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資 料 集 太宰治・旧制弘高時代ノート「化学」 青森県近代文学館 第 十

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  • 資 料 集

    太宰治・旧制弘高時代ノート「化学」

    青森県近代文学館

    第 十一 輯

     料

     集

    第十一輯

    青森県近代文学館

      太宰治・旧制弘高時代ノート「化学」

  • 平成三十年十一月二十二日

    資料集

      第十一輯

    太宰治・旧制弘高時代ノート「化学」

    目  

    太宰治・旧制弘高時代ノート「化学」����1

    解説 

    太宰治「化学」ノート

              

    安 

    藤   

    宏����44

  •    

    刊行にあたって

     

    青森県近代文学館では、本県近代文学への理解を深め研究に資するために、

    隔年で「資料集」

    を刊行しています。

     

    これまで、第一輯『有明淑の日記』、第二輯『太宰治・晩年の執筆メモ』、第

    三輯『太宰治・原稿「

    お伽草紙」

    と書簡』、第四輯『石坂洋次郎・原稿「

    マヨ

    ンの煙」

    』、第五輯『太宰治・旧制弘高時代ノート「

    英語」

    修身」

    』、第六輯『青

    森県近代文学年表』、第七輯『今官一・未発表作品集「月下点」他』、第八輯『寺

    山修司草稿「狂人教育」』、第九輯『北畠八穂草稿〈「ホーイ」ってあの返事。…〉』、

    第十輯『太宰治・明治高等小学校時代の学習ノート二種「豫習用讀方帖」「入

    学試験 

    運算」』を刊行し、全国の研究者や文学愛好者の方から好評を得てき

    ました。

     

    本年度は、第十一輯として『太宰治・旧制弘高時代ノート「

    化学」

    』を刊行

    します。近年、太宰治の学生時代の自筆ノートは刊行物や電子媒体による公開

    が進んでいますが、当館で所蔵している「化学」ノートは展覧会や図録等で一

    部が紹介されたことがあるだけで、全貌は明らかになっていませんでした。本

    資料集の刊行が、太宰治研究のさらなる進展に繋がることを期待します。

     

    刊行にあたり、お力添えいただきました関係各位に厚くお礼申し上げます。

      

    平成三十年十一月二十二日

    青森県近代文学館

  • 『太宰治・旧制弘高時代ノート「

    化学」

    』凡例

    □太宰治・旧制弘高時代ノート「

    化学」

     

    太宰治の旧制弘高時代の自筆ノート「

    化学」

    は、神書店製の大学ノートで、サイズは

    縦二一○ミリ、横一六五ミリである。化学とは無関係な落書きや書き込みが随所に見ら

    れ、後半は白紙の頁が続くが、終わり近くにも数か所、落書きが認められる。裏表紙見

    返しには、ガリ版印刷によるプリントが四枚挟み込まれているが、こちらにも同様に落

    書きや書き込みが存在する。

    □「

    資料集」

    の構成

     

    ノートは写真版で掲載し、見開き状態を少し縮小して一頁に収めた。白紙の頁は掲載

    を省略した。ガリ版印刷によるプリントは、当時から裏表紙見返しに挟み込まれていた

    ものか判然としないため、敢えてノートの裏表紙の後に掲載した。各プリントの大きさ

    は一枚目が縦一六三ミリ×横二三六ミリ、二枚目が縦一六一ミリ×横二三〇ミリ、三枚

    目が縦二三五ミリ×横一六〇ミリ、四枚目が縦二四〇ミリ×横三三〇ミリと、まちまち

    である。そのため、実物よりも適宜、拡大・縮小して一頁に収めてある。

    □ノートの番号

     

    各頁の上部に〔1〕のように番号を付した。これは、ノートの通し番号である。〔1〕

    は表紙、〔65〕は裏表紙。〔32〕から〔59〕まで、〔61〕及び〔63〕は白紙のため掲載を

    省略した。〔66〕から〔72〕までは挟み込みのプリントであり、〔66〕と〔67〕、〔68〕と

    〔69〕、〔71〕と〔72〕がそれぞれ表裏という位置関係である。

     

    安藤宏氏の解説は、この通し番号を用いて説明がなされている。

  • 太宰治・旧制弘高時代ノート「化学」

  • ― 1 ―

    〔1〕表紙

  • ― 2 ―

    〔2〕�

  • ― 3 ―

    〔3〕�

  • ― 4 ―

    〔4〕�

  • ― 5 ―

    〔5〕�

  • ― 6 ―

    〔6〕�

  • ― 7 ―

    〔7〕�

  • ― 8 ―

    〔8〕�

  • ― 9 ―

    〔9〕�

  • ― 10 ―

    〔10〕�

  • ― 11 ―

    〔11〕�

  • ― 12 ―

    〔12〕�

  • ― 13 ―

    〔13〕�

  • ― 14 ―

    〔14〕�

  • ― 15 ―

    〔15〕�

  • ― 16 ―

    〔16〕�

  • ― 17 ―

    〔17〕�

  • ― 18 ―

    〔18〕�

  • ― 19 ―

    〔19〕�

  • ― 20 ―

    〔20〕�

  • ― 21 ―

    〔21〕�

  • ― 22 ―

    〔22〕�

  • ― 23 ―

    〔23〕�

  • ― 24 ―

    〔24〕�

  • ― 25 ―

    〔25〕�

  • ― 26 ―

    〔26〕�

  • ― 27 ―

    〔27〕�

  • ― 28 ―

    〔28〕�

  • ― 29 ―

    〔29〕�

  • ― 30 ―

    〔30〕�

  • ― 31 ―

    〔31〕�

  • ― 32 ―

    〔60〕 

  • ― 33 ―

    〔62〕 

  • ― 34 ―

    〔64〕 

  • ― 35 ―

    〔65〕裏表紙

  • ― 36 ―

    〔66〕挟み込みのプリント1枚目

  • ― 37 ―

    〔67〕66の裏

  • ― 38 ―

    〔68〕挟み込みのプリント2枚目

  • ― 39 ―

    〔69〕68の裏

  • ― 40 ―

    〔70〕挟み込みのプリント3枚目(裏は白)

  • ― 41 ―

    〔71〕挟み込みのプリント4枚目

  • ― 42 ―

    〔72〕71の裏

  • 解説 太宰治「化学」ノート �

    安 藤   宏

  • ― 44 ―

    高校時代の教科書・ノートについて

     

    太宰治の直筆資料の最後の〝宝庫〟と言われているのが、旧

    制中学、高校時代の教科書、ノート類である。この中にはさま

    ざまな自画像や落書き、句作や同人誌の構想などが記されてお

    り、青春期の自己形成の過程をうかがい知ることのできる貴重

    な資料なのである。とりあえずここでは弘前高校時代のものに

    ついて、これまでの経緯を簡単に振り返っておきたい。

     

    津島家の家長として太宰を生涯にわたって監督した長兄文

    治(一八九八~一九七三)は、戦後、青森県知事、衆議院議員、

    参議院議員を勤めた。昭和四一年、金木町の生家で保存してい

    たノート類を、氏のブレーンであり、青森県立図書館長、副知

    事などの要職を勤めた横山武夫(一九〇一~一九八九)に託し

    ている。横山は大正八年に青森中学を卒業、太宰の八年先輩に

    あたり、歌誌「アスナロ」を主宰。母校の青森中学に在職中、

    疎開中であった太宰に依頼して講演会を開き(昭和二一年二月

    六日)、その前夜に太宰が横山の自宅に一泊し、親しく懇談し

    た事実なども知られている(横山武夫『わが心の人々』昭44、

    津軽書房)。

     

    昭和四一年六月一七日付「毎日新聞(夕刊)」は、「青年・太

    宰治のノート公開」という見出しのもと、〈このほど兄、津島

    文治衆議院議員(略)が自宅にあった旧制中学から高校時代に

    太宰が使ったノート、教科書、辞書など約二百点(未整理)を

    アララギ派歌人、横山武夫氏(青森県立図書館長)に贈った。〉

    と報道し、内容を写真と共に紹介している。その後ノート類は

    「没後二十年太宰治展」(昭43・6、主催毎日新聞社、於・松坂

    屋)を皮切りに、数度にわたって公開、展示されたが、内容の

    具体的な調査は進展していなかった。

     

    ノート類に関して最初に全容が明らかにされたのは、太宰の

    知人によって保管されていた「英語」と「修身」の二冊であ

    る。平成一八年に公開されたあと、青森県近代文学館が委託管

    理を行い、同館刊行の「資料集」第五輯(平20・3)に影印が

    掲載された。その後この二冊は所蔵者から弘前大学(旧弘前高

    校)に寄贈され、同大では平成二二年に科研チーム「太宰治自

    筆ノート研究プロジェクト」を立ち上げ、「成果報告書」二冊

    が発表されると共に、平成一三年三月にノートの復刻版が刊行

    されている(弘前大学出版会刊)。

     

    これが一つの契機になり、平成二三年三月、横山氏の御遺族

    によって、同家に残されていたノートの全てが日本近代文学館

    に寄贈された。高校時代に関してはノート五冊、参考書一冊が

    これに該当する。同館はこれを機に「太宰治文庫」の主要資

    料をデジタル化する方針を決定し、平成二六年三月、教科書、

    ノート類に関してもその全ての頁が『オンライン版太宰治自筆

    資料集』として公開された(日本近代文学館編、雄松堂書店発

    売)。なお、その後平成二七年に津島家から高校三年次の英語

    教科書一点が、あらたに日本近代文学館「太宰治文庫」に寄贈

    されている。

     

    今回の「化学」のノートは平成七年に青森県近代文学館の特

    別展「太宰治」で初めて公開され、平成一〇年に同館の所蔵資

    料となったものである。今回、初めてその全頁が影印で「資料

    集」に公開されることになったのはまことに喜ばしい出来事で、

    研究のより一層の進展が期待される。なお、今回のノートを加

    えると、公共機関に収蔵されている高校関係の資料は、教科

    書・参考書二冊にノート八冊、合計一〇冊(高校時代のもので、

    それ以前をのぞく)、ということになる。今後、さらに非公開

    のノートの存在が明らかになることを期待したい。

  • ― 45 ―

    「化学」ノートの概要

     

    今回の「化学」のノートの表紙には「化学/若桑教授/弘高

    /文二/津島修治」という自筆の記載がある。当時の弘前高校

    の「課程表」(『弘前高等学校一覧�

    昭和三年四月~昭和四年三月』

    による)によれば、文科は自然科学に関して、第一学年で「生

    物、地質」、第二学年で「物理及化学」が必修科目になってい

    ることから、第二学年(昭和三年度)のものであることがわか

    る。担当は若桑光雄教授で、この年、理科の第三学年第二学級

    の主任を務めていた。若桑光雄(一八九六~一九六四)は当時

    三十代前半の新進気鋭の教員で、専攻は物理学。大学の教材を

    中心に、戦後も多くの著書を刊行している。

     

    授業は英語の化学入門書を教科書に、その内容を忠実に講

    述する形で進められたようである。“Chapter

    Ⅰ�Introduction „

     “Chapter

    Ⅲ�Periodic�law

    (周期率)„“ChapterⅣ

    �Radioactive�Substances „ 

    などの章立てがノートに見え、これらはさらに節

    に細分化され、講義の内容がテキストの英語表記を織り交ぜて

    筆記されている。各頁に太字の書き込み(赤字)が見えるのは、

    試験の前に要点を復習するために記入されたものであろう。な

    お、ノートには教員が謄写版で刷って配布したとおぼしきプリ

    ントが四枚挟み込まれている。一体にまじめに授業を受けてい

    ることがわかる内容で、一部で言われているような、〝学業放

    擲〟(昭和二年の芥川龍之介の自殺以降、学業への意欲を失い、

    デカダンスに陥っていたとする見方)とはほど遠い内容である。

    「落書き」について

     

    右とも関連し、高校時代の他のノートに比べると落書きは少

    ない部類に属する。ただ、その数少ない書き込みにはいくつか

    興味深い内容が含まれているので、以下、特に注目すべき点を

    あげておきたい。

     

    まず、ノートの扉の部分〔2〕に「多情則佛心」の語が大き

    く縦に二回、書き並べられている。これは里見弴の代表作とし

    て知られる、『多情仏心』(上下、新潮社、大13・4、�

    8)を踏

    まえてのものであろう(作中では「多情乃仏心」の表記)。こ

    れに関連し、〔20〕の上部余白にも「多情佛心」の落書きが二

    箇所見える。合わせてその横に「辻島衆二」の筆名が一〇回

    にわたって記され、自画像とおぼしき落書きも見える。「辻島

    衆二」は中学、高校時代の習作においてもっとも多く用いられ

    ていた筆名で、これら一連の落書きは、里見弴の作品が自らの

    創作にかける思いと関連して意識されていた事実を推測させる。

    ちなみに「多情仏心」は、里見独自の「まごころ哲学」を体現

    した概念で、情が多く移り気であることは、同時にまた広く慈

    悲の心を備えていることの証左でもある、という意味。主人公

    の藤代信之は、芸妓や女優らと多くの恋愛遍歴を重ね、そこに

    真心が存する限り、どんなことをしてもよいのだ、という信念

    を生涯にわたって貫いた。心からしたいことをする分には、何

    をしたっていいのだ、と言い遺して安らかに往生するその生き

    ざまには、自我やエゴを積極的に肯定する、白樺派的な哲学が

    顕現している。太宰が中学時代に主宰していた同人誌「蜃気

    楼」には武者小路実篤ら白樺派の影響が確かに見えるのだが、

    高校入学以降、その影響を受けた形跡はほかにあまり見られず、

    この書き込みはその意味でも貴重なものである。挟み込みのプ

    リントの二枚目表〔68〕にも「不俗是仙骨/多情則佛心」の書

    き込みがあり、この時期太宰はこの小説にかなり入れ込んでい

    たらしい。

     

    ちなみに「辻島衆二」の筆名は表紙にも二箇所見え、一箇所

    は丁寧に抹消され「小菅銀吉」に書き改められている。「小菅

  • ― 46 ―

    銀吉」は昭和四年二月以降に使い始めた筆名で、昭和三年度に

    使われたこのノートは、その過渡期を示すものとして興味深い。

    ちなみに人物の顔の落書きはこのほか〔1、表紙〕〔13〕〔17〕

    〔18〕〔21〕〔22〕〔25〕〔26〕〔28〕〔60〕〔64〕〔65、裏表紙〕、折

    り込みプリント一枚目表裏〔66、67〕にも見えるが、他のノー

    トに比べれば、これでもまだ控えめと言うべきであろう。興味

    深いのは〔64〕で、自画像に英文で�S.T

    sushima�

    という本名の

    サインが記され、さらに�Elem

    ent�

    の語が四箇所にわたって書

    き込まれている。授業内容を受けてのものだが、「成分、要素」

    を示すこの語は、どこかマルクス主義の組織論を連想させるも

    のでもある。なお、「津島修治」の英文サインは折り込みプリ

    ントの二枚目裏〔69〕、四枚目表裏〔71、72〕にも見える。

     

    落書きによってさまざまな仮面(ペルソナ)を作り続ける行

    為は、同時にそれによって背後の〝正体〟を担保し続ける営為

    でもある。これらは一個の表現者としての自覚にも深く関わる

    もので、ノートの人物画(仮面)の合間に本名、あるいは小説

    家としてのペンネームをサインしているのは、「作者」という

    ものが究極の仮面であるということ、またそれを意識的に演じ

    ていくことが小説家の宿命でもあるという意識が、この時期す

    でに萌芽しつつあったことを物語るものと言えよう。

    旧制高校生と芸妓と

     

    落書きの中の白眉は、旧制高校とおぼしき、学帽に羽織袴の

    出で立ちの若者が、芸妓を連想させる和装の女性と相合い傘で

    歩く姿を描いた〔62〕の画であろう。太宰の高校ノートに見ら

    れる落書きの中ではもっとも〝完成度〟の高い、入魂の出来映

    えである。この時期の太宰に多少とも通じている人間ならば、

    おそらくここから小山初代と太宰との交情を連想するにちがい

    ない。

     

    太宰が青森の花柳街に通い始め、浜町の小料理屋「おもたか」

    に通い、料亭「玉家」お抱えの芸妓紅子(小お山やま初代、当時一七

    才)と知り合ったのは、昭和三年、すなわち今回のノートを使

    っていた高校二年の夏頃であった。ちなみに初代と知り合った

    のは昭和二年の夏とする説もあるが、山内祥史は『太宰治の年

    譜』(大修館書店、二〇一二)で、鳴海和夫「太宰治氏の憶い

    出」(辻義一編『太宰治の肖像』楡書房、昭28)、平岡敏男「若

    き日の太宰治」(「信州白樺」51・52合併号、昭57・10)の回

    想をもとに、昭和三年の夏としている。初代は当初「野沢家」

    の住み込みだったが、野沢家が玉家に屋号を変えたときにはま

    だ半玉(玉代が芸妓の半額の者をいう)で、太宰と知り合った

    のは半玉から芸妓になった直後であったともいう。

     

    この時期の太宰は独自の江戸趣味に沈潜、韜晦しており、親

    しかった級友である三浦正次は、義太夫、花柳界への志向

    と、近松、浄瑠璃全集などを愛読していた姿とを証言している�

    (「太宰治と細胞文芸」、「太宰治全集」月報12、筑摩書房、昭

    31・9)。こうした粋人趣味は、「此の夫婦」(「(弘前高校)校

    友会雑誌」13、昭3・12)、「虎徹宵話」(「猟騎兵」6、昭4・

    7、改稿「(弘前高校)校友会雑誌」15、昭4・12)などの習

    作にも顕著であった。ちなみに「此の夫婦」は本名で書かれて

    いるが、他の江戸趣味の習作の多くは「小菅銀吉」の名が用い

    られている。

     〝相合い傘の図〟 

    は左翼的色彩の強かった当時の弘前高校の

    中で、深刻な階級的相克意識に苦しむ中、ほんのひとときの現

    実逃避を楽しんでいた太宰の姿を彷彿させるのである。

    (東京大学教授)

  • 平成三十年十一月二十二日

    資料集

      第十一輯

    太宰治・旧制弘高時代ノート「化学」

    目  

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    解説 

    太宰治「化学」ノート

              

    安 

    藤   

    宏����44

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