ジュリアン・バーンズの 『イングランド,イングラ …...George, 2005...

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1 商学論集 第 85 巻第 2 号  2016 10 論 文 ジュリアン・バーンズの 『イングランド,イングランド』は どう読まれてきたか 諸論文の要約と考察 (上) 佐々木 俊 彦 目次 I. 序論 II. 諸論文の要約と論評 1. ヴェラ・ニュニング「文化的伝統の創出」 2. バルバラ・コルテ「ジュリアン・バーンズ『イングランド,イングランド』」 3. サラ・ヘンストラ「ジュリアン・バーンズの『イングランド,イングランド』における個人の/国民の アイデンティティ」 4. ヴァネッサ・ギニュリ「国民のアイデンティティのシミュラークル」 5. フレデリック・M. ホームズ「『イングランド,イングランド』」 (以上,本号) 6. グレゴリー・J. ルービンソン「真実が休暇を取る」 7. クリスティーン・バーベリック「『特にイングランド的な特異性 ?』」 8. ベツァベ・ナバロ = ロメロ「集合的記憶をもてあそぶ」 III. 結び 1. 「論評」部の要約 2. 「要約」部の整理と考察 1) 諸論文の方法論 2) 諸論文のキーワード 3) 小説のジャンル 4) 小説の性格規定 5) アングリアの評価 6) 諸論文の結論 参考文献 I. 序論 ジュリアン・バーンズ(Julian Barnes, 1946 - )の 8 番目の長編小説である『イングランド,イン グランド』(England, England)は, 1998 年に出版され,ブッカー賞の最終候補作品となった 1 。この 小説は 3 部から構成されており,第 1 部は「イングランド」,第 2 部は「イングランド,イングラ 1 バーンズはほかにも『フロベールの鸚鵡』(Flauberts Parrot, 1984)と『アーサーとジョージ』(Arthur & George, 2005)でブッカー賞の最終候補者名簿に残り,『終わりの感覚』(The Sense of an Ending, 2011)で同 賞を受賞した(Russell and Cohn 7)。

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佐々木 : ジュリアン・バーンズの『イングランド,イングランド』はどう読まれてきたか商学論集 第 85巻第 2号  2016年 10月

【 論 文 】

ジュリアン・バーンズの 『イングランド,イングランド』は

どう読まれてきたか─ 諸論文の要約と考察 ─(上)

佐々木 俊 彦

 目次I. 序論II. 諸論文の要約と論評 1. ヴェラ・ニュニング「文化的伝統の創出」 2. バルバラ・コルテ「ジュリアン・バーンズ『イングランド,イングランド』」 3.  サラ・ヘンストラ「ジュリアン・バーンズの『イングランド,イングランド』における個人の/国民の

アイデンティティ」 4. ヴァネッサ・ギニュリ「国民のアイデンティティのシミュラークル」 5. フレデリック・M. ホームズ「『イングランド,イングランド』」 (以上,本号) 6. グレゴリー・J. ルービンソン「真実が休暇を取る」 7. クリスティーン・バーベリック「『特にイングランド的な特異性 ?』」 8. ベツァベ・ナバロ =ロメロ「集合的記憶をもてあそぶ」III. 結び 1. 「論評」部の要約 2. 「要約」部の整理と考察  (1) 諸論文の方法論  (2) 諸論文のキーワード  (3) 小説のジャンル  (4) 小説の性格規定  (5) アングリアの評価  (6) 諸論文の結論参考文献

I. 序論

ジュリアン・バーンズ(Julian Barnes, 1946-)の 8番目の長編小説である『イングランド,イングランド』(England, England)は,1998年に出版され,ブッカー賞の最終候補作品となった1。この小説は 3部から構成されており,第 1部は「イングランド」,第 2部は「イングランド,イングラ

1 バーンズはほかにも『フロベールの鸚鵡』(Flaubert’s Parrot, 1984)と『アーサーとジョージ』(Arthur &

George, 2005)でブッカー賞の最終候補者名簿に残り,『終わりの感覚』(The Sense of an Ending, 2011)で同賞を受賞した(Russell and Cohn 7)。

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商  学  論  集 第 85巻第 2号

ンド」,そして第 3部は「アングリア」と題されている。短い第 1部では,主人公であるマーサ・コクラン(Martha Cochrane)がイングランドの田舎で過ごした子供時代の思い出が主として語られる。小説の大部分を占める第 2部では,マーサの私生活を背景としながら,これもまた主役級の登場人物であるサー・ジャック・ピットマン(Sir Jack Pitman)を中心とするイングランド,イングランドの建設と運営の過程が描かれる。イングランド,イングランドはワイト島に造営されるイングランド(人)らしさ(Englishness)(以下,イングランドらしさと略記)をテーマとする巨大な娯楽観光施設であり,独立国家としても機能するものである。第 1部と同様に短い第 3部では,産業化以前の時代へと後退したアングリア(もとのイングランド)に帰還してとある村で暮らす晩年のマーサの生活ぶりが描写される。野心的な問題作であるこのような『イングランド,イングランド』に関して,その出版以来,種々

の書評や学術論文が発表されてきた。それらの文章を要約し,整理し,考察すれば,この小説の深い理解に大いに役立つであろう。本論文では,この小説に関する 8本の代表的な英語による学術論文(研究書のなかの 1章および 1節を含む)を子細に検討することによって,それらの多様性と共通点を明らかにし,この小説についての批評と解釈の達成と限界を浮き彫りにする2。本論文のこれ以降の構成は次のとおりである。第 IIセクションでは,発表年が古いほうから順

番に各論文を要約し,論評する。第 IIIセクションでは,第 IIセクションと同じ順番で諸論文の論評を要約する。さらに,第 IIIセクションでは,「諸論文の方法論」,「諸論文のキーワード」,「小説のジャンル」,「小説の性格規定」,「アングリアの評価」,および「諸論文の結論」という 6つのトピックごとに,第 IIセクションでの諸論文の要約を整理し,考察する。

II. 諸論文の要約と論評

このセクションでは,早く刊行された順に,『イングランド,イングランド』についての諸論文を検討する。それぞれの論文に関しては,はじめに要約を,次に論評を行う。

1.  ヴェラ・ニュニング「文化的伝統の創出 : ジュリアン・バーンズの『イングランド,イングラ

ンド』におけるイングランドらしさと真正性の構築と脱構築」3

(1) 要約

『イングランド,イングランド』は,「イングランドらしさ」の小説的探究への現今の大きな興味を例示しており,イングランドらしさと文化的記憶についての従来の考えを疑問視し,修正している点で修正主義的である。イングランドらしさと真正性の観念を構築し脱構築することによって,この小説が文化的伝統の創出をテーマ化し探究する仕方を,本論文は考察する。

2 検討に付される諸論文の選定にあたっては,主にオンライン版MLA International Bibliographyを利用した(2014

年 5月 26日に検索)。また,『イングランド,イングランド』のみを主要な考察対象としているわけではない論文および入手困難な論文などは,検討される諸論文から除外した。

3 本項目の記述は Nünning 58-76に関するものである。

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佐々木 : ジュリアン・バーンズの『イングランド,イングランド』はどう読まれてきたか

この小説の構造はイングランドの状態への関心を強調しており,その小説的展開は異なる 3段階で表わされている。マーサの最初期の思い出を描く第 1部では,2つの中心的テーマ,個人の記憶と国の記憶の間の類似性と愛国心,が導入される。ここではマーサの子供時代はイングランドの田園的な「幼児期の」状態に対応している。イングランドらしさのまったく異なる段階が第 2部では提示される。イングランドの本物の文化遺産の「独創的な複製」を築くことによって,サー・ジャックは国民遺産への 20世紀後半のイギリスの執着を利用しようとする。すべての標準的でありきたりな特徴を具現化する注意深く設計されたシミュラークルを本物より好む観光客の趣味に合せてあつらえられた島は経済的に繁栄し,旧イングランドは観光客を奪われて次第に衰退する。第 3部は,マーサが老年時代を過ごす産業化以前の世界への復帰を描き,ディストピア小説と牧歌的田園的イングランドへの後退との奇妙な合成である。国民のアイデンティティの本質と確立したイングランドらしさがどのように創り出され護持され

るようになったのかの問題を探求することにこの小説は自覚的に関わっている。サー・ジャックの観光事業計画は,現在の必要にかなうようにイングランドらしさが構築される仕方の徹底的な検討のための現実的な枠組みを提供する。イングランドらしさの 50の精髄からなる(好意的ではない項目をも含む)混成リストが早くも示すように,イングランドらしさの構築とそれに伴う脱構築は小説中で複雑に絡み合っている。バーンズによるロビン・フッド神話の扱いは,人気のある神話でさえ,あまり嬉しくない国民の

イメージを投影する好ましくない暗示的意味を含んでいるかもしれないことを示唆する。もしロビン・フッドの一党を懐旧的に具現化したものが本当に本物のように行動し始めたらどうなるかを彼は例証しさえする。ジョンソン博士が患う憂鬱症という「イングランド病」はなるほどイングランドらしいかもしれないが,そのままでは観光客には受け入れられない。なぜなら,観光客は現在の趣味に合うように調整されたイングランドらしさの理想版のほうを好み,要求するからである。ピットマン・プロジェクトの過去への執着を強調し,(ビートルズのような)現代のポピュラー

音楽もまたイングランドらしさの重要な側面であるかもしれないことを遠まわしに暗示することによって,バーンズはイングランドらしさの多くの現代版を特徴づける一面性を暴露する。それらは,「真の」イングランドらしさを圧倒的に過去に捜し出すからである。しかし,マックス博士(Dr

Max)の調査によれば,有名なヘイスティングズの戦いですら国民の「文化的記憶」のなかであまりしっかりした位置を占めているようには見えない。文学に関する集合的記憶は少数の有名な作家と小説の登場人物(例えばシェイクスピア,ジョンソン博士,チャタレー夫人,アリスなど)の名前の表面的な知識だけに等しく,かれらでさえ,観客の要求を満たすために比較的魅力的ではない態度ははぎ取られる,ということをこの小説は示唆している。国民のアイデンティティを鍛造しようとするいかなる試みも,捕えどころのない記憶,知識不足,および大いに歪曲された愛国的歴史観を相手にしなければならない。したがって,イングランドらしさを捜し出す試みは,昔からの伝統を装った何か新しいものの創出を常に伴うのである。他方,この小説は,教養のあるイングランド人の精神はヨーロッパ大陸の音楽の記憶に浸ってい

るということを示唆しており,同様に,画家への言及があるときはいつもヨーロッパ大陸の画家が言及される。また,島議会議員たちの行動によって,有名な自由の愛好やアングロサクソンの民主

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的制度への誇りは,国民の想像力のもう 1つの作り事にすぎないことが暴露される。ピットマン社の努力を描く過程で,イングランド人が自分自身について抱いていると言われる多

くの考えと比較的肯定的ではない国内外のイングランドらしさの観念を対照させることによって,バーンズは前者を諷刺しており,サー・ジャックは後者を「欠陥のある世論調査手法の結果」として退ける。イングランドの過去と現在の売れ筋版が作り上げられる過程を暴いて,この小説は,文化的伝統の創出が現在と折り合いをつけるという目的にかなうことを示している。ピットマン社の活動は真正性の問題をも強調する。古きイングランドの複製を築くプロジェクト

は,真正なものがその価値を失ってしまい,ポストモダンの主体はよくできたシミュラークルを本物よりも好むという前提に基づいている。結局,「本当の」ものはそのコピーほどよく保存されておらず,利用しやすくなく,また楽しくないし,タクシー運転手や農民を演じる俳優は本物よりもずっと愛想がよく,「その人らしい」のである。プロジェクトがその営業を開始し,俳優が自分の歴史上のモデルの特徴と習慣を次第に引き継ぐようになると,複製と本物の間の境界線はぼやけ始める。ジョンソン博士の洗練されていない 18世紀のマナーのようなイングランドらしさの「本当の」現れに直面すると,観光客は返金を要求する。「アングリア」での生活は,本物とにせ物の間の境界がぼやけてしまったという考えを強調する役目を果たす。「自分自身であり」単純で真正な生活を送る人々にスポットライトを当てる代わりに,最終部の登場人物たちは本物とコピーのもう一つの奇妙な合成を提供する。自作のにせ伝説を語る村人の複製であるジェズ・ハリス(Jez Harris)は,本物よりも目的によくかない,観光客が「原作」よりも好むというもっともな理由から作り話を言い続ける。アングリアの村人たちの生活はいくつかの点で田園生活についての理想化された考えに従っているが,このイングランドらしさは「一種の楽園」でもないし決して「真正」でもない。バーンズは詮索好きや外国人嫌いのような村の生活の否定的側面を暴露している。外面的形態と経済的状態は過去のそれらに似ているが,村人たちは「真正の」産業化以前の態度と習慣に戻りはしない,なぜなら彼らは現代的価値観を内面化しているからである。自分たちの経済状況に合う風習と儀礼を確立するために,彼らが過去に模範を探し求めることによって,これは強調されている。村祭りの準備と開催の例では,実際の過去がその過程でほとんど何の役割も果たさないにもかかわらず,またもう 1つの伝統の創出が成し遂げられるのである。サー・ジャックによる古きイングランドの意識的復元も産業化以前の時代へのアングリアの居心

地よくない後退も,どんな種類の真正性にも到達しない。過去を自分自身の特定の要求に合わせて,これら 2つの冒険は,古いというよりむしろ新しい伝統の創出に帰着する。何であれ「真正である」と呼ぶことができるかもしれないものの存在に疑いをさしはさむことによって,この小説は歴史的真実という観念をも弱体化させる。マーサもサー・ジャックの委員会もアングリアの住民も「真の」過去を再現できないことを示して,この小説は,われわれの国民史や個人史は知的構築物にすぎないという考えに対して読者の注意を喚起する。この小説が進行するにつれて,重要なのは歴史ではなくて記憶,すなわち現在の視点からの過去

の構築と解釈であるということが次第に明らかになる。国民の集合的記憶の主要な機能の 1つは国民のアイデンティティを鍛造するための重要性にあるということもこの小説は示唆している。イン

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佐々木 : ジュリアン・バーンズの『イングランド,イングランド』はどう読まれてきたか

グランドらしさの過去の「真正の」現れを探求することはアイデンティティ意識を構築し安定させることを助ける。伝統の創出は,このように,個人と国民にとって非常に重要であることが示される。この小説が異議を唱えているのは,歴史の真の歩みを知ったり忠実に再現したりする人間の能力である。過去に頼ってイングランドらしさを構築するいかなる試みも必ずもう 1つの創られた伝統に帰着し,これは第 1に現在と折り合いをつける手段として役立つのである。国民性の創出に帰着する構築過程を前景化することによって,最終的に「イングランドらしい」

として提示される特徴を選択し増強する道具立てが主としてアングロサクソン的,中産階級的,および男性的であることをこの小説は示している。イングランドらしさの否定的な結果とナショナリズム的含意を暴くことで,この小説は,そのような国民性の創出に満ちている偏狭な思考の有害な本質を目立たせ,他方で,それがヨーロッパ統合の過程を妨げていることも示している。バーンズはイングランドらしさについての国民の考えを根本的に再考する必要性を示唆している。この小説は,このように,イングランドらしさについての進行中の議論への示唆に富み興味をそそる貢献を提供する。遠い昔から国民を象徴すると考えられている儀礼とイメージはしばしば驚くほど最近の起源を持ち,たいてい最初は創り出され,かくしてふさわしい歴史上の過去との連続性を確立しようとする共同体の今日のニーズと関心を反映しているということをこの小説は示している。「われわれの国民の栄光ある過去の恥ずべき分析」を提示して,『イングランド,イングランド』は,「その歴史を誤解することは国民になることの一部である」ということを強力に例証している。(2) 論評

『イングランド,イングランド』の第 3部を「ディストピア小説と牧歌的田園的イングランドへの後退との奇妙な合成」とするニュニングの読み方は挑戦的である。小説の語り手はマーサの住む村を「牧歌的でもディストピア的でもない」(“neither idyllic nor dystopic”)(Barnes 256)と描写しており,プロジェクト・マネージャーのマーク(Mark)はサー・ジャックによる開発前のワイト島の一部を「バンガロー風ディストピア」(“bungaloid dystopia”)(73)と評している。第 3部は牧歌的なのか,あるいはディストピアなのか,それとも両方なのか,はたまたどちらでもないのか。旧来の秩序が崩壊した後に再出発する共同体に対する評価が,第 3部をどのように位置づけるかという問題と大きく関わってくるであろう。イングランドらしさの 50の精髄のリスト,ロビン・フッド伝説,およびジョンソン博士の人物

像のなかに,イングランドらしさを構築する要因と(それに付随して暗黙のうちに)イングランドらしさを解体する要因が混在しており,作者はサー・ジャックの観光事業に仮託して,現在の要求にかなうイングランドらしさが構築されるメカニズムを自覚的に探究しているというニュニングの主張は,説得力に富むものである。確かに,小説の特に第 2部におけるイングランドらしさの構築とそれに伴う脱構築は注目すべきモティーフであろう。シミュラークルを意識的に操作するポストモダン的なピットマン・プロジェクトが奇異なほど過

去志向的であることは,小説を読めば明らかであり,特に目新しい発見ではない。しかし,それをニュニングが指摘する歴史や(古典)文学に関する国民の知識不足と結びつけて,有意義な考察を展開することはできる。国民が歴史に関して無知だからこそ,イングランドらしさを追求する者たちは,由緒ある伝統を装って(国民の要求を満たす)新しいものを創り出すことができるのである。

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商  学  論  集 第 85巻第 2号

この小説中での教養あるイングランド人のヨーロッパ大陸音楽嗜好と大陸の画家への言及の相対的多さについてはニュニングの言うとおりだろうが,その理由の分析がなされていないのは残念である。これは,イングランドにおけるそれらの分野の伝統の貧弱さに対する作者の暗黙の皮肉なのだろうか。また,サー・ジャックがドイツのクラシック音楽を好むのは,彼の隠された出自と何らかの関係があるのか。好意的でない国内外のイングランドらしさの観念のサー・ジャックによる削除を手始めとする

種々の手段を通じて,市場性の高いイングランドらしさがピットマン社によって練り上げられる過程を跡づけるニュニングの手腕は見事である。結果として,文化的伝統の創出が現在の要求を満たすという目的にかなうことをこの小説は示しているというニュニングの主張は納得のいくものになっている。アングリアの村人たちは本物とコピーの合成であり,彼らの生活のイングランドらしさは楽園で

も真正でもないとニュニングは評するが,これはすべての人間に当てはまることであろう。ジェズ・ハリスは村のなかではいささか例外的な存在であるので,彼に焦点を当てて村人全体を裁断するのは適切ではない。また,詮索好きや外国人嫌いは伝統的な農村部の特徴の一部であるから,彼らはある程度産業化以前の態度と習慣に戻ったと言えるのではないか。さらに,その時代の状況に合う風習と儀礼を確立するために過去に範を求めるのは人間社会の通有性であり,彼らが現代的価値観を内面化していることと直接の関係はないのではなかろうか。総じて,ニュニングはアングリアの村人たちの生活に対して必要以上に否定的であるように感じられる。この小説が真正性や歴史的真実の観念を脱構築しているというニュニングの主張に異論はない

が,「サー・ジャックによる古きイングランドの意識的復元」と「産業化以前の時代へのアングリアの居心地よくない後退」を同一視する見方には賛同できない。前者はもっぱら利潤,名誉,権力を求める個人的野心に基づく投機的事業であり,後者は外的状況の激変に対する民衆のやむをえない適応である。このような相違を無視して 2つを同様に扱うのは,小説の読み方としては,丁寧さと繊細さに欠けているのではないか。私には,以前の確固たる秩序が崩壊した後にもう一度やり直そうとする社会に対してこの小説がそれほど批判的であるようには見えない。この小説の詳細な検討のすえに,「過去に頼ってイングランドらしさを構築するいかなる試みも

必ずもう 1つの創られた伝統に帰着し,これは第 1に現在と折り合いをつける手段として役立つ」ことが示されているとするニュニングの行論は説得力がある。ただし,理論的にエリック・ホブズボーム(Eric Hobsbawm)等による『創られた伝統』(The Invention of Tradition, 1983)に多くを負いながら,(同書へのわずかな言及はあるものの)そのある程度詳細な分析が行われていないことには疑問を感じざるを得ない。「伝統の創出」は一義的で単純な概念ではないはずである。「イングランドらしい」特徴を選択し増強する道具立てが主にアングロサクソン的,男性的であることを本小説は示しているというのは正しいかもしれないが,中産階級的であることについては疑わしいところもある。イングランドらしさと呼ばれる国民性がもし偏狭であれば,それは否定的で有害な結果をもたらし得るが,それがヨーロッパ統合を妨げていることをこの小説が示しているという解釈には,ドイツ人の研究者であるニュニングの政治的信念が影を落としているのではなかろうか。この小説が「その歴史を誤解することは国民になることの一部である」ということをある

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佐々木 : ジュリアン・バーンズの『イングランド,イングランド』はどう読まれてきたか

程度例証しているのは確かであろうが,バーンズが「イングランドらしさについての国民の考えを根本的に再考する必要性を示唆している」のかどうかは明白でない。しかし,本小説がイングランドらしさに関する議論への重要な貢献であることは間違いないであろう。

2.  バルバラ・コルテ「ジュリアン・バーンズ『イングランド,イングランド』: ポストモダニズ

ム批評としての観光産業」4

(1) 要約

最も明白なレベルでは,バーンズの『イングランド,イングランド』は,観光産業とその影響に関する諷刺的ディストピア小説―モダンとポストモダンの観光産業への進行中の批評をよく知る作家の作品である。20世紀後半の観光産業の諸形態はたくさんの点で非難されてきた。それらの多くがこの小説のなかで扱われている。観光産業は現代世界に広くいきわたっている文化的実践である。ディーン・マカネル(Dean MacCannell)によれば,観光産業は「単に商業的な活動の集合体であるだけではない。それは歴史,自然および伝統のイデオロギー的枠づけ,それ自身の必要に合わせて文化と自然を作り変える力をもつ枠づけでもある」。この小説の第 1部の隠喩は,イングランド人のアイデンティティがどこかおかしくなってしまっ

たということを示唆している。父親が家族を捨てたとき,ピースの 1つを持って行ったため,マーサはジグソーパズルを完成できない。それ以降,マーサによるイングランドとイングランドらしさの構築は常に喪失感で特徴づけられることになり,パズルの 1ピース―ワイト島―をイングランドから実際に取り去るプロジェクトで働くことに彼女は何ら疑いを持たない。観光旅行は,もはや自分自身の日常世界では見つけられない真正性への現代人のあ

・ ・ ・ ・こがれを満た

すという理由で,マカネルは観光客を「現代人一般を表すのに利用できる最適のモデルの 1つ」と呼んだ。しかし,ポ

・ ・ ・ストモダンの時代には,観光客はもはや真正のものを見つけることを望みさえ

しないかもしれない。に・ ・せの

・真正性,表

・ ・ ・面的な

・真正性で満足がいくように見える。消費できる旅行

形態として,観光産業は,特にもとの観光地のシミュラークルを中心とする観光産業は,後期資本主義文化を特徴づけると言われる,イメージと外見志向の商品化された存在様式を体現するように思われる。真正性がもはや重要ではないことを嘆きさえしない,ある「フランス人インテリ」の哲学的立場

は,サー・ジャックのプロジェクトにとっての完璧な支えである。というのは,そのプロジェクトではハイパーリアリティが現実に勝利し,現実空間とサイバースペースの境界が崩壊するように見えるからである。この小説の観光プロジェクトは,表面的なイメージが満足のいくものである限りは,真実と真正性に関して気がとがめない人々によって考案される。一般的に外見が本物よりも重要である世界において,サー・ジャックが売る製品に顧客たちが満足するのは驚くべきことではない。この小説では,イングランドとイングランド人に関して,真正のものを求める願望の放棄がアイ

デンティティに及ぼす影響が示される。絵のような親しみやすい土着の人々という背景を提供する

4 本項目の記述は Korte 285-303に関するものである。

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商  学  論  集 第 85巻第 2号

ために雇われたワイト島人と同様に,イングランド,イングランドで歴史的,神話的人物を演じる俳優たちも間もなく自分の役に同一化し始める。サー・ジャックの企画委員会も,例えばマックス博士とサー・ジャックのような,自分の外見が何を意味するかに気をつける,表現するのが巧みな人物たちから成り立っている。自分にとって真正性が重要ではないサー・ジャックは,他人のものであろうが自分自身のものであろうが,個人のアイデンティティにも敬意を持たない。その死後サー・ジャック自身が自分の島で観光客のために複製されるのは相応の復讐であるように思われる。サー・ジャックは深みのない典型的にポストモダン的な人物であり,彼が最も明らかに欠いている深みの側面は過去のそれであるが,その過去の深みの側面を彼は怪物的で倒錯的な仕方で装おうとする。サー・ジャックは高級売春宿で子供時代の経験のふりをし,そこでひと月に 1度グロテスクなにせの赤ん坊の状態にふけるのである。この小説が描く観光産業の形態は文化遺産観光産業―現在のなかに過去をもたらすようにはっき

りと意図された観光産業である。それはまたポストモダンの時代と結びつけて考えられる観光産業形態でもあり,ポストモダンの時代はその崩壊しつつある現在によって悩まされており,それゆえ過去に強く引きつけられるような感じを与えると言われている。文化遺産観光産業は歴史への皮相なアプローチを生み出すとして非難されてきた。歴史全体も現在による再構築にすぎないが,文化遺産とは対照的に,それでもなお実証可能性と厳粛さに献身する再構築なのであるとデイヴィッド・ラーヴェンタール(David Lowenthal)は認めている。明らかに外国人にイングランドの過去についてのより深い歴史的理解を提供するためではな

・ ・く,

ただ懐旧的な昔風の体験の手軽な達成のために,イングランドはその文化遺産を外国人に売り払う。サー・ジャックの巨大テーマパークでの過去の提示はすべての歴史的深みと厳粛さを失っている。イングランド,イングランドでは,過去はその第 4次元(時間)を失い,単なる空間(テーマパーク)となる。その空間においては,永久の同時性のなかで,過去の諸要素が現在の瞬間のための見世物となるのである。このテーマパークでは,ネル・グウィンやロビン・フッドとその陽気な仲間たちの場合のように,観光客は歴史上の人物に会うことができ,イングランドの文化的記憶から取った諸項目を第 3千年紀の家族の価値観,流行,政治的公正の基準に従って容易に楽しむことができるように,それらの諸項目が作り変えられる。イングランド,イングランドにおいては,過去を意味あるものにするためではなくて,過去を消費可能なもの,したがって儲かるものにするために,過去は思いきった方法で再解釈される。この戦略は,イングランド,イングランドのためにベッツィ(Betsy)のロゴが選ばれる挿話のなかで具体的に表現されている。文化的記憶を見世物へとこのように変形することは,現代のイングランドにおける過去とその文

化への敬意の喪失の結果であるとこの小説は示唆している。20世紀の終わりに学校の科目としての歴史がどこかひどくおかしくなったということを本小説ははっきりと示している。マーサの歴史の授業は反復練習のゲームからなっており,そのなかで記憶を助ける言い回しと逸話でもって年代と名前が結びつけられる。孤立した諸時点へのこのような集中は,まさに,のちに観光客のために具体化される,皮相で時間を平準化する歴史への態度である。その過去を有意味に扱い,過去を厳粛に受けとめ,その現在のアイデンティティを構築するために過去を理解する能力を失ってしまった国民を背景にしてサー・ジャックのプロジェクトが組み立てられるという理由でのみ,同プロジェ

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佐々木 : ジュリアン・バーンズの『イングランド,イングランド』はどう読まれてきたか

クトはその広範囲にわたる影響を及ぼし得るのである。子供時代の失望が,満足のいく恋愛関係にはいることや神と他の大きな物語を信じることができ

ない皮肉屋へとマーサを変えてしまった。しかし,彼女はより幸福でもっと厳粛な実存を求める願望を維持している。ひとたび現実と大きな物語が解体してしまったら,残された唯一の希望はより厳粛な存在様式を信

・ ・ ・じるこ

・ ・とである。ワイト島の見捨てられて久しい教会で,19世紀のベッツィ

本人が感じたに違いない救済感をマーサは想像しようとする。しかし,信じる能力が粉砕されている冷笑的なマーサにとって,この救いはもはやありそうにないように思われる。アングリアにおいて,老いたマーサは外面的にはこの新国家に順応するが,内面的にはその批判

的距離を保つのである。古きイングランドを再創出するアングリアの戦略の多くは,イングランド,イングランドの戦略と顕著に類似している。この小説の最終エピソードで,マーサの村は 1つの伝統として祭りを創り出す。そこでの扮装はサー・ジャックのプロジェクトほど完全ではないが,扮装自体は試みられ,またアングリアの住民の一部(例えばジェズ・ハリス)は明らかに真正性と生まじめさを欠いている。最終部の笑劇的諸要素は,ワイト島のディズニーランド化されたイングランドの真正性とちょうど同じくらいアングリアの真正性が疑問視されるべきであることを強く示唆している。この小説の最後に,イングランド,イングランドの観光産業版イングランド文化への反動として展開したイングランド文化は,永続的な文化遺産状態そのもの―観光客のためにではなくて自分自身のために演じられるもの―になってしまったように見える。『イングランド,イングランド』は,観光産業ではなくてイングランドの観光産業化が生じるのを可能にしたポストモダン的態度を批判しているのである。(2) 論評

まず,コルテは,バーンズが 20世紀後半の観光産業への批判を熟知しており,その問題点の多くをこの小説で取り上げていると指摘し,最も明白には,『イングランド,イングランド』は「観光産業とその影響に関する諷刺的ディストピア小説」であるとする。観光産業についてのバーンズの知識と関心に関してはそのとおりであろうが,コルテによるこの小説の性格規定と結論は必ずしも一致していない。次に,コルテは,観光産業は「歴史,自然および伝統のイデオロギー的枠づけ」でもあるというマカネルの言葉を引き,これから展開する自説の基礎固めをしている。小説の第 1部におけるマーサがジグソーパズルを完成できないエピソードは,確かに,彼女が長

い間抱き続ける喪失感の理由の 1つを暗示する出来事である。しかし,このエピソードをイングランド人のアイデンティティ一般の問題と結びつけるのは強引であるし,それをマーサがサー・ジャックのプロジェクトで働くことに関連づける仕方にも無理があるように思われる。また,「マーサによるイングランドとイングランドらしさの構築は常に喪失感で特徴づけられる」という記述は具体的な説明を要するであろう。モダンの時代の観光旅行や観光客についてのマカネルの主張をさらに発展させて,コルテは,ポ

ストモダンの時代の観光客とにせの真正性との密接な関係を指摘する。コルテの「特にもとの観光地のシミュラークルを中心とする観光産業は,後期資本主義文化を特徴づけると言われる,イメージと外見志向の商品化された存在様式を体現するように思われる」という評言は一般的に当を得ており,サー・ジャックのテーマパークに正確に適合する見解であるように感じられる。

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商  学  論  集 第 85巻第 2号

ある「フランス人インテリ」の哲学的立場は,コルテの言うとおり,イングランド,イングランドの支えの 1つかもしれないが,サー・ジャックが彼の立場に全面的には賛同していないことは留意されなければならない。また,この小説の観光プロジェクトの考案者と顧客は,真実と真正性に敬意が払われず外見が本物より重要である世界に生きているというコルテの認識に異存はないが,マーサはこの世界に積極的に加担しつつも,結局順応しきれないことも見逃してはならないだろう。俳優たちの自分の役への同一化を,真正性を求める願望の放棄がアイデンティティに及ぼす影響

とみなし,観光客のための死後のサー・ジャックの複製を,個人のアイデンティティへの敬意の欠如に対する相応の復讐ととらえるコルテの見方は首尾一貫しており,卓見である。他方,サー・ジャックが過去の深みの側面を欠いていることが売春宿で乳児に退行することとどう関係しているのかという性心理的メカニズムは十分に説明されていない。ポストモダンの時代と文化遺産観光産業とのつながりや同産業の歴史への皮相なアプローチにつ

いての記述は妥当であろうが常識的である。しかし,歴史と文化遺産は現在による再構築であるが,歴史は,文化遺産とは異なり,「実証可能性と厳粛さに献身する再構築」であるというラーヴェンタールの認識は,この小説のテーマの 1つと関連する重要なものである。イングランド,イングランドでは,過去は歴史的深みと厳粛さを失い,永久の同時性のなかで現在のための見世物となるというコルテの見解は的を射ているように思われる。サー・ジャックのテーマパークにおいては,イングランドの文化的記憶に属する諸項目を有意味なものとするためではなく,現代の基準に従って消費できるものにするために,それらの諸項目が大胆に再解釈され,改変されるという指摘は目新しいものではない。

20世紀の終わりに学校の科目としての歴史がどこかおかしくなり,皮相で時間を平準化する歴史への態度が生まれ,それがのちにサー・ジャックによって観光客のために具体化されるとするコルテの主張には承服しかねるところがある。小説のなかでマーサの歴史の授業はユーモラスに描かれており,揶揄的に読むこともできようが,全面的に否定的に扱われているようには感じられない。この授業を「孤立した諸時点へのこのような集中」と要約することが妥当であるかどうかも問題である。サー・ジャックのプロジェクトは,過去を適切に扱い,受けとめ,理解する能力を失った国民に対して構築されるがゆえに大成功するという総括は一見正しそうだが,はたして昔の国民はこのような能力を有していたのだろうか。「ひとたび現実と大きな物語が解体してしまったら,残された唯一の希望はより厳粛な存在様式を信

・ ・ ・じるこ

・ ・とである」という認識は,この小説を読み解くうえでの重要な鍵の 1つであろう。子供

時代の経験から冷笑家となったが,より幸せでもっと厳粛な存在のしかたを求めているマーサが教会堂で得た一種の啓示が,「この救いはもはやありそうにないように思われる」という言葉で表現されるほど悲観的なものだったのかについては,疑問の余地がある。伝統の創出,真正性の欠如,笑劇的要素などの点で,イングランド,イングランドとアングリア

の間に類似性が見出されるのは,それらが人間社会に普遍的なものであるからではなかろうか。イングランド,イングランドと対照させて,アングリアをユートピアとみなすのは短絡的だが,両者の共通点(と見えるもの)を重視し過ぎるのも問題である。アングリアの文化を自分自身のために演じられる永続的な文化遺産状態そのものと評するためには,その文化が実証可能性と厳粛さに献

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佐々木 : ジュリアン・バーンズの『イングランド,イングランド』はどう読まれてきたか

身しない再構築であることを証明しなければならない。また,『イングランド,イングランド』が何かを批判しているとするならば,その批判の対象は観光産業よりもむしろ「イングランドの観光産業化が生じるのを可能にしたポストモダン的態度」であると考えるほうが適切であろうが,この小説の目的が批判することだけでないのは言うまでもないことであろう。

3.  サラ・ヘンストラ「ジュリアン・バーンズの『イングランド,イングランド』における個人の

/国民のアイデンティティ」5

(1) 要約

この小説により想像される未来は,ワイト島のテーマパークで利益のために「イングランドらしさ」のうわべの装飾を卑小化し商品化するか,次第に孤立し貧乏になるイングランド本土に引きこもるかというディストピア的選択を含んでいる。このような未来の両極端のコンテクストのなかで,バーンズは,20世紀の終わりに「イングランドらしさ」を支持する真正性を求める不安な探索を強調するために,私的自己と公的役割の並置を用いて,アイデンティティを構成する願望と憧憬の心理的メカニズムを探究する。この小説の登場人物の多くは戯画的な路線で描かれているが,マーサ・コクランは,個人と集団

のアイデンティティの間の,個人の喪失体験と国民の衰退の間のつながりについてのよりまじめな探究の機会を提供する。彼女の最初期の記憶は,イングランドの州のジグソーパズルを組み立てる記憶であり,ひとピースが欠けているのを発見したときの「みじめさ,失敗,世界の不完全さへの失望の感覚」に圧倒される記憶である。このパズルに取り組む子供の隠喩は,個人をして国民的自己意識に備給する(関心,注意,情緒などを充当する)(invest)よう仕向ける心理的同一化を文字どおりに表している。また,欠けたピース(のちに,いなくなった父親)によりあとに残された子供は,喪失感が集団アイデンティティにおける情緒的関係を束縛し乱す様子を劇的に表現している。農産物品評会の人類堕落前のような牧歌的イメージは,結局マーサに悪い結果をもたらす完全さへのあこがれを象徴する。想起の不可避的失敗によりいっそうひどくなった幼いころの喪失感が,国民の自我と個人の自我を和解させようとするマーサの苦闘のお膳立てをする。記憶は,この小説では,ずっと継続している自我の反復に奉仕する多くの遂行的働き(performative

operation)のなかのひとつであることが発見される。もし(歴史的)記憶が機能(働き)に関わるもの ─ この世の今のあり方に対する必要な正当化 ─ であるならば,なぜそれを金儲けの機能に向けてはいけないのか。起源と本物という伝統的美点を破棄することは,企業家がもはや「事実に基づく」歴史の不便さに拘束されず,観光客が好む,おなじみで,楽しく,「はかない」歴史に自由に迎合してよいということを意味する。アイデンティティは生まれつきのものであるか自分で形成したものであるのと同じくらい外部か

ら押しつけられたものであるというマーサの発見は,サー・ジャックの観光プロジェクトによって始めから擁護されていた主張である。イングランドらしさを期待する外国人にそれを売り戻すためにイングランドらしさについての還元主義的で,外面的な考えを奉じることは,どのように(そし

5 本項目の記述は Henstra 95-107に関するものである。

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商  学  論  集 第 85巻第 2号

て誰の利益のために)そのアイデンティティが理解されるのかということに対する支配権を取り戻すことである。脱植民地化とそれに伴うイングランドの衰退感から生じる「歴史的不振」はグローバル観光業の征服と支配によって逆転できる。「本当の」イングランドらしさを表す何かを首尾よく商品化することは,複製のうしろには原物が,イングランド,イングランドのうしろには本当のイングランドが実際にあるという(誤った)確信を支えるのを助ける。外国人は「純粋なイングランドらしさ」の神話への集団的備給を免れているので,ワイト島のシミュラークル下の「現実」の基礎について不安に思わないであろう。サー・ジャックは,複製対原物の問題全体が重要でなくなるだろうということを最初に理解する。

彼にとって,究極の成功は本物をコピーすることではなく本物を創・ ・造す

・ ・ることである。彼自身によ

り着想され,確立され,完全に統制される現実が,島プロジェクトにおけるサー・ジャックの強迫的な空想である。しかし,マーサはその空想を決して完全には受け入れず,個人的には「この島をまことしやかで十分に計画された金儲けの手段にすぎないとみなしている」。俳優たちの間で起こっている(役の)アイデンティティの採用を目撃して,彼女が自分の種々の役割を忘れることも可能にするであろう「ういういしさ」や純真さへのあこがれがマーサのなかに生まれる。イングランド,イングランドが結局彼女に教えることは,幸福,真実,世界との本当の接触は自分の「真の」アイデンティティの理解のなかよりほかのところにあるということである。ジョンソン博士のアイデンティティは,下稽古され繰り返されて首尾一貫した「自己」になった

アイデンティティ―その欠点が利益に熱心なプロジェクトにとって和解できないほど都合が悪いことが判明する自己である。マーサは,自分自身の現実と見せかけの間の二項対立に関連してアイデンティティは実際どこに位置しているのかしらと思う。いかに人為的に自己が急ごしらえされようとも,感情が「自己」を具体化する様子を彼女は目にする。ただ象徴的イメージを通して,イングランド,イングランドとそのなかでの自分の役割についておかしいと自分が感じていることをマーサはようやく特定することができる。それが真実かどうかという価値にか

・ ・ ・ ・ ・かわらずベッツィについ

ての本来の神話をあがめる必要性がマーサの頭に浮かぶ。厳粛な気持ちを取り戻そうとして,ついにマーサはイギリス本土へ導かれる。自分が住む村で,

彼女は,その古風な趣についての感傷から,その「好奇心のなさと狭い視野」に関する憂鬱へ,静かな受容へと進んでいく。アングリアの「木の実を食べる(ほど貧しい)孤立主義」は,マーサと現代世界を悩ます皮肉な自己疑念の繰り返しへの解毒剤として提案されており,完全さを求める彼女のあこがれの物語的実現のように機能する。この最終部を解釈するひとつの方法は,テーマパークのプロットを特徴づけるのと同じ諷刺的扱い方を探し求めて読むことかもしれない。しかし,バーンズの描写に忍び込む哀愁の調べが諷刺的調子を和らげ,何かイデオロギー的により率直でないもののほうへ「アングリア」セクションをそっと押しやるのである。『ミッドウェセックス・ガゼット』(Mid-Wessex Gazette)紙のなかの販売品目の毎日のリストへのマーサの関心は,「見せかけだけであることなしに人為的」とみなされる。ここで,この小説は,許されるかもしれない ─ 「より本物である」と考えられるかもしれない ─ ノスタルジアを推し進めているように見える。なぜなら,そのノスタルジアは承知のうえで構築されており,過去に対するその理想化する見方に気づいているからである。「アングリア」部の前面にあるのは純真さへの回帰の問題である。

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佐々木 : ジュリアン・バーンズの『イングランド,イングランド』はどう読まれてきたか

「アングリア」において,バーンズはイングランドの失われた起源をたたえる肖像を,有機的社会の古い神話に対する賛美を描いている。「人生の小さな厳粛さ」の達成は,現代生活を推進するイデオロギーを放棄することによってのみ起り得る。しかし,この解決策は,アングリアで昔のイングランドらしさを「再発見する」試みが懐旧的であるより以

・ ・上の

・何かであることを妨げるもので

もある。おそらく,「アングリア」で提供される結末に対する,「回復」より正確な評価は,「引退」であろう。皮肉癖と完全さへのあこがれを和解させることができずに,マーサは苦闘から退く。アングリアでマーサは結局全体論的な生得のアイデンティティの集団的空想に再備給するという主張によって,これは支持される。ここで,バーンズは,自己を意識しないアイデンティティという理想をよみがえらせることにより,小説のなかで提起された問題のための解決を押しつける。マーサは最初の裏切り体験以来自分につきまとってきた自意識を置き去りにし,イングランドはアングリアの有機的共同体のなかにその「自然な」自己を再発見する。 アングリアのうさぎがその仕事に精を出しているのを見守ることは,「現実」がもう一度その客

観的存在を主張したことを,あるいは少なくともその「現実」とそれに意味を与える意味付与体系の間のバランスが回復したことを示唆している。さらに,この最後のイメージは古い神話をまたしても呼び起す。しかし,マーサが自分自身のなかで沈黙させた諸々の疑問は,この小説の読者にとって未解決のままであり続けるのである。(2) 論評

諷刺というジャンルや文化遺産産業というトピックに注目するのではなく,精神分析学の概念を援用しながら,『イングランド,イングランド』を,マーサに焦点を合わせた「アイデンティティを構成する願望と憧憬の心理的メカニズム」の探究としている点で,このエッセイは独自の見地に立っている。イングランドの州のジグソーパズルに取り組むマーサの隠喩が個人の国民への心理的同一化を表

していること,喪失感が集団アイデンティティにおける情緒的関係に悪影響を及ぼすさまを子供時代のマーサが表現していること,農産物品評会のイメージが完全さへのマーサのあこがれを象徴していることについては,ヘンストラの指摘のとおりであろう。しかし,幼いころの喪失感がマーサのその後の苦闘の準備をするということは理解できるが,その苦闘を「国民の自我と個人の自我を和解させようとする」苦闘と要約するのが適切かどうかは疑問の余地がある。記憶を「ずっと継続している自我の反復に奉仕する多くの遂行的働きのなかのひとつ」と考える

ヘンストラの見解は啓発的である。歴史的記憶がこの世の現状の正当化という機能(働き)に関するものであるとすれば,それを金儲けの機能に向けることは途方もない論理の飛躍ではない。金儲けの機能を優先して,起源と真正という伝統的美質を放棄することは,まさにサー・ジャックがそのプロジェクトにおいて行うことである。アイデンティティは相当程度外部から押しつけられたものであるというマーサの発見と,イング

ランドらしさについての還元主義的で,外面的なサー・ジャックの考えには相通じるところがあるというヘンストラの説は説得力がある。そして,外国人たちに彼らが期待するイングランドらしさを売ってあげることは,逆説的に,そのアイデンティティに対する(なにがしかの)支配権を取り戻すことになるのである。イングランドらしさを表す何かを商品化することは複製のうしろに原物

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商  学  論  集 第 85巻第 2号

があるという確信を支えるのを助けるとヘンストラは述べているが,これは首肯できない。なぜなら,小説中では,本当のイングランドはイングランド,イングランドに圧倒され,イングランドと言えばイングランド,イングランドのことだと考えられるようになるからである。マーサは,公的役割においては,本物を着想し,確立し,完全に統制するというサー・ジャック

の空想に従っているが,彼女の私的自己は,その空想を信じきることができず,それをまことしやかな金儲けの手段としかみなせない。ヘンストラによれば,俳優たちが自分の演じている役に同一化するのを見て,「ういういしさ」や純真さへの憧憬がマーサに生まれ,幸福,真実,世界との本当の接触は自分の「真の」アイデンティティの理解ではなくほかのものによって得られるということをマーサは悟る。これは,小説から触発されるひとつの解釈であるが,作品を貫くマーサの物語の流れのなかで,妥当で無理のない解釈となっているように思われる。ジョンソン博士の場合,はじめは見せかけにすぎなかったはずのものが下稽古され繰り返されて

首尾一貫した「自己」という現実となり,そこにアイデンティティが位置している。ヘンストラはこの過程を「いかに人為的に自己が急ごしらえされようとも,感情が『自己』を具体化する」と表現している。この様子を目にしてからしばらくたって,マーサは,ベッツィに関する最初の神話に敬意を表する必要性に思い至る。ヘンストラは,マーサの内面世界を綿密に辿り,マーサの物語を精緻に再構築しようとしているが,これは他の論者にはあまり見られない有意義な試みである。このエッセイは,アングリア・セクションについての記述が厚い点でも特徴的である。ヘンスト

ラは,マーサがイギリス本土に帰還する理由を,原初的イメージをたたえるような厳粛な気持ちを取り戻すためとしており,アングリアを「マーサと現代世界を悩ます皮肉な自己疑念の繰り返しへの解毒剤」にして「完全さを求める彼女のあこがれの物語的実現」であると考えている。これらは,第 2部までのマーサの物語の詳細な分析から導き出される,それなりに筋道が通った解釈である。憂愁の調べが諷刺的調子を抑制しているという指摘は,最終部の雰囲気を的確にとらえている。『ミッドウェセックス・ガゼット』紙へのマーサの関心に関連して,この小説は,人為性に気づきつつ構築された,過去を理想化する見方に自覚的なノスタルジアを推しているとするヘンストラの主張は,洞察に満ち,示唆に富んでいる。もしそうなら,アングリア部の前面にあるとされる純真さへの回帰の問題は,人為的だが見せかけだけでない純真さへの回帰の問題ということになる。ヘンストラの言うように,アングリアは,一方で,「イングランドの失われた起源をたたえる肖像」

であり「有機的社会の古い神話に対する賛美」であるが,他方で,懐旧的である以上の何かではない。これが,アングリアの評価を困難にしている。「全体論的な生得のアイデンティティの集団的空想に再備給する」という 1節の意味は必ずしも明確ではないが,人生の苦闘から身を引いたマーサが,アングリアで昔のイングランドらしさについての集団的空想に参加するという解釈は納得のいくものである。ヘンストラが主張するように,自己を意識しないアイデンティティの復活により,小説中の諸問題の解決が図られているのならば,その解決は現代人にとって現実味のない夢想的なものにならざるを得ないであろう。結末部の描かれ方と雰囲気や少なからぬ評者の否定的な反応はそれを裏書きしているように思われる。最後のうさぎの場面に,ヘンストラのように,文明に対する自然の復権以上のものを読み込むこ

とも可能であろう。結局,この小説のなかで提起された疑問や疑念の多くが,終結部を経てもなお,

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佐々木 : ジュリアン・バーンズの『イングランド,イングランド』はどう読まれてきたか

読者を悩ませ続ける,ということは確かなようである。

4.  ヴァネッサ・ギニュリ「国民のアイデンティティのシミュラークル :『イングランド,イング

ランド』(1998)」6

(1) 要約

バーンズへのインタビューによれば,『ヤマアラシ』(The Porcupine, 1992)と『イングランド,イングランド』は「政治小説」(‘political novel’)のジャンルに属している7。この小説は,ティーンエイジャーから年配の婦人へのマーサの成長の私的物語を背景にサー・ジャックの誇大妄想的な冒険的事業についての諷刺的な公的物語を展開する。この小説の分析において最もしばしば現れる用語は諷刺である。しかし,作者は,この小説は「諷刺的というよりむしろ笑劇的である」と述べ,それを「準笑劇」(‘semi-farce’)と呼んでいる。笑劇的要素は主として誇大妄想を抱く新聞界の巨頭サー・ジャック・ピットマンによるものであり,彼はイギリス出版界の大物ロバート・マクスウェル(Robert Maxwell)とオーストラリア人のメディア界の大御所ルーパート・マードック(Rupert

Murdoch)を想起させる。バーンズの言葉を引用すれば,この本は「イングランドという観念,真正性,真実の探究,伝統の創出,私たちが自分自身の歴史をどのように忘れるか」についてのものである。小説の第 1部で,マーサの父親が家族を見捨てると,ジグソーパズルもイングランドもマーサの

心も再び完全になることはできない。イングランドの州のジグソーパズルにまつわる一見あどけないイメージは歴史と記憶の本質の隠喩を提供する。歴史と記憶の完全さは単なる幻想なのである。歴史の融通性と集合的および個人的記憶のあてにならなさは,ワイト島のテーマパークの創造者たちが,観光客の期待に応えるべく,国民の歴史を書きかえ,単純化し,戯画化することを可能にする。この小説の題名は愛国的な間テクスト的反響音で鳴り響いている。それらは,詩人ウィリアム・

アーネスト・ヘンリー(William Ernest Henley)の『イングランド,わがイングランド』(England,

My England, 1888),D. H. ローレンス(D. H. Lawrence)の短編小説「イングランド,わがイングランド」(“England, My England,” 1922)およびジョージ・オーウェル(George Orwell)のエッセイ「イングランド,あなたのイングランド」(“England, Your England,” 1941)からのものである。しかし,スコットランドの作家 A. G. マクドネル(A. G. MacDonell)の小説『イングランド,彼らのイングランド』(England, Their England, 1933)のように,『イングランド,イングランド』での国民の歴史とイングランドらしさの栄誉ある考察はアイロニーに染まっている。愛国心は,大英帝国がもはや存在せずイングランドが衰退しつつある新千年紀の夜明けに保持す

るのが容易ではない立場であるように見える。現在から撤退し,代わりにイングランドの過去と栄光ある歴史を利用することによって,サー・ジャックはこの問題を解決する。あるインタビューで,

6 本項目の記述は,ヴァネッサ・ギニュリ『ジュリアン・バーンズの小説』の第 9章 “The Simulacrum of

National Identity : England, England (1998)”(Guignery 104-14)に関するものである。7 以下,この要約中の『イングランド,イングランド』に関するバーンズの論評は,主にいくつかのインタビューからのものである。

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商  学  論  集 第 85巻第 2号

この小説は「国についてのにせの真実の創造と本物の代わりを務めさせられるこれらの粗雑な象徴について」のものであるとバーンズは述べている。人工的なイングランド,イングランドでは,好ましくないイングランドらしさの特性はすべて捨

てられ,主要な歴史的人物とエピソードはすべて,現代の家族の観客に適合するように戯画化され単純化される。よってマーサの言う「現代のための神話の位置づけの変更」が生じるのである。ネル・グウィンの伝記は変形させられる必要があり,ロビン・フッド伝説は,新世紀の精神と観光客の期待に合わせて,書きかえられ,非政治化され,翻案される。バーンズによれば,この小説の虚構世界のなかで描かれている単純化の過程は現実世界でも作用している。たとえピットマンが否定するにしても,ワイト島での市場商いの投機的事業は結局歴史のパッケージ化に等しい。国民の歴史の構築を前景化することによって,この小説は,表象の技術,シミュラークル,複製

と原物の間の関係に関わる諸論点を問題化する。ボードリヤール(Jean Baudrillard)は第 1段階のシミュレーションを「現実の表象」,第 2段階のシミュレーションを「現実と表象の間の境界の曖昧化」,第 3段階のシミュレーション(「ハイパーリアリティ」)を複製が現実より優先される状況として定義している。この小説でプロジェクトの調整委員会に講演をするフランス人インテリはハイパーリアリティを称揚する。この学者の戯画化された人物像を通して,バーンズはフランス知識人の専門用語と抽象的学説をいたずらっぽく茶化している。思惑的事業が実施されると,少しずつ真正のものとシミュラークルの間の境界がぼやけてくる。

複製の島が「実・ ・物そ

・ ・ ・ ・のもの」(‘the thing itself’)となり,本来の過去へのアクセスは不可能だと思わ

れるようになる。ワイト島で歴史的または神話的人物に扮するために雇われている俳優たちは常に自分自身の名前ではなく役の名前によって知られ,かくして自分の虚構のアイデンティティと本当のそれを混同する。これはボードリヤールの第 2段階のシミュレーションに対応する。秩序が崩壊し始め,俳優たちは自分の役柄にあまりにも完全に同一化した結果原物となる。脱穀者,羊飼い,ブリテンの戦いの飛行中隊,密輸業者,ロビン・フッドとその一党,ジョンソン博士などを演じる俳優たちは,本当の自分自身よりも自分の役回りを,つまりハイパーリアリティを好むのである。マーサとポール・ハリソン(Paul Harrison)の間の恋愛関係は「プロジェクトのハイパーリアルな世界への解毒剤となり得るもの」として提示されている。結局彼らの恋愛は失敗し,人間の真正の愛情という幻想を前景化し,マーサはこの島から追い出される。最終セクションは批評家や読者によって色々に解釈されてきた。バーンズは,「あの第 3部は,

私が個人的によいと考えるものであると,あるいはそれは前もって提起された問題へのこの本の答えであると,人々に少々誤読されがちだ」と言っている。しかし,少数の批評家はアングリアを好意的に考えている。バーンズによれば,最終部は「どの程度まで国は再出発できるか,そしてその再出発は何を意味するのかという問いについて」のものである。アングリアのすべての住民が,新たに始めようとして自分の名前,職業および所在を変えており,これは第 2部における俳優たちの人格のずれとアイデンティティの混同を想起させる。バーンズは「まっさらな状態のようなものはなく,人は常にわずかばかりの覚えているものか再発見したものから始めるのだ」と語り,またこの場所は「完全ににせものの村である。それは自分自身を再創出するいんちきな村である」と述べている。

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佐々木 : ジュリアン・バーンズの『イングランド,イングランド』はどう読まれてきたか

この小説は,ユニークで高度に独創的であるが,以前の小説で扱われた諸問題に取り組んでいるという点で,バーンズの他の文学的著作と整合性を有するように見える。それらの諸問題とは,真実と記憶の捕えどころのなさ,愛の気まぐれ,歴史の構築,現実と虚構の関係などである。たとえいくつかの中心的テーマがある小説から次のものへと繰り返されるとしても,バーンズによるそれぞれの小説は形式についての新たな実験なのである。(2) 論評

ギニュリは,多数の評者とバーンズ自身による『イングランド,イングランド』論を参照し,それらを縦横に引用しながら,比較的バランスのとれた議論を展開しているが,その分独自の解釈や個性的な主張をすることにはあまり積極的でない。作者自身による作品解説はしばしば有益だが,作者の意図と作品そのものは別物なので,作者の作品解説を利用する場合には注意と節度が必要になるだろう。ギニュリの論文はバーンズの小説執筆意図にやや重きを置き過ぎているように感じられる。もし諷刺でなければ,この小説がいかなるジャンルに属するものなのかは,「政治小説」や「準笑劇」という作者による分類を参考にしつつ追究すべき興味深いテーマだが,これは取りも直さずこの小説の独自性を示している。ピットマンとマクスウェル,マードックとの類似性は,従来から指摘があるものであり,新しい

発見ではない。しかし,小説第 1部のイングランドのジグソーパズルに関するイメージが歴史と記憶の本質(歴史の融通性と記憶のあてにならなさ)の隠喩であり,その本質に基づいて第 2部のテーマパークが創造されるというギニュリの読み方は,一見異質に見える第 1部と第 2部の主題的なつながりを浮き彫りにする。この小説の題名の間テクスト的反響についての指摘は,この論文における最もオリジナルな見解

の 1つであろう。アイロニーに裏打ちされた愛国的響きが本小説の題名から聞き取れるとして,題名に関する 4つの文学作品からの影響が示唆されている。いかにもありそうに思われるが,論証が充分であるとは言い難い。サー・ジャックによる島プロジェクトが露骨なまでに退行的である理由について,ギニュリは一

応の解答を提示している。「人工的なイングランド,イングランドでは,……主要な歴史的人物とエピソードはすべて,現代の家族の観客に適合するように戯画化され単純化される」という見方は新しくないが,本論では「現代のための神話の位置づけの変更」の観点からネル・グウィンとロビン・フッドの事例について整理がなされている。また,歴史のパッケージ化としてのワイト島での投機的事業が,バーンズの発言を介して,現実世界での単純化の過程と結びつけられていることが注目される。ボードリヤールによるシミュレーションの 3段階説に関わるくだりはギニュリの発見ではない。

また,この小説からうかがえるポストモダン理論に対するバーンズの態度は,単に諷刺的というよりも,敬意の混じったアンビヴァレントなものではなかろうか。しかし,俳優の種別ごとに,役柄への同一化の結果何が起きたのかを簡潔に整理した部分はギニュリの貢献と言ってよいであろう。最終セクションがこれまで様々に解釈されてきたということは,すなわちそれが曖昧に書かれて

いて,多様な解釈に開かれているということを意味する。読者は,この小説についてのバーンズの発言に盲従することなく,作者から独立した作品として同小説を読む権利を有する。もしバーンズ

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の言うように,「まっさらな状態のようなものはなく,人は常にわずかばかりの覚えているものか再発見したものから始める」のならば,再出発しようとするアングリアの住民たちにできることは,「わずかばかりの覚えているものか再発見したもの」に基づいて自分自身を再創出することだけである。このような村をいんちきなにせものと呼ぶことはできるし,第 2部におけるサー・ジャックの投機的事業との共通点を指摘することも可能であるが,歴史的状況,誘因,目的などの検討なしに,両者を一緒くたにして論じるのは粗雑な議論というものだろう。残念ながら,ギニュリ自身は第 3部の解釈について旗幟鮮明にしていない。ギニュリはこの小説を「ユニークで高度に独創的」と高く評価している。また,本論は 1冊のバー

ンズの小説論のなかの 1章なので,バーンズの文学的著作の全体的な流れのなかで『イングランド,イングランド』を考察しており,バーンズの他の小説との類似点と相違点についても目配りを怠っていない。

5. フレデリック・M. ホームズ「『イングランド,イングランド』」8

(1) 要約

『イングランド,イングランド』は,フレドリック・ジェイムソン(Fredric Jameson)が後期資本主義のポストモダニズム的文化論理と呼ぶものに従うことによって,イングランドが自分自身の歴史についての知識を失いつつある様子を示すように意図された諷刺的空想小説である。バーンズは過去を再構築するための道具としての記憶のあてにならなさを強調する。この小説は国民と個人が自分自身の歴史を形成する仕方の間の類似性を示す。マックス博士はマーサに,暴かれたり発見されたりするよりもむしろ構築されたり盗まれたりさえするという点で国民と個人のアイデンティティは似ていると語る。バーンズの小説は,観光産業が真正性に人為性の混ぜ物をする財政上の動機があるということを

例証する以上のものである。真正性が切り離せないほどに非真正性と混じり合っており,それに依存しているさまを示して,バーンズはまさに真正性の概念を脱構築する。サー・ジャックのワイト島プロジェクトはまったく真正性なしで済まし,ハイパーリアリティ(イ

ングランドの現実とその歴史にすっかり取って代わったシミュラークルの集合)になる。なまぬるいビール,ロンドンタクシー,およびビッグベン,ストーンヘンジ,ロンドン塔の複製のようなイングランドの標識(markers)は名物,名所それ自体となる。この現象は「誤った換喩」を構成するとヘッド(Dominic Head)は考えており,これによって「イングランドの象徴」がそれと結びついている現実と混同される。しかし,最終セクションにおけるアングリアの作り上げられた国民のアイデンティティの暴露が示すように,創出された象徴と換喩的なつながりによって社会的「現実」は不可避的に構築されるということをこの小説は示唆する。こしらえられた「生きている」歴史の打算的で露骨に明らかな性格の点で,イングランド,イン

グランドはアングリアと異なり,その歴史は利益を最大化するという唯一の目的のために創造され微調整されたものである。このプロジェクトを推進し,その従業員と顧客に対してプロジェクトを

8 本項目の記述は,フレデリック・M. ホームズ『ジュリアン・バーンズ』の第 4章中の 1セクション “England,

England”(Holmes 91-102)に関するものである。

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ひどく操作的なものにする政治的経済的イデオロギーをこの小説は攻撃する。この島は人々を完全に脱中心化されたポストモダンの主体のように扱い,人々は実際に個人のアイデンティティの深みを欠いているようにしばしばふるまう。個人と国民に対して過去と現在の間の連続性を提供する際に記憶が誤りを免れないことをバーン

ズは強調する。したがって,記憶によって与えられたアイデンティティ意識は信頼できない。小説の最初のほうで示されるマーサの考え方によれば,歴史の理解は常に視点に依存し,「現在中心の見方」(‘presentism’)によって汚染される。この点で,この島が提供するものは文化遺産観光産業に典型的なものであり,マックス博士が尊敬するたぐいの,歴史への立派に学問的な取り組みでさえ妥協的である。マーサの最初期の記憶は,父による家族の放棄より前の自分の子供時代を牧歌的田園生活として

潤色する。農業品評会に関連して,マーサの記憶は,幼い子供の頃の彼女の純真さの観念とイングランドの田舎の恵み深さのそれを結びつけ,損なわれていない原初的なアイデンティティが,マーサと彼女が調和的に統合されている環境の両方に対して示唆される。マーサは,人生のいろいろな段階を通じて,完全で満ち足りた自己を形成しようと,自分の内面

の空虚を満たすための意味を見つけようと意図的に努力する。「挿話」(“Parenthesis”)のなかでバーンズが論じている救いとなる可能性のある人生の 3つの側面(芸術,宗教,愛)のうち,彼女は宗教と愛を探究する。マーサは神聖であると思われる瞬間を経験する能力を持つが,子供時代の早い頃から組織化された宗教の主張に大いに懐疑的である。彼女はまた,男性との性的関係において自分自身を完全なものにする自分の企てによって幻滅させられる。ポールとの恋愛を通して自分自身を完全なものにするというマーサの唯一の望みは,自分の生活

を厳格に区分けすることにかかっている。彼女は自分の私的自己と公的自己をまったく別々にしておこうとするが,これは不可能であることが判明し,仕事関連の重圧が 2人の関係を崩壊させる。「幸福は……自分の本性に忠実であることによる」(“happiness depended on being true . . . to your

nature”)(Barnes 226)と自分は信じているのに,その「本性」はたぶん判読できないか錯覚でさえあるという矛盾のために,彼女による真正の自我の探求は失敗する。明らかにフィリップ・ラーキン(Philip Larkin)の「教会行き」(“Churchgoing”)に由来する,さびれた教会境内で展開する 2つの場面は,マーサの苦しみ自体が,自分はジョンソン博士だと信じる俳優の苦しみに似た現実性を持っていることを明らかにする。ハイパーリアリティの環境において,少なくとも彼女の情緒的苦痛は本物であり,これが彼女のなかに救済への欲求を作り出し,それは教会がかつて意味したものと心を通わせることによってある程度満たされる。ちょうどバーンズがイングランドの原初的純粋さの再発見としてアングリアを理想化しないよう

に,孤独で年老いたマーサもあいまいでない自己定義や人生における意味を見つけていない。小説の最終セクションの彼女は以前より穏やかだが,これは老化の過程よりも深遠なもののせいではないかもしれない。小説を締めくくる村祭りは,マーサが子供の頃に行く農業品評会に似ており,人生の終りに近づ

いている老女の哀歌的な視点を相殺するお祝いの雰囲気を小説の結末に添えている。評価できるのは,彼女の穏やかさだけでなく,お祭り騒ぎをする人々によって表されるカーニバル的な生の喜び

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である。イングランドの歴史と神話の登場人物の仮装に関して言えば,イングランド,イングランドでは結局単に表面的でポストモダニズム的な見世物文化になるものが,アングリアでは,『フランソワ・ラブレーの作品と中世ルネッサンスの民衆文化』(Rabelais and His World, 1965)のなかでバフチン(Mikhail Bakhtin)によって激賞された解放的特徴の一部を有する一般大衆のカーニバルの形をとる。レイ・スタウト(Ray Stout)によるビクトリア女王の仮装を見た子供たちは,同時に両者の存在を信じる。人生を現実のものとして経験する私たちの能力を必ずしも全面的に破壊するわけではない,なくてはならない虚構として,個人と国民のアイデンティティの創出を受け入れる能力を,これらの子供たちの二元的な心的態度は示唆している。ワイト島で観光客のために提示されるイングランドの虚偽性の諷刺において,筋,登場人物,テー

マ,および他のテクスト的諸要素を考案する際に,バーンズは高度な形式上の工夫を用いている。この小説の豊かな間テクスト性は,サー・ジャックの島の気の抜けた模倣と対照的であり,それによって諷刺を評価できる肯定的価値を構成するとさえ言えるだろう。『イングランド,イングランド』は,事実上ブリコラージュの作品であり,ポストモダニズムの物語技法が必ずしもジェイムソンの言う「空虚なパロディー」(‘blank parody’)に帰着するとは限らないことを示す情緒的および知的深みを持っている。(2) 論評

記憶のあてにならなさ,および歴史形成方法とアイデンティティにおける国民と個人の類似性についてはホームズの指摘のとおりであろうが,これらは目新しいものではない。また,観光産業の財政上の動機と真正性の概念の脱構築に関しても,表現の相違はあれ,先行する諸論の一部と比べて趣旨の点で新味はない。典型的にはイングランドの名所の複製が現実と混同され,名所それ自体となる現象を「誤った換

喩」ととらえる見方は興味深いが,これはヘッドの着想である。しかし,それを応用した「創出された象徴と換喩的なつながりによって社会的『現実』は不可避的に構築されるということをこの小説は示唆する」というホームズの主張は説得力がある。ホームズは,この小説の攻撃対象を,サー・ジャックのプロジェクトを推進し,そのプロジェク

トに従業員と顧客を操作させる政治的経済的イデオロギーとしている点で,批判の対象を観光産業としている論者よりも考えが深く,洞察力がある。「完全に脱中心化されたポストモダンの主体」と「個人のアイデンティティの深みを欠いている」という記述は,イングランド,イングランドの必ずしも全員にあてはまるものではなく,主としてイングランドの歴史と伝説の登場人物を演じる役者たちについてのものであろう。記憶が誤りを免れないので,記憶によって与えられたアイデンティティも信用できないこと,歴

史はいつも現在の視点から解釈,再解釈されること,歴史への学問的な取り組みでさえ「現在中心の見方」と無縁でないことなどは,みなありきたりな指摘である。マーサが牧歌的田園生活として脚色するのは自分の子供時代のうちでも「父による家族の放棄よ

り前」の部分であるとしているのはホームズの卓見である。農業品評会の象徴的意味については多くの評者が論じているが,農業品評会によってマーサとイングランドの田舎に対して素朴な姿の原初的なアイデンティティが示唆されていると彼は解釈する。

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バーンズは「挿話」のなかで,もしかすると人間を救済するかもしれない人生の 3つの側面について論じているというホームズの指摘は,マーサの人生遍歴を考えるうえで有益である。確かに彼女は,芸術に興味を持たず,男性との恋愛と神聖な体験に救いを見出そうとする。マーサとポールの恋愛関係が崩壊するのは,仕事関係の重圧のせいばかりでなく,子供の頃に父親に見捨てられたことによるマーサの心的外傷のせいでもあろう。彼女の本物の自我の探求がうまくいかないのは,社会的構築物である自己に本性を期待するからであるというホームズの見解は至極もっともである。ホームズはさびれた教会の場面にラーキンからのエコーを見出しているが,これは啓発的な指摘である。ジョンソン博士を演じる俳優の精神的苦しみの真正性を論じる評家はほかにも存在するが,ホームズは一歩進んで,その俳優とマーサの苦悩の類似性を取り上げる。「教会がかつて意味したもの」という表現はあいまいだが,それは「より大きな……救済のシステム」(“a greater . . .

system of salvation”)(Barnes 236)を指すのであろうか。アングリアが理想化されていないことや老年のマーサが自己定義と人生の意味を確信していない

ことは,少なからぬ論者によって言われている。また,老いたマーサの平穏さが成熟した証拠なのか倦み疲れた証拠なのかは,マーサ本人にもわかっていない(Barnes 257)。ホームズは,小説の最後の村祭りで浮かれ騒ぐ人々が見せるカーニバル的な生きる喜びを肯定的に評価する。さらに彼は,歴史的,神話的登場人物の仮装に関して,イングランド,イングランドの場合を「表面的でポストモダニズム的な見世物文化」とし,アングリアの場合をバフチンが賞賛する「解放的特徴の一部を有する一般大衆のカーニバル」として,後者のほうにより多くの共感を示している。この見方はホームズ独自のものであり,一定の説得力を持っている。スタウトによる女王の仮装に対する子供たちの二元的な心的態度は彼らの純真さを表すものだが,この心的態度を「なくてはならない虚構として,個人と国民のアイデンティティの創出を受け入れる能力」と結びつけるのはユニークな解釈であろう。ホームズによれば,『イングランド,イングランド』は,ワイト島で提示されるイングランドの

虚偽性を中心に据え,ポストモダニズムの論理と技法に従って,イングランドが自分の歴史に関する知識を失いつつあるさまを示す諷刺的空想小説ということになる。この要約的記述は,十分に包括的ではなく,マーサの人生行路の物語をうまく組み込めていないように思われる。この小説の豊かな間テクスト性はすぐれた諷刺の証拠となる肯定的価値の一部をなすという主張には一理がある。私としては,この小説は情緒的,知的奥深さを有しているのでジェイムソンの言う「空虚なパロディー」ではないというホームズの結びを支持したい。