Jigoro Kano's pursuit of Judo as a martial art -Judo's ...

17
嘉納治五郎が求めた 「武術 としての柔道」 柔術 との連続性 と海外普及 永木 耕介* Jigoro Kano's pursuit of "Judo as a martial art" -Judo's continuity with Jujutsu , and it's spread overseas- Kosuke Nagaki Abstract Jigoro Kano (1860-1938) created Kodokan Judo based on the Jujutsu of the Edo period. Kano formed ''The research institute of martial arts" towards the end of the Taisho era (early 1920s), and recommenced the study of practical Jujutsu. The purpose of this research is to demonstrate why he felt the need for advancing such research. As a hypothesis, during the Meiji Era (1868-1912) Judo was taught as a version of Jujutsu, being aimed for the most part as a form of education for the masses. However, he felt a range of different martial arts techniques should be taught in addition to competition oriented techniques. To this purpose Kano advocated an in-depth study of other forms of combat. It is also plausible that one of the reasons for this approach was due to the increasing popularity of Judo overseas, where it was perceived that it could be enhanced by maintaining continuity with combat effective techniques from traditional Jujutsu. First, I analyzed the timeframe for literature written by Kano in response to queries about "Judo as a martial art". Questions of this nature gradually became more frequent from the Taisho and subsequent eras. There was also more contact with martial arts such as Karate and Aiki-jujutsu from around from the end of the Taisho era. Investigating of the spread of Judo in Britain as an example of its international propagation, it became clear that modifications in thought succeeded in aiding Judo's popularity overseas. Jujutsu experts such as Yukio Tani and Gunji Koizumi were able to convert to Judo whilst maintaining their connection to traditional Jujutsu schools. Moreover, Kano concluded that it was necessary maintain the association with Jujutsu in order to highlight the individual characteristics of Judo compared to Western sports. Key words : Jigoro Kano, Judo, Jujutsu, martial art キ ー ワ-ド:嘉 納 治 五 郎,柔 道,柔 術,武 *兵庫教 育大学 1

Transcript of Jigoro Kano's pursuit of Judo as a martial art -Judo's ...

Page 1: Jigoro Kano's pursuit of Judo as a martial art -Judo's ...

嘉納治五郎が求めた 「武術 としての柔道」柔術 との連続性 と海外普及

永木 耕介*

Jigoro Kano's pursuit of "Judo as a martial art" -Judo's continuity with Jujutsu , and it's spread overseas-

Kosuke Nagaki

Abstract

Jigoro Kano (1860-1938) created Kodokan Judo based on the Jujutsu of the Edo period. Kano formed ''The

research institute of martial arts" towards the end of the Taisho era (early 1920s), and recommenced

the study of practical Jujutsu. The purpose of this research is to demonstrate why he felt the need for

advancing such research.

As a hypothesis, during the Meiji Era (1868-1912) Judo was taught as a version of Jujutsu, being aimed

for the most part as a form of education for the masses. However, he felt a range of different martial

arts techniques should be taught in addition to competition oriented techniques. To this purpose Kano

advocated an in-depth study of other forms of combat. It is also plausible that one of the reasons for this

approach was due to the increasing popularity of Judo overseas, where it was perceived that it could be

enhanced by maintaining continuity with combat effective techniques from traditional Jujutsu.

First, I analyzed the timeframe for literature written by Kano in response to queries about "Judo as a

martial art". Questions of this nature gradually became more frequent from the Taisho and subsequent

eras. There was also more contact with martial arts such as Karate and Aiki-jujutsu from around from

the end of the Taisho era.

Investigating of the spread of Judo in Britain as an example of its international propagation, it became

clear that modifications in thought succeeded in aiding Judo's popularity overseas. Jujutsu experts such

as Yukio Tani and Gunji Koizumi were able to convert to Judo whilst maintaining their connection to

traditional Jujutsu schools. Moreover, Kano concluded that it was necessary maintain the association with

Jujutsu in order to highlight the individual characteristics of Judo compared to Western sports.

Key words : Jigoro Kano, Judo, Jujutsu, martial art

キ ー ワ-ド:嘉 納 治 五 郎,柔 道,柔 術,武 術

*兵 庫教育大学

1

Page 2: Jigoro Kano's pursuit of Judo as a martial art -Judo's ...

嘉納治五郎 が求 めた 「武術 としての柔道」

I. 序(問 題の所在)か のう じ ご ろう

嘉 納 治 五 郎(以 下 、 嘉 納 と略 す)は 、 明 治15・

1882年 、 江 戸 期 に体 系 づ け られ た 柔 術1)を 母 体 とでん

して 「柔道」(正 式名称:日 本傳講道館柔道)を 興

し、終生に及んでその確立 と普及に尽力 した。そし

て、周知のように教育界のエリー トであった嘉納2)

は、当然のごとく、柔道に広 く国民へ向けての 「教

育的価値」を求め続けた。

嘉納が当初、柔道の教育的価値 について説明した

ものに、明治22・1889年 、文部大臣 ・榎本武揚 らいっぱんならび その

多数の公人の面前で行った 「柔道一班井二其教育上か ち

ノ慣値」 と題する講演(以 下、「教育上ノ価値」講

演と略す)が ある。その中で嘉納は、「教育上ノ価値」

を 「柔道体育法」、「柔道勝負法」、「柔道修心法」の

3つ の側面か ら体系的に整理 している(以 下、各々

を 「体育法」、「勝負法」、「修心法」 と略す)。 そして、

嘉納はその後 もこの3側 面による構成をほとんど変

化させることはなく3)、柔道の教育的価値を追求 し

ていく。

ご く簡単にいえば、「体育法」 とは、柔道によっ

て身体の強化 と調和的な発達を促すことであ り、「修

心法」 とは、柔道によって智 ・徳およびそれらを社

会生活全般へ応用する力を養うことである。そして、

「勝負法」については次のように述べた。

「柔道勝負法デハ勝負 ト申スコ トヲ狭イ意味二用

ヒマシテ、人ヲ殺ソウト思ヘバ殺スコ トガ出来、傷

メヨウト思ヘバ傷メルコ トガ出来、捕ヘ ヨウ ト思へ

バ捕ヘルコ トガ出来、又向フヨリ自分ニソノ様ナコ

トラ仕掛ケテ参ツタ トキ此方デハ能ク之 ヲ防グコト

ノ出来ル術ノ練習ヲ申シマス。」4)

ここに示 されているように、「勝負法」 とは、相

手を殺傷捕捉 して勝ちを得るための練習法のことで

ある。そ して、「柔術 ノ元来ノ目的ハ勝負ノ法 ヲ練

習スルコ ト」5)であ り、「昔はもっぱら武術 として

柔術 を稽古した」6)と嘉納が述べているように、「勝

負法」とは柔術から受け継がれた 「武術 として」の

練習法を意味している7)。確認 しておけば、ここで

いう 「勝負」とはルールによって安全が図られた場

における 「勝ち負け」を意味 していない8)。ルール

無限定の場で生 じる暴力に対応 してそれを制御する

術が 「武術」であ り、「勝負法」 とはそのような武

術的特性に価値を置 くものである。本論では以下に

おいて、この武術的特性を 「武術性」と表記する。

このように嘉納は、柔術が有した 「武術性」を柔

道における教育的価値の一つ として明確 に位置づ

け、その継承 を図ったのであるが、この 「武術性」

について、特に戦後の嘉納/柔 道に関する研究では

ほとんど検討されて来なかった9)。数少ない研究の

中で寒川は、「教育上ノ価値」講演で示 された 「体

育法」、「勝負法」、「修心法」の各々を柔術 との断絶

性 と連続性の視点か ら検討 し、それらの中で柔術 と

の連続性を最 も際立たせているのは 「勝負法」であ

ると指摘 している10)。一方で、「体育法」について

は柔術 との 「質的断絶」、「修心法」については 「連

続 と断絶の両面」があると指摘 してお り、これらの

指摘 は、本論 を展開するうえで大いに参考となる。

しかしながら当研究では、「嘉納のす ぐれた独創性」11)に着 目するとして

、柔術 との質的断絶が強い 「体

育法」の検討に重点が置かれ、「勝負法」については、

嘉納が柔術 との連続性を保持 しようとしたのは何故

か、その意図に関しては言及されていない。また、「教

育上ノ価値」講演が行われた比較的早い時点(明 治

22・1889年)に 対する一研究であるため、「教育上

ノ価値」(体 育法、勝負法、修心法)の 構造的な関

係について、その後の様相 を知ることができない。

本論で詳 しく述べるが、その後 も嘉納は武術性 を

嘉納治五郎(1860-1938年)

2

Page 3: Jigoro Kano's pursuit of Judo as a martial art -Judo's ...

嘉納治五郎が求め た 「武術 としての柔道」

追求し続け、特に大正末期頃からその志向を一段 と

強める。例 えば昭和2・1927年 、「講道館の使命に

ついて」と題 して次のように述べている。

たい

「講道館 は武術 として見たる柔道に封しては(中けん かん くに

略)、先ず権威ある研究機關を作ってまず我が國固ひろ

有の武術を研究し、又廣 く海外の武術 も及ぶ限 り調

査 して、最も進んだ武術 を作 り上げ、それを廣 く我

が國民に教ふることは勿論、諸外國の人にも教へる

積 りである。」(下線 ・筆者)12)

そして、嘉納は実際、唐手や大東流合気柔術、棒

術などの研究に乗 り出すのであるが、すでに当時で

は、講道館への直接の入門者数は累計で4万 人を超

えており13)、また海外へ も着実に普及していた。そ

のような隆盛をみていたにもかかわらず、さらに「武くに

術の研究機関」14)を作って 「我が國固有の武術」を

研究するという意図はどこにあったのであろうか。

この問題にアプローチするのが本論の目的である。

もちろん 「武術性」を重視 した理由を単純に考え

れば、「政治家などは勿論、他の人々も、随分暴漢ため そ

の爲に襲はれる事がある。夫れに世には随分人違ひその とき

で、危害を加へ られる事がある。其時柔道 を知て

居れば、 どの位心強いか しれない。」15)というよう

に、日常生活に役立つ護身術 を求めたのだ、という

ことになる。だが筆者は、そのような単純な理由だ

けでな く16)、文化的な背景 ・情況としてもっと深い

理由があったと考えている。特に筆者が注目するのくに

は、先の引用文でいえば、「我が國固有の武術 を研こく

究」することで 「我が國民に教ふることは勿論、諸

外國の人にも教へる積 りである」(下 線 ・筆者)と

いうくだ りである。つまり、日本で育まれた 「武術

性」を再検討することが、柔道のさらなる海外普及

のためには不可欠であると嘉納が認識していた点で

ある。なぜ海外普及のためには不可欠なのか、それ

は 「武術性」こそが、世界中に流布している欧米ス

ポーツとの差異を明確にするものであると確信 して

いたからではないか。

また、嘉納が 「海外」に視点を置 く理由には、す

でに明治期から柔術が柔道に先行 して海外(主 に欧

米)に 伝播し、現地でかなりの人気を得ていたこと

があったと考えられる。つまり、海外で評価を得る

ことのできる柔道を創 り上げるためには、柔術が も

つ 「武術性」を研究 し直すことが得策であると嘉納

は考えていたのではないか。

本論は以上の目的と仮説によって進めるが、手続

きについては、まず嘉納がどの程度 「武術性」を重

視 していたのかを、文献史料の検討 といくつかの出

来事 を追うことから明 らかにする。次いで、海外普

及という課題と武術性の関係について、柔術 とのつ

なが りを保ちつつ柔道を普及させたイギリスの例、

およびイギリスをはじめヨーロッパに起こった柔道

のオリンピック参加問題をみることにより、さらに

仮説を補強したい。

II. 「武術性 」重視の概況

まず、嘉納がどの程度 「武術性」を重視 していた

のかを探 るために、彼が唱えた 「体育、勝負(武 術)、

修心(徳 育)」 の全体的傾向をみてお きたい。筆者

が 『大系』17)を対象に施 した 「内容分析」18)の結果

によれば、図1に 示すように、嘉納が発表 した1テ ー

マ ・演題における 「武術の重要性」(武 術の重要性

が柔道 との関わりにおいて文脈化されている箇所)

の平均出現数は、全体的にみて 「徳育(修 心)の 重

要性」(徳 育の重要性が柔道 との関わりにおいて文

脈化 されている箇所)よ りも少ないが、「体育の重

要性」(体 育の重要性が柔道 との関わりにおいて文

脈化されている箇所)よ りも多 く析出される傾向に

ある。このことか ら、柔道における 「武術性」への

価値づけは比較的重視されたものであり、 しかもそ

れは大正期に入って以降、右肩上が りに強まってい

ることがわかる。

先に仮説 として述べたように、この傾向を生み出

した理由の一つには海外普及 という課題があったと

考えられるが、その点は後に取 り上げるとして、こ

こではまず、国内における動向を確認 しておく。

すでに述べたが、嘉納が 「講道館は武術の研究所くに

を設け、我が國固有の武術を基礎 とし、諸外國の武

技を参酌 して研鐙大成」19)するというように、「武

術の研究」について言及 しはじめるのは、大正末期

3

Page 4: Jigoro Kano's pursuit of Judo as a martial art -Judo's ...

嘉納治五郎が求めた 「武術 としての柔道」

頃からである。そこで、大正後期以降の動向に注目

してみる。

一つ には、大正11・1922年 、講道館において、

沖縄から来た富名腰(船 越)義 珍 らが唐手(後 の空

手道)の演武を催 したという出来事がある。その後、

大正15・1926年 には嘉納 自らが那覇へ出向き、他

の唐手流派も合わせて観察 している。後述するようかた

に、嘉納は以前から柔道の 「形」において当身技を

重視 してお り、その点で唐手にも大いに関心を寄せ

たのであろう20)。例えば、大正13・1924年 頃にま

とめられ、昭和2・1927年 に発表された 「(攻防式)

精力善用国民体育」 という形21)では、「第一類」が

単独(一 人)動 作、「第二類」が相対(二 人)動 作

か ら成っているが、「第一類」はすべてが当身技で

構成されており、そこでの当身技には唐手の技術に

類似 したものが含まれている。嘉納はその形の効用らん や あてみ

について、「齪取の稽古を幾 ら遣っても、當身は上か ち

手にならぬ。(中 略)そ れでは、武術としての償値は、

十分に認められなくなる。依て不断に攻防式(=精

力善用国民体育;筆 者注)の 形を練習して、さういけっかん

ふ 鉄 陥 を救 ふ や うに心 掛 け る が よい 」22)と述 べ て い

る。

さ らに嘉 納 の 関心 を 高 め た と思 わ れ る の は 、 昭和

5・1930年 の 、 大 東 流 合 気 柔 術23)へ の 接 近 で あ る。

講道館の修行者でもあった富木謙治や竹下勇(海 軍

大将)が 以前か ら植芝盛平の率いる当柔術を習って

お り、それ らの縁で、当年に嘉納は植芝の技を直接

観ることとなる。その技に感銘を受けた嘉納は、時

を経ず して講道館か ら武田二郎 と望月稔を当柔術道

場へ派遣 した。望月の述懐によれば、嘉納は講道館

において古武術を収集 して研究・伝承したいと述べ、

「私が柔術 を柔道に改めたように、柔道もまた、あ

る時代には大 きく変化する秋が、 きっとくるであろ

うと考えられる。そのときにあたって、 この古伝武

道の中に、必ず多 くの参考になるものが発見 される

にちがいないと確信するからである」 と述べたとい

う24)。

また嘉納は、昭和3・1928年 、香取神道流および

棒術の研究にも着手してお り25)、特に棒術の講道館

への導入については、かな り積極的であった26)。しとう

かしなが ら、「當分無手術に重きを置 き、これに剣

術 と棒術 とを加ふる所存である」(下 線 ・筆者)27)

と述べているように、やは り素手を中心とする 「柔

術」を優先 した。

柔術の出である嘉納がそれを優先するのは当然の

ことといえるが、なぜか嘉納没(昭 和13・1938年)

後において、巷では 「古流柔術対講道館柔道の対決

といった図式」28)が創 り出されて定着し、今日まで

図1.  「大系」の1テー マにおける 「武術、体育、徳育の重要性」カテゴリーの出現数

4

Page 5: Jigoro Kano's pursuit of Judo as a martial art -Judo's ...

嘉納治五郎が求めた 「武術 としての柔道」

その図式が引きずられてきたように思われる。だが、

例えば昭和6・1931年 、柔道が中等学校の正科 に

採用されたことを受けて出版された 『柔道教本』 に

おいても嘉納は、(柔術は)「体育としてもなかなか

有益であるし、精神修養の方法としても貴いもので

ある」29)と述べている30)。また、昭和10・1935年 、

桜庭武が柔術について詳 しく研究 した 『柔道史孜』31)を出版したが

、それに序文を寄せた嘉納は、容易

にはできないことでかつ柔道修行者のためになる著

作であると讃えている32)。

このように、武術、とりわけ柔術に対する嘉納の

熱い思いは、晩年に至るまで持続されている。そ し

てそこに、嘉納が認識していた当時の 「柔道」の限

界と課題がみえて くる。それは、端的にいえば「もっ

と技の広が りと深 さが必要だ」という認識である。

例えば昭和11・1936年 、嘉納は先述の富木謙治に、

「富木君、植芝さんのところで君がやっているよう

な技が必要なのだ。昔の柔術 というのは皆、植芝さ

んの技と同じようなことをやるのだ。 しか しあれを

どういう風に練習させるかが問題で難 しいんだ」33)

と語ったという。

つ まり、明治15・1882年 の講道館 の開始以降、

柔術 を教育に活かすためのいわば 「大衆向けバー

ジョン」 としての 「柔道」を創ることには一応の成

功をみた。 しか し、さらにバージョン・アップして

多機能化 と高度化を進めなければ、やがて柔道 も行

き詰まってしまう、 と嘉納は考えていたと思われる

のである。

「大衆向けバージ ョン」を創 ることは、明治初期

に廃れていた柔術を教育界/体 育界に導入するには

不可欠であった。明治16・1883年 、文部省が体操伝

習所に諮問した柔術 ・剣術の学校正科教材 としての

「適否調査」では、「身体の発育往々平等均一を失は

ん」(つ まり身体の調和的な発達が促せない)や 「実

修の際多少の危険あり」等の理由によりそれらの採

用は否定された34)。そのような情況下では、第一に

それら 「否」の要因を改良することが柔道の確立を

目指す嘉納にとっても必要だったのである35)。欧米

合理主義による身体観のもとで当時の学校体育教材

の中心に位置ついていた 「体操」に対抗するために

は、柔道の 「教育上ノ価値」の中でもとりわけ、「身

体への効用」を目的とする 「体育法」の改良が優先

課題であった。そして、改良への努力が一応実 り、

遅れはしたが明治44・1911年 には中等学校での選

択教材としての採用が果たされた。そして、学校外

の修行者も含め、明治末 ・当時の修行者数は数十万

人といわれるほど大いなる普及をみたのであった。

しかしなが ら、次に述べるように、「体育法」 と

して嘉納が新 しさ ・近代性を加味 して仕立てた 「競

技(乱 取・試合)」が大正期以降に盛行となる一方で、

柔道の 「武術性」 という側面を後退させることにも

なってい くのである36)。

皿.競 技(乱 取 ・試合)と 「武術性」

嘉納は、柔道の練習法 として、定められた攻防パかた

ター ンを反復す る 「形」 と、 自由に技 を掛け合 うらん どり

「乱取」の2種 を用いた。これ ら2種 は、すでに江

戸期の柔術において実践されていたものであるが37)、

嘉納は乱取について 「ルール化/安 全性の確保」と

いう点から改良を加えてい く38)。また、乱取が有す

る 「面白味」 という点でも、明治初期から日本に輸

入されていた欧米発の競技スポーツ(嘉 納自身は 「競

技運動」と呼ぶ)が もつ特性と合致させる。「競技運

動 というものは、おしなべて興味の伴 うものである。らん

(中略)こ れが競技運動の長所である」39)とし、「齪

取は競技的練習であるから面白味が多い」40)という

ようにである。つまり、乱取の面白味が修行者のモ

チベーションを高め、主体的かつ継続的に柔道に関

わることを促すという点に価値を置いたのである。

そして、日頃の乱取練習の成果を試すための 「試

合」が、講道館内外 においても定期的に行われるよ

うになるが41)、ことに大正期以降、高等学校をはじ

め各種学校間での対抗試合が盛んとなる。そ して、

「競技」 と 「武術性」の相反関係がこの対抗試合に

典型として現れるようになるのである。

学校間対抗試合は、他の競技スポーツの試合(例

えば野球)と 同様、「学校」の名誉 を懸けたもので

あったため、「勝つこと」への執着が次第に過熱 し

てい く42)。すなわち、「勝利第一主義」の到来である。

そこでは様々な問題が生 じていくのだが、「武術性」

5

Page 6: Jigoro Kano's pursuit of Judo as a martial art -Judo's ...

嘉納 治五郎が求めた 「武術 としての柔道」

という観点か ら、嘉納は次のような警告を発 していたちわざ

く。 一 つ に は、 「立 技 」43)を 重 視 せ よ、 とい う もの

で あ る。

例 え ば、 大 正7・1918年 に行 わ れ た 一 高(東 京 第

一 高 等 学 校)対 二 高(仙 台 第 二 高等 学校)の 試合 で

勝 利 した二 高 が寝 技 を多用 した こ とに つ い て 、嘉 納ママ ママ

は、「若 し立業が出来ず、寝業だけを練習 して居たか ち

のなら、柔道の修行者として高い憤値のないものと

認めねばならぬ」44)と述べ、また、昭和6・1931年

に行われた初の全日本中等学校柔道選士権大会でも

「寝勝負にのみ練習を積 んだものが、投勝負 を避けた

る爲め、無理に引込まうとするやうなことを許さぬ

考へである」45)と、強まる 「寝技重視」の傾向に対

して厳 しい警告を発するのである。寝技中心ではダ

メだという理由は、「何故投に重きを置 くかと云ふママ ママ

に、(中 略)抑 業や絞業などのみを修行して居ては、ずう たい

多人藪を一時に封手にするやうな時には、間に合は

ぬ。」(下線 ・筆者)46)と 述べているように、実際の

真剣勝負で想定される対手の人数は無制限であ り、

そのためには立った状態から技 を施すことが重要だ

というわけである。さらに、「当身技や危険な投技は、

立っている姿勢からでなければ、十分に練習するこ

とが出来ぬ」(下線 ・筆者)47)と 述べているように、

真剣勝負においてより効果のある技の修練のために

も 「立った状態」を優先 したのである。

学校間対抗試合で寝技が重視された理由は、はじ

めから寝た状態でいれば投げられることはなく、勝

負を決するのに時間を要するため劣位者であっても

「引き分け」に持ち込める可能性が高いということ、

そ して一般的に寝技(固 技)は 上達が早いからであ

る。対抗試合は団体戦による トータルの勝点で争わ

れたために、個々人が負けないこと(す なわち失点

しないこと)が大事だったわけである。このように、

学生にとっては定められたルールのもとでなんとか

勝利 したいという率直な思いから発せられた工夫でたい

あった。 しかし嘉納は、「封校試合その時の勝ち負しん

けが修行の眞の目的でな く、眞の目的は何時あるこしんけん

とか分からぬが眞劔 に勝ち負けを決する必要の生ずため

る こ との あ る 場 合 に不 覧 を取 らぬ 爲 で あ る。」(下線 ・

筆 者)48)と し、 大 正14・1925年 の 「乱 取 試 合 審 判

たち

規程」の改訂において 「立勝負」から試合 を開始す

ることを定めた。 このように嘉納は、競技のルール

においても、「真剣勝負」、すなわち 「武術性」の観

点を保持 したのである。

さらに触れておかねばならないのは、競技の枠を

超 えて嘉納が重視 していたのが 「当身技」であり、

その練習法としての 「形」であったことである。

すでに明治22・1889年 の 「教育上ノ価値」講演じっさい き き め

において、当身技については 「實際ノ勝負ニ効験ノふ だん き けん き

アル手ハ不断ハ危険デ出來マセズ、(中 略)勝 負法もっぱ より

ハ 専 ラ形 ニ 嫁 テ練 習 致 サ ネ バ 成 リ マ セ ヌ 」(下 線 ・

筆 者)49)と 、 そ の危 険 性 ゆ え に乱 取 か ら除外 し、 形

で練 習 す る もの と して い る50)。 そ して、 晩年 の 昭和

12・1937年 に も、 「武術 と して見 れ ば 、 形 を一 層 必とう たい あ て み

要 とする理由がある。(中 略)當 方か ら封手に當身しばしば

を以て攻撃 しようと思うても、平素形の練習で屡々

繰返して練習して居 らぬと、その當身は利 くもので

はない」(下線・筆者)51)と 、当身技練磨のための 「形

の重要性」を強調している。また、乱取の際に偏っ

た防御姿勢がみ られるようになった傾向について、らん しんけん

「齪取の練習は一面眞剣勝負の練習であるといふこらん

とを忘れて居るからである。(中 略)平 素の乱取のき けん

練 習 の 際 、 當 身 を用 ゐ る こ と は、 危 険 で あ る か ら、らい たい あて み

しないだけで、本來は、何時でも封手が當身で攻撃よ そ う

して來るということを豫想 して、練習 しなければな

らぬ。さういふ考慮の足 りぬことが、今 日の間違ひ

の本である。」(下線 ・筆者)52)と 述べている。つま

り、当身技を形で練習せ よ、 というだけでな く、乱

取においても(除 外 したはずの)当 身技 を念頭に置

いて練習すべ し、 というわけである。

このように、早い時期から晩年に至るまで嘉納は

当身技 を重視 し続けた。その理 由は、「危険な技」

であるが故に 「武術 として価値ある技」であったか

らに他ならないであろう。

以上で確認 しておきたいのは、「体育 として」み

れば欧米発の競技スポーツの模倣であるかのような

柔道競技 も、また健康法として体操に比肩 しうる形

も、嘉納は 「武術性」という観点か らかなりコント

ロール した、ということである。

6

Page 7: Jigoro Kano's pursuit of Judo as a martial art -Judo's ...

嘉納治五郎が求 めた 「武術 としての柔道」

IV. 海外 普及と 「武術性」

1. イギリスにみる柔術と柔道

すでに述べたように、ことに大正期以降、嘉納が

柔道に 「武術性」を求めた理由の一つには、海外普

及という課題があったと考えられる。しかしながら、

海外の多 くでは柔術が先に伝播していたため、柔道

は必然的に柔術 と比較される運命にあった53)。だが、

嘉納は柔術を排除せずにそれとのつなが りを保ちな

がら柔道を普及させようとしてい く。ここでは、そ

の具体例をイギリスにみてみたい。

イギリスに柔術を流行させた人物として挙げられたにゆき お

るの は まず 、日本 人 の谷 幸 雄(1881-1950年)で あ る 。てんじんしんようりゅう

谷 は、 東 京 ・築 地 にあ った 父 の 天 神 真 楊 流 の 道 場 で

子 ど もの 頃 か ら柔 術 を習 い54)、明治32・1899年9月 、

バ ー トン ・ラ イ ト(E.W.Barton Wright)に 呼 ば れ

て 渡 英 した55)。 谷 はそ の 後 、ウ ィ リア ム ・バ ン キ ャ ー

(William Bankier;通 称Apollo)の 手 配 に よ っ て多

くの 異 種 格 闘 技 戦 に 出場 し、 イギ リス 人 に柔 術 の 強

さ を見 せ つ けて い った 。

次 い で 著 名 なの が 、 イギ リス 柔 道 界 の 父 と呼 ばれこいずみ ぐん じ

る小 泉 軍 治(1885-1965年)で あ る。 小 泉 も東 京 で

天 神 真 楊 流 を 修 行 し56)、明 治38・1905年 に渡 英 し

て か ら一 時 ア メ リ カ に 渡 っ た が 、 明 治43・1910年

に再 び イギ リス に戻 り、 死 去 す る ま で ロ ン ドンに滞

在 した。 そ して、 大 正7・1918年 、 谷 と と もに 「武

道 会(Budokwai)」(当 初 は 「ロ ン ドン武 道 館 」 と

呼 称)を 創 設 した後 に、 嘉 納 との親 交 を深 め 、 イ ギ

リス は も とよ り ヨー ロ ッパ 中 の 「柔 道 」 に影 響 を与

え て い く存 在 とな る57)。

さて、本論にとって重要なのは、谷 と小泉 という

柔術出身の人物 と、嘉納/柔 道 との関係である。

嘉納は、大正9・1920年 にはじめて 「武道会」を

訪問する。明治42・1909年 以降、国際オリンピッ

ク委員会(IOC)の 委員であった嘉納が、アントワー

プ ・第7回 オリンピック大会に出席する途中で立ち

寄ったものである。だが、単なる訪問ではなく、柔

道の伝達 ・指導を目的としていた。講道館から現地

での長期滞在を予定 した会田彦一(当 時4段)58)を

伴っていたのである。

ここで注 目すべ きは、嘉納がその初回訪問で直ち

に谷 と小泉に 「柔道2段 」を贈ったことである。先

述のように、彼 らは天神真楊流柔術の出であり、若

くして日本を飛び出したため、柔道そのものを習っ

た経験はなかった。講道館ではもちろん昇段のため

の 「修業年限」が定められており、 このような即座

の段位授与は極めてめず らしいケースであろう。

単純な理由としては、彼 らが嘉納 と同じく天神真

楊流の出であったため、嘉納は彼 らの技量をすぐに

看て取れたか らだ、 と考えられる。嘉納が若 き日にき

修得 した柔術は、まず天神真楊流であ り、次いで起

「武道会」内に掲げられている 「谷幸雄」

(2008年9月1日 撮影)

小 泉 軍 治 著 、My study of Judo (1960)

7

Page 8: Jigoro Kano's pursuit of Judo as a martial art -Judo's ...

嘉納治五郎が求めた 「武術 と しての柔道」

とうりゆう

倒流であった。そして、嘉納は天神真楊流に対 して

も十分な愛着をもっていた。例えば、吉田千春 ・磯しん

又右衛門(五 世)が 著した 「天神眞楊流柔術極意教ず

授 圖解 」(明 治26・1893年 刊)に 嘉 納 は 序 を寄 せ 、「今じつ

日予ガ講ズル所 ノ講道館柔道モ、ソノー部は實ニコおう

ノ 奥 義 ヲ鷹 用 シ タ ルモ ノニ シ テ、 コ ノ流 ノ永 ク世 こった ひろ

傳バリ廣ク人ノ學バ ンコ トハ、予ノ深ク希望スル所

ナリ」59)と述べている。また、講道館の草創期を支

えた西郷四郎(小 説 ・姿三四郎のモデル)や 横山作

次郎 ももともと天神真楊流を修行 していた。そして

当然 といえるが、実際に当流から柔道に活用 された

技は多かったのである60)。

今一つの理由は、やはり 「普及のため」であった

ろう。当時の嘉納はこの武道会を、イギリスはもと

よりヨーロッパにおける普及の拠点とするねらいが

あったと考えられる。何といっても谷や小泉という

日本人の存在は力強いか らである。

そして、その後も嘉納はヨーロッパ渡航の機会あ

る度に武道会 を訪れ(合 計6度 訪問する)、谷と小

泉の両者を立てながらイギリス柔道の発展を期 して

いく。例えば、昭和3・1928年 の2度 目の訪問につろんどん

いて嘉納は次のように述べている。「倫敦滞在 中、

小泉、谷の三段が中心とな り柔道を指導する武道會すう か この ち

の道場に藪回出席したが、嘗って八年前に此地を訪かず ぞう

れたときから見ると、柔道修行者の藪も著しく増加その た すべ き

し、其他凡てに於て一段の進境を認めることが出來

た」(下 線 ・筆者)61)。 また、昭和8・1933年 、嘉

納に随行して武道会を訪れた小谷澄之(後 に10段)

は、「ロン ドンには小泉、谷両先輩のように、英国

婦人と結婚されて長年この地で柔道の指導をされて

いた関係で、正 しい柔道が普及していた」(下 線 ・

筆者)62)と 述べている。このように、彼 らは嘉納の

期待 に応えるべ く中心人物 となっていき、昭和9・

1934年 には武道会を講道館の支部 とするに至って

いる。 ここに、嘉納が柔術 とのつなが りを保持 しな

がら柔道普及を為 した具体例をみることができる。

ただ し、少 し詳 しくみると、谷 と小泉では嘉納

/柔 道に対する理解 と関わ り方に違いがあ り、谷

は根 っからの柔術家であった。先にも触れたよう

に、谷はイギリスに来た当初の20才 頃から数年間、

ミュ ー ジ ッ クホ ー ル 等 で レス ラー や ボ クサ ー を打 ち

負 か して 名 を馳 せ た 、 い わ ば プ ロ で あ っ た。 一 方 、

10C委 員 で あ っ た嘉 納 は 、い う まで もな くアマ チ ュ

ア リズ ムの 信 奉 者 で あ り、 柔 道 の アマ チ ュ ア リズ ム

に 関 して は次 の よ う に述 べ て い る。

くに ばい

「彼の國(西 洋;筆 者注)で は、素人 と商費人 とのく

匠別をして、 レスリング、ボキシングを商責にして

居るものは、概 して人格の低いもので、技術は如何

に優秀でも、社會からは卑 しまれて居るということ

である。講道館員中には、彼等 と一緒 に興行 して、じゅんかい とう

諸方を巡廻 して相當に評判を取ったものもあるよう

であるが、それ等は柔道の趣旨に適った行動 とは予しん

は認 め て 居 らぬ 。 眞 の柔 道 家 は興 行 師 に な っ て貰 い

た くない の で あ る。」(下 線 ・筆 者)63)

こ の発 言 は、 奇 し く も嘉 納 が 谷 とは じめ て 出会 う

大 正9・1920年 の もの で あ るが 、 当 時 の谷 は40才

前 後 で あ り、 す で に プ ロ活 動 か ら引 退 して い た 。 つ

ま り、 嘉 納 は谷 の過 去 を 許容 した こ とに な る。 とい

う よ り もそ れ 以 上 に 、 や は り谷 が 現 地 で博 して い た

人気 と柔術 の技 量 を評価 した の で あ ろ う。

平 成20・2008年9月1日 、 筆 者 ら は現 在 も ロ ン

ドン に在 る武 道 会 で 、 谷 と小 泉 を と も に知 る トニ ー

氏(Tony Sweeny;1938年 生 まれ 、 イ ギ リ ス 柔 道

連 盟9段)に 聞 き取 り調 査 を行 っ た64)。彼 は谷 に つ

い て、「谷 が や る柔 術 の方 が(柔 道 よ り も)テ ク ニ ッ

ク が 多 か っ た の で 、 若 い 人 に 人 気 が あ っ た 。 トレ

「武 道 会 」(London, South Kensington)に て

(筆 者 ・2008年9月1日 撮 影)

8

Page 9: Jigoro Kano's pursuit of Judo as a martial art -Judo's ...

嘉納治五郎が求 めた 「武術 と しての柔道」

バ ー ・レゲ ッ ト(Trevor Pryce Leggett)65)も 、 谷

に 武術 的 な テ ク ニ ッ ク を教 わ っ た 一 人 で あ っ た」66)

と語 っ た 。 この 証 言 か ら も明 らか なの は、や は り「武

術 性 」 とい う点 で 、彼 ら は柔術 の 方 が 勝 れ て い る と

認 識 して い た こ とで あ る。 そ して 、 嘉 納 も当 然 、 彼

らの そ の よ うな 認 識 を知 って い た の で は ない か 。

例 え ば、 後 に 武 道 会 の 会 長 と な る ハ リ ソ ン

(E.J. Harrison)67)が 、 昭 和7・1932年 に谷 の 監 修 に

よ る 『The Art of Ju-jitsu』 を 出版 して い る よ うに、

嘉 納 の 武 道 会 へ の 訪 問 か らか な り後 と な った この 時

点 で も、 彼 らは 「Ju-jitsu(柔 術)」 とい う語 を使 用

し て い る。 つ ま り、 彼 ら は 柔 道 を、 武 術 と して は

「Ju-jitsu(あ るい はJujutsu)」 と呼 ん で も差 し障 り

は ない と認 識 して い た の で あ る。

す で に注 記(30)で も触 れ た よ う に、 嘉 納 は理 念

上 で は 「柔 道 と柔術 」 を区 別 す る。 しか し、 昭 和 期たん

に至っても、「柔術 とは柔道の輩なる別名に過 ぎぬしょう

の で あ るが … 」68)と か、 「名 構 は ど うで も宜 しじゅう

い。從来柔術 ・柔道といひ來たつたならば、依然さしょう

ういふ名稻を使用しても差支へはない。」69)と述べ、

実態に関する話になると両者の差異を強調 しない。

このような 「柔道と柔術」についての嘉納の認識に

は、海外での実態が反映されているようにも思われ

る。

一方で、小泉は、嘉納の柔道理念(い わば嘉納イ

ズム)に 惹きつけられていく。例えば、先の トニー

氏は、「小泉は単なる強さや競技での勝利などとい

うことよりも、 きれい(art)な 技 を好 んでいた」

と語った。その例として、(トニー氏が若い頃の)「あ

る昇段審査で、寝技ばか りで攻めて勝利 したヘビー

級の選手に対 して、小泉は昇段を許さなかった」 と

いう出来事を挙げた。そして、この点については、

小泉が50年 振 りに日本へ帰国した際、 日本柔道新

聞社が彼に行ったインタビュー(昭 和30・1955年)

でも全 く同様に、(昇段審査 に関して)「私は柔道に

チャンピョンなしという持論だ。いわゆる芸術的に

重点を置いて乱取や試合、形の動作に自然に現れる

技術の程度を見る」70)と述べている。

そして、このような 「勝利第一主義の否定」、「立

技の重視」などは、すでにみたように嘉納の柔道観

と一致 している。さらに、小泉は自著の中でも、嘉

納/講 道館が もたらした 「最小の力の使用で最大の

効果を得るという原理」や 「身体 と精神および倫理

的な鍛錬方法」による 「教育 としての体系」に共鳴

したと述べているのである71)。

以上のように、谷 と小泉では柔道に対する理解度

と実践の方向性は多少異なっていた72)。だが、いず

れにしても、柔術家であった彼 らが短期間のうちに

柔道受容を為すことができ、逆に嘉納か らみれば、

普及のために彼 らを活用できたのは確かである。

2.柔 道のオリンピック参加と 「武術性」

そ して、嘉納は、昭和8・1933年 頃から 「世界柔

道連盟」を創る構想を立て、イギリスや ドイツで打

診 していく。この構想は、昭和11・1936年 に開催

されるベルリン ・第11回 オリンピック大会 との関

連で、特に ドイツでは柔道をオリンピック種 目に加

えることができるのではないかと期待 され、次第に

熱を帯びていくこととなる73)。この動向に、もちろ

んイギリスも無縁ではなかった。武道会は、昭和4・

1929年 以来、 ドイツ ・チームとの試合を行い、 ま

た、小泉は ドイツで定期的に柔道講習会を開 くなど

交流 していたからである。しかし、小泉は先にみた

ような柔道観(勝 利第一・主義の否定)を もっており、

競技スポーツ化の促進に対 して歯止めをかけようと

する74)。では、「世界柔道連盟」の構想 を立てた嘉

納 自身はどう考えていたのか。ここに、ちょうどべ

Tony Sweeny氏(右)とA-Bennett氏

(2008年9月1日 撮 影)

9

Page 10: Jigoro Kano's pursuit of Judo as a martial art -Judo's ...

嘉納治五郎が求 めた 「武術 としての柔道」

ル リ ン ・オ リ ン ピ ッ ク大 会 が 開 催 さ れ た 昭和11・

1936年 に、 嘉 納 と小 泉 と の 問 で 交 わ され た 「会 話 」

と して 一 つ の 文 書 が 残 さ れ て い る。 「Judo and The

Olympic Games」 と題 す る も の で あ る が 、 以 下 に

重 要 な 箇 所 だ け を要 訳 す る。

「(嘉納 は)現 時 点 で は、柔 道 が オ リ ン ピ ッ ク ・ゲ ー

ム ズ に加 わ る こ と に つ い て は消 極 的 で あ る。…

柔 道 は単 な る ス ポ ー ツ や ゲ ー ム で は な く、 人生 哲 学

で あ り、 芸 術 で あ り、科 学 で あ る 。 そ れ は個 人 と文

化 を高 め る た め の 方 法 で あ る。 オ リ ン ピ ッ ク ・ゲ ー

ム ズ は か な り強 い ナ シ ョナ リズ ム に傾 い て お り、"競

技 柔 道(Contest Judo)"を 発 展 さ せ る こ と は そ の

影 響 を受 け る。 柔 道 は芸 術 ・科 学 と して 、 い か な る

外 部 か らの 影 響 一政 治 的 、 国 家 的 、 人 種 的 、 財 政 的

な ど 一 に も拘 束 され ない 。 す べ て が 終 局 の 目的 で あ

る"人 類 の利 益(Benefit of Humanity)"へ 向 か う

べ き もの で あ る。… 」75)

つ ま り、 嘉 納 が 構 想 した 「世 界 柔 道 連 盟 」 と は、

少 な く と もオ リ ン ピ ック とい う組 織 の傘 下 に 入 る も

の で は な く、競 技 ス ポ ー ツの 世界 とは 一線 を画 した

独 自の 組 織 で あ っ た とい え る。 こ と に大 正 期 以 降、

オ リ ン ピ ッ ク委 員 と して の 経験 を通 して 、 嘉 納 の 中

で イ ン ター ナ シ ョナ リズ ムが 拡 大 して い く。 しか し

一 方 で 、彼 の イ ン ター ナ シ ョナ リズ ム を支 え る た め

の 文 化 的 ナ シ ョナ リズ ム を担 保 す る もの が 「柔 道 」

で あ った 。 つ ま り、 イ ン タ ー ナ シ ョナ リズ ムが 強 ま

れ ば強 ま る ほ ど、 欧 米 ス ポ ー ツ との差 異 を 明確 に し

う る 「日本 文 化 と して の柔 道 」 が 求 め られ た の だ と

い え る76)。 そ して、 そ の た め の 重 要 な 方 略 と して 、

嘉 納 は 日本 古 来 の武 術/柔 術 の 「研 究 」 を進 め る 必

要 が あ っ た と考 え られ る の で あ る77)。

一 方、 欧米 の側 に お い て も当 然 の こ とな が ら、 オ

リ ン ピ ッ ク に表 象 さ れ る 「競 技 ス ポ ー ツ 」 と 「柔

術/柔 道 」 と の 違 い は 認 識 さ れ て い た。 例 え ば、

オ リ ン ピ ッ ク を 先 導 した フ ラ ンス の ク ー ベ ル タ ン

(Pierre de Coubertin; 1863-1937年)は 、自著 の 『20

世 紀 の 青 年教 育:第1部 、 実 用 的 ジム ナ ス テ ィー ク

(Gymnastique Utilitaire)』(明 治39・1906年 、 第4

版/初 版1905年)に お い て 「実 用 的 」 な種 目 を取

り上 げ る 中、(付 録 と して で は あ るが)「 柔 術 」 に つ

い て次 の よ うに述 べ て い る。(日露 戦 争 に お け る)「日

本 軍 の勝 利 は柔 術 を 欧米 に普 及 させ る で あ ろ う こ と

は予 測 で きた こ とだ。 柔 術 は優 れ て 実用 的 な格 闘技

の一 つ で あ る 。 なぜ な ら、 ほ とん ど力 を使 わ ず 、 た

ち ど こ ろ に相 手 を戦 闘 放 棄 状 態 に す る か らで あ る 」

(下 線 ・筆 者)78)。 さ ら に ク ー ベ ル タ ンは 、 同 時 期

(明治39・1906年1月)に 刊 行 され た 『オ リ ン ピ ッ

ク ・レ ビ ュ ー(Revue Olympique)』 の 中 で 、 「柔

術 は ス ポ ー ツ か?」 と問 い、 「柔 術 は た だ の ス ポ ー

ツで は ない 。 そ れ はス ポー ツ と い う よ り、 見 るべ き

高 度 な防 御 の 手 段 で あ る」、 「しか しス ポ ー ツ で得 ら

れ る よ う な 高 い 満 足 感 を こ の 運 動(ex)に 期 待 す

る こ とは止 め た ほ うが よ い。 こ の よ うな訳 で 、 わ れ

わ れ は柔 術 を ス ポ ー ツ とは言 わ な い 立場 を とる の で

あ る 」(下 線 ・筆 者)79)と 結 論 づ け て い る。 こ の よ

うに ク ー ベ ル タ ンは 、 柔術 が もつ 「格 闘技 と して の

優 れ た 実用 性 」 を評価 す る 一 方 で 、 柔 術 は欧 米 各 種

の ス ポ ー ツ とは 異 な る とい う見解 を示 して い るの で

あ る 。 そ して 、 そ こで い う 「格 闘 技 と して の 優 れ た

実 用 性 」 と は、こ れ ま で本 論 で述 べ て きた 「武術 性 」

と意 味 的 にイ コー ル で あ る。

『実 用 的 ジ ム ナ ス テ ィ ー ク 』 や 『オ リ ン ピ ッ ク ・

レ ビ ュー 』 が 出 され た 時 点 で は、 ク ーベ ル タ ン と嘉

納 は未 だ接 触 して お らず 、 フ ラ ンス で は柔 術 は 知 ら

れ始めていたが 「柔道」 が 伝 播 して い た様 子 はな い80)。

だ が 、 ク ー ベ ル タ ン は ア メ リ カ の セ オ ドア ・ル ー

ズ ベ ル ト大 統 領 を介 す る 等 に よ り、 す で に 「柔 道 」

の存 在 を知 っ て い た 可 能 性 が あ る。 『実 用 的 ジ ム ナ

ス テ ィ ー ク』 の 見 開 き に は、 「S.E.セ オ ドア ・ル ー

ズ ベ ル ト ー合 衆 国 大 統 領 へ 、 敬 意 と深 甚 な る 感 謝

の念 を こめ て 」("S.E. THEODORE ROOSEVELT

-President des Etats-Unis Hommage de

respectueuse admiration et de sincere gratitude

-")と い う献 辞 が 記 され て お り、 そ の ル ー ズ ベ ル

トは、 同 書 の 出 版 よ り前 の 日露 戦 争 の 最 中(明 治

37・1904年3月 ~ 明 治38・1905年6月 頃 ま で)、

渡 米 して い た 嘉 納 の 高 弟 ・山下 義 詔 か らホ ワ イ トハ

ウス で熱 心 に柔 道 を教 わ っ て い た の で あ る81)。 さ ら

10

Page 11: Jigoro Kano's pursuit of Judo as a martial art -Judo's ...

嘉納治五郎が求 めた 「武術 としての柔道」

に、和 田 に よれ ば 、 クー ベ ル タ ン はル ー ズ ベ ル トに

宛 て た1904年11月11日 付 の書 簡 の 中 で、 「柔 術 の

本 が ほ しい 」 と記 して い た82)。

そ の 後 、 明 治45・1912年 、 ス ト ック ホ ル ム ・第

5回 オ リ ン ピ ック大 会 時 に 、 嘉 納 とク ーベ ル タ ン は

は じめ て 面 会 す る。 また 嘉 納 は、 閉 会 後 に立 ち寄 っ

た パ リで も クー ベ ル タ ン と会 って い るが 、 そ れ らの

機 会 に交 わ され た 会 話 の 具 体 的 内 容 は残 念 なが ら不

明 で あ る(嘉 納 は柔 道 につ い て 何 を語 った の だ ろ う

か)83)。 しか し、 ク ー ベ ル タ ンの 柔 術/柔 道 観 は そ

の 後 も ほ と ん ど変 わ らな か っ た。 な ぜ な ら、 ク ー

ベ ル タ ン は昭 和8・1933年 の 『Bulletin du Bureau

International de Pedagogie Sportive, s.d.(ス ポ ー

ツ教 育 学 国際 事 務 局 報)』の 中で 、先 述 の 『オ リ ン ピ ッ

ク ・レ ビ ュ ー』(明 治39・1906年)に 寄 せ た 「柔 術

は ス ポ ー ッ か?」 と同 じ記 事(つ ま り、 「わ れ わ れ

は柔 術 をス ポ ー ツ と は言 わ な い」 と い う結 論)を 再

び掲 載 してい るか らで あ る。 嘉 納 が こ の よ う な ク ー

ベ ル タ ン の柔 術/柔 道 観 を知 らなか っ た とは考 え に

くい。 した が っ て 、 少 な く と も1930年 代 初 め 頃 ま

で に お い て、 ク ー ベ ル タ ンお よ び嘉 納 の 周 辺 か ら、

柔 道 を オ リ ンピ ック種 目に加 え る とい う提 案 の な さ

れ る可 能 性 は極 め て低 か っ た とい え る。

V. ま と め

嘉 納 治 五 郎 は柔 道 の草 創 期 か ら継 続 して武 術 性 を

重 視 し、 さ らに 大 正 末 期 か ら再 び 柔 術 を 中心 と し

た 「武 術 の研 究 」 を推 進 した。 しか しこ れ ま で の嘉

納/柔 道 に 関す る研 究 に お い て、 そ の よ うな 武術 性

重 視 の文 化 的背 景 や理 由 が 明 らか に され た こ とは な

い。 本 研 究 で は そ の側 面 に ア プ ロ ー チ し、 以 下 の 点

が導 出 さ れ た。

1. まず 、嘉 納 が 柔 道 に 求 め た 「教 育 的価 値 」 を通

時 的 か つ 体 系 的 に分 析 し た結 果 、 「武 術 と し て の価

値 」 は比 較 的重 視 され て お り、 大正 期 以 降 に ます ま

す 強 まる傾 向 に あ る こ とが確 認 され た 。

2. 大正 期 以 降 、 嘉 納 が 柔 道 の 武術 性 を重 視 した 理

由 に は 、 欧 米 ス ポ ー ツ との 差 異 を明確 に す る とい う

意 図 、 す な わ ち 文化 的 ア イ デ ンテ ィテ ィの 保 持 とい

う課題が関係 していたと考えられる。なぜなら、嘉

納は早い時期か ら柔道の競技化、つまり自由な練習

法である乱取およびそれを用いた試合法を確立 して

いったが、大正期以降にそれらが盛行 となるにつれ

て、勝利第一主義の台頭による価値観の変容、およ

び寝技偏重や形 ・当身技軽視等による技術の変容が

起こり、全体的に欧米スポーツに近似 してい くとい

う問題が浮上 していったからである。 また、大正期

以降は、明治42・1909年 からIOC委 員になった嘉

納が、彼 自身のインターナシ ョナリズムを強める

のと同時に、それを支えるための文化的なナショナ

リズムも強める時期であった。柔道は彼の文化的ナ

ショナリズムを担保するものであ り、したがって柔

道に、伝統的要素 としての武術性の再注入が求めら

れたと考えられる。

3, さらに、武術性の追究による文化的アイデン

ティティの保持 という課題は、柔道の海外普及のた

めには不可欠のものであった。なぜなら、明治期に

おいてすでに柔術が欧米各地に流行してお り、その

人気の要因はいうまでもな く欧米スポーツには無い

武術性にあったからである。そこで嘉納は、柔術の

武術性を再考 しつつ、海外においても柔術 との連続

性を保ちながら柔道を普及させていった。これらの

点について本論では、嘉納が直接関与したイギリス

における柔術 と柔道の連続性 を事例 として示 した。

また、嘉納は晩年に世界柔道連盟を構想したが、欧

米スポーツの表象たるオリンピックに柔道を加える

ことについては消極的であったこと、そして、その

ような嘉納の意思と結びつ く一つの傍証として、オ

リンピックを先導したクーベルタンも柔術/柔 道を

「実用性(す なわち武術性)の 高い格闘技」とみなし、

欧米スポーツとは異なるものと捉 えていたことを示

した。

おわ りに。戦後、柔道がオリンピック種 目となっ

て競技化が促進されるのと同時進行的に、合気道や

空手道が海外へ普及してい くことになる。例えば、

世界で最も合気道の愛好者が多い国とされるフラン

スにその種 を蒔いた一人は、本論で触れたように、

嘉納が講道館か ら 「武術の研究」のために合気柔術

11

Page 12: Jigoro Kano's pursuit of Judo as a martial art -Judo's ...

嘉納治五郎が求めた 「武術 として の柔道」

/合 気道へ派遣した望月稔であった。この事実は、

合気柔術/合 気道には有って、(特 に戦後の)柔 道

には無い 「武術性」が海外で評価 された証左である

といえる。このような事態に至ることを嘉納は十分

に予測 していたのではないだろうか。だからこそ、

柔術 を中心 に日本古来の武術 を調べ上げて、「最も

進んだ武術」としての 「柔道」を創 り上げたかった

のではないだろうか。

昭和33・1958年 に、第3代 講道館館長でかつ国

際柔道連盟会長であった嘉納履正が次のように述べ

ている。

「嘉納師範はまず柔道の近代体育 としての完成に

力をそそぎ、旧来の柔術に含まれた護身術的の面は、

これを研究しつつもその組織を完成するまでには至

らなかったように考えられる。」84)

このように、嘉納が求めた 「武術 としての柔道」

が"未 完であった"と いう認識は、戦後の早い時期

までの柔道界に、確かに残っていたのである。

注および文献

1) 江戸期において、素手 を主体 とする武術 には、柔術 と称する以外にも組打 ・捕手 ・小具足 ・拳法等、様々に呼ばれる流

派が存在 したが、柔術 という名称が盛んに用いられるようになるのは慶安以降(1648年 ~)と される(藤 堂良明(1995)

柔術か ら柔道への名辞の変遷について.武 道文化の研 究,第 一書房,pp.176-177.)。 「柔」 とい う語が表象 するように、

柔術の思想 ・技術の体系化には鎌倉以降の戦国期の武士によってある程度技術化 されていた甲冑組打系武技 に、中国系武

術が影響を与えたものと考え られる。江戸初期において主立った柔術流派はわずかに数流であったが、江戸中期以降では

各藩校における必修科 目として位置づけ られ、多 くの分派 ・支流を生んでいった。今村によれば、『本朝武芸小伝』、『新

選武術流祖録』、『諸藩学制』、『日本武芸小伝』に記された柔術流派の総数は百七十九流(そ のうち異名同流などを差 し引

けば約百六十七流)で あるが、実際の流派数 はそれ よりも多かったとされる。今村嘉雄(1967)十 九世紀に於ける日本体

育の研究.不 昧堂,pp.343-344.;今 村嘉雄(1970)日 本体育史.不 昧堂,p.159.

2) 嘉納 は、東京大学卒業後、私塾である嘉納塾 を設立 し、英語学校の弘文館、そ して講道館を営んだ。一方で、公務 として

は学習院教 師~教頭(明 治15-24年)、 熊本第五高等学校長(明 治24-26年)、 東京高等師範学校長(明 治26-31年 、明治

34大 正9年)な どの教育職を歴任 し、明治24・1891年 からは文部省参事官を兼任 した。その他、アジア初の国際オリンピッ

ク委員 を務め(明治42一昭和13年)、明治44・1911年 には現在の 日本体育協会の前身である大日本体育協会を設立するなど、

生涯を通 して教育界/体 育界 に多大な貢献 を為 した。

3) ただ し、「体育法、勝負法、修心法」に、「娯楽 を享受す る」 という目標 ・価値づけの 「慰心法」が加 わることがある。例

えば、次の文献を参照。嘉納治五郎(1913)柔 道概説.柔 道概要.大 日本武徳会修養団本部発行.講 道館監修(1988)『 嘉

納治五郎大系』,第3巻,本 の友社,p.104,所 収。なお以下、 『嘉納治五郎大系』からの引用については 『大系』 と略す。

4) 嘉納治五郎(1889)柔 道一班并ニ其教育上ノ價値.大 日本教育会講演記録,渡 辺一郎編(1971)史 料明治武道史,新 人物

往来社,p.89.

5) 前掲、嘉納治五郎(1889),渡 辺一郎編(1971)所 収,p.82.

6) 嘉納治五郎(1931)柔 道教本上巻.三 省堂発行,大 系3,p.299.

7) 例 えば、「元来柔道は体育であ り、武術であり、 また精神修養の方法であるか ら、体育 として柔道を学んでいる時にも、

武術や精神修養のことに絶 えず心を配 り、また武術 として稽古している時にも、体育や精神修養のことを忘れてはならぬ。」

(下線・筆者、前掲、嘉納治五郎(1931),大 系3,p.295.)と いうように、嘉納は 「勝負法」の 「勝負」をしばしば 「武術」

と言い換 えてお り、それ らは同義である。

8) この点 についてはすでに、当講演 を詳しく分析 した寒川による論文(本 文で後述)に おいて、「講演にいう勝負法 とは、

今 日的なスポーツ競技の意味ではない。近世の柔術が 目的 とした殺傷 を意味させている」 と指摘 されている。寒川恒夫

(1994)「柔道一班並ニ其教育上ノ價値」講演にみる嘉納治五郎の柔道体系論 講道館柔道科学研究会紀要 ・第VII輯p.3.

9) この傾向については、戦後 における学校武道/柔 道の禁止か ら復活に至る経緯の中で、「競技スポーツとしての柔道」路

線が制約されていった という事情か ら説明する必要があるが、詳 しくは次の文献を参照 されたい。永木耕介(2008)嘉 納

柔道思想の継承 と変容.風 間書房,第 二章。簡単にいっておけば、GHQに よる占領下、軍事技術(military arts)な ら

12

Page 13: Jigoro Kano's pursuit of Judo as a martial art -Judo's ...

嘉納治五郎が求 めた 「武術 としての柔道」

び に軍 国主義/超 国家 主義 に 関す る精神 教育 が徹 底 的 に排 除 され る中 で、 柔道 に あっ て も復 活 のた めに は 「武 術性 」 を隠

蔽せ ざる を得 なか った か らで あ る。 そ して、「柔 道 は嘉納 がす で に近 代 スポ ー ツ と して創 り上 げた もの で あ る」 とい う復

活 のた め に主張 された 方便(た だ し、 柔道 の一 面 に対 す る意 味で は言 い得 て い る)が 次 第 に前面 に出て 定着 してい っ た。

戦後 の嘉 納/柔 道 に関す る研 究 者 の 目線 も多 くがそ れ に した が って 「近代 ス ポー ツ としての 柔道 」 を前提 と し、過 去 か ら

の連 続性 、別 言 すれ ば、 「歴 史の 深 さ」 を問題 に しな くな って いっ た。

10) 前掲 、寒 川恒 夫(1994),p.6.

11) 前掲 、寒 川恒 夫(1994),p.6.

12) 嘉納 治五 郎(1927)講 道館 の使 命 に就 いて.作 興6(1),講 道 館 文化会,p.3.

13) 老松 信 一(1976)柔 道百 年.時 事 通信 社,p.92.な お、 大 日本武 徳 会 等 を含 め た全 国 の 柔道 修 行者 数 は 明治 末 期 に は数

十万 人 を超 えて いた とされ る。

14) この 「武術 の研 究機 関」 を 「古武 道研 究会 」 と称す る文 献 もあ る(望 月稔(1978)技 法 ・日本傳 柔術 ・黒帯 合気 道,講 談社,

p.198;藤 堂 良明(2007)柔 道 の歴 史 と文化,不 昧 堂,pp.125-128;原 尻 英樹(2008)心 身一 如の 身体 づ くり-武 道,そ し

て和 す る"合 気",そ の原理 ・歴 史 ・教 育-,勉 誠 出版,pp.31-44.な ど)。 しか し、「古 武道研 究 会」 とい う名 称 につ いて は、

嘉 納 ない しは講 道館 が正 式 に名付 け た もの とは考 え られな い。 おそ らくは望 月稔(後 述 の ように、嘉 納 の指 示 に よ り講道

館 か ら植 芝 盛平 の大 東流合 気 柔術 を習 得す る ため に派遣 された人 物)が 個 人 的 にそ う呼ん だの が は じま りで あ ろ う。 そ の

理 由 と して、まず 第一 に、嘉 納 自身 の著述 文献 や 講道館 関係 の 資料 にお い て 「古 武道研 究 会」 な る名称 は 出現 しない こ と、

また、 例 えば望 月 自身 も他の 箇所 で は当研 究会 の こ とを 「古 武術 の研 究 ・伝承 の 部」 と呼 んで い る(望 月稔(1973)柔 道

と古武 道の 話-嘉 納 治五 郎先 生 の考 え方-.日 本柔 道新 聞社,柔 道 新 聞 ・昭和48年2月1日 付1面)。 さ らに、嘉納 は 「武 道」

とい う語 を ほ とん ど使 用せ ず 、「武 道 と柔道 」 は概 念的 に異 なる もの として、 日頃か らそ の混 用 を嫌 っ てい た とい う証言

もあ る(河 内 次郎(1952)講 道館 不易 の真 理.日 本 柔道 新 聞社,柔 道通 信 ・昭 和27年7月30日 付2面)。 望 月稔 は各種

の 武術 を修 め、そ れ らに よる総合 的 な人格 陶冶 を強調 す るた め、「武 道」 とい う語 を好 ん で用 いた(前 掲 永木 耕介(2008),

p.225.)。 なお、 望月 稔 と嘉納 、お よび植芝 盛平 の 関係 につ いて は、 原尻英 樹 に よる著 書(前 掲,2008)が 詳 しい。

15) 嘉 納治 五郎(1899)第 三 回柔 道聯 合勝 負 の前後 に於 け る講話.国 士2(10),造 士 会,p.69.

16) 例 え ば、嘉 納 に よる柔道 の 「武術 性」 を再 考 した数 少 ない研 究者 の 一人 であ る富 木謙 治 も、嘉 納 の意 図 につ い て は 「護 身

術 と して 」 あ るい は 「安全 教 育 として」 とい う現 実 的 な観 点か ら説 明 してい る(富 木 謙治(1991)武 道論 大 修館 書 店,

pp.187-188.)。 なお 、富 木 は、柔道 修行 者 でかつ 大東 流合 気柔 術(後 の合 気道)の 修行 者 で もあ った(1900-1979年 、柔 道8段 、

合 気道8段)。

17) 『嘉 納治 五郎 大系』(前 掲,1988)は 全14巻 か ら成 って お り、 そ のな かの1巻 ~11巻 にお い て、講 道館 雑誌 ・中等教 育 会

誌 等、 各方 面 にお け る多 くの嘉納 の発 表が 収録 されて い る。

18) 内容分 析(content analysis)と は 、「表 明 された コ ミュニ ケー シ ョン内容 の客観 的 ・体系 的 ・数 量的 記述 の ため の調査 技術

であ る」 と定 義 され(ベ レル ソ ンB.(稲 葉 三千 男 ・金 圭換 訳)(1957)内 容分析.大 衆 とマス コミュ ニケ ー シ ョン3.社

会 心 理学 講座VII.み す ず書 房,p.5.)、 意 見 や メ ッセ ー ジに潜 む価 値観 を推 定す る研 究 に多 用 されて きた もので あ る。筆

者 が行 った 「内容 分析 」 の手 続 きの概 要 は、 「大系 」 にお け る嘉納 の 柔道 に対 す る言 説 ・メ ッセ ー ジ を、 あ らか じめ用 意

した 分析 枠組(具 体 的 には価 値 カ テ ゴリー の設 定)に よ って解釈 ・分類 し、そ の結 果 を量 的 に カウ ン トした もの で ある。

詳 し くは、永 木 耕介(1999)嘉 納治 五 郎 の柔 道観 の 力点 と構 造-言 説 分析 に よる アプ ロー チ か ら-.武 道 学研 究32(1):

42-69.を 参 照 され たい 。 なお、1テ ーマ(演 題)に お け る平均 出現 数 を示 した の は、嘉納 の発 表 テー マ数 は各 年 間にお け

る諸事 情(例 えば彼 の外 遊期 間 に あっ ては発 表 は空 白 とな り、 「国士 」・「柔道 」 といっ た定期 刊 行誌 の発 行 期 間で は増加

す るな ど)に よって異 な るか らであ る。

19) 嘉納 治五 郎(1926)講 道館 柔道 と講 道館 の使 命及 び事 業 に就 いて.作 興5(3),講 道館 文化 会,p.5.

20) 沖縄 の唐 手 と嘉 納/講 道 館 との 関 係 に つ い て は、 藤 堂 に よ って ま とめ られ て い る(前 掲,藤 堂 良 明(2007),pp.131-

134.)。

21) 醍醐 敏郎(2009)講 道 館 柔道 の形 につ い て(5).柔 道80(2),講 道館,pp.43-46.な お、 醍醐 も述 べ て いる よ うに、 この

形 は戦後 ほ とん ど実施 され て いな い。

22) 嘉納 治五 郎(1930)道 場 にお け る形 乱取 練習 の 目的 を論 ず ・第2回.柔 道1(3),講 道 館文 化会,p.4.

23) 昭和17・1942年 に 「合気 道 」 と改称 。

13

Page 14: Jigoro Kano's pursuit of Judo as a martial art -Judo's ...

嘉納 治五郎 が求めた 「武術 としての柔道」

24) 望 月稔(1973)柔 道 と古 武道 の話-嘉 納 治五 郎先 生 の考 え方-.日 本 柔道新 聞社,柔 道新 聞 ・昭和48年2月1日 付1面.

な お、先 に も指摘 した よ うに、当 文中 にお け る 「古伝 武 道」 とい う表現 は嘉納 が直接 使 用 した ので はな く、望 月が 言 い換

えた もので あ る と思 われ る。

25) 大系13(年 譜),p.115.

26) 嘉 納治 五 郎(1935)講 道 館が 有志 に棒術 を練習 せ しむる に至 っ た理 由.柔 道6(4),講 道館 文 化会,pp.2-5.ち なみ に嘉

納 は若 い 頃、 「柳 生流 の棒術 を學 んだ こ とが あ る」(同 文 献p.2)と 述 懐 して い る。

27) 前 掲,嘉 納 治五 郎(1926),作 興5(3),p.5.

28) 山 田實(1997)yawara知 られ ざ る 日本 柔術 の世 界BABジ ャパ ン出 版局,pp.213-214.な お、 井 上 俊 は、 『姿 三 四郎 』

(富 田常雄 に よる昭 和17・1942年 初 版 のベ ス トセ ラ ー)を 取 り上 げ 、 その小 説 が 国民 総 動員 の た めの イ デ オ ロギ ー装 置

の一 部 として機 能 し(井 上俊(2000)近 代 日本 にお け るス ポー ツ と武道.ス ポ ー ツ と芸 術 の社 会学,世 界 思想 社,pp.57-

59.)、 また、 柔道 に対 す る柔術 とい う、い わば仮 想 の敵 を創 り出 した ところ に もイデオ ロギ ー的 意味 があ った と指 摘 して

い る(井 上俊(2004)武 道の誕 生,吉 川弘 文館pp.162-163.)。

29) 前掲 、嘉 納 治五 郎(1931),大 系3,p.299.おうよう じっ

30) ただ し嘉納は、「柔術 といへば主 として技術 を指 し、柔道といへば道 を指 し、又はその道を鷹用 して行ふ諸般の實行を指く

す といふ 區別 が あ る」(前 掲,嘉 納 治五 郎(1926),作 興5(3),p.3.)と い うよ うに、 理念 上 か ら 「柔 術 と柔 道」 を説 く

際 に はそ れ らを区別 す る。

31) 桜 庭武(1984/1934)柔 道史 攷.目 黒 書店(第 一書 房 に よる復 刻 版).

32) 桜 庭 は東京 高等 師範 学校 柔 道部 出身 で、 いわ ば嘉納 の 直弟子 で あ った。嘉 納 自身 が柔術 を相 当 に研 究 したか らこそ、 桜庭

の努力 が理 解 で きたの であ ろ う。 ひ ょっ とす れ ば桜 庭 の柔術 研 究へ の意欲 は、嘉 納 に よって引 き出 された もの か も しれ な

い。 なお 、嘉 納が 柔術研 究 に熱 心で あ った こ とにつ いて 山田 は、「嘉納 こそ は、(中 略)日 本柔 術研 究 の一大 先達(パ イオ

ニ ア)と しての名 誉 を もあた え られて然 るべ きなの であ る」 と述べ て い る。 前掲 山田實(1997),p.231.

33) 富木 謙 治;大 庭英 雄 ・志 々田 文明 改 訂(1983)新 合気 道 テキ ス ト改訂 版,稲 門 堂,pp.27-28.な お 、富 木 は 昭和30年 代

に 当身技 と関節技 を主体 とす る 「離 れ て行 う乱取 競技 」 を創案 し、そ の後 この 「離 れ て行 う乱 取競 技 」 は 「合 気道 」 の一

種 に位 置づ き今 日に至 ってい る。

34) この 「適否調 査 」の 結論 は、 翌年 の 明治17・1884年 に出 され た。

35) 前掲,寒 川 恒夫(1994),pp.6-9.

36) この よ うな傾 向 をやや マ ク ロ的 に捉 えれ ば、「ス ポー ツ のル ール化 」 と 「暴 力 の抑 制」 との関係 性 を指摘 した 、N.エ リア

ス らの 「ス ポー ツ と文明 化」 論 を想起 させ る面 があ る。N.エ リア ス/E.ダ ニ ング(大 平 章訳 ・1995)ス ポ ー ツ と文 明化

一興奮 の探 求 .法 政大 学 出版局.

37) ただ し、 嘉納 自身 も語 っ てい る ように、 流派 に よっ て 「形 と乱 取」 の行 い方(軽 重)は 様 々 であ った。 前掲,嘉 納 治五 郎

(1889),渡 辺 一郎 編(1971)所 収,p.83.どり ママ

38) 明治33・1900年 にはじめて明文化 された 「講道館柔道乱捕試合審判規程」では、「手足首 ・指」の関節技が禁止され、 さとうじめ あしがらみ

らに初段 以 下 の試合 では全 て の 「関節 技」 が 禁止 された。 そ の後 も大 正5・1916年 の 改訂 で は 「胴 締 」 「足 搦」 が 禁止 さ

れ るな ど、徐 々に危 険 な技 が 除外 され た(村 山輝 志(1973)柔 道試 合 審判規 定.学 芸 出 版社,pp.44-55.)。

39) 嘉納 治五 郎(1931)国 民体 育 の大 方針 につ いて.中 等教 育69,中 等 教育 会,大 系8, p.59.

40) 嘉納 治 五郎(1937)柔 道 の修 行者 は形 の練 習 に今一 層の 力 を用 ひ よ.柔 道8(4),講 道館 文化 会,p.2.つきなみ

41) 明治20年 代から紅 白試合や月次試合 など昇段審査 を兼ねた試合が行われた。

42) 例えば大正15・1926年 の 「学校体操教授要 目」において も、「剣道及柔道、競技等ニ在 リテハ特ニ禮節ラ重シ徒ニ勝敗ニ

捉ハルルカ如キコ トアルヘカラス」(傍点・筆者)とされてお り、勝利への執着が過熱 していた様子が うかがえる。文部省内・

教育史編纂委員会(1964/1938)明 治以降 教育制度発達史8.教 育資料調査会,p.857.

43) 「立技」あるいは 「寝技」 というのは、技を施す際の状態に対する慣用的表現である。柔道の技の正式な分類 は、創始当

初か ら 「投技」「固技」「当身技」の3種 である。

44) 嘉納治五郎(1918)講 道館柔道修行者の進級昇段の方針 を述べて東京仙台両高等学校柔道試合に関する世評に及ぶ.柔 道

4(6),柔 道会,p.12.

45) 嘉納治五郎(1931)全 日本柔道選士権大会の経過 と全 日本中等学校柔道選士権大会の豫想.柔 道2(11),講道館文化会,p.6.

14

Page 15: Jigoro Kano's pursuit of Judo as a martial art -Judo's ...

嘉納治五郎が求め た 「武術 と しての柔道」

46) 前掲,嘉 納治 五郎(1899),国 士2(10),p.63.

47) 嘉 納 治五 郎(1925)柔 道試 合審 判規 程 の改正 につ い て.講 道館 文化 会,大 系2, p438.

48) 嘉納 治五 郎(1922)講 道館 柔道 の文 化的 精神 の発 揮.有 効 乃活 動8(2),柔 道会, pp.5-6.

49) 前掲,嘉 納治 五郎(1889),渡 辺 一郎編(1971)所 収, p.91.

50) また、嘉 納 はす でに 当講演 にお い て、お そ らくボ クシ ング に倣 ったで あ ろ う 「当身技 に よる乱 取 」 を示 唆 してい るが、 以

後 それ が新 た に創 出 され る こ とはなか っ た。 なお 、 当身技 は、「投 の形 」や 「極 の形 」 そ して 「柔 の形 」 な ど、早 い時 期

(明治期)に 創 られ た形 にす で に含 まれ てお り、 さ らに先述 の よ うに、昭和2・1927年 に発 表 され た 「(攻防式)精 力 善用

国民 体育 」 の形 では前 半部 が 当身技 で 占め られ てい る。

51) 前掲,嘉 納治 五郎(1937),柔 道8(4), p.3.

52) 嘉納 治五 郎(1936)道 場 にお け る修 行者 に告 ぐ.柔 道7(6),講 道 館文 化会, p.4.

53) もっ と も、海 外 にお け る柔 術 の普及 は国や地 域 に よっ て様 々であ る。 また、講 道館 の高 弟 ・山下 義韶 が セオ ドア ・ル ーズ

ベ ル ト大 統領 に柔 道 を教 えた ア メ リカの よ うに、柔 道が上 流 階級ヘ ダイ レク トに伝 え られ た例 もあ る。

54) 谷が 天神 真楊 流柔 術 の出 であ る こ とにつ い て は、 小泉 軍 治(1955)英 国柔 道界 の実 態.日 本 柔道 新 聞社,柔 道 新 聞 ・昭和

30年3月1日 付二 面 を参照 。また 、谷 が 田辺又 右衛 門 につ き不遷 流柔 術 を習 った とい う説 を多 くの 文献 が採 用 して い る(前

掲 山田實(1997),pp.39-40;井 上 俊(2004)武 道 の誕 生.吉 川 弘文 館,p.65;高 橋 義雄(2002)名 探 偵 ホ ーム ズ を救 っ

た 玉 島の不 遷流 柔 術(2).柔 道73(10),講 道館,p.80;大 系12,p.165.な ど)が 、管 見 の限 りその根 拠 を確 認 で きな い。

ここで は谷 と長 らくロ ン ドンで一緒 に過 ご し、 自ら も天神 真楊 流 の 出身 であ った小 泉 の言 を信用 してお く。 なお 、久保 田

に よれ ば、幕末(1860年 頃)の 天神真 楊流 柔術 は、「非常 に盛大 であ って 門人 五千 余 を数 え」た とい う(久 保 田敏 弘(1996)

天神 真楊 流 柔術 につ いて.柔 道67(6),講 道館,p.75.)。

55) 谷 の 渡英 年 につ いて は 明治33・1900年 説 も多 い が、 これ も小 泉 の 自著 にお け る記 述(G.Koizumi(1960) My Study of

Judo. W.Foulsham and CO.LTD, London, p.23.)お よび、 谷 の イ ギ リス で の活 動 を考 え 合 わ せ、 明 治32・1899年9

月 と して お く。 バ ー トン ・ラ イ ト(1860-1951年)も また 日本 に3年 間滞 在 して天 神 真 楊 流 を習 っ た とい う。Richard

Bowen (Vice-President of Budokwai :1999) Its Roots and Early History And Some Other Early Matters. Budokwai ホ ー

ムペ ージ (http://www.budokwai.org/history.htm).

な お、バ ー トン ・ラ イ トは、 自名 の 「Barton」 と 「Jujutsu」 を組 み 合 わせ た 「Bartitsu」(バ ー テ ィ ツ)と い う格 闘術

を教 えて いた が、 コナ ン ・ドイ ル によ る 『空 き家 の 冒険』(1903)の 中で シ ャー)ロック ・ホー ム ズが使 う 「日本 の格 闘技

で あ るバ リ ッ(Baritsu)」 が それ であ る とさ れる。 高橋 義雄(2002)名 探 偵 ホ ーム ズ を救 った玉 島 の不遷 流 柔術(1).柔

道73(9),講 道館,pp.85-88.;岡 田桂(2004)十 九世 紀末-二 十 世 紀初 頭 の イギ リス に お ける柔 術 ブ ーム ー社 会 ダー ウ ィ

ニズ ム、身体 文化 メデ ィア の隆盛 と帝 国 的身体-.ス ポー ツ人類 学研 究6,p.28.

56) なお小 泉 は、天 神真 楊流 の修 行後 、他 に2種 ほ どの柔術 を習 ってい る。前 掲,G. Koizumi(1960), p.17.

57) 谷 と小 泉以外 に も当時 のロ ン ドンに は、上 西 貞一、 三宅 タロー、 大 野秋 太郎 な ど興 行 を生 業 と したい わば プロ の柔術/柔

道 家 らが お り、 講道 館 出身 で南米 に渡 って名 を馳せ た前 田光世(通 称;コ ンデ ・コマ)も 一時 期滞 在 して いた。 また、武

道 会 には アマ チュ ア と して かな りの数 の 日本 人練習 者 がお り(村 田直樹(2007)柔 道 の 国際化 一その歴 史 と課題-.武 道

491 (10), pp.46-50.), W.E. Steers、 E.J.Harrisonな ど 日本 で柔術/柔 道 を習 っ たイ ギ リス人 も出入 りして いた 。

58) 大 正5・1916年 に東京 高等 師範 学校 柔道 部 を卒業 した会 田彦一(1893-1972年)は 、イ ギ リスに約2年 間滞 在 した後 、ドイツ、

フ ラ ンス で も指 導 して ヨー ロ ッパ にお ける柔 道普 及 に貢献 した(後 に9段)。

59) 前 掲,渡 辺 一郎 編(1971)所 収,p.127.

60) 久 保 田敏 弘(1996)天 神 真楊 流 柔術 につ いて(そ の二).柔 道67(7),講 道 館,p.66.な お、天神真 楊 流柔術 の技(124本)

の内 、か な りが柔 道 に活 用 され た と指摘 す る久保 田 は、天神 真楊 流 免許 皆伝 師範 で かつ柔 道7段 であ る。 また 、富 木謙 治

は、 柔道 の 当身技 と関節 技 を新 しい観点 か ら再 検討 すべ きで あ る とい う文脈 にお い て、「江戸 時 代 の柔術 、 た とえ ば、 天

神 真楊 流 百二 十四 本の 内容 を検 討 して も、重 要 な もので ある」 と述 べ てい る。富 木謙 治(1977)柔 道 の本 質-嘉 納 師範 の

柔道 観 とその 実践-.柔 道新 聞 ・昭和52年11月10日 付 ・1面.

61) 嘉 納 治五 郎(1928)柔 道家 と して の嘉納 治五 郎 ・第20回,昭 和3年 の外 國旅行.作 興7(12)p.154.

62) 小 谷 澄之(1984)柔 道 一路-海 外普 及 につ くした五十 年-.ベ ー スボ ール ・マ ガ ジ ン社,p.39.

63) 嘉納 治五 郎(1920)柔 道家 に是 非持 っ て居 て貰 いた い精神.有 効乃 活動6(5),柔 道 会,p.7.

15

Page 16: Jigoro Kano's pursuit of Judo as a martial art -Judo's ...

嘉納治五郎が求め た 「武術 としての柔道」

64) なお、 イ ン タビ ュアー としてA.Bennett氏(平 成21・2009年4月 現在 、 関西大 学 国際 部 ・准 教授)に 調査 協力 を頂 い た。

65) トレバ ー ・レゲ ッ ト(1914-2000年)は 、昭和5・1930年 に ロ ン ドンで 柔道 を始 め、戦前 に来 日して講 道館 で も修行 した(後

に6段)。 戦 後 はイ ギ リス 放送協 会(BBC)の 日本 語部 長 を務 め、『紳士 道 と武士 道』(1973),『 日本 武道 の こ ころ』(1993)

な どの著書 が あ る。

66) なお 、 トニー 氏 は武術 的 なテ クニ ック につ いて語 る際 に、 「勝 負法(Shobu-ho)」 と日本語 で発 音 した。

67) ハ リ ソン(1873-1961年)は 武 道会 発足 後 の 間 もない 頃か らメ ンバー で あっ た。彼 は もと も と世界 を駆 け巡 っ た ジ ャーナ

リス トで 、 明治30・1897年 に来 日して柔術 を習 った(前 掲,R.Bowen(1999).な お 、流 派等 は不 明)。 後 に柔 道4段 。

68) エ イ ・エ フ ・タマス(1934)嘉 納 師範 に柔道 を聴 く.柔 道5(7),講 道館 文 化会, p.4.

69) 前掲,嘉 納治 五郎(1926),作 興5(3), p.3.

70) 前掲,小 泉(1955),柔 道新 聞 ・昭和30年3月1日 付 二 面.

71) 前掲 G.Koizumi(1960), p.18.筆 者 に よる要訳 。

72) この よ うな柔道 に対 す る違 い の結 果で あ ろ うか 、最 終的 に谷 は4段 に止 ま り、小 泉 は7段 とな る。

73) 「欧州 柔 道連 盟」 と 「世 界柔 道連 盟 」の 結成 、 お よびベ ル リ ン ・オ リン ピ ックの競技 種 目に柔 道 を加 え よ うとい う ドイ ツ

の 動 向 につ いて は、 イ ギ リス ・バ ース(Bath)大 学 の 図書館 に納 め られ てい る 『Richrd Bowen Collection』 に よ り うか

が え る。特 に、武 道会 のH.A.Tricker(当 時 セ ク レタ リー、初 段)と 嘉 納 との 問で交 わ され た書簡 が収 め られ てい る 『C-65』

で は、Trickerが 、 ドイ ツに よる欧 州/世 界 柔道 連盟 結成 へ の動 きとオ リン ピック参 加 との 関係 につ い て嘉納 の考 え と立

場 を問い質 してい る(1934年12月16日 付)。 当Collectionは 、武道 会の メ ンバー(後 に副 会長)で 第1回 世界 選手 権(1956年;

東 京)の 出場 者 で あ るRichrd Bowen(2005年 没)が 再 録/蒐 集 した議 事録 、 書簡 等 の史料 集 で あ る。筆 者 らは2008年

9月2~5日 、Mike Callan氏(当 時,バ ース大 学 ・教授)ら の協 力 の も とで 当Collectionの 調 査 に当 た った。

なお、 先述 の武 道 会 にお ける イ ンタ ビュー も含 め、 イ ギ リス にお ける調 査 につ い ては、 「科 学研 究 費 ・基盤 研 究B一 般

(20300209;嘉 納 治五 郎 の体育 思想 の海 外 にお け る評 価 と受 容)」 に よる補助 を受 け た。

74) 例 えば、 戦後 にお いて も、 「英 国 は じめ ヨー ロ ッパ 柔 道連 盟 で は体 重 制 は認 め ない。 しか し、 イ タリーや ドイ ツで は体 重

制 を希 望 してい る」(小 泉 軍 治,柔 道新 聞 ・昭和30年3月1日 付2面)と 述 べ てい る よ うに、小 泉 は競技 ス ポー ツ化 の促

進 に対 して否 定 的で あ った。

75) ここで取 り上 げ た文書 は、1947年4月 に小泉 が武 道会 の会 誌 に発表 した もので あ り、 先述 の 『Richrd Bowen Collection』

の 『C-563』に収 め られて い る。当文 書 につい て は、戦 前 に嘉納 との間 で交 わ された会 話 の内容 が戦 後 に公 表 され た理 由な ど、

検討 すべ き点が あ る。 ただ し、嘉 納が 柔道 の オ リン ピック参 加 に消極 的 であ った とい う証拠 は、 日本 国 内で もい くつ か残

されて い る。例 え ば、前掲,永 木 耕介(2008), pp.138-139.を 参照 。

76) 「文化 ナ シ ョナ リズ ム」 論 につ い ては、 次 の文 献 を参 照。 吉野 耕作(1997)文 化 ナ シ ョナ リズ ム の社会 学 一現 代 日本 の ア

イデ ンテ ィテ ィの行 方.名 古 屋大 学 出版会,第 二章:pp.19-52.

77) この よ うに、 柔道 が世 界 に広 が る過程 で 逆 に、 「日本古 来 の武術 へ の探 究」 が起 こ り、 そ れ を踏 まえ た新 た な創造 が 求 め

られ た とい え る。 その 意味 で は、 「伝 統 の創 出 」 とい え な くもない(E.ホ ブズ ボ ウム:前 川啓 治 ほ か訳(1992)創 られ

た伝統 紀伊 國 屋書 店,pp.9-28.)。 た だ し、 本 論 で取 り上 げた よ うに、 例 え ば大 正期 にお いて嘉 納 が 出会 った琉 球唐 手

や 合気 柔術 な どは奥 深 いホ ンモ ノの 武術 であ った ろ うか ら、 この場 合 に求め られ た 「伝 統 」 とは、 元来 存在 す るホ ンモ ノ

を再発 掘 す る こ とに よって さ らに強 化 され る 「伝 統 」 であ っ た。 した が って、 「歴 史 的 な過去 との連 続性 が おお か た架 空

の もの1(前 掲.E.ホ ブズボ ウム(1992).D.10)で あ る 「創 り出され た伝統[と は、 区別 を要す る であ ろ う。

78) "On pouvait prevoir que les victoires des armees japonaises auraient pour effet de populariser le Jiu-Jitsu en Amerique

et en Europe. Le Jiu-Jitsu est une escrime eminemment utilitaire puisqu'il apprend a mettre tres vite et avec peu

defforts radversaire hors de combat. " Coubertin,P.de (1906) Gymnastique Utilitaire. Education des adolescents au 20e

siecle, lere partie : 4eme edition, Paris, Felix Alcan, p.158. ‚È ‚¨,–{ •¶ ’† ‚Ì –M–ó ‚Í •´ •…•d —E(http://www.shgshmz.

gn.to/shgmax/public html/coubertin) に よる。

79) "le jiu-jitsu est-il vraiment un sport? …Non, ce n'est pas un sport ou,…c' est par contre un moyen de

defense remarquable…" "…il faut renoncer a trouver dans cet exercice les hautes satisfactions que procurent

les sports, voila a quel point de vue nous nous placions en disant que le jiu-jitsu n' en etait pas un." Coubertin,P.de

(1906) Revue Olympique. pp.5-7. なお、本文中の邦訳は清水重勇 (http://www.shgshmz.gn.to/shgmax/public html/

16

Page 17: Jigoro Kano's pursuit of Judo as a martial art -Judo's ...

嘉納治五郎が求めた 「武術 としての柔道」

coubertin) によるが、それは同 じ記事が再掲載されたBulletin du Bureau International de Pedagogie Sportive, s.d. (1933)

の"L

e jiu-jitsu est-il un sport ?" に対す る訳 を使用させていただいた。

80) フ ランス の柔道 史 につ いて は次 の文献 を参 照 。Brousse, M. (1996) Le Judo Son Histoire Ses Succes. Liver, Geneve.

81) 水 谷竹 紫(1916)米 國 に於 け る柔道普 及 の先驅 者-努 力 の人 山下七段 柔道2(5).pp.42-51.

82) WADA, Koichi, L' origine du mouvement olympique au Japon : developpement de l' olympisme en Asie par Pierre

de Coubertin. Memoire de DEA du STAPS a l'Universite de Strasbourg, France, 2005, p. 17. "I have seek (??) [sic] for

books on the wonderful Jiu-jitsu which I want to learn something about. "

なお、 ルー ズ ベ ル トが 山 下 か ら習 っ た の は間 違 い な く 「柔 道 」 で あ っ たの だ が、20世 紀 初頭 の英 米 で は名 実 と もに

「柔 術 」 が流 行 してお り、 ルー ズベ ル トに も、 そ して クーベ ル タ ンに も柔道 と柔術 の正 確 な違 い を認識 す る こ とは困 難

で あ っ た と思 われ る。 ち なみ に、20世 紀 初 頭 の アメ リ カにお け る柔術 ブー ムの 様子 につ いて は次 の 論文 を参 照 。藪 耕 太

郎(2009)20世 紀初 頭 の アメ リカにお け る柔術 の 受容 とH.I.バ ンコ ック の柔術 観-バ ンコ ック の柔術 教 本 と"The New

York Times"を 手 が か りに-.体 育 史研 究26, pp.13-26.

83) ス トック ホ ル ム大 会 時 の クー ベ ル タ ン と嘉 納 の面 談 内 容 につ いて 触 れ られて い る の は、 管見 す る と ころ 次 の文 献 に よ

るの み で、 詳細 は不 明 で あ る。加 藤仁 平(1964)嘉 納 治五 郎.竹 内虎 士 ・大 石 三 四郎 編,新 体 育学 講 座35.逍 遙 書 院,

pp.160-175.

84) 当文 は、嘉 納履 正 が富 木謙 治の解 説 に よる 「講 道館 護身 術」の序 に寄 せ た もので あ る(富 木 謙治(1958)講 道館 護 身術.ベ ー

ス ボ ー ル ・マ ガジ ン社,p.3.)。 こ の 「講 道館 護 身術 」 は、 嘉納 治 五郎 の 遺志 が 受 け継 が れた とい える、 戦後 に創 られ た

唯 一 の形 であ る(昭 和31・1956年 に完 成)。

17