論 文 オ リエ ン ト40-2(1997):69-84 - JST

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リエ ト40-2(1997):69-84 モンゴル帝国のグル ジア征服 The Mongol Conquest ofGeorgia (Sakartvelo) * KITAGAWA Seiichi ABSTRACT In 1236, the tamachi army of Chormaghan Noyan began to conquer the Georgian Kingdom. Starting at their traditonal winter encampment in Arran, they proceeded to the North West. Their first victims were the cities and districts of the western branches of the Middle Kur. In the Kazakh canton of the present Republic of Azerbaijan, their course was divided into three directions. The Nothern course led them to the central and eastern provinces of Georgia. To the south they advanced and conquered the cities of Ani, Kars and Surb Mari, and third course overran the territories of South-West Georgia. In this way almost all the territories of the Georgian Kingdom were conquered. In about 1240, the conquerd part of Georgia was divided among the six Georgian generals, called the generals of ten thousands ("tmanis mtavari" in Georgian) by the Mongols. After the coronation of Emperor Monke, the conquered part of Georgia was put under the physical administration of Arghun-Aqa who made a census in 1254, and Georgia's population was counted and the area was divided into nine tumens. Each of these tumens could afford ten thou- sand soldiers. It was after this census that a new tax system was intro- duced by Arghun-Aqa. じめ 筆 者 は これ まで,い くつかの論考 を発表 して,モ ン ゴル 帝 国 とそ の 後 継 者 で あ るイル ハ ン国 のザ カ フ カ ース特 に グル ジア王 国 との 関係 につ いて 試論 を述べ た 。 しか し,こ れ ま で モ ン ゴ ル 帝 国 に よ る グ ル ジ ア 王 国 征 服,お よび帝国の直 接 統 治 の 波 及 に つ い て は 述 べ る機 会 が な か っ た 。 本 稿 で は,チ ョルマガ ン ・ノ *弘 前大学文学部教授 Professor, Hirosaki University

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論 文 オ リエ ン ト40-2(1997):69-84

モ ン ゴル 帝 国 の グ ル ジ ア征 服

The Mongol Conquest of Georgia (Sakartvelo)

北 川 誠 一*

KITAGAWA Seiichi

ABSTRACT In 1236, the tamachi army of Chormaghan Noyan began

to conquer the Georgian Kingdom. Starting at their traditonal winter

encampment in Arran, they proceeded to the North West. Their first

victims were the cities and districts of the western branches of the Middle

Kur. In the Kazakh canton of the present Republic of Azerbaijan, their

course was divided into three directions. The Nothern course led them

to the central and eastern provinces of Georgia. To the south they

advanced and conquered the cities of Ani, Kars and Surb Mari, and

third course overran the territories of South-West Georgia. In this way

almost all the territories of the Georgian Kingdom were conquered.

In about 1240, the conquerd part of Georgia was divided among the

six Georgian generals, called the generals of ten thousands ("tmanis

mtavari" in Georgian) by the Mongols.

After the coronation of Emperor Monke, the conquered part of Georgia

was put under the physical administration of Arghun-Aqa who made a

census in 1254, and Georgia's population was counted and the area was

divided into nine tumens. Each of these tumens could afford ten thou-

sand soldiers. It was after this census that a new tax system was intro-

duced by Arghun-Aqa.

は じ め に

筆 者 は これ まで,い くつ かの 論考 を発表 して,モ ン ゴル 帝 国 とそ の後 継 者 で

あ るイル ハ ン国 のザ カ フ カ ース特 に グル ジア王 国 との 関係 につ いて 試論 を述べ

た。 しか し,こ れ まで モ ンゴル 帝 国 に よ るグル ジ ア王 国征 服,お よび帝 国 の 直

接 統 治 の 波 及 につ いて は述 べ る機 会 が なか った。 本 稿 で は,チ ョル マガ ン ・ノ

*弘 前大 学 文 学部 教 授

Professor, Hirosaki University

ヤ ンの タマ チ 軍 に よ るグ ル ジ ア王 国征 服 と,イ ラ ン総 督 府 の 支 配 権 の ザ カ フ

カ ー スへ の伸 張 過 程 につ いて 知 る とこ ろ を述べ た い。

Ι.グ ル ジ ア王 国の 占領

1236年 は,ジ ョチ の 息子 バ トゥに よ る ロ シア,東 欧 遠 征 が 開 始 され た年 で あ

る。世 界 史 的 に重要 で あ るの は,モ ン ゴル 帝 国 の この年 の遠 征 は,1235年 の ク

リル タ イの 決 定 に基 づ く もの で,ロ シ ア,東 欧 に対 してだ け で な く東 方 で は宋

と高麗,南 へ はカ シ ミール とイ ン ドに対 して も,実 施 され た こ とに あ る。 チ ョ

ル マ ガ ン ・ノヤ ンの部 隊 は もと も と1229年 に ジャ ラ ール ッデ ィー ン ・ホ ラズ ム

シ ャ ー 追 討 の た め に 派 遣 さ れ た も の で,そ の 活 動 は そ れ ま で,主 と して

ジ ャズ ィー ラ,イ ラー ク ・ア ラ ビー,ジ バ ー ル 方面 に集 中 され て い た。 しか し,

この 年,チ ョル マ ガ ンはバ トゥの遠 征 に呼 応 す るか の よ うに 北 に 方 向 を変 え,

グル ジア王 国征 服 に乗 り出 した 。 スル タ ン.ジ ャ ラ ール ッデ ィー ン ・ホ ラズ ム

シ ャー の三 次 にわ た る侵 入 に疲 弊 した グル ジア王 国 は,カ リフ領,ア イユ ー ブ

朝 諸 君 主領,ア ル ト ゥク朝 領,セ ル ジ ュ ー ク朝 領 に お け るモ ン ゴル 軍 の 攻 撃 を

眼前 に見 な が ら,将 来 訪 れ るか もしれ な い危機 に対 処 して い な か っ た。

1230年 秋,モ ンゴル 軍 が アゼ ルバ イ ジ ャ ン に到着 した と き,ジ ャ ラー ル ッデ

ィー ン は,カ ス ピ海 に流 れ る クル 河 とア ラス 河合 流 地 帯 の ム ガ ンで冬 営 を準 備

中 で あ った.モ ンゴル 軍 はス ル タ ンの宿 営 地 を急襲 したが.ス ル タ ン は北 の ガ

ン ジェ市(1

に逃 亡 す る と見せ か け,実 際 は カ ラ ダグ のマ ー ハ ー ンで その 冬 を越 し

た 。 スル タ ンの捕 捉 に失 敗 したモ ン ゴル 軍 は,冬 の基 地 で あ った ウ ジ ャ ンに帰

還 した。 この年1231年 夏 スル タ ンが クル デ ィス タ ンで殺 害 され た後,そ の年 の

冬 の訪 れか ら1235年 の 冬 の訪 れ まで の 間の いつ か か ら,チ ョル マ ガ ン 自身が,

か つ て,ス ル タ ンが 冬 営地 に選 ん だ ム ガ ンで 冬 を過 ごす よ うに な った 。 キ ラ コ

ス ・ガ ン ザ ケ ッ ツ ィ は 次 の よ う に 述 べ る。(Khanlarjan, 154; Melik-

Ohanjanjan, 234-5; Dulaurier, 213; Sahakjan, 170)

さて,か く して,彼 らは全 財 産 と多数 の 軍 隊 を連 れ て,ア グヴ ァ ンクの 国

の,豊 か で,谷 間の 多 い,ム ガ ン と呼 ばれ,水,樹 木,果 実,野 鳥 が 多 い

所 に到 着 した。 彼 らはそ こ に広 が り,自 分 の テ ン トを張 つ た。彼 らは いつ

もそ こ で冬 を越 し,春 の季 節 には様 々 な国 々 に散 らば っ て,侵 入 と破壊 を

行 い,ま た,そ こに あ る 自分 の 宿営 地 に帰 っ た。

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ア ル メ ニ ア人 が ア グ ヴ ァ ン ク(ヨ ー ロ ッパ の 古典 で は,ア ルバ ニ アAlbania

の名 前 で 知 られ て い る)と 呼 ぶ の は 常 に ア ラ ス 河 の 北 で,南 は パ イ タ カ ラ ン

P'aitakaranで あ るか ら,こ れ は厳 密 に は ア ラス 河 の南 に あ った ジ ャ ラ ー ル ッ

デ ィー ンの冬 営 地 とは異 な る こ とにな る。 ま たア ル メ ニ アの 地 理 学 で はム ガ ン

(Mukhank')は,ア ル ツ ァフ,中 世 以 降 の名 称 で はカ ラバ フ地 方 東 南 部 の ア ラ

ス河 に面 した地 域 で あ る。 アゼ ル バ イ ジャ ンの ア ル ダ ビ ール か ら北 にア ラス河

を渡 って 延 び る交 通路 は こ の 「狭 義 の ム ガ ン」 に入 り,北 西 に進 ん でバ イ ラ カ

ン,バ ル ダ,ガ ン ジ ャ等 の都 市 を経 て,グ ル ジア の 首都 トビ リス ィ に至 る。

モ ン ゴル軍 の グル ジア遠 征 開 始 の 年次 は,グ ル ジア史 料,イ ス ラー ム史 料 に

は な く,ア ル メニ ア 人 が好 んで 著 述 した簡 単 な年代 記 類 にみ え る。 司教 で あ っ

た ス テパ ノス の年 代 記 には,(Galstjan,34)

685/1236年,チ ョル マ ン(sic.)と チ ャガ タ イが 我 が 国土 に侵 入 し,ア ニ,

カル ス,ロ リお よび スル ブ ・マ リを破 壊 した 。彼 らは,ア バ ガ をカ エ ンの

砦 か ら連 れ去 っ た。

この年 次 は,ハ ル ベ ル トで筆 写 され た あ る福 音 書 の奥 付 け に も,

アル メニ ア紀 元 の685年 に恐 ろ しい神 の怒 りが 我 々 を襲 っ た(ibid.,44)。

とあ り,現 地研 究 者 に よ って確 認 され て い る。13世 紀 の アル メ ニ ア史 の詳 細 な

年 次 は,年 表類,写 本 奥 付 け等 が 学 界 に紹 介 され た20世 紀 にな っ て か ら知 られ

る よ うに な った もの で あ る。

キ ラ コ ス に よ る とム ガ ンの根 拠 地 を 出 発 した モ ン ゴル 軍 は,ク ル川 右 岸 に

沿 って北 西 に進 み,先 ず最 初 に モ ラル ・ノヤ ンが,バ フ ラム ・ムハ ル グル ヅ ェ

リ領 の シャ ム ホル,テ ル ナ カ ン,エ ル ゲ ヴ ァン ク,タ ウ シ ュ とキ ュ リケ ・バ グ

ラ トゥニ領 のマ ツナベ ル ドを,ま たガ ン ジャの 南 方 で シ リャ ンシ ャ フ領 の ガ ル

ドマ ン,チ ャ レ ク,ゲ タバ ク をガ タガ ・ノ ヤ ンが 占領 した。 また,ア ル メ ニ ア

の最 北 部 の グル ジア 語 で ソム ヘ テ ィ と呼 ば れ て いた地 域,シ ャ ンシ ェ ・ム ハル

グル ヅ ェ リ領 の ロ リをチ ャガ タ イ ・ノヤ ンが 占領 した。 また グル ジ ア王 の ア タ

バ ギ ・ア ヴ ァグが籠 城 して いた カ エ ン城 を包 囲 して,ア ヴ ァグ を投 降 させ た の

もチ ャガ タ イ で あ った。(Khanlarjan, 155-158; Melik-Ohandzhanhan, 238-

244; Dulaurier, 216-222; Sahakjan, 172-175)

他 方,別 の都 市 で は ドゥマ ニ ス ィ,シ ャ ム シュ ヴ ィル デ が攻 略 され破 壊 さ

れ,住 民 は 殺 戮 さ れ る か 捕 虜 に な っ た。 トビ リス ィ も同 様 で あ っ た。

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(Khanlarjan, 163; Melik-Ohandzhanjan, 254; Dulaurier, 232-233;

Sahakjan 183)。

最 初 に攻 撃 を受 け た の は,ク ル 河 中流 右 岸 ム ハル グル ヅ ェ リ家 ヴ ァ フ ラム の

所 領 で あ っ た。 現在 の地 理 で は アゼ ルバ イ ジ ャ ン共 和 国 か らアル メ ニ ア 共和 国

北 部 にあ た る。 この地 方 に は,20世 紀 に も トビ リス ィ,イ ェ レヴ ァ ン,バ ク ー

を結 ぶ分 岐 点 が あ るが,ヴ ァ フ ラム領 を制 圧 した モ ンゴル 軍 は,北 は首都 トビ

リス ィの あ る グル ジア 中央 部,西 は西南 グル ジア,南 は アル メ ニ ア 中央 部 へ 進

出す る こ とが で きた 。 ドゥマ ニ ス ィ,シ ャム シュ ヴ ィル デ を北 に進 む と首都 ト

ビ リス ィ に 至 るが,グ ル ジ ア 年 代 記 で は,(Brosset, 517; Kiknadze, 71;

Muradjan, 73)

さて,モ ン ゴル 人 の接 近 を知 る と女 王 ル ス ダ ニ は,ト ビ リス ィ を捨 て て,

クタ イ ス ィに去 った。 ムハ の 息 子 ゴチ ャ に,敵 が接 近 した ら町 を焼 き払 え,

た だ し宮 殿 とイサ ニ は残 して お け と命 じて 。 ジ ャ ラ ール ッデ ィー ンの 時 の

よ うに町 に とど まれ な い よう に。 とこ ろが ムハ の息 子 は タタル 人 の 接 近 を

知 る と,宮 殿 もイ サ ニ の別 もな く,全 市 を焼 き払 っ た。 この よ うに して ト

ビ リス ィ市 は破壊 され た。 さて,先 に述 べ た ノヤ ン達 は,カ ル トリ,ト リ

ア レテ ィ,ソ ム ヘ テ ィ,ジ ャヴ ァヘ テ ィ,サ ム ツヘ,シ ャヴ シ ェテ ィ,ク

ラル ジ ェテ ィ,コ ラ,ア ル タニ,ア ニ,ド ヴ ィン に侵 入 し,ば っ たの よ う

に国 々 に広 が っ た。流 血 の 破壊 者 の も とで は,平 安 も,す べ も,慰 め もな

く,国 々 の破 壊 の 行為 に情 け知 らずで あ った の で,マ ン ダ トゥル トの 長 で

あ る シ ャ ンシ ェ はア ジャ ラ に逃 げ,元 帥 ア ヴ ァ ク はカ エ ンの城 に入 り,ワ

ラム=ガ ゲル は,ク タ イス ィに引 きこ もった。 ヘ レテ ィ,カ ヘ テ ィ,ソ ム

ヘ テ ィ,カ ル トリ,メ スヘ テ ィ,タ オ,ト ル,ア ル タ ン,コ ラの 人 々 と言

え ば,自 分 の砦,森 林,コ ーカ サ ス とム テ ィウ レテ ィの 堅 固 な場所 に避 難

した。

とあ っ て,グ ル ジア王 国 の すべ ての地 域 が モ ンゴル 人 に征 服 され た こ とを述 べ

るが,女 王 の トビ リス ィ退去 の事 情 を除 く と,内 容 は具体 性 に欠 け る。唯 一 ロ

リ地 方 の 西 に 当 た る西 南 グ ル ジア につ い て が,チ ャ ガ タ イ ・ノヤ ンの 担 当で

あ った こ とを記 す(Brosset, 517; Kiknadze, 74; Muradjan, 76)。

メ ス ヒ人 は,ル ス ダニ 女 王 の気 に入 るよ うに よ く使 えて い たの で,チ ャガ タ

イ ・ノ ヤ ンは怒 ってサ ム ツヘ に進 ん だ。

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この よ うに,全 軍 が クル 川 に沿 って展 開 し,上 流 に湖 りつ つ,徐 々 に各 地 を

征 服 した。た だ グル ジ ア東 部 に関 して は,具 体 的 な 記 述 が な く,『グ ル ジア 年代

記 』(Brosset, 514-5; Kiknadze, 71;Muradjan,73)で も,

彼 らの側 で は,ヘ レテ ィ とカ ヘ テ ィ,ソ ム ヘ テ ィ,カ ル ト リ,メ ス ヘ テ ィ,

タオ,ト ル,ア ル タ ン,コ ラの もの た ち は城,森 林,カ フカ ズ ィ,ム テ ィ

ウ レテ ィの堅 固 な場 所 に逃 れ た 。

あ る い は,

一 方,ヘ レテ ィ,カ ヘ テ ィ,ソ ム ヘ テ ィ,カ ル トリは カル ヌ カ ラキ まで の

あ らゆ る国 々 と同 じ く,も っ と も残 酷 な破壊 の 中 に あ り,住 民 が奴 隷 に取

られ て,空 に な っ た(Brosset, 517; Kiknadze, 74; Muradjan, 75)

と述 べ るの み で あ る。 この地 名 は東 か ら西 へ あ げ られ て い るが,必 ず しも,モ

ン ゴル 軍 が,東 グル ジア か ら トビ リス ィ方 向 に向 か っ た とす る証 拠 は な い。

また,ア ル メ ニ ア 中央 部 に関 して,キ ラ コ ス はチ ョル マガ ンが一 軍 をアニ に

派 遣 した こ と を述 べ る。 ア ニ の降 服 を見 て,西 の カ ル ス も降 服 した 。 先 に 引用

した ス テパ ノス は,ア ル メ ニ ア を征 服 した のが チ ョル マ ガ ン とチ ャガ タ イ で あ

る と述 べ て い る。カル ス とアニ の 南 の スル プ マ リを下 したの は,カ ラ ・バ ハ ドゥ

ル と呼 ば れ る武将 で あ っ た。 問題 は,ア ニ,カ ル ス,ス ル プ マ リを征 服 した軍

隊 が,北 の クル川 右 岸 上 流 か らアル メ ニ ア 中央 部(ア ララ ッ ト地 方)に 入 っ た

のか,南 か ら前 進 した かで あ る。3都 市 の交 通 経路 上 の位 置,ア ニ の南 の 守 り

スル プ マ リ よ り先 に,北 に あ るカル ス が 先 ず征 服 され て い る こ と,ム ガ ンか ら

ア ラス川 左 岸 をア ニ地 方 まで 進 む ため に必要 な,途 中 のハ チ ェ ン地 方 あ る い は

アル ツ ァフ,現 代 の地 名 で はカ ラバ フの征 服 が行 わ れ て い ない点 か ら判 断 す る

と,最 初 の経 路 が 取 られ て いた の で あ ろ う。 チ ョル マ ガ ンの グル ジア遠 征 は,

女 王 が 西 グル ジ ア に逃 亡 したの で,焦 土作 戦 的様 相 を帯 び たが,組 織 的 停 戦 の

糸 口 とな った の は,グ ル ジア の元 帥(atabagi)職 に あ った ア ヴ ァグ の投 降 で あ っ

た。1236年 秋,モ ン ゴル 軍 は,征 服 地 に シ ャ フネ(Brosset, 516; Kiknadze,

74; Muradjаn, 75)を 残 し,ア ッラ ー ン,ム ガ ン地 方 の 冬 の根 拠 地 に帰 還 した 。

残 るハ チ ェ ンの征 服 は,翌 年 以 降 に計 画 され る。

グル ジア,ア ル メニ ア の史 料 か らは,グ ル ジ ア遠征 軍 全 体 が一 つ一 つ の攻 撃

目標 に あ た った の で はな く,そ れ そ れの 実 行部 隊 に任 務 を分 担 して,網 羅 的 に

攻 撃 を行 った もの と考 え られ る。 キ ラ コス ・ガ ン ヅ ァケ ッツ ィ も,

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ガ ンヅ ァ ックの破 壊 の 数 年 の後,悪 魔 の よ うな,狡 猾 な この 軍 隊 は,ま る

で,自 分 た ちの 隊 長の 中で くじで わ け たか の よ うに,各 自が アル メ ニ ア,

グル ジ ア,ア ルバ ニ アの 都 市 と地 方,州,城 を 占領,破 壊,荒 廃 させ た 。

彼 らは各 人 にふ さわ しい,妻 子,自 分 の 軍 隊 の車 両 と と もに,割 り当 て地

域 に向 か っ た。彼 らは平 然 と 自分 の駱 駝 と家 畜 に,あ ら ゆ る緑 の 草 を食 べ

させ た。(Khanlarjan,154;Melik-Ohandzhanjan,235;Dulaurier,216;

Sahakjan,216)

と述 べ る。 占領 に先 立 って,攻 撃 目標 を各 部 隊 に割 り当 てた の で あ る。 この場

合 先 ず,主 要 な 目標 が 万 人 隊で 分 割 され,さ らに千 人 隊 に任 務 が 割 り当 て られ

た と考 え られ るが,占 領 の状 況 を観 て,チ ョル マ ガ ン軍 の 部 隊 編 成 に新 た な知

識 を加 え る こ と もで きな い し,ま た,チ ョル マ ガ ン軍編 成 に関 す る僅 か な知 識

か ら,グ ル ジア 占領 の 組織 を類 推 す る こ と もで きな い。 非 常 にお お まか に確 認

で きる こ と は以 下 で あ る。 クル 河 とセ ヴ ァン湖 の 間 を北 西 に進 ん だ モ ンゴル 軍

は,ク ル 川 本流 が大 き く北 に 曲が って,西 お よび 南 に 向か う支流 と分 かれ る地

域,今 日グル ジア,ア ゼ ルバ イ ジ ャ ン,ア ル メニ ア3国 国境 地 帯 か ら1隊 は北

にむ か っ て,シ ャム シ ャ ウ ィル デ を経 て王 都 トビ リス ィの あ るカル トリ,そ の

東 の カヘ テ ィ,ヘ レテ ィへ 向 か った 。 西 の ドゥマ ニ ス ィか ら更 に西 へ 進 む と西

南 グル ジ アへ 至 るが,チ ャガ タ イ は このル ー トを とっ た もの と見 られ る。 チ ャ

ガ タ イ ・ノヤ ンの 名前 が ア ニ,カ ル ス,ス ル マ リ征 服 で明 示 され な い理 由 は,

彼 が 北 アル メ ニ ア(ソ ムヘ テ ィ)か ら,西 南 グル ジア に進 ん だ か らで あろ う。

これ 以上 グル ジア 王 国 を征 服 したチ ョル マガ ン麾 下 の部 隊 配 置 を把 握 す る こ と,

また 断 片的 に知 られ る個 々の将 軍 の特 定 の地 域征 服 の事 実 が,チ ョル マ ガ ン軍

の 組織 を どの よ う に反 映 して い るの か を知 る こ とは難 しい。

グ リゴル ・ア ク ネル ツ ィの 歴 史(Blake and Frye, 302)で は,チ ョル マ ガ

ン は,ク リル タ イ を召集 して,占 領 地 を113人 の 隊長 の 間 で,北,南,中 央 に3

分 し,こ の 内 の 中部 を占領 した13人 の将 軍 の名 前 をあ げ,

彼 らが グル ジア とアルバ ニ ア(た だ し,英 訳 で は 「アル メニ ア とアル バ ニ

ア を」 とあ る)の 山 々 と野原 を 自分 た ちで分 配 した。

と述 べ る。この13人 のみ が,本 稿 の範 囲 にか かわ るが,彼 らは,Asat'u, Chaghat

ai (Sanit'ai), Chagatаi, Bachu, Asar, Khut't'u, Tut'u, Awgat'ai, Khojay,

Khurhmmch'i, Khunan, Tenal, Anguragで あ る。 問題 は この13人 が,チ ョ

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ル マ ガ ンの 軍 隊 全体 の どの よ うな部 分 で あ るか とい うこ とで あ る。 チ ョル マ ガ

ン指 揮 下 の 軍 隊 は,総 勢2な い し3万 騎 とい わ れ て い るが,チ ョル マ ガ ン は主

要 な 占領 地 に治 安維 持 部 隊 を置 い て い るか ら,そ の全 体 をグ ル ジ ア遠 征 に投 入

で きた訳 で はな い。 また,モ ン ゴル 軍 は グル ジア作 戦 の 実 行 中,他 地 域 で 軍 事

活 動 を停 止 した 訳 で は な い。 ヘ ジ ラ暦632(1234/5)年 か ら634(1236/7)年 に

か けて は,632年(1234年9月 か ら5年9月)に イ ラ ン 中央 部 の イ ス フ ァハ ー ン

を 占領,633年(5年9月 か ら6年9月)に バ グ ダ ー ド北 方 の イル ビル に対 して

も遠征 軍 派 遣,634年(6年9月 か ら7年8月)に もイル ビル に軍 を送 って い る。

イブ ン ・ア ビー ル ・ハ デ ィー ド ・アル ・マ ダー イニ ーの 歴 史 に は,

全 イ ラ ンを征 服 す るや 否 や,634(1236-7)年,タ タル 人 はイル ビル に向 か っ

た。彼 らは様 々 な 町 に接 近 した。 彼 らは(イ ル ビル の)周 辺 の地 域 に至 っ

たが,陥 れ る こ とは で きなか った。 この都 市 を支 配 して い た の は,バ ー ト

キー ン ・アル ・ル ー ミーで あ った。3万 人 の騎 士 が チ ョル マ ガ ン に よ り派

遣 され,チ ャガ タイ とい う大将 軍 の一 人 に指 揮 さ れ て いた。(Djebli,p.62)

とあ る。 また,ペ ル シ ャ語史 料,グ ル ジア語 史料 の両 方 か ら万人 隊長 で あ る こ

とが確 実 で あ るヤ サ ウル ・ノヤ ンの 名 前 が,こ の年 の グル ジア遠 征 軍 を指 揮 し

た将 軍 中 に は見 え な い。 これ ら全 体 に鑑 み る ところ,1236年 の グル ジ ア征 服 に

はチ ョル マ ガ ン軍 の 全 体 が参 加 したの で は な い と考 え る事 が で きる。

Ⅱ.軍 事 「万 人 隊 長 制」

1236年 の ア タベ グ ・アヴ ァグ の主 導 に よるグ ル ジア王 国 の 部分 的 投 降 は,長

期 間 ル ス ダニ 女 王 の承 認 を受 け る こ とが な ぐ,王 国 の正 式 な 降服 は,1243年 の

コサ ダグ戦 役 以後 に持 ち越 され る。従 って,こ の 間 グル ジア 王 国 で はモ ン ゴル

の 占領 と中央権 力 の不 在 とい う二 重 の混 乱 に苦 しん だが,占 領 地 の混 乱 は モ ン

ゴル政 府 の望 む と ころ で もな か っ た。『グル ジ ア年代 記 』 には(Brosset,529;

Kiknadze,90;Muradjan,88)

グル ジア人 は,慰 め も君 主 もなか った。 諸 王 の子 孫 は何 処 に もいな か っ た

か ら。 そ の一 人 で あ る ダヴ ィテ ィ はル ーム の スル タ ン,ギ ャ ース ッデ ィー

ンの もと に遣 わ され,も う一 人 の ナ リン と呼 ば れ た ダ ヴ ィテ ィは カ ラ コ

ル ム に。 後 者 に どの よ う な 運 命 が 訪 れ た か も知 らな か っ た の で,領 主

(tawada)は,自 分 の こ とにか かわ った誰 か彼 か らの ノヤ ンの 指 示 に従 って

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それ ぞ れ が 自分 の 領 土 を治 め た。 実際,ノ ヤ ン達 は彼 ら を分 け,一 万 人 の

隊長 又 は,tmnis mtawariと 名づ け て い た。彼 らに よ って指 名 され た そ の

隊長 達 の 第一 は,大 変 な雄 弁 家,勇 敢 な戦 士 で あ るが,一 物 ももた ぬエ ガ

ル ス ラ ン ・バ クル ツ ィヘ リで あ っ た。(2)

彼 ら は 彼 に,ヘ レ テ ィ,カ ヘ テ ィ,

カ ンベ チ ア ニ,ト ビ リス ィか ら下 っ て シ ャマハ の 山 々 に至 る(地 域 の)軍

隊 を託 した 。彼 らは シ ャ ン シ ェに彼 の 領地 の他 に,ア ヴ ァグ の領 地 を託 し

た。 ヴ ァ ラム ・ガゲ リには 全 ソムヘ テ ィ を,グ リゴル ・ス レメ リに はカ ル

トリを,エ ガル ス ラ ン に劣 らぬ勇 者 で あ る トル の ガ ム レケ リは,ジ ャヴ ァ

ヘ テ ィ,サ ム ツヘ,更 に カル ヌ カ ラ キ に至 る まで の地 域 を支 配 した。ダデ ィ

ア ニ で あ りラチ ャ の君 主(eristavi)で あ る ツ ォ トネ は,王 国 の リヒの 山 々

の彼 方 の 地 域 で支 配 した 。

この記 事 につ いて,ト ビ リス ィ大 学 創 立 者 で もあ る歴 史学 者 イ ヴ ァネ ・ジャ

ヴ ァ ヒ シヴ ィ リは,グ ル ジア 王 国 は,以 下 の8ト マ ン に分 割 され た とす る。(3)

1ヘ レテ ィ,カ ヘ テ ィ,カ ンベ ジア ニ,ト ビ リス ィ,エ ガ ル ス ラ ン ・

バ クル ツ ィヘ リの支 配 地

2シ ャ ン シ ェ とア ヴ ァグ 領 アル メ ニ ア

3ヴ ァ(フ)ラ ム ・ガ ゲ リ領 の北 アル メ ニ ア

4グ リゴル ・ス ラメ リ領 の カル トリ地 方

5ガ ム レケ リ ・トレ リ領 ジャ ヴ ァヘ テ ィ

6ジ ャ ケ リ家領 サ ム ツヘ,メ スヘ テ ィ地 方

7-8ツ ォ トネ ・ダデ ィアニ とラチ ャの 諸侯 の領 土

引用 した テ キ ス トと比 較 す れ ば 容易 に判 る よ うに,原 文 に は,ジ ャ ケ リ家 の

名前 は な く,同 家 の 領地 を独 立 の 単位 とす る記 述 もな い。 ま た,ダ デ ィアニ 家

とラ チ ャ地 方 の 諸侯 領 を2ト マ ン とす る記 述 もな い。

また,ア ル メ ニ ア人 の 中 世 史 研 究 者 レヴ ォ ン ・バ バ ヤ ン は(4)

グルジア王国は

「ギ ュル ジス タ ン ・ヴ ィラ ーヤ ッ トと呼 ば れ,グ ル ジア部5個,ア ル メニ ア部

3個 の トマ ンに分 け られ た」 とす る。 内ア ル メニ ア部三 個 は,カ ル ス を含 ん だ

ア ニ のザ ハ リア ン家 領,ア ヴ ァ ギ ャ ン家 領,ス ィウニ ク,ア ル ツア フ を含 む ヴ ァ

フ ラ ミャ ン家領 で あ る と判 断 した 。バ バ ヤ ンの説 は,ギ ュル ジス タ ン州 にアル

76

ツ ァフす な わ ち,カ ラバ フ が含 まれ て い る とい う特 徴 が あ るが,こ れ が証 明 さ

れ た事 実 で あ る とは見 なせ な い。 この 三個 の 内,確 実 に トマ ンで あ っ た こ とが

史 実 と して確 認 で きるの は ア ニ地 方 だ けで あ る。

ま た,レ ヴ ァ ズ.キ ク ナ ヅ ェ は,

(5)

最 初 ジャ ヴ ァ ヒシ ヴ ィ リの説 を受 け て,ギ ュ

ル ジス タ ンは8ト マ ンか らな る とい う説 を受 け継 いだ が,後 に,『 デ デ ・コル グ

トの書 』 に 「9ト マ ンの ギ ュル ジス タ ン」 と呼 ば れ て い る こ とを理 由 に9個 と

考 えた。 しか し,後 代 グル ジア が9ト マ ンか ら構 成 され る と して も,上 述 の 資

料 は それ を証 明 す るわ けで はな い。 重 要 な の は,こ の ような決 定 が な され た時

期 で あ る。年 代 を推 定 す る鍵 は,ギ オル ギの 息 子 ダ ヴ ィテ ィで あ る。ダ ヴ ィ テ ィ

は,ル ー ム ・セ ル ジュ ー ク朝 に よっ て コニ ア に拘 留 され て い た。 彼 が この 拘 留

か ら解 放 され るの は1243年 の コサ ダ グ戦 役 の後 な の で あ る。『グル ジア年 代 記 』

で 述 べ られ てい る事 柄 は,コ サ ダ グ戦 役 以 前 の グル ジ アの 全体 は まだ,モ ン ゴ

ル に降服 して いな い 時期 にか か わ っ て い る。 降服 した諸 侯 の所 領 支 配権 を認 め,

彼 らの 軍 隊 を組織 す るた めの 措 置 で あ る。 グ ル ジア王 国 の 領 土 内,モ ン ゴル 支

配 下 の地 域 は,エ ガ ル ス ラ ン,シ ャ ンシ ェ,ヴ ア ラム,グ リゴル,ガ ム レケ リ,

ツ ォ トネ の6名 に分 割 され たの で あ る。 彼 らは,エ ガル サ ラ ンを除 き,モ ン ゴ

ル 軍 の侵 入以 前 か ら各地 を支 配 して い た大 領 主 で あ っ た。 エ ガル ス ラ ンが 与 え

られ たヘ レテ ィ とカ ヘ テ ィは シ ョタ ・カプ リの領 地 で あ った が,こ の 時彼 は,

西 グル ジア のル ス ダニ 女 王 の もと にい た。 これ まで無 名 で あ っ たエ ガ ル ス ラ ン

上 昇 の理 由,『グ ル ジア年 代 記』作 者 の彼 に対 す る冷 淡 な態 度 の理 由 は こ こに あ

る と思 われ る。13世 紀 の初 め,グ ル ジア王 国 の 総 兵 力動 員 数 は6万 と称 され て

い た。 占領後 グル ジ アの 国 力 は衰 退 し,人 口 も減 少 は して い るの で,果 た して,

上 記 の 区域 ご とに一 万 人 の動 員 が 可 能 で あ っ たか ど うか は明 らか で はな い が,

モ ン ゴル 人 はグ ル ジア固 有 の制 度 の上 に 占領 体 制 を樹 立 した とい う こ とが で き

る。

西 ア ジア にお い て は,こ こに述 べ られ て い た よ うな トマ ン制 度,す な わ ち土

着 の有 力者 に補 助 軍 を組織 させ,彼 ら に万 人 隊 長 の称 号 をあ た え る制度 が実 施

され て い た。 アゼル バ イ ジ ャ ンで は,1247年 イ ラ ン総 督 アル グ ン ・ア カ の時 代,

それ 以 前 に,チ ョル マガ ン に任 命 され た タブ リー ズ の職 人 のバ ス カ ー ク で あ っ

たナ イマ ン部 人 モ ンケ ・ボ ラ トが,皇 帝 グユ クの 重 臣 カ ダク ・ノヤ ン と同族 で

あ る よ しみ で,自 分 で は タブ リー ズのバ ス カ ー ク職 を,自 分 の ク リエ ン トで,

77

アゼ ル ジャ イ ジ ャ ンの 旧支 配 者 エ ル デ ニ ズ家 の 当主 で あ るア タベ ク ・ノ ス ラ ッ

トッ デ ィ ー ン に は,タ ブ リー ズ と ア ゼ ル バ イ ジ ャ ンの 「トマ ンの ア ミー ル

amir-i-tuman」 す な わ ち万 人 隊 長 の 地 位 を確 保 す る と い う 事 件 が あ っ た

(Juvaini/Qazwini,2,248;Boyle,111)。 しか し,政 争 の 結果,ア ゼ ル バ イ

ジ ャ ン とア ッラ ー ンの支 配権 は,イ ラ ン総 督 アル グ ン=ア カ の ク リエ ン トで あ

るサ ドル ッデ ィー ン に与 え られ た。彼 の職 名 は,「ア ッラ ー ン とアゼ ル バ イ ジ ャ

ンのマ リク」(Qazwini,2,255;Boyle,518)で あ った 。 こ の時,サ ドル の 同

僚 ナ ス ィール ッデ ィー ンは,ニ シ ャプ ール ・ トゥー ス の トマ ン とイス フ ァハ ー

ン,ク ム,カ ー シャ ー ンの 諸 トマ ンを与 え られ て い る。イ ラ ン的 マ レク(知 事)

とモ ン ゴル 的 ア ミー ル(軍 隊 の 長 。モ ンゴル 語 で は ノヤ ン)は,起 源上 は異 な っ

た職 掌 で あ る と考 え られ るが,重 要 な の は,そ の 地域 が 垣常 的 にモ ン ゴル の支

配下 に入 った とい う こ とで あ り,万 人 隊長 に任 命 され る とい う こ と は,そ の地

域 の軍 事 民 事 の支 配 権 が 与 え られ た とい うこ とで あ る。

グル ジア の トマ ン は,史 料 上 確 認 され た例 で は,イ ラ ン とザ カ フカ ー ス で最

初 の事 例 で,ア ゼ ルバ イ ジ ャ ン よ り数 年 早 い こ とに な る。ただ,チ ョル マ ガ ン・

ノヤ ン支 配 化 の グル ジア とアル グ ン支 配下 の イ ラ ン とは,異 な った状 況 に あ る

と考 え られ る。1239年 末,ア ル グ ン ・ア カの 前 任 者 で イ ラ ン総督 に就 任 した コ

ル グ ズ は,カ ラ コル ム の政 府 か らチ ョル マ ガ ン ・ノ ヤ ンの 全 征服 地 を与 え られ

て い るに もか か わ らず,徴 税 の ため に息子 達 が派 遣 され た地 域 は,イ ラー ク ・

ア ジャ ミー,ア ゼル バ イ ジャ ン,ア ッ ラー ンの み で あ りグ ル ジア は含 まれ て い

なか っ た。 この時,こ れ らの地 域 で は,「各 地 方 はノ ヤ ン に また 町 は ア ミー ル に

支 配 され,彼 らは 国税 は小部 分 を課 す るの みで,残 額 を 自分 自身 の ため に横 領

して い た」(Juvaini/Qazwini,2,238;Boyle,501)。 次期 総 督 アル グ ン=ア カ

が,641=1243/4年 タ ブ リー ズ に到 着 した 時 です ら,チ ル マ ガ ンや バ イ ジ ュの よ

う な 大 ア ミー ル は,そ の 地 域 を 自分 の 領 地 の よ う に考 え て い た(Juvaini/

Qazwini,2,244;Boyle,507).

『グル ジ ア年代 記 』 に も,グ ル ジア王 国 の 領 主 は,「 誰 か彼 か の ノヤ ンの指 示

に従 って」 とあ る。 トマ ン制 は この よ うな実 状 に対 応 した制 度 で あ った とす る

こ とが で きる。

78

Ⅲ.民 政移管移(6)

徴 税 単 位 と して の 「トマ ン制」 の前 提 とな る人 口調 査 は1253年 に始 ま るが,

この調 査 は総督 た るアル グ ン ・ア カ が,新 皇 帝 モ ンケの もとか ら帰 任 した後,

ア ゼル バ イ ジ ャ ンか ら着 手 した 。 ア タマ レク ・ジュ ヴ ァイ ニ ー は,

ア ミール ・アル グ ン は,同 じ くタル ム タイ とサ リク ・ブ カ を マ リク ・サ ド

ル ッデ ィー ン と一 緒 に人 口調 査,千 人 制,ク プ チ ュー ル税 の付 加 をタ ブ リー

ズ の ホ ジ ャ ・マ ジ ュ ドッデ ィ ー ン と協 力 して 実 施 す る た め に派 遣 した

(Juvaini/Qazwini,2,25:/Boyle,521)。

と述 べ る。サ ドル ッデ ィー ンは,「 ア ッラー ン とアゼ ルバ イ ジ ャ ン のマ リク」で

あ っ た。他 の地 方 で は,「 トマ ンの ア ミール 」で あ る と呼 ば れ て い る職 務 で あ る。

ポ ジ ャ ・マ ジュ ドッデ ィー ンは,他 で は,見 慣 れ な い人 物 で あ る。状 況 か らみ

てバ トゥ家 の役 人 と見 られ るが,彼 はマ ジ ュ ドッデ ィー ン ・ア ブ ー ムザ ッフ ァ

ル.ア ル=タ ブ リー ズ ィー で,バ トゥの弟 ベ ル ケ の書 記(dabir)で あ った 。(Ibn

al-Fautl,qesml.506)。 イル ハ ン,ス レイマ ー ンの時 代 の 人物 で,744=1343/4

年 に没 した者 に,タ ブ リー ズ のマ リクで あ っ た 「Malik Mas'ud Abu al-Fath

b.Malik Mas'ud b.Malik Jalal al-Din Muzaffar Kwaja Majd al-Din

Muhammad b.Maid Abd al-Maild」が い た とい う。この タブ リー ズ ィー 家

は,代 々 タブ リー ズ のマ リクで あ っ た こ とに な る。

(7)

さて,ア ル グ ンは職 務 の 遂 行 に ジ ョチ ・ウル スの後 継 者 バ トゥの 宮廷 と直 接

協 議 す る必 要 が あ った と見 られ,バ トゥの も とに赴 き,帰 途,調 査 を再 開す る。

バ トゥとの協 議 を して か ら,直 ち に実 施 した た め,コ ー カサ ス側 か ら着 手 され

る こ とにな っ た。

彼 は,次 に ダルバ ン ド経 由で グル ジア,ア ッラー ン,ア ゼ ル バ イ ジャ ンへ

向 か った。(Juvaini, loc. sit.)

協 議 の 内 容 は不 明 で あ るが,実 施 担 当者 で以 前 に 「ア ッラー ン とア ゼル バ イ

ジャ ン」の マ リク で あ り,対 シ リア戦 に,「タブ リー ズの マ リク ・サ ドル ッデ ィー

ン を一 万 人 の イ ラ ン人補 助部 隊 とと もに派 遣(し た)」 され た と あ る サ ドル ッ

デ ィー ンは,「 集 史 」 「フ ラ グ ・ハ ン紀 」661(1262/3)年 の記 事 に,(Rashid/

Alizade,3,88)

イ ラー ク ・ア ジャ ミー('lraq-i'Ajaml)と ホラ ーサ ー ンの一 部 の 知事 で あ っ

た マ リク ・サ ドル ッデ ィー ン とア リー ・マ リク は,そ れ ぞ れ,杖 刑 を受 け

79

ただ け で,釈 放 され た 。

とあ る。対 ベ ル ケ 戦 役 の後,ジ ョチ家 と関係 の 深 か った徴 税 官,書 記 な どが 重

罪 と判 断 され た もの は処 刑,そ の罪 軽微 な もの で も体 僕 刑 を 受 け た な か で,も

う一 人 の 実施 責 任 者 ホー ジャ ・マ ジ ュ ドも処 刑 され た 。

さ て,ア ル グ ン は グ ル ジ ア に お い て も調 査 を進 め た(Juvaini/QazWini,

2,261:/Boyle,524)。

ア ミール ・アル グ ンは ア ッラー ン地 方 に いた フ ラグ の も とに参 る ため に出

発 した 。彼 は到 着 す る と,報 告 し,グ ル ジア に進 ん だ。 そ こ で彼 は人 口調

査 を実施 し,住 民 を千 人 毎 に分 けた。

この調 査 につ い て キ ラ コス ・ガ ンザ ケ ッツ イの 『歴 史』 第57章 に は,

さて,ア ル メニ ア暦 の703年,モ ンケ ・ハ ン と大 将 軍 バ トゥは アル グ ン とい

う名 前 の 知事(彼 は クユ ク ・ハ ンの統 治 下 に,服 属 した国 々の 諸 王 の貢 納

を集 め る役 人 の 長 の 職務 を与 え られ て い た)と も う一 人,チ ラ ・ア ガ とい

う名 のバ トゥの 一 族 の 長 は この 仕事 の ため の 多数 の人 々 と と もに彼 の権 力

の も と に あ る す べ て の 人 々 の 人 口調 査 を行 っ た 。 この命 令 を与 え られ た

人 々 は,命 令 を果 たす た め にす べ て の 国 々 に赴 い た。 彼 らはア ル メ ニ ア,

グル ジア,ア ル バ ニ ア及 び 周 辺 の 国 々 に まで もた ど り着 い た。10歳 に始 ま っ

て,そ れ 以上 の人 々 は,女 性 を除 い て,台 帳 に記 入 され た。彼 らは人 々 に

支払 い能 力 を超 え た税 を求 め た。彼 らは人 々 を思 い もよ らな い要 求,拷 問,

苦痛 に よ って圧 迫 した 。 逃 げ た者 は捕 らえて殺 害 し,税 を払 え ぬ者 は税 の

代 わ りに子供 を取 り上 げ た。 彼 らは ムス リム の随 行 者 を連 れ て 諸国 を巡 回

した。 諸侯 や地 方 の 支 配 者 で さ え,彼 ら自身 の利 益 の た め の要 求 と圧 迫 の

共謀 者 とな った。 しか し,モ ン ゴル 人 は これ に も満 足せ ず に,町 で あろ う

と村 で あ ろ う とあ らゆ る職 人 に税 を課 した 。海 や 湖 で 漁業 をい となむ 漁師,

金堀 り,鍛 冶屋,染 物 屋 な どのす べ て に税 を課 した。(中 略)彼 らは,商 人

か ら金 品 を あつ め,金,銀,宝 石 の 多数 の 富 をあつ め た 。 あ らゆ る物 を も

ぎ取 り,国 を悲 しみ と貧 困 に お と しいれ た,台 帳 に基づ い て毎 年徴 収 す る

ため に,国 々 に悪 い役 人 を残 した。(中 略)。 彼(グ ル ジア の徴 税 官)は 気

前 の い い貢 物 をアル グ ン と同行 者達 に支 払 っ たの で,彼 らは彼 に大 変 な敬

意 を払 っ た。

とあ る,ま た,グ リゴル ・ァ ク ネル ツ ィ(Grigor/Blake,324/5)は,

80

この苦 難 の後,一 人 の タタ ール 人 の隊 長 の ア ル グ ン と言 う名 の 者 が,モ ン

ケ ・ハ ンの 命令 で来 て,税 の た め に東 の 国 の 人 口調 査 を行 っ た 。 この 時 以

来 彼 らは台 帳 に 記載 され て い る通 りの 人 口 に従 っ て税 を払 わ な け れ ば な ら

な か っ た。 一 つ の小 村 で,30人 か ら50人 の15歳 か ら60歳 まで の男 を数 え た。

彼 らは数 え られ た 人 々か ら,各 人60ス ピ タク を徴 収 した 。逃 げ た り,免 れ

た りした者 が捕 ま る と,彼 らは残 酷 に も彼 らの手 足 を縛 り,体 中が 傷 だ ら

けに な り,血 塗 れ に な る まで木 の枝 で 打 った。 彼 らは無 慈悲 に も人 肉 を食

べ る よ うに 調 教 した獰 猛 な 犬 を放 した 。犬 は哀 れ な キ リス ト教 徒 を貪 り

食 った。

とあ る。 アル グ ンの 人 口調 査 の 目的 に は,人 口の調 査 だ けで は な く,住 民 の 千

人毎 の グ ル ープ 分 けが あ っ た。 『グル ジア年 代 記 』 で は,フ ラグ ・ハ ンの 来 着 に

つ い て述 べ る。(Brosset, 551-2; Kiknadze, 116; Muradjan, 108)

次 にアル グ ン は フ ラグの 国 に着 い た。 フ ラグ は アル グ ンに栄 誉 を もって 遇

し,グ ル ジアの ダヴ ィテ ィ王 の も とに遣 わ した。 彼 が グル ジ ア に着 く と,

王 国 の 民 は深 く苦 しんだ 。 なぜ な らば,人 か ら家 畜 まで の数,耕 地 か ら葡

萄 蔓,庭 園 か ら果樹 園 の調 査,9人 に対 して1人 の よい土 地 を もって い る

民 を軍 隊 の た め に登録 した。 そ の結 果 ダヴ ィテ ィの 王 国 は9ト マ ンの騎 士

を供 給 した。 タ タル 人 と と もに戦 争 に行 く前 に彼 らは さ らに この よ うに決

定 した。村 々 は千 人 隊長 に子羊 と金 貨1枚,万 人 隊 長 に羊2頭 と金 貨1枚,

馬 の賃 借料 に1日 銀 貨3枚 を払 わ な けれ ば な らなか った。 この よ う に定 め,

彼 は ギ リシャ,バ グ ダー ドに及 ぶ至 る所 へ行 っ た。(中 略)。 宗 教 人 か らは

課 税 しな か っ た。

人 口調 査 の 結果 実施 され た グル ジア の新 トマ ン体 制 で は,各 万 人 隊 長 が1万

の 動 員 を義 務づ け られ ただ け で な く,税 制 上 の 単位 と もな っ た。 グ ル ジア は9

個 の 万 人隊 に組織 され た。 これ は,課 税 組織 で あ り,ま た軍 事 組織 で もあ っ た。

この 内容 につ いて,こ れ 以上 の 史料 は な いが,元 来,封 建 的 社会 構 造 が維 持 さ

れてきたグルジアでは,比 較的混乱なく運営されたであろう。(8)

レヴ ァズ ・キ クナ ヅ ェが 『デ デ ・コル グ トの書 』 中 に発見 した 「9ト マ ンの

グル ジア」 とは,ア ル グ ン=ア カ の 人 口調 査 に よっ て施 行 され た トマ ン制 に対

応 す る言 い 回 しだ ったの で あ る。

81

結 論

本稿 で は,12世 紀30年 代 か ら60年 代 初 期 の モ ン ゴル 帝 国 と グル ジ ア王 国 との

関 係 につ い て述 べ た 。1236年,ア ッラ ー ンの ム ガ ン平 原 を出 発 した チ ョル マ ガ

ン軍 はクル 河 の 右 岸 を北 西 に進 み,現 アゼ ル バ イ ジャ ン共 和 国 の カ ザ フ県 で,

3手 に分 か れ,北 に向 か っ た集 団 は グル ジ アの 中 部,東 部 を,南 に向 か った部

隊 はア ル メニ ア(北 東 アル メ ニ ア)を,西 に向 か っ た集 団 は西 南 グル ジア を征

服 した 。 こ の年1236年 か ら1243年 に亘 る期 間,モ ンゴル 軍 に降 伏 した グル ジア

王 領 東 部,中 央 部,西 南部 は6人 の グル ジ ア人 万 人 隊長 の支 配 域 に分 割 され た。

モ ンケ の即 位 以 降,グ ル ジ ア はイ ラ ン総 督 アル グ ン=ア カ の 徴 税 行政 下 に移 さ

れ,1254年 に は人 口調 査 が実 施 され た。 この 結果,グ ル ジア 王 国領 は,9箇 の

トマ ン に分 割 され,調 査 の結 果 に も とづ い て新 税法 が導 入 され た 。

(1)ド ーソンは,チ ョルマガン・ノヤンのガ ンジャ(ガ ンザ,ガ ンザ ック)征 服 を1235

年(C.M. d'Ohsson, Histoire des Mongols, 4 toms, 1834-1845, la Haye et

Amsterdam,3,75,ド ーソン著 佐 口透訳注 『モ ンゴル帝国史』第4巻 昭和48年,79

頁)と し,バ ル トリドお よび ボイル(Balthold, W. and J.A. Boyke, Gandja.

Encyclopaedia of Islam, New Edition, vol. 2)も 服 した と述べる。1230/1年 のモ ンゴ

ル軍のアゼルバイジャンにおける活動 を述べるイブ ン・アル・アスィールは,ア ッラー

ンとシルヴァー ンの諸都市の命運につ いては沈黙 している。しか し,『歴 史』著者で,

他ならぬこの都市出身のキラコス.ガ ンヅ ァケ ッツィは,第21章 「ガンザ ク市の殺戮」

でモンゴル軍のガ ンザ征服 について詳細 に記述 している。同年か ら,数 年後の1236年

モ ンゴルのグル ジア遠征が行われた と述べている。『グル ジア年代記』に も(Brosset,

511)タ ブ リーズとアル ダビール を通過 したチ ョルマガン軍が,「 アラス河を渡 り頑強

なで砦で守 られているガ ンザ に至 り,3日 間の戦いの後,容 易 に城主 を下 し,城 中に

入 ると,そ れを破壊 し,恐 ろ しい虐殺 をお こなった。と言 うのはタタル人は,イ スラー

ム教の法 と掟 を嫌 っていたから」 と述べている。キラコス と同一の事件 に触れている

無名のセバ スタツィは,自 分の年代記のアルメニア暦678(1229)年 の記事 に 「無数の

タタル人がチャルマガンに率 いられて出現 した。彼 らは,シ ャハスタ ン ・ガ ンザ ック

を略奪 し,襲 撃 して住民 を根絶 し,女 子供 を捕虜に した」。 と述べている。 しか し,こ

の歴史家 は,こ の記事 に続けて,「この後,彼 らはグルジアの王国 を侵 し,全 土を地の

高いノヤ ンと隊長で割 り当てて,そ の ように全土を占領 した」と述べるので,ガ ンジャ

征服の年次は明示 していない。同市は,1231年 の春には,ジ ャラール ッデ ィーンに反

乱 を起 こ している。従 って,1231年 の夏以降をガ ンジャの落城の時 としてよいであろ

82

う。

(2)バ クル ツ ィヘ リは,バ クル ツ ィヘ の住 人 の 意 味 で あ るが,バ クル ツ ィヘ につ いて,

Brosset, M-F., Description Gographique de la Georgie par le Tsarevitch

Wakhoucht, SPB, 1842に カ ヘ テ ィ地 方 ア フ タ ラAkhtala郡 の 村 名 と して あ げ て

い るが(p .483),18世 紀 の カヘ テ ィア の村 落 名 と して 知 られ て い る

XVIII-

XIX 253)。 しか し12-13世 紀 には,こ の文 献 の 他 で

は知 られていない XII-XIII

1974 ; Metreveli, Shiana-klasobrivi brdzola p'eodalur sakartt'velshi (XII saukme,

Tbilisi, 1973).

(3)J avakhishivili, I., Sakartvoelos eris istoria, "T'khzulebat'a, "III, Tbilisi,

1982, p. 44.

(4) XIII-

XIV 1969.

(5) Sakartvelo Istoriiis nartsvebi. t. 11, Tbilisi, 1979, p. 554.

(6)民 政移管の経 過全体 については,次 のような研究 が あ る。本 田 実信 「阿母 河等

処 行 尚書省」『モ ンゴル 時代史 研究』東京大学 出版会, 1991; Jean Auban, Emirs

mongols et visirs persans daps les remous de l'acculturation, Paris, 1995.

(7)タ ブ リー ズ には ジ ョチ 家 が強 大 な権 益 を もっ て いた の で,フ ラ グ は,イ ル ハ ン即

位 後,マ ラ ーガ を首都 と して選 び,天 文 台,仏 教 寺 院 な どを建 設 した。 チ ャガ タ イ家

も西 イ ラ ンの都 市 に同様 の権 益 を与 え られて い た。

(8)1254年 の調 査 と徴 税 は,グ ル ジア 王 国の 全 土 で は完 全 に は実施 され たか ど うか は

確 認 で きな い。 アル メ ニ ア人 ス テパ ノス は,(Galstjan,36)「1273年,ア ル グ ンは再 び

グ ル ジア とアル メ ニ ア に赴 い て,新 人 口調 査 を行 う」 と記 す 。

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