東欧諸国の人口問題と人口政策 - Meiji Repository:...

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Meiji University Title Author(s) �,Citation �, 31(3): 61-78 URL http://hdl.handle.net/10291/12096 Rights Issue Date 1963-01-15 Text version publisher Type Departmental Bulletin Paper DOI https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

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  • Meiji University

     

    Title 東欧諸国の人口問題と人口政策

    Author(s) 吉田,忠雄

    Citation 政經論叢, 31(3): 61-78

    URL http://hdl.handle.net/10291/12096

    Rights

    Issue Date 1963-01-15

    Text version publisher

    Type Departmental Bulletin Paper

    DOI

                               https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

  • 東欧諸国の人口問題と人口政策

    (331)

    東欧諸国の人口問題と人口政策

    一 第二次大戦前の東欧諸国の人口

    士口

     第二次世界大戦中、戦火にみまわれた東欧には、戦争による傷あとが残されていた。大量の人命がうしなわれ、近隣に

    住んだ人々は四散し、住む家々も破壊されていた。こうした中で、東欧諸国の国境が改められ、その地上に住む人々とと

    もに国の移動が行われたのである。 「白い国境線」は、こうした背景を物語る悲話であった。

     とくに戦勝国ソ連に、旧東欧領土の九万八六五五平方マイルが併呑されてしまった。その内訳は、ポーランドの六万九

    四〇二平方マイル、ルーマニアの一万九二四一平方マイル、ドイツの五〇九七平方マイル、チェコの四九一五平方マイル

    が、ソ連領として併合されたことになる。ブルガリアは二九七二平方マイルの領土をルーマニアからえ、チェコも二四平

    方マイルをハンガリーから、ポーランドは三万九六六四平方マイルをドイツその他の国から、ユーゴは=二九〇平方マイ

    ルをイタリアからそれぞれえて、東欧諸国の領土とその上に住む人口とを加えた。戦前と戦後の東欧には、いちじるしい

    61

  • 東欧諸国の人口問題と人口政策

    第1表東欧諸国の人口の推移、1920~1945年

    (単位1000人)

    1920年 1925年 1930年 1935年 1940年 1945年名国

    4,825

    12,979

    7,950

    26,746

    12,407

    11,882

    5,314

    13,537

    8,299

    29,487

    13,299

    12,796

    1,003

    5,733

    13,964

    8,649

    31,472

    14,212

    13,780

    1,005

    6,102

    14,339

    8,985

    33,601

    15,145

    14,767

    1,088

    6,322

    14,713

    9,287

    15,901

    15,811

    1,122

    6,945

    14,152

    9,024

    16,406

    ア ルバ ニ ア

    ブルガリ アチェコスロヴァキア

    ハンガリ ードア

    ン ニ

    ラ マ

    一 心

    ポル

    ユーゴスラヴィア

    (出所)United Nations,

          160, 162.

    DemograPhic Yearboofe 1956, New York 1956. pp.

    変更がみられたのである。それに加えて、ユダヤ人の強制収容、労働力

    の強制徴用、戦争による死傷、国外移住、戦後の国内への復帰などの混

    乱のため、戦前と戦後の東欧人口を結びつける糸は、ほとんどなくなり

    がちであったといっても決して過言ではないであろう。ことに、東ドイ

    ツが創設され、さらに東欧全土がソ連圏に包まれた結果、戦前の東欧の

    面影はうすれてしまったのである。そして今なお、東ベルリンから西ベ

    ルリンへの移住者があるように(もちろん、西ベルリンから東ベルリン

    の移住者もいる)、東欧人口は西欧人口に編入されている。こうした不

    安定な社会状態であるため、東欧の客観的な人口の分析も、かなりその

    価値が減殺されるのである。

     こうした制約条件があることを考慮にいれながら、 九四五年までの

    東欧諸国の人口の動きをみることにしよう。第1表は、一九二〇~四五

    年の人口の推移である。これらは、ほぼ現領土にもとずくものであるが、

    東欧諸国の微妙な国境変更や第一次、第二次世界大戦の影響などを考え

    ると、これらの数字の信頼性には若干の疑いがあるかもしれない。J・

    W・コウムスは、 「東欧の人口変動」と題する論稿の中で、現領土の人

    62(332)

  • 東欧諸国の人口問題と人口政策

    口比較を行い、東欧全体で一九三八年の「億=六〇万人は一九四七年で一億〇三六〇万人に減少したとしている。その

    内訳は、同年次で、アルバニアが}○○万からご一〇万、ブルガリア六七〇万から七」○万、チェコ一四六〇万から一ニ

    ニ○万、東ドイツ一六六〇万から一八九〇万、ハンガリi九二〇万から九}○万、ポーランド三一九〇万から二三七〇万、

                                                 (1)

    ルーマニア一五七〇万から一五入○万、ユーゴ}五九〇万から一五七〇万にそれぞれ変化したとなっている。これによると、

    第二次大戦にもとずく人口減のとくにいちじるしいものは、ポーランド(約二六%減)であり、次いでチェコ(約一六%減)

    である。ハンガリーとユーゴも、わずかながら減少しているが、他はいずれも微増していることがわかる。これらはいず

    れも、第二次大戦がいかに大きなつめあとを残していたかを物語っているものである。

     現在の東欧諸国、すなわち、アルバニア、ブルガリア、チェコスロヴァキア、東ドイツ、ハンガリー、ポーランド、ルー

    マニア、ユーゴスラヴィアについてみると、それらの国々の戦前・戦中の人口の型は、およそ次の三つに分類できるもの

    であった。 (東ドイツについては、戦前・戦中の資料がないため、全ドイツの資料を代用することにする)。第一の型は、

    入口革命をへて低出生・低死亡の人口構造をもつ西欧型のもので、東ドイツ、ハンガリー、チェコスロヴァキアが含まれ、

    それらの国はいずれも西欧諸国と境を接している。第二の型は、出生率は緩慢に減少しているが死亡率も減退し、その結

    果として過渡的人口増加をしめすもので、ブルガリア、ポーランド、ルーマニア、ユーゴスラヴィアが含まれる。第三の

    型はアルバニアで、この国は出生率、死亡率ともに高く、文明の滲透があまりみられないと思われる。

     戦前、すでに人口革命を経験したチェコ、ドイツ、ハンガリーは、かなり低い出生率であった。たとえば、一九二五~

    二九年の出生率は、チェ三=一・九%、ドイツ一九・七%、ハンガリー二六・六錫とかなり低く、 「九三五~三九年では

    (333)63

  • 東欧諸国の人口問題と人口政策

    チェコ一七.一%、ドイツ一九.四%、ハンガリー二〇・一脇と低落していたのである。これらの国々の死亡率は、第二、

    第三の型の人口群よりわずかに下まわる程度であったが、出生率が低いため自然増加率は低く、「九三五~三九年でチェ

    コ三.九%、ドイツ七.五賜、ハンガリー五・八%とほとんど静止状態をしめしていたのである。

     戦前、人口の過渡的増加をしめしていたブルガリア、ポーランド、ルーマニア、ユーゴも、一九三五~三九年の出生率

    はこ四.二協、二五.四脇、三〇・二%、二七・九%をしめしており、第}の型の人口群よりやや高い出生水準を維持し

    ていたが、同年次の死亡率はそれぞれ=二・九%、}四・○%、一九・六%、一五・九%となっていた。その結果、目然

    増加率は、いずれも年間一〇%をこえていた。とくにルーマニアは、これら第二の型の人口群の中でも出生率、死亡率と

    もに高く、第三の型のアルバニアに近い人口構造だといえる。たとえば、一九三五~三九年のアルバニアの出生率は三二・

    四%であり、ルーマニアの三〇・二%とかなり接近している。しかし、残念なことに、アルバニアの死亡率は一九五一年

    以降のものをとらえうるにすぎず、アルバニアとルーマニアを比較することは困難である。

     けれども、ルーマニアの出生率は、ほどなく減少の一途をたどり、いわゆる人口革命を経過していったけれども、アル

    バニアは、第二次大戦後、死亡率を激減させて他の東欧諸国と同一水準にまで引き下げたが、出生率は逆に反騰をしめし、

    一九五五年には四四.五賜となっていることからみても、その人口段階にはルーマニアとかなりの隔差があることが理解

    される。

     こうした人口状況が、戦前の東欧諸国の人口の姿であった。

    64(334)

  • 東欧諸国の人口問題と人口政策

       二 第二次大戦後より一九五五年までの人口の推移

     第二次世界大戦後の東欧諸国の領土変更は、そこに住む人口をも移動させ、東欧全土でおよそ一七〇〇万人を失った。

    その数は、 一九三八年当時の東欧人口の一三・四%にのぼるといわれている。東欧人口の戦争による被害も大きく、現領

    土の戦死者は三六〇万人にのぼり、それ以外に、二七〇万人のユダヤ人が殺害された。国境の変更や共産圏の支配から逃

    れようとして移動した人口も大きく、正確にはほとんどわからないが、東欧圏内移動人口は四四〇万人以上と推定され、

    その上、圏外からの移入者は二九〇万人をかぞえるという。しかし圏外への移出者も大きく、その大部分は西ドイツもし

    くは西ベルリンであるが、入四〇万人にのぼった。

     東欧全土の一九三入年の総人口一億=六〇万人は、一九四七年には八〇〇万人も減少していた。けれども、戦後の生

    活が安定しはじめると、東欧人口は次第に自然増加によってふくらみはじめ、 一九五五年前後には戦前の水準に復帰して

    いた。その中で、とくに自然増加率の高かった国は、やがて過渡的増加の段階に入りこんだアルバニアで、一九五二年の

    一九.六%を除いて、他の年次ではいずれも、こ○%をこえ、一九五六年には三〇・四%の自然増加率をしめしていた。

    第二の型の人口群であるブルガリア、ポーランド、ルーマニア、ユーゴでは、出生率も下落したが死亡率も下落したため

    に、ほとんど年間一〇%をこえる自然増加率をしめしていた。しかし、チェコとハンガリーの自然増加率は低く、 一九五

    五年までチェコは一〇%の水準をわずかにこえる程度であり、ハンガリーは一九五四~五五年を除き、いずれも一〇%以

    下の水準となっていた。

    (335)65

  • 東欧諸国の人口問題と人口政策

     けれども、とりわけ小さな自然増加率であったのは東ドイツであった。戦後創設された東ドイツは、再生産年齢層の減

    少と適齢男子人口の絶対的不足などが主因となって、出生率はきわだって低く、 一九四八年の=二・○%を最低に、 一九

    五 年の一七・四%を最高にする範囲に止まっていた。しかし、老人が比較的多い東ドイツでは、死亡率もかなり高く、

    したがって人口の自然増加はきわめて低かった。東ドイツの低い増加率は、こうした人口構造それ自体にも起因していた

    が、それ以外に苦しい国民生活が消極的な産児ストライキをおこしていたのではないかと推定される。つまり、生活苦が

    出産を断念させ、避妊や堕胎へとみちびいたと推測させるのである。こうした東ドイツの自然増加の低さに加えて、人口

    の社会減によってさらに人口増加が停滞させられた。東ドイツの資料によれば、東ドイツからの移出民人口は、 一九五〇

    年九月以降一九五七年まで、 一五四万九〇〇〇人にのぼるという。}方、西ドイツの資料によれば、同年次の東ドイツか

    ら西ドイツへの移住者は↓=七万一〇〇〇人と算定されている。これらはいずれも、西ドイツから東ドイツへの移住人口

    を差しひいたものであるが、両統計ともに政治的色彩をおびているためどちらが正確だとは判断できず、おおよそ二〇〇

    万人前後と思われる。けれども、こうした二〇〇万人の人口は、主として労働力の供給者であり、あるいは再生産年齢に

    あるものが多いと推定されるので、東ドイツにはかなり深刻な打撃を与えているものと予想される。

     こうした背景の下で、東ドイツをはじめ多くの東欧諸国は、西欧諸国と同じように、多産をもたらすような家族手当制

    度をととのえていたのである。しかし東欧諸国の出生力水準は、アルバニアを除いて、低落する一方であった。東ドイツ

    は、その人口構造のゆがみのゆえに、出生率が上昇しないのは理解できるが、他の諸国も、たとえば、ポーランドは一九

    五三年以降、ユーゴは一九五一年以降三〇偏の水準を割り、他のブルガリア、チェコ、ハンガリー、ルーマニアは戦後一

    66(336)

  • 度も三〇%の水準をこえることなく、時には二〇%を割ることさえあった。戦前、高い出生率を維持していたルーマニア

                                                        初

    も、一九三入年には二八・三%、以来二〇~二五%前後をさまよっている。                   ㊤

     こうした出生力水準の低下は、どのような手段によったのであろうか。 「ブルジョアが発明した人食いの理論」と非難

    された産児制限によったのか、あるいは、堕胎によったのであろうか。これらを推測するために、当時の東欧の社会状況

    をふりかえってみよう。

    東欧諸国の人口問題と入口政策

    三 東欧諸国の人口政策

     東欧諸国は共産圏に編入され、ソ連の指導下にあったため、東欧社会はソ連と同じようないとなみをつづけていた。人

    口政策について言えば、一九五五年までのソ連は、堕胎を禁止し、多産を奨励していたのである。けれども、とくにソ連

    の都市においては、かなり受胎調節が普及し、またヤミ堕胎がはびこっていた。この状況から類推して、東欧諸国の多く

    は堕胎を公認することなく、出生を奨励したが、国民の間には受胎調節が普及し、またヤミ堕胎も多かったものど思われ

    る。しかし、一九五五年以前においても、ユーゴがコミンフオルムによって批判されたように、ソ連とは異なった人口政

    策をとる国もあったとみることができよう。ソ連よりもおそらくより西欧文明化されていた国の多い東欧諸国では、受胎

    調節も普及していたであろうし、またソ連と同じように、ヤミ堕胎もみられたことであろう。ことに、戦中戦後急速に出

    生率を引き下げたブルガリアやルーマニアには、こうした手段は急速に拡がったものと思われる。そして、共産主義が常

    に用いるスローガンである反マルサス主義、新マルサス主義攻撃をとりながらも、他方では、西欧流に人口増加の逆転的

    67

  • 東欧諸国の人口問題と人口政策

    形相、つまり、人口激増が経済発展に及びす規制作用をも認めるという態度をとっていた国もあったものと思われる。

     こうして、一部分の違和感はあるが基本的にはソ連の動向に同調した東欧諸国では、受胎調節とヤミ堕胎が主因となっ

    て出生率を低くしたものと思われる。ただし、これには、東ドイツとアルバニアは例外である。というのは、東ドイッは

    前述したように、再生産年齢層と男子の不足という人口構造のゆがみが出生力水準を低める原因の一つを形成していたし、

    また、アルバニアでは、四〇%前後の出生率という生理的限界に近い点にまで出生率を高めているので、避妊も堕胎もほ

    とんど生活の中に定着していないと思われるからである。

     こうした状況の中で、ソ連は一九五五年十一月にこれまでの「堕胎禁止令」を廃止して、堕胎を公認した。その公認の

    理由は、婦人の保護にあるとされた。というのは、堕胎を公認すれば、堕胎回数を少なくするよう指導できるし、また、

    ヤミ堕胎をなくして、これにともなう弊害を除去できると考えられたからである。やがて翌一九五六年には、かのスター

    リン批判がなされた。ソ連の支配からぬけでようと、東欧諸国はうごめきはじめた。が、ほどなくその動きは封ぜられた。

    こうした中で、東欧諸国は、ソ連にならって、次々と堕胎を公認していった。こんにちにいたるまで堕胎を公認していな

    いのは、東欧では東ドイツとアルバニアだけである。東ドイツが公認しない主な理由は、深刻な人手不足を反映している

    と推定されるし、アルバニアは回教の農村人口が多いためと推定される。

    そこで、ソ連の堕胎公認を受けいれた東欧諸国がどのよ・・な合政策をと・たかを次にみることにしよ.犯・まず・ブル

    ガリアをみよう。ブルガリアが堕胎を公認したのは一九五六年二月であり、ソ連の「堕胎禁止令」廃止後わずか三月をへ

    たにすぎなかった。これまで、幾百幾千人の婦人が金銭目当のヤミ堕胎によって健康をいためつけられていたため、堕胎

    68(338)

  • 東欧諸国の人口問題と人口政策

    の公認は多くの人々に喜んで受けいれられた。そして堕胎よりもさらに、母体をそこねないものは避妊であるとして、避

                                                          鋤

    妊の必要も強調された。こうして対策をとるとともに、ブルガリアはまた、母性の表彰と子供の扶養手当支給制度を整備 ㊤

    し、一九五七年一月からこうした手当を増額さえしたのである。

     チェコスロヴァキアにおいてはどうか。この国の年間平均堕胎件数は、 九五五~五七年の各年次で三万五〇〇〇~三

    万七〇〇〇件をかぞえていた。一九五七年十二月、堕胎を禁止していたこれまでの法律はいちじるしく緩和され、母体に

    危険なとき、高年齢の婦人、多数の子供をもつ家庭、未亡人、不治の病の夫をもつ婦人、崩壊した家庭、子供を扶養する

    ことが婦人にとってあまりに重荷であるとき、暴行によって妊娠したときなどの揚合の人工妊娠中絶を認める新しい法律

    が制定された。そして、未婚の婦人が妊娠して「困難な状況」となる場合にも堕胎は認められた。こうして堕胎が公認さ

    れた結果、出生率は減退していったが、それに反比例して堕胎件数は増大し、一九五入年には八万入入四二件、つまり全.

    妊娠の二七%が堕胎されたと報告されている。これは、出生数一〇〇につき三七の堕胎があったということである。 一方、

    チェコスロヴァキアでは避妊もすすめられた。産児調節センターは、 一九五七年、プラハで開設され、健康上の理由と生

    活上の理由から避妊を熱心に望む婦人に、助言と避妊方法とを与えるようになった。そしてプラハのこのセンターには、

    将来の受胎調節指導員を養成する機関をも設けた。堕胎をできるかぎり防止して、それを避妊におきかえようと、避妊の

    利点が強調された。男子用の避妊器具は充分に供給されていると判断されているが、国家統計局の調査によれば、二〇歳

    以上の既婚夫婦でわずか二〇%が使用しているにすぎないため、婦人用の器具を国内で増産し、これによって堕胎を防止

                                                          69

    しようとしている。こうしてチェコでは、堕胎を公認し避妊を訴えている。そのため、出生率はかなり下落している。け

  • 東欧諸国の人口問題と人口政策

    れども、このことから、チェコが人口増加を抑制していると解釈されてはならないように思われる。というのは、チェコ

    ではなおいぜんとして、課税や家族手当制度などで、多産政策をとっているからである。

     ハンガリーはまた、多くの東欧諸国がそうであったように、ソ連とほぼ同じ路線をたどってきた。一九四九年に法律を

    制定して、医師が認める揚合のほか避妊器具の販売を禁止したハンガリーは、一九五〇年代に多産政策をとっていた。第

    二児以降十三児まで逓増する出産手当を現金で支給し、独身者や無児夫婦から税を徴収した。堕胎は法律によって禁止さ

    れていたが、他の東欧諸国やソ連でみられたように、ヤミ堕胎が横行していた。そこで一九五三年、ハンガリー首相は法

    務大臣に、従来の堕胎禁止法をさらに徹底して厳格にする法案を議会に提出するよう指示した。こうした状況はただちに

    出生率にはねかえり、一九五二年の一九・六%は、一九五三年に一=・六%、一九五四年には二一二・○%と反騰をしめし

    たのである。受胎調節も影をひそめた。しかし、ソ連の堕胎禁止令が廃止されてほどなく、ハンガリーも、一九五六年一

    月に、母体が危険な場合や個人的遺伝的理由その他の重大な困難がある場合の堕胎を公認した。それにともなって、従来

    きびしかった避妊も緩和され、避妊器具の製造と低価格での販売が認められるようになった。しかしハンガリーでは、避

    妊よりも堕胎を激増させた。一九五〇年の堕胎は、出生数の一八%であったが一一九五六年には六四%に激増し、やがて

    出生数よりも多い堕胎数を記録するようになった。出生率も減退していった。それらの推移については、第2表が明らか

    にしている。

     けれども、このことは、ハンガリーが多産政策を放棄して人口抑制にのりだしたと判断してはならない。というのは、

                                    「

    ハンガリーでも、多くの子供をもつ母親を表彰し、扶養手当を支給していたからである。むしろ最近では、家族手当を増

    70〔340)

  • 東欧諸国の人口問題と人口政策

    第2表 ハンガリーの堕胎数,1950-1958年

    出生100につき堕胎出生数堕胎数

    次年

    18

    @20 24 21 26 37 64 97

    107

    195,600

    190,600

    185,800

    206,900

    223,300

    210,400

    192,800

    167,200

    82,500

    36,000

    37,800

    43,700

    42,700

    58,300

    78,500

    123,600

    162,900

    88,500

    19501951195219531954195519561▼957

    1958(前半)

    (出所)Milbank Memorial Fund, Population Trends in Eastern Europe, the

         USSR and Ma in land China. New York 1960, p.194.

    額さえしたのである。堕胎は、さらに緩和され、無児夫婦の課税も廃

    止した。社会主義社会に、受胎調節が必要であるかどうかの議論が展

    開され、家族計画運動も活発となった。保健大臣は、家族計画につい

    てのパンフレットを三〇万部印刷して配布した。そして、学校、住宅

    などと結びつけて、人口増加問題を扱う主張もみられたのである。

     ポーランドもまた、一九五六年四月に堕胎を公認した。というのは、

    ポ:ランドでも、それまでヤミ堕胎はきわめて大規模に横行し、年間

    およそ三〇万件をこえていたからである。一九五六年までに緩和され

    た堕胎は、秘密のうちに処置されたヤミ堕胎を減少させ、これまで損

    われた母体をいちじるしく保護した。しかし、病院で扱った堕胎件数

    は、一九五一年の七万二〇〇〇件、一九五五年の一〇万三〇〇〇件が

    一九五七年には二〇万件に上昇した。ヤミ堕胎は二〇%減少し、それ

    による死亡者を四五%救った。こうした状況の中から、ポーランドで

    も避妊を訴える世論がたかまった。しかし、多くの東欧諸国で受胎調

    節運動が展開さた場合、それは堕胎を防止することに主眼がおかれ、

    いぜんとして多産政策が堅持されているのであるが、ポーランドでは

    (341)71

  • 東欧諸国の人口問題と人口政策

    そうしたものとかなり異なる面をも持っていたように思われる。つまり、ポーランドではこうした堕胎防止のための受胎

    調節はもちろん、人口増加そのものを抑制するという意図も含まれていた。ポーランドの出生率は、東欧諸国ではアルバ

    ニアに次いで高く、三〇%の水準以下とったのは一九五三年以降であり、】九五八年で二六・三%を維持していた。これ

    は同年のブルガリア一七・九%、チェコ一七・四%、東ドイツ一五・六%、ハンガリー一六・一%、ルーマニア一=・六

    %、ユーゴニ三・八%と比較すればかなり高いものであった。ところが死亡率は激減したため、自然増加率は二〇%の水

    準をわずかに下まわる程度であり、一九五入年にいたってはじめて】七・九%と下ったのである。こうした状況から、社

    会主義社会に人口問題はない、という従来の公式とは異なる雰囲気がかもし出されたのである。

     たとえば、ポーランドの有力機関雑誌N饗δO。ωb。匿8NΦは、】九五九年五月十七日、「人口増加の制限」と題する次

    のような論稿(執筆者ζ一Φo鎚ω一餌≦竃一①No鑓口犀o≦ω臨)を掲げた。

       次の七~一〇年間に、人口増加を戦前の水準にまで制限することは一般に望ましい。……一般の人々は、大規模な

      人口増加がもたらす経済的帰結、とくに消費について、つねに気づいているものではない。……住宅問題は、もし出

      生率に明白な規制がなされないなら、かなりの期間にわたって解決をみないことであろう。すでに六力年計画の下で、

      住宅事情が悪化したことをわれわれは知っている。現在の五力年計画にしても、ほとんどみるべきものはないであろ

      戸つ。

       出生制限政策は、ごく最近のうちに一人当りの消費という観点からみると西欧諸国に追いつく条件なのである。

       出生を制限する政策の採用は、投資という点から要求される問題であり、もっと大ざっぱに言えば、国民所得を消

    72(342)

  • 東欧諸国の人口問題と人口政策

     費と蓄積に分つ問題である。……

                                                          紛

       したがって、ここに産児調節普及運動がはたす決定的役割がある。新聞、ラジオ、映画、学校、社会組織その他を ㊤

      通じて、長期にわたる広汎で一貫した宣伝活動に従事することが必要である。……

     こうしてポーランドでは、社会経済に及ぼす人口増加のゆえに、産児調節が主張されはじめたのである。労働組合中央

    理事会の書記長も、一九五七年四月、子供がふえて一九五七年の家族手当総額が、六三億四〇〇〇万ズロティから七三億

    五〇〇〇万ズロティの範囲をこえてさらに増額されるようになれば、現在の市揚に追加的供給がないかぎり、市揚均衡は

    くつがえるであろう、とのべたのである。しかし、この家族手当総額は、出生減があまりなかったため、増大する一方で

    あった。このような情勢の中で、ポーランドの保健大臣は、一九五六年五月、薬局が避妊器具を販売するとともに、医師

    の処方箋によって他の避妊薬を売ることを認めた。これまで二つ計画産児センターがあったが、一九五入年四月には、産

    児調節協会(イギリスの家族計画連盟に準拠したものだという)がつくられ、いわゆる「荻野式」とよばれる周期利用に

    よる避妊法を普及させることを目的にして機能しはじめた。

    四 東欧社会主義と人口問題

     このように、東欧の人口と人口対策とは、国によってかなり異なった受けとり方をされている。そして、東欧諸国の多

    くは、ソ連と軌を一にする態度をしめしながらも、一方には西欧流の人口問題の受けとり方をかなりの程度までしめして

    いたのである。EECに対抗して、ソ連の援助の下にコメコン(東欧経済相互援助会議)がつくられ、西欧と対決する状73

  • 東欧諸国の人口問題と人口政策

    況におかれている東欧社会主義国の内部では、その地理的位置とまさに同じく、ロシアと西欧の中間に位置する考え方を

    しめしているようである。

     一九五五年のソ連の堕胎禁止令の廃止は、ほどなくこの衛星諸国にも同じような形で踏襲されたが、東ドイツとアルバ

    ニアだけはこれに服さなかった。東ドイツの人口不足は、フルシチョフのこの柔軟政策を受けつけえなかったし、アルバ

    ニアにおいても、回教の力がフルシチョフ路線を拒否したのである。このような状況は、とくにアルバニアにおいては深

    刻な問題をひきおこすであろう。というのは、農村人口の多いアルバニアでは、回教の影響もあって前近代的要因がこん

    にちもなお深く残存していると思われる。これが高出生率となって反映していた。しかし、アルバニアの社会主義化も、

    こうした出生率についてはほとんど拭手傍観するのみであった。出生率は、 一九五〇年現在でなお、四一・九%という高

    率をしめしていた。一方、同年の死亡率は九・八%に低落し、自然増加率は三二・一協となり、ほとんどこれまで記録さ

    れたことのないほどの率に達している。そして、 一九六〇年十月二日に実施されたセンサスによれば、すでに一六二万人

    をこえ、第3表で推定されているように、一九七五年には二四〇〇万になろうとしている。こうしたアルバニアの激増す

    る人口は、 一般に信じられているように、その社会主義化を促進しても、規制するようなことはないと言えるであろうか。

    しかし、こんにちまで、アルバニアは、人口抑制の動きをほとんどしめしてはいない。人口増加は、アルバニアの経済発

    展の阻止的要因となり成長率をにぶらせ、あるいは、過剰就業という形をとらせることになりはしまいか。社会主義社会

    に人口問題は存在するかどうかの長年にわたる論争に、アルバニア社会主義の現実は、どう反応をしめすのであろうか。

    東ドイツとは異なった古典的意味で、アルバニアの社会主義と人口問題は、注目すべき課題であろう。そして、おそらく、

    74(344)

  • 東欧諸国の人口問題と入口政策

    第3表東欧諸国の推計人口(単位 10万)

    1975年1957年名国

    1,375

      24

      90

      155

      168

     115

     379

     214

     226

    1,139

       15

      76

      134

      175

      98

     283

     178

     180

     アァアツ 一ド

        キ

    欧ニリ

        ア  リ ン

        ヴィ

     バガロ  ガラ

        ス ド

     ルルコ  ン [

        エ

     アブチ東ハポ

    ル ー マ ニ ア

    ユーゴスラヴィア

    (出所)Ibid., P。19.

    中国の三転四転した人口政策と同様に、アルバニアも、社会主義のイデ

    オロギーにこだわりすぎ、現実そのものを直視しない傾向をもたらしは

    しまいか。

    .他の多くの東欧諸国では、フルシチョフの堕胎の公認を、人口の規制

    作用にも応用しようとしている。もちろん、労働力人口の不足のゆえに

    人口増加を欲しているソ連が堕胎を公認したのは、ソ連の人口問題を苦

    慮したからではなかった。むしろ逆説的ではあるが、ソ連は人口過少に

    悩まされたからこそ堕胎を公認したといえる。というのは、スターリン

    時代のきびしい堕胎禁止は、ソ連の婦人たちをしばしばヤミ堕胎に追い

    やって死亡率を高めていたからである。それがどれほどの規模にのぼっ

    たかはわからないが、年間一〇〇万件、あるいはそれ以上にも及んでい

           (3)

    たものと思われる。このヤミ堕胎は、金銭を目的にする悪徳医師や医療

    機関以外の無知な人間によって秘密のうちに手術され、しばしば婦人の

    健康に害を及ぼした。堕胎する婦人の年齢層はもちろん経済活動人口の

    中軸をなすもので、ソ連では婦人労働力が大きな役割を果しているため、

    その損傷はかなり深刻だったのであろう。こうしてソ連では、労働力と

    (345)75

  • 東欧諸国の人口問題と人口政策

    人口を確保し増大するためには、逆に堕胎を公認することが望ましいと判断されたのである。したがって、ソ連では分娩

    費の無料化、出産報奨金、育児手当、母性の表彰制度など、いぜんとして(戦時中とくらべるとやや低落した傾向がある

    が)多産政策をとりながらも、堕胎を公認したのである。

     しかし、アルバニアと東ドイツを除く東欧諸国の実状はどうであったのであろうか。これらの国々は、ほどなくソ連に

    ならって堕胎禁止を緩和した。しかし、その意図は、ソ連と同じように、人口増加を欲するためにとられたかどうかには

    かなり疑問が残るように思われる。東欧諸国(以下、とくに断わりがないかぎり、アルバニアと東ドイツという、人口政策

    では異なった態度をとっている二国を除く)では、事実、いぜんとして多産政策と思われる諸措置をとっている。出産に

    対する充分な配慮、育児手当制度、多子母性の表彰制度など、人口増加を奨励する一面の諸法律をたしかにそなえている。

    しかし、一国の人口政策の帰趨は、こうした法律上の諸措置の有無と同時に、それがどのように運営されているか、また、

    国民にどのように受けとめられているかによって決定されるものである。こうした観点からみると、東欧諸国の人口に対

    する態度は、ソ連のそれとかなり異なるものをも内包しているように思われる。

     ソ連においても、都市周辺においては、少産の傾向があり、主として避妊や堕胎にょって人口増加が抑えられてきた。

    しかし、こうしたいとなみの原因をさらに掘り下げてみると、欧米諸国にこれまで共通してみられた都市化にともなう生

    活水準向上のデモンストレーション効果が、ソ連の都市周辺の住民にもみられたからではなかろうか。このことを裏返し

    て解釈すれば、生活に対する都市周辺居住者の不満が、少産となって反映し、政府の多産の呼びかけに協力しなかったこ

    とを意味しているとみることもできよう。

    76(346)

  • 東欧諸国の人口問題と人口政策

     けれども、こうした反政府的少産という行為は、東欧諸国にはあまり濃厚にあらわれていないように思われる。政府自

    体も、表面でとっている政策とは異なり、実際には、ハンガリーやポーランドでみられるように、人口再生産規模の縮少

    をのぞみ、こうした要請の下に堕胎を公認し、避妊を奨励しているように思われる。そして、フルシチョフ路線の一環と

    してとられた堕胎禁止令の廃止も、ソ連のように人口増加のためにではなく、人口減少のために利用したと思われる。

     こうした見方がもし妥当だとするならば、ポーランドでも時折みられるように、社会主義社会にも人口問題の存在を認

    め、それと真剣にとりくみつつあることを証左するものであろう。これまで伝統的な社会主義理論、特にマルクス・レーニ

                                   ヘ  ヘ  ヘ  ヘ

    ン主義は、徹頭徹尾、人口理論を拒否しつづけてきた。中国も、こうした観念論的人口理論のゆえに、迷い、悩みつづけ

    てきたのである。しかし、東欧は、人口激増のこの傾向を率直に認め、新しい社会主義の方向をさぐりはじめているとい

    えよう。事実、人口問題の処理の仕方からのみ見て判断するかぎり、東欧は、ソ連よりも、欧米型に、より接近している

    ように思われる。そして、こうした人口の動向は、東欧全体の諸傾向を反映した結果あらわれているものだとするならば、

    東欧自体も、現在、大きく西欧化しつつあるということが言える。

     こうした推論は、資料がきわめて限定されている東欧の事情からみて、かなり危険の多いものであることは明らかであ

    る。しかし、東欧諸国が現在、かつて欧米諸国がたどったと同じような人口段階を経過しつつあることは、まことに興味

    深いし、また、こうした人口の動きが、社会や経済に規制されながらも、反対に、社会や経済にたいしてどのような影響

    を与えてゆくかをみることも重要であろう。

    (347)77

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    78

    東欧諸国の人口問題と人口政策

    (348)