Post on 01-Jan-2022
書 評
Barbara Sato
The New
Japanese Wom
an:M
odernity, Media, and W
omen in
Interwar Japan
(Duke U
niversity Press, Durham
and London, 2003)
平石典子
二十世紀初
頭
の
日
本
文
化
に
広
が
っ
た
モ
ダ
ニ
ズ
ム
i
に関する研
究
は
、英語圏の日本研究者の間で近年高まりを見せているとい
ぇるだろぅ。ハワィ大学出版会は一九九八年に
Sharon
A.Mini-
chiello
編集の論集、/
^
com
/
s-^
MS
r5.//R /ss;
§
s-
Culture
and
Democracy
1900-1930
を
^
版
し
、
そ
の
先
鞭
を
つ
けたが、
二〇〇〇年にも
Elise
K.
Tipton,
John
Clark
共編の
Being
Modern
in
Japan:
Culture
and
Society
from
the
1910s
を
//^
i9
CO&
を出し、
高い評価を受けている。
同年に出版され
M' H
arry D. Harootunian. O
vercome by M
odernity : History,
Culture,
and C
omm
unity in
Interwar
Japan (Princeton
University
Press, 2000) ipK
endall H
. B
rown,
Sharon A.
Minichiello (co-ed). Taisho Chic: Japanese M
odernity, Nostal
gia, and Deco (H
onolulu Academ
y of Arts, 2002)
て、
これらの論集や研究書において特徴的なのは、
いずれの場
合も歴史学、美術史、
メディア論等、さまざまな分野の研究者
たちが、主
に
大
正
か
ら
昭
和
初
期
の
日
本
に
広
が
つ
た
「モダンな」
文化に注目し、
その分析を試みている、
といぅ点である。
二〇
〇三年に出版された本書も、
その系譜に連なるものであり、
そ
の時代の中産階級の女性たちに焦点をあてた点が注目され、
既
に英語圏の学会誌などでも取リ上げられている。
なお、
著者の
Barbara
Sato
氏
は
、
Being
Modern
in
Japan:
Culture
rwd
5
§•冬
/rom
?
i9
i
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、
r7,9,sss
'
T
i.
s^
:
AnAlter
-
nate
informant:
Middle-Class
Wo
me
n
and
Mass
Ma
crqazmes
in1920s
Japan:
を担当している。
本書は、
以下のよぅな構成となつている。
Prologue: Wom
en and the Reality of the Everyday
1. T
he Emergence of A
gency: Wom
en and Consum
er
ism
2. T
he Modern G
irl as a Representation of C
onsumer
Culture
3. H
ousewives as R
eading Wom
en
4. W
ork for Life, for Marriage, for Love
5. H
ard Days A
head: Wom
en on the Move
主として扱われるのは一九二〇年代であり' 著者は、新しい
166
比 較 文 学 第 4 8 号
消
费文化が社会的にも文化的にも中産階級の女性たちを
定義し
なおしたこ
と
を
指摘した上で、
都会の新しい女性像として当時
の女性たちに新しいア
イ
デンテイテイ—を
提示した三つのタ
イ
プ--「ボブカットで短いスカ丨^をはいたモダンガ
ール' 自己
啓発された主婦、
理性的で外向的な職業婦人(七頁)」--を分
析対象とする。
本書の大きな特徴は、
多くの同時代資料の提示とその読み込
みによって論を組み立てている点にある。本書が取り扱ぅ明治
末期から昭和にかけての資料は、新
聞
•雑誌の記事から統計や
図版に至るまで、
多岐にわたっており、
その多くは初めて英語
圏に紹介されるものである。
日本国内においても必ずしもアク
セスが容易ではないこぅした資料の活用は、
日本語でも数多く
の論文を発表している著者ならではのものであり、本書を大変
豊かにしている。
これまで、表面的にと
ら
え
ら
れ
がちであった
「モダンガール」などは' 著者の提示する新資料によって、英
語圏の読者の眼前に初めて生き生きと立ち上がってくるだろ
、っ
0本書が明らかにするのは、上記の女性たちを取り巻く言説や
表象が、
メディアによって形作られる様子である。
それは、消
費
文化を代表する存在として、
神話化されていくモダンガール
の
姿
(第二章)だつたり、家庭の主婦を主要なターゲットとし
て進化した女性雑誌が、
「家庭記事」「流行記事」「告白記事」と
いった記事内容のジャンル分けによって多くの読者を獲得して
いく様(第三章)、メディアに取り上げられることによって、「修
養」という言葉が大衆化し、変
質
し
て
い
く
様
(第四章)
だった
りする。第
三
章
「読む女としての主婦」では、
『主
婦
の
友
I
や
『婦
人倶楽部』、
『婦人公論
j
といった大衆向けの女性雑誌の成立と
その特色が詳細に論じられているが、評者にとって新鮮だった
のは' 著者が、女性雑誌を読む、という行為が彼女たちにもた
らしたものを浮き彫りにしようとした点である。「馬鹿げたブル
ジョア記事」満載と知識人たちに批判される一方で、
こうした
雑誌の家庭記事や告白記事が、読者である中産階級の女性たち
に、自らの家庭や家族を省みるきっかけを与え、他の生き方の
可能性をも示唆したという指摘は重要だろう。また、第四^
「屯
活、結婚' 愛のための労働」における、
「職業婦人や他の中産階
級の若い女性たちにおける修養ブ—
ム」
が、
女性自身が夫を選
ぶ自由、
と
い
う
考
え
方
を
広
め
る
の
に
一
役
買
い
(一四三頁)、
「社
会経験を積むために外で働き、夫婦の精神的なつながりを重視
する結婚観を養うことは、多くの若い女性にとって修養の一種
と
み
な
さ
れ
て
い
た
二
四
九
頁
)」、という分析は、
日本女性の恋
愛、結婚観の社会階層毎に異なる変遷を考察する上でも大変面
白い。
167
書 評
多くの図版も、特に海外で本書を手にするだろう読者にとっ
ては大変興味深いものが多い。
それだけに、
欲を言えば、
図版
を単に本文に添えるのではなく、
説明や分析を加えてもっと本
論と関わらせてもよかったのではないかと思われる。例えば、
図
版
1〇**>1\10<16391-^1^1§
^.11〇05(「モガさんの持物」
=は
モダンガールと断髪について論じられている五二頁に揷人され
ているが、
この風刺絵は、
「A日用英語字典.Bセモリ(と
あ
る
よ
う
に
評
者
に
は
読
め
る
の
だ
が
、
ど
の
よ
う
な
も
の
か
は
わ
か
ら
な
い
)
.
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ブ
レ
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名
刺
.
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力
素
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防
具
.
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の
(判
読
不
明
ご
の
九
つ
を
モ
ダ
ン
ガ
ー
ルの典型的な持ち物としている。この中の、特
に
Gや
Iからは'
モダンガ—
ルたちが進んで性を享楽する存在として考えられて
いたことか伺えるだろう。とすれば、本書
の
:
Expectations
and
Extravagances:
Th
e
Mo
de
rn
Girl
and
promiscuity:
の節にこ
そこの図版はふさわしいのではないだろうか。この図版を添え、
持ち物それぞれについての解説を加えることで、
当該部分、
例
えば六二頁に挙げられる、
モダンガールが性的自由を楽しんで
いるという言説や、
『東
京
日
日
新
聞
』
における外国人とモダン
ガ
ー
ル
と
の
関
係
に
つ
い
て
の
記
事
(こ
れ
は
「モガさんの持物」
に
英語辞書があ
る
こととも関係しよう)
は
よ
リ
t体的になり、
現
在挿入されている、
一九二九年頃のダンスホールのダンサーた
ち
の
写
真
よ
り
も
、
当
時
の
モ
ダ
ン
ガ
ー
ル
に
付
与
さ
れ
た
性
的
な
ィ
メ
ー
ジ
を的確に読者に伝えることができるよ
う
に
思われる。
な
お、
図版については、評者が入手した第二版では、
八四
—
五
頁
と
八八頁に挿入されている、
女性雑誌における化粧品の広告と
それぞれのキャプションが入れ替わっていた。
本書の図版資料
は、今後多くの研究者が参照するものと思われるので、
改版の
際には訂正されることを願うものである。
最後に、今
一
度
日
本
研
究
と
いうフィールドを見渡してみると、
本書が扱う、
一九二〇年代の日本のモダン文化への関心はさら
に広がりを見せているようである。二〇〇四年には、「近代家族」
が集、っ「家
」に着目した研究書'
Jordan
sand.
//Iへ/
m
Mockm
Japan:
Aychllecturc,
Domestic
Spac
の,and
Bo
lu、-
^
vs-o///ミ r,
ioooo〒卜
5 へMHarvarduniversitypress)
が出、
さらには
フランス
で
も
、
Jsn-Jasues
Tschudin,
csrude
Hanum
ico-ed.y
La
Ms
hr
m^
Q/THOn’zon:
La
cEhf
re
p^s/s.r<?を
yへ/ミ
^
、
s
i4ss^covs^(Edit
ions
Philippe
picquier)
が出版された。
これは二〇
〇
二年に行われたシンポ
ジゥムの成果として発行されたようだが、
この論集の中には'
まさに本書が問題にした、
一九二〇年代の女性雑誌を取り上げ
た論文(:
Les
revus
fémi
runes
dans
le J
aTD
on
d
s
années
vingto
がある。このように' 日本の研究者をも含めたいろいろ
168
比 較 文 学 第 4 8 号
な国の研究者が関心を共有し、
切磋琢磨していく中で、さ
ら
に
精緻さ
と
ダィナミズムを兼ね備えた研究が進むことを期侍する
と
と
も
に
、
その先端を行
く
著者の今後の研究成果を楽しみにし
たい。
一
ここで注意しなくてはならないのは' 用語についてである。日本語で「モ
ダニズム」といった場合
、
r①最新の趣味や流行を追ぅ傾向。現代好み。②
竹し!
セ術•文学で、伝統主義に対立して、
つねに新しさを求める進歩主義
的傾向の総称
◊(『広辞苑第五版』)」といぅ二つの
竞味がある。本稿で取り上
げる研究者たちが主として問題としているのはョ
cdernity
であり、必ずし
も二十世紀の実験的•革新的な芸術運動を指す
modernism
ではないことを
まず確認しておきたい。その上で、本稿においては①
の意味での「モダニズ
ム」を使ぅことレ-するが、この用語上の混乱を避けるためには、日本でも既
に使われてはいるがまだ言葉としてこなれていない「モダニテイ」への言い
換え等も検討しなければならないだろう。なお' 小
森
陽
一
他
編
『岩波講座
近代日本の文化史.I
のシ
リ
ーズ六卷(二〇〇二年)は、2
大するモダニテイ』
と題されている。
マ
ブ
ソ
ン
•ロ
ー
ラ
ン
著
『詩としての俳諧俳諧としての詩
I一茶
•
ク
ロ
ー
デ
ル
.国
際
ハ
ィ
ク
I』
(永田書房、
二〇〇五年)
金子美都子
ポ
ー
ル
•
ク
ロ
ーデル没後五〇周年を記念して出版された本書
は、
フランス人著者による日仏の詩についての新鮮な発想に満
ちている。詩というジャンルに広い視野が開かれる。
それは第
一に著者マブソン氏の切り
|-:1の潔さによる。
マブソン氏は西洋
韻
文
学
で
は
「比
喩
表
現
(メタファーなど)や
音
調
的
技
法
(押韻、
強勢ア
ク
セ
ン
ト
など)」が重要視され、ぃっぽう近世俳諧では「風
雅」と
い
う
美
学
と
「座
」という作者の共同体に相応しい表現法
がもっとも問題にされたとする(七頁)。西洋詩における音綴数、
詩句' 詩節といった用語にも、俳諧における季語、切字、定形、
短詩という用語にも依拠しない。
ジョルジュ•ボ
ノ
ー
『日本詩歌選集』^
这0
/
卷
>^
&*§
含>
y§'§»
i (1
935
)から始まるフランスての人間味•国際性といっ
た一茶評価の系譜を受け、著者は第
I部では「一茶俳諧の詩学」、
と
く
に
第
一
章
で
「一茶句の音調論」を考察し、
フランス詩学の
169