大谷探検隊をめぐる新研究 - Ryukoku University2011年度 第1回...

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2011 年度 第1回 国内シンポジウムプロシーディングス 大谷探検隊をめぐる新研究 日時:2011 9 8 日(木)13:4016:10 会場:龍谷大学 大宮学舎 北黌 2 204 教室

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2011 年度 第1回 国内シンポジウムプロシーディングス

大谷探検隊をめぐる新研究

日時:2011 年 9 月 8 日(木)13:40~16:10

会場:龍谷大学 大宮学舎 北黌 2 階 204 教室

目次

報告 I 入澤 崇「大谷探検隊の目指したこと」 ............... 1

報告Ⅱ 三谷真澄「大谷探検隊収集の漢字仏典」 .............. 11

報告Ⅲ 橘堂晃一「大谷探検隊収集のウイグル語仏典」 ........ 19

報告Ⅳ 吉田 豊「大谷探検隊収集のソグド語文献」 .......... 25

報告Ⅴ 村岡 倫「大谷探検隊のエルデニ・ゾー寺院調査」 .... 31

報告Ⅵ 宮治 昭「キジル石窟の壁画をめぐって」 ............ 41

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報告 I 「大谷探検隊の目指したこと」

報告者:入澤 崇(龍谷大学文学部教授・龍谷ミュージアム副館長)

入澤: 只今より、龍谷大学アジア仏教文化研究センターとの共催で、日本印度

仏教学会第 62 回学術大会パネル発表 E「大谷探検隊をめぐる新研究」を開催さ

せていただきます。

私はコーディネーターを務めます龍谷大学の入澤です。本日は大谷探検隊に

関連しまして、仏教学、言語学、東洋史学、そして美術史の立場から現在の研

究状況を発表いたします。

先ず、私が 初に口火を切り、本パネルの導入とさせていただきます。

大谷探検隊、世上知られております大谷探検隊はレジュメの 1 に挙げました

ように、第 1 次、第 2 次、第 3 次と行なわれ、そこに挙げているものが一般に

流布しておる大谷探検隊であります。時代は 20 世紀初頭、レジュメの2に示し

た通り、ユーラシア大陸の中央部に世界の関心が集まっている時です。列強諸

国が内陸アジアに探検隊を繰り出しました。そしてその中で、非常に異色な調

査隊、これが日本の大谷探検隊です。当時の列強諸国の探検隊、これは国がバ

ックに付いておりますけれども、大谷探検隊だけは日本政府が支援をしたとい

うのではなくて、西本願寺の一事業として始まったものです。1902 年に大谷探

検隊は始動いたします。これまで大谷探検隊といえば、シルクロードのイメー

ジがあまりにも強いのですが、当初は仏教の源流であるインドに主眼が置かれ

ておりました。

レジュメの 3 をご覧ください。これが第一次大谷探検隊の全メンバーです。

中国新疆に入ったのが、よく知られております渡辺哲信、堀賢雄。そしてイン

ド調査隊は総勢 11 名の隊員で編成されました。さらに、遅れて応援部隊が日本

からインドに駆け付けようとしたところ、ビルマに上陸せよという命令が大谷

光瑞師から下って、ビルマ・中国へ入った人達がおります。このように、第一

次大谷探検隊はインド、中国・新疆、ビルマ、中国南西部とかなり広域にわた

る調査であったことがわかります。

この第一次大谷探検隊におけるキーパーソンは大谷光瑞師の後見人とも言う

べき藤井宣正です(レジュメ4)。大谷光瑞師がロンドンに留学をする。その時

に父親の大谷光尊師が付けた後見人、これが藤井宣正でありました。この龍谷

大学の前身であります文学寮の教授であった藤井宣正。彼は美術・考古にも大

変造詣の深い仏教学者でありました。彼は探検隊に加わる前から腸に疾患を抱

えておりまして、このインド調査が終った後、フランスのマルセイユで亡くな

ります。彼が詳細な調査報告書を記しておったのですが、これは今に至るも見

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つかっておりません。この藤井宣正がインド調査の後半、東インド、南インド

の仏跡調査をした時に、藤井に同行をしたのが若き姉崎正治であります。姉崎

正治、これはもう仏教研究で言えば、『根本仏教』、それから『現身仏と法身仏』

の著作もあることから、我々仏教研究者にとっても身近な存在でありますし、

この姉崎こそが日本における宗教学研究の基礎を作られた方であることはご承

知かと思います。

その姉崎正治が、藤井と調査を同行したという縁で、藤井が亡くなった後、

追悼文を書いております。レジュメの4に追悼文の一部を掲げておきました。

この追悼文から、カルカッタ(現コルカタ)のインド博物館で藤井宣正が実に

丹念に仏像や菩薩像の類を調査していたかということがわかります。現在、仏

教研究の中で、藤井宣正という名前は全く出てくることはありません。しかし、

この藤井宣正は当時の仏教研究に多大な貢献をなした人物であります。たとえ

ば『佛教小史』、これこそがインドから始まる仏教の歴史、インド、中国、日本

の仏教通史を書いた 初の書物であります。それから『現存日本大蔵経冠字目

録』、これはフランスを代表する東洋学者シャバンヌが愛用していた目録です。

それから、遺稿集として『愛楳全集』があります。そしてこの藤井宣正はわが

国 初の仏教学の仏教辞典である『佛教辞林』を作りました。この辞書は、藤

井が亡くなった後、インド調査で藤井のアシスタントを勤めた島地大等、そし

て南条文雄の協力を得て発刊されました。この藤井宣正の教え子が、第一次大

谷探検隊で中央アジアを探索した渡辺哲信であり、堀賢雄でありました。この

藤井宣正のことは長らく知られていなかったわけですけれども、ひょんなとこ

ろから彼の偉業が確認されました。それは、島崎藤村研究グループが、この藤

井宣正が書き残した『印度霊穴日記』、これを翻刻して発表したことがきっかで

した。1980 年代でしたか、島崎藤村研究グループが『島崎藤村研究』という雑

誌を発行しておりまして、その中で三井文彦さんという方が長野の真宗寺に眠

っていた藤井宣正の日記を毎号連載いたしました。この連載記事はその後まと

められ、真宗寺から『印度霊穴日記』として出版されました。この日記の存在

は、大谷探検隊のインド調査を解明する重要な手がかりとなりました。藤井の

急死により正式の調査報告書は出ていません。しかし、藤井の日記と他の隊員、

例えば上原芳太郎や薗田宗恵といった他の隊員達の日記をつき合せますと、イ

ンドにおいて大谷探検隊がどういう調査を行なったかということがだいたいわ

かります。

さて、どうして島崎藤村研究グループが藤井の日記を見出したかと申します

と、亡くなった藤井宣正、彼をモデルにして、島崎藤村が『椰子の葉蔭』とい

う小説を書いたからであります。長野の真宗寺、ここは藤井宣正の奥さんの里

であり、藤井は奥さんに絵ハガキをインドから出していました。真宗寺の住職

から藤井の絵ハガキを見せられた島崎藤村は藤井をモデルにして、書簡体の小

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説を書いたというわけです。その真宗寺に眠っていた藤井の日記を読めば、大

谷探検隊がインドで何を目指していたかが実によくわかります。インド調査の

主たる目的、これはアショーカ王の事蹟、それから石窟寺院の調査、大きく分

けますと、この 2 点が主たるものであったということが、この藤井の日記から

明らかとなります。

大谷探検隊の調査範囲は広大です。大谷探検隊の第一次の調査でビルマ・中

国の調査をした連中と伊東忠太が遭遇をしております。その伊東忠太の日記を

読みますと、レジュメの5でありますが、光瑞新法主の考えていることがいか

に雄大なものであったか、それに対して、自分はいかに姑息なことを考えてい

るかというようなことが書かれています。伊東忠太は、法隆寺の柱の源流がギ

リシアのエンタシスにあることを立証すべく、中国から西へ、トルコ、ギリシ

アを目指していたわけです。中国で雲崗石窟を確認した、意気軒昂としていた

伊東忠太ではありましたけれども、大谷探検隊の構想というものを聞かされる

に及んで、いかに自分が小さいことを考えていたかということを知らされ、打

ちのめされる。この大谷探検隊との接触が、後に伊藤忠太が東京で築地本願寺、

そして京都・西本願寺の東にあります伝道院(旧真宗信徒生命保険社屋)を設

計することに繋がっていくわけです。

西域で大谷探検隊の意図したこと、これにつきましては、その雄大な構想と

いうものを光瑞師自身が語っております。それは、大谷探検隊の資料集成とも

言うべき『西域考古図譜』の序文に記されておりまして、四つの目的が挙げら

れています。一つ目は、仏教伝来の経路と仏教遺跡の調査をすること。二つ目

はイスラムによって仏教が被った圧迫の状況を調べること。この時代、イスラ

ムに対して関心を持っていたということ、これは注目すべきであろうと思いま

す。それから三つ目は仏教遺跡に残っている経典・仏像・仏具などの収集、そ

して 後に中央アジアの地理・地質・気象の調査、この 4 点が大谷光瑞師自身

の言葉で大谷探検隊の目的として語られております。

大谷探検隊による調査は 1914 年、突然打ち切られるわけでありますが、大谷

探検隊のもたらしたもの、これは神戸岡本の二楽荘、大谷光瑞氏の別邸であり

ますが、ここに集められておりました(レジュメ6)。その二楽荘から学術雑誌

が発刊されました。これが『二楽叢書』です。ここで中心となったのは橘瑞超

です。橘瑞超は第二次、第三次探検隊で中央アジアを探索した人物です。この

方はわが国 初のウイグル語研究者でもありますし、同時に仏教を中心とした

教育に専心された方でもあります。この二楽荘には武庫中学が併設されており

まして、初代校長が橘瑞超でした。二楽荘では大谷探検隊が持ち帰った文物の

展示も行われました。大きく新聞報道もされまして、これはわが国 初の本格

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的な西域文化展であろうかと思います。1914 年、大谷光瑞師が門主を辞任され

ます。そのあたりから、大谷探検隊のもたらした文物が流転の悲劇に見舞われ

ます。二楽荘も実業家、久原房之助の手に渡り、そして大谷コレクションは中

国、韓国、日本の三国に分散されてしまい、今もって、この大谷探検隊将来品

の全貌というものはまだ捉えられてはおりません(レジュメ7)。その全貌を捉

えるべく、龍谷大学の西域研究会は今、研究を進めているところでございます。

ここで大谷光瑞師に焦点を当ててみたいと思います。光瑞師が将来品の中で

後まで手放さなかったもの、これが仏教写本です(レジュメ8)。光瑞師は門

主を辞任した後も、中国・旅順にありました別邸で、仏教写本の研究を続けら

れました。このときも橘瑞超が中心となっておりました。光瑞師は漢訳仏典の

みならず、サンスクリット原典の収集にも力を注がれました。1919 年には光寿

会という原典の翻訳研究組織が結成されます。ここでロシアのミノロフ(Nikolaï

D. Mironov)を雇いまして、サンスクリット写本の研究をしております。

また大谷光瑞師には知られざる一面がございまして、たいへん地理学に造詣

の深かった方であります(レジュメ9)。光瑞師と地理学との接点、それは中国

にあります。1899 年の中国、当時の清朝でありますが、光瑞師が清国に巡遊を

された時、5 カ月かけて中国国内を視察いたします。その折にレポートを作成

いたしまして、それをイギリス王立地理学協会へ送付いたします。それが非常

に価値の高いものであるということで、光瑞師はアジア人として初めて王立地

理学協会の会員に推挙されました。ロンドンへ留学してから、地理学の専門家

とも親交を交わし、ロンドンでは小川琢治とも親交を結んでおります。この小

川琢治は京都大学の 初の地理学教室の教授になる方でありまして、湯川秀樹

博士のお父様であります。20 世紀初頭、王立地理学協会でシルクロード熱が沸

き上がっておりました。その真っ只中にいたのが、この大谷光瑞師および光瑞

師を取り巻く若きメンバー達であったわけです。

光瑞師が構想していたのは、仏教者としての世界認識でありまして、これは

光瑞師の書かれたものの中から導き出すこともできるわけですけれども、特に

地誌という発想、これに重点を置いておりました。第一次の大谷探検隊以降、

光瑞師自身があと 4 回ほどインドを訪れておりまして、『印度地誌』という書物

を 1942 年に刊行しております。大谷探検隊に関して、彼らの正式な調査報告書

が出なかったものですから、なかなか全貌を知ることはできません。しかし若

きメンバーにも、光瑞師の地誌を重視するという発想が伝わっておりました。

第一次探検隊のメンバー、渡辺哲信と堀賢雄、彼らは清朝の考証学者である徐

松の『西域水道記』を読んでおりました。ふたりはこの書物に基づいて西域の

調査をしております。それから、第三次の調査の折、橘瑞超はタクラマカン沙

漠を縦断しますが、彼は何も冒険をしようとして沙漠地帯に入ったわけではな

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くて、極度に乾燥した地帯がいかなるものかということを身をもって実証しよ

うとしたのであります。この橘の沙漠縦断については今もロンドンの王立地理

学協会で知られております。橘が作成し提出したスケッチマップは、王立地理

学協会に現在も残っております。彼らが、いかに実証的に研究をしようとして

いたかがわかります。ところが残念ながら、正確な報告書は出ないまま、調査

は終結したのです。

そこで、私達が大谷探検隊に関する総合的な研究に、今取り組んでいるとこ

ろでございます。大きく分けて三つのセクションを設けました(レジュメ 10)。

収集品の調査・研究。収集品、文献資料、美術考古資料、そして遺跡の調査・

研究が二つ目。そして、探検隊そのものの研究、これが三つ目であります。

龍谷大学では西域に関しまして、21 世紀になりまして、次々と新しいプロジ

ェクトが始まりました。レジュメの 11 に書いている通りでございます。本日は

これから、先ず収集品の調査・研究グループから 3 名の先生方に写本研究の

前線をご報告いただきます。そして、遺跡の調査ということで、モンゴル調査

をしておられます村岡先生から、モンゴルのエルデニ・ゾーのことをお話しい

ただきます。そして、我々の中で一番遅れている美術に関する研究、これにつ

いて宮治先生から報告をしていただくことになっております。

本パネルの導入としての私からの発表は以上です。ありがとうございました。

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日本印度学仏教学会第 62 回学術大会パネル E 大谷探検隊をめぐる新研究 2011 年 9 月 8 日

大谷探検隊の目指したこと

入澤 崇(龍谷大学)

1)一般に知られている大谷探検隊 第 1 次 1902-1904 大谷光瑞 渡辺哲信 堀賢雄 本多恵隆 井上弘円 第 2 次 1908-1909 橘 瑞超 野村栄三郎 第 3 次 1910-1914 橘 瑞超 吉川小一郎

2)内陸探検の時代 西域探検一覧 ロシア ブルジェワルスキー 1870-73,1876-77 1879-80,1883-85 クレメンツ 1898 コズロフ 1899-1901,1907-1909, 1923-1926 オルデンブルグ 1909-1910,1914-1915 スウェーデン ヘディン 1893-1897,1899-1901 1906-1908 フィンランド マンネルヘイム 1906-1908 イギリス スタイン 1900-1901,1906-1908 1913-1916 フランス ペリオ 1906-1909 ドイツ グリュンウェーデル 1902-1903,1905-1907 ル・コック 1904-1905,1913-1914

3)第 1 次大谷探検隊 中国新疆 渡辺哲信 堀 賢雄 インド 大谷光瑞 本多恵隆 井上弘円 藤井宣正 日野尊宝 薗田宗恵 上原芳太郎 升巴陸龍 島地大等 秋山祐頴 清水黙爾 ビルマ・中国 渡辺哲乗 吉見円蔵 前田徳水 野村礼譲 茂野純一

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4)ロンドンにおける光瑞の後見人・藤井宣正 美術・考古にも造詣が深い仏教学者。第一次大谷探検隊の実質上のリーダー。

腸に疾患をかかえながらインド調査を決行し多大な成果をあげたが、1903 年 6月 6 日フランスのマルセイユで亡くなる。彼の記した調査報告書は紛失したま

ま見つかっていない。藤井を敬愛する宗教学者の姉崎正治が藤井のインド調査

に一部同行した。いまの仏教学研究の中で藤井宣正の名が出ることはほとんど

ない。

☆藤井に対する姉崎正治の追悼文(『愛楳全集』) 「…カルカッタの蒸気のような空気の中で、南に面して閉じきりの博物館の

陳列室で働く事は、無上の苦痛である、…自分は耐えかねて、昼飯の前に博物

館を辞して家に帰って午睡を貪ったが、藤井君は 4 時閉館までは毎日必ず詰め

切りであった。しかも多くの仏像の陳列台は、4 尺ばかりの高さであるから、

仏像の形相を吟味するために、病める腸を持ちながら、中腰になって数時間、

熱さの中で勉強してくる。健康のためによくないといっても何でも、中々きき

入れない。自分もそれで励まされて、午睡を貪るばかりが能ではないと思った

事もあるが、どうしても藤井君の真似は出来なかった。それのみならず、大抵

の人は夕飯の後は、休んで夕風に涼むのに、藤井君は燈下蚊に攻められながら

も、常に書見する、材料を整える。北から帰ってきた大等(=島地大等)君を

督して研究をする。その間自分はウィスキーのソーダ水を飲みながら、横合い

から雑談をして日を送った」

☆藤井宣正の著書 『佛教小史』(1894)、『現存日本大蔵経冠字目録』(1898) 『愛楳全集』(1906)、『佛教辞林』(1912)

☆島崎藤村研究グループが見出した大谷探検隊の真実 藤井宣正・三井文彦校注『印度霊穴探見日記』(真宗寺)1977

インド調査の主目的:アショーカ王の事蹟(特に碑文)、石窟寺院の調査

5)大谷探検隊の雄大なる構想 貴州省揚松で伊東忠太が大谷探検隊と遭遇する。 「・・・私は両氏(野村礼譲と茂野純一)に就いて雲南緬甸の事情を聞き、

両氏は私に湖南湖北の状況を問ひ、互いに少なからぬ便益を得たが、私は光瑞

新法主の雄図を両氏より詳かに伝聞して感興禁じ難く、つくづく今自分の試み

つつある旅行の姑息にして小規模なるを恨んだ。・・・」(伊東忠太「支那旅行

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談」『伊東忠太著作集 第 5 巻 見学・紀行』310 頁)

☆大谷探検隊の目的 ①仏教伝来の経路と仏教遺跡の調査 ②イスラームによって仏教が被った圧迫の状況の調査 ③仏教遺跡に残る経典・仏像・仏具などの収集 ④中央アジアの地理・地質・気象の調査 『西域考古図譜』序文(大谷光瑞)

6)研究・教育の拠点としての二楽荘 二楽叢書:わが国における西域学の原点

わが国 初のウイグル語研究者は橘瑞超 武庫中学を併設(初代校長は橘瑞超) わが国 初の本格的な西域文化展

7)門主辞任 実業家久原房之助の手に渡った二楽荘 流転する大谷コレクション(三カ国に分散) 日本:東京国立博物館・龍谷大学など 中国:旅順博物館・北京国家図書館 韓国:韓国国立中央博物館

8)仏教研究者としての大谷光瑞 後まで手放さなかった仏教写本 旅順別邸で研究(橘瑞超が中心) 光寿会結成(1919 年):サンスクリット写本研究

原典志向(漢訳中心の仏教界)

9)地理学者としての大谷光瑞 発端は 1899(明治 32)年の清国巡遊 1 月から 5 月にかけて中国を視察→レポートをイギリス王立地理学協会へ送

付→アジア人として初の王立地理学協会の会員に推挙される→ロンドンでの小

川琢治(地理学者、湯川秀樹の父)との親交→王立地理学協会で湧き上がる西

域熱→光瑞の頭のなかにあったのは仏教者としての世界認識 大谷光瑞『印度地誌』(有光社)1942

☆地誌という発想・実証という手法

徐松『西域水道記』を検証した渡辺哲信・堀賢雄

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タクラマカン沙漠を縦断した橘瑞超

10)大谷探検隊に関する総合的研究 収集品の調査・研究 文献資料(仏典写本、文書) 美術考古資料 遺跡の調査・研究 仏教遺跡及び仏教伝来ルート 探検隊そのものの研究 隊員の日記、書簡類

11)龍谷大学における西域文化研究の新局面 2002 年より旅順博物館との共同研究開始 2004 年より国際敦煌プロジェクト(IDP)日本支部として活動開始 2004 年より仏教西漸に関わる調査開始 2009 年より大谷探検隊モンゴル調査の検証開始 2010 年よりアジア仏教文化研究センター(ユニット 2 中央アジア地域班)始

動 2011 年龍谷ミュージアム開館

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報告Ⅱ 「大谷探検隊収集の漢字仏典」

報告者:三谷 真澄(龍谷大学国際文化学部准教授)

三谷: それでは「大谷探検隊収集の漢字仏典」というテーマで発表させてい

ただきます。先ほど入澤先生からお話がございましたように、大谷探検隊が求

めたものの一つ、そして非常に重要な側面を持っているのが、仏典の収集とい

うことでございます。

大谷探検隊の収集資料は、現在、3 か国に分蔵されています。20 世紀初頭に

中央アジアに探検隊を派遣した各国と、この大谷探検隊の目指したものや持ち

帰ったものは、随分その内容を異にしております。仏教徒として仏教の伝播ル

ートを目指していく、仏教の資料を収集して帰る、その点が非常に重要な側面

であるということであります。そこで私は、この大谷探検隊は、仏教者の、仏

教者による、仏教者のための探険ではないか、という言い方を 近しておりま

すけれども、仏教伝播のルート、そして失われつつあった仏教の資料、これを

収集するということであります。

次に、少し詳しく収集資料の分散状況について申し上げます。国外にあるも

のについては、中国の旅順博物館と中国国家図書館、韓国では国立中央博物館

にございます。国内については、東京国立博物館、京都国立博物館、そして龍

谷大学図書館、その他の所蔵機関、個人蔵がございます。龍谷大学の場合は、

所蔵経緯や収蔵時期を分けて龍谷大学にもたらされました関係で、非常にたく

さんの種類になっております。龍谷大学が所蔵する 9,000 点を超える資料とい

うのは、大谷光瑞師の遺品を整理する中、西本願寺で発見された木箱2つを中

心とするもので、1950 年代に大谷光照師から研究寄託されたものです。

龍谷大学図書館にあるものは、文献資料としては敦煌やトルファン地域出土

のものがございます。第 3 次隊が敦煌で入手した仏典、それから第 2 次隊を中

心としてトルファンで収集した数千点に及ぶ非常に小さな仏典写本断片群があ

ります。詳細な出土地については手書きで紙に書かれてあるだけで、全体的な

図録や報告書が出版されていないこともあり、確かな情報がないものがほとん

どです。

一方、旅順博物館所蔵の資料は、光瑞師が宗主退任後、中国に拠点を移す際

に持って行ったものが、後に移管されたもので、大谷探検隊が収集した資料の

中で、 も豊富でバラエティに富み、価値の高いものと言えます。その中で、

今回は特に漢字仏典を中心にお話ししていきます。

橘瑞超がこれら仏典の収集・研究に重要な役割を果したわけですが、『二楽叢

書』第一巻の中に「葱嶺流砂、昔より求法の士、難に当たり艱を忍び、以て一

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乘の妙典を東土に流伝せしむ。瑞超、命を宗主[大谷光瑞]に承け、驚沙洶沸の

裡、法宝を捜る。素より断篇遺簡なりと雖も、摩尼の妙珠、豈に径寸を以て優

劣を論せんや。半偈すでに捨身の要あり。妙典字々尽く法舎利に非らざるなし。」

と述べています。

イギリスやフランス、ドイツ、ロシアなど他の西洋列強の収集品に比べますと

非常に断片が多いわけですし、実際、文字があるのかないのか、何が書いてあ

るのか分からないような、まさに研究に値しないような小さな断片も随分たく

さん持って帰った理由がそこにあると思います。つまり、写本の大小は問題で

はなく、たとえどんなに小さな断簡であったとしても、それは非常に大切な法

舎利に匹敵するほどの価値があるのだということです。そのような姿勢で厖大

な写本群に相対したことが理解されます。

『西域考古図譜』は、大谷探検隊が持ち帰った資料の、言わば精選図録であ

ります。従って、全体を網羅したものではございませんので、非常に重要なも

の、それから当時同定できたもの等々、収集資料のほんの一部が記載してある

に過ぎません。全体的な目録や報告書は未だ出版されていないという状況です。

『トルファン出土仏典の研究』は、2005 年に出版されたもので、1953 年に発

足しました西域文化研究会の研究成果の一つであります。これは四天王寺の出

口常順師がドイツ隊の収集した資料の一部を所蔵され、以下に述べる藤枝晃氏

の提唱された年代分期法に従って漢字仏典を書写年代毎に収集し、その内容を

報告したものであります。この方法というものを大谷探検隊が持ち帰った資料

に適用して、そして整理した形で 2006 年に出版しましたのが『旅順博物館蔵ト

ルファン出土漢文仏典断片選影』でございます。これが旅順博物館にあります

大谷探検隊が持ち帰った漢字仏典の唯一の報告書ということになります。

ここで、少し旅順博物館所蔵資料について、ご報告させていただきたいと思

います。と申しますのは、たくさんの国に分散している大谷探検隊収集資料の

中で、近年、 も研究が進んでいるのが、旅順博物館の所蔵資料、特に漢字仏

典の資料であるからでございます。現在の旅順は、中国遼寧省大連市の中にあ

り、古くからの軍港であり、博物館も外国人立ち入り禁止区域にありました。

1992 年に本学の 3 名の先生が初めて大連に行かれ、共同研究を希望されました

が、当時の時代状況では、到底、研究できるような状態ではなかったようです。

しかし、10 年ほど毎年研究交流を続けられまして、2002 年から科研費の交付を

受けて研究が始まったわけでございます。

旅順博物館所蔵資料というのは、多くの部門に分けられておりますけれども、

今回のテーマである漢字仏典は、「古代新疆文物」の中に含まれております。そ

のうち文献資料には、非漢字のものと漢字のものがあり、2002 年からのプロジ

ェクトで中心的に研究しましたのが、漢字資料でございます。

敦煌写本は 9 巻ございます。620 巻ほどの敦煌写本が旅順博物館にあったの

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ですが、これが 1954 年に北京に移管されました。現在は国家図書館に収蔵され

ています。残されたのが、この 9 巻ということになっております。これについ

ては、まだ総合的な研究がなされておりませんので、今後の課題ではないかと

考えております。

トルファン出土資料は、写本・版本を含め約 2 万 6000 点がありますが、極小

断片が多く完本はございません。これはトルファン資料の共通の特徴でもある

のですが、ともかく非常に断片的な資料群でありました。

現在、約1万 6000 点の漢字仏典写本が、「藍冊」、つまり藍色の表紙の冊子の

中に糊付けされた形で保管されております。全部で 52 冊あり、大きいものが

41 冊、小さいものが 11 冊あります。当時、どの経典のどの部分であるか分か

ったものについては、経典別の冊子に分類整理されていますが、何の経典か同

定できなかったものについては、全くランダムに貼り付けけられています。

藍冊には表題が付けられております。それを見ますと「法華経」は全部で 10

冊ありますし、「経帖」は 21 冊もあります。しかし、浄土経論については「浄

土一」の1冊しかなく、しかも 81 点しか貼られておりません。光瑞師が も求

めたであろう浄土三部経を始めとする浄土経論は、当時としては 81 点しか見つ

からなかったわけです。また、版本を整理した「木版経」冊の中には 1,122 点

という多くの小断片が所狭しと貼られているものもあり、1 点 1 点を同定する

ことは非常に困難な状況でした。こういった極小断片も収集し、そして大事に

持ち帰り整理した。これが大谷探検隊の一つの特徴かもしれません。

他にも、紙袋に一点から数点の写本が入っているものもありました。また、

グジャグジャと、文字が書いてあるのかどうかほとんど分からないような断片

の山もございました。これも現在は、旅順博物館側で広げて、文字が読めるも

のについては整理がされています。

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旅順博物館・龍谷大学共編

『旅順博物館蔵トルファン出土漢文仏典断片選影』

(以下同書より図版転載)法蔵館, 2006

これから、皆様に数点の写本について報告したいと思います。

一つは、『諸仏要集経』の写本でございます。先ほど申しました『西域考古図

譜』の中に光瑞氏自らが も重要なものの一つとして挙げられていますのが、

西晋元康六年書写の『諸仏要集経』です。「元康六年三月十八日写し已る」とい

う奥書があり、西暦では 296 年で、紙に墨で書かれた仏典写本の中では も古

いものとして知られているものです。大変貴重な資料であるわけですが、現在

はモノクロ写真しか残されておらず、現物は行方不明となっています。この写

本と旅順博物館にある『諸仏要集経』に同定された写本計 14 点を比較してみま

すと、全く同じ文字があり、書体も非常に近い、しかも1点については、紙の

破損部分までピタリと接合いたしました。つまり、写真しかない 296 年書写の

紀年をもつ写本と旅順博物館に現存する写本とは、同一写本の離れということ

になります。以下は、各断片の本来の位置を推測して復元したものです。もち

ろん完全に復元はされておりませんが、整理された当時は同定できず、別々の

15

藍冊に貼られていた資料が、こうして蘇ったということになるかと思います。

2002 年から 2005 年の共同研究の中で、一つのトピックとして、これまでも発

表させていただいてきたところでございます。

トルファン写本の分期法を考案しておりますが、この写本は AA 期に分類し

ております。敦煌写本とトルファン写本とは、その地域性や歴史的経緯が異な

ります。奥書に紀年をもつものや完本が多い敦煌写本から帰納された書写年代

の分期法(A,B,C,D)を藤枝先生が考案され、当初は、それをトルファン写本にも

適用していたわけです。例えば、1975 年刊行のドイツトルファン隊収集の漢字

仏典写本の目録 Band 1(1071 件)や、1985 年の同 Band 2(1200 件)では、敦

煌写本の分期法が採用されていました。しかし、時代的にも政治的にも状況が

異なる両写本を同列に扱うことはできず、トルファン独自の分期法を作る必要

があるということで提示されたのが、AA,A,A’,C、D という分期法でした。

B(隋期)を除き、A’(高昌国期)を入れたことが大きな違いです。A は北朝期です

が、AA は、敦煌写本より古い3世紀後半以降の 古級の写本があることから、

A’は、高昌国期というトルファン地域の政治的独自性から設定されたものです。

また、C は唐代で、1 行 17 字詰め楷書体で書かれた、非常に定型化された写本

ですが、旅順博物館所蔵の漢文資料の分析では、新たに C1、C2、C3 を暫定的

に設定しました。つまり、同じ唐代の写本の中で、 も典型的なものを C2 と

し、紙質や書体の観点から、より古いと考えられるものを C1、D 期に近いと考

16

えられるものを C3 と分けて考えました。D はウイグル期で、故百濟康義先生

は、DT と表現されました。

A.D.300 400 500 600 700 800 900 1000 1100 1200 1300

AA A A’ DT

C 1 C 2 C 3

A.D.300 400 500 600 700 800 900 1000 1100 1200 1300

次に浄土教写本についてご報告いたします。

1912 年に刊行された『二楽叢書』第 1 巻には、浄土経論の録文が掲載されて

おります。ところが、ここに録文掲載された写本の原物がどこにあるのか全く

分からなかったわけです。藤田宏達氏の『浄土三部経の研究』の中でも、諸種

の写本とならんで校異に採用されていますが、原写本の所在は不明ということ

でありました。ところが、共同研究によって、それが旅順博物館にあるという

ことが判明しました。さらには、橘瑞超の第一次調査での 81 点に、私どもの

第二次調査による 85 点を加え、全部で 166 点の浄土教典籍が所蔵されている

ということも分かりました。それを紹介しましたのが、『旅順博物館所蔵新疆

出土漢文浄土教写本集成』(龍谷大学西域研究叢書5)でございます。これで、

旅順博物館所蔵の浄土教写本については、ほぼ整理が終わったということにな

ろうかと思います。

その過程で『浄土三部経』の中でも も古い部類に属する写本5点が発見さ

れました。この写本の中には文字が一部欠けて読むことができないものもあり

ましたが、新疆ウイグル自治区博物館の同系統の写本を分析しました結果、初

期無量寿経類の『大阿弥陀経』や『平等覚経』とも異なるテキストをもつ写本

であることが分かりました。つまり『大正新脩大蔵経』等の版本大蔵経に収載

されていない、 古級の初期無量寿経写本である可能性を指摘することができ

ました。

17

5 断片の配置復元

[三谷 2008]p.44

18

全てを網羅することは難しいのですけれども、今回は、 近の旅順博物館と

の共同研究によって、新たに判明しました漢字仏典写本に関する研究成果の一

端をご紹介いたしました。ありがとうございました。

入澤: どうも三谷先生、ありがとうございました。

19

報告Ⅲ:「大谷探検隊収集のウイグル語仏典」

報告者:橘堂 晃一(龍谷大学アジア仏教文化研究センター博士研究員)

入澤: ここで、皆さん方にご容赦いただきたいことが一つございます。プロ

グラムの方に橘堂さんのタイトルを掲げておりますが、今、橘堂さんはちょっ

とドイツとの、我々は研究交流を進めているのですが、突然に 8 月にどうして

もドイツの方に赴かねばならない事由がございまして、橘堂さんは今ベルリン

におります。そして、この学会のためにベルリンから参加をするということで、

スカイプを通じまして、これからベルリンと結びますので、ベルリンから発表

をしていただきます。ご容赦いただきます。うまく繋がりますかどうか、ちょ

っと心配でありますが、昨日の予行演習はうまくいきました。橘堂さん、聞こ

えますでしょうか。

橘堂: はい、ベルリンの橘堂でございます。今日はこのような形で発表をさ

せていただくことを先ずお詫び申し上げます。私がご報告いたしますのは、大

谷探検隊が収集したウイグル語の仏典でございます。仏教学の研究者にとりま

してはウイグル語って一体何だろうという、あまり馴染みの無い言葉かと思い

ますので、先ずそちらからご説明いたしますと、ウイグル族、現在新疆にいる

ウイグル族でございますが、その先祖ということになりますが、そのウイグル

族は、そもそも 8 世紀にモンゴル高原の方で覇を唱えておりました。しかし、9

世紀になりますと、キルギス族に故郷を追い出されまして、そして現在の天山

山脈の東麓へと移住してくるわけでございます。その中で、移住したウイグル

はやがて仏教に接しまして、マニ経から仏教へと改宗していくことになります。

そうした彼らが使用していた言語、すなわち古代チュルク語の仏教写本が数多

く残されておりまして、それを大谷探検隊の橘瑞超らが中心となって発掘し、

我が国に招来してきたということでございます。

現在残されているウイグル文書の出土地でございますが、スクリーンに映し

出されております写真、3 つ挙げておりますが、トルファン盆地のトユク石窟、

高昌故城、或いは交河故城、そしてベゼクリク、そういった地点が想定されま

すが、一部の資料を除いては、ほとんどが出土地は不明でございます。現在、

龍谷大学が保管しておりますウイグル語の資料は全部で約 1,500 点ほどであり

ます。しかしながら、その大部分は大変小さな断片ばかりでございますので、

内容の特定には大変な困難が伴います。しかしながら、現在までに内容が特定

されているものをみましても、ヴァリエーションに富んだ内容をもっておりま

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す。

それでは次に、大谷探検隊が持って帰ってきたウイグル語の研究史、そちら

の方をご覧いただきたいと思います。

先ず次のスライドに移ってください。第一期でございますが、これはファー

スト・ジェネレーションといたしましたが、これは第 2 次、第 3 次の探険隊員

でありました橘瑞超氏、そして大谷光瑞師と親交のありました、京都帝国大学

教授であった羽田亨氏、この 2 人によって日本のウイグル学は創始されたとい

うことでございます。1912 年、橘瑞超氏は先ほども紹介がありました『二楽叢

書』、その 1 巻と 4 巻におきまして、ウイグル語に翻訳された『観無量寿経』と、

そして『法華経』の「提婆達多品」を発表いたしております。残念ながら、こ

の 2 つの資料は今どこにあるかは分かっておりません。

次のスライドに移っていただきます。羽田亨氏は、現在龍谷大学が持ってい

るウイグル語の資料の中でも も有名な『天地八陽神呪経』を発表されました。

橘瑞超氏自身は、インドにいる時にデニソン・ロスからウイグル語を学んだと

いうふうに言われております。

そしてその後でありますが、しばらく半世紀ほど時間が開きまして、1953 年

に龍谷大学に西域文化研究会が発足されます。これは、先ほどもご説明のあっ

たかと思いますが、龍谷大学に大谷光瑞氏の遺品が寄託されたことによって設

立された研究グループでございますが、この研究グループでは、当然ウイグル

語の写本も研究の対象となりまして、先ずこれを目録化しようということで、

羽田明先生と山田信夫先生が、「大谷探検隊将来ウイグル字資料目録」を『西域

文化研究』第 4 巻に発表されます。ただし、山田信夫先生自身は社会経済史を

専門としておりますので、ウイグル語の仏典の方はご発表にはなっておりませ

ん。そして、第三期といたしましたが、これはその西域文化研究会とドイツの、

今現在私が来ていますところのベルリンのトルファン研究所との共同研究が

1970 年代の後半から開始されます。それを牽引してこられたのが、龍谷大学教

授でありました故百濟康義先生、そしてベルリンのペーター・ツィーメ先生、

このお二人によって共同研究が牽引されることになります。百濟先生は、先ず

大谷探検隊の零細な資料を直接研究されるよりも、ドイツやストックホルム、

イスタンブルに保管されている大きな資料、こういった資料から先ず研究して、

それとの比較によって大谷探検隊の資料も同定していこう、或いは研究してい

こうという方向性を採られておりましたので、大谷探検隊の資料そのものに対

するご研究はあまり多くはありませんが、重要なご研究が幾つかございます。

ウイグル語訳の「アビダルマ論書断片」、そして橘瑞超が研究した「觀無量壽經」

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これをもう一度校訂し直したご研究、そしてこれは写真資料でしか残っていな

かったものですが、四十巻本の「華厳経」、こういった大谷探検隊に関する資料

をご発表されております。そして、ドイツのツィーメ先生も百濟先生と共同研

究をされる過程で、大谷探検隊のコレクションの中から今ご覧いただいている

「弥勒との邂逅(マイトレーヤ・サミティ)」と呼ばれる、これはウイグル族が

隣のオアシスであったカラシャールのトカラ仏教の影響を受けて翻訳した仏典

でございますが、こちらの方を同定して研究していただきました。

このお二人とは別に、もう一方重要な方として、小田壽典先生がおられます。

小田壽典先生はこの第二期の羽田先生、そして山田信夫先生が目録を作成され

ている作業にもご参加されておられた方でございまして、その過程で重要な資

料を発見されておられます。その一つが、『文殊師利成就法』です。これはチベ

ット語からウイグル語へと翻訳された経典でございます。さらに、小田壽典先

生がライフワークとしてご研究されておられた『天地八陽神呪経』、羽田先生が

ご発表された長巻、或いは大谷コレクションの中の零細な断片も含めて、世界

に散在する同経典の総合的な研究書を出版されました。また、百濟先生との共

同作業で、これもやはり写真でしか残されていなかった資料ですが、四十巻本

の「華厳経」を共同でご発表されておられます。

これまでのウイグル語仏典にたいする研究史を辿ってきましたが、 後に今

後の私達に残された課題を申し上げておきたいと思います。やはり何と言って

も、まだまだ数多くの未指定の資料がございますので、そちらの方を何とか研

究していこう、同定していこうということでございます。現在、ベルリンの研

究成果は大変充実しております。そういったベルリンの資料との比較によって、

大谷探検隊将来のウイグル語資料の多くの断片がベルリンの研究者によって同

定されつつあります。次のスライドをお願いいたします。

その中の幾つかをご紹介いたしますと、これはイェンス・ウィルケンス氏が

発見してくださったものですが、『慈悲道場懺法』ですね。文書番号が大谷 1980

でございます。これはご存じのとおり、中国、漢訳からの、漢文資料からの翻

訳でございます。

そして、次のスライドをお願いいたします。ベルリンのアブドルシッド・ヤ

クップ氏によって同定された資料でございますが、『傅大師金剛般若経』の断片

でございます。『傅大師金剛般若経』は、敦煌写本の中からもたくさん出ている

ものでありまして、そういった敦煌との関連性を窺わせる資料でございます。

また、この大谷文書と同じ写本の一部と思われるものが、実はベルリンからも

発見されております。次のスライドをお願いします。

これが U 3066 でございますが、ちょっと横に置いておりますが、これは実は

同じ種類の写本でございます。全部で 7 行ありまして、大谷探検隊のものと特

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徴が一致しております。こういったこともアブドラシッド・ヤクップ氏が報告

してくださっているものであります。

そして、次のスライドをお願いいたします。これは大谷探検隊の資料の中で、

も大きなと言いますか、状態の良い写本の一つですが、実はこれまで研究さ

れてこなかったものです。 近、これが『大乗入道次第(開決)』であることが

わかりました。この『大乗入道次第』、これがもし「開決」のほうであれば、こ

れは敦煌で活躍した曇曠の著作ということになります。これも、やはり敦煌と

トルファンを中心に活動していたウイグル仏教を窺わせる資料でございます。

そして、こういった研究の中から、直接に大谷コレクションとベルリンのコ

レクションが綴合するという、そういうものも発見されております。次のスラ

イドをお願いいたします。

これは、右の断片が龍谷大学の大谷探検隊の資料、これは『ダシャカルマパ

タ・アヴァダーナ・マーラー』という、これもトカラ仏教、トカラ語から翻訳

された説話でございますが、これを右の方は私が発表したのですが、近年、先

ほど申し上げたイェンス・ウィルケンス氏が、これと引っ付く資料を報告した

のが、左下の U 2037 という資料でございます。こういった接合する資料の発見

によりまして何が分かるかと言うと、テキストが補充されることはもちろんで

すが、大谷探検隊の活動の実態と言いますか、どこで発掘したかということが

具体的に分かるようになります。残念ながら、この U 2037 というのは、ドイツ

隊もどこから発見したか分からないのですが、おそらくそういったこれから例

もどんどん出て来るだろうと思います。

そういった例を、今、私が取り組んでいる仕事、こちらで取り組んでいる仕

事をちょっとご紹介いたしますと、次のスライドをお願いいたします。

これは『西域考古図譜』ですね。大谷探検隊の唯一のカタログということに

なりますが、そこにこういうウイグル語仏典が紹介されております。しかしな

がら、この資料は現在行方不明になっていて、具体的なことは何も分かってい

ないのですが、実はこの資料と同じ種類と思われるものが、このベルリンにも

保管されております。次のスライドをお願いいたします。

こちらの方でございます。書体、そして内容も矛盾なく一致しておりますの

で、おそらく同じものであろうというふうに考えられるわけですが、この U5342

はトユクの石窟から発掘されたということが、このベルリンの資料から分かり

ますので、おそらく先ほどの『西域考古図譜』の資料もトユク出土であり、大

谷探検隊がそこで活動していたことが分かるわけであります。

そして、今後の活動の課題としましては、今見たような、そういう綴合資料

の捜索、そして三谷先生からもお話がありましたような旅順博物館、そしてソ

ウルの中央国立博物館、日本国外に所蔵されているであろう分散資料の追跡、

そして 終的には、羽田・山田目録、ウイグル語の目録、これを大谷探検隊だ

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けでなくて、旅順博物館なども含めた総合的な目録をもう一度作成する必要が

あろうかと思います。

私の報告は以上です。ご静聴ありがとうございました。

入澤:橘堂さん、どうもありがとうございました。

24

25

報告Ⅳ:「大谷探検隊収集のソグド語文献」

報告者:吉田 豊(京都大学文学研究科教授)

入澤: では続けて、今度はソグド語に関しまして、京都大学の吉田先生から

ご報告です。よろしくお願いいたします。

吉田: 今ご紹介に与りました吉田です。私の発表は大谷探検隊収集のソグド

語の資料についてということですけれど、ここは仏教学関係の方が多いことで

すから、特に仏典に特化した発表にいたしました。お手元にハンドアウトがあ

ると思います。1 ページから 8 ページまでありますが、 初の 4 ページがここ

での話の内容の要約で残りは資料です。それでは 初に写真を幾つか見ていた

だきまして、さきほどの橘堂先生のお話から頭を切り替えていただこうと思い

ます。

初に申し上げておきますが、ここでお話しするような文書が書かれた時代

にはソグド文字もウイグル文字と同様に縦書きされていました。ただ、我々研

究者は大体横で読んでいるものですから、写真を示す時はしばしば横書きであ

るような示し方をしてありますがその点はご容赦ください。ここにお見せする

のは大谷探検隊将来の仏典の断片です。大谷資料のソグド語文書にはこういう

小さな断片しかありません。

その次ですが、これはそれらの中で同定ができた『法王経』です。次にこれ

もやはり同定できたものですけど、貝葉本の裏表で『大乗涅槃経』です。その

次は、これは同定しようがありませんが、仏典の末尾に添えられたいわゆる回

向文です。これらはどれも小さい断片ですがどれも仏典でして、こういうもの

の数を数えて何点というふうに言っているわけですから、数から受ける印象と

実情はかなり違うと思います。それから次、これは今橘堂先生のお話にもあっ

たトヨクという場所から出土した断片で、ベルリンにあるものです。断片です

が、非常に丁寧に書かれております。漢文の仏典とその発音をソグド文字で表

記してあるものです。こういうものは普段は皆さんあんまりご覧にならないと

思いますので、今日はこの資料についての話も後でしたいと思います。それか

ら 後の1点ですが、これも非常に珍しいもので挿絵が付いているソグド語仏

典です。この裏にもソグド語テキストがありますし、この絵の傍にもソグド語

が書いてあります。絵のほうは明らかに中国絵画とは違います。こういう絵画

の伝統を持つ文化を背景とするような仏教も、ソグド人は信仰していたという

ことが分かるかと思います。

これからはお手元のハンドアウトを使いながら話をいたします。今まではハ

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ンドアウトの0(ゼロ)、「大谷コレクションのなかのソグド語仏典の姿」とい

うのを見ていただきました。見ていただいた小さい断片はみなトルファン盆地

出土でありまして、高昌故城やトヨクなどで見つかったのだと思います。高昌

故城やトヨクの位置は 8 ページ目に地図を付けておきましたのでご覧ください。

大谷資料の中でイラン系の言語の資料は、コータン語を除きますと 400 点ほ

どあります。そのうちの 100 点はマニ文字で書かれたマニ教文献です。残り 300

点ほどはソグド文字で書かれておりますが、その中で確実に仏典と言えるもの

は 40 点ほどです。仏典のリストを付録として 2 ページの終りから 3 ページ、4

ページにかけて付けておきました。これらは、先ほどお話もありました百濟先

生、ベルリンのズンダーマン先生、それから私が共同で研究し 1997 年に発表し

た本にあるものです。ですから、この番号などはこの本にあるものから取って

おります。大谷探検隊の資料は量が少なくて、世界中にあるソグド語の仏典の

中で言えば、大体 100 分の 1 ぐらいかと思います。そういう意味では、ここの

資料というのは、全体の中で僅かなものですけど、ソグド語仏典のヴァリエー

ションを知る上では重要な資料になると思います。

文書が書かれた時代ですが、紙質等からだいたい 8 世紀から 10 世紀ぐらいの

ものだろうと考えております。それから内容ですが、例えば今見ていただいて

いるものは、片面がソグド語で、その裏面がソグド文字ないしはウイグル文字

で書いた漢文の仏典です。つまり中国語の仏典の発音をソグド文字で表記した

文献です。残念ながら漢文の仏典は原典を比定できませんし、表のソグド語訳さ

れた仏典の方の原典も分かりません。何が書いてあるのだろうと興味を持たれ

た方は、5 ページにこの部分のテキストと私の訳を挙げておきましたからご覧

下さい。この頃は『大正大蔵経』の電子テキストが利用できますから、うまく

いけばこういう私の訳からでも原典を比定できるかもしれません。残念ながら

1997 年の段階では、それはできませんでした。

それからその次のスライドですが、これは私が 初に同定できたものです。3

断片あるわけですけれど、互いに接合はできません。禅宗の人たちが好んで読ん

でいた偽経の『法王経』の断片でした。

それと次、これが先ほど言いましたように、漢文の『大乗涅槃経』のソグド

語訳です。これと同じ写本の離れは、ベルリンに膨大な数がありまして、百濟先

生とベルリンのズンダーマン先生が共同で研究されるはずでありました。大谷

資料を研究する中で、その同じ写本の離れがここにも 3 断片あることがわかり

ました。今のところ対応場所が特定できるのはこの比較的に大きな断片だけで

した。これについても、ハンドアウトの 7 ページに原典の対応箇所を示してお

きました。それから先ほどの『法王経』についても、ハンドアウトの 6 ページ

に関連する資料を添えておきました。

そういうわけで、残念ながら大谷資料の中の仏典というものはそんなに数が

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あるわけではなくて、あまり多くのことが分かるわけではありません。ちなみ

に、先ほど橘堂先生も言っておられました旅順博物館にある資料はどうかと言

いますと、私が調べました限りソグド語仏典は 1 点もありませんでした。こん

な調子で,大谷探検隊将来の資料のなかのソグド語仏典についての話はこれで

終わりです。ただそれではあまりにつまらないと思いますので、次にソグド語の

仏典一般、或いはソグド仏教というのはどのような仏教かについて説明いたし

まして、大雑把な知識を得ていただきたいと思います。

ソグド仏教については、ずいぶん前に羽溪了諦先生が『西域之仏教』という

本を 1914 年に出版し、そこの「康居国の仏教」という部分でかなり詳しく論じ

ておられます。この本に書かれていたことというのは、かなり多くの人達、と

りわけ年配の先生方の常識と言いますか、伝統的な理解になっているのではな

いかと思います。羽溪先生は 2 世紀、或いは 3 世紀といった非常に古い段階で

ソグド地方に仏教が伝わって、そこで仏典の翻訳も行われたというようなこと

を書いておられます。もちろん、何の根拠も無くそんなことを言っておられた

わけではないわけですが、その後の我々の研究で、実際にはそういう事態はあ

り得ないということが判明しております。

ハンドアウトの 2 ページですが、「3 ソグド地方の発掘とソグド語仏典の研

究から分かること」という部分について説明します。ソグド地方というのは、

先ほどの 8 ページの地図で示しておきましたが、サマルカンドを中心とする地

域で、今のウズベキスタン、タジキスタンにあたるところです。考古学者たちは

この辺りを発掘していますが、組織的な仏教遺跡は見つかっていません。そう

いう意味で、ソグド地方で仏教が大々的に伝わったという証拠は見つかりませ

ん。たしかにソグド語で訳された仏典はありますが、それは我々が知る限り、

全て漢訳仏典からの重訳であります。従いまして、ソグド語で訳された仏典と

いうものは、全てコロニアルな現象と言いましょうか、仏教圏に移住してきた

ソグド人達がその地の仏教を受容した結果であると考えざるを得ないと思いま

す。現在まで知られているところでは大半は漢文仏典に依存しています。しか

しながら、特にトルファンなどでは、当地で行われておりました北道のいわゆ

る説一切有部の仏教の影響を受けたらしい仏典も見つかります。先ほどお見せ

した写真の 後、中国風とはほど遠い様式の絵の入った仏典などは、おそらく

そういうものだろうと思います。残念ながら、あの仏典はまだ原典が分かって

おりません。

次にハンドアウトの 4 番目、「どんなソグド語仏典があるか」ということにつ

いてお話ししたいと思います。そこにも書きましたように、大概は漢訳の大乗経

典からの翻訳です。なかには『法王経』や『善悪因果経』のような偽経の翻訳も

ありますが、いずれにしても漢文仏典からの翻訳です。それから、僅かに梵語、

トカラ語からの翻訳もあると考えられます。ハンドアウトにもあげておきまし

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たように 近は、ソグド語の仏典についてまとまった解説もありますので、そ

ういうものを参考にしていただければ良いかと思います。

次にハンドアウトの「5 今後の課題」ですが、これは何はともあれこうい

う未比定の仏典をこつこつ比定していくということに尽きます。 近は『大正

大蔵経』の電子テキストが簡単に利用でき検索も容易ですから、昔なら絶対無

理だと思われたような小さな断片でも原典を特定できる場合があります。私も

近、敦煌でみつかったソグド語仏典の一つですが、『六十華厳』の断片である

と特定することができました。それからトルファン出土の資料の中には,『宝聚

経(Ratnarāśī-sūtra)』の断片があるということも分かってきました。これらと

は別に、これはまだ全く手つかずですが、北道の説一切有部とソグド語仏典の

関係を究明しなければなりません。また非常に重要なことですが、我々が持って

いるソグド語仏典と漢文の歴史文献や出土文書に出てくるソグド人の仏教徒と

の関係も研究しなければなりません。そんな中国にいたソグド人仏教徒には有

名な僧侶もいました。いわゆるソグド系の学僧達です。例えば、華厳宗の第三祖

である法蔵は 7 世紀から 8 世紀にかけての人ですが、よく知られているように

明らかにソグド人の子孫です。そういう人達と我々が持っているソグド語仏典

にどんな関係があったかというようなことも、追求しなければならない重要な

テーマです。

それと、もう一つ注目すべきことですが、今のキルギスタン、イシク・クル

の西側、チュー川の流域には、比較的に大規模な仏教遺跡があります。ここは

玄奘が通過したにも拘らず一切報告していませんから、玄奘以降に建てられた

仏教遺跡と見なされます。仏教寺院の跡が数個あるわけですけど、そこからは仏

教信仰を示すものが出土しています。ここはソグド語圏でしたから、信者の中

にソグド語を話す人がいた可能性は高いと言えます。こういう場所の仏教信仰

がどんなものであったかということも見ていく必要もあります。土壌が乾燥し

ていないので、出土するものの数は多くありませんが、梵語の仏典などもみつ

かっているようでして,今後の発掘から目を離せません。

さて、これで私がお知らせしたいことはだいたい説明し終りました。ハンドア

ウトではその後に、カタログと言いましょうか、大谷資料にはどんなソグド語

仏典があるかを示すリストがあります。詳しくは、先ほど紹介しました本で見

て下さい。

後に、時間のある限りちょっと珍しい仏典について紹介しておきたいと思

います。 初はこれ、So 14830 です。これについてはハンドアウトの 4 ページ

を見てください。これはベルリンにあるものでして、トヨク出土という古い書

き込みがありましたから、トヨクで発見された文書だと考えられます。ここに

は漢字の発音をソグド文字で表記してありますから、漢字音の研究には非常に

重要な資料でありまして、そのテーマについては私自身が 1994 年に専論を発表

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しました。しかしソグド人の仏教信仰における位置づけ、つまり仏教史学的な研

究が残されています。この文書にある漢文のテキストと、 初の 1 行目だけです

がソグド文字で書かれた漢字の発音をハンドアウトには引用しておきました。

この文書の特徴は、 初にソグド文字を縦書きし、それを書いてから個々の発

音に対応する漢字を添えていることです。ですから、漢字の行も左から右に進

みます。漢文には『大乗起信論』からの引用がありますが、その引用の前の 2

行ほどはこれには対応するテキストが見つかっていません。つまり、『大正大蔵

経』の電子テキストで検索する限りヒットしません。こういう中国語というか

漢文の、しかも経典ですらないものの発音を記すということにどんな意味があ

ったのかまだよく分かりません。ただ仏典の中国語の発音を勉強していたソグ

ド人の仏教僧侶がいた、しかもトルファンにいたということが、この文献から

確認できるわけであります。ただここにあるようなテキストの内容だけでなく、

その発音までも学習するソグド人僧侶の信仰或いは教学的な背景がどんなもの

であったのか、私は残念ながら仏教学者ではありませんので、全く想像もつき

ません。ただ仏教学の専門家の人たちにこういう資料を紹介して、何かご意見を

いただければ幸いだと考えています。

それからこれが 後の写真です。先ほども言いましたように、ソグド語の仏典

は概ね中国仏教に依存していますが、そうでない仏典も確実に存在しています。

その中の一つは、アラネーミ・ジャータカです。このジャータカはトカラ語やウ

イグル語、それからイラン系のトゥムシュク語といった北道の言語に翻訳され

たものがありまして、北道で流行した仏典であったことが推測されます。その

ソグド語訳は非常に奇妙な写本でして、貝葉本ではありますが、どの貝葉も片

面は極彩色の絵、もう一方の面はテキストという構成になっています。そして

その絵は中国風ではありません。今見ていただいているのはその写本とは違う

ものですが、やはり西域風の絵が描かれています。この裏面にはソグド語が書い

てあり、仏典であることはあきらかです。残念ながらこれもまだ原典が分かっ

ておりません。冒頭でも申しましたように、これは中国仏教とは全くことなる文

化的な伝統を持つソグド語仏典があったということを示唆しています。その歴

史的な背景の究明も今後の課題で、詳しく研究していかなければならないと思

っています。雑駁ですがこれで私の報告を終わります。

入澤: どうも吉田先生、ありがとうございました。

30

31

報告Ⅴ:「大谷探検隊のエルデニ・ゾー寺院調査」

報告者:村岡 倫(龍谷大学文学部教授)

入澤: 引き続きまして、今度はがらりと様相が変わります。歴史学の方から、

遺跡研究の立場から、村岡先生にモンゴルのエルデニ・ゾーについてご発表を

いただきます。よろしくお願いいたします。

村岡: 村岡でございます。私は歴史学が専門ですので、そちらの方から大谷

探検隊の記録の意義ということをお話ししたいと思います。

エルデニ・ゾー寺院というのは、モンゴル 古のチベット仏教寺院でありま

して、13・14 世紀にユーラシア全域を支配しましたモンゴル帝国の旧都カラコ

ルムの地に、帝国滅亡後の 16 世紀の末に建てられ、今もモンゴルの人々の信仰

を集めております。エルデニはモンゴル語で宝、ゾーは寺院ですので、「エルデ

ニ・ゾー寺院」と言うと、「ゾー」と「寺院」が重なって、変な言い方ではあり

ますが、一応分かりやすくそう呼ばせてもらいます。

モンゴルは、クビライ・カアンの時代、13 世紀半ばに中国を支配して元朝を

たて、隆盛を極めましたが、14 世紀後半には明朝に敗れ、モンゴルに退き衰退

してしまいます。しかし、16 世紀、クビライの子孫に当たりますダヤン・カア

ンの時代になると復興して、明朝ともかなり渡り合うようになりました。ご存

知の方も多いかと思いますが、現在の我々が見ることのできる万里の長城は、

決して秦の始皇帝が造ったものそのものではなくて、このダヤン・カアン以後、

再び始まった遊牧民たちの攻勢から領土を防御するために、明朝が造ったもの

なのです。

一方、このダヤン・カアン以降、モンゴルはいくつかの勢力に分裂し、あち

こちで、カアンが乱立するという状況が起こりました。本来カアンというのは

中国の皇帝と同じで、唯一の存在であるべきですのに、ダヤン・カアンの子孫

が何人もカアンを称するわけです。その中の 1 人、今の内モンゴルを勢力圏と

していました、ダヤン・カアンの孫に当たるアルタン・カアンが、1578 年にチ

ベット仏教の高僧ソナムギャツォと会見し、彼にダライ・ラマの称号を与えま

した。現在に至るダライ・ラマ制度の始まりです。その代わり、アルタンは彼

の仏教界での権威によって、他のカアンより優位に立つための裏付けを得ると

いう方策をとったのです。これに対抗して、アルタンの従兄弟の子、アバタイ・

カアンという人物も、チベット仏教によって自らを権威付けるために、1585 年

にこのエルデニ・ゾー寺院を建設し、高僧を招くということをしました。エル

デニ・ゾーは、その後長くモンゴル人達の仏教信仰の中心になって、大変栄え

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た時期もあったのですが、1938 年の革命政府の弾圧によって寺院内の多くの建

物が破壊されてしまいました。

1990 年代、モンゴルの自由化に伴って、チベット仏教も復興しましたが、エ

ルデニ・ゾーはモンゴル 古のチベット仏教寺院ということで、再び重要視さ

れ、国外からも大変注目を浴び、その歴史についていろんな研究や著作が出る

ようになりました。20 世紀初頭の記述では、当時、寺院を調査したロシアの探

検家の記録に基づくところがほとんどでしたが、彼らの記録は、寺院内の建造

物や碑文のことについては詳しいのですが、その他の寺院内の様子などを具体

的にはあまり書いていません。

そんな中、同じ頃、大谷探検隊の第 2 次探険で橘瑞超・野村栄三郎の 2 人も、

このエルデニ・ゾーを訪れているのです。そして、2 人とも詳細な日記を残し

ています。橘の日記は『使命記』、野村の日記は『蒙古新疆旅行日記』と言いま

すが、これには、ロシア隊の記録にはない記述がたくさん残っているのです。

大谷探検隊がエルデニ・ゾーを訪れているなんてことは、モンゴルでもロシア

でもあまり認識されていなくて、彼らの記録をそういう著作や研究に活かされ

るということは、今まで全くと言って良いほどありませんでした。そこで私は、

今回、この第 2 次大谷探検隊の橘・野村の日記から、エルデニ・ゾー寺院につ

いて、どのようなことが分かるのかということを、3点にわたってお話ししよ

うと思っております。

これは現在のエルデニ・ゾー

を上空から撮影したものですが、

橘・野村の記録では、寺院は正

方形の城壁で囲まれていて、四

面に門が一つずつ設けられてい

ること、城壁の上に、白色の小

塔が 100 あまりあること、実際

は 108 あるのですが、それらが

極めて秩序正しく配置されてい

て壮麗であること、現在も見ら

れるそのままの形状を実に正確

に述べています。大谷探検隊一

行は、「南門」から入ったといい

ます(写真、左端に見える門)。これは、橘の日記にありますエルデニ・ゾーの

図面(次頁の図)ですが、この図では B・C 地点の門です。これは、現在おも

に「東門」と呼ばれている門なので、たいへんややこしいのですが…。正確な

方角で言えば、東南の門なので、「東門」と言ったり「南門」と言ったりするこ

とが起こるようです。橘は四つの門のうち、彼らが入城した門が一番大きく、

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正門であるとしています。今では、

その東南の門は閉ざされ、橘が「西

門」と言う門、現在は普通「南門」

と呼ばれる西南の門が正門のよう

な役割を果たしています。図の右側

E の門です。だいたい観光客もこの

門から入ります。駐車場もその門の

前にありますので。

城内には、緑色および赤色の屋根

を持つ殿堂があることなどが述べ

られていますが、この殿堂というの

が、エルデニ・ゾー内に現存します

ゴルバン・ゾーで、「三つの寺」と

いう意味ですが、それは西寺・中寺・東寺の三つがあるからそう呼ばれていて、

実際に今もその屋根は緑や赤の色鮮やかな色を残しています。

橘は、その殿堂を中心に、ラマ達の住居が建っていて、その他にも、廟堂や

家屋が数多くあって、細く狭い道路でありながら、秩序ある街並みをつくって

いることを書いています。実際、19 世紀末から 20 世紀初頭にかけては、1500

人もの僧がいて、そのうち 500 人ぐらいは寺院にいつも住んでいてので、寺院

内には数多くの僧房があったということです。19 世紀末にエルデニ・ゾーを調

査したロシアのラドロフの写真を見ても、多くの建物があるのが分かりますが、

橘の日記では、寺院内が一つの街のようになっていた様子がさらに詳細に分か

るということです。図の□の部分が建物ですから、寺院内がほとんど建物で埋

め尽くされているのが分かると思います。しかし、残念ながら、先ほども申し

上げましたように、彼らが訪れてから 30 年度、1938 年の破壊によってほとん

どの建物は破壊され、現在は残っておりません。先ほどの上空からの写真を見

ても分かる通りです。

到着した彼らには、宿舎が割り当てられるのですが、それは、入った門を左

折した新築中の大きな家屋で、図の D の地点にあったということです。かなり

大きな、ちゃんとした建物であったようですが、橘が書いているのをよく読み

ますと、それは、モンゴルの移動式住居であるモンゴル語ではゲル、中国語で

パオという、何かの映像か写真等で見られたことがあるという方もおられると

思うのですが、何かそういう形をした建物のように読み取れます。室内が暗い

とも言っており、彼らが来たのは 8 月ですから大変暑かったと思いますし、そ

の暑さを凌ぐように、日が射し込まないような形になっていたのでしょう。

現在モンゴルの風光明媚な草原には、ゲルを立ち並べたツーリストキャンプ

があって、観光客が宿泊できるようになっているところがあるのですが、その

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場合のゲルは、形はそうなのですけど、固定式になっています。橘・野村が寝

泊まりした建物は、そんなツーリストキャンプのゲルを連想させます。そうす

ると、このエルデニ・ゾー内には、先ほど言った僧侶が住む僧房以外に、そう

いう旅行者を泊めるような場所まであったということが分かります。ロシア隊

はこんなことは何も書いていなくて、これは、橘や野村 2 人の記録で、初めて

分かることなのです。大変興味深いところだと思います。もちろん、橘・野村

も僧侶でした。ロシア隊とは違って、ただの旅行者ではありませんので、宿泊

する資格があったということなのかもしれません。

更に、彼らは、正門から右折したところに建設中の建物があるということも

書いています。要するに、1908 年に彼らがエルデニ・ゾーを訪れた時点でも、

まだ建物が新築されているような、当時のエルデニ・ゾーの賑わいと言います

か、そういうことが彼らの記録でよく分かり、それだけでも、エルデニ・ゾー

研究にとって、彼らの記録がいかに重要なのかということが理解できるのでは

ないでしょうか。

さらに、彼らの記録で重要なのは碑文です。実はこのエルデニ・ゾー寺院に

は、モンゴル帝国時代の旧都カラコルムに関係する碑文がたくさん残されてい

ました。それは、16 世紀末にエルデニ・ゾーが建てられた時点で、その北側に

は、14 世紀後半に衰亡したモンゴル帝国の旧都カラコルムがすでに廃墟となっ

てあったのですが、そこから石材を初めとする様々な資材を持ってきて再利用

し、エルデニ・ゾーを造ったからでした。それで、このエルデニ・ゾーの中に

は、モンゴル帝国時代の注目すべき碑文がたくさん残っているというわけです。

実はこれら碑文に関しましては、先ほどもお話ししたロシアなどの研究者が

かなり克明に研究しておりまして、拓本の写真も載せられている著作もありま

す。先ほども申し上げましたラドロフというロシア人には、1892 年に発刊され

た著作があって、それらの碑文がエルデニ・ゾーのどこにあったか書いてはい

るのですが、その場所にあった建物自体がもう今はありませんので、それが今

のどこに当たるのか全然分からなくなっています。ところが、橘・野村は、そ

れぞれの碑文の位置をちゃんと図面に描いているのです。その点、後世の人間

にとっては大変助かります。

まず、「和寧郡忠愍公廟碑」という碑ですが、「和寧郡」というのはカラコル

ムのことです。「忠愍公」というのは、モンゴル皇帝に近侍する宿衛の兵で、反

乱鎮圧のためにカラコルムに派遣された人物で、彼の死後、その功績を顕彰す

るための廟を造った際に立てられたのがこの碑です。漢文で書かれています。

この碑は、二つに割られ、先ほど話題にした橘・野村が「南門」と呼んだ門の

両柱、B と C の場所にそれぞれ嵌め込まれていたと彼らは記しています。

1996 年のことですが、大阪大学の森安孝夫先生を代表としてビチェース・プ

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ロジェクト(ビチェースはモンゴル語で碑文という意味)という日本・モンゴ

ルの共同調査プロジェクトが始まりました。私もそのメンバーであり、プロジ

ェクトの中でエルデニ・ゾーの碑文も長年調査してきました。2004 年以降は、

大阪国際大学の松田孝一先生を代表とし、モンゴル時代に特化してそのプロジ

ェクトは今も継続しております。その調査の折、10 年以上も前の調査になりま

すが、その時には、この碑は橘・野村の記述通り、B と C の所にまだ嵌め込ま

れたままでした。しかし、重要な碑文ということで、後に外され保管されるこ

とになって、今は代わりに別の石が嵌め込まれています。現在、この碑文はど

うなったかと言いますと、今年の 6 月に、エルデニ・ゾーの近くにカラコルム

博物館というのができまして、ここに収蔵されております。ところが、残念な

がら「和寧郡忠愍公廟碑」は展示されずに、収蔵庫に眠ってしまっています。

次に「剏建三霊侯廟記」という碑です。中国では、北宋時代の 11 世紀から、

周代の 3 人の諫官、唐宏・葛雍・周斌を霊験あらたかな神として祀る廟制があ

ったのですが、それに基づいて、元になってからもカラコルムに廟を築いてい

て、それを記念する碑です。1339 年に立石されました。これは図の A の地点に

あったと橘・野村は書いています。これは現在も同じ場所にそのまま立ってい

ます。後世、碑面にガリック文字でオンマニパドメフゥンと彫られたものです

から、残念ながら、漢文で書かれた題名の部分が見えにくく、橘・野村は題名

を間違って記しております。もっとも、彼らはガリック文字を「蒙文」として

おり、その認識も誤ってはいますが。彼らは題名を「三霊/廟山」と記してい

ますが、ガリック文字の間からよく見ると、正しくは「三霊侯/廟之記」です。

また、橘は、その立石を「至元己

卯(1339)仲夏吉日」と正しく読

み取っているのですが、野村は、

その日記の図に、「至正己卯仲夏

吉日」と誤って記しています。彼

らはこの碑の拓本を数枚採って

おり、『使命記』にはそのうちの

一枚の写真が載せられているの

ですが、それらの拓本がその後ど

うなったのか、残念ながらその行

方は分かっていません。

更に、先ほど申し上げましたゴ

ルバン・ゾーと呼ばれる寺院の前

に、F・G・H・I と 4 つの碑文が

立てられていることが、橘の図に

示されています(左に拡大図)。

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こちらの方も、「三霊侯廟碑」と同様、拓本を採ろうとしたらしいのですが、ラ

マ達、つまりお坊さん達に拒否されました。これらの碑文のサイズだけは記し

ているのですが、残念ながら不正確です。ラマ達に拒否されたこともあって、

慌てて測ったのでしょうか。しかし、不正確ながらもそのサイズから、現存す

る碑文のうち、一体それぞれが何に当たるのかということは大体分かってきま

す。

私の推測ではありますが、アルファベット順の反対、I・H・G・F の順で、

これらに当たるであろうと思われる碑文を紹介しておきます。まず I の碑文で

すが、実はこれはペルシア語碑文です。ハーンカーというイスラム教徒の修行

道場兼宿泊施設を建造した時の記念碑で、1341 年か 42 年の立石です。ソヨン

ボと呼ばれるチベット仏教の信仰の対象となっている文字の下にペルシア語の

文字が見えます。後世、このペルシア語文を全く無視して、ソヨンボが彫られ

たのでしょう。そのソヨンボが長く参拝客の信仰の対象になっていましたが、

現在はカラコルム博物館に収蔵され、「和寧郡忠愍公廟碑」とは違って堂々と

展示されています。その横には、日本語訳、英訳が示されていますが、この翻

訳には私も関わっており、ビチェース・プロジェクトの成果の一つと言えます。

次は H ですが、これは、橘・野村が訪れた時には、この I のペルシア語碑文

の横に立っていたようです。しかし、おそらく、我々の調査の時には、寺院内

の草むらの中にうち捨てられていた碑文で、「嶺北省右丞郎中総管収粮記」であ

ったと思われます。「嶺北省」とは

モンゴル地域のことですが、中国方

面からモンゴルに食糧を運んで蓄

える制度を整えた際の記念碑です。

1348 年に立石されています。これは

244 センチという割と大きな碑文な

ので、H はまずこれで間違いないと

思います。現在、カラコルム博物館

の前にこういうふうに立っており

ます(左の写真)。この碑は右側に

漢文が書かれてあって、左側はモン

ゴル文字が書かれてあります。漢文

とモンゴル文字の両方が書かれて

いるということもあって、カラコル

ム博物館のシンボル的なものとし

て、こうやって入り口の前に立てら

れているのでしょう。

更に、次は G ですが、これは現在

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も同じ場所にある碑文と思われます。後世、チベット文字が大きく彫られてい

るのですが、碑面全体が何か変に磨かれているようです。ひょっとしたら、こ

れも、もともとはモンゴル時代の何か漢文の碑文であったのが、後に磨かれて、

文字が消され、このチベット文字が彫られたということではなかったかと思い

ます。真偽のほどは分かりませんが。

後に F ですが、これは「和林兵馬劉公去思碑」という碑であると推測して

います。「和林」もカラコルムのことですが、その地の「兵馬」という役職にあ

った劉天錫という人物が、任期を終え、漢地に帰る際にその功績を記した碑と

して立てられたもので、1331 年の立石です。この碑は、現在はここにはなくて、

ビチェース・プロジェクトの調査時には、先ほど紹介しました「嶺北省右丞郎

中総管収粮記」と並んで草むらに転がっていました。現在どこにあるかと言い

ますと、エルデニ・ゾー内のチベット様式のツォクチェンという大経堂前にあ

る祠の中に入ってしまっています。なぜか、カラコルム博物館に収蔵されませ

んでした。その上、なぜさらに祠に入れられているのか、あまりよく分かりま

せん。モンゴル側の研究者に聞くところによりますと、エルデニ・ゾー寺院自

体も博物館の役割を果たしてはいるので、寺院内からカラコルム博物館に全て

のものを持っていくと、それはそれでやはり支障があるということで、それで

幾つか残し、そして幾つか持っていったのだろうということでした。いずれに

しても、今や「和林兵馬劉公去思碑」の全貌を見ることができなくなっている

のは残念です。以上のように、橘・野村の記録は、カラコルム関係の碑文が 20

世紀初頭にどこにどのようにあったのか、それを知る重要な記録でもあったの

です。

後に、もう一つ、橘・野村の記録が、エルデニ・ゾーの歴史的な意義を知

る上で重要だということをお話ししたいと思います。彼らの記録によりますと、

城の北門、彼らが入ってきた門と相対する門で、今は西門と呼ばれており、先

の図では下側にある門ですが、この門の外に、中国の商人が滞留して、お店を

構え、その家屋内に商品を陳列して客を待っていたというのです。商品はお茶

やお菓子、砂糖、綿布、米、火を付ける燐寸、線香、嗅ぎ煙草と、旅行者が必

要とするものが一通り揃うようになっていたようです。橘は、「この地は大集落

であるので、絶えず中国商人がやってきて滞留する」と述べています。探検隊

はこれによって旅行に必要な品を得ることができたのでした。

更にこの地を直轄するトシェート・ハンという王がいたのですが、彼から派

遣された委員に要請して、彼らはこれ以降旅するのに必要な駱駝や馬を借用す

ることができたということを述べています。実を言いますと、モンゴル帝国時

代のカラコルムにも商業地区がありまして、特に有名なフランスの修道士で

1250 年代にこの地を訪れたルブルク(Guillaume de Rubrouck)という人物の記

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録にも、そのことが克明に描かれているのです。モンゴル帝国時代も、このカ

ラコルムで、旅行く人達がそういう商人からいろんな必需品を買って、中国へ、

中央アジアへ向かったという記録が残っております。その意味では、カラコル

ムは帝国の首都というだけでなく、交通路、交易路の重要な拠点でもあったわ

けです。

実はこの交通路については、かつて、中国で言えば唐代の時代、8、9 世紀、

モンゴル帝国より更に 500 年以上遡る昔のことですが、オルドバリクというウ

イグル帝国時代の都がありまして、中国方面からやってきた使者が、そこを経

由して、中央アジアへ向かうという道があったことが分かっております。オル

ドバリクはカラコルムの近くで、現在も「ハル・バルガス」、モンゴル語で「黒

い城」という意味の遺跡が残っています。皆さんは、普通シルクロードと言う

と、唐の都、長安から、まっすぐ西へ向かって中央アジアへ出るという経路を

思い浮かべると思うのですが、実を言いますと、いったん北へ、まずはオルド

バリクに向かい、そこを経由して、一転、今度は西南に進路を変え、中央アジ

アへ向かうという、そういうルートがあったことが分かっておりまして、かつ

て「回鶻路(かいこつろ)」というふうに呼ばれていた道があったのです。「回

鶻」は「ウイグル」の音写です。

オルドバリクやカラコルムのあった地は、オルホン川流域で大変豊かな遊牧

地で、古来より突厥時代から、ここを根拠地として遊牧国家が隆盛を極めるこ

とが多いのですが、旅行く人達にとってみれば、中国からまっすぐ西へ向かう

より、オルホン平原を経由して、ここで遊牧民達から例えば運搬用の馬や駱駝

を調達したり、いろんな必需品を購入したり、直接荷物を運んでもらったり、

あるいは旅には危険がつきものですから、ボディーガードを依頼したりして、

中央アジアへ向かうというルートの方が実はより安全であったのです。

私は、このオルホン平原の都市、唐代のオルドバリク、モンゴル帝国時代の

カラコルム、そして 20 世紀初頭のエルデニ・ゾー寺院は、時代を超えて、同じ

ような機能を果たしていたと思っています。言ってみれば、エルデニ・ゾーは

寺院ではあるんですけれども、周りに集落を作る都市としても機能していたと

言いますか、交通の拠点としての寺院と言いますか、そういうことが大変重要

な役割としてあったのではないかと思うのです。これも橘・野村の記録によっ

て初めて分かることなのです。初めにも申し上げましたロシアの探検隊もいろ

いろ記録は残しているのですが、残念ながら、そんなことは何も書いていませ

んので、いかに橘・野村の記録が克明であり、重要であるかということが分か

っていただけるのではないかと思います。

橘・野村は、エルデニ・ゾーだけでなく、もっと広範囲にモンゴルのことを

記録しています。しかし、これまではそれがあまり注目されたことがなく、20

世紀初頭のモンゴル研究に彼らの記録が十分に活用されていない状況でありま

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す。今後は彼らのモンゴル調査の全貌を明らかにし、それを十分に活用して、

当時のモンゴルの状況を研究することが大きな課題ではないかと思います。

以上で終らせていただきます。ご静聴ありがとうございました。

入澤: どうも村岡先生、ありがとうございました。

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報告Ⅵ:「キジル石窟の壁画をめぐって」

報告者:宮治昭(龍谷大学文学部教授・龍谷ミュージアム館長)

入澤: このパネル 後の発表者でございます、美術史の立場から宮治昭先生

にキジル壁画についてのご報告をいただきます。では宮治先生、よろしくお願

いいたします。

宮治: 宮治です。今日の私の発表は大谷探検隊が調査、将来したキジル壁画

のみに焦点を当てた発表というのではなくて、「キジル石窟の壁画をめぐって」

というテーマで、キジル石窟壁画の研究の現状と展望という大枠の発表をさせ

ていただきます。

レジュメをご覧いただければと思いますが、1 ページ目から 5 ページ目まで

がレジュメで、あと参考文献が後ろに付いております。

大谷探検隊が収集した資料は、先ほどからお話にありますように、大きく 4

つの機関に分かれてしまいました。壁画に関しては、韓国の国立中央博物館に

一番たくさん収蔵されており、それ以外に東京国立博物館と、それから中国旅

順博物館にも少しありますが、龍谷大学には壁画はありません。大谷探検隊の

調査は残念ながら、まとまった報告書が刊行されなかったという事情がありま

す。ちょうど同じ時期にドイツの探検隊、グリュンヴェーデル(A.Grünwedel)

とル・コック(A.von Le Coq)を中心とした調査隊が詳しい調査をして、その

報告書が出版されています。それでドイツ隊の報告書によって補いつつ、大谷

探検隊の記録を検証していく必要があります。ドイツの収集品、特に壁画に関

しては第 2 次世界大戦のベルリン空襲でかなり消失してしまいましたが、消失

を免れたものはベルリンの国立アジア美術館に所蔵されています。1980 年以降

はキジルに現地調査ができるようになり、また中国自身の調査、研究、出版、

特に図録がたくさん出版されるようになりました。そして近年、ここ 10 年ぐら

い、キジル研究は盛んになってきています。

大谷探検隊収集の壁画の研究に関しましては、熊谷宣夫先生、および上野ア

キ先生が、当初どの窟のどこにあったかということを、ドイツ隊の報告書やベ

ルリン国立アジア美術館での調査に基づいてアイデンティファイされています。

それ以後は、大谷探検隊将来の壁画自身に関しての研究というのはそれほど無

いと思います。私は大谷探検隊将来壁画の研究というのは、現地のキジル石窟

の調査と、それからドイツが将来した壁画を合せて総合的に行う必要があるの

ではないかと考えています。

キジル石窟の年代が非常に大きな問題ですが、まず、ドイツ隊の見解があり

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ます。それはヴァルトシュミット(E. Waldschmidt)がブラーフミー文字の書体

と、それから壁画様式観とを合わせた形での年代観を提起しました。すなわち、

第 1 様式がAD.500 年前後、そして第 2 様式が 7 世紀という伝統的な年代観

です。これに対しまして、北京大学の宿白先生が放射性炭素 14 を用いた年代観

を出しています。宿白先生は、全体的に年代を大幅に引き上げる説を出してい

て、ヴァルトシュミットと宿白の年代観は大きく異なっています。これに関し

て、研究者の間でいろいろ議論があります。全体的に年代を上げようという見

解も出ていますが、放射性炭素 14 による年代観が必ずしも決定的なものという

訳ではありません。

近、イタリアのヴィニャート(G.Vignato)が現地調査に基づいて、石窟の

分布とか石窟構造を詳しく検討しまして、4 期に分ける新しい説を出していま

す。私はこの説に注目しています。壁画が描かれた窟は、6 世紀、7 世紀に大半

が集中しているというふうに考えます。5 世紀以前に遡る石窟もあると思いま

すけれども、僧房窟や装飾の無い窟が多いと考えられます。そうしますと、新

疆のキジル石窟とアフガニスタンのバーミヤーン石窟の年代がかなり重なるこ

とになります。バーミヤーンも年代が 6 世紀から 8 世紀と考えられますので、

オーバーラップする部分が多いです。

キジル石窟とバーミヤーン石窟を比較しますと、正方形のプランにドームを

乗せる窟(図1)、これがバーミヤーンにもキジルにもあります。また、ラテル

ネンデッケと言いまして、三角隅持送りの天井の形態、これもキジルにもバー

ミヤーンにも見られます。こうした石窟構造には両者の共通点が窺われます。

一方、バーミヤーンにある、八角形とか円形のプランはキジルにはありません。

それから大仏の窟、これはバーミヤーンに特徴的ですが、キジルにも 10 メー

トル前後ですけれども大仏窟がある、こういう点でも共通性があります。実は

バーミヤーンにも、38 メートルと 55 メートルの二大仏は有名ですが、それ以

外にも 10 メートルぐらいの高さの大仏があった仏龕が残っています。

大きく違うのはキジルに特徴的な中心柱窟と言われる石窟です(図2)。真ん

中に四角い柱を残して回廊をめぐる長方形のプランです。これがキジルには非

常に多く、全体の 7 割ぐらいを占めます。この中心柱窟という石窟構造はバー

ミヤーンには全く見られない、そういう違いがあります。中心柱窟に関しては、

中国北魏時代の敦煌莫高窟の中心柱窟と比較することができると思います。以

上のようにキジル石窟は石窟構造の上で、バーミヤーン石窟と一部重なります

が、異なる所も少なくありません。

次に、今日、主にお話させていただくのは、「壁画の主題の研究」です。壁画

の主題はキジル石窟に関しましては、仏伝図のほかに本生図・因縁説話図、い

わゆるジャータカ(Jātaka)、アヴァダーナ(Avadāna)、こういう説話図がたく

さん表されています。その研究史についてはレジュメに挙げておきました。説

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話図については後でスライドを見ながら少しお話ししたいと思います。

それから、説話図以外に見られるのは、私が「禅定と関わるモティーフ・図

像」と記したものがあります。キジル石窟の壁画が独自の発展を遂げるのは、

どうも禅定と関係するモティーフや図像ではないかと、私は考えています。禅

定と関わるモティーフ・図像が現れるのが、キジル壁画の大きな特徴と言える

のではないかと思います。

そして、「涅槃の美術」、キジルの、特に中心柱窟の奥壁のところに、決まっ

て涅槃像や涅槃図、さらには荼毘図や分舎利図、舎利塔などを表していまして、

回廊の奥の後廊は、いわば涅槃空間と言えるような、涅槃関係の図像やモティ

ーフで埋め、釈迦の「涅槃」を非常に重視する、そういう図像構成が流行しま

す。これがキジル独特の美術として発展を遂げると考えます。以上のように、

キジル石窟は主題的に見ますと、(1)仏伝図・本生図・因縁説話図といった説

話図と、それから(2)禅定に関わるテーマ、そして(3)涅槃の美術という

のが、特徴となっていると言えると思います。

スライドを見ながら、このことをご説明します。こうした主題もキジル壁画

の年代によって変化、発展したと考えられますので、 初にドイツ隊の年代観

について振り返っておきます。すでに述べましたが、これはヴァルトシュミッ

トによる壁画の編年分類で、決定的なものではないですが、現在でもなお有力

な指針を与えていると思います。すなわち、第 1 様式(第 1 期)が 500 年前後、

第 2 様式(第 2 期)が 7 世紀で、第 2 様式は更に 3 つぐらいに分かれます。こ

の編年を基に石窟の構造と壁画の主題を見てみますと、正方形プランにドーム

天井の窟、これが第 1 様式に多いものです。第 76 窟(孔雀窟)はその代表的な

窟で、窟の中央に塑造の仏像を設置していました。その仏像の周りを右繞する

形に合せて、周囲の側壁に誕生前後から涅槃後の場面まで 3 周にわたって仏伝

図が描かれています。キジルの説話図は、特に成道以後の場面、様々な説法の

場面や、神変の場面、そういう場面が非常に多く描かれます。それに加えて、

「涅槃」から「荼毘」、「分舎利」といった、涅槃後の場面も出て来ます。この

ような釈迦の年代記的な仏伝美術がキジル第一期に出て来るタイプです。

第 2 期になると、中心柱窟、すなわち長方形のプランで四角い柱を奥に堀り

残して、その周りを回廊で巡る石窟の構造が大変多くなり、後廊の奥壁に涅槃

図を描いたり、あるいは塑造の涅槃像を牀台の上に置いて、さらに回廊の側壁

に涅槃後の舎利信仰や仏法の継承に関わる場面で埋め尽くす、そして主室入口

の上には「兜率天の弥勒菩薩」を描くという図像構成がほとんど定型化してい

きます。

キジルの第1期、初期の段階では、先ほど見ました第 76 窟のように、石窟の

中央に仏像を塑像で造って設置して、この本尊を右繞する形で仏伝場面が展開

しました。こういう図像構成の源流は、ガンダーラにあります。スライドはロ

44

リヤーン・タンガイ出土の奉献塔(図3)ですが、ストゥーパの基壇の周りに

釈迦の生涯を表す伝記的な仏伝浮彫を並べています。こうしたガンダーラのス

トゥーパの基壇部にあった仏伝図(浮彫)を周囲の側壁に絵画に置きかえて描

きますと、キジル第 76 窟のような構成が出来ます。ですから、ガンダーラの仏

伝浮彫の構成が、何らかキジルの初期の段階で壁画の図像構成に影響を与えて

いるのではないかと思います。実際、個々の仏伝場面に関しても、ガンダーラ

の図像が色濃く影響を与えていることが分かります。しかし一方で、成道以後

の、様々な説法図とか神変図、そういうものはキジルで飛躍的に増えていきま

す。

次に、私が注目していますのは、禅定と関わるテーマが初期の第 1 様式の壁

画(図4)からすでに見られることです。キジル石窟では、ヴォールト(かま

ぼこ形)天井に山岳構図を配するのが大きな特徴です。例えば、第 77 窟を見ま

すと、大仏窟の回廊のヴォールト天井に、かなりパターン化して菱形になって

いますが、山岳構図を配し、その中に樹木や、池、鳥獣を描き込んでいます。

よく見ると、その中に仙人や、瞑想に耽っている僧、禅定僧が表されています。

あるいは瞑想の対象物を見つめる禅観僧も表されています。すなわち蛇がとぐ

ろを巻いているのを観想していたり、水に自分の姿が映っているのを見つめる

僧、さらには白骨観と関係すると思いますが、髑髏を観想している僧も見られ

ます。こういう観想をしている禅観僧の姿が山岳構図の中に配されているので

す。そして第 77 窟では、禅定僧や禅観僧が表された山岳構図を描くヴォールト

天井のすぐ下の欄楯のモティーフの上に「兜率天の弥勒菩薩」が出て来ます。

ところで、キジル壁画に特徴的な禅定僧の図像の源流もやはりガンダーラに

求めることができます。すなわち、ガンダーラの後期、3、4 世紀頃に制作され

た帝釈窟説法とか、帝釈窟禅定と呼ばれる大型の浮彫彫刻の作例がそれです。

仏陀が洞窟の中で深い瞑想に入っていた時に体から光輝を発したとされ、それ

が表されています。洞窟の周りに炎が立ち上がり、浮彫によっては仏陀の両肩

から火を出しているのもあります。これは帝釈窟という洞窟で釈迦が深い瞑想

に入っていった時に、忉利天から帝釈天が説法を聞くために、まず楽天パンチ

ャシカを派遣して、ハープの調べで瞑想から目覚めてもらい、その後に帝釈天

が釈迦のもとを訪ねて説法を聞いたという説話を表したものです。この説話を

表した仏伝図はかなり早くから制作されていますけれども、特にガンダーラの

後期には、正面向きの大きな礼拝像的な禅定仏を中心にし、その周りに山岳を

配して、そこに樹木や鳥獣を表す構図の浮彫が造られます。面白いことに猿が

仏陀の真似をして瞑想しています。実は、キジル壁画にも猿が瞑想に耽ってい

る図像があり、ガンダーラと関係が深いことが分かります。また、帝釈窟説法、

帝釈窟禅定の仏伝説話に象徴されるように、ガンダーラでは禅定・禅観の実践

が重要視されたことが考えられます。そして禅定僧・禅観僧はしばしば弥勒信

45

仰(特に上生信仰)を強くもっていたことが、禅観経典や『梁高僧伝』などか

ら知られます。このような禅定・禅観のモティーフや「兜率天の弥勒菩薩」の

テーマがキジル第 1 様式の壁画に見られるのです。

第 2 期(第 2 様式)になりますと、中心柱窟の石窟が圧倒的に多くなります。

長方形のプランで、入口を入った主室はかまぼこ形の天井をとります。そして

主室の奥、中心柱の正壁に仏龕を設けて、そこにおそらく禅定の仏陀像が塑像

で取り付けられていたと考えられます。仏龕の上の正壁上部には、穴がたくさ

んありますが、これは塑壁と言いまして、当初塑造で山岳、山をかたどってい

た跡だと推測されます。そして、かまぼこ形天井にも菱形の区画をとって山岳

構図を表し、その中に様々な説話場面を描いています。先ほど述べた第 1 様式

では、山の中に瞑想する僧や鳥獣、自然景を表していましたけれども、第 2 様

式になると、菱形構図の中に様々な説話図を嵌め込む形で描くようになります。

そして、中心柱の周りを回廊が取り付いて、回廊の背後の奥壁には涅槃図を描

くようになります。

キジル第 2 様式の代表として第 36 窟を見ましょう。主室のかまぼこ形天井の

両側には、もともと山岳をあしらった菱形構図の区画の中にたくさんの本生図、

あるいは仏伝説話やアヴァダーナ、因縁説話図を原則として一つの区画の中に

一つの話を、典型的な場面だけを取り上げて描いています。全部で 60 ぐらいの

話が菱形区画の中に散りばめられています。これらの説話図がどういう場面を

表したものかというアイデンティファイは、ヴァルトシュミットを中心にドイ

ツの研究者がサンスクリットやパーリの経典をもとに大体解釈していますが、

特に因縁説話図、アヴァダーナに関係したものは、まだ分かっていない場面も

少なくありません。漢訳経典で解釈する試みも中国の研究者によってなされて

おりますが、まだ十分な研究がされていないというのが実情です。しかし 近

では、イタリアのサントロ(A. Santoro)さん、それから、ドイツ(ポーランド

出身)のモニカ・ジン(Monika Zin)さん、日本の檜山智美さんといった方々

が、今迄不明だった図像や十分解釈できなかった図像を、新たに漢訳やトカラ

語文献なども使って新しい解釈をし、大きな成果を挙げています。

キジル壁画の中でもう一つ興味深いのは、天井の中心に当たる中軸部の絵画

です。そこに天象図と呼ばれる、天に関わるモティーフが出て来ます。太陽と

月、あるいは日神と月神、それから風神と雨神と見られるモティーフや、ガル

ダ(金翅鳥)が表されています。それから体の上と下から火や水を出して天空

を飛翔する僧、もしくは仏陀が見られます。これは僧なのか、仏陀なのかとい

う議論があり、独覚(Pratyeka-buddha)ではないかという意見もありますが、

いずれにしても、こういう天象図という独特の図像が見られます。この天象図

の図像は瞑想(禅定)の実践に関わるモティーフではないかと私は考えていま

す。鳩摩羅什訳の『禅秘要法経』などを見ますと、四大観、つまり地水火風の

46

イメージを基にした瞑想法が説かれていますが、そういうものと何か関係する

のではないかと考えています。これはまだ試論の段階ですけれども、禅定の問

題と天象図の図像の関係を考える必要があるのではないかというふうに私は思

います。

菱形区画の中にたくさんの本生図、仏伝図、因縁説話図が表されています。

その中でも特に本生図が目立っています。本生図はインドではバールフット以

来、大変好まれていますが、キジルでは釈迦前生の自己犠牲的な話、例えば有

名な「摩訶薩埵太子本生」、いわゆる「捨身飼虎本生」や、あるいは「灯明王本

生」や「慈力王本生」、「善目王本生」、「忍辱仙本生」、「月光王本生」など、自

己犠牲的なテーマがキジルでは非常にもてはやされています。一方で、インド

伝来の動物を主人公とするような本生譚、「大猿本生」や「六牙象本生」といっ

たバールフットやサーンチー以来の古い中インドの本生図も見られ、自己犠牲

的な本生図と並存しています。説話のヴァリエーションが大変豊富です。こう

した説話図の同定、アイデンティファイに関しては、古くはグリュンヴェーデ

ルの他に、日本では小野玄妙先生がされました。それから干潟龍祥先生も本生

経類の研究をされております。近年の研究については、先ほど申しました新し

い研究が出ています。しかし、全体としてどういう経典や思想と関わったのか、

まだ十分な解釈、研究はないように思います。

キジル壁画でさらにもう一つ面白い図像があります。それは宇宙的仏陀像、

Cosmological Buddha と呼ばれる図像(図5)です。第 13 窟や第 17 窟の、回廊

の入口の側壁にこの宇宙的仏陀像が表されています。立像の仏陀の身体の中に

仏教世界図を描く独特の仏陀像です。

この宇宙的仏陀像には、体の中央に須弥山図が描かれ、その下方には逃げま

どう餓鬼もしくは地獄の人物が表されています。上方には僧や仏陀が描かれ、

さらに周囲には化仏がたくさん表されています。仏陀の体躯に一種の仏教世界

図を表す、宇宙的仏陀像の尊格については議論がありまして、毘盧遮那仏では

ないかという説もあります。しかし、キジル石窟全体の壁画を見渡して、それ

らの主題はほとんどみな部派仏教、特に説一切有部と関係が深い図像・モティ

ーフですので、この宇宙的仏陀像もどうも禅定の問題、禅定による放光、仏陀

が禅定によって光りを放ち輪廻世界を見渡す、といったイメージと関係するの

ではないかと思います。これもまだ十分な解釈には至っていません。

次にキジルに特徴的な図像構成として、涅槃図と弥勒菩薩がセットになって

出て来るということを指摘したいと思います。回廊の奥壁には涅槃図(図6)

がよく表されます。キジルの涅槃図はガンダーラ以来の表現を基本としていま

すが、ガンダーラに見られない特徴もあります。すなわちキジルの特徴として

は、釈迦の体から荼毘の火が燃え上がっていること、それから讃嘆する神々と

して梵天・帝釈天のほかに、四天王が出て来ることです。四天王はガンダーラ

47

の涅槃図にも、インド内部の涅槃図にも出て来ませんし、バーミヤーンにも見

られません。しかし、キジルの涅槃図には四天王が出て来る。これは、どうも

仏滅後の仏舎利信仰や仏法の守護ということと関係するんではないかと私は考

えています。それからもう一つ重要なモティーフとして、足もとで跪く大迦葉

(マハーカーシャパ)が必ず描かれることで(図7)、大迦葉が釈迦の双足に礼

拝した時、ようやく荼毘の火が燃え上がったことを表していますが、それだけ

ではありません。大迦葉は釈迦の一番の長老として、仏滅後に第一結集を主導

し、さらに弥勒菩薩がこの世に下生する時まで、ずっと釈迦の衣鉢を守る、そ

ういう役割を負っていますので、釈迦と弥勒とを繋ぐ役割を果たす重要な人物

です。それでキジルの涅槃図では、決まって釈迦の足もとに跪いて礼拝して表

されます。

そして中心柱の回廊を巡って涅槃図を見た後、主室の入口上部に目を向ける

と、「兜率天の弥勒菩薩」が描かれているのです(図8)。このように涅槃図と

弥勒菩薩が組み合わされている訳です。

実は涅槃図と弥勒菩薩をセットにするという図像構成はバーミヤーンにも見

られます。バーミヤーンではドームの真ん中に弥勒菩薩を描いて、その周りに

は千仏をぎっしり表して、入口の上の壁面に涅槃図が小さく描かれています。

バーミヤーンでは説話図が一切出てきませんが、涅槃図だけが例外です。バー

ミヤーンでは涅槃図は仏伝図というよりは仏陀の滅、仏滅という観念を象徴し

ていて、兜率天の弥勒信仰、上生信仰と深く関わっているのではないかと考え

られます。仏涅槃後の弥勒信仰という意味で、バーミヤーンとキジルはオーバ

ーラップしますけれども、キジルの場合には、より涅槃の方に重きが置かれま

す。

後に、キジル壁画の、いわば帰着とも言うべき図像構成について述べたい

と思います。すなわち、中心柱窟の回廊の周りに「涅槃」、「荼毘」、さらに「阿

闍世王故事」、「分舎利」、「第一結集」といった、涅槃後の場面を物語的に描く

タイプの図像構成です。第 205 窟(第 2 区摩耶窟)とか 224 窟(第 3 区摩耶窟)

がそれです。回廊の内側壁(中心柱側)に描かれる「阿闍世王故事」、これは仏

陀に帰依した阿闍世王が、釈尊が亡くなったことを直接話すと卒倒してしまう

であろうと心配して、ヴァルシャカーラという大臣が一計を案じて釈尊の一代

記を描かせて、それを阿闍世王に見てもらい、釈尊が亡くなったことを知らせ

るという、そういう説話を表したものです。この説話は義浄訳『根本説一切有

部毘奈耶雑事』に出て来るもので、早くに松本栄一先生が同定されました。た

だ、現存の漢訳の訳出年代は壁画の制作年代よりも遅いもので、『根本説一切有

部毘奈耶雑事』の記述と合わないところもあります。このテキストではお堂に

釈尊の生涯を描いたということになっていますけれども、壁画では布に仏伝四

相図を描いています。このように壁画の図像とテキストの伝承とは異なる部分

48

があり、まだ十分な解釈ができていないと言ってもいいと思います。また、壁

画には須弥山が崩壊する様子を描いていますが、これは仏陀が亡くなることを

暗示的に表したものと言われていますが、これも前述のテキストには述べられ

ていません。しかし須弥山の崩壊の図像は他のキジル壁画にも出ており、仏陀

が亡くなることの前兆と言いますか、それを知らせるモティーフです。

それから「荼毘」の図ですけれども、キジルでは「涅槃」だけではなくて、

荼毘図を大変に重視しています。釈迦の遺体を棺に納め、荼毘の火が燃え上が

る様子を表していますが、周囲には涅槃図同様、仏弟子や神々が悲しむ姿が見

られます。ここで特徴的なのは人々が単に悲しむだけではなく、刀で顔や胸を

傷付けたり、頭髪を引き抜こうとしたりする、激しい哀悼の身振りが出て来る

ことです。これはもともと北方ユーラシアの、遊牧民の間で流行った英雄の死

を哀悼する身振りで、それが荼毘図に取り入れられているのです。

続いて「分舎利図」の図があります。第 205 窟の「分舎利」のドローナの部

分を大谷探検隊が将来しました。残りの大部分をドイツ隊が持ち帰ったわけで

すが、その部分は第 2 次世界大戦のベルリン空襲で消滅してしまい、現在、ド

ローナの部分だけが東京国立博物館にあります。「分舎利」図はガンダーラ以来

好まれていますが、釈迦亡き後の舎利信仰を高揚させる効果があったと思いま

す。 後に、「第一結集」の図があります。キジルだけに見られる図像で、大迦

葉がまだ悟りに達していない阿難を叱責する場面と、阿難が間もなく悟りを開

いて、第一結集を主導する場面とが描かれています。「第一結集」の説話も『根

本説一切有部毘奈耶雑事』に出てくる話です。キジルではこのように釈迦の入

滅と、入滅後の舎利信仰や仏法の継承に強い関心をもっていることが分かりま

す。

回廊を出て、主室入口の上に目をやりますと、そこにやはり「兜率天の弥勒

菩薩」が描いてあります。釈迦滅後の弥勒信仰が根強く存続したことが窺えま

す。

後、だいぶ急ぎまして、しかも時間をオーバーしまして申し訳ありません

でした。これで私の発表を終らせていただきます。

入澤:どうも宮治先生、ありがとうございました。

49

図 2 キジル第 38 窟(中心柱窟)

図 1 キジル第 76 窟(方形・ドーム窟)

図 4 キジル第 38 窟 ヴォールト天井 菱形構図と天象図

図 3 奉献少塔 ロリヤーン・タンガイ

出土 コルカタ・インド博物館蔵

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図 5 キジル第 13 窟

宇宙的仏陀像

図 6 キジル第 38 窟 後廊奥壁 涅槃図

図 7 キジル第 38 窟 後廊奥壁

涅槃図 図 8 キジル第 38 窟 主室入口上部

「兜率天上の弥勒菩薩」

51

【図版出典】

図1 中川原育子氏作成

図2 宮治昭『涅槃と弥勒の図像学』挿図 363

図4 新疆ウイグル自治区文物管理委員会・拝城県キジル千仏洞文物保管所編

『キジル石窟』(以降『キジル石窟』)一、1983 年刊、図 112

図5 『キジル石窟』三、1985 年刊、図 181

図6 『キジル石窟』一、図 143

図7 『キジル石窟』一、図 145

図8 『キジル石窟』一、図 83

52

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5. 『シルクロードの絵画 中国西域の古代絵画』大和文華館, 1988.

6. 『中央アジアの美術』大韓民国国立中央博物館編,学生社, 1989.

7. 『中国美術全集 絵画編 16 新疆石窟壁画』文物出版社,1989.

8. 『龍谷大学創立 350 周年記念 大谷探検隊将来 西域文化資料選』龍谷大学, 1989.

9. 『ドイツ・トゥルファン探検隊 西域美術展』東京国立博物館・京都国立博物館・朝日新聞社, 1991.

10. 『日中国交正常化二〇周年記念 旅順博物館所蔵品展―幻の西域コレクション―』京都新聞社,1992.

11. 『中国壁画全集 8 克孜爾 1』天津人民美術出版社, 1992.

12. 『中国新疆壁画全集 克孜爾 1-3』中国壁画全集編輯委員会編,天津人民美術出版社, 1995.

13. Giès, J. et Cohen, M., ed., Sérinde, Terre de Bouddha, Musée national des Arts asiatique- Guimet, Paris, 1996.

14. 『シルクロード大美術展』東京国立博物館編集,東京都美術館・読売新聞社, 1996.

15. 『絲綢路の至宝 旅順博物館 仏教芸術名品展』佐川美術館, 2002.

16. Painted Buddhas of Xinjiang, Photographs by Reza, with essays by J. Giès, L. Feugère and A. Coutin, The

British Museum Press, London, 2002.

17. 『西域美術(Arts of Central Asia: Special Exhibition)』韓国国立博物館, 2003.

18. 『旅順博物館展―西域仏教文化の精華―』青森県立美術館, 2007.

19. 『龍谷大学所蔵西域文化資料・旅順博物館展―西域仏教文化の精華―』青森県立美術館,2007.

20. 『中国新疆壁画・亀茲』新疆亀茲石窟研究所編,新疆美術撮影出版社, 2008.