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真による既存認識の更新 写真の中の世界と、自らの日常に見出す新たな関係性 SFC-SWP 2015-003 AUTUMN 2015年度 秋学期 慶應義塾大学湘南藤沢学会 湯本 愛 総合政策学部 4年 國枝 孝弘 研究会

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真による既存認識の更新 -写真の中の世界と、自らの日常に見出す新たな関係性- 

SFC-SWP 2015-003

AUTUMN2015年度 秋学期

研究会優秀論文

慶應義塾大学湘南藤沢学会

湯本 愛 総合政策学部 4年

國枝 孝弘 研究会

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2015 年度 卒業論文

写真による既存認識の更新

―写真の中の世界と、自らの日常に見出す新たな関係性―

慶応義塾大学 総合政策学部 4年

湯本 愛

71209300

國枝孝弘研究会

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はじめに

私たちは、今、自分の目の前にある世界に参加して生きている。それは、自分の目で見

ることができ、音が聞こえ、匂いがし、触れることのできる世界であり、それが自分にと

っての日常である。しかし、同時に私たちは、そうして自分の体で知覚することのできる

範囲以上のことを知ることを求められる。毎日どこかで起こっている事故、事件、戦争と

いった時事的なニュース、過去に起こったそれらの歴史、差別や貧困、教育格差など数え

切れないほどの社会問題、といったように、道義的、政治的、文化的、その他あらゆる側

面から、知っておくべきとされる事象は膨大である。通信技術に加え、写真や映像といっ

たメディア媒体の発達によって、そうした自分たちの立っている時、場所を超えた出来事

は、今では簡単にリアルタイムで知ることができる。むしろ、そうした技術の発達によっ

てこそ、知るべきことが増えたと言ってもいいかもしれない。

元々、そうした様々な問題の中でも、漠然と国際問題に興味があった私は、大学入学当

初から国際政治学や、ジャーナリズムを特に学びたいと思っていた。出来事に対し、原因

をきちんと探り、現状を正しく報道し、改善策が提示できれば、多くの国際問題の当事者

を救うことができると思っていた。世界で起こっている問題は多種多様、さらに膨大で、

おまけにそれらの情報は 24 時間休むことなく流れてくるので、それらに対し常に関心を寄

せ、知っていなければ居心地が悪かった。しかし、学べば学ぶほど、世界に対する自分の

向き合い方に違和感を覚えるようにもなった。誰かを救いたい、と思う時の自分は、いつ

もその「誰か」より自分を上に立たせていた。原爆のことを知れば、「生まれたのが戦時中

じゃなくてよかった、広島じゃなくてよかった」と、インドのストリートチルドレンのこ

とを知れば、「わたしには暖かい家がある」と思い、アフリカの飢餓について知れば、目の

前の食事がありがたく思え、テレビで身体障害者を扱った番組があれば、母は「あなたは

五体満足でよかったわね」と言った。私は、そうした出来事をメディアを通して見ながら、

その当事者と自分の間に存在する差異を、いつも無意識に数えていたように思う。そのこ

とに、違和感を覚えながらも、その違和感は言葉にできるほどではなく、当然ながら向き

合うこともできなかった。

朝日新聞社が夏に開催する「世界報道写真展」に毎年足を運んでいたが、ある年、ふと

思ったのだ。去年の写真が思い出せないのである。見たことのないほど大量の血を流して

倒れている兵士や、画面の端から端までピントのあったアップで写る女性の悲壮な表情や、

真っ白な肌をしたアルビノの少年など、強烈なイメージは浮かび上がってくるのに、それ

が一体何を写したもので、どこの国で、なぜ、誰が、写真に収めたのかは思い出せなかっ

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た。元々、見たときからそんなことは知らなかったのかもしれない。「変えたい」「改善し

たい」と思っていたはずの出来事について、いかに深く思考することがなかったかに気付

いたと同時に、それまで、自分に安心感と正義感の両方を与えてくれていた悲惨な写真に

対し、どうしようもなく距離を感じたのはそのときが初めてだった。

それから、福島出身の友人が震災をめぐる報道についてこう言っていたことがある。「そ

れまでなんてことのなかった私の育った町は、東日本大震災をきっかけに突然有名になっ

てしまった。私たちの目の前で、瓦礫は少しずつ片付けられているのに、メディアの中の

町だけがいつまでも変わらず『被災地』なのが不思議な感じだった。」報道写真展の体験や、

彼女の言葉から、私は、少しずつ自分の違和感の在りかを理解できるようになっていた。

時間は進んでいくのに、写真はその一瞬間を閉じ込めてしまう。空間は途切れることがな

いのに、写真は限られた範囲だけを切り取ってしまう。それだけではなく、私たちはそこ

に「被災地」「紛争地」「テロ現場」「中国人」「イスラム教徒」……といった簡潔な単語を

求めている。それは確かに、「知っているべき」とされるニュースではあるのだろうが、そ

れは同時に、その向こうにいる個人を、一枚の写真と単語に押し込めることでもあった。

私はそこに、自分にとって触れられる範囲の「現実」を、犯されないところから、「自分と

は違う」と思いたいがために引いた境界線を見た。私は、「被災地」の報道にあの子が感じ

た「不思議な感じ」に向き合いたかった。

自分の手では触れられない現実を知ることは、切ないことだ。私には原爆で死ぬ辛さは

分からない。写真の中の、やせ細ったアフリカの子どもの空腹が分からない。手足のない

人が好奇の目に苦しむ気持ちも、きっと分からない。それらの辛さや空腹や苦しみそれ自

体、すべて私の想像でしかない。しかし、「被災地」が「あの子の故郷」に変わったときは、

少しだけ、恐る恐る考えることができた。では、もし明日私の住む場所に地震が起きたら?

もし、明日写真を撮られる側になったら?私は何十万人という「被災者」の1人になるの

だろうか。

この論文は、そうした私と世界の断絶を、少しでも埋めてくれた写真について書いたも

のだ。一瞬間を閉じ込め、空間を切り取る写真に違和感を持ちながらも、それでもなお、

こうして写真について書きたい。なぜなら、その特性を知り、「撮ること」「見ること」「撮

られること」について考えることができれば、その写真の「断片性」には一度定着してし

まった固定的なイメージから再び被写体を解放できる可能性があると考えるからだ。本論

では、主にこのことについて述べていくことになる。

こうして流れてくる膨大な情報の向こうにいる人々を、無視することはできない。私も

その情報の中の1人として生きているからだ。ならばまず、写った世界と、自分との距離

に、向き合うことから始めたい。世界の全てを知ることはできないから、私たちはきっと

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これから先も、そこにある断絶に気づくことすらなかった、新たな世界の一部を知り続け

なければいけないだろう。そのとき写真が、写ったものや見る人の足かせになるのではな

く、世界について考え続けるきっかけであってほしいという願いから、本論文を執筆する。

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目次

はじめに

序章

第1章 写真を撮るということ

第1節 写真による現実の固定化と更新

第2節 撮るとはどういうことか

第3節 写真を他者に開示するということ

第2章 写真を見るということ

第1節 写真を見るとはどういうことか

第2節 写真における「記録」と「表現」

第3節 作品と対話する鑑賞者

第3章 被写体との関係性

第1節 鑑賞者と被写体の関係性

第2節 撮影者と被写体の関係性に見る「個人」の物語

第4章 鑑賞者の自由の制限

第 1 節 鑑賞者の主体性を必要としない写真

第2節 特定のイメージを作為的に選出した写真

第3節 撮影者の作家性と鑑賞者の自由の行使の限界

第5章 事物に与えられた「意味」と写真の「記録性」を問う −中平卓馬−

第1節 <意味>から逃れる“同時代的”写真とは

第2節 『サーキュレーション―日付、場所、イベント』における実践

第3節 繰り返される写真批判と、新たに生まれる可能性

第6章 既成の名付けから個人を解放し、新たな普遍性へ

第1節 曖昧な同一性と個を写し出す撮影行為

第2節 「らしさ」をそぎ落とす「人」対「人」の撮影行為

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第3節 変化する街を見つめる撮影行為

終章

謝辞

参考作品、参考文献、参考 URL、参考映像、参考講演

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序章

19 世紀の初め、人間は、目の前の光景を像として定着させ、自らの手の中に収めること

ができるようになった。日本語で「写真」と呼ばれることになるこの技術は、この発明以

降様々な変化を遂げた。ライカなど、軽量の持ち歩けるカメラの登場により、人々は遠く

離れた地で起こっていることを、写真を通して目撃できるようになった。安価なカメラの

登場で多くの人々がカメラを手にするようになると、人々は自分たちの日常を撮ることが

できるようになり、写真という形で思い出を手にすることができるようになった。デジタ

ル技術とインターネットの発達によって、目の前のものを写した写真を瞬時に他人と共有

し合うという形のコミュニケーションが生まれるようになった。このような発展と普及を

経て、写真は今日、より一層私たちの生活に馴染みのあるものとなっている。馴染みのあ

る、どころか、私たちにはもう、写真を避けて生きることは不可能である。

写真は、「それは、かつて、あった」という言葉が端的に表しているように、ある瞬間、

ある場所で、確かに存在したものを記録することができる。その「再現性」のために、私

たちは、今自分が立っている場所や時間を超えた出来事を、目撃、認知、共有することを

可能にした。しかし、「共有」することがこれほど容易になっている今日、写真によるイメ

ージの氾濫はとどまるところを知らず、それゆえにその写真一枚を「撮る」ということと、

「見る」ということについて、深く考えることは少ない。最近の出来事を例に挙げれば、

国会前でのデモの様子を知りたいと思ったとき、私たちはインターネットで画像を検索す

る。そうすれば、現地で撮られた写真が無差別に画面上に並ぶので、それで大体、ああこ

んな感じだったのか、と行かなくてもその様子が分かったような気分になる。だが、その

ようにして見ることができる写真を撮った人が、一体誰なのかはほとんどの場合は分から

ないのである。どのような人が、どのような意思で、なぜその場所からなぜその構図で撮

影したのか、といったことは、いちいち考えることは少ない。しかし、写真を撮るときに

は、意識していようといまいと必ずシャッターを押した人の意思や立場が背景に存在し、

そのような写真が生まれるしかるべき理由がある。写真は、当たり前だが、その場に写真

を撮る者がいなければ存在し得ないのであり、写真を見るということは、撮影した者の視

点から世界の一部を目撃することにすぎないのである。

また、このように、情報の伝達だけを目的とする写真に、分かりやすさや即時性、そし

て消費されるものとしての価値として、いかに衝撃的か、決定的瞬間か、ということが重

要視された結果、写真は単一化を極めていく。もちろん、今日私たちが、自分の身の回り

のことだけではなく、実際の現場を目撃できないながらも知っておかなければならないと

される出来事はたくさんある。それを伝達するメディアとして、写真が担ってきた役割は

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大きく、今後も必要だろう。しかし、本論文では、そうした写真の使われ方の中で、出来

事に対する単一化、固定化されたイメージが社会に定着してしまうことを問題視するとこ

ろから始める。一方で、写真の特性を理解し、撮る者、見る者、撮られるものの関係性の

希薄化を乗り越えることで、そこに固定化された認識を新たに更新しなおす写真の可能性

について論じていきたい。

ここに、簡潔に本論文の構成について説明する。

第1章では、写真によって起こり得る認識の固定化と更新、の両側面について明らかに

したのち、写真を「撮る」という行為に焦点をあて、その主体の存在を明らかにする。ま

た、そこで必要となる写真の開示についても論じていく。

第2章では、写真を「見る」という行為に視点を移し、その主体を明らかにする。また、

日常的に行われている写真を見るという行為において、認識を固定化していると思われる

原因について指摘し、考察する。また、第1章、第2章では、ジャン=ポール・サルトル

の著書『文学とは何か』を参考にしながら、「自由」をキーワードとして、撮る者と見る者

の主体性の重要性を論じる。一方で、文学や他メディアと区別し得る「写真」の特質の抽

出もここで行っていくこととする。

第3章では、第1、2章で定義された「撮る」主体、「見る」主体と、撮られる世界との

関係性に目を移す。実際の写真家の作品の考察をしながら、その関係性が構築される過程

と、そこに生まれ得る認識の更新について指摘する。

第 4 章では、撮る者による一方的な意味の付与、作為的なイメージの選出などによって、

ここまでに論じる「自由」が失われる場合と、その「自由」の回復方法について論じる。

第5章では、中平卓馬という一人の写真家を生涯にわたる写真、撮影行為、言論を考察

しながら、固定化された「意味」の付与に抵抗する写真とはいかなるものか、また写され

る世界に対して撮る者がいかに当事者意識を持ち得るかを考察する。

第6章では、森栄喜、石川竜一、畠山直哉という写真家たちの近年5年以内に発表され

た作品を考察しながら、単一的な言葉やイメージに回収されがちな「個」を解放する写真

の方法論をそれぞれ考察していくこととする。

本論文は、以上のような流れに従って、写真と写真をめぐる「人」と「世界」との関係

性について捉え直す試みである。私たちの社会や他者に対する認識を、固定化もすれば更

新もする契機としての写真の特質を明らかにし、写真の氾濫する社会において、それに向

き合う一つの指針となることを目指したい。

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第1章 写真を撮るということ

第1節 写真による現実の固定化と更新

人は、一体何を「現実」として認識しているのだろうか。人が自らの生身で体感できる

現実は、ごく限られた範囲である。しかし、人は写真や映像といった媒体を通して、自分

の立っている場所からは直接は見えないもの、触れないものを目撃することができている。

「それは、かつて、あった」というのは、フランスの哲学者ロラン・バルトの言葉で有名

だが、これは「絵画や言説における模倣とちがって、「写真」の場合は、事物がかつてそこ

にあったということを決して否定できない1。」という主張の中で写真のノエマとして言われ

るのである。まさにそれこそ、写真が発明されて以来の特徴であり、役割だった。そのた

め、人は大抵の場合、写真に写っていることも「現実である」と認知しているはずである。

しかしバルトは、フランス哲学者のジャン=ポール・サルトルの、以下のような言葉も引

用するのである。

サルトルを引用しよう。《新聞の写真が、“私に何も語りかけない”ということは大 い

にありうる。それはつまり、私が存在の措定をおこなうことなしにその写真を眺め

ているということである。そのような場合、私が見ている写真の人物たちは、たしか

にその写真を通してとらえられているのであるが、しかし彼らは、存在するものとし

て措定されていない。ちょうど、デューラーの版画の「騎士」や「死神」が、版画を

通してとらえられてはいても、私はそれらの存在を指定していないというのと同じで

ある。…2》

ここでは、「それはかつてあった」はずのものが、現実のものとして認識できない現象につ

いて述べられている。ここでいう「新聞の写真」とは、出来事を伝達するための写真であ

る。ここには例えば、「どこで、こうした出来事がありました」と言ったような言葉も付随

するだろう。そうした出来事を端的に多くの人に伝達するため、その出来事にそぐうよう

な写真がメディアでは使われるのである。そうした写真の画面がもたらす感情も合わさっ

て、「これは悲惨な事件だ」「これは喜ばしいニュースだ」といった紋切り型の形容詞で修

飾される出来事と、その出来事を端的に伝える「決定的な」写真はセットで見た者の一つ

1 ロラン・バルト(1985 )『明るい部屋 写真についての覚書』花輪光訳、みすず書房 p.93 2 ロラン・バルト、前掲書、 p.30

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の認識を構成する。そして、居間でテレビを消すか、電車で読んでいた新聞をたたむか、(今

ならばこれが一番多いかもしれないが)スマートフォンの電源を落とせば、出来事を認知

する作業は終わりである。人が生身で参加している日常を成す現実と、こうした写真を通

して伝えられる「現実」は、決して簡単には繋がらないのである。そのために、サルトル

がいうように、自分自身や周りの人々が現実に存在している、というのと同様にはメディ

アの向こうの人の存在を想定することはできず、それらは情報という次元で知覚されるに

すぎないのである。

このようにして自分とは距離のある出来事を認知しているので、人々の認識はこうした

媒体によって作られていると言ってよい。例えば、「被災地はこんな様子だったのだろう」

「アメリカ人とはこういう人なのだろう」「戦争とは」「テロとは」「パリとは」何に当ては

めてみてもいい。そしてメディアは、商品価値のために、より速く、より分かりやすく、

より過激な情報を提供しなくてはならないのである。ここでいう「過激」とは、受け手の

人々の認識から大きく外れるものという意味ではなく、「悲惨な」を「もっと悲惨な」とい

うように増長させる方向に過激であるということである。こうして、あらかじめ定められ

た意味を持って提供されるイメージから、人々は定められた意味を読み取り、ある対象へ

の認識は、より極端な方へと固定化されていくのである。

一方、そのようにして固定化した認識から逃れる写真もある。写真家アンリ・カルティ

エ=ブレッソンの写真集『一つの中国からもう一つの中国へ』に、サルトルが寄せた以下

のような序文がある。

彼の中国人たちは面食らわせる。その大部分はあまり中国的ななりをしていないのだ。

才気ある旅行者ならば、どうやって中国人はおたがいを識別しているのか、といぶかる

だろう。私はこの写真集を見てからは、むしろ、どうしてわれわれが彼らを混同してい

るのか、同じ項目のもとに分類しているのかを怪しむのである。中国という「観念」は

遠ざかり、色褪せる。それはもう便宜上の呼び名にすぎない。後に残るのは、人間であ

る限り、たがいに似通った人間たちである。登録された呼び名を未だ持たぬ、現身の生

ける存在たち、カルティエ=ブレッソンの唯名論に感謝しなければならない3。

ブレッソンの写した中国人は、私たちの思い込みを裏切る。そこに写っている中国人は、

間違いなく中国人なのだが、「中国人とはこうである」という既存の観念に収まることを

拒否し、ただ一人の人間として存在しているのである。サルトルは、そこに「人間である」

3 J.P.サルトル『一つの中国からもう一つの中国へ』多田道太郎訳、『植民地の問題』(2000)

所収、人文書院

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という自分との共通点を発見しているのである。それは、既存の概念の現れとして被写体

を捉えるのではなく、概念に先立って存在する個人を捉えようという意味での、ブレッソ

ンの唯名論的視点によって実現しているという。

本論文ではメディアによって、またはそれ以外でも、あらかじめ定められた意味を受動

的に認知することを強いるイメージによって、多くの人にひいては社会に等しく共有、定

着されている「ある対象に対する認識」を「既存認識」と定義する。それに対し、サルト

ルの見たカルティエ=ブレッソンの写真を一つの例として、写っているものがその既存認

識に収まることを拒否する、それによって自らの中の既存認識が更新されていくという経

験を「既存認識の更新」としたい。

自らの中の既存認識を更新することには、不安が伴う。バルトは「単一な写真は、《叫

ぶ》ことはできても、傷を負わせることはできない4」と言ったが、「傷」という言葉が表

すように、それは自らが安住し、あらゆる事象を受け入れながら生きていく上で拠り所と

している既存認識を揺らがせるという点で痛みに似ている。しかし、そうした生の痛みを

伴わずに日々受容している出来事の向こうには、自分と同じように日常を生きている人が

いることは、意識しようがしまいが否定できないことである。本論文では、既存認識によ

って忘れられているか、意識されなくなってしまう、写真に写った世界や人の固有性を取

り戻すこと、そしてそれらと、自らの現実との関係性を築くことで、情報を知覚して完結

するという受動性から、現実に参加する能動性へといった自己の変容を目指すところとす

る。そのために、一体写真はどのような契機となり得るのか、どのような条件のものでそ

れが可能となるのか、といったことを、論文を通して考えていきたい。

第2節 撮るとはどういうことか

本章では、写真を撮るという行為と、その主体となる撮る者について考察する。前章で

述べたような既存認識の更新は、その写真がどのように撮られたとき、またどのような形

で見る者に提示されたとき、可能になるのだろうか。本節でこれから考えていくことは、

写真による既存の認識の更新という本論文が目指すところに対して、最も根底の条件とな

る部分である。

写真における「撮る」という行為を考える際、ここではジャン=ポール・サルトルの著

書『文学とはなにか』を参考文献として使用する。まずはその理由を示すため、フランス

哲学・文学研究者である澤田直による文章を引用する。前節に引用した、アンリ・カルテ

4 ロラン・バルト、前掲書、p.55.

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ィエ=ブレッソンの写真をサルトルが評価したことについて書かれたものである。

カルティエ=ブレッソンの写真は、現実を現出させるがゆえに、(サルトルに)高く

評価されているのだ。この発想は、『文学とは何か』のなかで作家の特徴として指摘さ

れたこと、すなわち、「世界を開示すること」と呼応している。作家が状況を暴露(開

示)するのは状況を変革するためだとされていたが、既成の観念に則って撮られる写真

とはちがい、カルティエ=ブレッソンの写真は現実をそっくりそのままあらわにすると

いう点で評価されているのである5。(引用者補足)

サルトルは、「中国人」という私たちの既存の観念に当てはまることを拒み、そこに写る人々

を「互いに似通った人間」という普遍性に至らしめることで見る者を「面食らわせる」と

カルティエ=ブレッソンの写真を評価していた。澤田によれば、このサルトルによる評価

は、『文学とは何か』で指摘される「世界を開示すること」という考え方に基づいていると

いう。そこで本論文では、『文学とは何か』を、既成の観念の更新について考える一つの材

料としながら、撮ることによっては、いかにそれが可能かを考えていくこととしたい。当

然、文学と写真では共通する部分もあれば、異なる部分もあるだろう。その比較によって

も、より写真の特性についても抽出できるのではないかと考える。ではまず、写真を撮る

というのはいかなる行為なのだろうか。サルトルは、文学において「語る」という言葉を

使って以下のように述べている。

語るとは行動することであり、人の名づけるすべてのものは、もはやすでに、名づけな

いものと全く同じものではない。名づけられたものは、その純潔さを失う6。

世界に存在するものや出来事は、連綿と続いている時間と空間の中に存在する限り、本来

なら互いの間に境目を持たない。そこに何か名前を与えて区別するのは人間である。つま

り、ここでいう「名付ける」ということは、「ここからここまでをこのように呼ぶ」という

指定をすることである。私たちは、そのような名付けを行わなければ、互いに会話の中で

何かを指して話すことができないだろう。そうして名付けとその指示対象が、他者との間

で共有されているかはコミュニティーや状況によって異なるが、私たちが日常において不

都合なく他者とコミュニケーションをとる上で使われる言葉の多くは、記号的に理解され

5 澤田直「サルトルのイマージュ論–不在の写真をめぐって」塚本昌則編(2013)『写真と

文学 何がイメージの価値を決めるのか』平凡社、所収、p.290. 6 J.P.サルトル(1953)『文学とは何か』人文書院、加藤周一/海老坂武訳 p.28.

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ているものである。つまり、その言葉が現実世界の何と対応しているか、ほとんど無意識

に把握することができている。そうであるがゆえに、サルトルが指摘する以下のような側

面は忘れられがちであるとも言える。

われわれの行為のおのおのに対して、世界はわれわれに新しい顔を示す。しかしもし

われわれが存在の探知者であることを知っているとしても、われわれはまたわれわれが

その製作者ではないということも知っている。この景色は、もしわれわれが眼をそらせ

ば、証人のないままにくらい恒常性のなかにうもれたままであろう。少くとも、うもれ

てはいる。それが消えてなくなると信ずるほど愚かな人間はいまい。消えてなくなるの

はわれわれの方だ7。

他者との間で記号的に言葉を使うことができているからといって、世界がその言葉に合わ

せて固定化されてしまったわけではない。特にサルトルが扱ったように、文学などにおい

てはそうした既成の名付けを超えて、世界に新たな境界性を引く試みが見られる。本来、

名付けという行為は、それぞれが持つ主観を伴って主体的に行われる行為であり、よって

その名付けは他者に新たなものの見方を提示することでもある。自らが目の前の世界を意

識して認知しなかったとしても、目の前のものは変わらずに存在し続ける。しかし、それ

を意識してみるとき、そこには新しいものが生まれると同時に、新しいものには必ずそれ

を認知する主体としての自らの存在が立ち現れるのである。

では、写真を撮るということにおいては、どうだろうか。写真は、確かに存在したもの

を写しとり、それを紙に焼きつけることで、私たちは「それはかつてあった」ということ

を再認することができる。世界は写真に先立って存在しているのであり、その特性への信

頼によってこそ、写真は事実を他者に伝えるものとして重宝されてきた。例えば、肖像写

真や家族写真など、そこに自分たちが存在した証を残すためや、報道写真のように世界の

どこかで確かに起こっていることを記録し人に伝えるため、といった目的はカメラが発明

された当初から担ってきたものである。このような写真の機能においては、撮る者は単に

カメラを操る職人や、事実を伝達するだけの仲介者として認識される。写っているものの

方が、圧倒的に重要であるとされてきたのである。

このようなことから、文学を創造する主体、つまり作家の存在が無視されることは決し

てないのに対し、写真を撮るという主体は度々その存在を忘れられるか、もしくは軽視さ

れている。しかし実際には、写真を撮るということは、撮る者が、本来なら時間も空間も

7 J.P.サルトル『文学とは何か』pp.48-49.

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無限に広がっている現実の中から、カメラのフレームという制限を用いて世界を切りとる

ことである。カメラという機械を通していたとしても、写真は、そしてそれを見る者は、

決して撮る者の視点から逃れることはできないという意味において、そこに写された世界

もまた「純潔」ではないと言えるだろう。なぜなら、写真は、そうした撮る者の「撮る」

という行為、そして「なぜそこ場所から」「なぜその構図で」「なぜその対象を」特に選ん

だのか、などという無数の選択の結果として存在するからである。そうした点から、サル

トルのいう「語る」という行為は写真にも当てはめることができる。「語る」と同じように、

「撮る」とは行動することなのである。

第3節 写真を他者に開示するということ

前節では、「撮る」行為において忘れられがちな、主体の存在を指摘した。しかし、ただ

シャッターが押されただけでは、撮る者が自らの視点から世界を切りとっただけにすぎず、

他者の既存認識を更新するには十分ではない。本節では、撮った者がさらに他者に対して

自らの行為の結果としての写真を開示することについて考えたい。

サルトルは、文学において作家が読者に自らの作品を呈示することを以下の文章によっ

て「呼びかけ」と表現した。

創造は読解のなかでしか現実化せず、芸術家は自分の始めた仕事の現実化を他人に任

せねばならず、読み手の意識を通じてしか自分が作品に対して本質的であると思うこと

はできぬのだから、あらゆる文学作品=行為は呼びかけである。書くこと、それは言語

を手段として私が企図する開示〔発見〕を客観的現実存在へともたらすように読み手に

呼びかけることである8。

ここでサルトルは、作家の創造という行為には読み手の存在が不可欠であることを指摘し

ている。なぜ読み手が不可欠なのかと言えば、自分が創造したものを客観的に見ることが

できる存在は読み手だけであり、作家は読み手の「読む」という行為によって初めて作品

の主体として認識されるからである。その時初めて作家の言葉は作家が自分の考えを再認

するために書いた言葉とは区別され、「新しく生まれたもの」として存在するようになる

のである。作家は自らが、自らが生みだしたものに先立つ主体として承認されることを、

それを「作品」という形にすることで読み手に委ねなければならず、サルトルはそれを「呼

8 J.P.サルトル『文学とはなにか』pp.55-56.

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びかけ」と表現した。

写真について考えてみても、目の前の光景を忘れないため、何か覚えておくべきことの

ため、写真を撮ることは多いにあり得る。それは、メモ用紙に走り書きをするよりはるか

に手早く再現性の高い方法である。このとき重要なのは、必要な情報がきちんと写り込ん

でいるかどうか、である。そして、その情報が必要な人にとって、その写真を誰が撮影し

たかは知る必要のない要素となる。それならば、ただシャッターが切られるだけで十分で

ある。数年前までであればフィルムからそれを紙に焼き付ければ、今ならば多くはデータ

として保存されればよい。

一方で、写真が他者に対して開示されるのであれば、それは、単なる情報を伝達する手

段ではありえない。写真は撮る者の主観から逃れることができない、というのは前節で確

認したばかりである。そうであるからこそ、他者にとってそれは撮った人、まさに「その

人」の行為と選択の結果現れた「新しいもの」として立ち現れるのである。逆に言えば、

撮る者は、自らを行為の主体として存在させるためには、それを見る者に委ねなければな

らない。つまり、「撮る」という主体の行為は、写真を見る者によって承認されるのであ

り、そこには撮る者と見る者の相互的な関係が生まれると言えるだろう。この相互性にこ

そ、サルトルの「呼びかけ」という言葉に通ずるところがある。

以上のことから、本論文では、他者に開示された写真作品を研究対象として扱うことと

し、また写真の開示によって、自らを主体として存在させるよう見る者に委ねる存在を、

特に「撮影者」と呼ぶこととする。第三章以降では、具体的な作品を通して、撮影者がど

のような対象に、どのような目を向け、どのような立ち位置から撮影をすることによって、

見る者にどのような既存認識の更新を促すことができているかを考察していきたい。しか

し、作品を通して行われる行為が相互的である以上、その前にもう少し撮影者と、写真作

品を見る者の関係性、そして写真を見るという行為そのものについて考えたい。そのため

に、次章では、「見る」という行為を考察していき、撮影者の「呼びかけ」に対して見る

者はどのように応答することができるのか、それがなぜ既存認識の更新にとって必要なの

かを考える。

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第2章 写真を見るということ

第1節 写真を見るとはどういうことか

写真を「見る」という行為について、まず、引き続き『文学とは何か』より以下の引用

部分から考えたい。

作者はその主観性の外へ出ることができないので、彼の主観性は客観性への移行を説明

することができない。それ故、芸術作品の出現は、出現以前に与えられた条件によって

説明されることのできない新しい事件である。この方向づけられた創造は、全く新たに

はじめられるものであるがゆえに、最も純粋な状態に置ける読者の自由によって果たさ

れる。かくして作家は、読者の自由に呼びかけて、読者が自由に作品の制作に参加する

ことを求めるのである9。

この引用部分は、一見すると前章までに述べたことと大きな違いはない。つまり、芸術作

品(ここでは特に文学)は、作者の主観を通して生まれた、世界にとってまったく新しい

ものであり、それは、「新しいものである」と認識する他者によってこそ存在することがで

きる。しかしさらにここでは、新たに「自由」という言葉が見られることに注目したい。

作品がまったく新しいものとして存在するためには、読者には事前に作品に対してどの

ような受け取り方の予想も与えられていない状態である必要がある。つまり、読んだ結果、

読者が何を思い、何を考え、またどのような影響を受けるかは読み終えるまで決定し得な

い。自由とは、この、作品の読み方に対していかなる予想も結末も持たない読者の状態の

ことである。読者は、この自由の状態で作品を読むことによって、読んだあとの自分を作

っていくことになる。読んだあとの自分は作者によって作られるのではない。つまり、こ

こでサルトルが「読者が自由に作品の制作に参加する」という表現をしているように、読

書は、「読む」という言葉以上に能動的な意味合いを持つのである。

写真においても、それが撮影者の主観を孕んで存在する限り同じことが言えるだろう。

写真が撮影者によって開示されているとき、写真に対峙する者が見るのは、まったく新し

いものである。たとえ写っている対象そのものが、それまでにも見たことがあるものだっ

たとしても、その特定の撮影者から見たそれは、それを知っている自身の主観からは離れ

たものである。写真を見る者も、撮影者によって特定の見方を強制されていない限り、見

9 J.P.サルトル『文学とは何か』p.56.

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ることによって「新しいもの」の中に何を見出し、それによってどのように見た後の自分

を作っていくかは自らに任されているのである。

とはいえ、ただ単に「見る」という行為自体は、ほとんど意識せずとも目を開けてさえ

いればできてしまうため、写真を見るという行為は、文学を読むという行為に比べて、は

るかに受動的に陥りやすい行為ではある。文学作品は、当然作品や人によって差こそあれ、

文字を追い、文章の意味を理解しながら全体を通して読むのに時間を要するのに対し、写

真はそのイメージから視覚が瞬時に捉える印象が強く、そうした瞬間的な衝撃は無意識の

うちにも記憶に残る。このような、人間の視覚による認知の特徴もあり、私たちの日常生

活には、そうした受動的で無意識的な見方をこそ求める写真はあまりにも多い。しかし、

そうした見方は上に述べたような「自由」を行使しているとは到底言えず、そこに見る者

の内での認識の変容は起こり得ない。なぜなら、そうした写真に対する受動的な態度は、

例え撮影者によって特定の見方が予定されている「不自由」な状態であったとしても、そ

れに気づくことなくその強制に従うことになるからである。

ここで、たとえその見方やその結果受け取る意味があらかじめ予定された写真であった

としても、そこに写るものが見る者の持っている既存の認識から逃れるものであれば、そ

こに認識の変容や更新が起こり得るのではないか、という反論があるかもしれない。しか

し、既存認識の更新によって目指すところが、生身の人間や現実に対して固定化した意味

やイメージへの抵抗であることを思い出したい。写真に写っているものが元々持っていた

自分の認識から外れるものであったとしても、それをそのまま自分の中に享受するだけで

は、撮影者による作為的な意味の操作を、気付かずに許容することになるだけでなく、そ

うして得たものは再び自らの中に固定化した情報として蓄積されるだけだろう。

撮影者による意図的な意味の強制や、作為によって特定の見方が予定された写真につい

ては、第四章にて具体的な作品ともに考察することとして、ここでは写真を「見る」とい

う行為について本論文における定義を定めたい。写真を見るということは、それを「新し

いもの」として眺めることで、撮影者の主体性を承認する行為である。そこには、あらか

じめ定められた見方は存在せず、そのため見る者はその自由に従って、自らそれを見た後

の自分を作っていく必要がある。撮影者の主体性の承認、自らの自由の行使でもって写真

を「見る」という行為を定め、そのように写真を見る者を以下「鑑賞者」と呼ぶこととす

る。

以上のことから、写真は決してただ受動的に視覚が認知しただけで自動的に見る者の既

存認識を更新するものではなく、まして一方的にそれを強いるものでもない。撮影者によ

る写真は、写真を見るという行為の結果、鑑賞者の既存の認識を更新する可能性として、

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ただそこに開示されているだけなのである。次節では、この鑑賞者の能動性の障害となっ

ているものについて詳しく考えたい。

第2節 写真における「記録」と「表現」

本節では、私たちが鑑賞者であることを難しくしている原因の一つとして、写真の用法

の名付けによる区別を挙げて、その背景を考察する。

絵画は何もないところから画家の絵筆によって描かれ、文学は作家の自由な言葉の羅列

によって現れる。そのため、文学や絵画は、どちらも現実を模写する機能を持たないので

あり、あくまでも画家や作家による創造物である、ということは受け手側の共通認識とな

っている。一方で、写真はあくまでも機械を通して現実を写し取るものであり、写真のオ

リジナルは現実世界そのものである、という前提がある。とはいえ、写真が発明されてか

ら時間が経つにつれ、その前提は効力を失っていった。つまり、写真家たちの表現の模索、

そしてトリミングや画像の加工といった技術的な発展によって、一体何がオリジナルだと

言えるのかは極めて曖昧であることも当然のことと知られてはおり、その写真のもつ二面

性は、見る者を不安にさせるものである。この不安の中で、写真は何度もこう問われてき

たのである。写真は現実の記録たり得るのか。それとも、そもそも写真家の表現による創

造物なのか。

このような、写真を見る中での疑問や不安に対し、人々が生みだした対処法について、

日本の写真家であり筑波大学で教鞭をとった大辻清司は「写真家は記録者たりうるか」と

いう題名をつけた文章中で以下のように述べた。

この膨れあがった今日の写真の応用・利用の状況を、都合よく整理区分するために、

さまざまな呼び名が各分野につけられているが、「記録写真」とか「ドキュメンタリー」

とかの呼び名は考えてみるとおかしなことで、それでは記録と無縁な写真があるのか

と戸惑ったりして、迷惑なことである。(中略)すべての写真はその発明の当初から引

き続き、依然として変わりなく記録性の上に成り立つのである。写真のやり方の一つ

として記録があるのではない10。

ここで大辻が述べているように、写真が発明されて以来今日に至るまで、撮られ積み上げ

られる一方の写真に対し、人々は名前をつけることでそれを分類しようとした。それはつ

10 大辻清「写真の記録性を問う 写真家は記録者たりうるか」、『アサヒカメラ 6 月号 増刊

号』(1978)所収、p.37.

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まり、それぞれ写真はなんらかの一つの手法に則って撮られていると考えることである。

例えば、この写真は「記録」という手法に則って現実を正確に写すことを目的にしたもの

であり、つまりそれは、決して撮影者の表現として撮られているのではない、といったよ

うに。ここで大辻が、「迷惑なことである」とまで述べる問題については後ほど考えること

として、もう一つこの写真の分類について考える上で、写真評論家である楠本亜紀による

論考を参考にする。

ドキュメンタリーということで記録性を、アートということで表現(あるいは主体性)

を指すのであれば、写真はそのどちらをも含みうる。そうした当然の答えを、どうし

ていまさら確認しなくてはならないのだろうか。(中略)一つにはドキュメンタリーと

いう言葉にひそむ、「虚構ではない」という言葉に、抗いがたい魅力があるからだ。あ

るいは写真という言葉にひそむ、「真実」という幻に、といってもいい11。

大辻と楠本による文章を読むと、いずれも「ドキュメンタリー」とは記録に徹した写真と

して捉えられていることが分かる。そのドキュメンタリーという言葉は、私たち写真を見

る者に、その写真の真実性を担保する言葉として機能しているのである。つまり、「ドキュ

メンタリー写真」という名のもとに、見る者はそれを客観的真実として信じる権利を獲得

する。一方「アート写真」と言われれば、それはあくまでも撮影者の表現であって、実際

の現実に依拠している必要はないと捉えられる。そのため、撮影者が「アート写真」と名

乗れば、いかようにも加工することが、見る者によって許されることとなるのである。こ

のように、膨大な写真に接する上で、「記録」「ドキュメンタリー」「表現」といった名付け

は、先に述べたような見る者の不安を解消する役割を担い、一方では撮る者と見る者の共

犯関係を成立させている。

しかし、大辻が述べているように、カメラという機械を使う限り、目の前のものを写し

取るという機能自体を捨てることは、撮る者にはできない。また、楠本が「アートという

ことで表現(あるいは主体性)を指す」と述べているが、ここまでの論で、主体性を伴わ

ない撮影行為は不可能であることを繰り返し論じてきた。入り混じったその二面性のうち、

どちらが多くの割合を占めるか、また撮影者が特に写真のどのような特性を重視して撮影

を行ったか、といった基準による分類は便宜上必要であるかもしれない。しかし、一鑑賞

者にとって、その名付けに便宜的呼び名以上の信頼を寄せるのは、第一節にて述べた「自

由」に反して、自らの写真に対する見方を規定することでもある。この呼び名への信頼は、

11 楠本亜紀「ドキュメンタリー写真の地平、の一歩手前」『写真空間1特集「写真家とは誰

か」』(2008)所収、p.118.

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一枚の写真は、撮られた瞬間から記録性と、撮影者の主観という意味での表現性の両方を

含むものである、という写真の特性を見失わせる原因になる。このことを指して、自身も

写真家である大辻は「迷惑なこと」と言ったのだろう。

以上のことから、本論文では、一人の鑑賞者が写真を「見る」という行為において、「ド

キュメンタリー」や「アート」といった分類を前提とすることはしない。以後、具体的な

作品分析をする上でも、注目すべきは写っているものが現実世界をいかに模写しているか

ではない。撮影者が、カメラという機械を選びとっている時点で、撮影者が写真に表した

い「何か」は、写真の記録性と自らの表現性の両面を必然のものとして内包することを鑑

賞者として意識したい。その必然性の中にこそ、写真だからこそ可能になる、「現実」に対

する既存認識の更新があると言えるだろう。

第3節 作品と対話する鑑賞者

本節では、鑑賞者が写真を見るという行為を通して、写真とどのような関係を築くこと

ができるかを考える。まずは、以下の引用から、写真に写された世界のごく一部が、鑑賞

者の意識にどのような想起を促すかについて考える。

描かれた対象、或いは彫刻された、或いは物語られた対象は作品の限界ではない。も

のが世界を背景としてのみ知覚されるように、芸術によって表現された対象も宇宙を

背景として現れる。(中略)画家は畑や花瓶を描いているとしても、その画面は全世界

にむかって開かれた窓である。麦の間を通るこの赤い道を、われわれはヴァンーゴッ

ホが描いたよりももっと遠くまで、その先の麦畑の間まで、その先の雲の下まで、海

に注ぐ小川までも追っていくだろう。われわれは、畑と合目的性とを支える奥深い大

地を、果てしなく、世界の他方の果てまで引きのばす。したがって、創造的行為の目

的は、若干の対象をつくりだすことによって、或いはふたたびつくりだすことによっ

て、世界の全体を取り戻すことである12。

人は、物理的に終わりを持たない全世界を、宇宙を、つくりだすことも認知することもで

きない。人が創造できるのは物理的な制限を持った一部である。しかし、一部は全体の中

でしか存在し得ないので、一部を創造するということは全体への意識を促すことでもある。

人によって創造されたものを見る者は、一部を認識した後、その意識は全体へと向かう。

12 『文学とはなにか』p.65.

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このような意味で、人が芸術作品として描き出した、あるいは掘り出された、物語られた

世界の一部は、物理的な制限を持ちながら、意識の上では限界を持たないものなのである。

芸術作品は、その向こうの全体へと見るものの意識を誘う契機として存在するのであり、

このことからさらに芸術を見るという行為は、目の前の作品を視覚的に認知することにと

どまらず、意識の上での想起にまで至るということがわかる。

これは写真においても言えることで、写真に写された対象が、限定的に写された世界の

一部であると気付いたとき、鑑賞者の意識はそのフレームの外へ出ることができる。絵画

や彫刻、文学などの芸術作品は、必ずしも現実そのものに依拠している必要はない。例え

ば、作家は、実際には目にしていない戦争の惨禍を文章に書くことも、もっと言えば、古

代や中世を舞台にした小説を書くこともできる。彫刻家は伝説上の存在や例えば羽根のは

えた天使を彫ってもいいし、絵画に至ってはいうまでもなくどのような線や色に「犬」と

いうタイトルをつけてもいい。それらを鑑賞する受け手は、芸術家がその仮構性の中でい

かに世界の本質を描こうとしているかを読み解くことによって、作品と自らの関係性を築

いていくことができる。

一方で、写真がそれらの芸術と異なるのは、撮影者は写真が撮られたときその場にいた

ということだ。一枚の写真は、その場にいた撮影者と、その目の前の世界の関係性によっ

て生まれたものである。そしてまた、写真に写る出来事は、決して繰り返せない事件であ

る。鑑賞者にとっては、それは絶対に自分の目で直接目撃することのできないものである

一方、前節で述べたように写真が決して記録性から逃れることができないことを思いだせ

ば、少なくとも、そこに写っている世界は自らの現実から断絶されたものではないことを

知る。写真の中の二度と取り戻せない瞬間は、その前後の途切れない時間と空間によって

自らの立つ場所へ繋がるからである。つまりサルトルのいうところの世界や宇宙へ広がっ

ていく意識とは、写真において言えば、写真の中の現実と自らの現実が繋がっていく意識

である。

第一章中で述べたように、写真は例えば「中国人」といった単語が意味する概念を、そ

れ一枚で客観的に体現することはできない。それにも関わらず、多くの写真がそうした単

語と共に記憶され、人々の固定化した認識を構成してきた。それは、世界の出来事の一瞬

間を写真に焼き付けることによって、出来事は知識として見る者の現実から疎外されてき

た。しかし、写真というメディアそのものには、良いも悪いもなく、そこには変わること

のない写真ならではの機能と特性があるだけである。既存認識の更新に写真が機能し得る

とすれば、変わるべきは写真をめぐる主体である、「撮る者」と「見る者」である。サルト

ルは以下のように述べる。

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作者は、このように、読者の自由に向かって書き、読者にその作品を存在させること

を要求する。しかし、それだけではなく、彼が読者にあたえた信用をかえしてくれと、

読者が創造的自由を承認して、読者の側からの相称的な呼びかけにより、作者の側の

自由を喚起してくれと要求する。読書に関する弁証法的逆説は、かくしてあらわれる。

読者であるわれわれが、われわれ自身の自由を感じれば感じるほど、われわれは他人

[作者]の自由を承認する。作者がわれわれに要求すればするほど、われわれは作者

に要求するのである13。

この部分を、これまでの論を利用して写真に置き換えて考えれば、撮影者は鑑賞者による

写真の見方を一切予定することなく写真を呈示する。そして、鑑賞者という他者の存在に

よって、自らの写真がまったく新しいものとして認知され、その主体としての自分が承認

されることを望むのである。それを自由に鑑賞することのできる鑑賞者は、撮影者がどこ

から、なぜそれを、なぜその時に、どのような構図で撮るかといった(もっと言えば、撮

るか撮らないか、という二択すら含む)あらゆる選択肢を持つ自由な存在であることを承

認する必要がある。写真を撮るということ、また見るということが、撮影者と鑑賞者が互

いの主体性と自由を承認しあう相互的な行為になることによって、写真は両者の対話を媒

介するものとして機能するようになる。そうすることで、写真は初めて鑑賞者にとっての

現実となる。写真を「見る」ということは、「撮る」という行為に呼応するものなのである。

そうして全世界の一部である写真から、連続する無限の時間と空間が想起されたとき、写

真は意味の固定化を逃れ、何度でも鑑賞者よる新たな読み方がなされるだろう。

以上、第一章、第二章を通して写真における撮影者と鑑賞者という二つの行為者の存在

から、写真が私たちの既存認識を更新する契機となる条件について考えてきた。次章では、

この二者と、写される世界、被写体との関係性に視線を移す。また、具体的な写真作品の

分析をしながら、本節において述べた、写真の中の世界と鑑賞者にとっての現実がつなが

る体験についても考えていきたい。

13 『文学とはなにか』p.60.

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第3章 被写体との関係性

第1節 鑑賞者と被写体となる世界の関係性

本節では、米田知子の写真集『暗なきところで逢えれば』から、特に「Scene」というシ

リーズを取り上げる。その写真から、鑑賞者が写真中の世界との関係性を築いていく体験

について考える。

米田知子(1965-)は、兵庫県生まれ、ロンドン在住の写真家である。歴史や時間といっ

た目に見えないものをテーマにした作品が多い。『暗なきところで逢えれば』は、2014年

に東京都写真美術館、姫路市立美術館で開催された写真展に合わせて出版されたもので、

「Scene」はそこに所収されるひとつのシリーズである。この作品は、一見何のことはない

風景写真が並ぶものであり、それらには、まるで何十年も前から、そしてこれからもずっ

とそうであるように思われるような、穏やかさや静謐さが感じられる。写真の中にはそれ

を脅かすものは何も見当たらない。しかし、これらの写真に写された場所はどれも、過去

に戦争や事件、人の死があった過去を持つ。鑑賞者は、それを写真につけられたキャプシ

ョンによって知ることができる。例えば、青い空の下に伸びるどこかの田舎道、とでもし

か説明しようがない風景が写された写真(図1)には、「道(サイパン島在留邦人玉砕が

あった崖に続く道)」、穏やかな夕焼けの下に広がる畑の写真(図2)には、「畑(ソン

ムの戦いの最前線であった場所/フランス)」というキャプションがつけられる。それに

よって、ここに写された場所が持つ過去は、鑑賞者に知らされる。それを知ったとき鑑賞

者は、この写真が撮られた一瞬間を超え、意識は時を遡り、ここを歩いたはずの在留邦人

に出会い、今はなき塹壕の跡を、戦車によって荒らされた土地を想像するのである。

左、図1:米田知子『Scene』「道(サイパン島在留邦人玉砕があった崖に続く道)」

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右、図2:米田知子『Scene』「畑(ソンムの戦いの最前線であった場所/フランス)」14

米田は、「Scene」の序文に寄せて以下のように書いている。

歴史は、目に見えるモニュメントや建造物などに現れるものではなく、

その跡地は無形にも存在する。

青空、青い海、木々や野原、街のあらゆる場所に息づいているにも関わらず、

我々が生まれた土地の原風景にすでに刻まれて層となり、

思考からは断絶され静止しているかのようだ。

しかし、その影は経験によって蓄えられた認識と対峙をしながら、

視覚の奥深くに入り込み、日常生活に生きているのだ。

さまざまなベクトルによって歴史は解釈されるであろう。

暴力や悪、悲劇というものは、戦場や現行時のイメージを目撃することだけが

その実質とされ、ある人はそれから目を逸らそうとする。

しかしそれは、しばしば平然と我々の目の前に現れる。

目立たぬ周縁的なもの、その身近な負の痕跡から受ける衝撃は大きい。

過去を現在に照らしあわせることは、再生と希望への導きとなるであろう15。

歴史は多くの場合、それを語り継ぐのに「名前」と「物」を必要とする。なぜなら、時間

は目に見えないからこそ、終わってしまった出来事を他者と共有するのは難しいからであ

る。私たちは、絶えず流れる時間の中に、範囲を設けて名前をつけることで、出来事を認

識しているのである。そして、それを忘れないように、記憶の拠り所としてモニュメント

を求める。この、記憶の拠り所となる場について、フランスの歴史学者ピエール・ノラは、

編者を務めた『記憶の場―フランス国民意識の文化=社会史』の序文で以下のように述べ

る。

こんにち、記憶が結晶化し逃避する場への関心が高まっている。この関心の高まりは、

現代という時代の産物でもある。現代は、歴史のなかでは特別な時代で、一つの転換期

といってもよい。そこでは、過去との断絶という意識が、記憶の崩壊という感情と混じ

14 図1、2:ShugoArts(http://shugoarts.com/artists/tomoko-yoneda/series/scene/)

2016 年 1 月 7 日閲覧

米田知子(2013)『Scene』『暗なきところで逢えれば』平凡社、所収 15 米田知子(2013)『Scene』序文『暗なきところで逢えれば』平凡社、所収

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り合っている。(中略)記憶、すなわち過去との連続という感情は、いくつかの場(リ

ュー)に残存するのみとなっている16。

歴史が加速している。この現象は、記憶と歴史とのあいだにどれほどの距離が存在する

のかを暴くことになった。ここでいう記憶とは、真の、社会的な、ありのままの記憶で

ある。(中略)他方、ここでいう歴史とは、変化の波にさらわれているために忘却を運

命づけられたわれわれの社会が、過去から作り出すものである。一方は、社会に組み込

まれた記憶、無自覚なままに先制的で、社会を編成する全能の原理である記憶、現実化

しようとする記憶、継承を永遠に繰り返す記憶である。そして、先祖たちが生きた過去

の時代を、英雄や起源や神話などが未分化な時間に変えてしまう記憶である。もう一方

は、歴史や痕跡や選別にほかならない、こんにちのわれわれの記憶(それは歴史と呼ん

でもよい)である。近代に顕著な傾向であるが、変化する権利、能力、さらには義務が

自覚されるにしたがって、この記憶と歴史のあいだの距離は広がる。いまやその距離は、

痙攣を生じさせるほどに広がっているのだ。

このように、圧倒的ともいえる歴史の勢いが記憶を置き去りにしている17。

ノラは、過去を記憶しようという義務的な意識とは無縁に、もはやそれが集団の中に一体

化して共有されていた時代が終わり、その結果、私たちと過去をつなげるために「場」が

必要になっていると指摘する。メディアの発展に伴い、世界で起こっていることがリアル

タイムに世界中で共有されるようになってから、私たちが知らなければならないとされる

ことは膨大となった。新しい情報が瞬時に流れていく分、それを全て認識しようとする私

たちの歴史は加速したと言えるだろう。ほとんどは、流れては忘れられていく出来事であ

る。だからこそ、そのうちでも特に重要だと思われるいくつかは、忘れられないようにと

目に見える「場」を拠り所にし、「歴史」として残そうと努めるのである。サルトルの「名

付け」の概念が、連綿と続く時間と空間の中に境目を設けて名前を与えることであるのと

似ていて、歴史は最初からそこにあったのではなく、私たちが過去から選び、名付け、生

み出したものなのである。このようにして、「歴史」と「記憶」は分化し、それぞれの距

離は離れていっているとノラはいう。本来なら、私たちが意識するまでもなく無限につな

がっている記憶が忘れられ、「場」を持つ歴史だけが残っていくのである。

16 ピエール・ノラ編、谷川稔監訳『記憶の場―フランス国民意識の文化=社会史』(2002)、

岩波書店、p.30. 17 ピエール・ノラ編、前掲書、pp.30-31.

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さらに、決定的瞬間を焼き付ける写真もまた、歴史のモニュメントやシンボルのような

役割を果たす。例えば、ロバート・キャパの「崩れ落ちる兵士」がスペイン内戦を象徴す

る一枚として、また、アメリカのナパーム弾によって焼け出された少女の写真が、ヴェト

ナム戦争を象徴する一枚として、今も多くの歴史の教科書に載っているように。それらは、

無数に存在する、そしてこれからも続いていく個々人の記憶とは無縁に、写真の上に凝固

した歴史である。

このような、記憶と歴史の違いを考えた上で、米田の「Scene」に寄せた文章をもう一度

読み直せば、米田の写真がまさにそのような記憶と歴史の断絶を埋める可能性を持つ写真

であることが分かる。歴史的出来事を象徴するモニュメントや建造物がない場所にも、少

なくとも記憶は存在するはずだ。しかし、一見見慣れた風景を為す土地は、異質なモニュ

メントとは対象的に、そこにあるのがあまりに当たり前すぎて、その土地に固有の記憶が

あることを忘れられがちである。また、継承されるべきとされる歴史は、多くの場合、過

去の暴力や悪、悲劇にまつわるものである。モニュメントや、それに代わる写真は、その

ような歴史にまつわる負の部分を正しく知るための手段となり、時に目を背けたくなるよ

うなものすらある。しかしそれは、過去から現在まで変わらずに人間が生きている限り、

どこにでも潜み得る側面なのである。米田の写真のキャプションには、その場所の持つ過

去の出来事の説明の前に、必ず「道」「畑」「野球場」「海」といった、普通名詞がつけ

られる。全ての場所が等しく記憶を持っているという点で、そこに写された世界と、私た

ちが日常において歩く道や、眺める海を区別することはできない。

米田は、一見何もない風景にカメラを向ける。そして、鑑賞者は、それをどこにでもあ

る風景のように眺める。しかし、写真の中の場所が経験した過去の出来事を知れば、目の

前に見えているものの向こうに、目に見えない過去を想起する。それは、自らが生きる現

実と、過去の歴史の断絶を埋める体験である。例えば、歴史の教科書で出来事の決定的瞬

間を捉えた写真を見ることや、大虐殺の慰霊碑を訪れること、または戦争の資料館で資料

を眺めることが、その歴史を知ることと同義のように扱われる。しかし、それだけでは歴

史的出来事を知覚する一つの方法にすぎず、そのような知覚に終始することこそ、ノラの

述べる「歴史」と「記憶」の断絶の原因となる。一方で記憶は、そのモニュメントとして

の「場」に閉じ込められたものが全てではないのである。本来ならば、時間と空間には境

界線がないのであり、そのため、写真によって切り取られた何気ない風景や、その風景が

持つ記憶は、今も私たちが生きる世界に息づいているものである。決して名前とモニュメ

ントを持つ場所だけが記憶を持っているわけではないことに気付くとき、どこでも、誰で

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も持っている記憶という普遍性のもとに、自らの生と写真の中の現実に関係性を築いてい

くことができる。

米田の写真は、歴史を超えて、こうした時間と空間の連なりに鑑賞者を立ち向かわせる

ものである。それは、「場」に固定化した歴史と、忘却された多くの記憶を埋めることで、

鑑賞者と被写体の関係性に、ひいては鑑賞者と鑑賞者にとっての日常との関係性に、気付

きと新たな認識をもたらすのである。

第2節 撮影者と被写体の関係性に見る「個人」の物語

本節では、日本人写真家である長倉洋海の写真と、その撮影の仕方から、固定化された

出来事のイメージの向こうに、確かにいる個人の生と物語を想起する体験について考える。

長倉洋海(1952-)は同志社大学を卒業後、時事通信社に入社するが、3 年後に退社し、

1980 年にフリーカメラマンとなる。長倉が写真家として活動しはじめたのち、1990 年には

イラクがクウェートを侵攻、その翌年には国際連合の多国籍軍が介入し、湾岸戦争が勃発

した。湾岸戦争を巡るメディアのあり方を、写真評論家の鳥原学は以下のように述べる。

当時、多国籍軍の広報部門はジャーナリストの行動を規制しつつ、一方で巧みにメディ

アコントロールを行った。前線取材は大手の通信社や各メディアを集めた合同チームに

のみ許可し、常に軍の報道担当官が同行して報道資料を提供したのである。提供された

素材はハイテクテクノロジーの結晶であるステルス爆撃機や精密な誘導ミサイルによ

るピンポイント攻撃などの映像や写真が多く、人的被害の少なさを強調するものであっ

た。それはモニターに映しだされたテレビゲーム映像とよく似ており、それゆえこの戦

争は「ニンテンドー・ウォー」や「清潔な戦争」などと呼ばれた18。

このように、国際機関によって徹底された情報のコントロールにより、湾岸戦争をめぐる

報道は、多国籍軍の側から、極めて狭い範囲でのみしか取材がなされなかった。そのため、

多くの人が目にするメディアには、単一的で一方的な映像しか流通し得なかったのである。

しかし、そのような時代状況の中でも、長倉は単一的な情報から逃れるため独自の撮影の

仕方を見出していく。活動をはじめて数年こそ、凄惨な戦場を撮影するだけに終始したが、

そのような活動に疑問を抱いた長倉は、やがて自ら現地の被写体と密な関係を築くことで、

大きな出来事としてしか報道されない戦地の中に生きる個人に密着した取材をするように

18 鳥原学『日本写真史(下)』(2013)中公新書 2248、中央公論新社、p.65.

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なる。長倉はそれを自ら「“私”報道」と呼んだ。

長倉が行った撮影取材の中でも、1978 年にソ連が侵攻したアフガニスタンで、ソ連に抵

抗したゲリラ兵のリーダー、アッハマド・シャー・マスードを追いかけたものは、とりわ

け長期にわたるものだった。1980 年、ソ連侵攻後にはじめてアフガニスタンを取材した時

のことを、長倉はこう振り返る。

80 年、カブール近郊まで戦士に同行し、戦闘を間近に見、破壊された戦闘機や戦車、

ソ連兵の死体を撮った。しかし一方で「貧しい国の民が大国ソ連と戦って勝てるわけが

ない。すぐに、この戦いも終わるだろう」とも思っていた。だが彼らは血を流しながら

も、さらに戦い続けた……。「なぜなのか?」「自分の写真は戦争の表面をなぞっただけ

だったのか」。自問が続いた19。

実際に戦地に赴いた長倉自身すら、そこで見たものはメディアの報道でみるものと同じく

表面的なものであったこと分かる。しかし、長倉は、パンシーブで蜂起した、マスードの

ことと、彼の若さを知って衝撃を受ける。そして、ペルシャ語を学び、体力づくりの後、

長い旅を経てなんとかマスードに取材を申し込む。それからマスード率いるゲリラ隊とす

べての行動をともにしてから、マスードが暗殺される 2001 年まで、17 年に及ぶ取材が始

まった。

そうして長倉が写したマスードは、決して勇ましくゲリラ兵を奮い立たせ、勝ち目のな

いソ連を相手に無謀な戦いを挑み、ソ連に「パンシーブの獅子」と恐れられた呼び名から

想像されるような、血気盛んな若者ではなかった。村人にお茶をもらい嬉しそうに微笑む

姿、一人芝生で本をめくる姿、川辺で仲間と一緒にスイカを切る姿。そこには、決して武

器を持つだけではない日常の表情がある。また、戦い続ける、という事実を超えて「なぜ

戦うのか」という疑問に対し、一人の戦士が何を思い、何に対して戦っているのか、とい

う背景に触れることもできるのである。それらはおそらく、取材にいって一方的にカメラ

を向けるだけでは撮ることができないだろう。それは長期間にわたり、ソ連という大国の

側からではなく、一人の若い戦士に寄り添い続けた撮影者が見た、「パンシーブの獅子」

という言葉の奥にいる一人の青年の表情がある。写真集『獅子の大地』をめくれば、長倉

がはじめて出会った 1983 年、30 歳を少しすぎたばかりのマスードがいる。そして、写真

集は 2000 年の写真で終わる。マスードは 50 歳近くだろう。

19 長倉洋海「戦士との 17 年」『獅子の大地』(2000)平凡社、所収

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マスードの戦いは 25 年にも及ぶが、今のもパキスタンが支援するタリバーンとの熾

烈な戦いは続いている。米国はパキスタンの介入を黙認し、世界のメディアの関心も薄

らいだ。しかし、彼はきっとあきらめることはないだろう。

困難と知りつつ闘い続ける人間がいる。私にとってはそれがマスードだった。いつか、

マスードの闘いが歴史の中に埋もれてしまう日がくるかも知れないが、私は撮り続けた

い。彼らが生きた姿とその輝きを伝えるために20。

メディアで報道されては忘却されていく「出来事」の前後には変わらず続いている時間が

あり、当然出来事の原因や、出来事が新たに引きおこした複雑な状況は瞬時に解消される

わけではない。しかし、前節でも述べてきたように、メディアを通して報道される出来事

はあまりに膨大で、それゆえに人々の関心は長くは続かない。見知らぬ土地に流れる時間

に心を寄せることが、そう簡単ではないこともまた事実である。長倉の写真は、そのよう

な出来事と忘却の間に、一人の人間の姿を呈示する。鑑賞者は、その被写体の生を通して、

他者が生きる時間と自らの生きる時間を重ね合わせる。

長倉の活動は、こうした長期にわたる取材、被写体との距離の近さに特徴がある。また、

その被写体とは、名前と共に鑑賞者に呈示される一人の人間である。それは、マスードだ

けではない。例えば、長倉はフリーカメラマンとなって2年目の1982年、冷戦下におけるア

メリカやソ連といった大国の介入の中、右派政権に対して様々な左派ゲリラが対抗した中

米紛争のひとつである、エルサルバドル内戦を取材している。写真集『サルバドル 救世主

の国』には、政府軍の姿もあれば、ゲリラ兵の姿もある。たびたびテロが起こり、人が亡

くなっている。政府軍は、ゲリラ兵の行方を聞き出すため一般市民を尋問する。子どもた

ちは、靴磨きや市場の物売り、農園で労働し、赤ちゃんは野菜かごの中で眠っているとい

った貧しさも写しだされる。写真集は、1982年に撮影をはじめてから、幾度かの取材を経

て1990年までの写真で構成されているが、写真と年を確かめてみても、そのような状況に

大きな変化は見られない。しかし、1982年に撮影された、難民キャンプで泣いている小さ

な女の子ヘスースは、ページをめくると再び現れる。二枚目の写真は1985年に撮影された

ものだ。彼女は、この写真集の出版からしばらくときを経て、再び別の写真集にも現れる。

ヘスースはそのとき、元少年ゲリラ兵と結婚しているのだ。エルサルバドルでの撮影は、

総じて20年になった。一方で、賭けビリヤードを仕事にしている少年カルロスは、1982年

当時14歳だったが、その後幾度かの取材の後、彼が盗みをはたらき刑務所に送られ亡くな

20 長倉洋海「マスードへの想い」、前掲書、所収

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ったというニュースを聞かされることもある。長倉は、そうしたエルサルバドルでの撮影

について以下のように述べる。

戦争をしている国にも、普通の日常生活があるという実感。ニュースバリューのある場

面、絵になる場面ばかりをメディアが流すから、受け取る側もいつも戦闘があると誤解

しがちなんだけれど、現実には決してそうじゃない。戦闘していない時間のほうが当然

長い。(中略)彼らも日本に暮らすぼくたちと同じように、悩み、苦しみ、喜ぶ、普通

の人びとなんです。

だから、ぼくはじっくりと時間をかけて、報道されることのない部分も取材していこ

うと決意した21。

このように、撮影者が被写体と密な関係を築き、変化を捉えることによって、鑑賞者は撮

影者の視線の向こうに生きる個人の存在に気付くことができる可能性がある。報道によっ

て固定化された出来事や自らの中で停止した時間は更新され、その戦争や紛争といった出

来事の名付けからこぼれ落ちている日常や、その先の時間を想像する体験が生まれるので

ある。

21 長倉洋海「エル・サルバドルへの視線」『サルバドル 救世主の国』(1990)JICC 出版局、

所収

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第4章 鑑賞者の自由の制限

第1節 鑑賞者の主体性を必要としない写真

ここまで、写真による既成認識の更新は、互いの自由を承認しあう撮影者と鑑賞者の間

においてこそ起こり得ることを論じてきた。撮影者は、撮影行為におけるあらゆる選択を

担った自由な主体である。その撮影者の主体性と自由を承認するのが鑑賞者であり、その

代わり、鑑賞者は、撮影者によって事前に一切の見方を規定されることなく写真に対峙す

る自由を承認される。サルトルは、このことについて以下のように述べる。

槌を用いて私は、箱に釘を打つこともできるが、隣人を撲殺することもできる。槌を

それ自身として考察する限り、それは私の自由への呼びかけではないし、私を私自身

の自由に向き合わせるものではない。槌はむしろ自由に奉仕することを目的とするも

のであり、手段を自ら自由に作り出すことを求める代りに、一連の伝統的な行為に役

立とうとするだけである。本は自由に奉仕せず、自由を要求する22。

つまり、槌を何に使うかはそれを使う人間の自由に任されており、槌はその自由に従って

生まれた目的を果たすべくそこに存在するだけである。しかし、芸術は、作る者と見る者

の自由を前提にしているが、様々な目的に対しその手段として自由に利用されるために存

在するのではない。芸術は、作る者と見る者が互いの自由を承認しあうこと、それ自体を

目的として存在するものである。自由に作られ、自由に見られることこそが芸術の目的で

ある。そのため、サルトルは以下のように続けるのである。

もし私が読者に呼びかけて私のはじめた企てをよい結果に終わらせることを求めると

すれば、私は読者を純粋な自由、純粋な想像力、無条件な活動性と見做していること

は明らかだ。したがって私は如何なる場合にも読者の受動性に訴えることはできない。

即ち、読者を感動させて、一挙に恐怖や欲望や怒りの感情を伝えようと試みることは

できない。勿論そのような感動をよびさますことだけに関心をもっている作者もある。

何故なら、読者の感動は予見し、支配することのできるものであり、作家は読者の感

動を確実に喚起する確実な手段を手にしているからである23。

22 J.P.サルトル『文学とは何か』p.56. 23 J.P.サルトル『文学とは何か』p.58.

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もし、作家が自らの自由や主体性を他者によって承認してもらうことを求めるのであれば、

読者も同様に主体性と自由を持つものだと見なす必要がある。読者を受動的な存在だとす

るならば、作家は「読者を感動させたい」といった目的に本を従わせることができるが、

そうした特定の受け取り方をあらかじめ定められた本を読むという行為では、読者に既存

認識を更新する余地がないことは、第二章で述べてきた通り明らかである。写真であれば、

撮影者によって一方的に見方が規定されることによって、万人に同じ見方を強制される。

その結果、特定のイメージが社会に固定化していくのである。

本章では、このように、鑑賞者の主体性や自由を必要としない写真や、特定の目的に奉

仕する写真によって、単一的なイメージが生み出さている例について考察したい。本節で

は、リチャード・モスの『INFRA』という作品を取り上げる。

リチャード・モスは、1980 年アイルランド生まれの写真家で、『INFRA』は 2009 年頃

からはじめられたプロジェクトである。それは、内戦下にあるコンゴ共和国を、赤外線フ

ィルムを利用して撮影したものだ。コンゴは 1996 年に始まった第一次コンゴ内戦以降、コ

ンゴ政府と反政府武装組織の対立や、民族対立、周辺国ルワンダ、ウガンダなどとの関係

悪化により現在まで情勢が不安定な国である。その国を撮影するために、なぜ赤外線フィ

ルムが使われたのか。リチャード・モスは、インタビューで以下のように話している。

慎重にいろいろとリサーチをするにつれて、赤外線フィルムにすごい歴史があること

がわかった。軍の探索技術としてカムフラージュを探知するという本来の目的から、

地球科学(地図作成法、水分学、農学、氷河学、鉱物学、考古学)におけるさまざま

な応用などの歴史があるんだ。1960 年代後半のサイケデリック・ミュージックの文化

に与えた影響もすごいと思ったよ。

ボブ・ディランやジミ・ヘンドリックス、フランク・ザッパ、ザ・グレイトフル・デ

ッドなどのアーティストたちが、赤外線フィルムの“ラリっている”色合いにほれ込

んで、アルバムのアートワークやポスターに使用していたんだ。今日でさえも、麻薬

による幻覚症状を連想させるんだ。僕みたいにマジックマッシュルームや LSD を試し

たことない人たちにもね。

人間の目では見えない光の分光を記録できるという、個人的に赤外線フィルムの一

番おもしろい特徴もやがて発見できた。すごくおもしろいと思って、コンゴ民主共和

国の東で起きた忘れ去られた人道的惨事を検証するために赤外線フィルムを使わなけ

ればいけないと感じたんだ。国際救援委員会によると、“アフリカの世界大戦”と呼ば

れるこのコンゴの癌のような紛争によって、1998 年以降少なくとも 540 万人の命が奪

われている。すごい死者の数だけど、僕らの多くはその戦争のことさえ聞いたことが

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ない。見えざる悲劇だね。もしかしたら、この見えないモノを調べることができる赤

外線フィルムを使えば、コンゴにおける戦争に再びスポットを当てられるかもしれな

いと思ったんだ24。

モス自身がこう述べているように、赤外線フィルムには、無意識の人間の視覚にも作用す

る身体的影響がある。意識して見ずとも、むしろ意識して見ないからこそ、その視覚に「幻

覚症状」のような感覚を引き追こさせる。以下の図3〜6のように、赤外線フィルムを通

して写されたコンゴの大地は鮮やかな蛍光ピンクの色を為す。軍の探索技術としてカムフ

ラージュを探知する目的で使われていたことから、コンゴ軍兵士が着る迷彩服も鮮やかに

浮かびあがる。

左上、図 3:2009 年にブスルンギでルワンダ開放民主軍によって行われた虐殺による

被害者の頭蓋骨。頭蓋骨は生存する親戚の依頼から秘密裏にチャンブチャへと持ち込

24 PHaT PHOTO「第 55 回ヴェネチア・ビエンナーレ出展作家 リチャード・モスロング

インタビュー」内、インタビュー・翻訳 Ihiro Hayami

(http://www.phatphoto.jp/mag/cn27/pg240.html)閲覧日 2016 年 1 月 13 日

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まれた。そうする事で、ルワンダ開放民主軍によるブスルンギの住民に対する報復を

心配することなく、記録する事ができるようにするためだ。頭蓋骨は、川岸の濡れた

草の上に写真家によっておかれ、花が供えられた。Memento-Mori 死を想え。

右上、図 4:北キヴ州・マシシ・ビハンブエ近くの農場。この豊かな牧草地では、領地

争いの為残虐な戦いが何度も繰り返されている。

左下、図5:北キヴ州のゴマ市より北 15 マイルほどの場所にあるキブンバにて、バラ

クラバと呼ばれるフードをかぶるコンゴ国軍の兵士。1 週間後、M23 がキブンバへ進

軍し、コンゴ国軍はゴマ市の方へと南下しながらの防戦をよぎなくされた。

右下、図6:群葉でつくられたカモフラージュのヘッドドレスをつけポーズをする反

政府軍「マイ・マイ ヤクトンバ」のメンバー。南キヴ州、タンガニーカ湖近郊フィジ

地域25。

一度見たら目に焼きつくような衝撃を持っているこれらの写真は、コンゴ内戦の惨状を見

る者に訴え注目させるという目的をもって撮られている。そこに、一体どれだけ鑑賞者の

自由な見方が入り込む余地があるだろうか。強烈な色に染まりながらも、不気味な美しさ

と静けさを持つコンゴの大地や、その中に浮かびあがる白骨化した遺体、覆面帽子に迷彩

をきたコンゴ国軍兵士、大きな銃を持つまだ幼さの残る反政府軍の兵士…確かにそこには、

異常な状態でなのであろうコンゴの姿が浮かび上がってはいる。しかし、赤外線フィルム

の色は、その「異常さ」や「不気味さ」といったリチャード・モス自身が、見る者に感じ

てほしいと思う意味を増長させる役割を担っているに過ぎず、これをみた鑑賞者はおそら

くそれに従って「不気味だ」と思うほかないだろう。その衝撃には、写されている「コン

ゴ内戦」という出来事と自らの関係性を築く契機はなく、コンゴ内戦へのイメージはこの

色とともに焼き、そこに継続的な認識の更新は生まれづらくなる。

以上のように、この作品はコンゴ内戦の現状にスポットを当てるという目的のもとに写

真が手段として使われた例だと考える。写真がそのような使われ方をするとき、特定の見

方の強制のもと、鑑賞者はその自由を剥奪されているのである。

第2節 特定のイメージを作為的に選択した写真

本節では、特定のイメージに即した写真を作為的に集めることによって、写真家の意図

25 図3〜6、キャプション:PHaT PHOTO「第 55 回ヴェネチア・ビエンナーレ出展作家

リチャード・モスロングインタビュー」内、インタビュー・翻訳 Ihiro Hayami

(http://www.phatphoto.jp/mag/cn27/pg240.html)閲覧日:2016 年 1 月 13 日

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する意味が作り出される可能性を、レオ・ルビンファイン『傷ついた街』を例に考えたい。

レオ・ルビンファインは、1954 年アメリカ、シカゴ生まれの写真家である。ルビンファ

インは、2001 年 9 月 11 日にアメリカ同時多発テロが起こった際、飛行機が突入し、崩壊

した世界貿易センタービルから 2 ブロック離れたアパートメントに住んでいた。そこから

間近にテロを目撃したルビンファインは、ニューヨークをはじめ、様々な「テロ事件」の

あった街で行き交う人々のストリートスナップを撮り始める。

2002 年から 6 年にわたって、ニューヨークをはじめ、ロンドン、マドリッド、モスク

ワ、イスタンブール、東京など、近年テロ事件の起きた世界各地の都市を訪ね、スト

リートスナップの手法で撮影された写真は、2008 年、写真家自身による長文の内省的

なテキストとともに、『傷ついた街』(Wounded Cities, Steidl 刊)と題される写真集へ

とまとめられました26。

2011 年に日本の国立近代美術館で開催された展示の概要に寄せて以上のように書かれてい

るが、ここに挙げられている街は、撮影された街のうちのほんの一部である。展示に合わ

せて発行された図録『レオ・ルビンファイン 傷ついた街』の出品リストを見ると、ソウル、

モスクワ、ムンバイ、ナイロビ、テルアビブ、コロンボなどその他様々な街で撮影されて

いることが分かる。また、当然ながらテロが起こった瞬間にその場に居合わせて撮影され

ものではなく、多くは事件後 1〜3 年以内に撮られているようである。しかし、撮影された

年が 2002〜2008 年なのであって、必ずしもテロ事件がその期間内に起こったわけではない。

東京は地下鉄サリン事件のあった街として撮影されているが、地下鉄サリン事件が起こっ

たのは 1995 年であるため、撮影された 2002 年は事件が起こってから 7 年が経っていると

いった写真もある。

26 国立近代美術館、展覧会情報アーカイブ、概要、閲覧日:2016 年 1 月 13 日

(http://archive.momat.go.jp/Honkan/leo_rubinfien/index.html)

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左、図7:モスクワ、2003 年、キエフ[ロシア]

右、図8:エルサレム、2005 年、テルアビブハイウェイ[イスラエル]27

全ての写真は共通して人物の顔がアップで撮影されており、写真画面にはほとんど被写

体となっている人物の顔しか写っていないため、それぞれが一体どこの街で撮影されたも

のなのかは、写真だけでは判別できない。ルビンファインは、『レオ・ルビンファイン 傷

ついた街』に「10 年が経ち、3 年が過ぎて」という文章で以下のように述べる。

Well, they would still have in them ratio of dark to light, taking form, as it seems to

do, in the begrimed, besieged, inwardly turned selves of the people, and again in the

care with which they have prepared themselves and offered themselves up. (原文)

それでも写真を見れば、闇の中にきらめく光が垣間見えるはずだ。彼らは攻撃の被害

者らしく、打ちひしがれ、傷つき、内向きになっているように見える。しかし、それ

でもなお、きちんと身なりを整えて街角に立とうとするプライドを失っていない28。(訳)

これらの写真は「テロ事件があった街で撮られた」という前提を鑑賞者に共有しており、

かつそこにはまとめて『傷ついた街』というタイトルが付けられている。さらに、ルビン

ファイン自身の言葉で「打ちひしがれ、傷つき、内向きになっている」と語られているよ

うに、被写体の人々の表情に意味づけがなされている。これらを総合して私たちは、単に

写真に写っている人の顔という情報以上に、その向こうにテロという予想外の攻撃に傷つ

いている、という目に見えない感情を見ることを誘導されている。さらに、それでもその

理不尽さに屈せず生きる姿勢に「光」を見ることができるだろう、という言葉まで与えら

れている。しかし、これらの写真に写る人々の表情に、一体どれだけそこに起きたテロ事

件との関連性があると言えるだろうか。本当に、「攻撃の被害者らし」い表情というものは

存在するのだろうか。

フランスの哲学者、ジャン・フランソワ・リオタールは、ヒステリー患者の行動を記録

した写真について以下のように述べた。

27 画像7〜8:STEVEN KASHER GALLERY

(http://www.stevenkasher.com/artists/leo-rubinfien)より引用

タイトル、キャプション:ルビンファイン(2011)『レオ・ルビンファイン 傷ついた街』「出

品リスト」東京国立近代美術館、p.78. 28 レオ・ルビンファイン、前掲書、所収「Ten Years, Three Years Later」松本薫訳、p.70.

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彼女たちはヒステリーの記録として撮影された。その目的は、仕草によって彼女たち

が語っているかもしれないことの解読である。それは次のことを意味していた。これ

らの身体の諸状態はそれぞれ意味論的要素であって、なんらかの統辞法によって各々

をつなぐことができる、という考え方である。それが正しかったら、文も、規則的連

続も、同時に意味も、得ることができただろう。ところが、彼女たちに語らせるはず

だった写真は、われわれに反対の効果を作り出す。写真は諸状態を宙吊りにして不安

定なまま固定する。写真はそれらを一つ一つ孤立させ、それらをまとめる統辞法を与

えはしない。写真がわれわれに見せるのは、さまざまな緊張の停止である29。

「ヒステリーの症状とはこういうものだ」という行動をまとめるべく記録された写真であ

っても、いざ写真を見てみると、そこには人の筋肉の状態の一瞬間を切り取っているにす

ぎないことがわかる。それは、前後の文脈も出来事も動きも全て切り落とされた、身体の

状態の断片にすぎないのである。そうした写真と現実の間に、一方的に関係性を生み出す

のは見る人間である。そうした意味で、すべての写真は断片にすぎないと言えるだろう。

そして、本論文でここまで繰り返し述べてきたように、それらが写真作品として呈示され

ている限り、その間に意味や関係性を見出すことは、鑑賞者の自由に委ねられているべき

であるが、ルビンファインの写真では、その自由が失われている。ルビンファインの写真

は、様々な次元で意味とイメージの固定化がなされる可能性があると言えるだろう。

一つ目に、テロが起こった街の人々は、共通して皆その事件に由来する傷を表情に携え

ている、と言えるのか、という点である。例えば、地下鉄サリン事件から 7 年が経った東

京で、数枚のみ撮られたスナップ写真に写るうつむきがちな表情を、テロ事件の傷跡と結

びつけることは困難だ。また、被写体を「街」という単位で撮影しているが、その街の中

でもテロが起こったのはごく一部分、実際に被害を受けたのは一部の人である。これらの

写真はすべてストリートスナップで構成されるため、撮られた人はルビンファインとたま

たますれ違っただけにすぎず、撮られた人がどのような人なのかは全くわからないのであ

る。つまり、これらの写真は、当時の出来事から、被写体となっている人や場所の距離を

考慮していない。街、テロ事件、「悲しげな」と形容詞を付けられた表情が繰り返し呈示さ

れるため、出来事の本質は単一化された関係性の中に埋もれていくのである。

二つ目に、「傷ついた街」というタイトルが、人々を「傷ついた」「傷つけた」という二

種類に分類している点である。この作品の原題は「Wounded Cities」である。“wound”は

「傷つける」を意味する他動詞であり、ここでいう“wounded”は受動を意味する形容詞

29 ジャン=フランソワ・リオタール(2002)『非人間的なもの 時間についての講話』篠原

資明/上村博/平芳幸治訳、法政大学出版局、p.180.

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だ。「傷ついた」といったときには、必ず傷つけた主体が意識されているのであり、「傷つ

いた」とは当然「傷つけられた」の意味合いが強いのである。たしかに、「アメリカ同時多

発テロ」という出来事だけを見れば、ニューヨークは傷つけられた街である。特に、眼前

で世界貿易センタービルが崩壊した様子を見たルビンファイン自身がそう感じたことは最

もではある。しかし、その後のアメリカは、アフガニスタン紛争やイラク戦争など「対テ

ロ戦争」を掲げて武力を行使していることを考えたとき、果たして一概に「傷ついた」「傷

つけた」という二者に立場は分けられるのだろうか。「テロ」という目立った出来事を取り

上げ、「傷つけられた」街と「傷つけた」誰かを描くとき、その出来事においてもっとも鑑

賞者が考える余地のある、出来事の本質や因果関係は忘れられ、その「街」と「被害者」

のイメージは固定化していくだろう。

三つ目に、彼らは本当に傷つき悲しんだ顔をしているのだろうか、という点である。先

ほどのリオタールの引用を思い出せば、それがわずか一瞬間の筋肉の状態を記録している

にすぎないことは明らかである。それらの表情を、一言で、「傷ついた」「悲しげな」「内向

きな」といった形容詞で撮影者が表現することはできない。本来ならば、写真に写された

一瞬間の表情に、何を思い、何が現れているか、その複雑さに思いを馳せ、考えることは

鑑賞者に委ねられている自由であったはずだ。ここでは、「このような表情は、悲しさの表

れなのだ」といった意味の固定が行われていることが問題である。

この作品がなぜ本論文において問題であり、批判し得るかといえば、以上の理由によっ

て、作為的に選出されたイメージと結び付けられた意味が固定化し、鑑賞者の自由と主体

性を奪っていると言えるからである。そこに、よく知られたテロ事件や、その事件ととも

に記憶されがちな街や人々に対する既存認識を更新する契機は認められないと言えるだろ

う。

第3節 撮影者の作家性と鑑賞者の自由の行使の限界

本章では、ここまで、鑑賞者の見方が撮る者によって一方的に定められてしまう場合に

ついて考えてきた。これは、写真を道具として一定のメッセージを鑑賞者に伝えるという

目的を達成しようとしている点で、本論文で定義してきた撮影者とは呼べない。しかしさ

らに言えば、このような問題は撮る側だけにあるわけではない。鑑賞者も、写真に対峙す

るとき、常に自らの自由の行使に意識的でなければ、たとえそこに一方的な見方が強制さ

れていたとしても、それに気付くことができないのである。しかし、撮影者自身の被写体

への見方が現れる作家性が、鑑賞者に強いイメージを与えてしまう場合もある。そのよう

な作家性は、時に撮影者の意思を超えて権力に利用されることがある。本節では、木村伊

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39

兵衛やレニ・リーフェンシュタールといった、戦時中に、政府による国内外に向けた戦争

宣伝や印象操作の一端を担った写真家を例に挙げ、そのような写真の役割の中で撮影者と

鑑賞者が互いに自由を保つことの困難さについて考える。

木村伊兵衛は1901年に現在の東京都台東区に生まれ、1920年に写真を学び始めてから、

1974 年に亡くなる直前まで写真を撮り続けた。1932 年には中山岩太や野島康三と写真月刊

誌『光画』を発行、1933 年には名取洋之助、伊奈信男らとデザイン会社『日本工房』を設

立するなど、日本における写真の普及に大きな影響を及ぼした最初期の写真家と言ってい

い。その活動は多岐にわたるため、ここではその活動内容や影響力についてすべて触れる

ことはせず、この後太平洋戦争へと向かっていく日本で盛んになる、戦争宣伝と木村の写

真の関係性について考えたい。

木村には、多くが当時の日本の庶民の生活をテーマとしたものが多くある。1937 年に撮

られた、紙芝居に見入る子どもたちの写真には、誰もみな背伸びをし、互いの頭の間から

一心に紙芝居を見つめる表情が写されており、そこには「平和な当時に、カチカチと音を

残しながら、定った時間にやってくる紙芝居は、一つの風物詩でもあった。不思議なこと

に、あの音を聞かずに一日を送ることに、いらだちをすら感じたことであった30。」といっ

た説明がつけられている。作家の半藤一利は、木村の写真について以下のように述べてい

る。

それは下町生まれというところからつくりだされる庶民性というものかもしれない。

あるいは、気さくな下町気質といいかえてもいい。木村伊兵衛という写真家は、徹底

して自分のまわりにいる人間を愛し慈しんだ。民衆のなかに入りこみ、その貧しくつ

つましやかな生活を写しつづけた31。

また、木村本人は以下のような言葉を残している。

こうして私は、被写人物の日常生活の自然さを尊重して撮影する事を、私の人物写真

に対する信念としている32。

30 『平凡社ライブラリー488 木村伊兵衛と土門拳 写真とその生涯』(2004)平凡社、p.53.

(『木村伊兵衛読本』(1956)研光社より引用) 31 半藤一利「日本人のなつかしの故郷」『別冊太陽 にほんのこころ 189 木村伊兵衛 人間

を写し取った写真家』(2011)平凡社、所収、p.19. 32 『別冊太陽 にほんのこころ 189 木村伊兵衛 人間を写し取った写真家』(2011)p.64.(『写

真文化』第一集(1938)より引用)

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木村は、当時の人と人との距離が近い下町に生まれ育ち、カメラを向けるときも人々の日

常生活の中での表情をさりげなく写すところに、その特徴があったのである。そのような

写真は、演出を排除した「リアリズム写真」と呼ばれた。

しかし、1937 年に勃発した日中戦争の激化に伴い、日本では 1938 年には国家総動員法

が制定され、あらゆるものや人が戦争の中に取り込まれていくことになった。写真家も例

外ではなく、このとき木村を含む日本を代表する写真家は、『写真週報』という国内向けの

グラフ雑誌の写真家に任命された。これは、国策をわかりやすく伝えながら、国民の戦意

を鼓舞する目的で発行されたのだった。

そのような時代状況だった 1940 年、木村は満州鉄道に招待され 40 日間にわたって満州

国を撮影し、それらの写真は 1943 年に『王道楽土』という題名の写真集として出版された。

「五族共和、王楽浄土」というのが当時の満州国の理念で、この五族は日本人、漢人、朝

鮮人、満州人、蒙古人を指し、王道楽土は、孟子の説いた「仁徳に基づく政治」を意味す

る王道と、文字通り「楽しい土地」を意味する楽土を合わせたユートピアのような意味だ

った。満州国は、満州事変をきっかけに日本の傀儡国家として建国された国であるが、そ

の実質的な植民地下の内情については歴史認識の中でも未だ諸説わかれるところでありこ

こでは深入りしない。重要なのは、戦時中に、日本政府の意向と検閲の元でこの写真が出

版されたことである。木村が撮った満州の写真は、この理念にふさわしい、人々の幸せそ

うな笑顔やささやかな日常が、被写界深度の浅い柔らかなフォーカスによって写されてい

る。日本人には、そこに親近感や懐かしさを感じさせ、外国には満州がいかに平和で幸せ

な状態であるかをアピールするといった日本の思惑が感じられることは確かである。しか

し、このような表情を捉える木村の被写体に寄せる視線は、木村が戦争宣伝の一端を担う

写真家として戦争に取り込まれる以前から共通しているところに注目したい。それらの写

真は、「被写人物の日常生活の自然さを尊重して撮影する」という木村の信念に反するもの

だったのだろうか。むしろ、木村はそのような表情を捉えることに長けていたからこそ、

その作家性によって「明るく平和そうな満州国」のイメージを世界に与えるという目的の

ために利用されたと考えられる。おそらく、写真に写っている人々が、撮られた瞬間に、

そのような表情をしていたことは本当だろう。その背景に、虐げられる満州人や蒙古人に

対し、優位に立っている日本人という構図もあったかもしれない、全ての人がユートピア

にいるように笑っていたわけではないだろう。軍部の情報局によって、意図的に排除され

た写真もあるはずだ。しかし、木村伊兵衛という一写真家の撮った一枚を撮り出してみれ

ば、そこにはその目的を達成するべく木村が行った鑑賞者の見方への制限が行われている

とは言い切れないのである。戦後、木村は『アサヒカメラ』に掲載された座談会の中で、

以下のように述べている。

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いよいよ写す時は自分はいないんですよ。ほんとうに機械の機能でもってパッと写し

て、木村というものは、どこかへ消えちゃって、相手の人物を出したい。(中略)そこ

でシャッターを切った場合には写された人物自身が語るわけなんですね33。

これは、木村の写真の撮り方の特徴と共に、写真の特性も表している。確かに、その対象

に目を向け、カメラを向けるのは撮影者であるが、「撮る」という瞬間の出来事は、カメラ

がそれを焼き付けるだけのことであり、現れた写真はその結果でしかない。その写真の公

表のされ方によって強い意味が生まれてしまうが、写っているひとは、その時にそのよう

にしてただそこにいた、それ以上でも以下でもない。

次に、レニ・リーフェンシュタールの例について考える。レニ・リーフェンシュタール

は、1902 年ドイツ生まれの写真家である。20 代前半はダンスに目覚め、ダンサーを志すが

怪我をして挫折、その後は映画女優として活動するうちに映像を撮り、編集する映画監督

という仕事に興味を持つようになる。そして 1932 年、ついに『青の光』という自らが主演、

監督を務める映画を製作した。それから、『青い光』の公開直後に、リーフェンユタールは

ヒトラーに接触している。その経緯は以下のようである。

彼女(リーフェンシュタール)がグリーンランドへ行くためベルリンを出発する前日

の五月二十二日に、ヒトラーの副官ブリュックナーが電話をかけてきた。ヒトラーか

ら「明日ヴィルヘルムスハーフェンにこられるか、たずねろ」と命じられているとい

うのだった。それは彼女にとっては思いがけないことだった。(中略)彼女はヒトラー

から『聖山』中の浜辺で踊る彼女の姿に対する賛辞と、『青の光』に強い感銘を受けた

ことを聞かされた。そのうえ「いつか権力を獲得したら、私の映画を作ってもらわな

ければなりません」という言葉をもらったのだった34。(引用者補足)

ドイツ文学者の平井正は、このことを以下のように分析する。

それはリーフェンシュタールにおける美学の政治化の萌芽だった。リーフェンシュタ

ールには「記録映画」監督としての実績はまったくない。ヒトラーが彼女を起用した

のは、リーフェンシュタールの映像美が、彼をどれほど強く魅惑したかを物語ってい

33 『別冊太陽 にほんのこころ 189 木村伊兵衛 人間を写し取った写真家』(2011)平凡社、

p.74.(『アサヒカメラ』1950 年 1 月号所収、座談会「作画精神を語る」より) 34 平井正(1999)『レニ・リーフェンシュタール――20 世紀映像論のために』晶文社、p.45.

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る35。

リーフェンシュタールは、わずか一作の、しかも最初の劇映画製作によって、人を魅了す

るその表現に、人より長けたところを発揮したのだ。ヒトラーに呼ばれ「私の映画を作っ

てもらわなければ」と言わしめたのは、「効果的にナチ党の宣伝をする」という目的の達成

に貢献しうると判断されたからである。その後ヒトラーの元で作られた記録映画は数知れ

ず、そのどれもがヒトラーを満足させるのみならず、現在にまで参考にされるほど新たな

映像表現を追求したもので、当時の人々は熱狂した。これらは写真ではなく映像作品なの

で、ここで特別それらを分析することはしない。ここでは、このリーフェンシュタールの

作家性と、見る者の反応の関係性について考えるため、リーフェンシュタールが戦後に撮

影した写真を特に見ていくこととする。

第二次世界大戦後、彼女の製作したそれらの映像作品は、ナチスによる独裁とファシズ

ムを正当化し、国民を戦争へと扇動したプロパガンダであったとされた。彼女は政府から

執拗に頼まれてそれらの映像作品を製作したと主張していること、またリーフェンシュタ

ール自身は最後までナチ党に入党していなかったことなどから、非ナチ化裁判では有罪に

問われることはなかった。しかし、実際には戦中の活動によって社会的に黙殺され、創作

の道を絶たれたためドイツを離れた。そして戦後 17 年が経ち、リーフェンシュタールはア

フリカのスーダンでヌバ族と呼ばれる民族に出会う。彼女は、ヌバ族の文化や肉体の美し

さに魅了された。ついにヌバ族と長い間生活を共にし、10 年の撮影期間をかけて完成した

写真集が『Nuba』である。そこに写るヌバ族のたくましい筋肉を持つしなやかな肉体は、

レスリングのために幼い頃から鍛えられたものだという。リーシェンシュタールは自身の

回想録の中で以下のように説明している。

ヌバにとってはレスリングは単なるスポーツ以上の意味を持っている。それは儀式の

中心である。男の子たちはまだほんのよちよち歩きの頃からレスラーの踊りや、戦い

のポーズを真似しだし、かなり年若い時分からレスリングの準備に取りかかって、父

や兄そっくりに体を飾っては、子供同士一丁前のレスリング大会を開いたりしている36。

写真の中のヌバは、鍛えられた体にほとんど衣服を身につけず、代わりに刺青やペイント

によって自らの体に装飾をほどこしている。そして、男性は女性にパートナーとして選ん

でもらうため、レスリングでその肉体の強さを示すのである。ヌバを撮影するリーフェン

35 平井正、前掲書、p.46. 36 レニ・リーフェンシュタール(1991)『回想 下』椛島則子訳、文芸春秋、p.231.

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シュタールを追ったドキュメンタリー映画、『アフリカへの想い37』の中で、リーフェンシ

ュタールは「ヌバは素晴らしい芸術家だ」と話す。これらの写真は、ヌバ族のそのような

美意識をドラマチックに写している。青空を一面背景にして映し出される太陽の照る勇ま

しい表情、ほぼ全裸で、羽の装飾を身に着けて踊る女性の筋肉の躍動感。仰角からクロー

ズアップで写される、塗料で複雑な模様を描いた顔。戦の前なのか、弓や槍を持ち、胸を

張る幾人もの男性の立ち姿が、逆光を利用し青空の下にくっきりとしたシルエットで浮か

び上がる、といったような写真が並ぶ。これらの写真を含む写真集『The Last of the Nuba』

が出版されると、各国のメディアはこぞってそれを取り上げたが、そこには批判的なコメ

ントも多くみられた。中でも、アメリカの作家であるスーザン・ソンタグは、以下のよう

に述べた。

強きが弱きに勝つレスリング試合が男たちの一生の目的であり、そこで証明される肉

体の力と勇気が人々を統一に導く象徴である社会に理想を見いだし、これを美化して

たたえたリーフェンシュタールは、かつて自ら製作したナチ映画の根源的な思想をア

フリカの原始社会に置き換えたにすぎたない。したがってこの写真集はレニのファシ

ストの美意識によって構成されている38。

確かに、肉体やそれのぶつかり合いを美しいとする肉体礼賛的な美意識、さらにそれらの

被写体をダイナミックに捉えるリーレンシュタールの視線は、今で言うならばファシズム

的という言葉で表されるのかもしれない。しかし、第二次世界大戦中から、ナチスの兵士

たちの統一された鋭敏な動きや、劇的に写されるヒトラーの演説、また、ベルリンオリン

ピックで撮影されたスポーツマンたちのしなやかな肉体に、多くの人が魅了されたことは

間違いない。さらに言えば、そうした肉体美やその躍動感に惹かれる人間性というのは今

に始まったことではなく、むしろそれは、人間が生み出してきた芸術作品に、ずっと昔か

ら見られてきたものではなかったか。ヒトラーは、リーフェンシュタールが特にその表現

に優れていることに加え、人々がそうしたものに惹かれるという前提のもとで、自らの宣

伝映画を作るよう頼んだのである。

木村伊兵衛のように日常の何気ない瞬間の表情を捉えたり、レニ・リーフェンシュター

ルのように人間の身体や動きをダイナミックに捉えたり、といった視線は、それぞれの撮

影者のものの見方、被写体に寄せる視線の固有性である。撮影者自身に鑑賞者に特定の感

37 レイ・ミュラー監督『アフリカへの想い』(2000)、出演:レニ・リーフェンシュタール、

ホルスト・ケットナー、製作国ドイツ 38 石岡瑛子監修(1992)『LENI RIEFENSTSHL LIFE』求龍堂

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情を呼び起こさせるような意図があり、その目的を果たすために写真を利用している場合

に限らず、そうした特徴のある視線が鑑賞者にとっての親しみや懐かしさ、また「美」へ

の憧れといった感情に結びついてしまうことがあることが分かる。そして、それらが意図

的に第三者によって利用されたとき、そこに好意以上の陶酔とも言える強い熱狂を生むこ

とがあるのも事実であることは見てきた通りである。しかし、それらを振り返り、そのよ

うな写真を「ファシズム」「プロパガンダ」「戦争宣伝」という言葉で括ることで社会的に

抹消することは、本当に写真や映像による印象操作が行われたという事実に対する反省だ

と言えるだろうか。そうした印象操作は国や時代に限らず、政治や広告など、権力や資本

のある者によって常に行われていることである。例えば今の日本は、戦中のように、法律

などによってあからさまに国民全員に同じ方向へ進むことを強いる時代状況ではないので、

それらの写真は極端なイデオロギーなどには結びつかず、より印象操作だと気付かれにく

い形で社会に存在していると言える。そのような社会で写真を見る上で、印象操作から逃

れる術は、やはりここでも、写真の向こうの一撮影者の主体性を意識することではないか。

写真は絶対的な価値や、善悪を示すものではなく、あくまでも一人の撮影者のものの見方

が反映された形であるのを忘れないこと。それは、写真が鑑賞者のものの見方を侵食し、

それが社会的に一般的な、または正しいとされるものの見方へとすりかえられていくこと

への抵抗となる。だからこそ、木村伊兵衛やレニ・リーフェンシュタールを、彼らの写真

が利用された時代的文脈の中でただ否定することもまた一つの意味の固定化であり、妥当

ではない。世界の断片としての写真一枚に対し、限られた見方を強制した文脈を超え、撮

影者の視線が捉えた被写体の姿を凝視する。それをする自由は、依然として鑑賞者として

の人々に許されるべきなのである。それは、撮影者が自らに固有なものの見方が逃れるこ

との難しさ、それが鑑賞者に与えられる文脈によっては強い感情を引き起こしかねないと

いう写真の危険性、限界性を打破し、互いの自由を行使し続ける上で欠かせない行為であ

るはずだ。

次章では、こうした写真にまとわりつき未だ払いきることのできない、自由を剥奪しか

ねない「意味」へ生涯を通して抵抗し続けた写真家の営みについて考察していく。

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第5章 事物に与えられた「意味」と写真の「記録性」を問う −中平卓馬−

第1節 <意味>から逃れる“同時代的”写真とは

本章では、1938年に生まれ、1960年代にカメラを持ち始めてから、本論文執筆中の2015

年9月1日に亡くなるまで写真を撮り続けた写真家、中平卓馬について論じる。その理由は、

中平が生涯にわたり、既成の意味からの解放に挑み続けたことが、本人が残した様々な文

章と写真から読み取れるためである。撮影者として常に自分の行為に意識的であったこと

がうかがえる生涯の活動を考察することで、そこにある写真の「意味」と「記録」に対す

る考え方がどのように写真に反映されているかを探り、本論文の目指すところである写真

による既存認識の更新への手がかりとしたい。

まず、第一節では、自身が写真を始めた後、ヴェトナム戦争、キューバ危機、東大安田

講堂事件と様々な社会問題における写真の扱いを問うた1960年代の文章を中心に見ていく。

中平卓馬は、1963年に東京外国語大学スペイン語科を卒業し、現代評論社の編集者などを

経て、東松照明や森山大道など、当時活躍していた多くの写真家と知り合う。1965年には

現代評論社を退社し、自らも写真を撮るようになった。中平が写真を始めた1960年代は、

多くの大学で学生達が自治を求めた学生運動、1970年の日米安保条約自動延長に反対する

70年安保闘争、冷戦下の中アメリカが直接介入したヴェトナム戦争の泥沼化に対する反戦

運動など、権力に対抗する人々による社会運動の気運が高まっていた時代である。それに

より、実際にデモ隊と国家の機動隊が衝突し、たびたび死者が出たことも問題となってい

た。そのような時代の中で、写真は様々な立場を取らされていた。現場の客観的な記録と

して、一方では互いが互いの暴力的行為を摘発する材料として、さらにはそのような対立

構造の中で、特定の社会的立場をとる写真家による意思表明、自己表現の材料として、と

いったように。中平も、そのような場にカメラを持って参加していた写真家の一人であっ

たが、彼はこの時代の写真のあり方に、そして、何より撮影者としての自らの行為に対し

て問題意識を持ち続けた。中でも、美術出版社発行の雑誌『デザイン』内で、1969年の5

月から8月にかけて、連載された「同時代的であるとはなにか」という文章に、当時の中平

の強い問題意識を見ることができる。

写真は一体何の力たり得るのか?それが根底的な唯一の問いである。巨大な歴史のうね

りの中で、あるものは手に石を持ち、棍棒を握り、そして血を流していく。それを例え

ば、“棍棒を握る手にカメラを握る”といった一見政治的な理由をつけ、ぼくたちが自

らを正当化する時、生きるべき大切なにかをぼくたちはすでにして放棄してしまうので

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はあるまいか?(中略)そのような“社会正義派的”写真家のあり方が問われているの

だ。彼らは言う。「生命をかけて真実に接近して、すすんで歴史の証人になること」「真

実を冷ややかに客観的に掴みとること」なるほど結構である。もし真実というものが、

おのれの歴史に規定された現在とまったく無傷に、外部に、客観的に存在するものなら

ば。彼らはヴェトナムに行き、沖縄に行き、キューバに行き、あるいは東大安田講堂に

出かけ、まるで河原の石ころを拾うように真実を拾い集めればいい39。

この、挑発的とも言える文章に、中平の、「社会派」を名乗る写真家に対する強い違和感が

うかがえる。それは、権力に向かって石や棍棒を握る被写体の人々と、カメラを握る自ら

を対等に位置付けながら、写真の「記録性」を盾に、自らを出来事の客観的な記録者と自

認して憚らない写真家に対する違和感である。中平は、自らもまさに今、歴史の中の「現

在」に生身で参加している限り、自らの外部に、真実を捉えることは不可能であると指摘

する。それにも関わらず、その場でシャッターを押すだけで、真実に対して自分だけは外

からそれを客観的に記録することができていると考える写真家の行為は、本論文のここま

での議論と照らし合わせても、撮影者自らの現実と、目の前の被写体がいる現実を断絶さ

せることである。その、目の前の生身の現実にたいして、自分を疎外させる写真家のやり

方は、現実を石ころのように生のないものにしてコレクションする行為にすぎないと中平

は厳しく批判する。客観的報道がありえなかった物理的な原因のひとつについて、中平は

自らの目で見た安田講堂事件を例に挙げて以下のように述べる。

一つの例として一月十八日、十九日の安田講堂をめぐる東大全学共闘会議派学生と警視

庁機動隊との“攻防戦”いや学生への国家権力による一方的な、しかも用意周到な殺戮

は、テレビを通してまた新聞、雑誌のグラビア写真を通じて大々的に報じられた。(中

略)だがしかしここでどうしても問題にされなければならないのは、いわゆる報道関係

者、“事実を客観的につかみとる”べき報道写真家たちの視点は国家権力の視点以外で

はありえなかったという単純な事実である。物理的、地理的にそうだったということで

ある。報道者は機動隊員とともに敵方の安田講堂を見上げ、その位置からしか、引き起

こされつつあるすべてを見ることができなかったということである。(中略)ここには

本人が自覚したか否かは問わず国家権力との歴然たる共犯関係が成立していたのだ40。

39 中平卓馬(2007)『見続ける涯に火が…批評集成 1965-1977』オシリス、所収「同時代的

であるとなにか?」p.57.(『デザイン』1969 年 5~8 月号掲載) 40中平卓馬、前掲書、pp.58-59.

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ここで中平は、ある切迫した出来事の現場に対してカメラを向けるとき、写真家が立つこ

とができるのは常に攻撃される側ではなく攻撃する側の立ち位置であることを指摘する。

これは、第一章で述べたように、出来事に対して単一的な写真が溢れる一つの理由である。

中平は、安田講堂事件について「一方的な、しかも用意周到な殺戮」と否定的な表現をし

ているが、しかしそれに対して「事実を客観的につかみと」ろうとした写真家に対しても

否定的である。中平がここで批判するのは、物理的に、自分たちは決して攻撃されない場

所に安住していながら、それに無自覚に、「客観的事実」を呈示することによってみずから

の社会正義を主張する、その手段としてカメラを持っている写真家である。そのような権

力との共犯関係の中で生まれた写真でありながら、それらは新聞や雑誌、グラフ誌などで、

機動隊の鎮静の方法に対して批判的な報道となって見る者に提供されるという矛盾がある。

この場においてすっぽり見落としているのは報道者もまた現実に生きている存在であ

るという認識であり、またその存在が歴史によって媒介され、歴史によって貫かれてい

るという自覚なのだ。みずからの歴史的実存の意識に変わって、ちょうどその穴を埋め

あわせるかのように、社会正義と客観的真実という価値がもちだされてくるのだ。だが、

一体、生きるということは何なのか?現実とは何か?また真実とは何か?そして写真家

もすべての人々が問われているこの問いをまぬがれることはできない41。

たしかに<客観的>などというあいまいな言葉を安易に用いた時、記録はただの機械の

問題、物理工学的な問題に堕してしまうだろう。ぼくは再びこの記録という言葉を、現

実に生きている自己記録者の内面としての生の記録から出発して、それと世界との対応

関係(それこそが歴史であり、生なのだ)のうちに再び記録をとらえなおさねばならな

いと感じている42。

この二つの引用から見えてくるのは、撮影者としての中平の意識である。まず、出来事に

対して決して外部の人間ではいられない撮影者は、自身もまた現実の一部であることから

逃れることはできない。過去から未来へと続いていく歴史に、現在という地点で貫かれて

いる一存在なのである。むしろ、このことが忘れられているからこそ、出来事には客観的

な真実や社会正義が存在し、撮影者はそれを写す目になることができるという考え方がな

されてしまう。たとえ、カメラという機械を手にしていたとしても、現実の一部として生

きている撮影者は、自らの生と世界の関係性の中でしか目の前の現実を写すことはできな

41中平卓馬、前掲書、p.60. 42中平卓馬、前掲書、p.61.

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いのである。それこそが写真における「記録」なのであり、撮影者は、カメラを持たない

人と同様に、自分と世界との関係の中でしか生きることができず、その中に現実や真実を

見出すことしかできないのである。よって、客観的で唯一の現実や真実などは存在しない

ということである。

以上のように、中平は写真における現実と記録のあり方を捉え直すことで、権力との共

犯関係に従属しながら客観的記録を主張していた撮影者を、自らを含めて振り返り、批判

した。そして、自分の目指すところの撮影者のあり方を次のように述べた。

ぼくの想像する真に“同時代的である”写真とはおそらく次のようなものであるだろう。

それは何よりも薄められた<意味>を捨てさっていなければならない。それは世界が〜

であるとか、現代は〜であるとか、あるいは人間は〜であるとかいったすべての断言、

あるいはそういった断言に基づいた観念、知識、価値観の比喩的、象徴的、寓意的展示、

展開であってはならないということである。またそれはおそらくすべての形容詞、例え

ば「悲しい」とか「不幸な」とか「すこやかな」とかのすべての形容詞をはねのけ、そ

の上に赤裸な現実の断片を指示する事物の映像でなければならないだろう。(中略)だ

が日頃あまりにもよくみられる一枚の写真、例えば、B52 か大空をおおい、いたいけな

少女が泣きながら立っているといった沖縄の写真はもうあまりにもその関係を如実に

語りすぎるのだ。あるいはそれを撮った写真家の意識には沖縄のおかれた不幸な状態に

対する同情とそうした社会的、政治的不正義に対するプリミティブな怒りはあったであ

ろう。それを否定するつもりは僕にはとてもない。だがすべての同情心が、すべての一

般的な正義感が現実に何者をも生み出さなかったように、この一枚の写真もそれを見る

ぼくたちの意識をつゆとも揺さぶりはしないのだ。それは沖縄に行くまでもなく、この

“太平”の東京でおそらくそうであろうと想像した“不幸な”(これが形容詞なのだ)

沖縄のイメージを何一つ変えてはいなかったのだから43。

ここまでに述べてきたような、歴史の一端の中に自らの世界の関係性を記録する写真を

「“同時代的である”写真」と言い換えて中平はいう。世界とは、現代とは、人間とはこう

である、といった決めつけられた意味を体現する写真は、ここまで見てきたように、鑑賞

者に自由を許さないものであり、なんら既存認識を更新するところがない。さらに、写っ

ているものを見て、どのように感じ何を考えるかは鑑賞者に委ねられているべきものであ

るため、あらかじめ「悲しい」や「不幸な」といった形容詞が付与されている写真も同様

43中平卓馬、前掲書、pp.77-78.

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49

に、鑑賞者の自由を制限するものである。その例として、中平は沖縄の写真を挙げる。ア

メリカ軍の軍機が空を飛び、その下では少女が泣いている。そのような写真には、撮影者

のアメリカ軍基地がおかれた沖縄の状況に対する同情や怒りが感じられたとしても、鑑賞

者にとっては「沖縄とはこうだろう」と予想できるイメージそのものを体現したものにす

ぎない。それは、鑑賞者を安心させるものではあっても、決して意識を揺さぶるものには

なり得ない。それどころか、そうした写真は、また一層鑑賞者の沖縄に対するイメージを

固定化するのである。それを批判する中平の目指すところは、事物を事物以上でも以下で

もなく写し、それを鑑賞者に指示するだけの写真である。

客観的な写真がありえないことを自覚し、何かを啓発したり社会に蔓延している意味を

再認するだけの写真から離れ、現実の当事者として自らの生と現実との関係性を呈示する。

このような撮影者の行為によって鑑賞者の意識を揺さぶることができるという考え方は、

本論文で述べてきた主張と大きく通じている。中平は、カメラを手にし、自ら写真家とし

て活動する中で、権力と写真の結びつきや、そこに確かにあってしかし意識されない意味

の強制を肌身で感じたのだろう。そしてここから中平は、自らの写真家としての行為によ

ってこの問題意識の克服に挑み続けることとなる。

第2節 『サーキュレーション―日付、場所、イベント』における実践

本節では、1971 年のパリ青年ビエンナーレに参加した中平卓馬の作品『サーキュレーシ

ョン―日付、場所、イベント』について考察する。これは、作品というより中平の行為そ

のものであり、決して国際的な展覧会の場に展示するものとして完成されたものとは言い

難いが、前節で見てきた中平の考えや違和感に対し、自身がどのようにそれを克服しよう

としたか、その思考の跡が見てとれるものである。

まず、中平は、日本から完成された作品をパリに持っていき、展示することをしなかっ

た。それはなぜか。ビエンナーレに参加した直後、「現代芸術の疲弊」というタイトルをつ

けた文章で中平は以下のように述べた。

イメージ、それこそが芸術を芸術たらしめ、芸術家を芸術家たらしめる当のものであっ

た。なぜならイメージとは個が世界と対応するその形式であり、その場合ア・プリオリ

に前提とされているのは、完結した世界とそれに対応する完結した個という機械論的な

図式であったろう。(中略)そこには世界−私という直接的な対応、世界は世界であり、

私は私であるという確とした不動の関係が想定されていた。そして芸術とはこの関係の

個的な繁栄の外化、表出であったのだ。個々の作家におけるその反映の微妙なずれ、そ

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れこそが芸術家の個性を保証するものであった。個性、単に芸術にとどまらず生活の領

域においてさえ、これほどまでに尊重され、神聖化されたものがあっただろうか44?

ここで中平は、芸術家による芸術作品の多くは、世界を個々のやり方で反映したものだと

言う。世界は確固としてそこにあり、芸術家自身も確固とした個人としてそこにあるとい

う前提のもと、芸術家はどのようにその世界を自らの手で作品として反映させるか、とい

ったところで個性を競い合っているにすぎない。そして、そのような行為の中では様々な

イメージは生まれるが、そのどれも世界や個を揺るがすものにはなり得ない。そのような

理由で、イメージの反映の仕方に見られる個性だけが重視される芸術を、中平は批判して

いる。また、ビエンナーレには大きく 4 つの部門があり、「①アール・コンセプチュアル(概

念的芸術)②イペルレアリスム(超写実主義)③アンテルヴァンション(干渉芸術)④セ

クション・アンヴォア(いわゆるメール・アート)45」のうち、中平はアンテルヴァンショ

ン部門に参加することになっていた。このことについて、中平は以下のように述べる。

アンテルヴァンション、それは文字通り訳せば干渉とか、介入とか訳されるべきである

が、その意図するものは、いわゆる個人による個人の表現を作品という固定した小宇宙

に閉じ込め、それを鑑賞者が鑑賞するといった従来の一方通行の形を否定し、作家とそ

れを見、あるいはそれに触れる不特定多数との間に干渉し合い、介入し合う一つの相互

に媒介的な関係の領域を作り出そうというものであった。

その意図を理解したぼくは「サーキュレーション―日付、場所、イベント」を実行に

移そうとした。展覧会の開催中の何日間かを選び、一日一日ぼくが触れるすべてを写真

に写し、その日のうちに現像し、焼付け、その日のうちに会場に展示するというワンデ

ー・プログラム。そのような方法を選んだ第一の理由は、先にのべた個人のイメージに

塗り込められた世界の模写(それはあるがままの世界をイメージという固定観念で染色

し世界を人間中心に展開することである)を拒否すること、それよりはるかに世界によ

って私自身を浸透され尽くそうということであった46。

このように、中平は、自らの作品をすでに固定化したイメージのひとつとして受け取られ

ることを避け、むしろすでに人々の意識の中で固定化してしまった世界や、個人に介入し

44中平卓馬(2007)『見続ける涯に火が…批評集成 1965-1977』オシリス、所収「現代芸術の

疲弊」p.198.(『朝日ジャーナル』1971 年 12 月 10 日号掲載) 45 中平卓馬、前掲書、p.201. 46 中平卓馬、前掲書、pp.201-202.

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ようとしたのである。それは、前節から述べているように、中平の強い現実に対する当事

者意識の表れであると言えるだろう。カメラを構えた自らと、世界を断絶させることなく、

また他者と自分を断絶させることなく、同じ「日付、時間、イベント」に貫かれた者であ

る、ということ自体を行為によって呈示しようとしたのだ。それはまた、他者や世界に介

入することであると同時に、それをする限りで、自らも世界や他者に介入され、更新され

ていくということでもあったのである。

かくして始まった「サーキュレーション―日付、場所、イベント」に写っているものは、

中平によって名前も意味も付与されない、なにかの写真である。中平が見たものをそのま

まに写し出したもので、それはつまり中平の生の記録であり、中平の意識に介入した世界

の記録であり、中平と世界との関係性の痕跡でもある。

左上、図9

右上、図 10

下、図 1147

それらを通してぼくの目指したものは、ぼくが現実に出会い、そしてそのことによっ

て揺り動かされたその振幅を、同様に他者に向かってつきつけることであった。それは

<その日のうちに>それを見る、あるいはぼくの写真の群れの前を擦過する人々に向か

47 図9〜11:OSIRIS for photography and literature(http://www.osiris.co.jp/cdpe.html)

より、中平卓馬(2012)『サーキュレーション-日付、場所、行為』オシリス、所収

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って開かれた第二の現実にならなければならなかった48。

鑑賞者は、これらの写真から特定の意味を受け取ることはできない。しかし、本来ならそ

れこそが裸の現実であり、事物は事物でしかない、というのが中平の主張である。私たち

の周りには、前節で中平が指摘したような、あらかじめ他者が意味や形容詞を付与したイ

メージがあまりにも多く、さらにそのことに対して無意識である。写真やその他の芸術作

品に完成した意味を求める限り、それは本論文で定める鑑賞者の態度とは言えない。その

ような態度に対して中平は、写真一枚でなにかを伝えようとしたのではなく、自らが身の

回りの裸の現実そのものに意識的になる行為を示すことで、その現実の在りかを見る者に

呈示したのである。その現実とは、中平自身に介入し、浸透してきたものであり、さらに

それは見る者の意識に介入する第二の現実となる。固定化された個人に対し、見ることに

対して意識的になること、それと同時に見ている対象が自らの生に介入してくる体験を促

すのである。それは、単に完結した個として完結した他者や世界を眺めることではなく、

互いに影響しあい変容し、変容され得る関係性を築くことである。

それがどこまでうまくいったかは、ぼくのはかり得ることではない。それはそれに出

会い、個人個人の意識の中で、各々異なる位相において、しかるべき位置を占めるであ

ろう。あたかもひとつの現実に対して一〇〇人の人々がおのおの異なった意味を見出す

ように。それを決定的に個々人にまかせきること、それがぼくのテーゼであった49。

中平は、写真に対してだけではなく、現実そのものに対しても、個々人がそれぞれの意味

を見出すことを求める。それは、誰に与えられるものでもなく、誰に与えることができる

ものでもない。中平が「異なる位相において」と述べる通り、それぞれの人間の全ての要

素、例えば年齢、性別、国籍、性格、意識の状態といった全ての条件のもとに、自分と世

界との関係性の中にだけ現れる。それでも、中平は引用 10 にあるように<その日のうちに

>を強調する。それは、その日付だけを拠り所として、その同時代を生きる当事者意識へ

の気づきを促すことである。この展示を振り返り、中平は最後に以下のように述べる。

今ぼくは、この仕事を通じて、少しだけ自分のいうこととやることが一致し始めたこと

48 中平卓馬(2007)『見続ける涯に火が…批評集成 1965-1977』オシリス、所収「写真、一

日限りのアクチュアリティ」p.213.(『アサヒカメラ』1972 年 2 月号掲載) 49 中平卓馬、前掲書、p.214.

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をかすかに感じはじめている50。

実際のところ、この展示をはじめた数日後には、フロアや受付のカウンターにまで張り巡

らされ、さらに多くはひとりでにはがれ落ちたり、いたずらで剥がされたりするなどした

写真に対して苦情が寄せられ、主催者側から撤去するよう命じられる。それに従わなかっ

た後、作品は主催者側によって一方的に撤去され、話し合いも決裂したため、中平は開催

期間を数日残して一人帰国することとなった。しかし、この展示は、前節で述べてきた写

真への違和感や、本節で述べた個人と世界の二元論に対する違和感に、中平なりに抵抗し

た痕跡として捉えられると言えよう。それは、写真に写され呈示された世界と鑑賞者の間

の二元論的な断絶を埋める試みだったのである。

第3節 繰り返される写真批判と、新たに生まれる可能性

パリ青年ビエンナーレに参加する前年の 1970 年、中平卓馬は『来るべき言葉のために』

という写真集を出版している。しかし、その後は写真を撮るより文章を書くことが多くな

った。その間、中平は繰り返し、前節で述べた「イメージ」や「意味」を写真から排斥す

ることについて述べているのだが、それと同時に、以前のように写真を撮れなくなってし

まったことを度々告白する。1973 年には、評論集『なぜ、植物図鑑か』の中で「なぜ私が

これほどこれといった形で仕事をすることもなく、写真を撮るよりは、はるかに多くの時

間を写真という方法が成立する社会的基盤について考えることにこの二年近くを費やして

きたのか、またもうすこし個人的に言うならばなぜ以前のように写真を撮ることができな

くなってしまったかについて51」思いを巡らせている。そこに読み取れるものは、世界はこ

うであろうとあらかじめ撮影者によって予想されたイメージを反映するものとしての写真

への違和感と同時に、まだ自らの写真にそのようなイメージ故の詩や情緒が感じられるこ

とをめぐる葛藤である。

みずからの写真をふり返ってみて、なぜ私はほとんど「夜」あるいは「薄暮」「薄明」

をしか撮らなかったのか。また、なぜカラー写真ではなく、モノクロームの写真しか撮

らなかったのか。さらになぜ粒子の荒れ、あるいは意図的なブレなどを用いてきたの

か?それは単に技術的な問題にすぎなかったのか。むろんそれもあったろう。だがそれ

50 中平卓馬、前掲書、p.214. 51中平卓馬(2007)『見続ける涯に火が…批評集成 1965-1977』オシリス、所収『なぜ植物図

鑑か』(1973)p.289.

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を超えて、さらに深くそれは私と世界とのかかわりそのものに由来していたと言えるの

ではないか。結論を先に言ってしまえば、それは対象と私との間をあいまいにし、私の

イメージに従って世界を型どろうとする、私による世界の所有を強引に敢行しようとし

ていたように思えるのだ。この曖昧さから<詩>が生まれ、情緒が生まれてきたのであ

る52。

粒子が粗く、ピントが合わずにぶれた画面を写し出す手法は、「アレ、ブレ、ボケ」という

フレーズとともに、中平卓馬や森山大道が代表した作風に見られるものとして有名である。

それは本来、ファインダーを覗いて自らフレーミングしピントを合わせることを避けるこ

とで、自らによる世界への意味づけを逃れる目的ではじめられた。しかし、中平はその自

らの撮り方を否定する。多くの写真が日光のほとんどない時間に撮られていることや、世

界をありのままに写さない「アレ、ブレ、ボケ」の表現に、自らと世界との関わり方が現

れているという。それは、あるがままの事物を見つめ、また事物に見つめ返される、その

視線の交わるところとしての世界をただ記録することとはほど遠く、むしろ日光に晒され

露わになった世界を避け、自分の持つイメージを写真に反映しやすい時間として夜を選ぶ

ことで物の輪郭をぼやけさせ、詩を呼び起こさせるものだったと分析する。そのイメージ

とは、あらかじめ自らの中に存在する世界に対する既存認識であり、それが写真の上に「詩」

として表出していることに中平は否定的である。

<夜><闇>に溶暗する事物、それは私が見ることをあきらめ、同時に、その照りかえ

しとして、事物の視線を、事物が事物として充足するその瞬間から眼を閉ざすことを証

していたのではないのか。むろん、それまであったあらゆる写真が、結局のところ、世

界の意味を ステロタイプな図式にのって安易に図解してみせていたにすぎないこと、

それへのほとんどやみくもな否定衝動にかられて私は写真家として出発した。しかし、

そこにもかかわらず、私はもうひとつの陥穽におちいってしまった。それは結局私自身、

彼等の一亜種になりさがることを意味した53。

中平は、それまで自らが絶えず批判してきた、人間による世界への思い込みや一方的な意

味づけからいかに逃れようとしようとも、結局その手法がまた「表現の個性」として受け

とられ、鑑賞者に詩や情緒といった、本来なら事物が持つはずのないイメージを与えるこ

とに気付いたのである。そうしたイメージを反映した写真への批判として自らの撮影行為

52 中平卓馬、前掲書、pp.300-301. 53 中平卓馬、前掲書、pp.301-302.

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を行っていながら、再び自らの写真批判へと返っていく。そうした写真のあり方への批判

の反復としてしか写真を撮れないという矛盾であった。そのような状態の中で、初期の「ア

レ、ブレ、ボケ」が見られる作品のネガの大半を、自ら焼き払ったことが有名なエピソー

ドとして残っている。

しかし実際のところ、一体どれだけ厳密に、中平の述べるようにあらゆる意味を排除し

て事物を事物として見ることが可能だろうか。中平は、同時代の写真家、篠山紀信の写真

に対して文章で応答するという趣旨の『決闘写真論』の中で以下のように述べている。

われわれは毎日毎日をひとつの意味の体系としての<遠近法>にしたがって生きてい

る。この<遠近法>はわれわれの行為と経験、身振りと習慣、こういったものがより合

わさって出来上がったものである54。

ひとたびまちが身体化されれば、ひとは出会いを怖れ、極力それを避けようとする。出

会いはつねに異質なものとの出会いであり、それは時には<私>の構造を解体してしま

う恐れもあるからだ。<私>はこのように保守的であり、自己保存的である。そしてそ

れがわれわれの日常というものを形づくっている55。

つまり、私たちは日常を生きる上で、すべてをあるがままに見つめ、世界のあらゆる事物

と一から関係を築きながら生活を送ることはできない。その社会に染み付いた習慣や、生

きてきた時間の経験から生み出された名前や意味を受け入れることは、世界や他者との距

離感を測って自らを守るためである。それこそが日常であるということを中平も認めてい

るのである。しかし、そうした人間の性が、写真や映像を通してマスメディアによって利

用されてきたことは、再びヴェトナム戦争や学生運動の例をあげるまでもなく明らかであ

る。自らを安心させるために許容する、既成のイメージは膨らみ続けていた。中平にとっ

て、写真を撮ることはそうした社会の現状に反抗することであったのであるが、それは突

き詰めれば、自分と世界との距離感を壊し続ける行為でもあった。実際に中平はその後、

自らと世界との距離感をとることができなり、幻覚を見るようになったという。「幻覚とい

ってもありもしない幻を見るのではなく、つまりそれはこの距離感の崩壊であり、事物と

私との間に保たれているはずのバランスを喪失することであった56」と語る中平は、日常生

54 中平卓馬、篠山紀信(1995)『決闘写真論』朝日新聞社、所収、中平卓馬「まち」(1977)

p.80. 55 中平卓馬、篠山紀信、前掲書、p.82. 56 中平卓馬(2007)『見続ける涯に火が…批評集成 1965-1977』オシリス、所収「ウジェー

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活にも支障をきたしひと月の入院をせざるを得なくなった。意味への抵抗として写真を撮

ることと、日常生活を困難なく送ることが、両立できなくなっていたのである。そのよう

な視覚異常を患った後にも、中平はあくまでこう繰り返す。

見る者の<遠近法>をもゆるがし、見る者を不安に導く。だがそのことによってひとは

再び見るとは何かをあらためて問い直す。それは不安でもあるが一種のすがすがしさを

も伴っている。なぜなら、見るとは、正確には、意味で固められたわれわれの視線を他

ならぬ見ることによって崩壊させることであり、そこにかつて見ていた、所有していた

と信じていたものが崩れ去っていくのを目撃し、それにかわって新たなものを再発見す

ることであるからだ57。

与えられたものをそのまま享受する中で固定化した認識を、世界への凝視によって更新し

ていく。世界との関係性を築き直し、また築き続けること、これこそまさに、本論文で繰

り返し主張してきたところである。多くの人々が、自らの世界との間に横たわる距離に気

づくことなく、誰か(その多くは特に権力や資本のあるものであろう)が作りだした意味

と現実の断絶にも気づかない中で、中平は写真を通してその目に不安という痛みを伴って

も新たなものの見方を呈示することを諦めなかったのである。それが、時代状況の中でイ

メージの増幅に利用された写真に対する、中平なりの向き合い方だったのだ。

それから 1977 年、中平は自宅でパーティーを開催中に泥酔し、意識を失う。それにより

記憶障害を患い、これほどまでに多弁な写真家であったにも関わらず、話すことや書くこ

とも困難になった。しかし、写真作品の発表は、記憶障害を患う以前よりも、以後の方が

盛んである。1982 年『写真装置 4』で発表された「写真原点 1981」という作品によせて、

中平は以下のように述べる。

もう五年近く前になるだろうか。一九七七年十一月私、急性アルコール中毒症という忌

まわしき大病で死にかかり、急きょ、東邦医大、大森病院に運び込まれ、十二月中頃、

辛うじて肉体そのものが完全化し、退院しました。正に、肉体そのものだけは、完全化

したのですが、それとは逆に、私、ほとんど何事も思い出すことが出来ず、かなり厳し

い精神的不安に晒され、生活し続けています。(中略)確かに、私ようやく必要な文章

を書くことが、可能になりましたが、先ず何よりも、私が写真家で在る、と言うことに

固執し続けております。その一点を、私、放棄することは、全く不可能です。正にそれ

ヌ・アッジェ」p.328.(『アサヒカメラ』1973 年 11 月号掲載) 57中平卓馬、篠山紀信『決闘写真論』所収、中平卓馬「まち」(1977)p.

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故に、私が生き始めた生の原点こそ、私が写真家で在る一点である、と思考し抜いてお

ります58。

また、その後 1983 年に出版された『ADEIU A X』には、

私、今日、素朴な写真家にまいもどりました。

だが、私、素朴な写真家にまいもどったとしても、新たに現実世界に出会った時には、

自意識が解体され、自らの意識を新たに造り上げねばならぬ行為そのものが、無限に課

せられてくる59。

と書いている。

記憶の大半を失いながら、自らが「写真家」であることを忘れてはいない。1977 年の記

憶喪失は、決してその前後の生や活動を分断するものではない。なぜなら、引用 59 の言葉

から、1977 年以前に中平が述べていた主張が相変わらずほぼ同じ言葉で語られるからだ。

記憶喪失を患う前、中平は自ら「スランプ」を語り、生きることと写真を撮ることの摩擦

に苦しんでいた。それ故、中平は自らの現行を一致させ、自らから世界に対するイメージ

を排除する出来得る限りの方法として、記憶を自ら手放したように思えるほど、その記憶

喪失は中平の写真理論を実践する上では必然だったと言えるだろう。世界や事物との距離

を保ちながら「日常」を送るのではなく、自らを解体しながらも写真家であり続けること

が選ばれたのである。

決定的にいつ頃からそうなったかは不明であるが、現在見られる中平の写真のうち後半

を占める写真が、カラー写真でかつ縦の構図で撮影されている。縦構図は、横並びの目に

よって横に広い視覚をもつ人間に対して当然不安定さを感じさせるものである。さらに、

通常写真を撮るときは、その場の明るさや撮る対象、見せ方によって露出やシャッタース

ピードなどをそれぞれ設定するが、それらが行われていないのである。つまり、遠くのも

のにズームアップして撮ることも、物をすべてフレームの中に収めるためにズームアウト

することもない。大きく見るには近寄るしかない。これは、限りなく中平の目で見たもの

に近いのである。さらに、夜間にものを写す際には、当然それに即した設定が必要となる

が、固定された設定では、一定の条件が揃ったときにしか見ているものが写らない。それ

故にカラー以後の写真はすべて昼に撮影されたものである。これは、中平が、夜を選んで

モノクロ写真を撮っていた自身を厳しく批判していたことと無関係ではないだろう。そし

58 中平卓馬「写真原点 1981」『都市 風景 図鑑』(2011)月曜社、所収、p.619. 59 ß

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て、これらの写真は最終的に出版物になった際も、展示された際も、中平によって選ばれ

た 2 枚ずつをセットに並べて鑑賞者に呈示されている。2003 年には、雑誌『エスクワイア』

に、写真家、森山大道と中平卓馬の以下のような会話が掲載されている。

森山大道「ほとんど身近な景色だね。鳥、家の屋根、猫、植物、人物……。すごくいい

ね。モノでも人でも。」

中平卓馬「……(写真を 2 枚組にする)」

森山「そのおじさんと猫を 2 枚組にするの?こっちのほうがいいよ。猫と筍のペア。」

中平「これは関係あるんだよ。はじめはただ猫を撮ってたんだね。で、猫を見てる方向

を見たら人が寝ていたから撮った。そういう関係……猫の道じゃないかな。」

森山「関係がありすぎやしないか60。」

このように、2 枚の写真の組み合わせは、中平が現実にそれを見、撮った行為の中での関連

性などから生まれているようである。よって、それらの 2 枚の選択には中平の主体性があ

るが、鑑賞者に対して特定のイメージを抱かせるよう作られた物語性はない。

記録という行為は、記録者のある志向的意識の下に、自然的に存在し契機するばらばら

の現実を組織化し、再び現実に投げ返してやることである。それ故に映像とは、記録者

の絶対的な意識のフィルターを通しながらも、それ自体新たな現実としてそれを見る他

者の再び同じプロセスに向って開かれているという意味で、いわゆる「作品」ではなく、

一種の媒介であるということが言えるだろう61。

中平は 1970 年から上のように語っているように、中平の最後期の写真は、中平が撮影を通

して現実との関係性を構築したのと同じく、中平の写真を見る鑑賞者にも同様の行為がな

され得る形をとっている。つまり、鑑賞者は自らの主体性の中で、中平の写真との関係性

を築くことができるよう開かれているのである。私たちの中で固定化する既存認識を更新

していく上で、誰かが撮った写真が作用する可能性はここにあるだろう。それはつまり、

私たちが、社会の中で作られ固定化されたイメージに覆われた「現実」の総体しか見えて

いないとき、写真はその「現実」をばらばらに解体し断片として差し出す。イメージに反

60 『Espuire3 エスクァイア日本版 写真の現在』(2003)エスクァイアマガジンジャパン、

p.87. 61 中平卓馬(2007)『なぜ、植物図鑑か――中平卓馬映像論集』筑摩書房、所収、p.136.「ド

キュメンタリー映画の今日的課題」(1970)

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抗する撮影者は、自らにとっての現実を直視し、その関係性において写真を撮る。すると、

鑑賞者は自らに与えられた自由に従って、写真に現れた新しい現実と自らの間に関係性を

作り出す。それは、ひいては鑑賞者と現実そのものの関係性を更新することにつながるた

め、撮影者はそこで現実と鑑賞者を媒介し、鑑賞者を現実に対して能動的にする契機を担

うことができるのである。

生涯を通して写真を批判する写真家であり続けた中平は、その行為すべてで、私たちに

イメージの強制への危惧と、写真の可能性を体現していたといえるだろう。

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第 6 章 既成の名付けから個人を解放し、新たな普遍性へ

第1節 曖昧な同一性と個をありのままに写し出す撮影行為

本章では、撮影者と鑑賞者の対話によって、社会において単一的な分類に当てはめられ

る被写体を解放し、そこに起こる新たな気付きの体験について具体的な作品とともに考え

たい。

本節では、森栄喜の『intimacy62』を観る。森栄喜は、1976 年石川県金沢市に生まれ、

高校生から写真を始める。森は、同性愛者であることを公言し、男性を被写体とする写真

を多く撮影している写真家である。2011 年に台湾で刊行した写真集『tokyo boy alone』は、

東京の少年たちのポートレイトで構成されたものだった。ついで 2013 年に出版されたのが

『intimacy』であり、この写真集は、森とその恋人が出会った頃から撮りためられた日々

の写真によって構成されている。それらは 35mm フィルムを使用して撮影された、森自身

と、森の恋人となる男性と、その他わずかな友人たちが登場する日常のスナップ写真であ

る。写真集の一枚目にある写真(図 12)について森は、「一番最初の日に撮った彼の写真だ

ったからです。それもその日撮り始めてすぐに撮った写真です。彼がその頃住んでいたマ

ンションの屋上で撮りました63。」と語る。ごく普通の住宅街を歩く恋人の姿が写る写真に

は、写真を撮る森自身の自身の影が写りこむ(図 13)。また、人物だけではなく、互いの部

屋を写したものや、文庫本など物が積み重なるテーブル、森の恋人が書く日記の1ページ

を写したものなど、そこには相手の生活にまつわる物や場所に寄せる視線も投影されてい

る。

左、図 12

62 森栄喜(2013)『Intimacy』ナナロク社 63 Changefashion.net、Interview

(http://changefashion.net/interview/2014/02/07193202.html)2016 年 1 月 17 日閲覧

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61

右、図 13

図 1464

立ち位置、ポーズはほとんど指示していない。一見、ゆるい構図もあって、「これだ」

という写真の連続ではないけど、モザイク画みたく、全部見たら一つの大きな絵みた

いになるよう目指した65。

森がこう述べているように、鑑賞者がここに見ることができるのは、森と恋人の姿そのも

のというより、二人の間の距離や空気感である。それらの写真一枚一枚が強い意味を持つ

わけではなく、それらすべては『intimacy』を構成する一つのピースにすぎない。そして、

最後のページに使われた写真については、「最後の写真は彼と僕の影が寄り添っていて二人

で歩いていく。写真集は一年間だけの記録だけど、現実の僕たちの毎日のように、写真集

の中の二人の毎日もずっと続いていくだろうと66。」と話す森にとって、『intimacy』という

写真集もまた、過去から未来へと途切れることなく続いていく日常を切り取ったものにす

ぎないのだろう。出会う前の二人もいたのだ、これから先もずっと恋人同士でいられるか

は分からない。しかし、少なくともその時二人がともに過ごした瞬間があったことを、写

真は淡々と切り取るだけだ。

日常は、誰にとっても決定的な瞬間の積み重ねなどでは決してない。よほどいつもと違

う出来事や、大きな喜びや悲しみといった感情を呼び起こす出来事は特に記憶として残る

64 図 12〜14 Changefashion.net、Interview

(http://cangefashion.net/interview/2014/02/07193202.html)2016 年 1 月 17 日閲覧

森栄喜『Intimacy』所収 65 中日新聞 web 森栄喜インタビュー

(http://www.chunichi.co.jp/hokuriku/article/popress/human_recipe/CK2013111302000

211.html)2016 年 1 月 21 日閲覧 66 Changefashion.net、Interview

(http://changefashion.net/interview/2014/02/07193202.html)2016 年 1 月 17 日閲覧

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62

かもしれないが、多くはほとんど意識しない時や日々が積み重なって人生を構成している。

それは、写真が切り取ることができる、なんでもない瞬間の連続でもある。そのような個

人の人生は、この写真集と同様、はっきりとは言えないけど気付いたらぼんやりと大きな

絵になっているようなモザイク画のようなものかもしれない。

さらに、そのような日常を生きる自分自身や他人の存在を、一言で表すこともまた難し

い。「わたしはこうである」と自分にも他人にも同定することができる要素を「アイデンテ

ィティ」というが、それもまた一つではなく、一人の人間には様々な要素が含まれる。そ

してまた、その一つ一つの要素すら確固として存在するわけではなく、ときに揺らぎ、と

きに変容する。例えば、森栄喜の性的志向は「同性愛者」「ホモセクシャル」と一般にはい

うことができるが、果たしてそうである人とそうでない人の間に明確な境界線を設けるこ

とは可能であろうか。実際、表紙にも使われている写真(図 14)は、日の差し込む部屋の

ベッドに、男性が二人折り重なって座っている、という出来事だけを見れば、同性愛者で

はない人にとって「自分とは異質のものだ」という視線で見ることはできる。だが、写真

集を手に撮ってページをめくれば、本当はそうした単語では到底名づけることのできない

要素が集まって、たった一つの言葉には回収されるはずもない「個」として、誰かが、そ

して自分自身が存在することに気付く。だからこそ、彼は、立ち位置やポーズを指定しな

いことで、自分が、自分や恋人や日常に向ける視線をそのまま写真に落とし込む必要があ

った。「ただ、そうである」という自分をオープンにする必要があったのだ。そうした相互

の視線の中で、撮影者、被写体、鑑賞者は、自らを単一的な言葉で同定しようとするアイ

デンティティから互いを解放する。それは鑑賞者にとって、写真の中の他者の日常と、自

らの現実の間に関係性を見出す行為でもある。そしてモザイク画のように曖昧な自らの揺

らぎに気づいたとき、そこには新たな普遍性へのまなざしが生まれるだろう。

写真の中の二人のささやかな日常の中で次第に濃くなる親密感(intimacy)は、それを

見る自分が誰かと作ってきた親密感を想起させる。相手を見つめる視線、相手と自分の間

に落ちる影、相手が過ごす家に投げ置かれた文庫本のタイトルまで落とし込まれた瞬間の

重なり。そうした、思い出そうとしても思い出せないほど小さな積み重ねの中で、少しず

つ誰かと距離を縮めること、誰かに愛し愛されること、過去と未来の間に位置する曖昧な

日々を誰かとともに生きることは、決して彼らだけのものではなく、当然「異性愛者」の

人々の間にのみ存在するものでもないと気づくのである。

第2節 「らしさ」をそぎ落とす「人」対「人」の撮影行為

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本節では、石川竜一の『okinawan portrait 2010-2012』から、被写体をとりまく既存認

識や、その人らしさを鑑賞者に想像させる周縁的なものを排除する視線を見ていく。石川

竜一は 1984 年沖縄県生まれの写真家である。『okinawan portrait 2010-2012』は、2010

年から 2012 年にかけて石川が沖縄で撮影した 3000 人に及ぶポートレイト写真の中から生

まれた作品である。石川は自転車に乗って沖縄を走り、通りすがりの人に声をかけてその

場で撮影していったという。そのため、ほとんどは路上で撮られ、その人が何者かを語る

のは、その人自身の姿でしかない。

左上、図 15

右上、図 16

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64

下、図 1767

石川は、同時に発売された写真集『絶景のポリフォニー』の中で、以下のように述べてい

る。

現実はいつも過剰だ。そして、人の器はあまりにも小さい。自分の置かれた世界に

向き合い、打ちのめされた時、その器は木っ端みじんに砕け散り、また無意識のうち

に新しい器を形成しようとする。自分の居場所なんてものを探しまわる。全てが用意

されているはずのこの世界で、自分の希望(経験したこと、もしくはそこから容易く

導き出せること)に沿ったものだけを選び採ろうとしてしまうのだ。

重要なのはそうではなく、今そこにあるものを、できる限り受け入れることだ。「研

ぎすます」や「無駄を削ぎ落とす」ということは技術的なことではなく、自分の経験

や培ってきた概念をできる限り捨て、今この時と向き合うことだ。そうすることで、

これまでの鎖から解放され、また新しい「何か」が入ってくる。捨てて捨てて捨てて、

今この時に捨てられずに残ってしまっているもの。それが今の自分のどうしようもな

いクソッタレのアイデンティティに他ならない68。

特別、笑いかけてくるわけでもなく、何かを訴えかえてくるわけでもなく、それらの写真

は、その人「らしさ」ではなく、その人の存在そのものの記録である。「その人」がただ存

在する、その生の生々しさは、先入観のない視線によって実現する。「らしさ」とは、見る

者の経験から導き出される既存認識の一つである。「沖縄らしい写真」と言ったとき、そこ

には見る者の沖縄に対する先入観が先行している。そのほかにも、「らしさ」という言葉に

は、例えば「学生らしい態度」「女性らしい振る舞い」などと言ったように、そこには無意

識のうちに、「こうあるべき」という先入観が存在していることが分かる。ある一人の人に

対しても、見る者、対峙する者は、相手のそうした属性や話し方、身につけているもの、

などの様々な周縁的要素を経験に当てはめて、相手がどういう人かを予想するのである。

ここで石川がいう「器」というのも、このようにして人が現実の出来事や他者を知覚する

認識のことではないだろうか。

こうした「らしさ」を鑑賞者に見せることは容易である。その人がどのような属性を持

67 図 15〜17:AKAAKA ART PUBLISHING

(http://www.akaaka.com/publishing/books/bk-ishikawa-op.html)2016年1月19日閲覧、

石川竜一(2014)『okinawan portrait 2010-2012』赤々舎、所収 68 石川竜一(2014)『絶景のポリフォニー』赤々舎

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ち、どのような嗜好を持ち、どのような職業に就き、どのような性格で、どのような気持

ちなのか。それを類推することができるような、表情や周縁的な要素を写真に落とし込め

ば、見る者はそこに意味づけし、その人がいかなる人かを一方的に読み取ることができる

だろう。しかし、石川は、被写体からそれを剥ぎ取るために写真を撮る。人々が、出来事

や他者を、自分が受け入れられるだけの認識に当てはめようとするのに対し、石川は、相

手を自分の器に当てはめることも、相手をその器ごと写真に収めることもしない。一人の

「人」を、最小単位で見つめ、自分自身も同じく「人」として向き合うことで、もはや「こ

れ」と名付けることもできない小さな気付きを、その関係性の間に見いだすのである。ま

た、石川はこう述べる。

写真には自分の意識を超えたものまで写ってしまう。それを知っているにもかかわ

らず、写真について語り、思いを巡らせていくなかで、それがもともと自分のもって

いるもののような、高尚な気分に浸ってしまう。しかし、それは全部後付けに過ぎず、

本当はただ、その人と、その場所で、その時にしかない、写真との出会い。それだけ

だ。そんななかで写真はいつも話しかけてきてくれる。「お前が探しているのはこれじ

ゃないのか」と。しかし、それも断定はできないのだ。多分、永遠に69。

写真を撮りながら、ともすれば再び自らの経験から導きだされた認識に相手を当てはめて

しまいそうなとき、それでもそれは「撮った後」だからこそ自分の目に見えてくるもので

あって、「撮る前」に自分が写し出せるものではないと石川は自らを戒める。その人と、そ

の場所で、その時にしかない出会いに加えて、それが表出した結果である写真との出会い

もまた新鮮に受け止める。そこには、撮ったときの自分にも気付かなかった、自分の知覚

以上のものを発見できるからである。それでも決して、自分が求めているものとの出会い

はなく、同じく「人」対「人」の交流である撮影行為には、毎度新たなものが生まれてい

くのである。

鑑賞者は、ここにその人らしさを見出すことも、まして沖縄らしさを見出すこともでき

ない。鑑賞者もまた、唯一無二の石川と被写体一人一人と対峙することを求められる。そ

れは、それらの写真の前にして「らしさ」を導き出す自らの経験が無意味になり、人間の

存在そのものとして自らと被写体との間に普遍性を見出す体験である。『okinawan portrait』

とは、複数のポートレイトから「沖縄」を描き出す試みではなく、単に、沖縄で石川が出

会った 3000 人分の「okinawan portrait」の集積に他ならない。ここには、「沖縄」という

69 石川竜一(2014)『okinawan portrait 2010-2012』赤々舎

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既存認識に抵抗し、ただその自らの存在だけを主張する、撮影者と被写体の存在が写し出

されているのである。

第3節 変化する街を記録する撮影行為

本節では、畠山直哉の『気仙川』『陸前高田 2011-2014』を題材に、時の流れから疎外さ

れた町の変化を捉えることによって、そこに生を取り戻す試みについて考える。

畠山直哉は、1958 年岩手県陸前高田市生まれの写真家である。日本国内の石灰石鉱山や

セメント工場を撮影した『LIME WORKS』、石灰石の鉱山で発破が行われる瞬間の写真で

構成された『blast』、渋谷の地下に流れる渋谷川を撮影した『underground』など、都市を

構成する要素でありながら人の目に触れない部分を、マクロな視点で撮影した作品が多い。

畠山は、2011 年 3 月 11 日に起こる東日本大震災で、津波によって生家を流され、母を亡

くすという経験をする。それを経て発表されたのが『気仙川』、『陸前高田 2011-2014』で

ある。

『気仙川』は、震災以前に畠山が撮影した故郷の写真と、震災が起こった直後、東京に

いた畠山が家族の安否を確認しに陸前高田へ帰省した際に撮られた写真、さらに帰省する

道中について書いたエッセイで構成される写真集である。それに続く形で出版された『陸

前高田 2011-2014』は、震災後も定期的に陸前高田を訪れ、大判カメラでその様子を 2014

年まで記録し続けた写真で構成される。

『気仙川』の「あとがきにかえて」において、畠山は以下のように述べる。

僕は二〇〇〇年を越えたあたりから、故郷の陸前高田市気仙町で、どうということも

ない写真を撮るようになった。それほど熱心ではなかったから枚数は少ないけれど、

それでも以前のように、ぜんぜん撮らないということではなくなっていた。(中略)僕

は暗室で時々プリントを焼いては壁に貼ってはぼんやり眺め、特に人に見せることも

なく、「un petit coin du monde(地球=世界の小さな一角)」とラベルを貼った箱に、

それらをしまった。(中略)二〇一一年三月十一日に東日本大震災が起こらなければ、

それらの写真はあいかわらず「プティ・コワン・デュ・モンド」の箱に入ったままで、

僕がおこなう時間にかんする空想の資料として時々引っ張りだされていただけだった

ろう70。

70 畠山直哉(2014)『気仙川』「あとがきにかえて」河出書房新社

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ここからわかるように、震災前に撮られた写真は、本来ならば作品として発表される予定

のない写真であった。それまで、撮影者個人の記憶とは距離を置いた写真を発表し続けて

いた畠山が、震災直後にこの写真を作品として発表したことに、見る側の戸惑いの声は少

なくなかった。「アーティストとして作品の一貫性を欠いている」という批判に対し、畠山

は「僕はアーティストとして、自分とアートとの関わり方ではなく、自分と世界との関わ

り方を示したいと思っている71。」と述べた。撮られたときは作品ではなかったにせよ、震

災という、さらに見慣れた町を、生家を、母を失うという経験を経た後に開かれた形で社

会に提示することを決めたところに、撮影者としての主体性を見る。一体畠山は、これら

の作品を通して、どのように自らと世界との関わり方を示そうとしたのだろうか。

『気仙川』では、穏やかな海に浮かぶ船の写真を右ページにし、左ページにはエッセイ

の文章が書かれる。

無事なのか駄目なのか、すべての結果はもう出てしまっているはずだ。いや、違う。

僕も、僕がいままでに会った誰も、まだその結果を知ってはいないのだから、結果は

まだどこにも存在していないのだ。(中略)誰も知覚できないことは現実とは呼べない

だろう。よってあの場所で起こっていることは、いまの時点では現実ではない。だか

ら「壊滅的」とか「絶望的」などという言葉は、頼むから使うな72。

多くの人にとって、「気仙沼」「陸前高田」と聞けば、メディアで繰り返し見た瓦礫の山し

か思い浮かばないのと違い、畠山にとっては写真の中の穏やかな海こそが自分の知覚でき

る現実だ。神社にそびえたつ立派な御神木が、合唱の練習をする中学生(もしくは高校生

か)が、橋のかかる気仙川が(この橋は津波で流された)、そしてその川の写真を撮る母親

が現実なのだ。自分の知っている町と、メディアや東京の人々が語るその町の様子の間に

は、どうしても埋めがたい断絶がある。しかし、それは逆もしかりで、「被災地」の陸前高

田しか知らない鑑賞者に、それ以前の陸前高田もあったのだということに気づかせるのが

これらの写真である。

明日からは、今までの人生で経験したことがないほどの痛烈な刺激を、膨大に知覚す

ることになるだろうけれど、僕はそのためにここに来たのだから、すべてをできるだ

けはっきりと把握して、僕の現実に位置付けなければならない73。

71 2015 年 4 月 6 日銀座ニコンプラザ「remenbarance3.11」フォトセミナー 72 畠山直哉(2014)『気仙川』河出書房新社 73 畠山直哉、前掲書

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68

この故郷を目前にした場面でエッセイは終わり、ページをめくるとそれまでは 1 ページに

一枚だった写真が、見開きに一枚となって現れる。それは、被災したあとの陸前高田で撮

られた写真である。瓦礫の山、今にもう倒壊しそうに傾いた家々、ひっくり返った車、こ

れこそメディアによって多くの人に知覚されてきた被災地なのだが、ここでは、これを撮

った畠山直哉という撮影者の存在を想像する。それは、何もかもが倒壊し、流される前の

故郷と、一瞬にして変化した震災後の陸前高田を結びつけることを強いられた一人の人間

である。

故郷の姿は、いまでは人々の記憶の中と写真の中にしか存在しない。どうということ

もなかった僕の写真は、僕の意図とは無関係に「記憶を助ける」ものに突然変化して

しまった74。

たとえ写真が特別な感情に彩られているように見えるとしても、それは僕の能力のせい

ではなく、ひとえに出来事のせいでしかない。無責任な言い方になるかもしれないが、

これを近代芸術的な文脈で理解しようとすることは、つまり「写真としてどうか」とい

う風に理解しようとすることは、僕にはもうどうでもいいことのように思える。このよ

うな時の写真の振る舞いの身勝手さは人の手に負えず、僕らはそれをひとつの現象のよ

うに、ただ見つめることしかできない75。

これから先も、目の前の風景が変わらずにあると思われたときには、それを写した写真一

枚一枚が特別なものに見えないのは当たり前のことである。その風景は確かに日々変化し

ているのだが、そうした変化は日常においてほとんど意識されない。例えば、川が夏の太

陽を照り返している写真と、同じ川でもどんよりとした空の下で河原に雪が積もっていた

写真があったとしても、「季節が変わったんだな」とその変化を頭の中で補うことができる。

写真の中の母に比べて、目の前の母に皺が増えていたとしても、「それだけ歳をとって老い

たのだ」と納得することができる。人は、無意識のうちにも時間を補うことができるのだ。

見慣れた町を撮った写真ならばなおさら、そうした時間の経過に「あのときの姿はもう失

われてしまった」と思うことはそうそうない。多くの場合、例えば、久しぶりに故郷に帰

れば、無意識のうちにその時間の経過を補って、目の前の光景にかつての思い出を見出し

「なつかしい」と思うことができたはずだ。記憶と土地は、個人それぞれの中で結びつけ

74 畠山直哉、前掲書「あとがきにかえて」 75 畠山直哉、前掲書、「あとがきにかえて」

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ることができた。しかし、そうした作業を行うのに、大震災という出来事はあまりに大き

すぎた。誰も、少しも予想できなかった光景に、「故郷の姿が失われてしまった」という表

現は大げさではないだろう。

さらに、写真は『陸前高田 2011-2014』へと続いていく。震災後から、2014 年まで継続

して撮られた陸前高田市の写真である。それは、三脚を立てた大判カメラでその様子を捉

えたものだ。畠山は、『陸前高田 2011-2014』のあとがきに寄せて以下のように述べる。

大津波という大きな断絶の後でも、時は容赦なく流れ、変化する土地の眺めは、過去

の風景の記憶の上に分け隔てなく積み重なってゆく。大津波の直後は、目にするもの

があんまりだったせいか、見たはずのものをよく覚えていなかったりするが、その時

なんとか撮影した写真は、被災物がすべて片付けられてしまった今、大事なものごと

を思い出すための縁にも見えたりし、むごたらしい建物の写真に対してさえ、思わず

「なつかしい」とつぶやきそうになる76。

この本は『気仙川』とほぼ同じ背丈に作られている。二つを見比べて、あの頃と今の気

持ちの差を、確かめるようにしたい。あの頃の自分には、未来の陸前高田の風景を思い

描くことなど、まったくできなかった。「未来」と呼ぶには、この 2015 年はまだ時期

が早すぎるのかもしれないが、それでもこの本を、あの頃の自分に見せてやりたい気が

する。「時間は止まってないぞ」と、安心させてやりたい気がする77。

もはや、そこに個人の記憶を結びつけることが不可能なほど、全てが壊れ、流されてしま

った。畠山は、それを「断絶」と言う。しかし、時間は止めることができず、時間によっ

て変化する目の前の風景もとどめておくことはできない。しかし、過去のある瞬間にその

写真が撮られてしまったという事実は、その時その場所に撮影者が存在していたという事

実と共にとりかえしのつかないことだ。そうして撮られた写真は、ただその瞬間の陸前高

田がそうであった、ということしか示していない。畠山は、それを「写真の振る舞いの身

勝手さ」と言う。その写真が、作品として撮られたか否か、アーティストの作品としてど

う評価されるかといったこととは関係なく、鑑賞者はそこに圧倒的な時間の不可逆性と、

生の一回性を見る。

写真を見れば、そこは少しずつ変化を遂げており、「被災地」という言葉からは想像でき

76 畠山直哉(2015)『陸前高田 2011-2014』「バイオグラフィカル・ランドスケープ」河出

書房新社、p.154 77 畠山直哉、前掲書、p.155

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ないほど整えられている場所もある一方、それでもまだ崩れた壁や、ひしゃげた手すりな

どがあり、壊れてしまったものと新しくできたものが入り混じっているのがわかる。「被災

地」は、一体いつまで「被災地」なのか、何をもって「復興」と呼べるのか、その境界線

の曖昧さが現れ、そこに写る風景は、もはや「被災地」という一般名詞と、そこに付随す

る被災地のイメージを無意味にする。それは、単に、その時撮られた「陸前高田市」のど

こかにすぎないのである。畠山の写真は、震災前、震災、震災後という大きな断絶を、写

真の断片性という「身勝手さ」の中で繋ぎなおそうとする行為ではないか。それは、その

時、その場所でその人が写真を撮ったという行為と、その時の目の前の光景が切り離せな

いこと、そしてその瞬間が確かにあった、ということしか示さない写真によってこそ可能

だったのである。陸前高田の変化は、畠山と風景との関係性の間に現出している。

また、畠山は『気仙川』あとがきに寄せてこうも述べる。

出来事としての東日本大震災の後では、今この世にいる人間すべてが「生存者」で

あるように僕には見える。生存者同士の間では「前を向こう」と励まし合い、お互い

に手をさしのべながら歩く、そんな温かさが何よりも大事であることは言うまでもな

いけれど、僕にはこの「前を向く」ことがなかなか難しい。東京にいる時はほとんど

暗室で、ネガを探してはプリントを焼くという時間を過ごしている僕は、自分の過去

とつきあう時間が圧倒的に多く、人といっしょに歩く時でも、言ってみれば僕だけが

「後ろを向いたまま」後ずさりするように歩いているような気になる。背後からやっ

てくる未来に、背中の神経を集中させながらも、僕は来し方が遠く小さくなってゆく

光景から目を離すことができない。誰かに「前を向いた方がいい」と言われても、そ

の度に僕はたぶん「もう少しだけこのまま後ろ向きに歩かせて下さい」とことわり続

けるだろう78。

今はもうない、しかし確かにあった、その時のその生の一回性を振り返り、再認するとい

う作業は、写真の一つの役割であったはずだ。家族旅行、入学式や卒業式、子どもの成長、

または何気ない日常まで、人々は写真に撮り、丁寧にアルバムに貼り時々見返しては、あ

のときあの人がどんな服を着ていたか、あの日の天気はどんなふうだったか、自分はどん

な顔で笑っていたか、それを振り返って「なつかしい」と言い合いはしなかったか。しか

し、膨大な当事者と、それ以上に膨大な非当事者を生んだ震災では、「生存者」という共同

意識の中で、「未曾有の出来事」の知覚の向こうに、個人の記憶は忘れられることもあった。

78畠山直哉(2014)『気仙川』「あとがきにかえて」河出書房新社

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「前を向」き復興すること、それが震災に対する、社会における既存認識だった。それに

も関わらず、メディアの中の「被災地」のイメージは止まったまま、という矛盾がそこに

はあった。陸前高田市気仙町に限らず、震災前の記憶の中の風景と、全てが流されたあと

の風景が、同じ場所であるという現実を受け入れなければならない人々にとって、「前を向

こう」という言葉は、その二つの断絶をさらに深めるものにもなり得たのである。

畠山の写真は、「被災地」として止まってしまったその風景の時間を再び動かす。後ろを

向きながら、確かに時は止まっていない、と確認することは、その先に続く明日を想像で

きる余地のある行為だと、畠山の写真は気付かせるのである。

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終章

本論文は、日常の中で氾濫している写真によって、人々の認識が固定化し、写真の中の

出来事や他者を情報として知覚していることへの問題意識から出発した。そうした知覚の

中で忘れられる、写された出来事や他者の存在の現実性、固有性を取り戻し、写された世

界とそれを見る者の現実の間に存在する乖離を埋めることを目指した。そこには、意味の

規定されたイメージによって作られた、固定化された既存の認識が、写真によって揺らが

され、更新されるきっかけが必要ではないか、と考えた。そうしたきっかけとして写真が

作用するために、日常において写真を見るときに忘れられがちである、その時、その場に

立ち、特にその対象を撮ることを選択した撮影者の自由と主体性について指摘した。それ

に対し鑑賞者は、あらかじめ見方を規定されない写真に、自らの自由によって向き合うこ

とができる。鑑賞者にとって写真とは、撮影者という他者の視点から新たに世界を眺める

ことであり、そうした視点によって写真を見るまでの自分から、見たあとの自分との間に

更新、変容が生まれる可能性があるのではないか、ということを検証した。

また、撮影者による写真の開示には、意図して、または時に意図せず特定の見方の規定

や、特定のイメージの喚起力を持つものもあるが、それらは鑑賞者の自由を否定し、認識

の固定化を行うものとして批判対象とした。そうした見方やイメージを受動的に感得する

だけの行為は鑑賞とは言わず、鑑賞者には常に写真に唯一固有の撮影者の存在を意識し、

常に対話に能動的であるよう求める立場をとった。第 4 章でも見てきたように、写真の呈

示の仕方によっては、見る者が抱くイメージは簡単に操作され得る。それは見る者が、そ

れらを情報として無条件に、かつ受動的に受け入れたときに起こる。だからこそ、撮影者

の唯一性を認め、被写体の固有性を認め、その間に自分との関係性を構築していくという

能動的な行為は、主体性を保って生きるために必要不可欠である。

また、第 6 章では、それぞれ「同性愛者」「沖縄」「被災地」といった、単一的なイメー

ジに結びつく名付けの解放をテーマに具体的な作品を考察したが、それはどれも写真の「断

片性」によるところであった。その時、その場所に、その世界があり、その撮影者がシャ

ッターを押したという一瞬間の生、その一回性への気づきは、普段は既存認識や経験、ま

たはその人やものの周縁的なものから対象へのイメージを抱いてしまう私たちに、「ただそ

こにそれが存在した」という事実だけに立ち向かわせてくれる体験であったと思う。

以上のように、あらゆる原因によって社会に定着した既存認識に、小さな気づきや揺ら

ぎをもたらす写真の可能性は、写真自体の特性に加え、撮影者と鑑賞者による能動的な関

係性の構築という行為のもとに生まれてくる。そのような体験は、写真に対する能動性を

超え、ひいては写真の向こうに確かにある世界と自分の現実の関係性を発見し、そこに生

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73

きること自体に能動性を見出すはじめの一歩にもなりえるだろう。

また、本論文では、本来ならばパリに住むイスラーム移民を被写体とした写真作品、マ

ーティン・パーの『The Goutte d'Or』(2011) を扱う予定であった。しかし、論文執筆中

の 2015 年 11 月 3 日のパリ同時多発テロをはじめ、ヨーロッパとイスラーム移民をめぐる

問題の複雑さは深まる一方である。このようなときこそ、写真や、写真に限らず様々な媒

体によってその問題について深く考える契機が必要であるとは思う。しかし私自身、まだ

パリのイスラーム移民という被写体について語れるほど、めまぐるしく変化する情勢と向

き合うことができているとは言えず、自らの未熟さを痛感しながらも今回の論文では当作

品を扱わないこととした。問題に対し、いち早く情報をとらえ、状況を把握することは、

どこにいてもテロという危険を逃れられないことをひしひしと感じる今日において極めて

重要なことではある。しかし一方で、一つ一つの出来事を超えて、大きな背景について考

えること、日常茶飯事となってしまったテロ事件では、自分と同じような日常を送る人々

が多く当事者となっていること、そして「ムスリム」「難民」「移民」といった言葉が持つ

イメージの向こうに「ただそこに存在する」それだけを認めてもらうことすら困難な人々

がいることを忘れないようにしたい。自ら主体性を持ってメディアの向こうの現実と関係

を築き続ける、この研究がそうした契機の発見となることを願い、本論文を終えたいと思

う。

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謝辞

本論文執筆にあたり、お世話になった國枝孝弘先生、また國枝研究会卒業生の先輩方、

そして現役生の皆様に、心から御礼申し上げます。

國枝先生に出会い、芸術や他者、その他様々なものと、時間をかけて対話し考え続ける

こと、また常に自己を変容させながら生きる柔軟さと芯の強さを学びました。卒業生の先

輩方には、時々お会いするたびに研究に対して多くのアドバイスをいただきました。何よ

り、大学を卒業してもなお、学ぶことに対して真摯な姿勢や言葉にいつも背筋が伸びる思

いでした。そして毎週研究会での時間を共にした皆さんの、それぞれに固有な研究の視点

と、しかしそれでも奥深くで通底している問題意識の発見は、自分の研究を進める上で一

番の刺激となりました。

研究会を通して 2 年間学び深めてきたことを、こうして論文という一つの形で残すこと

ができ、身の引き締まる思いと共に、感謝の念でいっぱいです。本当にありがとうござい

ました。

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参考作品

石岡瑛子監修(1992)『LENI RIEFENSTSHL LIFE』求龍堂

石川竜一(2014)『okinawan portrait 2010-2012』赤々舎

石川竜一(2014)『絶景のポリフォニー』赤々舎

長倉洋海(2000)『獅子の大地』平凡社

長倉洋海(1990)『サルバドル 救世主の国』JICC 出版局

中平卓馬(2012)『サーキュレーション-日付、場所、行為』オシリス

中平卓馬(2011)『都市 風景 図鑑』月曜社

中平卓馬(1983)『ADEIU A X』河出書房新社

畠山直哉(2014)『気仙川』河出書房新社

畠山直哉(2015)『陸前高田 2011-2014』河出書房新社

森栄喜(2013)『Intimacy』ナナロク社

米田知子(2013)『暗なきところで逢えれば』平凡社

レオ・ルビンファイン(2011)『レオ・ルビンファイン 傷ついた街』東京国立近代美術館

参考文献

大辻清「写真の記録性を問う 写真家は記録者たりうるか」、『アサヒカメラ 6 月号 増刊号』

(1978)所収

楠本亜紀「ドキュメンタリー写真の地平、の一歩手前」『写真空間1特集「写真家とは誰か」』

(2008)所収

澤田直「サルトルのイマージュ論–不在の写真をめぐって」塚本昌則編(2013)『写真と文

学 何がイメージの価値を決めるのか』平凡社、所収

鳥原学(2013)中公新書 2248『日本写真史(下)』中央公論新社

中平卓馬(2007)『見続ける涯に火が…批評集成 1965-1977』オシリス

中平卓馬、篠山紀信(1995)『決闘写真論』朝日新聞社

中平卓馬(2007)『なぜ、植物図鑑か――中平卓馬映像論集』筑摩書房

平井正(1999)『レニ・リーフェンシュタール――20 世紀映像論のために』晶文社

ロラン・バルト(1985)『明るい部屋 写真についての覚書』花輪光訳、みすず書房

ピエール・ノラ編、谷川稔監訳(2002)『記憶の場―フランス国民意識の文化=社会史』、

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岩波書店

ジャン=フランソワ・リオタール(2002)『非人間的なもの 時間についての講話』篠原

資明/上村博/平芳幸治訳、法政大学出版局

J.P.サルトル『一つの中国からもう一つの中国へ』多田道太郎訳、『植民地の問題』(2000)

所収

J.P.サルトル(1953)『文学とは何か』人文書院、加藤周一/海老坂武訳

『平凡社ライブラリー488 木村伊兵衛と土門拳 写真とその生涯』(2004)平凡社

『別冊太陽 にほんのこころ 189 木村伊兵衛 人間を写し取った写真家』(2011)平凡社

『Espuire3 エスクァイア日本版 写真の現在』(2003)エスクァイアマガジンジャパン

参考 URL

・ShugoArts(http://shugoarts.com/artists/tomoko-yoneda/series/scene/)

2016 年 1 月 7 日閲覧

・PHaT PHOTO「第 55 回ヴェネチア・ビエンナーレ出展作家リチャード・モス、ロング

インタビューインタビュー・訳 Ihiro Hayami

(http://www.phatphoto.jp/mag/cn27/pg240.html)2016 年 1 月 13 日閲覧

・国立近代美術館、展覧会情報アーカイブ、概要

(http://archive.momat.go.jp/Honkan/leo_rubinfien/index.html)2016 年 1 月 13 日閲覧

・STEVEN KASHER GALLERY

(http://www.stevenkasher.com/artists/leo-rubinfien)2016 年1月 13 日閲覧

・Changefashion.net、Interview

(http://changefashion.net/interview/2014/02/07193202.html)2016 年 1 月 17 日閲覧

・中日新聞 web 森栄喜インタビュー

( http://www.chunichi.co.jp/hokuriku/article/popress/human_recipe/CK2013111302000

211.html)2016 年 1 月 21 日閲覧

・AKAAKA ART PUBLISHING Inc.

(http://www.akaaka.com/publishing/books/bk-ishikawa-op.html)2016 年 1 月 19 日閲覧

参考映像

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レイ・ミュラー監督『アフリカへの想い』(2000)、出演:レニ・リーフェンシュタール、ホ

ルスト・ケットナー、製作国ドイツ

参考講演

2015 年 4 月 6 日銀座ニコンプラザ「remenbarance3.11」フォトセミナー

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Printed in Japan  印刷・製本  ワキプリントピア

著者 湯本 愛

監修 國枝孝弘

発行 慶應義塾大学 湘南藤沢学会   〒252-0816 神奈川県藤沢市遠藤5322

   TEL:0466-49-3437

2016年 3 月5日   初版発行

SFC-SWP 2015-003

写真による既存認識の更新-写真の中の世界と、自らの日常に見出す新たな関係性-

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本論文は研究会において優秀と認められ、出版されたものです。