『白雲母』は昔話か? - Osaka City...

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『白雲母』は昔話か? 椿 1. アーダノレベノレト ・シュティフタ ー AdalbertStifter(1805-1868)の『白 BunteSteine(1853) 5 目の物語として収録されているが,乙 の物語集の他の五つの物語がすべてそ れ以前に発表された初稿の改訂であるのにたいし , [J白雲母』だけは , とく [J石さまざま』のために書かれ たも のであり , したがって ,他の表題を有 してはいない。 あるときは降琶を ともなったあらしから子どもたちゃ祖母をまもり , あるときは火事から男の子を救出した乙とにより ,素姓の知れぬ,とび 色の女の子が, りっぱな農場の家庭に出入りするようになる。父母はそ の予を愛情深 く慎重に教育して,社会化をはかろうとする。 乙の試みは 成功 するかにみえるが, しかし,結局失敗に終わる。 とび色の娘は突然, しかも永久に,彼らのもとから姿を消してしまうのである。 さて ,サイ ドラ- HerbertSeidler は,1972 年に公にされた, 戦後の シュ ティフター研究の報告の中で, I [J白雲母』にとっては , いまだいかなる個 別研究も欠けている J1 乙とを指摘している。 と こ ろ が , アイゼ、ンマイア- Eduard Eisenmeier によるシュティフターの文献目録によれば,そのよう な乙とはない。すでに 1964 年版には,戦前のものだとしても ,文献悉号2403 4695 の二つの文献が f 二つのよ献ヵ〈採録されているのである。ただし, は,該当する研究論文の文献は見可たらない。ザイドラーは,上記の研宅報 告において,[J続干 f J 1 に,乙 のような文献がザイドラー の自にとまらなかったのは, どうしてなの 103) . .

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『白雲母』は昔話か?

椿 銭 夫

1.序

アーダノレベノレト ・シュティフタ ー AdalbertStifter (1805-1868)の『白

雲母~ Katzensilber は , 物語集『石さまざま~ Bunte Steine (1853)に5番

目の物語として収録されているが,乙 の物語集の他の五つの物語がすべてそ

れ以前に発表された初稿の改訂であるのにたいし, [J白雲母』だけは,とく

~L [J石さまざま』のために書かれたものであり , したがって,他の表題を有

してはいない。

あるときは降琶を ともなったあらしから子どもたちゃ祖母をまもり ,

あるときは火事から男の子を救出した乙とにより ,素姓の知れぬ,とび

色の女の子が, りっぱな農場の家庭に出入りするようになる。父母はそ

の予を愛情深 く慎重に教育して,社会化をはかろうとする。乙の試みは

成功するかにみえるが, しかし,結局失敗に終わる。 とび色の娘は突然,

しかも永久に,彼らのもとから姿を消してしまうのである。

さて,サイ ドラ -Herbert Seidlerは,1972年に公にされた, 戦後の シュ

ティフター研究の報告の中で, I [J白雲母』にとっては,いまだいかなる個

別研究も欠けているJ1乙とを指摘している。 ところが,アイゼ、ンマイア-

Eduard Eisenmeier によるシュティフターの文献目録によれば,そのよう

な乙とはない。すでに1964年版には,戦前のものだとしても,文献悉号2403

と4695の二つの文献がf『続刊 1 ~ の1971年版には , 文献番号5273 と 5661p二つのよ献ヵ〈採録されているのである。ただし, [J続刊 2 ~ の1978年版には,該当する研究論文の文献は見可たらない。ザイドラーは,上記の研宅報

告において, [J続干fJ1 ~までのアイゼンマイアーの文献目録をあげているのに,乙 のような文献がザイドラーの自にとまらなかったのは,どうしてなの

く103)

. .

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だろうか。それとも,それらの文献は,彼の目からみれば,研究報告にとりあ

げるに値しないものなのだろうか。 なお, 最近出たナウマン UrsulaNau-

mannの書にも, w白雲母』に関しては,作品名が表示されているだけで,そ

れについてのいかなる文献もあげられていないし,アイゼンマイアーの『続

干fJ2 ~以降, リンツ (Linz)のシュティフター研究所から出ている『季刊誌、』

同, w白雲母~ ~r関する文献は見出し得ないのである;一方, 日本国内に

おいては,先のザイドラーの指摘はあてはまるようである。谷口泰氏によっ

てまとめられた「日本におけるシュティフター研究文献 (1936~1977)J8の

「個別作品研究Jの項を探しでも, w白雲母~ ~r関するものは 1 件もない。

それ以降今日まで, w ドイツ文学~ 62号の「寄贈文献目録Jには,そもそも

シュティフターに関する文献はあげられていないし,同誌の63,64号のそれ

にも, w白雲母』に関する文献は見出されないからである。

個別作品研究については以上のような状況であるが, しかし,シュティフ

ターに関する伝記や評論などの全体的叙述や文学史においては, もちろん

『白雲母』もとり扱われている。それらの記述の中でとりわけ自につくのは,

『白雲母』と昔話 (Marchen) との関連である。 すなわち,ハイン Alois

Raimund Hein, ミヒェノレス Josef Michels,ノレンディング Erik Lunding,

ブラッコォ「ノレ EricA. Blackall やヴィノレトボノレツ RudolfWildbolz な

どにおいて,昔話の影響や昔話的な作用に言及されており,また,短篇小説

史においても,クライン Johannes Klein にしろ,ロッケマン FritzLocke-

mann ~r l_;ろ,ヴェーパー AlbrechtW'ぬer~r しろ? 昔話のモティーフや

昔話風の語りに触れられているのであるが,なかんずくヒンメノレ Hellmuth

Himmelは, i昔話『白雲母』 J(dasMaden kdzmsdufflと呼んでい

るのである。

以下5おいて,私は,有名なリュティ MaxLuthiのヨーロッパ昔話に関

する理論を援用して, w白雲母』に見出される昔話的なものを摘出しつつも,

しかし,乙の物語を昔話そのものに終わらせてはいない,シュティフター独

自のものを,語り方との関速において,明らかにしたいと思う。

11.昔話的なもの

ところで,プラハ版シュティフター全集第 5巻の編者の一人であるエーゲ

ラ-Franz Egererは,その「まえがきJ(Einleit叫)の中♂ 『白雲母』

と昔話や伝説との結び、つきをかなり詳しく記述している。それをも参酌しつ

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『白雲母Jは昔話か? - 21一

っ,乙の物語における昔話的なもよを,以下において分析する 乙とにしたい。

1. くるみ山 (Nusberg)

子どもたちが祖母に連れられてのぼるくるみ山は,まさに昔話の舞台であ

る。その名称、自体, 有名なグリム昔話『めんどりの死~ Von dem Tode des

Huh仙のzs(80番ダの「くるみ山」を想起させる。「いちど山J(Erdbeeren-かえで

berg, 228)や「楓の山J(Berg der Ahorne, 269)という名前も,たぶんそ

れに相応してつけられたものであろう。くるみ山へのぼる途中で,あるいは

その山の上で,祖母は子どもたちにいろいろな話をしてきかせるが,昔話的

なものとの関連からは,つぎの四つの挿話があげられよう。

1)ハーゲンブーハー (Hagenbucher)の家に奉公にきた, とび色の顔をし

た体の大きい女中の話 (226-227)

「乙れは真の童話 (fairy-story)である。論理を軽蔑するかのように,それは,

すべての民間伝承 (folklore)のエッセンスである,あの暗うつな力を象徴的にほ

のめかしている。」

2)カーレスベソレゲ (Karesberge)の村人たちに雇われた,ゃぎ番のこびと

の話 (227)

昔話や伝説の中では,尽力が報われると姿を消してしまう,乙びとや家の精の

モティーフに頻繁にでくわすものである。乙の挿話の結末に似た箇所は,また,

グリムの昔話 f乙びとJ Die W ichtelmet.nner (39番)の「第1の話J(Erstes

Marchen)の終りの部分にも見出される。

3)おんどりとめんどりがくるみ山にのぼったとき,めんどりがとてものど

がかわいたので,おんどりが水を運んできてやった話 (230)

まさにグリムの『めんどりの死』である。

4)ゼ ッセノレ森 (Sesselwald)の,銀が流れているハノレ トの洞穴 (Harthぬle)

の中で,鉱石をみつけた羊飼いの話 (233-234)「昔話の金属的なものや鉱物的なものすべてへの愛着,総じていえば固形物質

への愛着は,昔話に固定した形式と特定の型態を与えるのに大いに役だってい

る。〔 ・・ ]金属類のなか?' 昔話は, 高貴でまれなものを乙のむ。すなわ

ち,金や銀,銅などである。」

ヴィノレトボノレツも述べているように,げに「くるみ山は,昔話の山 (Mar-

chenberg)である。そのようなわけで,そ乙にはとび色の女の子が現われる

のである」。,

(105 )

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2.子どもたち

「昔話は固定した公式でもって活動する。昔話は1,2, 3, 7や12という数

字をとのむ し.• ]主人公や女主人公は単独か3人のうちの最後のひとり (3人

の兄弟姉妹のいちばん末の弟妹〉である。了

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くるみ山で祖母からいろいろなお話をきかせてもらう子どもたちは,i人の姉弟である。彼らは,エマ (Emma),クレメンツィ ア (Clementia),ジー

ギスムント (Sigismund) という名前をもっ ていながら,ほとんどいつも,

それぞれ「ブロンドの子J(Blondkりpfchen),i黒毛の子J(Schwarzkりpf-

chen), iとび色の毛の子J(Braunkりpfchen)と呼ばれ:iとび色の女の子」

(das braune Madchen)に相応して,類型化されている。しかも,彼らのう

ち,あらしの際とび色の女の子の首に両腕をまきつけて小川を渡してもらっ

たり ,火事の際彼女によって救出されたり,物語の結末で「どうかあの患に,

乙の世でとてもたくさんのしあわせが与え られますように」〈29i〉と祈った

りして,と び色の女の子ともっ とも強い関わりをもつのは,呼称の「とび色

の.• • • . • Jが暗示 している とおり , 3番目の,末の弟なのである。

なお, w白雲母』においては,無数の縮小名詞が見出されるのであるが,

上述の "一← 凶 pfchen“の如き縮小名詞は,実際それを 乙のんで用いる昔

話とのつながりを示唆するもの と言えよよ:

3. とび色の女の子 (dasbraune Madchen)

「昔話でもわれわれは rものどとの背後J (hinter die Dinge)を見ない。わ

れわれが見るのは,話の筋をになって行動している図形的登場人物たちだけであ

って,彼らがどとからきたか,ど乙へゆくのか,またなぜか,なんのためか,な

どについては何も知らない。しかし,われわれは,それらの図形的登場人物が,

話の筋の経過のなかで,いつもぴたりと正しい場所に現われ,自分にとってなす

べき重要な ととがなくなって しま うとすぐに消えていく のを,みるのである。」

。 o 。子 どもたちがよく, 皮をむいた白い, かぎのついたはしばみの枝 (Hasel-

rute)を手にも って, 祖母といっしょにのぼったくるみ山で,あ る日 ,太 く

て古いは しばみの根っこ (Hasel wurzel)にすわっているとき, しげみの中

か らはじめて姿をあらわ し,祖母か ら円、ったいお前はどこの子なのJ(236)

とたずねられて,何も答えずにしげみの中へとびこんで逃げていった,とび

色の女の子は, 70年の閉その辺の雲を全部見て知っていた祖母をさえも,た

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白雲母Jは昔話か? - 23一

んなる雷雨だろうと欺いた,電をともなったあら しの際,密生 したはしばみ

のしげみ (Haselstaude ) の近くに,そだの束で小屋をつくり ,子 どもたち

ゃ祖母を電から守乙 「神様が,あの何も知らない とび色の子の頭の中に,

雲を見て,そだの東を運んでくるという考えをお 乙させ給うたのは,ほんと

うに奇跡 (Wunder)なんだよJ (254)と祖母は言う ( i奇跡とは,その様式

[=昔話の抽争的様式]の究極の,もっとも完全な表現である。[. . . ]昔話では,奇

跡は話の筋のー要素であって, その筋のなかに白己の特定の意義をもっているのであ

るあ。子どもたちの父親の御礼の乙とばをきくと,とび色の女の子は,庭を

つつきって逃げ,姿を消してしまう 。

冬が去り,春が来,また冬が去り ,春が来て,その年の夏も大部分すぎた

乙ろの一日,農場で火事がおとり ,末の弟のジーギスムントが,子ども部屋

から祖母の部屋に通じる廊下に閉じ乙められてしまう。母親は,罪のない生

命を亡ぼされることのないよう ,ひざまずき両腕をひろげて神様にお願いす• • • •

る。 i乙の瞬間,甲高い叫び声がひびいた。 wとび色の毛の子, とび色の毛• • • • • • • • •

の子./~あっという間もなく , 黒い人影が家の方へ疾走していったかと思う

と,さながら柔長のように,ぶどうの阿目棚をよじのぼって,またたく聞に

窓の中に消えてしまったJ (280, 圏点は筆者〉のであるくir彼が…ーする

やいなやj とか r彼らが…・・・するやし、なや』という言い方は,つねに繰り返し出て

くる,昔話のきまった言い回してあるf)。ジーギスムン トは,かすり傷一つ受け

ずに救出される。その夜母親はとび色の女の子を探させるが,その子はどこ

にも見当たらないのである。

小淳氏は, i昔話のすじは[. . ・ ]常に 1本の線をなしている。話のす

しが何本もいろいろな方向に放射閉に出る乙とはけっしてない。[.. • ]昔

話はひじように主人公中心である了とリュティ理論を簡潔に解説しておられ

るが, w白雲母』においても,上の二つの重大な出来事(くるみlUでの救助

と火事からの救出)のつながり l昔主人公である,とび色の女の子によって

のみ動機づけられているのである。

その後幾年かがすぎて,ある互の 乙と, 母親から,父や母があるのなら教

えなさい, と促される と,と び色の娘は, iシュ トゥー レ・ムー レが死んだ

の,高い岩が死んだのJ(290)と言い残 して,泣きながら,理由も何処へゆ

くとも告げぬままに,姿を消してしまうのである。

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In.シュティフター独自のもの

1. くるみ山一一環境描写

「守の人物は,内的世界をもっていないばかりでなく,周閤の世界ももってい

ない。」

「昔話は,話の筋の展開をたのしむものなので,その図形的人物を点から点へと

導いていくばかりであり,描写のためにどとかにたちどまるととはない。j30

× × ×

乙の物語の語り手は,まず, Iわたしたちの祖国の片田舎で,とても景色

のょいところJ(221),ボヘミアの森の南, 上部オーストリア州の北西部ミ

ューノレクライス (Muhlkreis)にある, りっぱな農場へわれわれ読者を導く。

ときおり祖母のお話によって中断される,乙の物語の最初の部分は,昔話よ

りも伝説の舞台を思わせるのであるが,農場周辺ゃくるみ山の委曲をつくし

た環境描写をなしており,色彩や動きにみちた, I持続された執筆のすばら

しいJ提示部となっているのである。子どもたちが祖母といっしょにのぼる

くるみ山への道行きに際しては,語り手は,彼らの背後から,子どもたちの

目を通して,周囲の世界を一つ一つ確認してゆく。 乙乙にも見出される,

, -chen“や"-lein“のついた縮小名詞の多用が,昔話からの影響というよ

りも,むしろ,そのような子どもたちの目による観察に起因するとされる所

以である。プライゼンダンツ Wolfgang Preisendanzも, I語り手は,彼の

のんびりした,長ったらしいものやこの上なく長ったらしいものを目ざした

記述本能を展開しているのではまったくなくて,彼は,親しい場所や親しい

関連の中にある親しい自然現象との,子どもたちの多様な出会いを展開して34

いるのである」と述べている。プライゼンダンツによれば,よく知られたも

のや親しいものに出会ったり,見つけ出したり,確認したりすることが,出

来事 (dasGeschehende)そのものなのであり, さらに, 事物の目立った

姿が場所やパースペクティブに左右されることがいかに多いか,親しいもの

の周辺がもっと遠くの知らない地方の地平線によってとりまかれているのだ

ということが,子どもたちにはっきりわかるということも,出来事に属する

のである。 Iそれ故にシュティフターは,商品目録 (Inventar)を作成して

いるのではなくて, 彼は, 自然現象の描写にこれらの現象の認知 (Wahr-

nehmung)をからみ合わせているのであり,乙の認知が,ここでは出来事そ

のものなので、あるoj5この極小の出来事は, しかし,子どもたちが,それ以

後の経過につれて,それが破壊しつくす自然作用という形をとってであれ,

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f白雲母Jは昔話か? - 25ー

とび色の女の子という形をとってであれ,奇異の念を起乙させるもの,未知

なるものや途方もない乙との経験をしなければならない場合には,物語のコ

ンテクスト全体の中できわめて重要なものとなるのである。子どもたちによ

って親しいものとして認知され,確認されていたすべてのものが,一つずつ,

恐ろしくよそよそしいものに変化している。

「しかし,もはや灰色の草原はなかった。草はすっかりなぎ倒されて

いて,黒い土があらわれていた。石も雨にぬれて,黒々としていた0 ・・.

小川のほとりにやって来たが, 灰色の小魚が泳ぎ, とんぼが飛んでい

る小)!?らなく ,よごれた水がいっぱいあふれていて,その上を,電に打

たれた木やとてもたくさんの緑の葉や草が流れていた。 .. .祖母は,

小さな橋用においてある石のところヘ行・ってみたが,しかしながら,見

えなかった。それのある場所がわからなかったoJ(245)

かくして,プライゼンダンツは, iシュティフタ ーにとっては自然そのも

のの描写が重要なのではなくて, 彼の自然描写は人間の認知に関連してい

るのだということ,そのことによって彼会自然描写は,物語りうる出来事の

本質的な要素となりうるのだという乙とJ'に,われわれの注意を向けようと

しており,i[... ]第一印象かふ たんなる目立った姿から,偶然の外観

から,ゆがんだパースペクティフゃから,先入見や幻影や憶測から,洞察への,

認識への, w事実に即した乙と~ (Sachgemasheit) [. . ・ ]への道, つま

り,再三,本来的な物語の緊張をっくり出しているのは,やはり ,乙の道な

のである?と結んでいるのであるが,シュティフタ ーの自然描写閣して,

以上紹介してきたプライ ゼンダンツの言説は,まさに至言である。

2.子どもたち一一家庭「そ乙 [=昔話]には,まったく ,どんな意味においても,奥行がない。その登場

人物たちは,実体性のない,内面的世界をもたない,かつ,周囲の世界というもの

をもたない図形的人物なの?る。彼らには祖先や子孫との関係はないし,そもそ

も時間一般との関係もない。」

× × ×

なるほ どシュティフタプは, w白雲母』 においては,両親の家系を挙げる

乙とを断念してはいるが:u田舎の農場には,しかし, 祖母,父母,子どもた

ちの 3 世代の人々が同居 してい る。 w晩夏~ Der Nachsommer (1857)の

(109 )

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ソ¥インリヒ (Heinrich)と同じように,農場主は,毎年,妻子とともに,冬

は都会ですごし,暖かくなるとまた田舎にもどってくる。物語の筋は,昔話

とはちがって,農場周辺の限定された地域で行なわれ,決然として遠方ヘひ

ろがりゆく乙とはない。そこでは長年にわたって同じ乙とが繰り返されてお

り,そこは同じ事物の回帰,規則的なものの持続が支配している世界である。

農場に住んでいる人々も,その中で彼らが動いている風景と同じように,風4i

変わりなところはなく ,平凡である。子どもたちは,道徳の提にしたがって

きちんと育てられており ,両親や祖母をも含めて,みんな善良であり ,親切で

思いやりにみちている。子どもたちゃ祖母について農場にやってくる,とび

色の女の子にたいしても,最初は人見知りをして近寄ろうとしないその子を

つかまえて乙ようとする召使に,父親はそれをやめさせ, Iその子をたいせ

つに扱って,乙ちらを信頼するようにしむけねばならないJ(251)と言うし,

母親札その子が家になじむまで,むりにその子に近づいたり,話しかけた

りはしないのである。また,どんな災難に遭遇しでも,神への祈りが忘れら

れる乙とはない。 I乙の信仰に心をゆだねなさい。そうすれば,一生しあわ

せに暮らせますよ。J(255)雪害や火事による損害や痛手は克服され, 単純,

善意と信頼,あつい信仰心にみちあふれた,乙の共同体は,安定した秩序の

中でゆらぐ乙とはなし、。 ミヒ ェノレスのこ とばを借りて言えば, I愛のきずな

によって結ぼれている人間的な社会が,乙乙でも中心点をなしている。実り

豊かな地方にある農場は,乙の幸福な家庭の世界の表象 (Bilの になってい

るj3のである。 w白雲母』の このような世界は,まさに『晩夏』への前奏曲

をなしていると言えよう。

3. とび色の女の子一一教育

「昔話の図形的人物には感情の世界そのものが欠乍いる。したがって,精神的

にはどんな奥行も彼らには縁のないものなのである。J • • • 「最後に,平面的な昔話の世界には時間の次ヨ5P欠けてい る。 [. . . ]しだい

え牛るL二そいく人間は,昔話には存在しない。J× × ×

上述の,ゆるぎなく秩序づけられた家庭の対極にあるのが,とび色の女の子

なのであ る。 乙のきわめて昔話的な人物は,祖母のお話によって昔話的な雰

囲気が醸成されたとこ ろで,く るみ山時入される 。 『森の泉~ Der Walι brunnen (1866)においてゲーテ Johann W olfgang von Goetheのミニヨ

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- 28ー

たくさんの乙とを学んで,神様と神聖な儀式についても教えてもらうように

なる。幾年かがすぎ去って,とび色の女の子は, レースで飾った女らしい服

を着ると,前より内気になり,大股で歩くとともなくなる。しかし,近所の

人々,若い男女が家にくるよ うになり,遠方の首都からも,知 り合いの人 々

が農場に住む人々を訪ねてくるようになると,みんなは楽しそうにしている

が,さながらムライ (Murai)が近づく前の若いブリギッタ (Brigitta)の

ように,とび色の娘だけはそうではなく,その頬はまるで病人のようで,悲

しげな目つきをしている。彼女は, 農場の人々のどんなにやさしい愛情にも

合かわらず,決定的な瞬間において,ゆるぎなき人閣の勾七の秩序にやはり

心から順応する乙とができず,悲劇的に孤独なままであ之乙の自然のまま

の子は,ある夏の乙と,お客があって, 家の大きな客間ではみんなが都会風

のたのしみをしているとき,いわくありげな声に呼ばれて,父親と母親の前

で心が破れるかと思われるほど激しく体をふるわせて泣き,母親の首をしっ

かりと抱きしめてその頬にキスする。彼女の手をとって自には涙を浮かべな

がら口もきけないでいる父親の様子に気づ、く と,とび色の娘は,もう話す乙

とができなくなって,温室のうしろから砂の斜面を乙えでのぼって行き,二

度と姿を見せないのである。乙 ζ にきて,祖母のお話における,シュトゥー

レ・ムーレや赤い上着を着たとびとの話が,伏線として,乙の物語の構成上,

重要な役割をはたしている 乙とが,わかるのである。

IV.むすび 「白雲母jの象徴性

1853年 3月31日,シュティフターは,ある手紙の中で,つぎのように書い

ている。 I私は『白雲母』を最上の,かっ,もっとも繊細な作品だと思って

おりましたし,とび色の女の子が子どもたちを求めながら,ついにはまた逃

れ行かねばならなかったときの,彼女の無-言の感情を,もっとも哀切なもの

だと思っておりました。それ故に私は,自分が,そのあわれな子をば最大の

いたわりをもって,その子の境遇をば最大の愛情にみちたヴェーノレでもって

とり扱うよう,制られているのを感じておりました。?

乙の小論の冒頭で、すでに記したように, w白雲母Jは, w石さまざま』の

物語のうちでも最も遅く成立し,かっ,他の表題をもってはいないのこのこ

とは,この物語集が発行されるとき叩っても, w白雲母』が三およ詩人の

心のもっとも近くにあったというこ三を推測させるに十分であり,かっ, Iこ

こにおいて表題は, この短篇小説の構怨や象徴的表現のために非常iとよく

( 112)

-

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白雲母jは昔話か? - 29一

考えられ,利用しつくされているJ50という ,シュテッフェンの指摘に耳を傾

けさせる契機を与えている。彼によれば,銀色の幹の白樺は,砂の斜面をず

っとのぼっ七所にはえているし,ハノレトの洞穴からは水が銀色の,;;?をなして

流れている。男の子がそのつどくるみ山へもっていく ,皮をむいたはしばみ

の枝は白色であり,女の子たちのスカートや男の子のズボンも白色であるし,

母親の服も白色で, 温室のガラスの屋恨や山々の雪原は, 銀色に輝いてい

る。しかし,子どもたちが砂の斜面をのぼって,先のとがったナイフで,地

面K出ている石からはがしとる,きらきら光る白雲母は,見かけだけの,人

を欺く銀なのである。 71<の中では,それは,金のように輝いているのだが,

すくい出してみると色を交える。白雲母と同じように人を惑わすようにして,

危険も,あらしという形をとって現われる。すなわち,降包lζ先立って,秋

の暖かい日ざしをあびて,石のあζは金色ゐくもの糸がかかり ,雲のふちは

日に照らされて,まるで匁がとけて流れ落ちるように輝いている。と乙ろが,

その愛らしい輝きは,恐ろしい輝きへと急変する。つまり ,雲は薄緑色にな-・・・・・・・・

り,ほとんど白く見えるほど光り ,とうとう,乙んな晩い季節には思いもよ• • • • • • • •

らず,電が,まるで白いきらきら光る弾丸のように,落ちてくる。その後置

は,まるで白い稲妻のように,ざあっと降りかかり ,氷のかたまりが,白い

矢のように,陪悶のr.t:lを暗い地面に激しい勢いで落ちてくるのである。降痘

と同じように,突11,またしても人を欺くようにして,火事がお乙る。すな

わち,窓から外を眺めても,すべてが静かで平和であり ,近くや遠くの煙突

からは』鹿一本立ちのぼってはいなかったのに,と乙ろが,その後少しして,

荒れ狂う恐ろしl、炎は,いよいよ凄まじい音をともなって完全に展開するの

であるi以上の乙とと関連しては,シュティフタ ーの自然描写について IIl-

1で紹介した,プライセンタンソ の言説をも是非乙乙で思い返していただき

たいが,さらに,三月革命後の,教育問題にたいするシュティフタ ー自身のつ

のりゆく関Jじの沈澱物である,と び色の火の子にたいする愛巾?子手?ギ孝

育の試みも,彼女の心が段場の'ぷ庭にとどまって学習も し,うまくいくかに

ふえなかι結局ほネ尿功にをわってしまう。 I白雲母」の訟徴性の見事な

所以であろ。 i人間の社会化jddの試みが失敗におわっている という点で,

『白雲母』は, w石さまざま』の物語弘の中では『電気石~ Turmalznと,

物詩集の外では『森の泉』と,対照をなしているのである。

自分の子どもに恵まれぬ;ンュティフクーは, 1847年に実の姪ユリアーナ

Juliana Mohaupt (1841-1859)を旋火にするが,その子も,少なからずジ

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プシー的なと乙ろがあり,まじめな教育を受け入れず, 自制する ことのでき

ない,はげしい気性の持ち主であったらしい151851年, 10歳のとき,ζの女の

子はかなり長い間家出をし, 死んだのでなし、かと心配させたが, 救出され

る。乙の時点では,シュティフターは,あえて『白雲母』に暗い結末を与え

ている。ただと,最大のいたわりと最大の愛情にみちたヴェ ーノレでもって。

「どうかあの娘に,この世でとてもたくさんのしあわせが与えられますよう

にJ(291)と祈り ,その娘を神の摂理にゆだねているのは,ほかならぬシュテ

ィフタ;;臼身なのであり,彼が「彼の憧'慢の理想像の庶動的な記念碑をう ち

建てるJのは,1859年 3月21自に養女ユ リアーナが18歳でドーナ ウ河に投身

自殺した後, w森の泉』の,名前も同じ,ユ リアーナにおいてであった。

なるほど 『白雲母』は,多分シ ュティ フタ ー自身も彼の祖母から聞いてい

たであろう, 昔話や伝説の影響を受け,素材と物語技法の両面にわたり,昔

話的なものを駆使 した作品である乙とは確かだが, しかし,とび色の女の子

を中心においてみても, w白雲母』を昔話だと言い切ってしまう のは,一面

的な見解ではなかろうか。すぐれた自然描写,家庭のゆるぎなき秩序や教育

の試み一一乙ういったものは, 紛う方なくシュティフタ ー独自のものであり,

作品に幅広さと奥行を与えているーーを含む乙の作品は,やは り,きわめて• •

シュティフター的な物語 (Erzahlung)であると言える。思いやりある人々

に愛情を乙めて教育されながら,どうしても人間の家庭の秩序に順応する 乙

とができない,自然のままの子の哀切な感情を,けだしシュティフターは,

孤立的存在である昔話的な人物を導入し,合理的にではなく,謎は謎のまま

物語ることによって,かえって簡潔にまとまりよく,かっ,印象深く作品化

するととに成功していると言えよう。いずとともなく姿を消す,とび色の娘

の悲痛な心は,それがζ とばとして表出されていないだけに,それだけにい

っそう余韻を残して,われわれ読者の胸をしめつけるのである。

テクスト

Adalbert Stifter: Bunte Steine. Sρate Erza.hlungen. Hrsg. von Max Stefl.

Augsburg 1960. 本テクストからの引用は,本文中の当該箇所末尾の( )内にそ

のページ数のみを示す。

なお, r石さまざまJには邦訳があり,参考にさせていただいた。

シュティフター:石さまざま.手塚富雄・藤村友訳.中央公論社 1965年(=r世界

の文学j第14巻), 245-493ページ

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『白雲母jは昔話か? - 31-

1 Herbert Seidler : Adalbert-Stぴter-Forschung1945 -1970 (Zweiter Teil).

In: ZfdPh 91/2 (1972), S. 266.

2 Vgl. Eduard Eisenmeier (Hrsg.) : Adalbert StぴterBibliograρhie (=Schrif-

tenreihe des Adalbert Stifter-Institutes des Landes Oberりsterreich.Folge

21), S. 146 u. 270.

3 ¥Tgl. ders.: Adalbert Stifter Bibliograρhie. 1. Fortsetzung (=Schriften-

reihe. Folge 26), S. 25 u. 51.

4 Ders.: Adalbert-Stゲter-Bibliograρhie. 2. Fortsetzug (=Schriftenreihe. Folge

31) .

5 H. Seidler: Adalbert-Stぴter-Forschung1945-1970 (Erster Teil). In:

ZfdPh 91/1 (1972), S. 114.

6 Ursula Naumann: Adalbert Stifter. Stuttgort 1979 (=Salnmlung Metzler.

Bd. 186), S. 39.

7 Vierteljahresschrift des Adalbert-Stifter-Institutes des Landes Oberister-

reich [= V.A.SILO]. Jg. 27 (1978). Folge 1/2 u. 3/4; Jg. 28(1979). Folge 1/2 u.

3/4.

8谷口泰編:日本におけるシュティフター研究文献.日本独文学会編 fドイツ文学

第61号ぐ1978年秋期号),148-161ページ.

9 Alois Raimund Hein: Adalbert Stifter. Sein Leben und seine Werke.

Wien ・BadBocklet・Zurich21952, S. 461; Josef Michels : Adalbert Stぴter・

Leben, Werk und Wirken. Berlin ・Wien・Leipzig 1939, S. 223; Erik

Lunding: Adalbert Stifter. Kopenhagen 1946, S. 68; Eric A. Blackall:

Adalbert Stぴter.A Critical Study. Cambridge 1948, S. 272; Rudolf Wild-

bolz: Adalbert Stifter. Langweile und Faszination. Stu ttgart・Berlin•

Köln . ~fainz 1976, S. 81 u.a.

10 Johannes Klein: Geschichte der deutschen Novelle. Wiesbaden 41960, S.

253; Fritz Lockemann: Gestalt und Wandlungen der deutschen Novelle.

Munchen 1957, S. 141; Albrecht Weber: Deutsche Novellen des Realismus.

Munchen 1975, S. 47 u. a.

11 Hellmuth Himmel: Geschichte der deutschen Novelle. Bern 1963 (=Somm-

lung Dalp. Bd. 94), S. 229.

12 Max Luthi : Das euroρaische Volksmarchen. Form und Wesen. Munchen

41974 (= UTB 312) [= Luthi 1]乙れには邦訳書かあり,参照させていただいた。

マメクス・リュティ;ヨーロッパの昔話.その形式と本質.小津俊夫訳.増補版第

10刷. 岩崎美術社 1980年 (=民俗民芸双3.37) ; ders. : Marchen. Stuttgart

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41971 (=Sammlung Metzler. Bd. 16) [=Luthi II] ;なお, リュティの理論が

簡潔に紹介されているものに,つぎの書がある。小津俊夫 :世界の民話.ひとと動

物との婚姻誇.中央公論社 1979年(=中公新書.531) [=小津].

13 Adalbert Stifter: Samtliche Werke [=SW]. V. Bd. 1. Halfte: Bωtte

Steine (Text). Hrsg. von Franz Egerer u. Adolf Raschner. Hildesheim

1972 (=Reprographischer Nachdruck der Ausgabe Prag 1908), S. LX-

LXX.

14周知のように リュティは,Luthi 1 において, r昔話の特性をとくに伝説や聖

者伝との対比によって引き立たせJ(S. 104)ょうとしているのだが,なかんずく,

昔話と伝説との対比については,以下を参照されたい。 Luthi 1, S. 6, 10-12,

16-20, 22-24, 29, 52-54, 56, 60, 69-70, 76-81, 85, 89-90, 92-93, 96-

98, 103;なお,Luthi 11, S. 7-9 ;小津,6, 8, 11ページをも参照。しかし,

「生きているものはすべて, 規準どおりにはいかないJ(Luthi 1, S. 99)。昔話

の要素も,伝説のそれも,ともに含まれている話もあれば,伝説の要素が強い話も

ある。規準にしたがって昔話と伝説とに峻別してみたと乙ろで,乙-o場合,あまり

生産的なやり方のようには思われないし,また,そうする乙とがとの小論の目的で

もない。したがって,以下の記述においては,むしろ伝説の特性の方が強い話も,

「昔話的なもの」として,包括的に述べられる。

15 K inder-und Hausmarchen. Gesammelt ditrch die Briider Grimm[ = KH111].

Munchen [1978], S. 405-406. なお,邦訳については,グリム童話全集.L.デ

ーネッケ監修.高橋健二訳.全3巻.初版第5刷.小学館 1979年 を参考にさせ

ていただいた。

16 Blackall (=Anm. 9), S. 272.

17 KHM, S. 237f. なお,乙の比較についてはI S¥V V /1, S. LXV1 をも参照され

アこし、。

18 Luthi 1, S. 28.

19 Wildbolz (=Anm. 9), S. 82.

20 Luthi 1, S. 33.

21たとえば,グリムの昔話『しらみと,のみjLa・uschenund Flohchen (30番)の結

末は,つぎのようになっている。"Und in dem Wasser ist alles ertrunken,

das Madchen, das Baumchen, das Mistchen, das ¥Vagelchen, das Besen-

chen, das Turchen, das Flりhchen,das Lauschen, alles ll1i teinander“(KHNl,

s. 199, ただし,イタリックは筆者による); vgl. SW V/1, S. LXV1.

22 L u th i 1, S. 79.

23 繰り返し出てくる「はしばみ……」は,それが大きな役割を演じている聖者伝から

の影響をもほのめかしているように思われる。 たとえば, グリムの「子どもの聖

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白雲母j は昔話か? - 33-

者伝説J (Kinderlegenden) の一つである fはしばみのえだI Die Haselrute

(10番)では,聖母さまがまむしから身を守るために はしばみのうしろにおかくれ

になる様が語られている (vgl. KHM, S. 825)。シュティフタ-n身も, r白雲

母j において,似たような聖者伝を祖母に語らせている (vgl. S. 240) ; vgl. SW

V /1, S. LXIX.

24 Lu thi 1, S. 55f.

25 Ebd.. S. 32. ζ のような状況の一致は,グリムの昔話 f六わの白鳥J Die sechs

Schwone (49番〉にも見出される。妹のおきさきを火あぶりから数おうと思って,

六わの白鳥になっている兄たちがやっと妹のと乙ろへかけつけるのは,彼女が「た

きぎの上に立って いよいよ火がつけられようとしたときJ(KHM, S. 280) なの

である (vgl.Luthi 1, S. 31)。

26小津,210ページ.

'1:i とび色の女の子をはっきりと表題にしているものもある。まず,アイゼンマイアー

の文献目録〈注 2を参昭、〉には,つぎの書目が出ている。

9i3 Das braune Madchen. (Dje Erz益hlung" Ka tzensil ber・It aus "Bun te

Steine U fur dje ]ugend bearbeitet und mit Bildern versehen von

Hilde Deinhard.) 11ainz: 11atthias-Grunewald-Verlag (1955). 63 S. 10

Taf. 80 •

わが国にも見出される。

ノュティフター原作:ジプンーの少女.山室静編著.重版.借jぷ社 1974年(=少

女名作ノリーズ.28).

28 Vg1. SvV V /1, S. LXVllf.

29 Luthi 1, S. 17.

30 Ebd., S. 25.

31 ¥Tgl. S¥iy V /1, S. LXI. •

32 Blackall (=Anm. 9), S. 27.2.

33 'Vgl. Konrad Ste任en:Adalbert Stifter. [>putungen. Basel ・Stuttgart1955,

s. 160f.; SvV V /1, S. LXVI.

34 vVolfgang Preisendanz: Die Erzahぴunktionder Naturdarstellung bei Stifter・

1n: Wirkendes Wort. ]g. 16 (1966), S. 409.

35 Ebd.

3o実際, r灰色のすばし乙い小魚が泳ぎ,とんほか飛んでいる小)11 Jのモティーフは,

同じ事物の回帰が支配している乙の世界のrf rで,引用文にみられるような,異質な,

あらあらしいものの混入との関連においても,効果的に使用され,乙の物語全体に

わたって,重大な窓義をになっていると宕えよう。 Vgl.S. 228f., 259, 260, 291.

37 Preisendanz (=.Anm. 34), S. 410.

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38 Ebd., S. 418.

39 Luthi 1, S. 13.

40 Vgl. Steffen (=Anm. 33) I S. 159.

41 V gl. Lu thi 1, S. 29.

42 Vgl. Steffen (=Anm. 33), S. 160.

43 Michels (=Anm. 9), S. 224.

“Vgl. Wi1dbolz (=Anm. 9), S. 82.

45 Luthi 1, S. 15.

46 Ebd., S. 20.

47 Vg1. Lockemann (=Anm. 10) I S. 141; Steffen (=Anm. 33) I S. 163.

48 S¥九TXVIII, S. 159. (Brjef an Louise Freifrau von Eichendorff. Linz, 31.

Marz 1855)

49 Vgl. Hein (=Anm. 9), S. 454.

50 Steffen (=Anm. 33), S. 161.

51 Vgl. ebd., S. 161f.

52 Vgl. Blackall (=Anm. 9) I S. 272.

53 Weber (=Anm. 10), S. 47.

54 ¥Tgl. SW V /1, S. LXlllf.

55 Wi1helm Kosch: Adalbert Stifter als Mensch, Kl~ωstler, Dichter und

Erzieher. Regensburg 1952, S. 68.

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