Human Soft Cadaversを用いた外傷ワークショップに参加して

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日外傷会誌 29巻 1 号(2015) ―17― はじめに 近年,体幹部損傷に対する手術経験数の低下が 深刻な問題となっている.外傷外科医の育成を目 指して本邦でも acute care surgery という概念が 普及し,それらを補完する形でさまざまな off︲the︲ job training の開発も行われている 1) 今回われわれは,タイの Chulalongkorn 大学で 開催された human soft cadavers を用いた外傷ワー クショップに参加する機会を得たので報告する. Human Soft Cadavers を用いた Chulalongkorn 大学の取り組み Chulalongkorn 大学は,タイで最も古い歴史を 持つ国立大学であると同時に,タイで最も大きな 大学の一つとも言われている.この King Chul- alongkorn Memorial Hospital の外傷外科医 Dr. Rattaplee と,当教室は約 ₃ 年前より交流があり, 今回,彼らが開催している外傷ワークショップに 参加する機会を得た. Soft cadavers とは,亡くなった御遺体の血液を 特殊な保存液(CU︲Formula 1)で置換すること により,神経や筋をはじめとする組織を限りなく 新鮮な生体に近い柔らかい状態に保つことができ るようにしたもので,Chulalongkorn 大学の解剖 学教室が開発した技術である 2) 3) Figure 1). 上記特性を活かして,こうした soft cadavers 医学教育に積極的に用いるようになったのは1990 年代後半であり,ワークショップ自体は,1999年 より始まった.さまざまな内容のワークショップ がこれまでにタイ全土で開催されており,年間 100回前後にも及んでいる.特に,近年の開催数 は増えてきており,2012年が153,2013年も ₅ 月 の時点で130の登録がある. こうした soft cadavers は,すべて献体によるも のであり,年間に25000名以上の申請があり,基 礎疾患や手術歴などを検討したうえで年間300体 ほどが登録される. Major Thoracoabdominal Vascular Trauma 今回われわれが参加したワークショップは, 2012年 ₈ 月にタイのパタヤで行われた37th Annual Scientific Congress of The Royal College of Surgeons of Thailand の期間中にバンコクの Chulalongkorn 大学で開催された.体幹部の大血管損傷にフォー Human Soft Cadavers を用いた外傷ワークショップに参加して 佐賀大学医学部救急医学講座 1) Department of Surgery, Faculty of Medicine, Chulalongkorn University 2) 小 網 博 之 1) 阪本 雄一郎 1) 朽 方 規 喜 1) Rattaplee Pak︲art 2) 今回われわれは,タイの Chulalongkorn 大学で開催された human soft cadavers 用いた外傷ワークショップに参加したので報告する.Soft cadavers とは,御遺体に 特殊な加工を加えることにより組織を限りなく生体に近い柔らかい状態に保つこと ができるようにしたものである.われわれが参加したのは,体幹部の主要な血管損 傷を想定したものだった.タイ全国から外傷外科医や外科レジデントが参加し,ア ドバイザーとしてアメリカより Mattox 教授も招かれていた.ワークショップは半 日コースであり,前半は ₄ つのレクチャーに Mattox 教授が追加コメントを行う形 で行われた.レクチャーのあとは,実際に御遺体を用いて実習を行った.御遺体 1 体につきインストラクター 1 名と受講生が ₅ ,₆ 名割り当てられ,生体と同じ感触 で普段経験できない手技を習得できた.問題点としては,手技を行うには人数が多 いことや費用などの問題はあるが,off︲the︲job training の有用な選択肢の一つと考 えられた. 索引用語:医学教育,off︲the︲job training,献体 そ の 他

Transcript of Human Soft Cadaversを用いた外傷ワークショップに参加して

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はじめに

 近年,体幹部損傷に対する手術経験数の低下が深刻な問題となっている.外傷外科医の育成を目指して本邦でも acute care surgery という概念が普及し,それらを補完する形でさまざまな off︲the︲job training の開発も行われている1). 今回われわれは,タイの Chulalongkorn 大学で開催された human soft cadavers を用いた外傷ワークショップに参加する機会を得たので報告する.

Human Soft Cadavers を用いた

Chulalongkorn 大学の取り組み

 Chulalongkorn 大学は,タイで最も古い歴史を持つ国立大学であると同時に,タイで最も大きな大学の一つとも言われている.この King Chul-alongkorn Memorial Hospital の 外 傷 外 科 医 Dr. Rattaplee と,当教室は約 ₃ 年前より交流があり,今回,彼らが開催している外傷ワークショップに参加する機会を得た. Soft cadavers とは,亡くなった御遺体の血液を特殊な保存液(CU︲Formula 1)で置換することにより,神経や筋をはじめとする組織を限りなく

新鮮な生体に近い柔らかい状態に保つことができるようにしたもので,Chulalongkorn 大学の解剖学教室が開発した技術である2)3)(Figure 1). 上記特性を活かして,こうした soft cadavers を医学教育に積極的に用いるようになったのは1990年代後半であり,ワークショップ自体は,1999年より始まった.さまざまな内容のワークショップがこれまでにタイ全土で開催されており,年間100回前後にも及んでいる.特に,近年の開催数は増えてきており,2012年が153,2013年も ₅ 月の時点で130の登録がある. こうした soft cadavers は,すべて献体によるものであり,年間に25,000名以上の申請があり,基礎疾患や手術歴などを検討したうえで年間300体ほどが登録される.

Major Thoracoabdominal Vascular Trauma

 今回われわれが参加したワークショップは,2012年 ₈ 月にタイのパタヤで行われた37th Annual Scientific Congress of The Royal College of Surgeons of Thailand の期間中にバンコクの Chulalongkorn大学で開催された.体幹部の大血管損傷にフォー

Human Soft Cadavers を用いた外傷ワークショップに参加して佐賀大学医学部救急医学講座1)

Department of Surgery, Faculty of Medicine, Chulalongkorn University2)

小 網 博 之1)  阪本 雄一郎1)  朽 方 規 喜1)  Rattaplee Pak︲art2)

 今回われわれは,タイの Chulalongkorn 大学で開催された human soft cadavers を用いた外傷ワークショップに参加したので報告する.Soft cadavers とは,御遺体に特殊な加工を加えることにより組織を限りなく生体に近い柔らかい状態に保つことができるようにしたものである.われわれが参加したのは,体幹部の主要な血管損傷を想定したものだった.タイ全国から外傷外科医や外科レジデントが参加し,アドバイザーとしてアメリカより Mattox 教授も招かれていた.ワークショップは半日コースであり,前半は ₄ つのレクチャーに Mattox 教授が追加コメントを行う形で行われた.レクチャーのあとは,実際に御遺体を用いて実習を行った.御遺体 1体につきインストラクター 1 名と受講生が ₅ ,₆ 名割り当てられ,生体と同じ感触で普段経験できない手技を習得できた.問題点としては,手技を行うには人数が多いことや費用などの問題はあるが,off︲the︲job training の有用な選択肢の一つと考えられた.

索引用語:医学教育,off︲the︲job training,献体

そ の 他

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sure to Vascular trauma” と 題 し た20分 の レ クチャーを ₄ テーマ(“Carotid and subclavian inju-ries”,“Cardiopulmonary injuries”,“Aortic and IVC control”,“Celiac axis,SMA,iliac vessels”)受講した(Figure 3a).解剖図を示しながら露出する血管周囲の構造を確認したうえで,実際の皮膚切開の方法や目的とする損傷部位への到達方法,血管の露出方法,損傷の修復の仕方,合併症などスライドを用いて詳細に説明された.各レク

カスを絞った内容であった(Figure 2).アドバイ ザ ー に は, こ の 学 会 に 招 待 さ れ て い たKenneth Mattox 教授が参加された.ほかにも,地元 Chulalongkorn 大学をはじめ,タイ全土から外傷外科医や外科レジデントが40名ほど参加した.インストラクターは Chulalongkorn 大学をはじめとするタイの外傷外科医が務めた.<レクチャー> ワークショップは半日コースで,前半は“Expo-

Figure 1 Soft cadavers embalmed with special solution successfully preserved their softness and freshness.

Figure 2The time schedule and contents of the workshop.

Figure 3⒜ Lecture were given to attendees before the hands-on workshop.⒝ Dr. Mattox provided advice on some tips and pitfalls for trauma surgery.

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Figure 4⒜ Prayers for the spirits of the cadavers.⒝ Instruments of this workshop.⒞ An instructor showed the attendees how the procedure should be performed.⒟ An instructor performed Mattox’s maneuver in front of Dr. Mattox.

Figure 5⒜ Attendees who were not involved in an operation observed the surgery through monitors.

⒝ Partial lobectomy was performed using GIATM.⒞ Mattox maneuver was observed through a monitor.⒟ Dr. Mattox provided some advice during the workshop.

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 近年,本邦でも法的整備に向けたさまざまな研究班によるガイドラインが策定されたり,cadav-er を用いた手術手技トレーニングがそれぞれの施設で限定的に行われるようになり,有効性も認められている4)5).今後その普及が期待される.

結  論

  今 回 参 加 し た soft cadaver を 用 い た ワ ー クショップは,実際とほぼ同じ感触で普段経験できない手技を習得できることから,off︲the︲job train-ing の有用な選択肢の一つと考えられた.

利益相反:開示すべき利益相反はなし.

謝  辞

 本論文を作成するにあたり,佐賀大学医学部先端外

傷治療学講座 井上聡教授には,英文の校正をはじめ

貴重な助言をいただきました.ここに感謝の意を表し

ます.

文  献 1) 益子邦洋,松本尚,朽方規喜,ほか:Acute Care

Surgery 研究会と外傷センターで外傷外科医の育成を図れ.日外会誌 2010;111(臨時増刊号):31︲32.

 2) Pak︲art R, Silapunt P, Bunaprasert T, et al:Pro-spective, randomized, controlled trial of proximally based vs. distally based gluteus maximus flap for anal incontinence in cadavers. Dis Colon Rectum 2002;45:1100︲1103.

 3) Pak︲art R, Tansatit T, Mingmalairaks C, et al:The location and contents of the lateral ligaments of the rectum:a study in human soft cadavers. Dis Colon Rectum 2005;48:1941︲1944.

 4) 佐藤幸男,関根和彦,佐々木淳一,ほか:外傷診療における Clinical Anatomy Laboratory での臨床 解 剖 学 教 育 の 意 義.Jpn J Acute Care Surg 2012;2:62︲67.

 5) 本間宙,金子直之,織田順,ほか:献体による外傷手術臨床解剖学的研究会-日本版 DSTS を目指して-.Jpn J Acute Care Surg 2012;2:55︲61.

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論文受付日:2014年 ₆ 月 ₂ 日論文受理日:2014年12月 ₉ 日

チャーの最後には質疑応答に加えて Mattox 教授からコメントが追加された(Figure 3b).<実技> レクチャーが終了したあとは,実習を行った.御遺体 1 体につき ₅ , ₆ 名の受講生とインストラクターが 1 名割り当てられた.開始前には,線香と花を用いて作った数珠をもち祈りを捧げた

(Figure 4a).午前中のレクチャーに従い,各グループ担当のインストラクターがまず実際にその手技を行いながら再度ポイントを解説し,その後,各手技を交代しながら経験した(Figure 4b, c).具体的には,頸動脈の露出から鎖骨下動脈への到達法や,左前側方開胸と大動脈クランプ,クラムシェル開胸法,肺損傷に対する自動縫合器を用いた修復法,Kocher 操作から Cattell︲Braasch 操作,Mattox 操作などだった(Figure 4d).人数の関係上,直視下にみることができない場合には,実習室内にあるモニターにて確認することができた

(Figure 5a︲c).Mattox 教授のコメントも付け加えられた(Figure 5d).組織が柔らかいため,開腹操作も実際の手術と同じような感覚で行うことができた.実習の最後に全員が講義室へ移動し,各インストラクターから総括があったのちに終了した.

考  察

 今回のワークショップを経験してみて,一番の利点は,実際に手術を経験するのとほぼ同じ感覚で腸管をはじめとする体腔内臓器の操作ができることであり,日常診療では経験することがまれな手技を習得するのにとても有意義である.しかし,御遺体 1 体あたりの受講生の数が多く,手術手技の習得を考えると,実際に処置ができる人数が限られてしまうことが問題である.また,こうした献体モデルの最大の欠点は,出血の再現および出血の持続に伴う生理学的徴候の破綻などを再現することができないことであり,これらは生体アニマルを使用するのが適切で,それぞれのモデルの特徴を加味したうえで活用していかなければならない.

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THE EXPERIENCE OF A TRAUMA WORKSHOP WITH SOFT HUMAN CADAVERS IN THAILAND

Hiroyuki KOAMI1), Yuichiro SAKAMOTO1), Noriyoshi KUTSUKATA1) and Rattaplee PAK︲ART2)

Department of Emergency and Critical Care Medicine, Faculty of Medicine, Saga University1)

Department of Surgery, Faculty of Medicine, Chulalongkorn University2)

  We attended a trauma surgery workshop using soft human cadavers in Chulalongkorn University, Thailand. A special solution developed at Chulalongkorn University enabled the preserved cadavers to be kept soft and fresh. The cadavers were so well preserved that the texture of the organs was exactly the same as that of live tissue. This workshop focused on major vascular trauma, and participants included trauma residents and trauma surgeons from all over Thailand. Professor Kenneth Mattox was invited as an adviser for this entire course. The course consisted of a half︲day workshop with 4 lec-tures, at which Dr. Mattox made comments and suggestions to the attendees, followed by a hands︲on workshop. One cadav-er was supplied to groups of 5 or 6 participants and one instructor was assigned to work with them. Because of their tech-nology, a variety of trauma surgical procedures for injuries of the neck and torso were achieved, with the same feel as actual surgery on live patients. Although there are some problems, including cost, human resources, and ethical issues, this cadaver model is considered one of the most useful options for off︲the︲job training on trauma surgery.Key words:medical education, off︲the︲job training, cadaver