したこともあり教員
114 神文雄
13)
が不足する、これは待遇問題が絡んで教員のなり手が減った、ことも原因してい
る筈である、そこで教員の免許規則が改正(19・12)され、爾後、検定試験がと
り入れられる、とくに体操教員にあっては軍人が合格し易い方法をとり、現役を14)
退いた予備役の下士官を利用する政策であった、といわれるのである0
こうしたなかで、 24年には日本体育会が創設される。規律、秩序、従順を教え
る尚武の体育として国民体育の徹底をはかったのであり、国民皆兵を前提として15)
軍事的訓練を重視した、ものであった。そしてその後の体操教員の検定制度のな
かで大きな役割を果すことになる。ここでその軍人優遇の変遷を辿ってみよう。
(1)試験検定制度(25- 5)兵式体操と普通体操を分離することによって、
退役軍人を優遇しようとする検定制皮であった。この制度により体操教員の補充
の速が開かれたといわれている。16)
(2)無試験検定制度(27- 3)軍人に対する優偶はつづいて、陸軍教導団卒
業生(下士官)に対する兵式体操の検定試験の免除(省令第8号)を規定するこ
ととなった。
(3)無試験検定制度(33・6)さらに規定(省令第10号)が改正され、退役
軍人に対する体操科教員免許の無試験検定の範囲が、兵式体操だけでなく普通体
操をも含めることとなった。
4)高等師範学校
体操教員の大多数が検定制度のもとで、軍人とくに下士官出身者で構成された
ことに対して、別の意味でこれを是正するための教育的配慮を加えた教員の養成17)
という方向で展開する、のだが、体操だけの専門ではなくして、修身をはじめと
する他の教科と兼ね合わせていることに大きな特色をもっている。
表2高等師範学校卒業者
名 称 人 員 期 間
官 費 体 育 専 修 科 (22名) (32-6- 34-3)
修 身 .体 操 専 修 科 (15名) (35-9- 38-3)
文 科 兼 修 体 操 専 修 科
′′
〟
(35名) (39-9- 42-3)
(16名) (42-4- 44-3)
(18名) (44-4- T 2-3)
体育教師像について一明治期の教科体育を中心として115
2教科の変遷とのかかわり
おおむね、
1)伝習所時代-1 ・軽体操、 2 ・歩兵操練
2)高等師範学校時代-1 ・兵式体操、 2 ・兵式教練に分けられる。
1)伝習所時代(ll-10-19- 4)
(1)軽体操で発足
伝習所の当初は軽体操一徒手、唖鈴、球竿木環、豆嚢、昆棒のそれぞれの演習
を総称する-を中心とした教師の誕生を目指しており、軍事的な色彩はなく保健
的な性格のものとして発足したのは周知の事実である。このことは外国人教師
(リーランド)を迎えるについて大きく貢献したのが、当時文部省の実権を握っm.
ていた、といわれる、また自由主義教育政策の推進者としても知られる田中不二19)
磨(6 -ll-文部少輔、 7・9-文部大輔、 14- 4-辞任)であったことと合致
する。
表3歴代文部大臣
太政官制
文部卿E在任期間l備考
欠
大木喬任
欠
木戸孝允
欠
欠
欠
西郷従道
欠
寺島宗則
河野敏鎌
福岡孝弟
大木喬任
明治4-9-2-明治4-9-12
同4-9-12一同6-4-19
同6-4一同7-1-24
同7-1-25一同7-5-13
同7-5-13一同9-4--
同9-4-一同10-1-10
同10-1-10-同11-5-23
同11- 5-24-同11-12-24
同11-12一同12-9-9
同12-9-10-同13-2一
同13-2一同14-4-7
同14- 4- 7-!同16-12-12
同16-12-12-同18-12-22
文部卿就任まで文部大輔江藤新平省務を管理。
文部姻欠員中、三等出仕田中不二麻呂、省 を管理。
参議兼文部脚。
文部卿欠員中、文部少輔7-9-27大輔)田中不二麻呂、省務を管理。文部卿、文部大輔欠員中、文部大丞九鬼 一、省務を代理。文部卿欠員中、文部大輔田中不二麻呂、 省務を管理。
参議兼文部卿
文部卿欠員中、文部大輔田中不二麻呂、省務を管理。
参議兼文部卿
明治14-11以降参議兼文部卿
参議兼文部卿
神文雄
(文部省・学制百年史より)
さらにリ-ランドのいう体育は、人間に必要な身体修練は健康で活動的なカラ
ダを作ることであり、その目的で作られた体操を最も適当な運動法とするのであ
る。したがって体操は教育的であり、体育の名にふさわしい存在とするわけであ
る。この思想が伝習所体育の基本的性格であったことも大きな事由といえよう。
彼の功績は、第一に人体測定法の導入実施であり、第二に徒手・手具体操を教材
として伝えたことであり、そして第三がこれらの体育法を指導し得る教員を養成20)
した、ことといわれている。
さて第-回生にあたる官費伝習生・甲組生徒(21名)の卒業とともにリ-ラン
ドは離日している。二回生乙組生徒は彼の指導は受けてはいるものの全期間に亘
ってはいない、府県伝習員に至っては直接の指導は全然受けていないわけであ
り、リ-ランドによる伝習所体育の当初の性格を受けついでいるのは官費伝習坐
にはぼっきるといってよいであろう。この意味では彼等こそ、まさに軽体操時代
の教師だった筈である。というのは彼らにしてもその末期(13・11-14* 7)に
なって教導団付きの士官・下士官から、歩兵操練の指導を受けているからである。
(2)歩兵操練の導入
歩兵操練が伝習所に導入されていた時期はその前段階を除いて、リーランドの
離日(14・7)から学校令の公布(19- 4)までの約5年間であったといってよ
いであろう。
それにしても伝習所で軽体操の教師の養成に当っていた当初から、すでに学校21)
体操として兵式を採用するような主張があり(12-10) 、文部省でもこれに呼応
するかの如く学校で"歩兵操練〝の実施を検討しているなど、 "体育教師〝の性
格を巡っては初めから複雑な構図が描かれてしまう、ここにすべての原点がある
のである。
はじめは体操伝習所と東京師範学校で放課後に課外必修として実施する計画を
立て(13- 4)ている、そのあと陸軍省から教官の派遣を依頼し(13- 9) 、 2
力月後(13・11)に教導団付きの士官・下士官を教官として、 (歩兵操棟科の)22)
授業を始めて、いる。しかし陸軍省が文部省からの教官派遣の依頼を具体的に受
体育教師像について一明治期の教科体育を中心として- 117
23)
けいれるまでには、かなりの屈折があった、らしい。それが陸軍の要請ではなく
して、文部省が国政全般からみて必要とされる軍事訓練の学校実施を、近い将来24)
実施しなければならないと一方的に判断した結果であろうと推測されて、いる。
教員養成の段階では軍に依存するものの、教育の現場では教員による歩兵体操練
の指導を計画していたわけである。
そして8カ月後(14・7)伝習所第-回生を対象として実施された歩兵操練は、
生徒の小隊学を卒業したことをもって一段落するOこの時点で教官の派遣を辞退22)
した、のではあるOところでこの第一回・官費伝習生の時代、すでに歩兵操練が
とりいれられていたという事実には、リーランド、伝習所、そして軽体操という、
これまでに認識してきた一連の結びつきについて検討し直す要素が含まれている
ようにみえる。
リーランドの在任期間は当初の2カ年から1年延長されて3カ年になってい
る。これは政府・伝習所にとって必要な人物であったに違いないからである。い25)
ま、余儀なく外人教師(リ-ランド)を解雇することについては、 --と表現さ
れる如く、単なる経済的事情に基づくものと理解してよいのであろう、とすれば、
はじめから歩兵操練をとりいれる計画をしておきながらリ-ランドを招弊したと
は考えられない。伝習所の方向転換がリーランドの解雇に由来することは一層明25)
瞭・となる、のであろう。
このような状況にあって、体操伝習所の学科課程が改正され、学科目として、
体操術、歩兵操練、体育論、生理学、となった。学科中に歩兵操練の-科が
初めて姿をあらわした(14- 9)のである。以来、体育論以下を体操術の副科と25)
呼んでいた、ということからすれば、主教科は当然体操術であるとして、歩兵操
練の"位置づけ〝についての検討も必要となる。このあと(14・10) 、在来の生
徒に初めて歩兵操練を実施したのが恐らく学校における歩兵操練実施の最初であ25)
ろう、といわれている。指導者としては前述のどとく、陸軍省からの派遣を辞退
したことでもあり、この直前(14- 7)に卒業し、伝習所の教官となった官費伝
習生(1回生・ 4名)が当った筈である。
このように伝習所における歩兵操練は、学校での軍事訓練の事前準備として着
々と進行していった。とくに注目すべき点は指導が当初の軍人から体操伝習所の26)
体操教員の手に移った、ということである。体操教員がこの時点で歩兵操練の程
度をかなりマスターしていたとみてよいのであろう。
これら一連の動きからみても時期的(12・10以降)に(森有礼による)学校体
操に兵式を採用するという主張が執掬に繰り返されていたのは必然の成り行きで
118 神文雄
あったろう。またリーランドの離日直後(14・7)であったことにも関心を寄せ
られるべきであろう。27)
兵式体操の実施にあたっては、徴兵令の改正(16・12)が影響している、とい
う見解もある。これは結果として、軍が微兵令を拠り所に学校での軍事訓練を要28)
求したように思われる、の如く、各地の中学校や師範学校で歩兵操練の実施に移29)
った、そのことの火付け役の役割を果したようなのである。
この直後(17- 2) 、文部省は伝習所に対して学校で実施する歩兵操練につい29)
ての調査命じて、いる。これに対して伝習所は歩兵操練科課程甲乙二種を復申
(17・11)しているが、のち兵式体操と改称し、中学校以上では兵式体操を魂づ
くり、普通体操は身体づくりという認識を生み出す発端である。
このように学校での軍事訓練は体操伝習所において伝習員を通して体育的に把
握され直し、歩兵操練として教育独自の立場から学校教育-登場する機会を与え
られた、のである。
2)師範学校の教科(19- 4以降)
(1)兵式体操-の移行
学校令の公布とともに、兵役のがれもあって進出してきた旧士族層出身以外の
教員たちに(文相・森有礼は)士魂をたたきこむべく師範教育を思い切り改革す30)
る。彼が師範学校は従順、友情、威儀、を備えた人物を養成すべきと説いたり、
兵式体操を奨励したのは、智体二育は頗る其効あれども、徳育は其効少なきが如31)
し、当時の風潮によってもいるのであろう。
これより以前(リーランドの来日以後) 、軽体操の普及は彼にとって必らずL
も望ましい体育ではなかったのであろう。彼にとって体育とは単なる体育(普通32)
体操のみ)ではなく、日本人を国民にまで教育する重要な手段であった、と伝え
られている。陸軍の採用していた体育がフランス式重体操(器械使用の体操)で
あったことの影響も大きかったのであろう。学校体操の普通・兵式の併立時代の
始まりである。
<普通体操とは、号令、整頓法(体操時の間隔をとる隊形)などを軍隊的に
手直しした軽体操と、歩兵操典中、生兵の部にある隊列運動を総称してい
る>
この(文相・森有礼の)改革の教育政策全般にみられる個人の否定、国家権力
者に対する絶対的信頼の傾向は、師範学校の中において十分に顕現されていたも33)
のであった、し、また師範学校生活の全般に関する問題として展開することを想
体育教師像について一明治期の教科体育を中心として119
34)
定した積極的措置として注目すべきである、といわれるように、兵式体操は徳育35)
的観点からも重視されるのである。まさに学校訓育の中心にすえられた、わけで
あり、 -教科・体育とか、 -体操教師だけに限られた狭い次元の問題ではなくな
ってしまったのである。
まずその手はじめとしては、兵式体操の司令役に立つ教師あるいは優等生に対
して"帯剣〝を認めさせた(18- 9)ことである。従来の歩兵操練からの脱皮を
図るために要求したことであろう。軍人と警察官などの制服着用者以外には認め
られていなかったこの時期に、たとえ兵式体操の司令役とはいえ、帯剣を認めさ
せたことは学校体操が一つの重大な転機に立ったことを意味していよう。
つぎは兵式体操の指導者についてである。まず(文部省から)陸軍省に対して
下士官(3名)の増員を依頼(18・10)し、このあと(18・12) 、教員たるべき36)
者を教養し卒業の後は主として府県立学校の体操教員たらしむる、こととした上
で、兵式体操及び軽体操修業員にかかわる教科・伝習要旨などを定めているo
体操修業員の場合、当初対象として擬せられたのは現役士官であった。しかし
陸軍の幹部補充の状況からしてこれは不可能であったので、陸軍省の了解を得た
上で下士官を対象に、必要な教育を施してこれに充てたわけである。
このあと高等師範学校に設けられた体操専修科(壁)の場合は、下士官に加え
てさらに上等兵にまで対象を拡大していったが、このあたりの著しい変動は目ま
ぐるしかったようである。その特質は従来の伝習員が師範学校教員を母体として
いたのに対して、現役満期直後の歩兵下士官に変わったこと、さらにその下士官37)
を卒業後本官のまま府県立学校の教員に加えた、ことである。
一方兵式体操との関連がきわめて顕著と思われるのだが、高等師範学校に士官
学校式全寮制を中心とする気質鍛練を導入し、全生徒を軍隊式寄宿舎に人らしめ
ている。これは寄宿舎に自習室、寝室、喫咽室、湯飲室を設備し、並に野外兵式38)
大体操場を設備せられて、一見あたかも兵営の観があった、埼玉県師範学校にそ
の先達をみている。校長はじめ教員、舎監までが陸軍将校の服装に類似した蛇腹39)
着立襟洋服を着用していた、という。
師範学校では皆寮制をしいた上で、兵卒と同様に日常品を校費を以って支給591
し、数名の生徒を単位とした軍隊的分団組織を採った、のである。これは寮制度
に画期的転換をもたらしたといえよう、なおこの舎別には、従来の未組織の個人
を対象とした合宿のモラルに過ぎない性格をはるかにこえた注目すべき内容が含
まれている。
120 神文雄
<19 - 5、教場内外一切の事業として気質鍛練の資に供し、就中寄宿舎及体
操に係るものを以て教場外最重の事業として之を充つべきなり、其之を資用
するには生徒をして伍を組み、隊を編み、輪換分据せしめ、其問下に在ては
上の命令に服従して順良の道を修め、上に在ては下を統御して威重の実を固
ふし、及高級生にして下級生の下に立つ者をして其及ばざる所を親切に輔等41)
し、以て信愛の情を深くせしむるを要す>
このように集団行動を中心にすえ、上級生に下級生を管理させ、併せ模範たら
しめることとしたわけで、その方法上の参考として、寄宿舎内での生徒編成法ま
でを示している。
表4生徒編成法
∠』
にコ臣t
.血1
組 組 副 組 級 萱望
良 長 長 長
什什長長
出 出 ∴ !.、二∴鵠伝
長伝長伝長二二∴出は竿二六年△生I I I I I 一 一一I
5人~8人
一二三四年年年年生生生生
三十十十十四二五人人大人1 ーi - l t i f 一一E i - I (
(学校令の研究P222より)
ここにみられる高等師範学校の形態をモデルに各府県立師範学校でも同様の展42)
開が急速にみられ、軍隊的師範教育体制の確立となった、とする見解が支配的で
ある。
師範学校の兵式体操は、絶えず陸軍現行の典範に基づいた内容を短期現役制の
趣旨に従って準備し、現役経験と指揮官相当の軍事常識もつ小学校教員の養成に43)
資することとを目指していた、わけで、このためにも義務教育に従事する教員に、
特別なる軍隊生活を実習・体験させたのである。
体育教師像について一明治期の教科体育を中心として121
このことは一定期間に限ってではあるが教員(師範学校卒業生)や中等学校以
上の卒業者の徴集が猶予されることを指しており、学校での歩兵操練の実施を帰
休条件とする事実上の"兵役免除〝と解されている。なお徴兵令が中等教育以上
の修了者を国民皆兵の原則から除外するための法的手続きとしてのみ位置づけら44 ) 45)
れていた、という指摘があるものの、予備・後備幹部養成の制度ならしめた、と
もいわれる如く、軍当局にあっても歩兵操練が学校体操のなかに受け入れられる
べき条件のある程度を満たしていると判断した結果であろう。
<短期現役制は教員の兵役上の特権としてつくりだされたものである。新微
兵令制定(22・1)の当初は、師範学校に限定して6カ月としていたが改正
(22・11)され、 6週間となった>
体操専修生の卒業(20- 7)を以って打ち切ることにした体操教師の養成につ
いては、試験検定の途を開く(19・12)ことで(教員を)確保することになって
いた。この制度にしても当初は退役軍人に対して兵式・普通の双方にわたっての
指導能力を要求していたため、とくに軍人を優遇することはなかった筈である。
しかし時の流れ(25- 5以降)は軍人経験がなければ指導できない内容をもつ兵
式体操を師範学校の訓育の中心にすえてしまう。これは検定試験の実施に際して
兵式体操と普通体操とを分離することによって具体化されるが、普通体操に向け
ての軍人に対する荷重な負担を避けるための配慮のように思われている。
この結果兵式体操は退役軍人の試験検定での合格が容易になって、検定制度は
効果を挙ることになるのだが、体操のもう一方の分野である普通体操は片隅に追
いやられるかの状況に陥ってしまう。この時期(19・12)体育が異常に軍隊に傾
斜する事態が到来するのである。
師範学校の学科及びその程度が改正(25- 7)されるのはこの異常事態に対処
するためであったと思われる。そこでは兵式体操を重視することなびに普通体操
も兵式体操と同様の方針で指導することを指示している。事実、 26年度の体操専
修免許状の取得者は44名、このうち普通体操の4名に対して兵式体操は40名を数45)
えている、という、日本体育会で体操練習所を開設したのがこの年である。軍人
優遇の検定制度はさらに進んで、無試験による検定-とつながっていく、はじめ
は兵式体操だけに限っていた(27- 3)がやがて普通体操をも含めた体操科全体
に拡大(33- 6)することとなる。
しかしこの制度は実際には書類審査がかなり厳重であったため、下士官からの
合格は年を追って困難になっていったようである。このため検定不合格者に対し
ての補習対策が講じられるようになったらしい。この点に関して、体操練習所が
122 神文雄
改称した(33・5)体操学校の学校規則が無試験検定の出願資格と同じであった
ことは本論の要旨に近いこともあり、きわめて関心が寄せられるところである。
しかし、 2 ・については翌34年取り消されたようである。
<出願資格・ 1、陸軍歩兵科士官、 2、元陸軍教導団歩兵科卒業生、 3、陸
軍歩兵科下士官任官後4年以上現役に服したる者、 4 、私立日本体育会体操
学校優等卒業生>
別な見方からすれば陸軍の教育機関が文部省によって体操教員の養成機関とし47)
て認知された、こと、また教員の性格にしても修業員・専修生時代とは大いに異
なることから、普通体操に関する素質を全く無視した検定制度となってしまった
点で格別である。
<検定制皮は体操教員に関するだけとは限らない、府県の小学校でも教員が
不足し検定制度に依存していたことは明らかである。教職に就いたか否かは
別として、免許状授与の状況は師範学校卒に比べてかなり多数である>48)
表5府県小学校教鼻教員の不足を補うための検定制度なのであった、が
免許状授与人員軍関係から体操教員-の流入に歯止めがかかっている
皮
霊 l
学校
辛(忠)
検
定(名)
33 u 13 .961
34 9 <a ,i 17 .i
35 2 .862 17 ,248
36 2 .937 13 ,961
37 3 .16 4 9 .1
38 3 ,172 0 9fiq
39 3 .190 9 ,110
40 1.906 ll .205
41 4,197 8 .444
42 4 .270 ll .(
(文部省年報による)
ことを示すのだろう。このあと(39・12) "相当教養
ある者は現行規程により実行致来候通之を教員に補任
するに何等差支なきも、相当教養無き者に在りてほ特
に学校教員たるに必要なる知識を与えたる上にあらざ49)
れば、之を教員として採用すること困難〝であった状
況からもうかがえるように、検定に合格することは難
かしく教員の不足は著しくなる。事実、兵式体操と普
通体操の分離による軍人優遇の制度は廃止されて(41
ll)しまう。
この体操教員の不足に追い打ちをかけるように日露
戦争(37・2-38・10)が勃発する。検定制度のもと、
この時期の体操教員の大多数が退役軍人によって占め
られていたのは当然である。戦争によって教練、体操50)
の教員全部ことごとく召集せられた、という有様で、
この戦争を境に陸軍は学校を軍事予備教育の場として51)
注目する、ようになる。そして体育を巡る文部省と陸軍省の確執が表面化してく
るのである。
体育教師像について一明治期の教科体育を中心として123
(2)兵式教練の誕生
体操遊戯取調委員の報告は、 M37・10・21より、 M38・11・30にいたる前後37
回の検討の結果なされたものである。
その狙いとするところは普通体操と新しいスエーデン体操との間にみられた学52)
校体操としての問題と遊戯の流行の規制の是非論が中心であって、まさにこの時
期の風潮を表わしているとみててよいであろう。この時点では決っして兵式体操
が検討の対象になっていたわけではなかった。しかしその調査事項・13項日中、
第8項(各学校体操科に関する現行規定中改正を要する事項)が問題となるので
ある。
このなかで、兵式体操は之を兵式教練と改め、歩兵操典第-部基本教練中、各
個教練、小隊教練を取りて之を課すること、兵式体操及び器械体操中その学校教
育に必要なるものは学校体操に包含せるをもってとくに教授せるを要せず、と記
していることである。
これは結局、報告にとどまって法制面での学校体操の改革につながらなかった、
しかし報告書作成の終わりに近い時間(39・10)になって、陸軍省から文部省に
対して協議(1 ・普通体操と軍隊の体操との関係、 2 ・体操教員の主体を下士官
とする問題)の申し入れが行なわれている。これは兵式体操・教練という陸軍に
とってもかなりのかかわりをもつ事項が、軍の了解なしに文部省によって一方的53)
に進められたこと-の不満の表れである、と取り沙汰されている。
この申し入れに対して文部省は、軍隊の体育と学校の体操の連係を図るための
"体操合同調査会〝の設置を提案(39・12)する。この会の活動は10カ月後(4054)
・ 9)に開始されているが調整はかなり難航した、ように伝えられている。
さてようやくまとまった調査会の結論であるが、これについては、陸軍下士の
体操教員としての採用は到底者にならぬと知って陸軍も文部案に依存なしと判っ55)
たことが要目発布になった最強の動機であった、といわれるほどである。この結
論・学校体育統一整理案CU - 9)を現場の意志を聞いて修正したものが学校体
操統一案(T元11)で、それをさらに法制化し、学校体操教授要目(T2・1)
の制定へとつながるのである。
`3兵式体操の検討
56)
兵式体操の内容は陸軍現行の典範そのものに基づいており、文部省はそのどこ57)
までが実施程度であるかについだけを"学科及びその程度〝で示した、というこ
となのである。
124 神文雄
1)制度化以前
まずの初め、伝習所第「回生を対象に陸軍から指導者を招いて歩兵操練を実施58)
して(13- 9-14- 7)いるが、各個教練及び密集教練に終始していた、という。58)
実際の戦闘に欠かせない射撃を除外していた、とはいうものの、この時期(12
9) 、教育令公布の直後にしてはかなり高度な内容を備えていた阜うにみえる。
なおこの点に関しては、旧幕時代から蜜月の関係にあったフランスの軍事顧問団59)
(第二次、 5 ・ 4来日)による影響が強かった、とする見方もある。
しかしこのあとの伝習所にあっては、軍隊からの教官の派遣を辞退した(14
7)ことでもあり、軍人でない伝習所の卒業生(罪-回生)である教官が指導に
あたって依存のない程度のものであったと判断してよいだろう。このあとには
(伝習所による)中等教育での内容が復申(17・11)されるが、そこでの4カ年
は各学年にわたっており実施するようにとの意図が充分に汲みとれる。また目標44)
を成列、中隊運動の修了においていた、というがこの程皮については卒業生に対
する特権といわれている"帰休条件〝と合わせて検討するのが適切と思われるo
この間、伝習所でも規則を改正(17- 2)してこれに対処しているが、時間、60)
内容とも、以前のもの(13-9-14- 7)とほぼ同一であった、という。
2)制度化以後
学校令公布(19- 4)のもとで、師範学校では体育科の教材として兵式体操と
普通体操とが併置され、 "学科及びその程度〝が定められ(19・5)た。のち改
正(25* 7)され、新しく銃剣道が加ったり、行軍が野外満習へと発展していっ
た。その後かなりの期間を経たあと、師範学校令(40・4)による規定が定めら
れたのである。
表6-1兵式体操の内容
体育教師像について-明治期の教科体育を中心として-
表6-2-1年次別内容(25-7)
1年各個教練。柔軟体操。小隊訓練。器械体操。
前学年に準ずるはか2年中隊訓練。銃剣術o
野外演習。兵学大意
鋒)前学年に準ずるO
表6-2-2年次別内容(34-5)
125
ここで歩兵操典からその程度を探ってみよう。生兵学は未教育兵に対する一般
教育であって、新入営兵を一個の意志なき戦闘具ともいうべき心情なき兵士に変61)
質せしめるべき、 4つの基本的内容(精神、術科、学科、内務)に分たれている。
精神教育は、有形無形の鍛練によって軍人としての情意をつくり、尽忠報国の
赤誠を養い、軍人教育の真髄とするために講ずる教育で、とくに勅諭を奉銘記し
て、将兵一人一人に徹底させた。軍人は行往坐臥、常に勅諭の趣旨を体現して生
きることを強要された。
<勅論は前文において軍人の天皇直卒を明確にし、本文において軍人の練磨
すべき徳目として、忠節、礼儀、武勇、信義、質素を示し、後文ではこれら
を誠心もって貫くことを論している>
術科教育は、主として教練、武技、そのほか軍人、軍隊に必須の技能、体力を
向上させるための教育で、兵式体操・教練はここに含まれている。
内務教育は、軍紀の根源で兵営の生活に必要な教養に慣熟し、軍務に専心、死
生苦楽を共にする起居の問に軍人精神を渦養し、輩固な軍隊の団結を完成させる
ための教育である。敬礼法(室内・外、入・退室など)にはじまり、起居の定則、
服従など、軍隊にかかわる基礎知識がたたきこまれるのである。
学科教育は、軍人、軍隊に必須の知的能力を付与し、各種教育の成果を整理す
るとともに、精神、術科、内務の各教育の進歩を補うものである。
この実施にあたって、軍隊にあっては教育年度(12月1日-11月30日)を3期62)
に分け、各期の終わりにその成果を調べ、進歩を促すための検閲を行っていた、
という。
126 神文雄
表7一般教育年次表
敬 第 一 期 第 二 期 第 三 期
初 当初より3カ月間 当初より6カ月間 年度末まで
課
目
各 個 教 練 第一期の課目 第一.二期の課目
連 隊 教 練
師団秋季演習
体 操 作 業
銃 剣 術 大 隊 教 練
射 撃
中 隊 教 練
陣 中 勤 務
諸兵連合演習
(日本の陸軍P89より)
学校での場合は、精神教育と術科教育に重点がおかれていたようで、教員、と
くに体操教員が積極的役割を果していたことは、この時代、勿論の事実である。
術科教育の初歩にあるのが各個教練である。時代を問わず、 1 ・徒手教練、 2
・執銃教練・行進が中心いなっているO徒手教練の基本には、不動の姿勢、右
(左)向、半右(左)向、後右(左)向、などがあり、現在の体育の授業でもこ
の程皮のことは充分に行われている。また執銃教練は、担え銃、立て銃をはじめ
世上いうところの軍事教練の内容にかなり近ずいているようにみえる0
各個教練のあとは密集教練である。号令に従って衆心一致、その挙止があたか
も一体のように行動することで、規律を厳守し、秩序を重んじ、協同・団結を尚63)
ぶ習性を養うのが目的で、小・中隊教練の項目に入れられている。凡そ30-40人
(小隊)から140人-150 (中隊)前後の集団行動となる。
行進に例をとれば、 1歩の幅を鐙から霞まで75CM、速度は1分間に114歩と64)
基準を示している、ほどである。このほか、折敷、蘭画前進などの訓練も含まれ
ている。
密集訓練はさらに(小・中隊教練では)隊形との二つに分かれ、隊形では縦
隊、併列縦隊、小・中隊縦隊での、集合と運動がある。また密集は縦隊から横隊、
横隊から縦隊への転換などがあり、やがては行進や行軍に応用されていった。し65)
かし、実戦に欠かせない散兵(戦闘)教練までは要求していない、程度にあった。
もしこの程皮を超えるとなると、かなり本格的な軍事教練に踏みこむこととな
る。
体育教師像について一明治期の教科体育を中心として- 127
号令もここにいれてよいだろう。各個教練や小・中隊教練で(隊形を指示し
て) 、気を付け、右へならえ、集れ、解れ、などが令せられるのだが、そのまま
体育の授業に移行したようにも感ぜられるo
行軍は作戦行動の基礎となるものである。のちに長途の行軍のための"行軍演
習〝を重視しているように、その計画の適切、実施の確実な行軍は諸般の企画に66)
よい結果となる要素なり、なのである。凡そ休憩時間(10-15分)を含んで1時
間約4 KMを標準としていたというなど、その後の学校での"長途行軍〝や"遠足〝
などの誕生をみることとなり、やがて"野外演習〝 -と飛躍していった。 "修学
旅行〝もこの流れに沿っているとする見方もある。このあたりまでは下士官出身
の教員・体操教員にとっても、無難にこなし得る程度であるように思われる。
しかし兵学や測図にいたっては戦闘に関する諸原則など初級将校に要求される
戦術内容や同水準の技術修得を目指しているようでもあり、かなり荷重な負担で67)
あった、ように恩われるのである。
まとめ
近代体育は体操伝習所を中心として確立されていったが、当初は軽体操を主と
したものであった。この"保健的性格〝に基づくところ、自ら、そこに"体育数
師像〝が理解できる筈である。しかしこのあと、学校体操は歩兵操練から兵式体
操-と進んでいく。ここで徒手教練はまだしも執銃教練がとりいれられたこと自
体、またそれが密集教練にまで拡大するにいたっては、 "富国強兵〝の国是その
ものが充分にうかがえてくる。体育教師養成の創成期のこととはいえ、軍隊的色
彩が濃厚であったことは否めまい。
そして20年代、兵式体操が導入され、制度化されるとともに"下士官的教員68)
像〝が確立されていく、この過程が鮮明に描かれてくるなかで、体操教員の資質
の変化が体育教師についての認識を根底から覆えしてしまった。この点を重視し
なければならないのである。
また国民教育に従事する師範学校の卒業生は一通りの現役経験者でなければな
らないし、それも兵ではなく、指揮官相当の身分で児童・生徒に臨めるだけの、69)
最低限の軍事的教養を持たねばならなかった、という状況におかれてしまう。こ
のような時の流れは凄まじかったのだろう。兵式体操と皆寮制を重視した結果の
≠師範的教員像〝に合わせて一ここに、 "下士官的体育教師像〝が符裸として浮
び上ってくる。以来、このイメージが否応なしに定着してしまう。これが明治期
iJ別] 神文雄
の≠体育教師像〝としてとどめおかれるヽ典型である〝と結んでおきたい。
注・引用参考文献
1石戸谷哲夫・日本教員史研究・講説社、 S44、 P33
2高橋便乗・日本教育文化史(3)講談社、 S53、 P120
3倉沢剛・教育令の研究・講談社、 S53、第六章ほか関連した文献にかなり詳しく記
述されている。
4前出1のP40
5前出1のP43
6前出1のP141
7川瀬一馬・日本文化史、講談社、 S53、 P289
8井上一男・学校体育制度史(堵柿版) 、大修館書店、 S45、 P6
9今村嘉男・リーランド博士、不味堂、 S53、 P13
10岸野雄三:竹之下休蔵・近代日本学校体育史、日本図書センタ-、 S58、 P13
11資料によってかなり相異しているが、ここでは名渓会名簿によっている。
12前出9のP55
13前出lの?m
14木下秀明・兵式体操からみた軍と教育、杏林書院、 S57、 P92
15上沼八郎・近代女子体育史序説、不味堂、 S47、 P26
16前出10のP41によれば(29・12)となっている。
17前出14のP90
18前出3のP50
19海外教育事情の視察から帰国(6・3)したあと、文部少輔.大輔となる。文部卿
不在期間(6・4-12-9)の、尤もこの間、木戸孝允(7・1-7・5)、西郷従
道(ll - 5-ll -12)が就任しているが、実質的な省務管理者であった。 (裏3参照)
20前出9のP55
21木下秀明・日本体育史研究序説、不味堂、 S46、 P125
22前出9のP38
23前出14のP29
24前出14のP32
25前出3のP416、ただし非公式には札幌農学校であったろう(前出8のP14)といわ
れている。
26前出14のP31
27大江志乃夫・徴兵令、岩波書店、 S56、 P72-73
体育教師像について一明治期の教科体育を中心として129
28前出14のP34
29前出14のP35
30前出1のP86
31海後宗臣・教育小史、講談社、S53、P154
32前出10のP31
33村上俊亮:坂田吉雄・明治文化史3、教育道徳、原書房、S58、P184
34前出14のP81
35前出8のP28
36前出3のP872
37前出3のP873
38町田則文・明治国民教育史、日本図書センター、S56、P197
39前出39のP200
40前出34のP183
41倉沢剛・学校令の研究、講談社、S53、PofciC42前出14のP69
43前出14のP124
44前出14のP40
45枚下芳男・徴兵令制度史(増補版)、五月書房、S56、P547
46前出10のP41
47前出14のP93
48前出10のP99
49永井道明・余が68年間の体育的生活と其の感想、師範大学講座・体育・5、建文堂、
S56、P35
50前出48のP20
51前出14のP134
52前出14のP136
53前出14のP137
54前出14の第4章P136-139に詳しい
55前出48のP37
56体操教範、歩兵操典、射的教程、野外演習軌典などがある。
57前出14のPIO6
58前出14のP30
59篠原宏・陸軍創設史-フランス軍事顧問団の影、リブロポート、S58、第11・ユ2章に
詳しい
80前出14のP37
61鈴木庫三・軍隊教育学概論、目黒書店、S18、P51-E
130 神文堆
62寺田近雄・昭和の陸軍、日本放送出版協会、 S56、 P88
63前出61のP164
84前出61のPl16
65前出14のP41
66旧陸軍作戦要務令・第六編行軍・通則第259
67前出14のP87
88前出14のP82
69前出14のP123
(昭和59年4月27日受理)