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Kobe University Repository : Kernel タイトル Title <資料>中世初期のポーランドにおける都市的中心地の成立と遠隔地 商業 : 最近の研究成果によせて( La Genese des Centres Urbains et les Echanges a Grande Distance au Haut Moyen Age de la Pologne : D'apres des Ouvrages Recents) 著者 Author(s) 山瀬, 善一 掲載誌・巻号・ページ Citation 国民経済雑誌,114(6):91-103 刊行日 Issue date 1966-12 資源タイプ Resource Type Departmental Bulletin Paper / 紀要論文 版区分 Resource Version publisher 権利 Rights DOI JaLCDOI 10.24546/00170951 URL http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/00170951 PDF issue: 2021-08-17

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タイトルTit le

<資料>中世初期のポーランドにおける都市的中心地の成立と遠隔地商業 : 最近の研究成果によせて( La Genese des Centres Urbains et lesEchanges a Grande Distance au Haut Moyen Age de la Pologne :D'apres des Ouvrages Recents)

著者Author(s) 山瀬, 善一

掲載誌・巻号・ページCitat ion 国民経済雑誌,114(6):91-103

刊行日Issue date 1966-12

資源タイプResource Type Departmental Bullet in Paper / 紀要論文

版区分Resource Version publisher

権利Rights

DOI

JaLCDOI 10.24546/00170951

URL http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/00170951

PDF issue: 2021-08-17

資 料

中世初期のポーランドにおける

都市的中心地の成立 と遠隔地商業

- 最近の研究成果によせて-

山 瀬 善

古スラヴ民族の歴史的研究は,ソ連史学界ならびにポーランド史学界の戦後の活発な

研究活動により急速な進捗を示している。この成果は,報告的史料にほとんど頼 りえな

い時代のこの地において,大規模な考古学的発掘と調査に待つところ大であった。ここ

では,ポ-ランドの都市的中心地の成立と遠隔地商業に関係する最近の研究動向を若干1

の業緒を通じて紹介することを目的とする。

戦前既にポ-ランドの研究者は考古学的研究に多大の関心を示し,スラグ民族の物質

文化の遺物を専 ら研究する研究所の設立をもみていた。戦後,国家の組織替えにおよび

新たにこの方面の研究に重要性が与えられ,研究所も国家の貴重な協力を受けるに至っ

た。さらに,戦争による多くの場所の破壊は,再建に至るまでの期間を考古学的発掘に

利用する機会を与えた。ポ-ランド建国1000年の記念 (1963)を迎えるにあたって,国

民的感情の盛 り上が りがあ り,自生的文化の連続性に国民的関心が払われ,この方声の

研究を著しく高めた。このような結果が,西 ヨーロッパ諸国の研究者の注目を集め,特

にフランスにおける L'EcolePratiquedesHautesEtudesの第六部 (経済 ・社会学)と

1 都市的中心地の成立については主として,

FRANCASTEL,P.(td):Lesoriginesdesvillespolonaises,(Congrとsetcolloques,ⅠⅠ),Paris・La

Have1960;GIEYSZTOR,A.:"Leoriginidellecittanella PoloniamedievalC,"in Studiin onore

diArmandoSapori,Ⅰ,Milano1957,pp.127esegg.;LUDAT,H.;"FrtihformendesStadtewesensin

Osteuropa,"inStudienzudenAnfangendeseuropaischenStadtewesens,(VortrageundForschungen,

IV),hrsg.V.Th.MAYER,Lindau・Konstanz1958,SS.527a.

遠隔地商業については主として,

WARNKE,C.:DieAnfangedesFernhandelsinPolen,(MarburgerOstforschungen,22),Wiirzburg

1964;GIEYSZTOR,A.:"Lesstructures占conomlqueSenPaysSlavesa・1'allbedumoyenagejusqu'au

XIesiとcleetl'占changemon6taire,"inMonetaescambinell'altomedioevo,(Settimanedistudiodel

centroitalianodistudisull'altomedioevo,ⅤⅠⅠⅠ),spoleto1961,pp.455esegg.

92 第 114巻 第 6 号

他の機関が肝入 り役となり,ポ-ランド,フランス,ベルギ-, ドイツの研究者を交え

た モポーランド都市の起源ミについての国際学会が,1957年 6月 4-6 日に亙 リパ ))で2

開催される運びとなったのである。

ヨーロッパの中世都市の研究が,一方では個別都市の細密研究に,他方では比較史的

視野に立つ相互関連の研究に進んでいる時に,ポーランド都市の起源についての業績は,

ソ連の研究者によるロシア都市の起源の研究とともに,いまやスラヴ都市の成立に関す

る共有財産となって,ヨーロッパ中世都市の研究の発展に貢献しているのである。

ポーランド都市の起源については,古くは ドイツの植民活動によってもたらされた ド

イツ法に従う locatiocivitatisが,求-ランド中世都市の最初p ・本源的事実であると

いう見解が受け入れられていた。制度史家は挙ってこの見解に賛意を表し,多くの点で

都市法に比較しうる locatio文書が商業ならびに自治都市制度の特権を賦与する以前に

は,酉スラヴ族の都市的中心地に 「都市」という名称を与えることさえ拒んだ。このよ

うにみるならば,ポーランドには,十三世紀以前には 「都市」は存在せず, ドイツの植

民活動とともに 「都市」が成立したことになる (植民説 Kolonialtheorie)0

制度史家のこの見解については,戦前既に再吟味が試みられていたが (発展説 Evolu-

tiontheorie),それは 「国家主義的」動機に支配されることが多かった。ところが,植民説

-の批判は,戦後において,一方ではソ連学界の影響を受けて 「イデイオロギー的」動

機に肩代 りされ,他方ではヨーロッパの社会 ・経済 ・法制の比較史的見地から,スラヴ

民族居住地に実在した都市的性格を備えた経済中心地とその連続物を,以後の都市発展

にみられるこの地の固有性と関連させることから展開されている。

その批判動機はいずれにあったにせよ,locatiocivitatis以前に存在した都市的中心地

の研究は,1930年代以降 Santok,Opole,Wolin,Poznan′Gniezno などの発掘を以っ

て始められ,ついで戦後には更に広範 ・継続的な調査によって次第に明るみに出されて

来ている。戦後のこの種発掘調査は,その目的が単に都市的中心地それ自体の解明にあ

るのでなく,さらにポーランド国家ならびに社会の起源とい うより広範な問題にかかわ

らしめられるに至っている。

報告的史料に額 りえないで,考古学的研究にのみ基づく歴史像の形成は,取 り扱いの

方法に慎重さを欠 く場合,往々にして大きな誤謬を冒す恐れがある。このため,史学者と

考古学者とが緊密に協同し,方法論上の問題について十分に吟味することが必要である。

求-ランドでは,この問題についてしばしば活発な議論が交わされて来た.これが,覗

在ポーランド学界が,考古学的史料の歴史学-の利用の面において,世界でも優れた国

2 この国際学会の報告論文集が,FRANCASTEL,P.(6d):Lcsoriginesdcsvillespolonaises,(Congrとs

etcolloques,ⅠⅠ),Paris・LaHave1960である。

資 料 93

の一つに数えられている理由でもある。前述のフランス七の モボ-ランド都市の起源モ

についての国際学会も,考古学的史料の歴史学-の利用についてフランスの学界に刺激

を与える一つの機会を目指したものであることは,学会報告論文集に載せられている学

会の主催責任者 P.FRANCASTELの言葉によっても知られ うる。

史学者と考古学者の協同によってもたらされた発掘調査の成果は,制度史家のいくぶ

ん誇張された形式的要求を放棄して,社会経済史的領域で農業社会から区別された都市

的中心地を意義づける必要を認めさせたのである。このことの必要性紘,1124-8年頃に

由来するBambergの司教 Othonの西部ポメラニア-の伝道についての報告的史料から

も結論しうることである。そこでは,農村とは区別されて,防備をほどこした場所に主

君とその保護民- 手工業者と商人- が密集して居住し,市民的生活を営んでいる様

子がはっきりと述べられている。かくして,Gdansk(Danzig) の発掘にたずさわ り,こ

の方面におけるポ-ランドの最も優れた専門家の一人 K.JA乞D乞EWSKIも, 農村社

会から区別された都市的社会を認識するために,またこの種都市的社会が演じた役割を3

世界史的舞台のなかに余すところなく登場させるために,研究の実際的経験から都市と

看徹しうる基準を社会経済的機能に求めている。かれは 「第-に問題になるのは都市の

機能であって,法的 ・構造的形態ではない。後者は明らかに重要な要素ではあるが,と4

にかく二次的なものである」となし,都市と看倣しうる基準を次のように定式化してい

る。

「1 -定の場所に住民集団が集中しており,その集団は諸階層に分れ,生産活動を展

開し,既に職業の諸分野に専門化した者- 手工業者,商人,坑夫,漁夫,船乗 り-

-をもっている。このことは,このような定住と交換に基づく諸関係によってそれと

結びつい七いる周囲農村から極めて明確に区別するものである。

2 行政 ・軍事 ・宗教の中心の存在とか,また芸術的あるいは往々科学的生産の存在と

かを証明する人物およびもろもろの施設の集中。

3 JA2:D乞EWSKIは,ポーラソドの研究者が都市に関する形式主義的概念を拒否することについて,

次のように述べている。 「西ドイツの碩学 (E・ENNEN,H・PLANITZ) のヨーロッパ一般,特に

ドイツにおける中世の都市中心の形成と発展に関する最近の業績にみられるある形式主義的概念を

受入れることをポーランドの研究者は拒否する。このような業績は,しばしば重みのあるそして著

しく興味のあるものではあるが,中世高期のスラグ都市の役割と発達には一言も触れないとともに,

スラグ研究者によってこの問題についてなされた研究の成果と公刊物を無視している。」

(FRANCASTEL,P.:Lesoriginesdesvillespolonaises,pl79)

4 Ibid.,p.79.

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3 住居が道路,広場,市場の規則的な体系を伴なってお り,その全体が防備物と公的5

性格の構築物に結びつけられている密集した永続的集落。」

このように都市を規定する限 り,求-ランド都市の成立もまた一般的 ・経済的 ・社会的

発展に密接に結びついて,中世の全ヨ-ロツパに作用した都市化-の巨大な過程の-酌

と看倣され うるのである。

では,ポーランドの領域で,最初の都市的要素が出現する時代を何時におくことが出

来るか。ポーランドのある研究者はこの時期を八~九世紀に,そして他の研究者は十世

紀中頃におく。例えば, JA乞D乞EWSKI などは前者の見解をとり,経済的 ・政治的活

動の特に活発な地域,先ず Gniezno,Poznan,Kruszwica の地域に,ついで Oder河

口地域 (Wolin,Szczecin(Stettin))に,そしてVistule(WelChsel)河上流地域 (Cracovie,Wislica,

Stradow,Opole)に最初の都市的要素を認めようとする。ところが,ポーランドにおける

中世都市研究の第一人者 A・GIEYSZTOR などは,都市文化の特徴的要素の出現をよ

り後の時期即ち十世紀中頃以後に求めている。かれもそれ以前に小中心地の存在を認め

るのであるが,大部分は真の都市時代の黍明期に消滅したとなし,例外として Oder河

口の Wolin を挙げるが,住居の連続は九世紀以来保証され うるものの,その性格は初

期において極めて不分明であるとなす。結局,GIEYSZTOR は,十世紀後半以来,そ

して一層明瞭には十一世紀に一般的変化を容認し,この一般的変化のなかに都市文化の

生成をみようとするのである。

都市文化の全容を知りうるに足るほどの考古学的史料を提供する最初の都市的中心、地

は,Gdansk と Opole とである。この両中心地の史料は,年代的にみて十世紀後半よ

り以前には遡 りえない。GIEYSZTOR も例外として連続性を認めた Wolin と,さら

に Gniezno の考古学的史料とに,たとえそれらが包括的なものでないとはいえ,十分

な価値を与えるならば,JA乞D乞EWSKI の見解が意義をもつ 。この二つの場所は疑い

もなく九世紀の初期に由来する防備壁で囲まれ,その壁は九世紀末には既に十分に拡大

されていた suburbia に結ばれていた。九世紀の前半に Wolinで観察される住居の著

しい桐密状態からみて,ここの suburbiaも同様に当時防備壁をもっていたものと推測

され,現に十世紀の後半にその残存物が窺われる。住居形態,木で舗装された街路と小路

の有 り様は,二つの九世紀後半と十世紀後半の報告的史料 (VitaSanctiAnsgariiaRimberto

… ...concripta,MGH,S.S.,Bd.Ⅱ,p.704;RelacjalbrahimaibnJakubazpodr6左ydokrajdws‡owi-

aaskichwprzekazieAl-Bekriego(Al-Bekriによって伝えられたスラグ民族についての Ibrahim ibm

S Ibid.,p.79.

資 料 95

Yaquoubの報告),Monumentapoloniaehistorica,serieII,t・1,p・50)の言及を裏書きするもの

であり,手工業 (黄コ-ク ・金属 ・ガラス ・櫛細工人および船大工)の存在も具体的証

拠によって証明せられる。かくして,W olinは十世紀中頃以前に十分に都市化が進んで

いたものと推測してよかろう。しかし,W olin,Gniezno の発掘物が必ずしもその全容

を示す規模のものでなく,多 くの推測を必要ならしめるし,また,たとえ都市的性格を

もっていたとしても,ポーランド全域について一般的なものであるとは思われない.こ

こに多くの史学者と考古学者がこの時期のポ-ランドにおける都市的中心地の存在を肯

定しえざる理由がある。

ところが,十世紀中頃を転機として都市的中心地たることを明確に確認しうる史料が

増大する。Gdansk と Opole についてこれまでなされた輝かしい発掘調査は,正にこ

の十世紀後半における都市的中心地の存在を,しかもその全容を遺憾なく示した。他方,

この時期における M ieszko 一世によるポーランド統一とその勢力拡大とい う政治的事

件,それと結びついた社会的変化は,これらの事件と関連して都市的中心地の一般的出

現を極めて容易に理解させるものである。いまや,ポーランド学界で,十世紀後半にお

ける都市的中心地の存在- それが出現を意味しようと,また深化を意味しようと-

は,疑 う余地のないはど明確なものとされるに至っている。

現在,考古学的史料から認識されていることは,十世紀中頃以来 castrum および村

落 とならんで当時の史料で suburbium と呼ばれていた居住の新しい形態が, ポーラン

ド全域に既に規則的に散在していたことであるOささやかな中心地でさえも固有の地方

市場- 明らかに極めて小規模のものであるとはいえ- をもっていたように思われる。

castrum のそばにおかれた都市的地区は,住民の著しく多くが農業に従事していたに拘

らず,公,城主,駐屯兵はもとより,近傍村落に工業製品を供給していたし,香移的製

品については,驚 くほど広範な流通圏をもっていたと考えられる。

このような都市的中心地が,果たしてどのように出来上がったかについて, GIEYS-6

ZTORの描 く姿に眼を向けてみよう。 中世初期において,スラヴ民族の居 住 地域 に

grod,gorod,grad,hrad,gard と呼ばれた城壁で取囲まれた場所が現われ,ポーランド

でこの種の最古のものは六~七世紀に遡ることが出来る。その社会的役割については,

6 ここでは,A・GIEYSZTOR の前掲論文,ならびにかれが都市生成について特別な関心をおいて

いる農業と手工業の分業過程を中心に,都市と農村の関係を取扱った "Villesetcampagnesslaves

duXeauXIIIesiとcle,''dansDeuxiとmeConf丘rencelnternationaled'HistoireEconomique,(Aix-en-

Provence),Paris1965,pp.87sqq・を参照する。

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論争が交されたが,結局部族・氏族の避難場所として長い間認められて来た。GIEYSZ-

TOR は,このようにすべての gorod を同一種類と看倣すことに反対し,そのものの

構築に要する労働力とその場所の面積との間の不釣合からして,支配者の居住場所とし

ての機能をもつ CaStrum も含まれていたのではないかとみている。ついで,このca5trum

の脇に役務に服する者と手工業活動に従事する者の居住する小中心地が形成された。最

近の調査では,既に八~九世紀の Biskupinの小 castrum はその直ぐ近くに鍛冶工と陶

工が住んでいた若干の家屋からなる小集落の存在が明らかにされた。都市前史において,

特に興味を惹くのは,公の代官の権威に臆し,農業と手工業とを兼ねていた者によって

住まわれた村落の存在である。その住民は生活の基礎を農業においていたが,靴,樽,

楯,矢,車などの手工業的給付をなすべく義務づけられた。この種の集落は,靴工を意

味する sutores(Szewce)という地名をもっており,その出現は大体において十~十一世紀

に遡る。この現象は,他面において,大土地所有特に公のそれにおける生産の増大と分

業化を反映しているものといえよう。考古学的史料に容易にみられるところでは,十世

紀の中頃は農業の否定しえざる進歩のあった時期であり,この頃に冬小麦の広範な導入

とか,諸種の穀物栽培とか,牧畜の発達とかがみられ,このような条件の下で,農業経

済は必然的結果として隷属制と大土地所有の発展をもって強化された。隷属下におかれ

た農民は苛政諌求されたとはいえ,経済的創意を発揮しうるある程度の,おそらく十分

に大きくさえあった可能性をもっていたように思われる。

castrum のそばに設けられた suburbium に居住している住民の社会状態について,

残念ながら明確にはほとんど知ることが出来ない。若干の暗示および十一世紀中頃のチ

ェック族の文書によれば,そこには隷属的手工業者が極めて多かったことを推定しうる

であろう。しかもこの手工業者は,自己の計算でその生産物の大部分を販売しえたもの

と患われる。castrum の周囲は農村の手工業者を吸引し,かれらに,ほとんど常に専門

労働に従事し,農業を放棄する可能性を与えた。考古学的史料から判断して,最初に手

工業生産の分化は,先ず長時間の操作とか,完備した設備とかを必要とした業種 (例え

ば冶金 ・金属工業)にみられ,ついで,陶器 ・靴 ・織物 ・骨角細工工業に現われた。農

民にせよ,手工業者にせよ,その身分が隷属的なものであろうとしからざるものとに拘

らず,経済的創意を示す機会に恵まれていたといえよう。

地方的な可能性と必要性とから結束した都市生活の萌芽とならんで, 等しく subur-

bium の形態をとっているが,著しく異なった構造と広範な活動半径をもって生産と商

業を営んだより都市化された中心地が存在した。そこでの生産物は,住民のうちの富裕

な者の使用に供せられる商品,即ち蒼移品からなっていた。このような中心地は,Wolin,

Kolobrzeg,Gdansk,Poznan,Kruszwica,Wroclaw,Opoleなどである。

資 料 97

現在の考古学的史料からは,まだ各々の都市的中心地がもつ異なった構造の諸特徴を

明らかにすることは出来ないし,それらの中心地の経済圏,特に手工業のそれを測るこ

とも不可能である。しかし,それにも拘らず,十世紀末以来十分に発達した交換を物語

る史料が存在する。それは,先ず多数の埋蔵貨幣である。これらの埋蔵貨幣の経済的意

義は,種々な分析を待って初めて明らかになるのであるが,貨幣の交換手段としての機

能も,価値貯蔵ならびに価値尺度の機能とともに認めなければならない。さらに,Opole

では,ガラス,石灰岩,鉄,青銅,鉛から作られた小塊の形態をとった多数の重量単位

が発掘されている。また,外来商人の植民地が早くから設けられていた。最近明らかに

されたヘブライ語の史料によれば,十一世紀の黍明期における Przemysl(ポーランド

とロシアの境界にある)に居住していたユダヤ人とイスパニアのユダヤ人との間に商業

的 ・宗教的関係が保たれてお り,われわれの好奇心を誘うに十分である。同じ十一世紀

初頭の Thietmarの史料は,悪人を罰する ponsmercati(市場橋)をもつ市場の存在

を物語っている。

十一世紀後半,更に一層十二世紀になると都市的中心地は増大し,suburbium となら

んで生産と交換の小中心地 miasto(miejsce)(ラテン語のIociに相当)をも加えた。他方,

封建国家ならびに特権を与えられたもののために,通行税,市場税の制度が現われた。

これまでの一般的見解に反して,都市的中心地は十二世紀には既に完全に司法上の ・行

政上の組織化を目指す iusforenseをもっており,これが iudexloriや villicusによっ

て通用された。この法は西ヨーロッパにおいても十分に知られている方法に従って発展

して行ったのである。いわゆるドイツ法の形態の下でポーランドに拡がった十三世紀の

iuscivile は, 十一世紀および十二世紀の都市的中心地によく知られ,有効に作用した

ilはforiと ius mercatorum から派生したのである。商人にとっての免除特権の保証を求

めて,商人に iusmilitare(-貴族法)を与えるにさえ至ったのである(例えば,1237年

の Plockで)。しかし結局は, ドイツ流の都市法の形態が優越することとなった。これら

の都市的中心地の制度的基礎が,求-ランド法からドイツ法-推移した事実は,疑いも

なく極めて深い新しい変化を意味するものであり,その変化は,また十二~十三世紀の

経過中におけるポーランド経済の発展のなかに求めなければならない。この経済的発展

は,確かに ドイツ商人およびその商業資本に負うところ大であるが,これを過大視して

はならない。かくして,GIEYSZTOR は 「社会的分業の端緒から中世における可能な

限 りのその完成,即ち自治権をもつ市民都市の形成まで中断することのない発展を都市

の歴程に保証することの出来たこの国の経済発展に,研究の努力をいまや向けることが7

より正しいように思われる」と述べている。

7 Ibid.,p.26.

98 第 114巻 .第 6 号

前節で,GIEYSZTOR の描くポーランドの中世都市生成の過程を紹介して来た。こ

の過程において十世紀中頃が最初の一つの大きな転機になっていることが理解される。

それ以前の時代との連続性の問題はとにかくとして,この時期を転機と看倣すことにつ

いては,現在のポーランド学界を始め,ほとんどすべてのポーランド研究者の異論のな

いところであろう。この時期は,政治的に Piasts家の Mieszko一世によるポーランド

の統一とそれに続 く拡大がなされた時であり,他方経済的には農業技術の革新が行なわ

れるとともに,北ヨーロッパ全般に亙る遠隔地商業構造の変革をみた時でもあったから

である。これら三つの要素は,それぞれ孤立したものでなく,相互に関係をもっている。

ポーランドにおける都市的中心地の出現は,正にこれら要素との関連において解釈され

なければならない。それにしても,それぞれの要素の果たした役割の軽重について各研

究者の見解に相異がみられる。ある者は農業とそれに基づく地方商業を強調し,ある者

は遠隔地商業を重視し,またある者は国家の組織化に重点をおく。

いま,前述した1957年の ミポーランド都市の起源モについての国際会議における討論

の内容から,都市起源の問題に関する発言の若干に注意を向けてみよう。ポ-ランドの

M.DEMBIhsKA は,遠隔地商業のみから構成される都市は短命であり,それは常に地

方市場に結ばれなければならないことを主張し,Oder河口の Wolin が十世紀初期以

来ほとんど消滅の状態におかれるのに反し,肥沃な農業生産地に取巻かれたSzczecimが

永続したことを例示する。女史にとってほ,「大規模な世界商業は集落の発展の要素を構8

成しうるが,都市生成の十分な原因ではない」のである。これにたいし,フランスの G.

DUBYは,都市発展に関して内在的要素と外在的要素を区別し,外在的要素である遠隔

地商業に動因としての意義を認めようとする。単なる農村的小集落のみでは都市となる

ことは出来ない。二つの構造即ち農業的構造と商業的構造が必要なのである。この二つ

の構造が平行して発展する間に,両者が接触し合い,結び合い,湊透し合 うのである(con-

tact,rapprochement,comp6netration)。都市と呼びうるものは,正に湊透し合った証拠物なの

である。かくして,簡単に公式化してvi11eagricole+villecommerciale-villeと表示す

るO農業に深い関心をもっている DUBYは,さらに農業技術の変革と集落の発達との

関係に留意して,求-ランドとフランスとの類似性を指摘する。もっとも彼はフランス

における半農村的小集落を考えているのであるが。ポ-ランドでは十世紀中頃から農業

進歩の第一段階がみられたことは既に述べたが,G柑YSZTOR の示すところによれば,

ドイツ人の植民および ドイツ法の継受が行なわれる以前の十二世紀の問に,農業技術の

8 Ibid.,p.220.

資 料 99

観点から決定的時期があった。それはカロリング時代以来西 ヨ-ロツパに知られた中世

型有輪鋤が拡大したことで,それ以前はゴール型の無輪型 (aratrum).が用いられていた.

ベルギーの Y.DHONDT は,二つの都市即ち農業に関係をもつ都市としからざる魂

市の存在を指摘し,「商業は,都市が存在する初期の時代の間を除いて,農業上の重要さ

とはなんらの関係をもたない。都市は商品と同様に食糧をも自らにもたらすことが出来9

るからである」と述べている。しかし,結局のところ都市商業にとっての購買力を背後

地に求める必要から,当然二つの構造即ち国際商業と農業の補完的関係を基礎にもたね

ばならないとする。 ドイツの E・ENNENは,純粋に経済的中心で,城郭とか領主的要

素とかをもたない単なる emporia は,自動的に中世の大都市にはなれず,大都市たら

んがためには,常に主要通路上の中心地で,商業中心地であるところから生ずる機能が,

週市と結ばれていなければならないとする。この点について,GIEYSZTOR の発言に

よれば,ポーランドにおいては castraを伴なわない emporiaの存在は確かではない。

以上各研究者の見解からみて,ニュアンスの差異はあるにせよ,都市形成過程における

農村ならびに農業技術の関係は無視することが出来ない。

遠隔地商業がポーランドの都市的中心地の形成に果たした役割について,これまた既

に多くの研究者の指摘がなされて来た。ところが,初期の遠隔地商業の具体的な姿を描

き出すことは必ずしも容易なことではない。研究上の史料の制約はこの分野において一

層厳しい。古都市の形態は,発掘調査によってその姿をある程度再現することが出来るが,

遠隔地商業の如き流動現象は,各地に点在している取 り扱い商品の考古学的史料を手掛

か りにする以外最も重要な史料として交換手段に用いられた埋蔵古銭に頼らなければな

らない。しかも古銭を歴史の解釈に利用する場合には,多くの注意すべき方法論上の問

題がある。ある場所に古銭が多量に埋蔵されていたからといって,必ずしも少量に埋蔵

されている場所よりも商業流通がより盛んであったとは断言出来ない。埋蔵されるに至

った諸原因,それは経済的原因のみでなく,社会的 ・慣習的 ・宗教的などの諸原因にま10

で立ち入った究明を必要 とする。双方的取引が専らである場合には,貨幣の退蔵は起こ

らない。ポ-ランドにみられる退蔵場所は,居住地の近辺よりも寧ろ遥かに多 くが境野

・海岸の斜面 ・森林で,土器に入れられ,大石 ・盛土 ・叢などの目印が附せられている。

このような退蔵の環境から考えられることは,退蔵の原因として先ず社会的 ・政治的不

9 Ibid.,p.211,

10 Raffelsattenの関税表によって知られるフラソク王国一西部スラグールス間の取引は,双方的取引

が主になっていたといわれる。

100 第 114巻 第 6 号

安な時代における安全への要求が挙げられなければならぬことである。また,異教的副

葬品の慣行もなんらかの影響をおよぼしているものと考えられる。このように歴史解釈

-の古銭の利用は,多くの予備的考察を必要とするが,これを一々考慮に入れ,慎重な

取 り扱いを行ないつつポーランドの初期遠隔地商業の具体像を描き出そ うと試みたのが,

西 ドイツの Charlotte WARNKE の最近の著書 (Die Anfange desFernhandelsin polen,

(MarburgerOstforschungen,22),Wdrzburg1964)である。

著者はポーランドの国家形成の問題を遠隔地商業の深い理解を通じて解明しようとし

ている。しかし,著者にとっては直接の関心ではないとはいえ,都市的中心地の成立は

遠隔地商業と関係をもち,さらにポーランザでは国家の組織化とも密接に結びついてい

たことは前述の如 くである。 現在, 求-ランドの中世史学界において, 国家形成, 都

市成立,農業発展の三つは中心課題をなすものであ り,これらは相互に関連した研究を

必要とする。いま,この必要性を示す例として極 く簡単に国家形成の面を取挙げてみよ

う。この分野では,古くからノルマン人説と非ノルマン人説 (土着人説)とが対立をみ

て来てお り, ドイツのナチス政権の影響をうけて一時はノルマン人説がより強力に主張

された時期もあった。戦後においては,ノルマン人説を批判する者が大勢を占めるに至ll

っているが,土着人説を積極的に跡づけるためには,なお,多くの点が解明されなけれ

ばならない。 W ARNKE が遠隔地商業と国家形成の問題を関連させたのは,ポ-ラン

ド住民が統一する決定的段階において近隣諸地方とどのような接触を保持し,どのよう

に作用したかを明らかにして土着人説の内容を一歩でも跡づけようとしたためである。

女史の研究結果によれば,ポーランドにおける国家形成の時期と遠隔地商業-の積極的

参加のそれとは,ほぼ一致する。そうであるならば,この両現象を媒介するものとして

都市的中心地の成立と農業の発達を考えることが当然必要となるであろう。

都市的中心地の成立とい う観点にW ARNKEの研究成果を関連づけて若干言及しよう。

九世紀において北ヨーロッパの遠隔地商業の流れは,W arthe と Netze の両河川地

域に若干の影響を与えたものの,後のポ-ランド国家の中核をなす大ポ-ランド(GroL3-12

polen)からは逸れており,恰かもこの地方は孤立地の姿を呈していた。W artheとNetze

11 ノルマソ人説批判の最近の動向については,乙OWMIANSKI,H・:"Critiquedelatheoriedel'origine

normandedesetatsslaves,"instudiin onorediArmandoSapori,I,Milano1957,pp.147esegg.

を見よ。

12 大ポーラソドとは,Posen,Gnesen,Gieczをもつ Polanen部族の地域とKulm,Dobrin両地方を

含んだ Kujawier部族の地風 それに二つの中部ポーランド部族 Sieradzanen,LFCZyCanenの地域

を指す。

資 料 101

の両河川地域を海に結びつける Oder河口に新しい遠隔地商業中心地 Wolinが興隆す

るとともに(この時期を WARNKEは十世紀の初頭に求めているが,前述の如くその盛

衰の時期については研究者により大幅な相異があり,必ずしも明確な確定は不可能であ

る),ここを通じて大ポーランドは遠隔地商業に関係をもち始めた。十世紀前半における

埋蔵貨幣はスカンヂイナヴイ了やキエフ-ルスにおけると同様,ほとんど専らアラビヤ

貨幣 Dirhem (大部分 Transoxanien,Chowaresmienで鋳造されたもの)で,940-950年以来

初めてビザンチンおよび西ヨーロッパの鋳貨が僅かながら現われる。貨幣制度において

も酉 ヨーロッパ的鋳造貨幣経済に属することなく,これまたスカンヂイナゲイアやキエ

フ-ルスと同様,秤量貨幣経済の下にあった。十世紀前半に大ポーランドが遠隔地商箕

に参加した時に,社会的 ・経済的 ・政治的変革を経験した。主要な取引品目として毛皮,

蜜蝋,蜂蜜,奴隷以外に,アラビヤ人は穀物,魚類,肉類を挙げており,遠隔地商業が

牧畜と耕作農業に大きな刺激を与え,生産物が商品化されるためには貢納制度の整備 ・

発展がなされた。Piasts家によるポーランド国家の統一と組織化-の準備はこの時に可

能となったのである。正にこの時期に,一方では商品の集散地としての機能を,他方で

は領地の支配機能を果たす都市的中心地の成立が始まったのである。

十世紀後半,特に知られ うる最初の国王 Mieszko一世 (ca.960-992)による征服に

基づく支配領域の拡大は,大ポーランドをヨーロッパ諸国との接触をより密接なものた

らしめた.963年には初めて ドイツのみならず,キリスト教 ヨ-ロッパの視野に入った。

この変化は当然ポーランドの遠隔地商業関係にも作用した。貨幣埋蔵地が,この世紀の

前半における如く,Oder河口地域とポメラニアに引続き多くみられるが,これととも

に,新たに大ポーランドを中心とした支配領域にも集中化するようにな り,埋蔵の規模

も前者に匹敵する。埋蔵貨幣の構成は,アラビヤ貨とならぶほどに, ドイツ貨が増大し,

さらに,多少程度は劣るが,ボヘミア,ビザンチン,アングロ ・サクソンの貨幣,-イ

タブーの Hedeby-Halbbrakte貨が登場し,それに若干のフランス,イタリアの貨幣が

混じる。しかしアラビヤ貨の優越は 990年まで続 く。

つぎの Bo壬estaw-Chrobry(992-1025)の時代においても先君の領土拡大の野望は継

承され,1018年まで戦争に終始し,ついに1024年 Gnesenの大司教による国王への戴冠

とともに王国の地位は確立された。この時期の貨幣埋蔵の特色は,1)大ポーランドでの

埋蔵が著しく増大し,隣接地域にも拡がり,特に Weichsel河の意義が明らかに高まり,

Oder河以来への新たな発展が見られること,2)アラビヤ貨に代って ドイツ貨 (就中ザ

クセン貨)が大きな割合を占めるに至っていること,3)おのおのの埋蔵地における埋蔵

貨幣の構成が一様化し,貨幣経済の藩透の深さを物語っていること,これである.貨幣

経済の湊透をみたとはいえ,これまで通りの秤量貨幣経済が維持され, ドイツとの接触

102 第 114巻 第 6 号

を増したが,西 ヨーロッパ的鋳造貨幣経済-の移行の兆は,十一世紀の経過中にやっと

現われるに過ぎない。もっとも既に若干の貨幣鋳造は行なわれているが,国王の権威の

象徴を意図したもので,鋳造貨幣経済-の移行を示すものではない。

遠隔地商業の担い手については,ユダヤ人,イスラム人,スカンデイナヴイア人が主要

な地位を占めた。ユダヤ人が十世紀以前に西 ・東部のスラヴ居住地域に定住をなしたか

どうかについては, なんらの証拠ももち合わせていない。 しかし, 当時の世界におい

て広範な地域に亙 り散在していたことと,異教徒とキリス ト教徒との間に占めていた仲

介者としての立場とを思 うならば,(例えば,ローダニー トスの商業として知られたユダ

ヤ人の東 ・西を結ぶ商業活動は, ヨーロッパの中央横断通路の開拓に深い関係をもつ)

この地域-の定住もありうる。イスラム人については,七世紀に回教に服した Trans・

oxanien と Chowaresmien の商人が, Chasaren,W olgabolgaren ならびに九世紀にま

だスカンデイナヴイア系であったルスを仲介として活動するが,スカンデイナヴイアへ

は東洋商人はほとんど訪れておらない。これは一方では悪気象のためもあるが,他方で

はまた十世紀までの北 ・東ヨ-ロツパ商業におけるスカンデイナヴイア人の独占的活動

があったためである。 800年頃以来スカンヂイナヴイア人は,フィンランドーバル ト海

の海岸商業のみならず,南東ヨーロッパ-の大陸横断商業路を開拓し,W olgabolgaren,

Chasaren,Transoxanien およびビザンチン,近東への結びつきを軌道に乗せ,やがてビ

ザンチンには規則的に訪れるに至った。十世紀の転換期頃スカンデイナヴア人の大陸横

断の広大な活動は衰退し,商業も W olinを通じた西スラヴ人との取引に代った。この頃,13

スカンヂイナヴイア系ルスもスラグ人と融合してキエフミルスとなった。西 ヨーロッパ

商人のポーランド-の大規模な結びつきは,十一世紀末の ドイツ人を待たなければなら

なかった。

このようにポーランドに遠隔地商業が十世紀以来出現したことにたいして,ポーラン

13 戦後の H・ARBMANN の研究 (Schweden unddaskarolingische Reich,Studicn 2:u den Han-

delsverbindungendes9lJhs・,Stockholm 1957)とS・BOLINの研究 ("Mohammed,Char】emagneand

Ruric,HTheScandinavianEconomicHistoryReview,Ⅰ(1953),pp.30sqq.)は,スカソヂイナヴィ

ア人によるカロリング朝フランク王国産金属製品のスカソヂィナヴィアならびにスラグ諸地方-の

輸出が顕著であったことを確認させた。また,これらの研究によってスカソヂィナヴィア人によっ

て演じられたバルト海を通じてのフラソク王国と回教国とを結ぶ仲介者としての役割は,九世紀中

頃以来弱まり,十世紀初頭には中止するほどになったことも明らかにされた。これに関してGIEYS-

ZTOR は次のように述べている。「十世紀の初頭以来北ヨーロッ′くは方向を転換し,バルト海はこ

の時において西方への仲継の促進剤としてよりは寧ろアラブ商業p利益の吸収地帯として機能する

ように思われる。この吸収は先ず第-にスカソヂィナダイア人自身の仕事であった」(GIEYSZTOR,

A.;HLesstructuresiconomlqueSenPaysSlavesAl'aubedumoyenageJuSqu'auXIesiとcleetl'丘change

monetaire,Hp.468)とO

資 料 103

ド社会はどのように対応したか。ここでは,商業にたずさわる者が,西ヨーロッパと異

な り,社会的身分に規定されることなく,農民であろうと,王ならびに上級貴族であろ

うと進んでそれに加わ りえたのである。むしろ後者により大きな機会さえあった。これ

はかれ等の権力が生産物の商品化への,また生産物の商品化が権力の増大-の強力な手

段 となっているからである。かくして,北 ・束ヨーロッパにおける権力構造と富との特

殊な関係が理解され うるであろう。GIEYSZTOR は,「スラヴ世界の対外商業の問題に

関する最新の研究の最も重要な修正点は,中世高期の社会の支配集団を外国との取引の

発展に最も関心をもったものとして示すことによって,社会構造の社会的解釈を強調す14

るとい う事実である」と述べている。

14 Ibid.,p.457.