イザドラ・ダンカンの舞踊学校 - COREイザドラ・ダンカンの舞踊学校 51 序...

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イザドラ・ダンカンの舞踊学校 51 20世紀初頭、欧米でギリシア風衣装を身に纏い裸足で踊るという新しい形の踊りを提示したイ ザドラ・ダンカン(Isadora Duncan, 1877-1927)は、「新しいダンスの開拓者」として、また 「モダンダンスの母」として、これまで多くの振付家・ダンサーに影響を与えてきた。しかしな がら、彼女が50年という短い生涯の中でドイツを皮切りにフランス、ロシアに舞踊学校を創設し、 そこで自身の舞踊教育を施したことについてはあまり知られていない。 本稿においては、イザドラが創設したドイツの舞踊学校に焦点をあて調査研究する。先行研究 としては、1979年にケイ・バーズリー(Kay Bardsley)がドイツの学校について論じているが (1) 本稿はバーズリーの論文に加え、彼女が参照していない学校のパンフレット、当時の新聞記事な どを調査し、イザドラの学校創設への高い意識と強い思い、学校創設までの経緯や学校運営、ま た学校で行われていた具体的な舞踊教育について考察する。さらに、ドイツに設立した舞踊学校 がどのような理由で閉校になったのか、またその後の経緯について最新のインタヴューも含めそ の実体に迫る。 1.学校創設への思い イザドラは、幼少期からカリフォルニアの海などの自然に親しみ、母が弾くピアノの音色、読 み聞かされる詩 (2)  からインスピレーションを得て即興的な踊りを楽しんでいた。その後、自身 の踊りの才能を花開かせるため、ロンドン、パリ、ドイツを訪れ、そこで多くの苦難や苦境を乗 り越えてダンサーとして活躍、有識者や芸術家に認められるようになった。一方、彼女は自伝に 記しているように、踊りの傍らロンドンでは大英博物館、パリではルーブル美術館に通い、絵画 や彫像などからインスピレーションを得、独自の舞踊を創出するとともに舞踊の概念の構想に取 り組んでいく。 1903年、26歳のイザドラは、それまで構想してきた自然を源とした舞踊の概念を「未来の舞 (3) 」として発表する。その後、この概念を少女たちに伝えることが自身の使命と考え、学校創 設への思いを以下のように書き記している。 イザドラ・ダンカンの舞踊学校 最初に創設されたドイツの学校を中心に    柳 下 惠 美  

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イザドラ・ダンカンの舞踊学校 51

 20世紀初頭、欧米でギリシア風衣装を身に纏い裸足で踊るという新しい形の踊りを提示したイ

ザドラ・ダンカン(Isadora Duncan, 1877-1927)は、「新しいダンスの開拓者」として、また

「モダンダンスの母」として、これまで多くの振付家・ダンサーに影響を与えてきた。しかしな

がら、彼女が50年という短い生涯の中でドイツを皮切りにフランス、ロシアに舞踊学校を創設し、

そこで自身の舞踊教育を施したことについてはあまり知られていない。

 本稿においては、イザドラが創設したドイツの舞踊学校に焦点をあて調査研究する。先行研究

としては、1979年にケイ・バーズリー(Kay Bardsley)がドイツの学校について論じているが(1)、

本稿はバーズリーの論文に加え、彼女が参照していない学校のパンフレット、当時の新聞記事な

どを調査し、イザドラの学校創設への高い意識と強い思い、学校創設までの経緯や学校運営、ま

た学校で行われていた具体的な舞踊教育について考察する。さらに、ドイツに設立した舞踊学校

がどのような理由で閉校になったのか、またその後の経緯について最新のインタヴューも含めそ

の実体に迫る。

1.学校創設への思い

 イザドラは、幼少期からカリフォルニアの海などの自然に親しみ、母が弾くピアノの音色、読

み聞かされる詩(2) からインスピレーションを得て即興的な踊りを楽しんでいた。その後、自身

の踊りの才能を花開かせるため、ロンドン、パリ、ドイツを訪れ、そこで多くの苦難や苦境を乗

り越えてダンサーとして活躍、有識者や芸術家に認められるようになった。一方、彼女は自伝に

記しているように、踊りの傍らロンドンでは大英博物館、パリではルーブル美術館に通い、絵画

や彫像などからインスピレーションを得、独自の舞踊を創出するとともに舞踊の概念の構想に取

り組んでいく。

 1903年、26歳のイザドラは、それまで構想してきた自然を源とした舞踊の概念を「未来の舞

踊(3)」として発表する。その後、この概念を少女たちに伝えることが自身の使命と考え、学校創

設への思いを以下のように書き記している。

イザドラ・ダンカンの舞踊学校

   最初に創設されたドイツの学校を中心に   

柳 下 惠 美  

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―10年来、心にあったことを決断するまでになりました― それは、真の舞踊の発見を目的

とする学校の建設に力を尽くすということでした。けっして私の舞踊の模倣ではなく、一芸

術としての舞踊の研究をするのです。私はこの意図をごく解りやすく聴衆に説明し、彼らは

これを素晴らしい構想と考えたようでした。アメリカ、ドイツ、オーストリア、ハンガリー、

フランス、これらの国のどの都市の聴衆も、私がこの意図を話すと、それは素晴らしいと応

えるのでした。(4)

 この言述から、10代から思い続けていた「舞踊を一芸術として高めたい、そのための理想の学

校を創りたい」というイザドラの強い思いが多くの聴衆から賛同を得、それが学校創設への決断

となったことが読み取れる。

2.学校創設の経緯

 10代の頃から夢見ていたイザドラの舞踊学校の創設は、彼女のドイツ公演が契機となった。イ

ザドラは1901年、24歳の頃、当時一世を風靡していたロイ・フラー(Loie Fuller(5))と知り合い、

彼女の一座とヨーロッパ各地を巡演することになる。そして、公演で居合わせた興行師アレクサ

ンダー・グロス(Alexander Grosz)の勧めで、ブタペストのウラニア劇場で一ヶ月間のソロデ

ビューを果たし、その後ミュンヘンの「芸術家の家」(Künstler Haus)においても公演する機会

に恵まれた。

 当時のミュンヘンはドイツ国内の芸術首都的存在であり、著名な芸術家、彫刻家が集結してい

たことから、グロスはこの都市で多くの観客を確保できると考え、イザドラのリサイタルを開催

した。グロスの意図は的中し、イザドラの踊りは芸術家や上流階級の観客に受け入れられた(6)。

この時観客として観に来ていたリヒャルト・ヴァーグナーの息子ジークフリードからも称賛の言

葉を浴び、彼女の名声は不動のものとなっていく(7)。後に学校創設への強力な支援者となるジー

クフリードの母であり、リヒャルト・ヴァーグナーの妻コジマ・ヴァーグナーとも知り合った。

 1903-1904年は、イザドラがドイツ国内で大変精力的に活動し、大絶賛を得た年であっ

た。特に1903年1月、ベルリンのクロール・オペラ劇場での公演は大好評で、「神聖イザドラ」

(“Heilige Isadora”)と称えられた(8)。Tanzarchiv 所蔵のクロール・オペラでのプログラムによる

と、1903年1月22日、イザドラは「ショパンの夕べ」を開催し、マズルカ、プレリュード、ノク

ターン、ワルツを踊っている。3月には以前から構想していた舞踊の概念を「未来の舞踊」と名

付けて講演と書籍によって紹介した結果(9)、イザドラの舞踊の概念は多くの賛同者を得た。また

同年の秋、冬もドイツ国内で公演、1904年2月にはベルリンでベートーヴェンプログラム(10) を、

同年の夏は支援者となったコジマ・ヴァーグナーの招待により(11) バイロイト音楽祭でバッカ

ナールを踊るなどドイツ各地で大成功を収めていく。

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 以上のように、イザドラは数多くの公演の成功によって莫大な財産を蓄積し(12)、1904年に富

裕層の住むベルリン郊外のグリューネヴァルトに庭付きの広大なヴィラを購入、彼女自身の理想

の学校創設に取り組むことになった(13)。

3.「未来の舞踊」について

 この節では、前述したイザドラの舞踊の概念である「未来の舞踊」について考察する。

 「未来の舞踊」の講演は、批評家が当時の新聞ベルリン・モルゲン・ポスト紙にベルリンのク

ロール歌劇場でのイザドラの踊りに対し、イザドラの踊りは芸術とは呼べない、ベルリンオペラ

のバレリーナの優れた芸術とは比べものにならないとし、バレエマスター達にイザドラの踊りが

舞踊に値するか審判させようという痛烈な批判記事を書いたことが契機となった。イザドラは早

速この記事に反論、ベルリン美術館にある彼女と同じ自然なスタイルで踊っている「マイナデス

の踊る彫刻」を引き合いに出し、これを侮辱することになるのではないか、と一種の皮肉も込め

て手紙を送った。この一件から、イザドラにベルリン・プレス協会から舞踊についての講演依頼

があり、予てから抱いていた舞踊の概念を「未来の舞踊」と題して話すことになった。

 「未来の舞踊」の講演の中で、イザドラはギリシア彫刻の自然の動きには身体と身振りの調和

があると賞賛し、今こそ女性の美と健康の育成にも自然の動きを取り戻すことが重要であり、自

然を源とする舞踊は自然引力の法則から人体の構造に逆らってはいけないことを強調している。

 また自然から学んだ美や感性、美術館で鑑賞した彫像、ヘッケル、ショーペンハウアーやニー

チェなどの哲学書やギリシア神話等から得た知識を交えて持論を展開しているところにその特徴

をみることができる。そして未来の舞踊家を、魂の自然な言葉が身体の動きとなるまでにその身

体と魂とがともに調和して発達した人、と定義づけている。

 これらのことから、未来の舞踊家となる子供達を自身の考える理想の舞踊家に育成したいとい

うイザドラの強い思いと意図が読み取れる。

 この講演はプレス協会で高い評価を得、翌日の新聞に詳しく掲載された。その後書籍として出

版され、「未来の舞踊」は広く周知されることになった。

4.学校の教育目的

 公表されたグリューネヴァルトの学校の教育目的は、イザドラの舞踊思想に基づいた訓練を行

い、最終的には生徒一人一人に啓蒙された自由な精神を育成することにあった。

 イザドラは学校の教育理念について、案内書の中で以下のように述べている。

人間の身体の美しい音楽的な動きを再発見すること、最も身体の形に調和する理想的な動き

の舞踊に再び呼び戻すこと、そして2000年の間眠っていた芸術をもう一度呼び起こすこと、

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これらが学校の目的である。(14) (試訳)

 一方、バーズリーもイザドラの言葉に基づき、舞踊教育の目的を下記の3点に纏めている。

1.身体の楽器を通して知性に辿りつくこと

2.身体のエネルギーを活性化させることによって個性の形成を達成させること

3.音楽や他の芸術の美的経験を通して、高められた反応を発展させること

 すなわち、精神の発展、意識の向上(15) (試訳)

 これらから、イザドラは以前から関心を示していたギリシア文化やドイツ哲学から芸術観を、

自然の観察から動きを学び、それらを理念として教育目的に取り入れ、とくに身体を自然と調和

して自由に使うことができる道具とし、体を通して魂の感情と思いを表現することを踊りの概念

として重要視していたことがわかる。

 1904年の秋に学校の案内が新聞に掲載されたが(16)、その記事は舞踊の芸術を学びたいと思っ

ている10歳以下の身体的にも精神的にも健康で礼儀正しい少女を募り、生徒の受け入れは国籍や

社会的地位についての差別はないこと、父親や母親のいない子供や生れの定かでない子供も受け

入れる(17)、と強調している。このようなことから、学校は社会的に自由な思想に基づくもので

あり、差別を受けやすい未婚で生まれた子供も受け入れることを示している(18)。このような理

念と教育目的の下に設立されたグリューネヴァルトの新しい学校は、ポツダムにある教育省の審

査に合格し、国家から初等学校として認定を受けた(19)。

5.入学者の選抜方法

 入学者の選抜は、イザドラ自身が直接オーディションを行い(20)、巡業先のドイツ、ポーラン

ド、ベルギー、ネーデルランドなどで生徒を選ぶことを原則としていた。後に「イザドラブル

ズ(21)」と称される6人の才能ある少女たち(マーゴ、テレサ、リザ、イルマ、エリカ、アナ)

の選抜の地は、マーゴに関しては不明であるが、テレサとリザはドレスデン、イルマとエリカは

ハンブルグ、アナはグリューネヴァルトであった。

 イルマは自らのオーディションの様子を自伝 Duncan Dancer の中で、遅刻したが母親の強い

願望により特別にオーディションを受けさせてもらえたと述べている。そしてキャミソール姿で

シューマンのトロイメライの曲に合わせ、イザドラの動きの真似やアレグロ、スキップから音楽

性や身体能力を観察され、その結果不採用になりかけたが立ち会ったゴードン・クレイグ

(Gordon Craig(22))から発せられた「彼女には目がある」の一言により選ばれ(23)、運がよかった

と回想している。実際、イザドラが自伝の中で「愛らしい笑顔や可愛い目で生徒を選抜してし

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まった(24)」と記述していることから、このことは裏付けられる。

 オーディションにより選抜され、入学を許可された生徒達は約3ヵ月の予備期間を設けら

れ(25)、この間に少女たちが学校の教育目的に適しているか、芸術的才能を持っているかが確か

められた。適格とされ健康診断に合格した生徒は、17歳になるまで学校に在籍しなければならな

いという定めがあり、イザドラはこれについて両親または保護者と契約を交わしている。そして

最終的に選ばれた20人の生徒は、授業料、生活費は全て無料で全寮制の教育を受けられることに

なった(26)。

 次節では、生徒達がどのような教育を受けたのかについて、時間割なども含めて考察する。

6.学校での教育

 最も健康な身体と最も高い知性を同時に育成す

るための教育として、生徒達はイザドラ・ダンカ

ンによるダンス教育の他に公立の学校教師による

一般教育や芸術に関する講義を受け、野外での体

操や定期的に美術館に出かけ、生活面では簡素な

食事と風通しのよい寝室、その他洋服を含めた生

活必需品が与えられた。学校には2人の住み込み

の家庭教師を置き、学校管理はイザドラの姉のエ

リザベス・ダンカンが担当した。

 1905年8月27日の Chicago Daily Tribune には

学校のタイムスケジュールが次のように記述され

ている(27)。

7時 起 床

7時30分 朝 食

9時~ 12時 一般教養

12時15分 昼 食

 ~1時15分

昼食後~3時 野外でのレクリエーション

3時 お 茶

お茶の後~6時 ダンス

6時 夕 食

7時~8時 ゲーム、読書、音楽など

図1 学校の裏階段:イザドラと生徒達

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8時 就 寝

 学校のパンフレット(Verein zur Unterstützung und Erhaltung der Tanzschule von Isadora

Duncan. E.V.)には以下のようなカリキュラムが記載されている。

通常午前中 4時間  . . . . . .  一般教養の授業

日曜 10-12時 . . . . . .  図画の授業

月曜・木曜 5-6時 . . . . . .  歌の授業

火曜・金曜 2-4時 . . . . . .  体操の授業

火曜・金曜 5-6時 . . . . . .  博物学

水曜・土曜 4-6時 . . . . . .  ダンスの授業

 学校のパンフレットから、曜日ごとに様々な授

業がカリキュラムの中に組まれていたことが分かる。またこのカリキュラムには掲載されていな

いが、学校では生徒達を帰郷させない代わりに(28)、2週間に1回、保護者に手紙を書く時間が

設けられた。

 以下にアナが両親に宛てた手紙を紹介する。

では、私が毎日何をしているか伝えます。私たちは7時に起きて、番号順にシャワーを浴び

ます。(中略)それから私たちは朝食を摂ります。その後新鮮な空気のある外に出て、学校

に行きます。(中略)それから庭に戻ってきて、12時15分に昼食を摂ります。日曜にはデザー

トがあります。昼食のあと森林の中に行きます。(中略)それから家に戻り、牛乳を飲みま

す。それから30分間眠ります。(29) (試訳)

 アナの手紙の内容から、学校のタイムスケジュール通りに教育が進められ、イザドラの舞踊教

育の根幹である自然と親しむ教育も実践されていることが確認できる。また学校のカリキュラム

からも午前中に一般教養を、午後はダンス、体操や芸術を学び、計画的に教育が進められていた

と言える。

 イザドラが訪れた帝室バレエ学校と比較すると、タマラ・カルサーヴィナの著書『劇場通り』

に、帝室バレエ学校では午前中はダンスと音楽のレッスンが行われていたとの記述があり(30)、

午後にダンスの授業があるイザドラの学校とスケジュールが逆であることが分かる。

 公演に出かけることの多かったイザドラは、ダンスの指示の方法をメモとして次のように書き

留めていた。

図2 エリザベスによる授業の様子

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子供は動くように教えられてはならず、魂が成熟するに従って、その魂が導かれ、教えられ

ねばならぬ。換言すれば、身体は身体にふさわしい動きによって、それ自身を表現するよう

に教えられねばならないのである。(31)

 このメモから、最初から子供達に動作を教えずに、子ども自身が風、木々の音、鳥の囀りなど

の自然からインスピレーションを得て、それを踊りとして体現できるように教えるよう指示して

いたと推測できる。

 このように子供達が自然に触れ、自然から何かを感じ取ることの大切さは、学校のタイムスケ

ジュールの中に、昼食後に野外でのレクリエーションを組み入れていることから確認でき、自然

を源とするイザドラの舞踊教育の特徴が表れていると言える。

 以下に当時の学校の教員一覧を示す。(学校のパンフレット Verein zur Unterstützung und

Erhaltung der Tanzschule von Isadora Duncan. E.V. より)

イザドラ・ダンカン(Isadora Duncan) . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 芸術監督

エリザベス・ダンカン(Elizabeth Duncan) . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . ダンス教師

ヘルマン・ラフォント(Hermann Lafont)教授 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . ピアノ教師

ヘンリ・ブックフォード・パスモア(Henry Bickford Pasmore)教授 . . . . . . . . . . 歌の教師

P. ヤーシャスキー(P. Jaerschky)医学博士 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 体操

ヴァルター・シュールツェ(Walter Schulze) . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 図画の授業

コンラート・ミュラー=フュラー(Konrad Müller-Fürer) . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 博物学

エルゼ・ツェッチンク(Else Zschetzschingck) . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 一般教養

W. ヴェルネッケ(W. Wernecke) 医学博士 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 校医

アマーリエ・クロノーヴァー(Amalie Klonower)博士 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 歯科医

 前述したが、この舞踊学校はドイツの教育省に公認されていたことより、舞踊だけでなく一般

教養、体操、図画、博物学等のカリキュラムも用意され、さらに校医や歯科医まで備えていた。

 ピアノ教師のラフォント教授は、公演の際にピアノ伴奏者として活躍したようである。

7.学校の組織と運営

 学校はイザドラの収入と有力な支援者からの資金によって運営されており、イザドラが公演で

各地を巡演している間は、エリザベスが学校を管理し、同時にダンス教師として子供達に舞踊を

教えていた。イザドラは公演先からグリューネヴァルトに戻ると、子供達に舞踊の精神と創作ダ

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ンスを教えた。

 グリューネヴァルトの学校が開校されて約1年後の1906年2月、何人かの有力者によって「イ

ザドラ・ダンカン舞踊学校の維持と支援のための会」がベルリンに設立され(32)、支部がライプ

チヒ、ドレスデン、ミュンヘン、ハンブルグ、ハーグに設置された(33)。当時の学校のパンフ

レットによると、この団体の組織は社団法人として認められ、整形外科の大学教授ホッファ(Dr.

Hoffa)が会長に就任、作曲家のエンゲルベルト・フンパーディンク(Engelbert Humperdinck)

が秘書兼書記の役に就いている。その他の役員として副書記に州公認建築士のオッテ(Otte)、

会計に銀行家のヘルマン・クレッチュマー(Hermann Kretzschmar) が就任、学校の管理者はエ

リザベス、芸術監督はイザドラであった。

 学校創設当初は、イザドラが子どもたちの教育を含め全ての世話をする予定であったが、彼女

は学校運営の資金集めに各地に公演に出かけなければならず、生徒の生活全般の世話はエリザベ

スに頼っていた。

8.学校内部の装飾

 1905年12月、サンクトペテルブルグの帝室バレエ学校を訪問し

たイザドラは、ただ広いレッスン場と唯一の飾りが壁に掛けられ

た皇帝の写真であるのを見て、そこに美しさも霊感も感じなかっ

たことを残念に思った(34)。

 イザドラは自身の学校には中央の広間に実物の2倍の大きさ

のアマゾン像のレプリカを置き、広いダンス教室の中にルカ・

デッラ・ロッビア(Luca della Robbia)のレリーフとドナテッロ

(Donatello)の踊る子供たちの彫像を飾った。そして寝室は青い

リボンで開ける白いモスリンのカーテン付きベッド、青と白の聖

母マリアとキリストのルカ・デッラ・ロッビアの作品を置き、す

べて青と白で統一していた(35)。これらのことから、イザドラが子供達にイメージを湧かせ、心

を豊かにするために自身の学校内の装飾に特に力を入れていたことがわかる。また彼女は、彫像

を理想の身体として少女たちの目の前に設置することにより、彫像が与える美の雰囲気が子供達

に自然に備わり昇華されていく、すなわち美しい訓練と絶えざる努力が彼女たちの形と身振りを

完全なものとする、と以前から考えていた(36)。部屋の装飾は舞踊を芸術として高めるための一

助になるという考えの基に学校内に彫像やレリーフを設置したことは、イザドラの舞踊学校の特

徴として挙げることができる。少女たちは、実際この環境の中で美を自然に受け入れ、自由に育

つことができた。

図3  中央広間に設置されたアマゾン像

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の人だったのです。(37) (試訳)

 上記のテレサの回想から、生徒達はイザドラを女神として崇拝しており、他の舞踊家には到達

できないイザドラの世界が形成されていたと理解できる。また「彼女は私たちを優しく抱擁する

唯一の人だったのです。」という言葉から生徒達はイザドラを特別の存在として頼っていたこと

が窺い知れる。

 一方、イルマは生徒達がイザドラの家を訪問した時のことを次のように回想している。

イザドラといる時、私達は本能的に愛されていることを知っていました。彼女の家(38) で過

ごした午後は、本当に幸せでした。彼女(イザドラ)は皆の写真にサインをして、私には

「愛とキスを込めて」と書いてくれました。私はその写真を自分の胸に抱きかかえ、それを

トロフィーのようにして学校に持っていきました。(39) (試訳)

 イルマは憧れのイザドラからサイン入り写真をもらったことを誇りにしており、他の生徒達も

皆、イザドラから本能的に愛されていると感じダンスの授業以外の時も慕っていたと推測できる。

10.生徒達の公演

 イザドラは学校の開校直後は熱心に生徒達を教えており、1905年7月20日にベルリンのクロー

ル・オペラ劇場で公演を開催している。この時、子供たちは学校の支援団体の委員の一人である

9.生徒の回想

 この節では、6人のイザドラブルズの中の2人、テ

レサとイルマのイザドラに対する回想を紹介する。

 テレサは、イザドラと出会った当初や最初の授業を

受けた時の印象を以下のように振り返っている。

彼女は女神のようで、私たちは彼女を崇拝しまし

た。私はいつもイザドラが高次のところから何か

を送っている感じを受けていました。(中略)彼

女は私たちを彼女の腕の中に抱きしめ、私たちを

幸福にさせてくれました。彼女とロンドを踊るこ

とはいつも素晴らしく、彼女はいつも感動させて

くれました。彼女は私たちを優しく抱擁する唯一

図4  学校内の様子:後壁にレリーフが飾られている

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エンゲルベルト・フンパーディンクのオペラ「ヘンゼルとグレーテル」(Hänsel und Gretel)と

「王子王女」(Königskinder)の音楽に合わせて、2つの小さなダンスを踊り、非常に芸術性が高

いと、観客や批評家に大絶賛された。

 ベルリンでデビューを飾った生徒達は、1908年に学校が閉鎖されるまでの間、ドイツ各地、ス

イス、ポーランド、オランダを周り数多くの劇場で公演を行う一方、銀行家のフランツ・フォ

ン・メンデルスゾーン(Franz von Mendelssohn)の妻が主催したパーティやイタリア人女優の

エレオノーラ・ドゥーゼ(Eleonora Duse)のベルリンの家、有名なバイオリニストのジョゼ

フ・ヨアキム(Joseph Joachim)の誕生パーティで踊ることを求められるなど、社交界の大物の

間でもてはやされた(40)。

 筆者はイザドラや生徒達が公演で踊る際、必ず舞台の床に青い絨毯を敷いて踊っていたとの情

報をイザドラの姪のリゴア・ダンカンとその息子のミッシェルから得た。この絨毯の使用につい

ては、モスクワの学校でイザドラに学んでいたリリー・ディコヴスカヤも必ず絨毯を敷いて踊っ

ていた、と語っていることから裏付けられる。これは、裸足で踊ることから怪我のないようイザ

ドラが配慮していたと考えられる。(Duncan, Ligoa. Personal Interview. 9 Aug. 2011, Duncan,

Michel. Personal Interview. 20 Aug. 2011, Dikovskaya, Lily. Personal Interview. 18 Sep. 2011.)

11.学校の財政

 イザドラとエリザベスにとって学校の運営は簡単なことではなかった。エリザベスは学校維持

のため支持者達から寄付金を集めようと努めたが、イザドラが未婚のまま舞台演出家のクレイグ

の子どもを宿したこと(41) が当時のドイツ社会でスキャンダルとなったことから(42)、支援団体か

らの寄付金は開校当初ほど収集できなくなっていた。

 下記に、バーズリーの論文に掲載されていた1906年3月から1907年7月30日までの学校の収入

の一覧を示す(43)。

(1906年3月~ 1907年7月30日まで)

寄付金(女性団体から) . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .  3,500マルク

子供の公演の純益 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .  2,000マルク

基金と会費 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .  7,500マルク

エリザベス・ダンカンの個人教授 . . . . . . .  1,000マルク

                     

総計 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .  14,000マルク

イザドラの寄付 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .  12,000マルク

全体総計 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .  26,000マルク

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 上記の表から、不信を買った女性団体からの寄付金が減額となり、生徒達の公演による収入が

学校運営の費用の助けになっていたと考えられる。

 1906年8月頃、エリザベスが手紙でイザドラに送金依頼をしているが、この時期イザドラは公

演を中止し無収入だったことから(44)、それまでの公演収入の蓄えから送金したようである。

 学校維持のためイザドラは体調が回復しないまま12月から公演を開始しているが、1907年1月

25日のアムステルダムでの公演以降体調を崩したことから数か月間の公演中止で無収入となり、

学校の財政状況は益々悪化していく。

 このように、イザドラの公演収入と支援団体の寄付金が激減したため、学校の財政は壊滅的な

状況に陥り、創設から4年未満の1908年、財政破綻によりイザドラ・ダンカンの学校は幕を閉じ

ることになった。グリューネヴァルトの学校を去った生徒の多くは保護者の下に帰り、残りの生

徒はその後エリザベスが開校したエリザベス・ダンカン・スクールに入学している。

12.グリューネヴァルトの学校閉鎖後の経緯

 イザドラの設立したグリューネヴァルトの学校は1908年に閉校するが、その後、1908-1909年

の間、ヘッセン大公(Grand Duke Ernst Ludwig of Hessen)の支援を得て、エリザベス・ダン

カンがダームシュタットにエリザベス・ダンカン・スクールを開校することになる。しかし1914

年に勃発した第一次世界大戦により学校は一時アメリカに移転(45)、1920年に再びヨーロッパに

戻り(46)、1935年、最終的にミュンヘンを拠点とする。1948年、エリザベスの急死によりスクー

ルは閉校となるが(47)、エリザベス亡き後、ゲルトルート・ドリュック(Gertrud Drück(48))がそ

の遺志を継ぎ指導にあたる。1982年になると、ドルックの生徒ハンネローレ・シック(Hannelore

Schick)の監督の下、再びミュンヘンにてエリザベス・ダンカン・スクールが開校され、シック

亡き後、2008年から現在までアストリッド・シュロイゼナー(Astrid Schleusener)を監督として、

シュロイゼナーを含む3人の教師がエリザベス・ダンカン・スクールでダンスの指導にあたって

いる。筆者は、エリザベス・ダンカン・スクールの教師の1人、マリオン・ホーランク

(Marion Hollerung)にインタヴューし、エリザベス・ダンカン・スクールの現在の状況を知る

機会を得た。

 その情報によると、現在のエリザベス・ダンカン・スクールのタイムテーブルは以下の通りで

ある。

月曜 午後3時から4時    子供のためのダンカンダンス(9月からコースが始まる)

火曜 午後6時から7時30分  ギリシアの民族舞踊とダンカンダンス

水曜 午後6時30分から8時  初心者のためのダンカンダンス

水曜 午後8時から9時30分  上級者のためのダンカンダンス

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金曜 午後5時から6時30分  初心者のためのダンカンダンス

(Hollerung, Marion. Personal Interview. 9 Apr. 2011.)  

 スクールのポリシーは、「生徒が自身を確立し、また芸術的な点において表現するのを助ける

ことであり、あらゆる年齢層の人、障害を持つ人のためにも開かれている」としており、現在の

エリザベス・ダンカン・スクールはカルチャー・センターとしての機能を果たし地域に貢献して

いると理解できる。

結  論

 これまでドイツの学校の全容について、入学する生徒の選抜方法、学校での教育、学校の内装

や時間割、生徒達の回想、組織と運営などを基に詳述したが、この舞踊学校がドイツ政府から公

認されていたこと、またドイツ各地に支援団体が存在していたことから、イザドラの理想とする

舞踊教育が社会からも高く評価されていたと理解できる。

 しかしながら、1908年舞踊学校はイザドラの個人的な事情と財政破綻により4年未満という短

期間で閉校になるが、生徒の中から6人のイザドラブルズが誕生し、その内のリザ、アナ、テレ

サ、イルマの4人がイザドラの教育理念を伝承した。彼女達が自身の芸術性や表現法を融合させ

てダンカン舞踊を発展させ現在まで継承した事実を考えると、イザドラがグリューネヴァルトに

初めて創設した舞踊学校の存在意義は舞踊史上極めて大きいといえる。

 学校の閉校以後、ドイツにおいてイザドラの舞踊教育は忘れ去られてしまったかのように思わ

れたが、姉のエリザベスがエリザベス・ダンカン・スクールとして学校を開校し、亡き後も幾多

の変遷を経て、現在ミュンヘンに存在していることが分かった。エリザベスが創設した学校の舞

踊教育がイザドラのそれと全く同様であるとは考え難いが、グリューネヴァルトの学校でイザド

ラとエリザベスが共に教えていたことを考慮すると、エリザベスの学校においてもイザドラの舞

踊教育と重複する部分があったのではないだろうか。現在ドイツにイザドラ・ダンカン舞踊学校

は存在しないが、エリザベス・ダンカン・スクールを通してダンカン舞踊の教育は今後も続いて

いくと考えられる。

注(1) Bardsley, Kay. “Isadora Duncan’s First School.” in: Dance research collage (CORD dance research annual, X)

New York: CORD, 1979.(2) 母親は夜、ベートーヴェン、シューマン、シューベルト、モーツァルト、ショパンなどの曲を演奏し、

シェークスピア、シェリー、キーツ、バーンズなどの詩を朗読した。イザドラにとっての本当の教育はこの時間であった。Duncan, Isadora. My Life, 1927. New York: Liveright, 1995, p.15(ダンカン、イザドラ『魂の燃ゆるままに』山川紘也・亜希子訳、冨山房インターナショナル、2004年、p.21参照。)

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(3) Duncan, Isadora. The Art of the Dance, 1928. Ed. Sheldon Cheney. New York: Theatre Arts Books, 1977, pp.54-63.(ダンカン、イザドラ『芸術と回想』小倉重夫訳編、冨山房、1977年、pp.30-41。)

(4) Duncan, Isadora. The Art of the Dance, 1928. Ed. Sheldon Cheney. New York: Theatre Arts Books, 1977, p.130.(ダンカン、イザドラ『芸術と回想』小倉重夫訳編、冨山房、1977年、pp.125-126。)この文はダンカンの学校の少女たちの成果が公にされ、それについて書かれた記事への答えとして、ケルンのある新聞編集長に出した手紙の草稿の一部。イザドラは学校創設に至るまでの経緯と思いを書き記している。

(5) ロイ・フラー(Loie Fuller, 1862-1928)はモダンダンスのパイオニアの1人であり、独特の衣装と舞台照明を使用したことで20世紀初頭の観客を圧倒させたアメリカ人ダンサー。

(6) Muller, Hedwing. “The Story of the Duncan School in Germany.” in: In the footsteps of Isadora, Stockholm: Dansmuseet, 2010, p.29.

(7) unknown. “American Dancer Praised.”New York Times 30 Nov. 1902, p.5 から、イザドラがミュンヘンで大成功を収めたこと、ジークフリードがイザドラの公演をミュンヘンで鑑賞し、バイロイトの公演に彼女を出演させようとしていたことが分かる。

(8) Duncan, Isadora. My Life, 1927. New York: Liveright, 1995, p.86.(ダンカン、イザドラ『魂の燃ゆるままに』山川紘也・亜希子訳、冨山房インターナショナル、2004年、p.145参照。)

(9) Duncan, Isadora. Der Tanz Der Zukunft (The Dance of The Future), Leipzig:Verlegt Bel Eugen Diederichs, 1903.

(10) 2つのピアノソナタと第七交響曲に合わせて踊っている。Lowenthal, Lilian. The Search for Isadora, New Jersey: Dance Horizons, 1993, p.194参照。

(11) unknown. “Notes of the Week.” New York Times 1 Nov. 1903, p.25 によると、イザドラがバイロイトに滞在し、コジマ・ヴァーグナーが彼女の踊りに深く感心していること、翌年の祝祭劇場での公演に出演するように取り計らっていることが伝えられている。

(12) unknown. “Isadora Duncan Had Won $250,000 By Her Dancing.” The Atlanta Constitution 25 Feb. 1903, p.1, unknown. “Has Danced Her Way Into German Hearts.” Los Angeles Times 25 Feb. 1903, p.4, unknown. “Theatre For A Dancer.” New York Times 25 Feb. 1903, p.2, unknown. “Hold Theatre Immoral.” Chicago Daily Tribune 25Feb. 1903, p.1 によると、イザドラがドイツの民衆を魅了していたこと、また自分の名前を付けたギリシア風の劇場を設立するため、$250,000を手にしていたことがわかる。しかし、現在調べた限りではこの劇場は設立していない。この資金を基に学校を設立したと考えられる。unknown. “American Girl’s Idyllic Dances Please Berlin.” Chicago Daily Tribune 22 Feb. 1903 では、イザドラがミュンヘンでも成功を収め、ベルリンでもドイツの著名な芸術家たちを魅了していると伝えている。

(13) コジマ・ヴァーグナーの強い後援を得て、学校創設という夢の実現に向かったことが Duncan, Elizabeth.”A Short Sketch of My Life.” in: Duncan Dance Newsletter, no.2, Summer, 1992 に書かれている。

(14) Duncan, Irma. Duncan Dancer, Connecticut: Wesleyan UP, 1965, p.47.(15) Bardsley, Kay. “Isadora Duncan’s First School.” in: Dance research collage (CORD dance research annual, X)

New York: CORD, 1979, p.229.(16) アナの父親やイルマの母は、この新聞記事を見て子供を入学させるに至った。(17) unknown. “Mrs Duncans Tanzshulte.” Münchner Neueste nachrichten, 11 Nov. 1904, pageunknown.(18) Peter, Frank-Manuel ed. Isadora & Elizabeth Duncan, Köln: Wienand, 2000, p.91. イザドラ自身が母親一人

で子供4人を育てるという貧困家庭を経験していたことから敢えてそのような子供を受け入れるとして学校案内に記載したのではないかと推測される。

(19) Peter, Frank-Manuel ed. Isadora & Elizabeth Duncan, Köln: Wienand, 2000, p.91.(20) オーディションには、イザドラの兄弟や当時の恋人ゴードン・クレイグも立ち会っていた。(21) イザドラブルズという愛称は、1909年フランス人批評家フェルナンド・ディヴォワール(Fernand

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Divoire)が作った造語である。1920年6人のイザドラブルズは、ダンカンの名前を正式に(法律的に)使うことが許されるが、これは、多くの生徒の中から真の愛弟子を区別する役目を果たした。

(22) ゴードン・クレイグ(Gordon Craig, 1872-1966)演出家、舞台美術家。(23) Duncan, Irma. Duncan Dancer, Connecticut: Wesleyan, 1965, pp.8-12.(24) Duncan, Isadora. My Life, 1927. New York: Liveright, 1995, p.129(ダンカン、イザドラ『魂の燃ゆるまま

に』山川紘也・亜希子訳、冨山房インターナショナル、2004年、p.223。)(25) 1905年-1906年初頭には、予備期間があったため、生徒数の変動が多くあった。(26) Duncan, Elizabeth. “A Short Sketch of My Life.” in: Duncan Dance Newsletter no.2 Summer, 1992参照。(27) unknown. ”How American Girl Is Teaching German To Be Graceful.” Chicago Daily Tribune 27 Aug.

1905, p.2.(28) とくに入学1年目は両親の訪問は望ましくないと考えられていた。(29) Peter, Frank-Manuel ed. Isadora & Elizabeth Duncan, Köln: Wienand, 2000, p.94.(30) カルサーヴィナ、 タマラ『劇場通り』東野雅子訳、新書館、1993年、p.77。(31) Duncan, Isadora. The Art of the Dance, 1928. Ed. Sheldon Cheney. New York: Theatre Arts Books, 1977,

p.75.(ダンカン、イザドラ著 チェニー、シェルドン編『芸術と回想』小倉重夫編訳、冨山房、1997年、p. 55。)

(32) Duncan, Isadora. My Life, 1927. New York: Liveright, 1995, p.135.(ダンカン、イザドラ『魂の燃ゆるままに』山川紘也・亜希子訳、冨山房インターナショナル、2004年、p.235参照。)

(33) Duncan, Anna. In the footsteps of Isadora, Stockholm: Dansmuseet, 2010, p.43.(34) Duncan, Isadora. My Life, 1927. New York: Liveright, 1995, p.121.(ダンカン、イザドラ『わが生涯』小倉

重夫・阿部千律子訳、冨山房、1975年、p.177。)カルサーヴィナも「何もないがらんとしたダンス室を行ったり来たりしているうちに家が懐かしくなって」と記述している。カルサーヴィナ、タマラ『劇場通り』東野雅子訳、新書館、1993年、p.71参照。

(35) Duncan, Irma. Duncan Dancer, Connecticut: Wesleyan UP, 1965, p.18 にも白いベッドと青いサテンの掛布団、綿モスリンの天蓋があり、その最上点は青いリボンで結ばれているものがあったと回想している。またp.29には「あらゆるところにアンティークの彫り絵レリーフが装飾的なモチーフとしてあった。私が一番よく覚えているのは、サンダルの紐を結ぼうとしている大きなニケの一つである。それは、頭部がなかったが、美しい洋服の襞が浮いていた。」と語っている。

(36) Duncan, Isadora. The Art of the Dance, Ed. Sheldon Cheney. New York: Theatre Arts Books, 1928, p.80.(ダンカン、イザドラ『芸術と回想』小倉重夫訳、冨山房、1977年、p.62。

(37) Bardsley, Kay. “Isadora Duncan’s First School.” in: Dance research collage (CORD dance research annual, X) New York: CORD, 1979, p.231.

(38) エリザベスは学校に住んでいたが、イザドラは別の家に住んでいた。ダンカン、イザドラ『魂の燃ゆるままに』山川紘也・亜希子訳、冨山房インターナショナル、2004年、p.236参照。

(39) Duncan, Irma. Duncan Dancer, Connecticut: Wesleyan UP, 1965, p.58.(40) 生徒達は、王族をはじめ偉大な芸術家、学者と面識があった。具体的な例としては、ヘッセン大公(Grand

Duke of Hessen)、画家のハンス・トーマ(Hans Thoma)エンゲルベルト・フンパーディンク(Engelbert Humperdinck)、女優のエレオノーラ・ドゥーゼ(Eleonora Duse)、生物学者・哲学者のエルンスト・ヘッケル(Ernst Haeckel)などである。生徒達のほとんどが、すぐにドイツ語と同様に英語も話し理解するようになったので、英語を話す訪問者が来ても当惑することはなかった。Peter, Frank-Manuel ed. Isadora & Elizabeth Duncan, Köln: Wienand, 2000, p.73 参照。

(41) The Search for Isadora によれば、1905年に子供が誕生したことになっているが、Isadora: Portrait of the Artist As a Woman によれば、1906年を妥当であるとしている。またイザドラがクレイグに宛てた手紙やキャ

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サリン・ブルースの日記からも1906年であることが裏付けられる。Your Isadora, pp.151-152 参照。(42) 初期のころからイザドラの仕事を熱狂的に支援していたメンデルスゾーン夫人がイザドラに手紙を持って

きて、「私がこんなひどい手紙に署名したなんて思わないでくださいね。ほかの方たちは仕方ありません。みなさん、もうこの学校を後援されないと思います。あの方たちは、お姉様のエリザベスさんだけはまだ信頼しています」と伝えている。Duncan, Isadora. My Life, 1927. New York: Liveright, 1995, p.135.(ダンカン、イザドラ『魂の燃ゆるままに』山川紘也・亜希子訳、冨山房インターナショナル、2004年、p.235参照。)

(43) Bardsley, Kay. “Isadora Duncan’s First School.” in: Dance research collage (CORD danceresearch annual, X) New York: CORD, 1979, p.238. 全体の収入は26,000マルクだが、これは1977年の130,000ドルの金額に相当する。1977年当時の円レートを1ドル270円で換算すると、35,100,000円に相当する。

(44) Your Isadora, p.131, p.164参照。1906年6月から12月までは産前産後の時期のため公演を中止している。1906年、9月24日にクレイグとの子供デアトリーが誕生した。

(45) パリス・シンガー(Paris Singer)はエリザベス・ダンカン・スクールがドイツからアメリカに移転するのを助けた。Duncan, Anna. In the footsteps of Isadora, Stockholm: Dansmuseet, 2010, p.17 参照。

(46) しかし戦争のためダームシュタットの建物は無くなっていた。(47) Martin, John. “The Dance: Memorial.” New York Times 19 Dec. 1948 p.10, unknown. “Elizabeth Duncan is

Dead at 77 In Germany; Sister of Isadora.” New York Herald Tribune 15 Dec. 1948 pageunknown でエリザベスの死について報じている。

(48) 1915年シュトゥットガルト生まれのゲルトルート・ドリュック(Gertrud Drück)は、エリザベス・ダンカンに学び、彼女と共にアメリカに向かった。その後教師、アシスタントを経て最終的には共同経営者になった。

引用・参考文献<外国語文献>Bardsley, Kay. “Isadora Duncan’s First School.” in: Dance research collage (CORD dance research annual, X) New

York: CORD, 1979.Blair, Fredrika. Isadora: Portrait of the Artist As a Woman, NewYork: Quill, 1986.(フレドリカ、ブレア『踊る

ヴィーナス―イサドラ・ダンカンの生涯―』鈴木万里子訳、PARCO 出版、1990年。)Duncan, Anna. In the footsteps of Isadora, Stockholm: Dansmuseet, 2010.Duncan, Irma. Duncan Dancer, Connecticut: Wesleyan UP, 1965.Duncan, Isadora. Der Tanz Der Zukunft (The Dance of the Future), Leipzig:Verlegt Bel Eugen Diederichs, 1903.Duncan, Isadora. The Art of the Dance, 1928. Ed. Sheldon Cheney. New York: Theatre Arts, 1928.(ダンカン、イ

ザドラ『芸術と回想』小倉重夫訳編、冨山房、1977年。)Duncan, Isadora. My Life, 1927. New York: Liveright, 1995.(ダンカン、イザドラ『わが生涯』小倉重夫・阿部千

律子訳、冨山房、1977年、ダンカン、イザドラ『魂の燃ゆるままに』山川紘也・亜希子訳、冨山房インターナショナル、2004年。)

Kane. Barbara ed. Duncan Dance Newsletter, no.2, Summer, 1992.Lowenthal, Lilian. The Search for Isadora, New Jersey: Dance Horizons, 1993.Peter, Frank-Manuel ed. Isadora & Elizabeth Duncan, Köln: Wienand, 2000.Steegmuller, Francis ed. Your Isadora, New York: Random House, 1974.Unknown, Verein zur Unterstützung und Erhaltung der Tanzschule von Isadora Duncan. E.V., n.d. (Tanzarchiv

所蔵)<日本語文献>尼ケ崎彬「ダンスの現在」(青山昌文編)『舞台芸術への招待状』放送大学教育振興会、2001年。)

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石井達朗『身体の臨界点』青弓社、2006年。片岡康子編著『20世紀舞踊の作家と作品世界』遊戯社、1999年。カルサーヴィナ、 タマラ『劇場通り』東野雅子訳、新書館、1993年。國吉和子『夢の衣装・記憶の壺』新書館、2002年。鈴木 晶『踊る世紀』新書館、1994年。

図版出典図1 Duncan, Dorée ed. Life into Art, New York: Norton, 1993.図2 Peter, Frank-Manuel ed. Isadora & Elizabeth Duncan, Köln: Wienand, 2000.図3 Peter, Frank-Manuel ed. Isadora & Elizabeth Duncan, Köln: Wienand, 2000.図4 Duncan, Dorée ed. Life into Art, New York: Norton, 1993.